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神の民を導く,賢く,思慮深く,経験のある人々ものみの塔 1979 | 3月1日
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神の民を導く,賢く,思慮深く,経験のある人々
「そしてわたしはわたしの心と調和した羊飼いたちをあなたがたに与え,彼らは知識と洞察力をもって確かにあなたがたを養うであろう」― エレミヤ 3:15,新。
1 どんなことからモーセは申命記 1章12,13節に述べられている措置を取りましたか。
イスラエルはモアブの野にいて,これからヨルダンを渡り,カナンの地に入ろうとしていました。モーセは彼らの益を考えて,シナイの荒野における40年間に,神が彼らに対して行なわれたことを語り聞かせます。その期間の初めごろは,民の間に間違った態度が広く見られたため,特にモーセにとっては波乱の多い時期でした。かつてモーセは,争い合う一民族という重荷を,ひとりではもうこれ以上背負いきれないと感じてエテロの助言に従い,「あなたがたの部族の中から,賢く,思慮深く,経験のある人々を取りなさい。わたしがその人々を頭としてあなた方の上に立てるためです」と民に言いましたが,そのことを彼はいま民に思い起こさせます。―申命 1:3,12,13,新。出エジプト 18:17-26。
2 問題を扱う際にそういう人々を用いることは,根本的に新しいことでも,異なることでもなかったのはどうしてですか。
2 そういう人々を選んだ点で,モーセは共同体支配の最も古い方式と思われるものに従っていました。長老団もしくは長老会議は,人間の歴史のごく初期から,古代の人々の間でその役目を果たしてきました。イスラエル人自身の経験について言えば,彼らはヤコブの子孫でしたから,早くからエジプトやモアブ,ミデアンの長老団と接触がありました。(創世 50:7。民数 22:4,7)アラビア人の首長たちもやはり部族の長老たちでした。シークというアラビア語は「長老」もしくは「年長者」を意味するにすぎません。(創世 36:15)モーセが民を導く任務を受ける前から,イスラエルにはすでにそのような長老たちがいました。ですからモーセが,神から任命を受けた証拠を示すように指示されたのは,その長老たちに対してでした。(出エジプト 3:16,18)したがって,モーセがその後シナイ山でとった措置,すなわち問題の処理を分担してもらうために長老たちの助けを求めたことは,大刷新というほどのものではなかったのです。
3 (イ)大いなるモーセは,会衆を導くためにどんな備えをされましたか。(ロ)モーセが選んだ長老たちの資格と,クリスチャンの長老として仕える人々の資格とは,どのように似ていますか。
3 神の定めの時に至って,霊的な民としてのクリスチャン会衆が形成されました。この民は全世界に散らばっています。大いなるモーセとしての神のみ子は,会衆の長老団を通してその指導がなされるようにされました。モーセがイスラエル人の長老たちを任命して責任の重い仕事にあたらせるに際して求めた資格に注目し,それとクリスチャンの長老たちに求められる資格とを比較してみると興味深いものがあります。別表の通り,両者が類似していることは明白です。
4 イスラエルの長老団は約束の地でどんな役割を果たしましたか。そしてクリスチャンの長老たちはどんな役割を果たしますか。
4 イスラエルが約束の地に落ち着き,町々,村々に住んでいたとき,すべての地域社会は長老団によって導かれ援助されていました。(ヨシュア 20:4。士師 8:14,16。サムエル前 16:4)長老たちは,賢明な助言を与え,問題の解決を助け,背教から守り,そうすることによって自分たち各自の地域社会の平和と秩序と霊的健康に寄与すべきでした。時には,紛争を解決するとか,地域社会を保護するための処置を取るといった,裁判官の役目を果たすことも求められました。(申命 16:18-20; 19:12; 31:9。ルツ 4:1-11)危機にあっては長老たちは慰めと力の源であるべきでした。(イザヤ 32:1,2)しかし,仲間の住民のきびしい主人のような者ではなく,また彼らに代わってその私生活に関係した事柄を行なう権限も責任もありませんでした。重い責任を負う点で,クリスチャン会衆の長老たちも同じように奉仕します。(使徒 20:28-35; コリント第一 3:4,5,21-23; コリント第二 1:24と比較してください)こうした事柄すべてに加えて,クリスチャン会衆には王国の良いたよりをすべての人に知らせるという使命があります。
