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    ものみの塔 1956 | 8月15日
    • 新世社会内の年少者

      『われ善き教えを汝らにさづく。わが律法を棄つることなかれ。……我が言葉を聞け,我が語るところに汝の耳を傾けよ。これを汝の目より離すことなかれ。汝の心の中に守れ。是は之を得るものの生命にしてまたその全体の良薬なり。』― シンゲン 4:2,20-22。

      1 何が新世社会内にいる年少者の良い性質を決定しますか。

      今日の年少者は明日の大人です。その故に,明日の大人の性格と成熟さは,今日の年少者に与えられる教育と訓練如何にかかつています。年少者の訓練をうける中心地の一つは家庭であつて,クリスチャンの両親は年少者を教えねばなりません。クリスチャン家庭の円熟した指導者は,主要な教科書として神の言葉である聖書を用います。そのような正しい背景を持つ今日の年少者は,新世社会内の正しい地位に対して準備をすることができます。

      2 子供たちを教えたりしつけたりすることに関して,どんな事柄が含まれていますか。

      2 この世で行われている教育や訓練は,まちまちのものです。丁度先生や,教えや,哲学がまちまちなのと同じ程です。その結果,特に,青少年のために全くさまざまの精神的な食物が提出されています。ある権威者は,『食べたものが我々自身になる』という理論を発表しています。私たちの食べるものによつて,私たちの心は形成されます。心は人を導いたり,人に影響を及ぼす故,正しい精神的な食物の重要性を直ぐに知ることができます。家庭とかクリスチャン会衆で,御言葉の語られるのを直接聞くという教育制度により,心は養われます。しかし,手本に従うという間接的な仕方もあります。それも極めて大切なものです。なぜなら,10歳の子供でも,自分の従わねばならぬ両親や,先生や,他の影響の手本を良く真似るからです。正しい手本に従うことは,主なる先生の次の言葉からも示されています,『私があなた方にしたとおりに,あなたがたもするように,私は手本を示したのだ。』しかし,これとは反対に,多くの人々は過去の出来事を手本にしたり,ひとり以上の人々,多分,群の行に従つたり,あるいはいろいろの特別の哲学者がいる教育制度に従つたり,国家的な政府の手本や地方的な政治の手本に従つたり,またはその仲間の者が関係を持ち影響をうけている商業制度の政策に従います。それで,不適当な手本を避けねばなりませんが,そのため聖書には次のように書かれています,『これらの事が彼らに起つたのは,他に対する警告としてであつて,それが書かれたのは,世の終りに臨んでいる私たちに対する訓戒のためである。』― ヨハネ 13:15。コリント前 10:11。テモテ前 6:20,21,新口。

      3 何が体の成長を支配しますか。精神的な食物は,なぜ一層重要なのですか。

      3 人間には子供を産む能力が与えられました。人間の子供は特定の年月のうちに肉体上の発育をなすでしよう。それには約20年かかります。正常な良い食物が与えられるならば丁年に達します。もちろん,きびしい訓練を行うなら,強い体はできるでしよう。しかし,そのような発育が上首尾に行われたとしても,それは或る程度までのことであり,使徒パウロはそのことを重要視せずにこう述べています,『からだの訓練は少しは益するところがある。』そのような事柄は,意義が少いため,新世社会内の年少者は,もつと重要な事柄である精神的な食物の価値と効果を考えるべきです。ことに,若いテモテに宛てたパウロの強い言葉を考える時,そのことが悟れます,『信心は,今の生命と後の世の生命とが約束されてあるので,万事に益となる。』― テモテ前 4:8,新口。

      初期の訓練

      4 きわめて幼い頃から子供を訓練し始めるのは,なぜ重要ですか。子供に自分勝手な決定をなぜさせてはなりませんか。

      4 子供は,多くの場合,最初の10年間に,両親か直接の保護者から訓練をうけます。子供は最初は,「しなさい」「してはなりません」式の事柄を多く教えられ,だんだんそれらに関係する幼稚な言葉を覚えてゆきます。両親は,時には子供が小さすぎる,と考えて,この訓練を軽く取扱つている場合が多くあります。ところが両親が認めようと認めまいと,年少者は多くの知識を取り入れるものです。そして,この期間中に永続きする多くの性格がつくり上げられてしまいます。しばしば子供は抜目なく行つて両親に自分の思う通りのことをさせ,自分のわがままを通します。これはクリスチャンの仕方ではありません。両親には『子をその道に従いて教えよ』と告げられているからです。子供は不完全で罪深い者(或る宗教家たちは子供は,無邪気で罪の無い者と人々に信ぜしめようとしていますが,それは間ちがいです)であるため,子供を正義の道に導くことは必要です。子供に勝手に選ばせるなら,子供は間ちがいの利己的な道に進むでしよう。大人のエレミヤは,正しく次のように告白しています,『ヱホバよ,我知る。人の道は己によらず,かつ歩む人は自らその歩みを定むること能わざるなり。』この言葉は,子供に関して特に当はまるものです。―シンゲン 22:6。エレミヤ 10:23。

      5 (イ)真実のこらしめは,なぜ必要ですか。(ロ)両親がいましめを守り行わないときに,どういう事が起るか,例によつて示しなさい。

      5 子供が家庭の支配権を持つひとつの例として,次のような事柄が一クリスチャンの家庭に起りました。子供は自分の欲しいと思う特別の食物を作つてください,とねだり,要求いたしました。母親は子供の言いなりに従つてその食物をつくりました。食物が食卓の上にのせられるや,子供はもう要らない,と決めました。母親は甘い言葉でなだめすかしましたが,子供が病気の振をするのを見ると,母親はその食物を取下げてしまいました。その子は,『やあ,うまくやつちやつた』とヒソヒソ声で云つていました。この場合,こらしめはひとつもなされず,子供は利己主義の性格をつくり,自己中心になつていました。両親には分らないかも知れませんが,子供たちは両親を試しているのです。そのことを示す例があります。母親が部屋の外に出たとき4歳の少年は自分の前に置かれていた食物を床に投げてしまいました。母親は,その子をきつく叱らず,またまた食物を前に置きました。ところが,母親が居なくなるや,子供は再びその食物を投げてしまつたのです。母親はその子供に,何時かはお前も大きくなつて自分の子供たちを持つようになるだろう,と語つて聞かせ,それから,もしお前の子供たちが食物を床の上に投げることをしたらどうするかと聞いてみました。その子供は,なんのためらいもなく,『鞭で打つ』と答えました。その子供は,何が正しいかを知つており,また正しいこらしめが与えられねばならぬ,ということを知つていたのです。その子は教育という点で,両親に失望していたにちがいありません。これに似た環境にいる子供たちは,自分の両親が子供をしつける正しい例を示していると認めないでしよう。訓練とは,ただ注意を与えるということでなく,実際にその注意したことを行うということなのです。『僕は言葉をもていましむるとも改めず,彼は知れども従わざればなり。』『僕を子供の時から我儘に育てる人は,終には忘恩のみを得る。』子供は良いことを知らないのではありません。子供はしばしば,何が善で何が正しいかを知つています。しかし,こらしめをうけないなら,正しいことを行わないのです。いましめに従うかどうかを,子供の判断に任せるべきでありません。そのことを裏書するものとして,アブラハムに関するヱホバの言葉は興味深いものです,『我彼をしてその後の子供らと家族とに命じ,ヱホバの道を守りて公義と公道を行わしめんために彼を知れり。』子供が事柄を決定する,というようなことは一度たりとも考えられたことがありません。親が子供の為に決定したのです。―シンゲン 29:18,19; 29:21,ア訳。創世 18:19。

