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長老となる資格のあるのはどんな人ですかものみの塔 1975 | 11月1日
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長老となる資格のあるのはどんな人ですか
『汝らのうちにある神の群羊を牧え。やむを得ずしてなさず,神に従いて心よりなし,利を貪るためになさず,悦びてな(せ)』― ペテロ第一 5:2,文。
1 神はご自分の羊の群れをどれほど大切なものに考えておられますか。
神はご自分の羊の群れのことを,ご自分が従属の牧者として任命した者たちから特別の考慮を示されるに値する大切なものとお考えでしょうか。神はご自分の「羊」をどれほど大切なものと考えておられるのでしょうか。神のみ子は言われました。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです」。(ヨハネ 3:16)神の関心は,ご自分のみ子が人間として地に来て,ご自分の迷える羊をおりに戻す道を開くよう,34年と3か月の間天を離れていることを許すほどのものでした。
2 わたしたちは牧者としてのエホバとイエスに確信を抱くことができますか。説明しなさい。
2 わたしたちは,神が深く愛された,そしてまた神と和解することを必要とするその「世」の一部です。他国への捕われから帰還したイスラエル人に対する,『汝ら我に帰れ……我も汝らに帰らん』という神の訴えは,今日のわたしたちにも同じように当てはまります。(ゼカリヤ 1:3)使徒ペテロは初期のクリスチャン会衆に次のように書きました。「あなたがたはさ迷っており,羊のようであったからです。しかし今は,あなたがたの魂の牧者また監督のもとに帰って来ました」。(ペテロ第一 2:25)神はご自分のもとへ帰る者たちのために保護を設けられます。『主は牧者のごとくその群れをやしない そのかいなにて小羊をいだきこれをその懐中にいれてたずさえ 乳をふくまする者をやわらかに導きたまわん』。(イザヤ 40:11)神はまた「羊のために自分の魂を」なげうったりっぱな羊飼いイエス・キリストをご自分の補佐役として任命されました。―ヨハネ 10:7-15。
3 パウロは信頼できる羊飼いであることをどのように証明しましたか。
3 エホバはまた,「羊」の世話をすることに関心を抱く従属の牧者を立てる取り決めをつくられました。使徒パウロはそのような牧者の一人でした。そして彼はこう言いました。「乳をふくませる母親が自分の子どもを慈しむときのように,あなたがたの中にあって物柔らかな者となりました。こうして,あなたがたに優しい愛情をいだいたわたしたちは,神の良いたよりだけでなく,自分の魂をさえ分け与えることを大いに喜びとしたのです。あなたがたが,わたしたちの愛する者となったからです」。自分の魂を分け与えたいという気持ちがどれほどのものであったかは,彼がコリント会衆に書き送った手紙の内容に示されています。「わたしとしては,あなたがたの魂のために大いに喜んで自分を費やし,また費やし尽くされるつもりです」。―テサロニケ第一 2:7,8。コリント第二 12:15; 11:28。
4 今日のクリスチャンは,それらの牧者に対する見方に従って何を目標とし責任とすべきですか。
4 わたしたちはこれらの牧者,すなわち偉大な牧者,りっぱな羊飼い,そして使徒パウロの模範に見倣った生き方をすることができます。使徒ヨハネは,「わたしたちは兄弟のために自分の魂をなげうつ務めがあります」と述べています。(ヨハネ第一 3:16)彼は,イエスの次のことばをよく知っていたのです。「わたしはあなたがたのために模範を示しました。あなたがたも,わたしがあなたがたにしたと同じようにするためです。きわめて真実にあなたがたに言いますが,奴隷はその主人より偉くはなく,また,遣わされた者はそれを遣わした者より偉くはありません」― ヨハネ 13:15,16。ヨハネ 15:12,13と比較してください。
5 なぜある人々はまだエホバに帰る道を見いだしていませんか。
5 聖書がエホバについて,「彼はわれらの神なり われらはその草苑の民そのみ手のひつじなり」と述べているからには,人々がエホバに奉仕するのを阻止しているのは何でしょうか。人々はただエホバに帰る道を知らないのです。彼らには導いてくれる者がいなかったというか,彼らの人間の指導者,つまり牧者と考えられていた人々はむしろ彼らを誤導してきたのです。イエスは,当時の牧者たちのことを,『羊のおおいをかぶってあなたがたのもとに来るが,内側では,彼らはむさぼり食うおおかみで』偽りの牧者だ,と言われました。一方人々は「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されて」いました。彼らは正しく牧されることを必要としていたので,イエスはその仕事を引き受けられました。―詩 95:6,7。マタイ 7:15; 9:36。
羊飼いたちに与えられた特別の責務
6,7 (イ)世話を必要としている群れはどんな人々で構成されていますか。(ロ)羊飼いたちにはどんな申し開きをすることが要求されていますか。