今日,資格ある人々を見いだす
5 今日,長老たちを賢明に選ぶ点で何が役立ちますか。
5 長老制に関する過去の歴史を常に念頭に置いているなら,今日長老を選ぶ際に良い判断を下す助けになります。わたしたちは一つの会衆をイスラエルの小さな村と考えることができるかもしれません。そして次のような質問をしてみるとよいでしょう。もし村だとしたら,村の長老としてよく奉仕し,賢明かつ健全な助言を与えることができ,思慮深く,よく平衡が取れていて判断力も優れていることを示している人は,会衆内のだれだろうか。
6 一つの家族の例えも,長老として奉仕する人々の資格を吟味するうえで,どのように役立ちますか。
6 神のしもべたちの世界的会衆は,テモテ第一 3章15節で「神の家」(「神の家族」,エルサレム聖書)と言われています。ですから各会衆をも大きな家族と考えることができるでしょう。一つの家族の場合,もし家長がるすなら家族の者たちはしばしば年長の息子たちが,家族の頭によって守られてきたしきたりや教えを頭に代わって守り,それらを支持することを期待します。それでわたしたちは,信仰の「家」においては,家族の中の年長の兄弟のように,家族の者たちが健全な助言と思慮深い援助を求めて自然に心を向ける人たちはだれだろうか,と考えてみることができるでしょう。―テモテ第一 5:1,2と比較してください。
7 (イ)長老の資格があるとみなされる人はたいていどんな人ですか。(ロ)長老の特質を人に与えるのは任命ですか。任命は何を成し遂げますか。
7 実際,会衆の長老として奉仕するよう推薦される人はほとんどの場合,会衆の成員からすでに“年長の兄弟”とみなされている人であるはずです。それは,洞察力と平衡と判断力のあることを示している人としてすでに会衆の成員の尊敬と信頼を得ているという意味です。だれかを実際に長老に“ならせる”ことのできる人はいません。本人が,霊的に成長し,向上し,経験を積むことによってそういう人にならなければならないのです。(箴 1:2-5; 4:7-9。ヤコブ 3:1,13)そういう人が長老の資格で奉仕するよう選ばれるとき,その任命は実際に,その人がすでに示している,長老としての望ましい特質を認め正式に承認したことを表わすものです。古代イスラエルでも,他の国々におけると同様,土地の長老会議が,敬虔な知恵や,判断力,分別などの特質を備えているとみてある人に注目した場合,その人は同会議の一員として迎えられ,その討議や決議に参与する,というふうになっていたことは明らかです。―テモテ第一 5:22,25。
8 奉仕のしもべとしてある期間忠実に仕えることにより,何を得ることができますか。
8 「奉仕のしもべたち」については使徒は,「りっぱに奉仕する人は自分のためにりっぱな立場を得,キリスト・イエスに関する信仰にあって少しもはばかることなく語れるようになるのです」と書いています。(テモテ第一 3:12,13)しかし,これはある特定の割り当てを果たしていきさえすれば,会衆内で長老として奉仕する権利が“得られる”という意味だ,と考えるべきではありません。本当に得られるものは,『少しもはばかることなく語る』ことを可能にする,神に対する確信,および勤勉で忠実な奉仕に対する兄弟たちの敬意と感謝です。それ自体,忠実な奉仕に対する立派な報いです。
経験のある人
9 (イ)長老の資格を考えるにあたり,聖書は年齢という要素についてどんなことを示していますか。(ロ)この点で,若者に関しどんな事実を認めるべきですか。