      6 子供を正しく訓練するために,両親はなぜ多くの時間を費やさねばなりませんか。

      6 いまから3800年のむかし,両親が子供をしつけることは,極めて重要なことでした。それであるなら,両親の監督が弛んで青少年犯罪が多く行われている現在,両親が子供をしつけることは,猶更いつそう重要です。それで,クリスチャンの両親は,たしかに時間をかけて子供たちを教え,正しい知識を与えるべきです。そして,必要ならば適当なこらしめを施すべきです。かくすることにより,子供は学んだことを実際に行うようになるでしよう。言われたことを行い,そしてそれを正しく行い続けて行くことは,謂わば建築物がだんだん出来上つて行くのと同じ様に,容易なものです。それだけに止まらず,子供の心は強固になつて善と悪を見分け,学校や他の場所で受けるこの世の間ちがつた訓練の偽りの教理や汚れをはねつけることができます。また,パウロの与えた次の助言を子供の心に深く染込ますことは,良いことです,『まちがつてはいけない。悪い交わりは,良いならわしをそこなう。』― コリント前 15:33,新口。

      7 両親は,学校に通う子供たちをどのように助けることができますか。

      7 ある両親は次のように感じています。公立の学校では青少年犯罪や腐敗が甚しく行われているから,子供たちを公立学校に行かせない方が良い,というのです。しかし,発育期のときに子供が集会に定期的に出席したり,宣教学校に参加したり,また家から家の証言に加わることにより,正しい両親の訓練と神権的な訓練を受け続けるならば,子供は学校や他の場所において「悪魔の放つ火の矢に抵抗する」ことができます。学校にいる時,その子供は授業課程以外の有害な活動を避けることができます。特に,学校に通う同じ年頃の子供たちは,不正な競技をしたり,他の者と話し合うときには汚い下卑た言葉を用いていますが,その子供はそのようなことを避けるでしよう。そのような子供たちと親しい交りをしていると,同じような行をなし,似かよつた活動をするようになるでしよう。パウロは次のように私たちを諭しています,『悪い言葉をいつさい,あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば人の徳を高めるのに役立つような言葉を語つて,聞いている者の益になるようにしなさい。すべての無慈悲,憤り,怒り,騒ぎ,そしり,また,いつさいの悪意を捨て去りなさい。』― エペソ 4:29,31,新口。

      8,9 学校に通つている若い奉仕者に,なぜ強い信仰が必要ですか。何がそれを向上させますか。

      8 学校の中にいようと,学校の外にいようと,その子供の心は強いものです。そしてこの世の偽りの誘惑を斥けることにより,このことを表明することができます。多くの若い奉仕者たちは,迫害を受けていますが,しかし,しりごむなどという考えは毛頭もないのです。その多くはテモテと同じ気持を抱いていました。パウロは,テモテについてこう書いています,『あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起している。この信仰は,まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿つたものであつたが,今あなたにも宿つていると,私は確信している。』後日にテモテが伝道したことと,かたく宣教を行つたことは,このことに関するパウロの意見を確かに裏書するものです。テモテには,早めの時から教育が与えられていたため,その良い基礎にもとづいてテモテは偽りない信仰を持つことができました。現在の両親にも同様なクリスチャン教育を施す責任があります。そうするなら,子供たちは強い信仰を示すことでしよう。このように,良い基礎が置かれるなら,子供の気持は,両親が1番に重んじていることを目ざし,両親の心にしたがおうと自分自身で決定するでしよう。もし,これが全時間の宜教であるなら,その子供は学校の教育課程を選ぶにあたつて,自分の宣教の質を向上するようにするでしよう。―テモテ後 1:5,新口。

      9 パウロの為したごとく,全時間宣教をしながら自活する為の時間極めの仕事を選ぶことにも,留意すべきでしよう。初めから良い計画を立てている子供は,この世の青少年たちのごとくに落着かず,又疑を持つようなことがありません。この世の青少年たちは,不幸と不安に充ちる将来を見こして,いつたい何処に信頼を置いて良いのか当惑しているのです。しかし,彼は次の言葉を述べた詩篇記者と同じ心持です,『おのが道をなおくしてヱホバの律法を歩む者はさいわいなり。』尊敬の念を示しつつ,ヱホバの律法に従つて生活する人々は,恐れとか,不安を持ちません。同じ詩篇の6節に示されるように,若い奉仕者はよろこびと平和を持つことができます。『われ汝のもろもろのいましめに心をとむるとは,恥ずることあらじ。』また『我は律法を守らん。われを棄てはてたもうなかれ。』教を受ける者が,さらに教えに従えるようにと願つているのです。論しの言葉を述べる詩篇記者は,次のように続けています,『若き人は何によりてかその道をきよめん。』この世の腐敗と犯罪から離れようと願う心の正しい人々は,まつたくそのような質問を念頭に置くべきです。その答えは,次のようです,『御言葉に従いて慎むのほかぞなき。われ汝にむかいて罪を犯すまじき為になんぢの言葉をわが心のうちに貯えたり。』学校の教導原則が神の律法と一致調和しているなら,子供たちは善に対して,また学校の規則に対して同じ心持ちを抱きます。しかし,今日の多くの子供たちや,一般普通の青少年は,学校の権威者に対して,ほとんど尊敬を持つていません。規則は施行せられておらず,また高い原則が欠如しているからです。―使行 18:3,4。詩 119:1,6,8,9,11。

      今日の青少年犯罪

      10 こらしめの行われない学校では,何が起りますか。なぜ?

      10 神の律法に従うということを,幼い頃に強調されなかつた10歳台の少年少女は,どういう状態ですか。よく見てごらんなさい。偽りの考えの影響を受けてこらしめの鞭を振わぬ両親は悲しみに充ち,教育家や民事権威者たちは途方に暮れています。そして,あらゆる種類の青少年犯罪は増加しているのです。神の御言葉を訓練についての唯一つの権威,および導きとしないため,責任権威者たちはどのようなこらしめを与えるべきかについて,まちまちの意見を持つています。多数の心理学者たちは,子供をこらしめることは,子供に憎しみを示すものであるとさえ述べている程です。意見がまちまちであるための結果は,毎日の新聞紙上に表われており,こらしめを受けていない現代の子供たちの行為が報ぜられています。しかし,神の言葉は明白に次のように述べているのです,『鞭といましめとは智恵を与う。任意になしおかれたる子はその母を辱しむ。』『望みある間に汝の子を打て。子を亡びに向わす勿れ。』― シンゲン 29:15; 19:18,モハット訳。