6 イエスは天の家に戻られたとき,従属の羊飼いたちがご自分の「羊」の世話をする取り決めを設けられました。今日,イエスの「羊」を養う特別の責任は,りっぱな羊飼いが任命する人々にあります。このことをなす使命をイエスから特別に与えられたペテロは(ヨハネ 21:15-17をご覧ください),今日のクリスチャンの監督たちにその同じ命令を伝え,次のように述べています。「それゆえ,あなたがた[会衆]のうちの年長者[会衆内の霊的監督たち]に,わたしはこう勧めます。……あなたがたにゆだねられた神の羊の群れを牧しなさい。……自らすすんで……真剣な態度で牧しなさい」― ペテロ第一 5:1,2。
7 献身したクリスチャンはみな,「すべての国の人びとを弟子とし……彼らにバプテスマを施し……わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教え(る)」ことが要求されていますが,羊飼いたちの特別の責任は,「神の羊の群れ」,すなわちすでに会衆の成員となっている人々の世話をすることです。羊飼いたちは彼らについてエホバに言い開きをしなければならないのです。―マタイ 28:19,20。ヘブライ 13:17; 4:13。
8 神の羊の群れの牧者として選ばれているのはだれで,選ばれていないのはだれですか。
8 「非常に大ぜいの祭司たち」はイエスをメシアとして受け入れることにより「信仰に対して従順な態度を取る」ようになりました。しかし書士やパリサイ人は「モーセの座にすわって」いたので,クリスチャン会衆内の羊飼いとして任命された者は一人もいませんでした。衆人環視の中であいさつされることや人から「ラビ」と呼ばれることを誇りにしていた「肉的に賢い」者たちは,召されませんでした。そういうタイプの「指導者」は,エホバの証人のクリスチャン会衆内には見られません。エホバの証人が指導者と認めるのはただ一人,すなわちキリストだけです。彼らはこびやへつらいを要求するような肩書は一切用いません。「あなたがたはみな兄弟だからです」と,イエスは言われました。―使徒 6:7。マタイ 23章。コリント第一 1:26-29。
9 会衆内には幾人の羊飼いがいるべきですか。彼らはだれの中から選ばれますか。
9 エホバの証人のクリスチャン会衆の益を守るために,神は,教える者,監督,羊飼いを含め,「会衆内にそれぞれの者を置かれました」。初期の会衆においては聖書的に資格のある人はみなそのような立場で奉仕しました。任命される人の数は限定されていませんでした。パウロが「年長者たち」に対し,あなたがたの務めに関する指示を与えたいのでミレトスでわたしと会ってほしい,と伝言したことから明らかなように,エフェソスには数人の長老がいました。同様に現代のクリスチャン会衆においても,任命される人の数は限定されていません。キリスト教世界の教会の場合とは違い,彼らは人間製の神学校の卒業生である必要はありません。しかし,伝道活動に勤勉に携わり,神のことばを定期的に積極的に学び,また二つの大きな戒めの内容,すなわち神への愛と隣人への愛を実践している人でなければなりません。―コリント第一 12:28。マタイ 22:36-39。
10,11 人が「とがめのない者」となれると言えるのはなぜですか。なぜそのように高い規準がもうけられていますか。
10 テモテ第一の3章の中で,パウロは,監督の職をとらえようと努めている人のために聖書的資格を述べています。その人は,とがめられるところのない人,でなければなりません。これは不完全な人間に可能なことでしょうか。これは完全さを要求することではありませんか。それでパウロは無理なことを要求しており,厳しすぎるでしょうか。そのように結論するわけにはいきません。なぜなら,パウロはマタイ 5章48節にある,「あなたがたは,あなたがたの天の父が完全であられるように完全でなければなりません」というイエスのことばを知っていたに違いないからです。またパウロはダビデ王がとがめられるところの全くない者となり得なかったことを知っていました。しかし,ダビデのエホバに対する次の訴えを,霊感による聖書の一部と認めていました。『エホバよねがわくはわれをさばきたまえ われわが完全によりてあゆみたり』― 詩 26:1。列王下 20:3と比較してください。
11 人間が絶対的な意味で,制限なく完全に,神のようになることが不可能なことは明らかです。もしそれが真実でなければ,クリスチャン会衆内の監督の職はいつまでも空席のままになっているでしょう。したがって,聖書の要求が高いという事実は,その職を志す,または現にその職にある人ひとりびとりがその要求を満たすべく真剣に努力することを意味します。例えば,とがめられるところのない人ということに関し,もしある長老が残念ながらこの点で欠けているなら,確かにその長老は自分にゆだねられた人々の世話をする立場にはありません。監督は,「若い男子にも,健全な思いを持つように絶えず説き勧め,また[彼]自身が,すべての事においてりっぱな業の手本となり……[自分の]教えに腐敗のないことを示」すことができなければなりません。―テトス 2:6-8。
12 監督としての資格を得るには結婚している必要がありますか。説明してください。
12 監督は「ひとりの妻の夫」であるべきです。といってもこれは,男やもめや独身者は資格がないということではありません。多くの妻を持つ人,または正式に結婚しないで女と同棲している人は,パウロの時代と同じく現在でもクリスチャン会衆の監督として奉仕することはできない,という意味です。実際,そのような人に交わりのしるしとして右手を差し伸べるわけにはいきません。さらに4節(テモテ第一 3章)に記されている条件と結びつけて考えるなら,それは次のこと,つまり監督になる人は十代ではなく,家族を持つだけの年齢に達している人でなければならないということを示していると言えるでしょう。