9 聖書には,長老として奉仕する人々の年齢の制限は明示されていません。肉体的特質よりも霊的特質に重点が置かれていることは認めなければなりませんが,「長老」という語そのものは年齢を暗示します。もちろん年齢だけが決定的な要素ではありません。しかし,モーセも認めていたように,重要な責任を果たしていく人にとって,経験は確かに貴重な利点です。(申命 1:13)箴言 20章29節には,「若者の美はその力,老いた者の光輝はその白髪」とあります。若者は精力や意欲の盛んなところを示すかもしれませんが,それは知恵のある証拠とはなりません。しかしヨブが,「老人のうちには知恵があるのではないか。また,長い日々には理解力が」と言ったように,白髪によって象徴される老齢は,一般に,豊かな知恵を期待させる理由となります。(ヨブ 12:12,新。20節および32:6,7と比較してください)ある若い人は奉仕することをいとわないどころかそれを切に望んでいて,将来有望な人にみえるかもしれません。しかし,重大な問題を抱えている年長の人を助ける段になると,人生経験が浅いために非常に不利な立場に立つ可能性があります。その人の言葉は,いかに誠実であっても,もっと年を取った人の言葉と同じほどの重みがあるとは考えられないからです。
10 テモテが責任を担っていたことは,長老たちの間の年齢と経験の価値を低めますか。
10 使徒パウロが,「あなたの若さをだれにも見下げられることのないようにしなさい」と書いたとき,テモテは30代であったようです。(テモテ第一 4:12)ですから当時の人々の多くは,そのくらいの年齢でもまだ彼を“若者”とみなす傾向があったのです。また,テモテの進歩と彼に与えられていた責任が例外的なものであったことも注目に値します。彼は幼い時から聖書を知っており,使徒パウロが旅仲間として選ぶ前に,すでにすばらしい進歩を見せていました。(テモテ第二 1:5; 3:14,15。使徒 16:1-3)その後テモテは長い年月をパウロや他の人々と共に過ごしましたが,そのことによってテモテは,彼の年齢ではほとんどだれも得ることのない貴重な経験と知識を豊富に身につけることになりました。
11 長老である人たちは,より重い責任の荷を負うよう,どのように他の人たちを助けることができますか。
11 パウロは,自分が学んだことから他の長老たちも益を得るよう彼らを助けなさい,とテモテを励まし,次のように言います。「また,多くの証人の支持のもとにわたしから聞いた事柄,それを忠実な人びとにゆだねなさい。ついでそうした人びとは,じゅうぶんに資格を得て他の人びとを教えることができるようになるでしょう」。(テモテ第二 2:2)同じ方法で,長老たちは自分が得た経験や知識の益を会衆内の他の兄弟たちに与えることに努め,兄弟たちが霊的に進歩するよう助けることができます。それは単に会衆内のある事柄に関する仕事を教えるだけの問題ではなくて,判断力,洞察力,神の言葉の健全な原則を他の人々に伝達する能力などを向上させるよう助けることです。パウロが諸国民への使徒としての使命を遂行する間,また神の羊の群れの牧者として奉仕する間,テモテを同行させたように,長老たちも同様の方法で奉仕するとき,自分と一緒に来るように,会衆内の進歩しつつある人たちを誘うことができます。―箴 1:4,5; 13:20。
12 (イ)長老として奉仕する資格を考える際に,経験はどんな役割を演じますか。(ロ)テモテ第一 3章6節の助言は,なぜエフェソスでは特に適切でしたか。
12 年齢の場合と同じく,キリストの弟子としての経験の長さも,それ自体は長老であることの決定的要素ではなく,相対的な要素です。その重要性は少なくとも一部,一般の状況によって左右されるからです。パウロはテモテに,エフェソス会衆の長老を選ぶときには,「新しく転向した人」を選ばないように注意すべきであると書き送っています。そういう人は『誇りのために思い上がる』恐れがあるからです。(テモテ第一 3:6)エフェソスに真のキリスト教が確立されてからその時までに約10年が経過していましたから,新しい弟子の一人を,会衆の長老たちに混じって奉仕するよう選ぶことは特に不適当だったのでしょう。
13,14 (イ)当人の経験の度合いをどう見るか決める際に,状況が関係してくる可能性のあることを,どんな例が示していますか。(ロ)しかし,すべての場合に,どんな要素を第一に考慮すべきですか。