      11 怠惰を許すと,どんな結果が生じますか。

      11 子供を教育する仕方が,いい加減で不注意であるなら,子供の気持を正しく訓練することになりません。子供は,怠け心を持つようになります。自分の子供を正しく導くことができず,そして勤勉にすることのできない両親は,このことに対する責任を負います。ソロモンは,『手を垂れおるところよりして家は漏る』と書きました。つまり,怠けた考え方や行をするなら,亡びに行く,ということです。それは,忙しく働く蟻を正しい手本にせよ,という神の論しの言葉に反するものです。勤勉な子供は,悪戯をしません。学校に通う子供の張面の最初の頁に,忙しく働く蟻についての聖句を写すのは良いことでしよう。―伝道之書 10:18。シンゲン 6:6-8。

      12,13 (イ)今日,何が学校の青少年犯罪の原因になつていますか。(ロ)愚かかなことはどのように表わし示されますか。

      12 こらしめを受けない青少年たちについて,いま考えてみましよう。今日14歳の少年たちの中で一番強くて頑丈な者が,一味の者を支配するなら14歳の少年は,しばしば,他の10歳台の不良少年たちから尊敬をうけています。少年たち(時には少女をも含む)は,大人のギャング団を模倣して,夜出かけて行き,盗みを行つたり,強姦したり,殺人したり,また脅嚇したりします。彼らは麻薬に耽溺してしまつて,より良い生活の幽かな希望をも見ることができない程です。なんと悲惨な状態なのでしよう! そのような青少年たちは正義の訓練を受ける代りに,罪の訓練をうけます。その原因はみな,幼稚園時代の漫画絵本や,ラジオや,テレビや,映画の犯罪物などです。青少年犯罪者たちは,授業以外の殆どの時間をそれらのものに使つているのです。多くの種類の犯罪を学んでからは,彼らは恥づかし気なしに罪の世界に踏みこみ,その「教えられた」事柄を実行するのです。

      13 全く,『愚なること子の心の中につながる』という聖句の正しいことが分ります。それで,青少年は生まれながらに愚かさを持つていて,もし両親か責任者がその愚かさを取除かないならば,その愚かさは増し加わつてゆき,遂には『幼子といえどもその動作によりておのれの根性の潔きか或は正しきかを表わす』ようになります。―シンゲン 22:15; 20:11。

      正しいクリスチャン訓練

      14 (イ)クリスチャンの訓練を受けた青少年の態度と行はどんなものですか。(ロ)ヱホバは幼な児を承認せられますか。ヱホバは幼な児をどのように用いますか。

      14 これと対照を為すものは,クリスチャンの訓練を受けた青年男女です。彼らはたしかな神の御言葉から得る清い見透しと,かたい希望を持つています。その結果は,正義,平和,健康,そして,なかんずく正義の神ヱホバに仕えたいという賢明な欲望です。若い男や女が進んでヱホバに奉仕し,またこの世の若人のしている犯罪や罪やあらゆる不義の行から遠ざかつて,ヱホバ賛美のための汚れなき清い生活をするということを念頭に置くことは,ヱホバをよろこばせるものです。イエスの当時,正義を愛する子供たちがイエスのところに来ようとしたとき,ある人々は愚かにもそれを妨げました。イエスは子供を妨げた人々を叱つて,こう言いました,『幼な児らを私のところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の御国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ,そこにはいることは決してできない。』イエスは『彼らを抱き,手をその上において祝福された。』このとき,子供たちは真実の幸福を持ち得ました。子供たちは自由にイエスのところに来ることができ,イエスもためらわずに彼らを招待されたのです。イエスは,子供たちについてこう語られました,『幼な子,乳のみ子たちの口に賛美を備えられた』― マルコ 10:14-16。マタイ 21:16,新口。

      15 子供は,どんな状態および何歳のときに,献身をしてバプテスマを受けるのが適当ですか。

      15 イエスは子供たちにヱホバの讚美を歌うようすすめました。そのことから,子供たちがヱホバの御意をするために献身することは正しい,ということが分ります。今日の忠実な子供たちは,愛と忠節の気持からヱホバに仕えたい,と欲しており,そして献身した両親のしているのと同じ道に従おうと欲しています。それでは,十三,四歳くらいの私が,献身の誓いを立てて,それを水による浸礼によつて象徴するのは適当でしようか,とある人々は尋ねるかもしれません。ヱホバの民の巡回大会や他の大会の時に多数の子供たちは毎年バプテスマを受けています。すると,若い奉仕者たちがバプテスマを受けるのは正しいことと言えるのでしようか。もちろん,そうです。しかし,自分が何をしているかを知らないならば,極めて重大なこの行を為すべきでありません。バプテスマや献身を何時するのが適当である,という定まつた年齢というものはありません。子供が全能の神ヱホバの知識と,ヱホバの正義の目的を十分に知り,そして御言葉に書かれている公正の原則を忠実に守るなら,そして子供が自分自身の責任を取る年齢に達し,ヱホバに献身したいと欲するなら,ヱホバに献身するのは適当なことであり,水によるバプテスマを受けることは正しいことです。生命に真直ぐ導くこの重要な段階を取ることにより,若い奉仕者は不義者の地位をとりません。献身は重大な段階であつて,ヱホバ神の是認を得るために必要なものです。このことに関するソロモンの賢い助言に注意しなさい,『汝の若き日に汝の造主を記えよ。すなわち,悪しき日の来らざる先……神を畏れ,そのいましめを守れ。是はすべての人の本分たり。神はすべての行為ならびにすべての隠れたる事を善悪ともに審判たもうなり。』― 伝道之書 12:1,13,14。

      16 年少者の肩にどんな責任が課せられていますか。

      16 それで,両親である私たちは神の言葉に注意を払いましよう。子供たちよ,進んで注意を聞き入れ,よろこんで従いなさい。たとえ21歳前であつても,常に良い分別と力を示すように努め,そして自分を引き締めなさい。17歳と18歳の少年たちよ,いま大人になりつつある,ということを忘れてはなりません。あなた方は正しい決定をしなければならないのです。あなた方は明日の大人になりつつあります。それで今日,各人は大人になる準備をととのえることが必要です。

  • 注意深い生活は人生の陥穴を避ける
    ものみの塔 1956 | 8月15日
    • 注意深い生活は人生の陥穴を避ける

      『偽りの口を汝より棄てさり,……汝のすべての道を直くせよ……ヱホバのこらしめをかろんずる勿れ,そのいましめを受くるを厭うことなかれ。』― シンゲン 4:24,26; 3:11。

      1 子供たちのために良い習慣をつくる,ということに関連してどんな質問が生じますか。

      多くの両親は,こんな風に言います。子供の訓練に関するヱホバの訓しの言葉を実地に行つてみて,新世社会内における子供の正しい地位を理解させようとしたが,失敗に終つてしまつた,というのです。あなたは如何ですか。例えば,習慣ということを努めてみましたか。毎朝聖句を研究する,という良い習慣については如何ですか。子供の心にどれ程しつかりした習慣が刻みこまれ,また子供たちに神の御目的を理解させるか,が予想できますか。それから,家族全部の益のために定期的な聖書研究を家庭内ですることは如何ですか。集会前の或る晩に,あなたの家族は揃つて『ものみの塔』を研究しますか。子供や両親の両方にとつて,これも良い習慣となり,すべての人に多くのよろこびをもたらします。定期的に集会に出席する,という習慣については如何ですか。『ものみの塔』の研究に欠かさず出席することが,強い習慣になると,一寸した理由だけでこの大切な集会から欠席するようなことはないでしよう。会衆の他の集会も大切なものであり,毎週の時の予定に入れて,良い習慣にならねばなりません。人間は習慣をつくります。それで,極く幼い頃に良い習慣をつくるよう,おすすめします。