13 長老たちは,なぜ今日の極端な習慣を避けるべきですか。
13 今日の若者は,いや年配の人々でさえ,現体制の奇異な習慣に染まっている場合が少なくありません。そういう傾向を持つ人々と学校や職場で接触していると,クリスチャンもそれに同調するよう誘惑されがちです。第一世紀のクリスチャンたちも同じような事柄と戦わねばならなかったに違いありません。というのは,年長者を任命するに当たって考慮すべき,パウロのさらに別の助言は,『習慣に節度を守る』(テモテ第一 3:2)ということだったからです。古い世の習慣に従えば神の是認を受けることはできず,また青年たちを説き勧めることが要求される任務につく資格のある人とも考えられないでしょう。わたしたちは知らずにそのような習慣に従っていた時があったかもしれないが,今は神のご意志のために生きなければならない,と使徒ペテロは述べています。以前の友だちはそのために当惑し,わたしたちのことを悪く言うようになるかもしれませんが,そのようなことに心を煩わせるべきではない,とイエスは言われました。―ヨハネ 15:19。テモテ第一 4:11,12。ペテロ第一 4:3,4。ローマ 12:2。
健全な考え方が要求される
14 年長者は自分の立場をどのように見るべきですか。
14 年長者は会衆内で高い地位を占めるのではありません。長老であるということで,『自分のことを必要以上に考える』ようなことがあってはなりません。『健全な思いをいだけるような考え方をしなければなりません』。新英語聖書はこのことばを「うぬぼれ」ないで自分自身を「まじめに評価」する,と訳しています。そうすれば,人々が自分にこびへつらうことを好み,またそれを期待するキリスト教世界の「牧師」が受けているような扱いを受けることを期待するようなことはないでしょう。―ローマ 12:3。
15 「秩序正しく」あるにはどうすることが必要ですか。
15 監督は『秩序正しく,人をよくもてなす人』でなければなりません。(テモテ第一 3:2)偽の羊飼いは,どんな意味においても秩序正しくありませんでした。エホバは彼らを罪に定め,『ああわが養う群れを滅ぼし散らす牧者はわざわいなるかな』と言われました。(エレミヤ 23:1,2)牧者であるという彼らの主張は,エホバの裁きから彼らを救うものとはなりませんでした。イエスも当時の偽の羊飼いたちを強く非難されました。ですからクリスチャンの羊飼いたちは秩序正しくし,会衆の平和のために働かねばなりません。時には「無秩序な者」,「少しも働かないで,自分に関係のないことに手出ししている」者たちを訓戒する必要も生ずるでしょう。(テサロニケ第一 5:14。テサロニケ第二 3:11)長老の訓戒が受けるに値するものであるためには,彼ら自身が,真理からはずれた考えを広めるようなことをせず,聖書のおきてと原則を厳重に守ることによって模範を示さねばなりません。―コリント第一 4:6; 14:33。テトス 2:6-8。
16 よくもてなすということは,王国会館で新しい人々を歓迎することだけに限られますか。
16 エルサレムの神殿の奉献に際して繁栄を祈り求めた時にソロモン王は,『異邦人』,すなわち非イスラエル人が崇拝のためにそこに来ることに言及しました。ソロモンが彼らのために備えを設けたことは疑えません。今日エホバは,『異邦人』,すなわち今までエホバの崇拝者でなかった人々,の増加をもってわたしたちを祝福しておられます。彼らを歓迎するための適当な備えをしなければなりません。それをする責務は監督にあります。それは王国会館でその人たちにあいさつをするだけのことではなく,クリスチャンの道において進歩するようにその人たちを援助することでもあります。これこそ真のもてなしであって,監督になる人に求められる資格の一つです。―列王上 8:41-43。ミカ 4:1,2。マタイ 9:37。ヘブライ 13:1,2。ヨハネ第三 5。
17,18 (イ)教えることは,演壇から話すことだけに限られますか。(ロ)教える者としての監督の目標はどこにありますか。
17 「預言者たちの中に,『そして彼らはみなエホバに教えられるであろう』と書いてあります」とイエスは言われました。(ヨハネ 6:45。イザヤ 54:13)古い事物の体制の終わりと,油そそがれた祭司兼王であられるイエス・キリストの指導のもとにある新しい体制の到来が近づいていますから,このことはますます重要になってきます。エホバ神は最も偉大な教え手であられますが,イエスは,弟子たちがイエスをも師と呼んだのは正しいと言われました。加えて,栄光をお受けになったイエス・キリストは,「ある者を使徒,ある者を預言者,ある者を福音宣明者,ある者を牧者あるいは教える者として与えました。[なぜですか]それは,奉仕の業のため,また……聖なる者たちをさらに調整することを目的としてであり」ました。―エフェソス 4:11,12。
18 したがって長老たちは神のことばを教える者でなければなりません。彼らは会衆の『耳をくすぐる』のではなく,彼らの羊のような会衆の思いと心をとらえなければなりません。そうするからといって彼らは「教授」とか「神学博士」のように高い地位に就くわけではありません。クリスチャンの長老は必ずしも演壇から教えるだけに限られていません。どちらかといえば個人的に教えるほうがより適切です。長老の教えは聖書の教えです。
19 どんな「肉の業」は,人が監督として任命されるのを妨げますか。