13 クレテにいたテトスに手紙を書いたときにはパウロは明らかに,警戒を促すこうした忠告を与えることを同様の急務とは感じていませんでした。ですから長老の選択に関して述べた意見の中にそのことを含めていません。クレテに真の崇拝が確立されてから,比較的に日が浅かったという事実が,この事にいくらか関係していたかもしれません。よく注意してみると,パウロの最初の伝道旅行のとき,彼とバルナバはルステラ,イコニオム,ピシデアのアンティオキアなどの町々で「良いたより」を宣明し,それから同じ旅行中にそれらの町に戻り,「彼らのために会衆に年長者たちを任命し」ました。(使徒 13:14,42-52; 14:1-7,20-23)その伝道旅行全体の期間は二年に満たなかったようですから,その人々の中に,キリストの弟子としての経験の浅い人が少なくとも幾人かいたことは明らかです。しかし彼らの中にはユダヤ人の信者もいましたから,全部ではないにしても,選ばれた人の多くが,クリスチャンになる前でさえ,聖書の知識の良い背景と,ヘブライ語聖書の原則を適用する経験とを有していたことは疑えません。もちろん彼らは,キリスト教がもたらした純粋の崇拝の発展の結果生ずる諸事実に応じて,自分の考え方を調整しなければならなかったでしょう。使徒パウロ自身も,転向したその時から,特別な方法で用いられる者としてキリスト・イエスに選ばれ,後ほど長老に求められる特質を示しました。(ガラテア 1:15–2:2。使徒 13:1-4)しかし彼の場合も,エホバ神を崇拝する献身したユダヤ人として聖書的背景がありましたから,いったんメシアを認め受け入れるように助けられてからは,可能な限りの急速な進歩を遂げました。―使徒 9:15-18,20,22,26-30。ガラテア 2:6,7。
14 ですからわたしたちは,固定した制限を確立することに骨おるよりも,知恵と健全な判断に従い,長老になれそうな人の真の崇拝における経験の状態を,よく吟味しなければなりません。何十年も真理にいる成員の多い会衆では,バプテスマを受けてから三年ほどしかたっていない人は,比較的に「新しく」思えるかもしれません。しかし,成員のほとんどがごく最近真理を受け入れた人たちである,新しくできたばかりの会衆では,その人の経験が他の人と比べて長いものに思えても当然でしょう。いずれにせよ,神の羊の群れを牧することが関係している重い責任を遂行しようというのであれば,その人は知恵と思慮と健全な判断力のあるところを示している必要があるという点を,常に見失わないことが,いつの場合でも重要です。
知恵と分別を示すことにおいて進歩する
15 長老たちは自分自身の特質や能力を向上させることについて,どんな精神を示すべきですか。
15 あなたの「進歩がすべての人に明らかになるように」霊的な事柄に心を打ち込みなさい,と使徒パウロがテモテに勧めたとき,テモテはすでに経験に富んだ長老でした。(テモテ第一 4:15,16)賢明な人はわがままにはなりません。また,自分にはもう教えられる余地も向上する余地もない,と考えるようなこともしません。弟子のヤコブは,「あなたがたの中で知恵と理解力のある人はだれですか」と書き,さらに,「その人は知恵に伴う柔和さ[慎み,新英訳聖書]をもって,自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい」とつけ加えています。そのような精神は,不一致,ねたみ,争いなどの精神をすべて除き去り,長老団内部に調和を作り出すでしょう。―ヤコブ 3:13-18。
16 (イ)どんな意味で長老たちは同じですか。(ロ)どうすれは彼らの進歩は明らかになり,神の羊の群れすべてに大きな益を与えることになりますか。
16 長老たちは,羊の群れのために奉仕し働く責任と権限を有する点では“同じ”ですが,他の点では必ずしも同じではありません。ある人は人生経験も真理における経験もはるかに深く,また長年にわたる真剣な研究や努力の結果として知恵にたけています。めいめい弱いところもありますが,それと共に強いところも持っています。もしわたしたちが他の人たちの強いところを高く評価しそれから益を受けるなら,わたしたちも『自分の進歩がすべての人に明らかになるようにする』ことができます。(ローマ 12:3-10,16)知識と洞察力を持つ,謙そんでまじめな,神を恐れるそのような牧者たちの与える助けによって預言の真実性は証明され,今日の神の羊の群れは非常に『多くなってその土地で確かに実を結び』,神のとこしえの誉れとなることでしょう。―エレミヤ 3:15,16,新。
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会衆内で教える者としての資格を身につけるものみの塔 1979 | 3月1日
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会衆内で教える者としての資格を身につける