      2 (イ)集会に出席する子供たちには何が要求されますか。(ロ)集会中に両親のなす正しいこらしめについて,どんな例がありますか。こらしめを与えられた子供は,どんな反応をなしますか。

      2 しかし,子供たちを集会に連れて行くだけでは十分でありません。子供たちは集会に注意を払うべきであつて,遊んだり,絵を画いたり,また別の事をすべきではないのです。遊んではならない時間がある,と子供たちに教えるべきです。静かにしていて注意を払う必要性を頭に入れさせるためには,こらしめの鞭が必要かもしれません。しかし,そのような手段は,正しく行使するなら,繰り返してしばしば行う必要はありません。集会中に5歳6歳の子供が,ときどきじつとしておられず,騒ぎ立てて,多くの人の邪魔になることがあります。傍に座つている父親は,静かにさせようと努めます。しかし,子供は騒ぎつづけるため,父親は子供を外に連れ出そうとします。子供は行きたくありません ― 前にもお父さんに連れ出されたことがあり,その度毎に叱られたからです。それで,子供は,集会中ずつと静かになります。これからも分るように,こらしめを正しく,しかも親切に与えて,子供がそれを忘れないならば,そのこらしめは益のあるものです。親切にこらしめるとは,必らずしも優しくこらしめる,ということではありません。そのようなこらしめは,両親が憎んでいる,というわけではないのです。一般に言つて,従順な子供は,正しいこらしめをする父と母をたいへん好んでいます。子供たちは,言つた通りのことを行う ― 必要ならば,罰することもする ― 両親に対しては,尊敬の気持を抱きます。そのような両親は,脅かしの空言葉を言いません。大多数の人は,言葉を忠実に守る人を尊敬します。子供も同じく,そのような人を尊敬します。それで,子供たちよ次の諭しに従いなさい,『主にあつて両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」これが第一の戒めであつて,次の約束がそれについている。』また,子供を愛するあなた方,両親よ,子供たちの益のなるように子供たちをこらしめなさい。ちようど「ヱホバが,御自分の愛される者たちをこらしめ,子として受けいれるすべての者を鞭打たれる」のと同じようになすべきです。こらしめは,その当座には楽しくありませんが,正義の矯正をします。―エペソ 6:1,2。ヘブル 12:6,11,新世。

      3 良い習慣をつくり上げることに,良い行儀はどのように含まれますか。

      3 良い習慣の中には,良い行儀も含まれます。クリスチャンは最善の行儀を持つべきです。子供たちや他の人々と毎日接するときに良い行儀を示す両親の子供は,同じように良い行儀を示します。私たちはこう戒められています,『異邦人の中にあつて,りつぱな行をしなさい。そうすれば,彼らは,あなた方を悪人呼ばわりしていても,あなた方の立派なわざを見て,かえつて,おとずれの日に神をあがめるようになろう。主の故に,人のつくりしものに従いなさい。』このりつぱな行とは,つまりは良い行儀のことです。それは,神の愛と隣人の愛から生ずる礼儀正しい振舞です。―ペテロ前 2:12,13,新世。

      4,5 (イ)キリスト,イエスは,どのように良い行儀の正しい手本ですか。(ロ)良い行儀をどのように行うべきですか。

      4 両親も子供も,完全な紳士であるキリスト・イエスの残した完全な手本から益を受けることができます。キリスト・イエスは,良い行儀に関する規則を実際に行いました,「何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ。」しかし,イエスの良い行儀は,人間の書いた規則集の本によつたのでなく,イエスの誠実な心と又イエスが良い習慣を培つたこと,および若い時から全能の神の正義の原則,特に愛についてのヱホバの律法を行つてきたことによるのです。―マタイ 7:12。ルカ 6:31,新口。

      5 行儀の良い両親は,どんな場合でもすべての人に対して礼儀正しく振舞う,という正しい手本を示します。そのような両親は,自分よりも低い者(子供たち,精神病の人々,不運な人々,その他)や,自分と同等の人々(兄弟たち)そして目上の人と考えられる人々(特別な資格を持つ僕たち,支配者たち,王や統治者)に対して尊敬を払います。良い行儀とは,人々を訪問する時に着用する衣服のことである,と考える人もいます。しかし,真実に行儀の良い人とは,いつでも正しい振舞をする人です。最善の行儀を教えたり,学んだりするところは,クリスチャンの家庭です。

      6,7 (イ)若い頃にこらしめられなかつた年少者は,どんな有害の陥穴に面しますか。(ロ)正しい行についてどんな聖書的な助言が与えられていますか。

      6 青少年は,両親や他の大人を直ぐにけなしたり,嘲笑したりします。そして,大人の良い助言には耳を傾けません。この世の行を標準にしている子供たちに,このことは当てはまります。そのような行をする場合,しばしば噂話がなされ,年上の円熟しているヱホバの僕たちを傷つけたり,軽んじたりしようとします。あなたは噂話という有害な方便を用いますか。幼い頃に噂話をしないなら,年を取つてから噂話をすることは,先ずあり得ません。そのわけで,正しい尊敬を示し得ないことは,あからさまに反逆を表わすことです。故にヱホバの奉仕を行う若い奉仕者もまた年上の円熟した奉仕者も,それを避けねばなりません。使徒パウロの述べている聖書的な訓戒は,青少年にとつて適切なものであり,両親も見逃してはならないものです,『ただ,あなた方はキリストの福音にふさわしく生活しなさい。……一つ心になつて福音の信仰のために力を合わせて戦い』『あなたがたも知つているとおり,父がその子に対してするように,あなたがたのひとりびとりに対して,御国とその栄光とに召して下さつた神のみこころにかなつて歩くようにと,すすめ,励まし,また,さとしたのである。』― ピリピ 1:27。テサロニケ前 2:11,12,新口。

      7 クリスチャンの子供たちは,そのような行に従うことにより,こらしめを受けない年少者の落ちる陥穴を避けます。良い助言の言葉を聞き入れない人は,智恵の無い人,そしてすぐに惑わされ欺かれてしまう人になぞらえられています。伝道之書を書いたソロモンは,誘惑に負けるならば,亡びに導かれる,ということを次のように説明しました,『拙き者の中……若き者のうちに一人の智恵なき者あるを観たり。』ソロモンは,次のように言葉をつづけています,『若き人ただちにこれに従えり。あたかも牛の屠場に行くが如く愚かなる者の桎梏をかけらるる為に行くがごとし。遂には矢その肝に刺さん。鳥の速やかに網にいりてその生命を失うに至るを知らざるがごとし。』『子供らよ,いま我に聞け。我が口の言葉に耳を傾けよ。なんぢの心を淫婦の道にかたむくること勿れ。またこれが径に迷うこと勿れ。その家は陰府の道にして,死の室に下りゆく。』それで,神の御言葉によつて,あなたの道を明るくし,悪魔の罠を避けなさい。誠実な祈りを捧げつつ,ヱホバにこう願いなさい,『我をたすけ,我をまぬかれしめたまえ。……主ヱホバよ,なんぢはわが望みなり,わが幼少よりの頼みなり。……神よ,なんぢ我を幼少より教えたまえり。……われ聖前に歌うとき,わが口唇よろこび,なんぢのあがない給えるわが魂大いに喜ばん。』― シンゲン 7:6,7。シンゲン 7:21-25,27。詩 71:2,5,17,23。