19 長老は「酔って騒いだり」するようなことはできません。アルコールを飲み過ぎると感覚が鈍くなって判断力が損なわれ,自分の思いを抑制する力を失います。長老は腕力で,あるいはことばで『人を殴る』ような者であってはなりません。また好戦的であってはならず,金を愛する者,道理をわきまえない者であってもなりません。そのようなところがあれば,クリスチャン会衆を引率する者としての資格はありません。大いなるバビロンの教会の中で奉仕するにはそれは妨げとならないかもしれませんが,エホバの証人の会衆内で奉仕するには,そのような「肉の業」は妨げになります。―テモテ第一 3:3; 6:10。
20 (イ)長老の任命に際して,自分自身の家の者をどう治めているかを考慮に入れなければならないのはなぜですか。(ロ)しかしどんなこともしんしゃくされますか。
20 長老は自分の家の者をりっぱに治めている者でなければならない,と述べたあとパウロは次のように問いかけます。「実際,自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか」。(テモテ第一 3:5)神の家族においては,人の家族におけるよりも多くの命の存亡がかかわっていることをパウロは認めていました。したがって長老は,自分自身の家庭で,家族全員の全般的な利益となるように問題を扱うだけの能力を十分に持っている必要があります。しかしこれは,その人の家族は当然あらゆる点で理想的な模範である,ということですか。そうとは限りません。その人は自分にできる限りのことを全部行なっているのに,家族の中のだれかがその人の望むような反応を示さない,という場合もあるでしょう。妻が非常に反抗的であるかもしれません。それどころかエホバとエホバのみことばに反対しているかもしれません。(マタイ 10:36)しかし重要な事柄は,妻の反抗に対して家長はどの程度責任があるか,家庭内の不和は,家長の側のなんらかの怠慢に原因するかという点です。事態に対する会衆の見方も考慮に入れなければなりません。
21 「新しく転向した人」を監督に任命しないのはなぜ賢明なことですか。
21 監督たちは重要な決定を下す必要のあることがあります。それは人の命にかかわるもの,あるいは良いたよりを宣べ伝えるという極めて重要な業の遂行にかかわるものであるかもしれません。禁令下におかれることもあるかもしれません。健全で円熟した判断が求められます。したがって監督は「新しく転向した人」であってはなりません。(テモテ第一 3:6)新しく転向した人は,長く信仰にいる人々と同じほどの意気込みや熱意をもっているかもしれませんが,「正しいことも悪いことも見分けられる」『訓練された知覚力』に欠けているかもしれません。(ヘブライ 5:13,14)新しく交わるようになった人々は「鍛えられる」必要があります。その間に,「あなたがたの間で指導の任に当たっている人びと,あなたがたに神のことばを語った人びと」を観察し,「そして,その行ないがどのような結果になるかをよく見て,その信仰に倣い」ます。―ヘブライ 13:7。
「ほかの羊」の世話をする
22 流行をどうみるべきですか。この点でわたしたちはだれに見倣うべきですか。
22 エホバの証人は「世のもの」ではありませんから,社会に反抗する者と見られている人々と同一視されるような流行は追いません。それで会衆内の若い兄弟たちは,ペテロが与えた,神の羊の群れを牧する者たちは正しい模範を示さねばならないという訓戒を心に銘記しているべきです。パウロは非常に良い模範でした。「わたしがキリストに見ならう者であるように,わたしに見ならう者となりなさい」と彼は言いました。人々はエホバの証人が違っていることに気づきます。クリスチャンの振る舞い,特に監督たちの振る舞いは,会衆の「外部の人びとから」必要な「りっぱな証言」を得る根拠となるものでなければなりません。―コリント第一 11:1。テモテ第一 3:7。ヨハネ 17:16。ペテロ第一 5:2,3。
23 監督にはそのほかにどんなことが期待されますか。
23 パウロは,テトスへの手紙の1章の中で,長老たちに期待される事柄について助言を与えています。長老は「とがめのない」,非難するところのない人でなければなりません。だれも,好ましくない個人的習慣を持つ者として後ろ指を指すことのできない人でなければなりません。また「我意を張」る人,あるいは威圧的な人,「すぐに憤」る短気な人ではなく,むしろ会衆の内外で物事を非常に正直に行なう人でなければなりません。―テトス 1:6,7。ペテロ第一 5:2,3。
24 監督の忠節はどのように示されますか。
24 イエス・キリストに見倣って「忠節」であることは,監督にとって特に重要なことです。正しい原則に対して忠節であれば,「言い逆う者」を戒めずにいることはできないでしょう。(テトス 1:9)これは楽しい仕事ではありませんが,戒めることを必要な時に差し控えるなら,罪を犯している者に組し,その者の仲間であることを示すことになるでしょう。(箴 29:24)気づかずに間違った道を歩む人に戒めを与えることは,親切な行為です。(ガラテア 6:1)ある好ましくない行為はすぐに忘れたり,見逃したり,無視したりしてかまわないかもしれませんが,会衆内に分裂や分派を引き起こして聖霊を嘆かせるような行為についてはそうするわけにはいきません。したがってある場合には,忠節は戒めを与えることを要求します。―ルカ 17:3,4。エフェソス 4:30。
25,26 (イ)監督が自分自身と神の会衆に特に注意を払う必要があるのはなぜですか。(ロ)新しい人々は,今日神の会衆内でよい導きを受けることを期待できますか。