「あなたがたの中で知恵と理解力のある人はだれですか。その人は,知恵に伴う柔和さをもって自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい」― ヤコブ 3:13。
1 クリスチャン会衆内で教えるものとして仕える人々がその資格を備えていることは,どうして大切ですか。
教える者の影響は,有益であるか,有害であるかのどちらかです。崇拝の問題においては特にそうです。イエス・キリストはパリサイ人を指して,「彼らは盲目の案内人なのです。それで,盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込むのです」と言われました。(マタイ 15:14)パリサイ人の非聖書的な教えに盲目的に従った人々は,霊的破滅と死に向かって進みましたが,神の子の健全な教えに注意を払った人々は,命への道を歩みました。(マタイ 7:13-20,24-27)命が関係しているという事実がある以上,クリスチャン会衆内で教える者として奉仕する人々は是非ともその資格のある人々でなければなりません。
2 使徒パウロはなぜ,「すべての人の血について潔白である」と言えましたか。
2 使徒パウロがエフェソス会衆の長老たちに自分について言ったことからわかるように,クリスチャンの教える者は,自分の責任の扱い方いかんによって,流血の罪を負うことにもなれば,流血の罪を免れることにもなります。使徒は言いました。「きょうこの日に,わたしがすべての人の血について潔白であることに関して,あなたがたに証人となってもらいます」。(使徒 20:26,27)エフェソス会衆のどの長老がいつ不忠実になって聖書を曲げ始め,自らの霊的破滅に向かおうとも,また仲間の信者に害を及ぼそうとも,それをパウロの責任にすることはできませんでした。(使徒 20:29,30と比較してください)流血の罪は彼ら自身が負うことになったでしょう。使徒は「神のみ旨をことごとく」伝えるべく全力を尽くしたからです。救いに必要なことは何一つ控えることなく伝えました。耳をくすぐるとか,間違った態度や言葉や行動を強力に暴露する話題を避けるなどして人気を得るようなことは,彼の望むところではありませんでした。―テモテ第二 4:3,4と比較してください。
3 パウロの模範を見て,わたしたちは会衆内で人々を教える資格を持つ人にどんなことを期待しますか。
3 クリスチャン会衆内で人々を教える資格のある人は,その教えに重大な欠陥のないよう,パウロの模範に従って,救いに必要な事柄をすべて知りまた理解していなければなりません。また会衆の示す態度のいかんにかかわらず,「神のみ旨をことごとく」伝える意志がなければなりません。会衆が,神の言葉の中にある戒めや懲らしめによく反応する時もあるでしょう。しかし,多くの人が自分たちの間違った態度ややり方を本当に変えたいと思わない時もあるかもしれません。それでもクリスチャンの教え手は,霊的助けを与えるに際し,あくまでも神の言葉に忠実でなければなりません。一部の人が間違った方向へ傾いていても,短気を起こすことなく,真理を明確に語りつづけなければなりません。この点については,使徒パウロがテモテに書き送った次の言葉を考えてみましょう。「みことばを宣べ伝え,順調な時期にも難しい時期にもひたすらそれに携わり,辛抱強さと教えの術とをつくして戒め,けん責し,説き勧めなさい」― テモテ第二 4:2。
4 ヤコブ 3章1節の助言はだれを対象にしたものですか。
4 正しい教理は人の救いと関係がありますから,教えることは資格のある人々にのみ任されるべき責任です。キリストの弟子ヤコブは,「あなたがたの多くが教える者となるべきではありません」と書いています。(ヤコブ 3:1)霊感によるこの訓戒は,資格のある人に教え手となることを思いとどまらせる目的で与えられたのではありません。なぜなら聖書は,「監督の職をとらえようと努めている人がいるなら,その人はりっぱな仕事を望んでいるのです」とも述べているからです。(テモテ第一 3:1)ヤコブのこの言葉の対象となっていたのは,教えるよう任命を受けてもいないのに,つまり資格がないのに仲間の信者の教師であると自負していた人々です。それら資格のない人々は,資格のことなど考えずに,教師という言葉から連想する名声や権威を望んでいたのです。彼らは使徒パウロが,「律法の教師でありたいと願いながら,自分の言っていることも,自分が強く言い張っていることについても,その意味を悟らない者」と評したような人々であったにちがいありません。―テモテ第一 1:7。