      偶像崇拝のごとき行についての警告

      8 偶像崇拝のごとき計画が見分けられず,また避けないならば,何が生じますか。

      8 今日のヱホバの僕は,みな悪魔の誘惑に注意を払わねばなりません。すべての者は,警戒を払い,そして偶像崇拝の巧妙な計画や,敵の手に陥る隠れた罠を見分ける力を持つべきです。イスラエルの子孫は,神の言葉に注意を払わなかつたために,欺かれました。悪い交わりは,年少者と大人の持つ良い道徳を腐敗させます。そのわけで,ヱホバはイスラエル人をいましめ,強暴な非難者たちについてこう述べられたのです,『彼らは汝の国に住べきにあらず,恐くは彼ら汝をして我に罪を犯さしめん。汝もし彼らの神に事えなば,そのことかならず汝のわなとなるべきなり。』― 出エジプト 23:33。申命 7:16。

      9,10 子供たちは,偶像崇拝の罠に対してなぜ警戒を払わねばなりませんか。

      9 王に仕えるクリスチャンの子供たちは,偽りの宗教に従うなどということは,とうてい想像し得ないもの,と考えています。しかし,偽りの崇拝の他の多くの隠された手段については如何ですか。私たちはそれらにも同じく警戒を払わねばならないのです。サタンはこの世の組織制度の神であり,あらゆる種類の偽りの崇拝の神です。そして,偽りの崇拝にはさまざまの種類があるのです。「あなた方は自分の服従するその者の僕である。」― マタイ 6:24。ルカ 16:13。ロマ 6:16,新口。

      10 例えば,大人は,しばしば科学と医学を崇めています。そして,あらゆる種類の創造物を崇拝しているのです。両親が為しているように子供たちも偶像崇拝をしています。18歳の少年少女でも,幾時間も長いあいだ無意味な娯楽に耽けつて楽しんでいます。そのまま放任して置くならば,快楽に夢中になつている両親と同じく,子供たちも自己を満足させる快楽を崇拝するようになります。子供たちは親の手本を見ているからです。これは使徒パウロの予言した通りの事柄です。彼らは『神よりも快楽を愛する者』です。ある人々は,映画俳優やジャズ音楽の王を崇めています。他の人々は,もつと深い罪に耽溺するよう教えられ,犯罪や性を崇めています。そして,この腐敗した世の偶像崇拝的なそれらの行に全く耽りきつているのです。そのような有害な行は,生命を奪い取つてしまいます。そして,青少年の心と思いに滲みこむ時,強い者は弱くなり,弱い者は罠にかかつてしまい,かつ神の確かな言葉によつて与えられる保護の壁をこわすことになります。如何なる種類のものにせよ,偽りの神々を崇拝するなら,その刑罰は死です。尊崇の念で人間に仕えることにも同じ刑罰が与えられます。また極端に快楽を愛し,全能の神の真の崇拝から私たちを引離すものに愛を注ぐのも,同じ結果です。それで,21歳以下の者たちも,『子たちよ,気をつけて,偶像を避けなさい。』という正しい助言の言葉を無視することはできないのです。―テモテ後 3:1-4。ヨハネ第一書 5:21,新口。

      富に対する愛と欲望は罠となる

      11 年少者を欺くのに特別に巧妙な偶像崇拝とは何ですか。それに対するどんな刑罰が,その結果ですか。

      11 金銭もこの時代の偶像になつています。現在の組織制度に属している人々は,お金のことに熱狂しており,如何なる手段を用いても,恥づかし気なしに金を得ようとしています。飽くことを知らぬこの欲望のため,20世紀には多くの盗難や他の犯罪が為されているのです。このような犯罪をすることは,御言葉に述べられているヱホバの正しい原則を破るものであり,クリスチャンの生活にふさわしいものではありません。そのような犯罪をする人は,新しい世の社会にいることができません。実際,このような悪行をなしつづけるなら,年齢にかかわりなくその人はクリスチャン会衆から除名されるでしよう。

      12 (イ)『金銭を愛すること』は,どのようにそしてなぜ人々の罠になりましたか。(ロ)クリスチャンは,どのように金銭の正しい価値と生活におけるその使用法を評価すべきですか。子供たちの生活の場合は如何ですか。

      12 この組織制度に属する大多数の大人は,冨を得ることを主要の目的にしています。それで,子供たちも金銭とか金銭と等価のものを蓄積しようとする同じ強い欲望を示すのです。それで,新しい世の社会内にいる年少者の心を正しくつくりあげる必要性を悟ります。金銭は身を守るもので,重宝なものです。それは確かです。しかし,クリスチャンの両親は,聖書に強調されている真の価値を子供たちの心に教えこまねばなりません,すなわち「知識は金よりも有益である。知識は人の生命を守る」このことに関して,子供たちは両親と同じ理解を持つ故に,神権的な両親は富を得ることについて正しい見解を持つべきです。そして金銭は人生の大切な事柄である宣教にいつも従属すべきです。金銭は,人生の目的でなく,目的の為の手段でなければなりません。それで,両親が子供に使え切れない程の多くのお小遣いを与えるなら,その両親は子供に害を与えている,ということが分ります。子供の小遣いは,その子の益のために制限する必要があります。学校に通う子供が時間極めの仕事をして,自分の金銭を得,そして金銭の真実の価値と賢明な使用法を学ぶのは良いことです。

      13 真の富はどれほど価値あるものですか。金銭の富について,すべての人はどのように冷静に考えるべきですか。

      13 自分自身の為に天に積む富は,更にずつと大切なものです。聖書はシンゲンの中で次のように強調しています。『これは,執る者には生命の樹なり。これを持つ者は幸福なり。』パウロはこれと対照するものとして,テモテに宛ててこう書きました,『金銭を愛することは,すべての悪の根である。ある人々は欲ばつて金銭を求めたため,信仰から迷い出て,多くの苦痛をもつて自分自身を刺しとおした。』金銭を持つことが必らずしも悪いのではありません。金銭を持とうとするための気づかいとか,重要視というものが悪いのです。―シンゲン 3:18。テモテ前 6:10,新口。