25 パウロはエフェソスの長老たちに別れを告げるに当たり,彼らに次のように訴えました。あなたがた自身と『群れのすべてに注意を払いなさい。……[そして]神の会衆を牧し(なさい)……[なぜなら今から]圧制的なおおかみがあなたがたの中に入って群れを優しく扱わない[からです]』。(使徒 20:28,29)これらの「おおかみ」は,クリスチャンの身分証明である衣をはぎ取って事実上群れから奪うでしょう。この勧めは,この危機の時代に一層時宜を得たものといえます。監督ならばだれでも,自分の怠慢からエホバの「羊」が一匹でも失われることのないことを願います。
26 「年鑑」は,イエスの多数の「ほかの羊」がエホバのクリスチャン証人たちとどの程度交わってきたかを示しています。イエスの声を「聴く」のでイエスが「連れて来なければならない」羊は,まだ残っています。この古い事物の体制の「末の日」にあって,一人の羊飼いの一つの群れに流れ入る人々は,エホバの道を教えられています。そしてエホバが,牧羊のわざを任せるにふさわしい者,とみられた人たちの愛情深い,優しい導きを確かに受けることができます。―ヨハネ 10:16。ルカ 12:32。ミカ 4:1-4。イザヤ 32:1,2。
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主宰の任をりっぱに果たす長老たちものみの塔 1975 | 11月1日
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主宰の任をりっぱに果たす長老たち
「あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。……神の会衆を牧させるため,聖霊があなたがたをその群れの中に監督として任命したのです」― 使徒 20:28。
1 どんな状況のために長老制は時宜を得たものといえますか。
非常に大ぜいの人が神の王国の側に立ちつつあるこの時代に,聖書に基づく長老制が「忠実で思慮深い奴隷」級により会衆内にしかれたことを,エホバの証人はエホバに感謝しています。過去5年間に75万人以上の人がエホバのクリスチャン証人としてバプテスマを受けましたが,そのうちの9万519人は1974年に開かれた「神の目的」大会中にバプテスマを受けました。この会衆の長老制は,以前の一時的な「会衆のしもべ」制よりも,導きを切に必要としている新しい人々の世話をするのに大いに役立っています。なぜなら,現在幾万もの長老が,群れを助けることに携わっているからです。
2 (イ)この取り決めから会衆はどんな益を得ますか。(ロ)グループで決定を下すことの利点を述べなさい。
2 会衆は,聖書に基づくこの取り決めから幾つかの面で益を得ています。長老の一団がいる場合,会衆のより多くの人々が自分の教える能力を十分に用いるように,自ら進んで行動するように励まされ,またただ一人の人の指導に頼る必要ももはやありません。長老たちの知識や経験が持ち寄られる結果,この取り決めは会衆を富ませる働きをします。すべての長老は他の長老たちから学んで,エホバと会衆に対する彼らの責任をよりよく理解することができます。長老たちが,任命された幾つかの職務を交替で受け持つことはまた責任の重荷のほどよい分担になります。長老団は,種々の問題の判断に平衡を保たせる効果があります。グループで決定を下すのはよけいに時間がかかるように思えるかもしれませんが,そうして下された決定はより強固な基礎を持つので,結局は時間の節約になります。確かに,「勝利は議者の多きによる」です。会衆内の他の人々も,必要とされている特質を養うこと,監督の職を『とらえ』その仕事に参加することを励まされるでしょう。―箴 24:6。テモテ第一 3:1。
3,4 (イ)「主宰の任に当たる」とは文字通りにはどんな意味がありますか。(ロ)広義ではどんな意味がありますか。
3 テモテ第一 5章17節で使徒パウロは,会衆内でりっぱに主宰の任を果たす年長者たちに言及しています。長老はどのように「主宰の任を果たす」のでしょうか。用いられているギリシャ語によると,「主宰の任を果たす」とは,字義通りには,「前に立つ」,導く,司会する,指示する,そして人がある人または物を保護するあるいはかばうためにその前に立つ時のように他の人々の世話をする,という意味です。長老団の中の一人が「主宰監督」に指名されるとはいっても,この聖書的意味においては,全部の長老が主宰の任に当たるべきです。テサロニケ第一 5章12節には次のように示されています。「あなたがたの間でほねおって働き,主にあってあなたがたの間で主宰の任に当たり,あなたがたを訓戒している人たちを重んじなさい」― テモテ第一 3:5。
4 長老たちは文字通り会衆の『前に立ち』,聖書の話を行ない,集会を司会することによって主宰の任を果たしますが,より広い意味においては,会衆全体の利益と,会衆の各成員の霊的利益に心を配ることによって正しい指示や導きを与え,主宰の任を果たします。このことは,彼らが監督兼羊飼いであることと調和します。パウロがヘブライ 13章7節と17節で示している通りです。「あなたがたの間で指導の任に当たっている人びと,あなたがたに神のことばを語った人びとのことを覚えていなさい。そして,その行ないがどのような結果になるかをよく見て,その信仰に倣いなさい。あなたがたの間で指導の任に当たっている人たちに従い,また服しなさい。彼らは言い開きをする者として,あなたがたのために見張りをしているのです。こうしてあなたがたは,彼らがこれを喜びのうちに行ない,嘆息しながら行なうことのないようにしなさい。そのようなことはあなたがたにとって損失となるのです」。