      高等教育

      14 高等学校卒業後の教育を求めるべきか否かを決定するにあたつて,なぜ非常な注意と考慮が払われねばなりませんか。

      14 金銭を愛することと,物質主義は,若人や大人に強い影響を及ぼしているため,人生の将来に関する青少年の決定にも大きな影響を与えています。クリスチャンの子供の級友たちは,卒業後には大学に入る計画を立てています。それらの子供たちは,たいてい生涯の中に良い地位を得るか又は有名人になつて成功したい,という意向を持つています。今日では,そのような事柄が成功と考えられているのです。しかし,神権的な見地に立つとき,それを智恵の道と見なすことができますか。しばしば,年少者の心に次の質問が生じます,『私が大学に入ることは適当であろうか。私の教育を拡大することは,後日神権的な奉仕者としての私の能力を増すものであろうか。』人が高等教育を求めるか,求めないかは,各人次第であり,現在と将来の生命から何を得たいか,という希望次第です。この時のところまで,この子供は神の原則に従う神権的な両親により,正しく導かれてきました。― 彼は成功した若い奉仕者です。さて,以前の多くの場合と同じく,いまや決定をしなければならないのです。そして,両親は助言者になります。真面目で若いクリスチャン奉仕者である彼は,正しい決定をしたい。と欲しています。自分の強い希望が,物質主義の一般の風潮に向つているか否か,― この世の中で立身出世したいか又大学教育の結果に得るようになる高い地位や人間の誉と称讃を得たいか,ということを決定しなければなりません。決定するに当つて,次の質問を念頭に置くべきです,すなわち,このことは,新世社会内における私の立場とヱホバ神に対する私の関係にどのような影響を及ぼすだろうか,ということです。大学はしばしば古い世の道具になつており,後日に大学の理念を達成し,かつ古い世の標準に従う成功を増すために用いられています。それで,そのような道に進むなら人の心が神権的な教育と原則から離れるのは当然です。自分は,すくなくとも4年のあいだ神権的な交わりから離れていて,古い世の考えや原則で心を充たしてもはたして十分に強いだろうか,ということを考えるのは必要です。

      15 科学の知識や他の事柄を得ることは,害のあるものですか。間ちがつた考え方をするのは,何の原因によるのですか。

      15 神の御言葉と全く一致している真実の科学的な知識や,他の多くの事柄を学ぶことが有害なのではありません。ただそれを伝える媒介物は,しばしば神の御考えに反する人間の考えで充ち充ちているのです。例えば,人間の起源に関する進化論とか,あるいは聖書と一致しない他の理論や仮設などです。正しい数学,物理,化学,工業,歴史,その他についての知識を得ることは,極めて良いことであり,この20世紀における人々の標準を進歩発展させるのに必要なものです。そして,神の正しい標準に一致して為されるならば,新しい世においても続けて行われ得るものです。しかし,現代の原則を持たない政治思想や,疑わしく悪い商業主義や,また現代のキリスト教国の共同教理を通して伝えられるため,学生の心に悪い影響を及ぼすでしよう。

      16 学生は特に何を避けるべきですか。

      16 いちばん大きな危険のひとつは,種々さまざまの多くの学生活動に参加しようとする誘惑です。その学生活動の中には,奔放な集まり<パーテイ>やそれに類したものが含まれています。それらは,クリスチャンに要求せられている道徳の標準をすぐに弱めてしまうでしよう。授業課程外の他の多くの催し事にも,同じことが言えます。それらは,神を恐れる年少者の忠実を危うくするものです。狡猾な敵サタンの罠に落ちこむような環境に,無必要にも入るべきではありません。

      17 (イ)人間の哲学を教える学校課程に染まることは,なぜ危険ですか。(ロ)高等教育を受けようと考えている人は,更にどんな質問に面しますか。

      17 進化論とか,神の御言葉に反する人間の他の哲学が,高等教育の一部になつていると知るなら,自分は間ちがつた偽りの教えの影響をはねつけるだけの十分な力を持つているかどうか,を考えねばなりません。そのような知識は,幼い頃神権的な両親の導びきの下に学んだ神の御言葉の健全な良い知識を追い出してしまうのではないでしようか。そんなに長い期間,神権的な交わりや全能の神への奉仕から離れていて,しかも真理を保ち続ける,というようなことは,先ずあり得ない事柄です。最後に,もつとも重要なことですが,自分の選ぶ職業は,はたして宣教を向上させるでしょうか。

      18 どのような様式の智恵を得ますか。その影響は何でしょうか。

      18 高等教育を受けるなら,智恵を得るでしよう。しかし,どんな様式の智恵を得るのですか。現在の組織制度に属する学校は,自分たちの理念を拡張しているということを留意して下さい。そのため,人々は直ぐにその理念に服してしまい,その標準に従つて成功を図ろうとします。まつたく,『この世の子らは,……光の子らよりも利口である。』彼らは,今日「実際的な思い」を持つていることに自慢しています。さて,私たちに対する訓しの言葉は何ですか。『またあなた方に言うが,不正の富を用いてでも,自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば,富が無くなつた場合,あなた方を永遠のすまいに迎えてくれるであろう。』― ルカ 16:8,9,新口。

      19,20 (イ)高等教育を求める若いクリスチャン奉仕者にとつて,どんな危険が伴いますか。(ロ)神の是認を受けよう,などとなぜ期待すべきではありませんか

      19 「この世から離れるよう」私たちは戒められています。しかし,大学に行くなら,私たちの心はこの世の原則で充ちてしまうでしよう。集会に欠席してはならぬ,とさとされています。しかし,大学に行くなら集会に出席できないでしよう。「神に認められるよう研究せよ」と私たちは強くすすめられています。しかし,古い世にいて私たちは人々の「智恵」や是認を得るために研究しています。「御言葉を聞くだけでなく,行う人になりなさい」と教えられています。しかし,高等教育を受けるなら,神の御言葉を聞く時間も無くなれば,行う時間もなくなるでしよう。

      20 神は古い世のいかなる部分をも是認していません。そして,古い世の哲学を行う学校も神の是認を受けていません。そのような「智恵」は,ヱホバの奉仕者である各人になんらの貢献をもなさないのです。それは,最初からの目的でもなく,また,そのようなことを目標にして仕組まれたものでないからです。

      21 何が建設的なクリスチャン教育ですか。それはどんな価値を持ちますか。

      21 パウロは,エペソ人にむかつて述べた言葉の中で,建設的な教育と訓練について述べています。その言葉の中には,この目的のための割当もふくまれているのです『彼は,ある者を使徒,ある者を予言者,ある者を宣教者,ある者を牧者,および教師とし,宣教の業のために聖徒たちの訓練を目的とされた。それは,キリストの体を建てて私たちがみな一つの信仰を持ち,神の御子の正確な知識を得るためである。かくして,私たちは全く成長した人,キリストの全きに達するのである。』なぜこれが必要なのですか。『それは私たちがもはや幼児ではなく,だまし惑わす策略により,人間の悪企みによるいろいろな教の風に吹きまわされたり,もてあそばされたりすることのないためである。しかし,真理を語り,そして愛によつてすべてに成長し……諸国民が空虚な思に従つて歩むごとくに,あなた方がもはや歩まないためである。』『光の子らしく歩きなさい。……実を結ばない闇の業に加わつてはならない。』古い世の標準に従う現在の高等教育は,使徒のこれらの言葉と適合しますか。油の水に混らぬごとく,この両者は混りません。―エペソ 4:11-17; 5:8,11,新世。

      22 (イ)献身した青年男女の業は何ですか。(ロ)生涯の他の利害は,どのような立場を取るべきですか。最も大切な目標は,何ですか。

      22 ヱホバに生涯を献身するとき,一生の業は奉仕者という業です。このために,あらゆるものを捧げるだけでなく,奉仕者に命ぜられているヱホバの要求を果すようになすべきです。その人は,他のいかなる事柄や欲望にも注意を外らされないでしよう。それである故に,青年男女が大学に行く代りに,4年かそれ以上の年月を全時間奉仕に費すことは,一番有益なことでありましよう。恐らくは,ギレアデに行つて宣教者の奉仕や他の特別な仕事に従事したり,またはベテルの奉仕を行うかも知れません。そうすることは,次の良き助言に全く従うことになります,『自分のことと教えのこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを救うことになる。』― テモテ前 4:16,新口。

      23 今日の年少者は,しばしは判断についてどんな共通の間ちがいをしていますか。

      23 今日の多くの青年は,自分で善と悪を判断し得る,と考えているようです。よく『私は良いことをしているんだ』『私は良いことをしている,誰ひとりも害していない』それでは,どんな標準に従つてそうなのか,という質問が生ずるでしよう。丁度,王のいなかつたイスラエルの時と同じように,彼ら自身の目から見て良いということを行つているのです。これが今日の多くの混乱の原因になつているのです。そして,青少年は同じ型に従つていることが分ります。まだ分別が十分でない青少年でも何が善であり,何が悪であるかを判断しているのです。しかし,その結果は明白です。

      道徳の標準と結婚について思いめぐらす

      24 (イ)他のどんな事柄を教えることは,両親の義務ですか。なぜですか。(ロ)結婚配偶者を選ぶということに関して,なにが非常に重要ですか。

      24 10歳台の青少年がいろいろの決定をする際に,いちばん難しい年頃といえば,少女が女らしくなり,少年が男らしくなるときでしよう。この頃になると,子供たちは人生に対して全く新しい見方を持つようになります。これまで,両親は子供たちに全き確信を持つていましたが,このことはなおも続くべきです。若い男女は,生命についての質問や,自分の経験している変化の意味についての質問を父親や母親に尋ねるべきです。子供たちは正しい答を頂ける,と期待しています。鳥や蜜蜂や,花についての物語をして生命のことをいい加減に説明するのでは不十分です。子供たちには,もつと多くのことを教えねばなりません。いまや子供たちには生命の基礎的な事柄に関して教えつづけるべきです。両親は,この重大な知識を与えるように神より任命された者です。年少者はそのことを期待しており,あなた方,父親と母親から教えて頂く資格を持つているのです。この中には,異性に対する正しい振舞ということも含まれています。同じように,人間ではなくヱホバ神の設立し給うた道徳律に対する尊敬も含まれています。子供が大きくなつて,結婚のことを考えるようになると,両親は再び子供たちに教えなければなりません。そして,結婚配偶者を正しく選ぶ時に,何が必要であるかを息子や娘が理解できるようにします。この事柄に関するヱホバの規則は明白です。そもそも結婚の選択ということから規定されているのです。アブラハムは自分の息子イサクの結婚配偶者を選びましたが,現在の両親もアブラハムと同じくらいに心遣いを為すべきです。このことに関して,イサクは神を恐れる父親に尊敬を示しました。彼はカナン人とその若い娘たちの中に生活していましたが,その一人としてイサクの配偶者に考えられなかつたのです。カナン人はヱホバとの契約関係に入つていなかつたからでした。パウロはこれと同じ正しい原則をクリスチャンたちに述べています。つまり,「ただ主にありて結婚せよ」ということです。この世の人を結婚配偶者にして,夫婦という密接な関係を持つ生活をしながら,どうしてこの世から離れ続けることができますか。―創世 24:3,4,37。コリント前 7:39,新世。

      25 (イ)聖書中では,独身はなぜ高く評価されていますか。どんな条件の下ですか?(ロ)どんな行を避けねばなりませんか。

      25 聖書は独身の重要性を強調している故,独身はより勝れた事柄です。パウロはこう説明しています。『未婚の男子は,主のことに心をくばつて,どうかして主をよろこばせようとするが,結婚している男子はこの世のことに心をくばつて,どうかして妻を喜ばせようとして,その心が分れるのである。』独身というより勝つた事柄を選ぶ者は,純潔が要求されていることに留意しなければなりません。青年男女で制慾の生活をすることができないなら,パウロは次のように諭しています,『しかし,もし自制(独身のたまもの)することができないなら,結婚するがよい。情の燃えるよりは,結婚する方が,よいからである。』(コリント前 7:32-34,9,新口)10歳台かまたはそれよりも年上のそのような若人は王なるキリスト・イエスの将来の子供たちです。そして,異性に対する彼らの振舞は,清いもので非難のないものでなければなりません。この世の人々が大酒に耽り,男女の愛撫を行つているかといつて,若きも老いたるものも,ヱホバの僕が気を弛めて同じような堕落した行をしても良い,というわけではありません。そのような行をする終りは何か,ということをいつも留意すべきです。度を越して酒を飲んだり,食べ過ぎたりするなら,感覚は鈍くなり,誘惑に屈します。男女の愛撫は,性の衝動を起します。そのような欲望を,間ちがいにも度を越してなすなら,たいへんな不道徳を行うようになります。神を恐れる人々は,神を認めぬこの世の行をいたしません。両親は,人生についてのこれらの基礎的な事柄を子供たちにはつきり理解させるだけでなく,陥穴についても警告すべきです。

      26 若いクリスチャンは,結婚をどう見なすべきですか。

      26 丁年に達するまでには,青少年は結婚とその意味するものを明白に理解すべきです。今日行われている結婚の3分の1は,いろいろの理由のために離婚しています。しかし,それだから現在に見られるように,結婚ということを軽々しく取上げるべきではありません。姦淫以外の理由で配偶者を離婚して他の者と結婚することは,結婚についての神の契約を破るものであり,神によろこばれません。『すべて不品行な者汚れたことをする者は……キリストと神の国をつぐことができない。』青年男女が,神の御意に一致する結婚をするため,人生についてのこれらの事実を良く知ることは大切です。結婚したクリスチャンは結婚の状態を保ち,聖書的な取極めに対して正しい尊敬を示す,ということを彼らは認識します。『すべての人は,結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は,不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。』― エペソ 5:5。コリント前 6:9,13。ヘブル 13:4,新口。

      結論

      27 心をよろこばすどんな機会が両親に与えられていますか。

      27 今日の両親は,神の標準にかなうと共に神の是認をうける仕方で子供を育てる,というすばらしい機会を持つています。これよりも大きな相続財産はありません。正しく子供を育てた両親にとつて,大人に生長した自分の子供たちが全能の神の奉仕に参加しているのを見るのは,恐らく最大の幸福でありましよう。

      28 若い奉仕者の一番大切に重んずる望み,もしくは目標は何ですか。新世社会内の彼の地位は何ですか。

      28 正しく教えられ,訓練されてこらしめを受けた年少者は,今日たしかに新世社会内にいることでしよう。彼らは,両親や,会衆やなかんずくヱホバとその従順にして忠実なる王なる御子キリスト,イエスに,たしかに誉を捧げる者たちです。若い奉仕者たちは,古い世の物質主義とか,地的な成功および欲望などに注意を惹きつけるあらゆる行や教えを避けます。それらは,敵のしかける陥穴以外の何ものでもありません。全く,独身であろうと結婚していようと,若い人々が一番大切に思んずる望みは,ブルックリンでのベテルの奉仕か,ものみの塔協会支部のベテル奉仕,あるいはギレアデ卒業生として外国の任命地かまたは他の任命地で全時間奉仕すること,それとも全時間の開拓者奉仕をすることでありましよう。ヱホバのクリスチャン奉仕者であることは,今日訓練されている年少者の持ついちばんすばらしい地位です。これは永遠の生命に導くものであり,これにより他の者たちも永遠の生命を受け,そして一番良いことは生ける神ヱホバの祝福を得ることができます。あなた方,今日の若い奉仕者よ,明日の円熟した忠実で忠節な僕になり,かつヱホバの新世社会の代表者になつて,ヱホバに讃美を捧げなさい!