5 (イ)主宰の任を果たすには,長老たちにどんな特質が要求されますか。(ロ)彼らはだれに対して言い開きをする務めがありますか。(ハ)会衆内で顕著な存在はだれだけであるべきですか。
5 羊飼いとして主宰の任に当たっている間,彼らは神の主要な牧者イエス・キリストに言い開きをしなければなりません。ですから彼らは「真剣に」主宰の任を果たさねばなりません。(ペテロ第一 5:4。ローマ 12:8)彼らは他の人々を扱う際にキリストの性格を反映することにより,彼の謙そんさを見倣うことによって,キリストの頭の権に敬意を示します。(マタイ 20:24-28。ヨハネ 13:13-16)長老であるということは,自らを高める理由とはなりません。むしろ「兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情をいだきなさい。互いを敬う点で率先しなさい」。(ローマ 12:3,10)そうすれば,パリサイ人のように自分が有名になることを求めたり,「最も目だつ場所」を自分のものとしておきたがったり,またそれを欲しがったりすることから守られるでしょう。(マタイ 23:6)名声はエホバと,任命された会衆の頭イエス・キリストにのみ帰せられるべきです。ですから長老たちは,このおふたかたの名声を求めるべきです。「偉い人」になろうとするのは愚かしいことです。謙そんであれば,長老は感情移入が可能になり,進んで他の人の荷を負い,問題を忍耐強く聞けるので,援助を与えることができます。謙そんであれば,聖書的な問題が関係していない場合に,融通性を示すことができます。そうすれば会衆内の兄弟たちは長老たちを「重んじ」,彼らのりっぱな働きのゆえに「ひときわ深い考慮」を愛のうちに払うことがやさしくなるでしょう。―テサロニケ第一 5:12,13。
共に働く
6,7 (イ)長老団の司会者は彼らの「頭」ですか。(ロ)「頭」はだれですか。そして司会者はどうするように努力しますか。
6 率先して物事を正しく行ない,会衆の福祉をはかるには,長老たちが共に一致調和して働くことが重要です。長老たちは全会衆の中で示すのと同様の謙そんさを彼ら自身の間でも示さねばなりません。一年間主宰監督および司会者として奉仕する長老は,他の長老たちを治める「頭」になるのではありません。主宰することと「頭」であることの違いに注意してください。例えば家の頭には家族のあとの成員を支配する権利があります。「頭」ですから,家族の他の成員の好みとは違うかもしれない決定を下すことができます。しかし長老団の司会者は,少なくとも非常に重要な問題が関係している場合には,最後的決定を下しません。彼はその長老団の一員にすぎず,そのグループ全体の決定に服します。構成員『すべての語るところが一致』しないということはめったにないはずです。―コリント第一 1:10。
7 司会者は長老団の同意により一年間司会をつとめ,他の長老たちは彼にある程度の主導性を与えます。そのために会衆の諸問題はすぐに処理され,集会活動は円滑に進行します。したがってイエス・キリストが会衆の唯一の頭であられることは変わりません。また司会者は,今は「自分が」主宰しているのであるから,物事は「自分のやり方」に従って行なわれるべきだ,といった態度を取りません。むしろ神権活動を円滑にゆくように調整することによって仲間の長老および全会衆に奉仕します。―コロサイ 1:18。ペテロ第一 5:4。
8 長老団の活動の一致調和を確保するには司会者はどうすることができますか。
8 年四回の集まりの時に,すべての長老は和合して共に働くべきです。それを容易にするためには,司会者が他の長老たちとの関係における自分の立場を認める必要があります。司会者は,他の人たちが「自分よりも上であると考えて」,彼らを「敬う点で率先しなさい」という聖書の規則に従わねばなりません。彼らの言うことに耳を傾け,また考えを述べるように頼まなければなりません。そして長老たちの意見を「限定」することがないように注意が必要です。もし司会者がいつも真先に自分の意見を主張するならこの危険があるかもしれません。ほかの長老たちは彼の言うことに耳を傾けますが,自分の違う意見を出すのをためらうかもしれません。それで種々の問題を考慮するときには,司会者は先に他の長老たちの考えを聞くのもよいでしょう。しかし同時に,司会者のことばはその問題に関する最後的なことばで,それ以上つけ加えて言う必要はない,という印象を与えてはなりません。それで自分の意見を最後に述べないようにするのがよいかもしれません。司会者はまた集会の度に同じ長老を最初に呼ぶということがないよう気をつけなければなりません。もしその人が個性が強くて他の人々の意見を方向づけたがる傾向があればなおのことです。どの長老も同等の機会を与えられなければなりません。すべての長老が同等で,自分の責任は秩序を保つことだけである,ということを司会者が忘れないようにするなら,集まりは円滑に進みその目的を成し遂げるはずです。またもし集まりを堅苦しくないものにするなら,司会者の重要性は最小限に保たれるでしょう。
集まりのための準備は大切
9 (イ)長老の集まりを開くときに準備が大切なのはなぜですか。(ロ)だれが準備をしますか。(ハ)どうすれば集まりの秩序を保つことができますか。