  • 悪しき霊に対して霊の剣を振う
    ものみの塔 1956 | 8月15日
    • 悪しき霊に対して霊の剣を振う

      新教徒や,カトリック教徒や,ユダヤ人や,多くの東洋の宗教や原始的な宗教は,ほとんど例外なしに死後の生存を信じています。このために,遺族の人々は霊媒術に頼つて慰めを求め,死者との連絡を得たいと希望しているのです。時々霊媒術は成功するように見えます。死後の生存ということも否定して居れば,霊者の存在も否定している物質主義者たちは霊媒術の現象に十分の納得し得る説明をすることができません。

      しかし,聖書だけが十分に納得し得る説明をすることができます。聖書によると正体を間ちがえた例があると示されています。聖書の説明を簡単に言うと,次の通りです。神は地と人間をつくるずつと以前に見えざる霊者たちを創造しました。そして,その霊者のひとりは,アダムとエバがエデンに居た時に反逆し,自ら悪魔サタンになりました。ノアの時代に他の霊者たちもサタンの反逆に加わり,悪鬼共になりました。ノアの大洪水後,これらの悪鬼共はタルタロスの暗の状態に閉じ込められていますが,死人に扮し『死ぬる者は何事をも知らず』という聖書の明白な言葉を偽つています。―エゼキエル 28:14,15。ペテロ後 2:4,5。伝道之書 9:5。

      イスラエル人たちは,悪鬼完教と関係を持つことをかたく禁ぜられていました。地上にいたイエスは,悪鬼に憑かれている人々から霊を出しました。また『霊媒術を行う』ならば,神の国に入れないであろう,とパウロは戒めています。―レビ 19:31。ガラテヤ 5:20。

      神の是認を欲しまた神の新しい世の生命を欲している献身したクリスチャンとして,私たちは霊媒術を避けねばなりません。それだけでなく『もろもろの支配と,権威と,やみの世の主権者,また天上にいる悪の霊に対』して『御霊の剣,すなわち,神の言葉』を取らねばなりません。それで,霊媒術や他の偽りの教えの偽りを曝露するため,聖書の真理を用いなければならないのです ― エペソ 6:17,12,新口。

      聖書の正しいことに全く確信している私たちは,死人に問うよりは聖書に頼るようにと人々にすすめます。(イザヤ 8:19,20)さらに神の言葉は明白にこう示しています,創造された『人は生ける魂になつた』『罪を犯す魂は死ぬべし』そして,死ぬときに『人は獣にまさる所なし』また,ヱホバ神だけがもともと不滅性を持つて居られたのであり,そしてヱホバ神はこの賜物を独り子と少数の選ばれた者たちに与えられる,と聖書は示しています。ヱホバの予定の時に『記憶の墓にいる者はみな(イエスの)声を聞いて,出て』そして生命の復活か裁きの復活を受けるでしよう。―創世 2:7,新世。エゼキエル 18:4,伝道之書 3:19。ヨハネ 5:28,29,新世。

      悪しき霊に対して霊の剣を勤勉に,しかも巧みに使うことにより,私たちは『あらゆる人を偽り者としても,神を真実なものとすべきである』そして『すべて哀しむ者をなぐさめる』という私たちの任務を果していることになります。(ロマ 3:4,新口,イザヤ 61:2)霊の剣は,私たちの必要とする全部ではありません。私たちは『神の武具で身を固め』ねばならないのです。神の武具で身を固めることのなかには『真理の帯を腰にしめ,正義の胸当を胸につける』ことも含まれています。また,平和の福音の備えを足にはき,信仰の盾を手に取り,そして救のかぶとをかぶらねばなりません。最後に,祈りを捧げて神の導きと助けと保護を求めることも是非必要です。かくすることにより悪しき霊に対する戦に勝つことができるでしよう。―エペソ 6:11-20,新口。

  • その26 アジヤと太平洋地域での拡大
    ものみの塔 1956 | 8月15日
    • ヱホバの證者の近代歴史

      その26 アジヤと太平洋地域での拡大

      世界で最大の大陸であるアジヤは,尨大な土地を擁しています。この地域に住む12億7200万人の住民へのヱホバの証者の伝道成果は,どんなものでしょうか。伝道の進歩は遅々たるものでしたが,しかしたしかに進歩しています。アジヤは異教のはびこつている土地です。また,東洋文明の発祥地でもあり,モハメット教,ヒンヅー教,仏教,孔子の教えが根強い地盤を持つています。このために,多くの人々の心は,筆舌に尽しがたい複雑な入り乱れた状態になつています。アジヤの人々は,伝統と昔からの民俗習慣をよく守り,西洋の人々の目から見て,どんなに不合理であり,理くつに合わないものであろうとも,東洋の人々は,たしかめずに事実として受け入れる傾向があります。東洋の複雑な言語は,バベルにおいて,言葉が乱され,各言語がその困乱の状態から派生してきたかをよく物語つています。アジヤの人々は,より良い,簡単な新しい方法があつても,なかなか受け入れようとはしません。そして改宗を忌み嫌い,他人から授助をさしのべられるのを好みません。沢山の人々はなおかつ非現実の世界に住み,現実の生活の事実を直視しようとしません。偶像崇拝先祖崇拝がひろく行われ,(また罪という観念がない為に,道徳上の抑制する力が弱く)不道徳が甚しく,そのためアジヤ人の精神水準は極めて低く,動物と大差ない生活を送つているものも少くありません。サタンこそ,これらの尨大な大衆をかくも低い精神状態に追いやつている者です。しかしながら,これらの土地にも,ヱホバ神は,正直で謙遜な民を有しておられ,いま,ヱホバの証者により,集められつつあります。

      1942年,ヱホバの証者の伝道の業は,この広大なアジヤの大陸で,殆んど行われておりません。その年に,406名の活潑な伝道者が報告していましたが,それは,殆んどインド又はその近辺の土地においてでした。戦争中,日本の伝道の業は禁止されていました。1947年の3月から5月まで,協会の会長は,書記と共に,極東,中東,近東方面の大規模の旅行を行い,アジヤの地にいる証者を訪問しました。これら各種の国々の訪問中に,宣教者の家の設立についての取極めがなされています。まず1947年には,僅か17名の宣教者が派遣されていましたが,1955年までに,186名の宣教者がアジヤの18の国々の各地で働いていますが,そのなかには,日本も含まれています。言葉は大きな障害ですが,宣教者は一生懸命に勉強し,その国の言葉で人々と話を交わせるように努めています。アジヤの活潑な伝道者数は,1942年には406名で

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