9 長老たちの集まりは重要なものですから,司会者は前もって適当な準備をすべきです。これは彼が真剣に主宰の任に当たっている証拠になります。『勤めはたらく者の図るところはついにその身を豊裕ならしむ』。(箴 21:5)できるときには,討議の対象となる問題を他の長老たちに前もって知らせ,彼らがそれについて十分に考慮し,討議の際に寄与できるようにしておきます。もし司会者がそれを集まりの始まる時まで知らせないでいるなら,他の長老たちは,意見を提出するちゃんとした用意がないかもしれません。もちろん,他の長老たちも他の問題を集まりで持ち出すことができます。そしてできるなら,それを前もって司会者に知らせ,司会者がそれを集会の協議事項に含めることができるようにすべきです。討議が「泥沼にはまり込む」のも,またとりとめのないものになるのも望ましくないので,司会者は一つの問題が片付いてから他の問題の討議に移るように注意しなければなりません。そうすれば集まりの秩序を保つことができます。しかしそれは,自発的に意見を述べる気になれないほど形式ばった集まりでなければならない,ということではありません。司会者はまた次のこともおぼえていなければなりません。つまりある人は自分の考えをりゅうちょうに話せないかもしれないということです。それで忍耐を働かせ,その人たちに意見を述べる時間を与えなければなりません。
10,11 (イ)どうすれば集まりが長くなりすぎないように,また集まりを開く回数が多くなりすぎたりしないようにすることができますか。(ロ)すべての長老はお互いに対する行動においてどんなことを念頭においているべきですか。
10 もし司会者が,討議し決定すべき事項を明確に決めて準備しているなら,そして集会を正しく司会するなら,集まりの時間が長引くのを防ぐことができ,また集まりを開く回数も最小限にとどめられ,提案されている年四回の集まりで十分でしょう。これはあらかじめ十分に計画することの重要性を示しています。多くのことが,司会者が集まりをどう運営するかに依存しています。ですから司会者は目ざとくなければなりません。しかし,すべてが司会者にかかっているわけではありません。―コリント第一 14:40。
11 時間は貴重です。それで時間を浪費しないために,すべての長老はできるだけ簡潔に要点を突いた意見を述べるようにします。生まれつきよく話す人は,みんなの益のためにその傾向を抑制すべきです。ソロモン王は箴言 10章19節で適切な助言を与えています。「言おおければ罪なきことあたわずそのくちびるを禁むる[抑制する]ものは知恵あり」。ある人は他の人よりもよく話す能力(俗に「口達者」と呼ばれるもの)を持っています。それでそのような人は,たくさん話すこと,つまりその雄弁さによって違う意見を「くじく」傾向に注意すべきです。(ローマ 16:18と比較してください)自分の意見を他の人たちに採用させることができなくても,それは災いに終わるわけではありません。むしろ,柔和で静やかな霊は真の知恵のある証拠です。(伝道 9:17。ヤコブ 3:13-17)自分の「得意の案」が採用されないというだけの理由でそれに不満を抱くような危険に長老たちは警戒しなければなりません。パウロは次のように助言しています。「わたしは,どの場所でも男が祈りをなし,忠節な手を挙げ,憤りや議論[「分裂した評価」― 行間逐語訳。「口論になりやすい考え」― 新英語聖書]から離れているように望みます」― テモテ第一 2:8; 6:4。
12 長老たちは知恵を用いて,個人の良心につき何を認めなければなりませんか。
12 会衆の福祉について話し合う長老たちの集まりが開かれるときには,長老たちは彼らの心と思いが,エホバのご意志と調和した結論に達するように,また上からの知恵が豊かに働くようにエホバに請願します。その知恵は貞潔であり,平和を求め,道理にかなっており,すすんで従い,あわれみに満ち,偽善的でない,とヤコブは述べています。(ヤコブ 3:17)長老たちが,このことおよびイエスが彼らの真ん中におられる(マタイ 18:20)ことを常に銘記しているなら,彼らの討議はエホバの祝福を得るでしょう。人の生活には,個人の良心にまかされている分野があることを聖書が示しており,長老たちはそのことを認識しています。もし聖書も,「忠実で思慮深い奴隷」の出版物も明確な線を示していないなら,自分個人の好みを,従わねばならない規則でもあるかのように他の人たちに行なわせないはずです。自分の意見を重視しすぎると,聖書が許す範囲を超えて自分自身の考えや業績を話すようになる恐れがあります。―コリント第二 10:12,18。
統治体
13 聖書を導きとして用いることは,どんな重要な目的を果たしますか。
13 一世紀のクリスチャンの統治体は,不必要な重荷,つまり規則を会衆に課さないように注意しました。この模範に従うのは良いことです。聖書は長老たちの導きでなければなりません。そうであれば助言や決定はいつも聖書的根拠のあるものとなります。これには,正しい教えが与えられるうえに,一致した教えが与えられる利点があります。一人の長老は一つのことを言い,別の長老は正反対の別のことを言って混乱を招くというようなことはありません。長老たちの間には一致がなければなりません。奉仕を効果的なものにするためには,長老たちの意見は一致していなければなりません。といってもこれは,すべての長老が集まりですべての点に関し意見を述べなければならない,ということではありません。ソロモンは,もだすに時がある,という賢明な助言を与えています。(伝道 3:7)もし何か建設的な意見をつけ加えることができれば結構なことです。もしできなければ,ただ聞いて学び,どうすれば自分自身が集まりによりよく貢献できるか,その方法を考えるとよいでしょう。
14 (イ)長老たちは理解力を働かせどんなことを避けるべきですか。(ロ)兄弟または姉妹の長所や短所を一緒に話し合うのが正しいのはどんな時だけですか。
14 すべての長老は,会衆内の他の兄弟姉妹たちとの関係における自分の立場を認識すべきです。長老たちは霊的ボスでも霊的警察官でもありません。会衆の他の成員の生活に立ち入ってせんさくしたり,すべての兄弟姉妹の個人的な問題に関係する必要はありません。兄弟姉妹はエホバ神に献身しており,たいていの場合,忠実を保って自分の救いを達成することができます。長老たちは助けを求められたときには力を貸します。しかし,しかるべき限度を越えてはなりません。(フィリピ 2:12,13)他の兄弟姉妹たちにも権利や特権があります。ですから長老たちは,彼らの自由な道徳行為を尊重しなければなりません。長老たちの集まりで,すべての伝道者のあらゆる長所,あらゆる短所をあげつらうのは,長老たちの仕事ではありません。それを行なうのが適当な時は,長老,または奉仕のしもべとして奉仕する兄弟たちの資格を検討する時か,あるいは会衆内のある人に関係して重大な問題が起き,その人のことを綿密に調べる必要のある時だけでしょう。
15 長老の集まりで討議されたことが公表されないのはなぜですか。
15 長老の集まりは秘密集会ではありません。しかし,集まりで討議された内密的な性格の事柄をすべての人に,あるいは何も関係のない人に告げる必要はありません。個人的に関係のない事柄を話して心に重荷を負わせたり,心をかき乱させたりする必要がどこにあるでしょうか。長老たちには打ち明けられても公にすべきでない内密の事柄もあります。他の人々,とくに長老の妻や,長老の家族の他の人たちは,そうした問題について長老に根掘り葉掘り聞かないようにして助けることができます。討議された,内密的な性質のない問題,特に王国のわざの進歩に関する事柄については,長老たちは会衆に熱意を込めて話すでしょう。
16 長老たちは,個々の人にいつも助言や叱責を与える代わりに,自分の時間をどのように会衆の益のために活用できますか。
16 長老たちは,いつも他の人たちに直接助言を与えたり,叱責したりしていなければならない,と考えるべきではありません。人々が自分なりによくやっている時には特にそうです。しかし,長老たちの親しみやすさや親切,励まし,賞賛,会衆内のすべての人々との交わりなどは大きな益があります。これを行なう特にすぐれた方法は,新しく関心を持つようになった人たちや霊的に弱いと考えられている人たちばかりでなく,全時間奉仕に従事している人々をも含め,群れの中のすべての「羊」を,「伝道者」を親しく訪問することです。その人たちも世話を必要としており,それを怠るなら,おりからさまよい出るかもしれません。ですから長老たちは聖書に述べられている通りの羊飼いとしての責任を引き受けそれを果たす必要を認めねばなりません。
17 (イ)他の人々を扱うにはどんな特質が求められますか。(ロ)コリント第二 12章15節と,テサロニケ第一 2章8節に示されているように,長老たちはどのようにパウロに見倣うことができますか。
17 長老たちは,弟子を作ることにより『良いたよりを通して父親』になります。したがって,「父」とは呼ばれませんが家族の頭と同じしんぼう強さや忍耐強さ,そして思いやりがなければなりません。家族の父親は自分の庇護のもとにある者たちに愛情を示します。彼らを憤慨させるようなことをしないで築き上げます。(コリント第一 4:15。マタイ 23:9)コリント第二 12章15節,テサロニケ第一 2章8節に示されているように,パウロはこの点できわだっていました。ですから長老たちは,「不便をかけられる」,つまり都合の悪い思いをさせられる,あるいは迷惑をかけられることをいといません。彼らは羊飼いですから,そうしたことを彼らの使命の一部と認めています。―ヨハネ 21:15-17。ペテロ第一 5:2,3。
18 長老は自分たちの現在の奉仕で満足すべきですか。彼らにはどんな励みがありますか。
18 長老の立場を得たなら,あとはもう進歩向上する必要はないでしょうか。わたしたちは「健全な思いをいだけるよう」,自分のことを必要以上に高く考えてはいけない,と助言されています。(ローマ 12:3)それですべての長老はその極めて重要な特質,すなわち謙そんさを備えた教える能力を引き続き向上させねばなりません。自分は能率的で効果的であると長老は考えているでしょうか。ではさらに効果的に教えることができるように努力すべきです。また謙そんさを示す点でも常に進歩を図ります。長老たち(および長老の職を志す奉仕のしもべたち)は進歩することにより,エホバのご要求に一致して兄弟たちの利益のために奉仕する能力をみがくのです。彼らはまた,現在エホバの組織と交わっている人々,また入りつつある人々にとってより大きな祝福となります。神の羊の群れの監督として惜しみなく奉仕している人すべてに,わたしたちは言います。「あなたがたの労が主にあってむだでないことを知っているのですから,堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい」― コリント第一 15:58。
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