「より重い裁き」
5 教える者たちはどのように「より重い裁き」を受けますか。
5 「神のことばをことごとく」十分に悟ることも理解することもしていなかったので,自称教師たちは,教える者の立場がいかに重大なものであるかを,心に銘記させられる必要がありました。ヤコブは,自分をも含めて教え手たちが「より重い裁きを受ける」者であることを指摘しました。(ヤコブ 3:1)教える者は,他の人々を教え導く者として前に立ちますから,会衆の他の成員よりも多くのことを期待されます。このことは聖書の次の原則と一致しています。「多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます」。(ルカ 12:48)したがって教える者の言動は,他のクリスチャンたちのそれよりもつぶさに観察されます。そればかりでなく,もし間違ったことを教え,そのために会衆の成員が問題を抱え込む結果になったなら,あるいは当然人を怒らせるような行動をするなら,主イエス・キリストを通してエホバ神から厳しい裁きを受けることになるでしょう。神のみ子は言われました。「人が語るすべての無益なことば,それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。あなたは自分のことばによって義と宣せられ,また自分のことばによって有罪とされるのです」― マタイ 12:36,37。
6 ヤコブ 3章2節によると,教えることには本来どんな危険がひそんでいますか。
6 弟子ヤコブは論議をつづけます。「わたしたちはみな何度もつまずくのです。ことばの点でつまずかない人がいれば,それは完全な人で(す)」。(ヤコブ 3:2)模範的な教え手でさえ誤りやすいのですから,資格のない人たちの場合その危険はずっと大きいわけです。だれにせよ教え手が多くの誤りを犯せば会衆に及ぶ害はそれだけ大きく,当人に対する裁きはそれだけ重くなります。
「知恵と理解力のある人はだれ」?
7 ヤコブ 3章13節の問いかけは,人が教える者としての資格を持つことに関してどんなことを示すものですか。
7 人を教えることに本来ひそんでいる危険を考えるなら,教える資格をほんとうに備えているのはだれだろうか,という問いを発するのは良いことです。弟子ヤコブも,「あなたがたの中で知恵と理解力のある人はだれですか」と,同じ問いかけをしています。(ヤコブ 3:13)ヤコブが単に,“よく話す能力のある人はだれですか”と言ったのでないことは,注目に値します。良い教え手であるためには,自分の考えをうまく表現する能力以上のものが必要です。知恵と理解力は不可欠です。賢い人はエホバ神に対して正しい恐れを抱いており,良い結果をもたらすような方法で知識を適用することを知っています。(箴 9:10)理解力のある人は問題を見抜くことができ,その意味をくみ取ることができ,そして事情もしくは状況のいろいろな面の関係を察知することができます。また検討中の事柄の重大性を十分には握します。このことはその人が確かに,『正しいことも悪いことも見分けられるよう,使うことによって知覚力を訓練した』円熟したクリスチャンであることを意味します。―ヘブライ 5:14。
8 仲間の信者を教えるのに必要な知恵と理解力があるかどうかは,どんなことからわかりますか。
8 では,仲間の信者を教えるのに必要な知恵と理解力をある人が持っている場合,それはどのように現われますか。その人の生活は,エホバ神に対する深い,崇敬の念に満ちた恐れと結びついている知恵と理解力を,確かに実証しているはずです。弟子ヤコブはつづけてこう述べます。「その人は,知恵に伴う柔和さをもって,自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい」。(ヤコブ 3:13)したがってほかの人々は,その人が神の特性や道や行動に一致した振る舞いをするのを見ることができるはずです。
9 「知恵に伴う柔和さ」はどのように現われますか。教える者として奉仕するなら,どうしてこれは重要ですか。
9 その正しい振る舞いには,「知恵に伴う柔和さ」が含まれます。教える者としての資格を得るには,優しく,落ち着いた,温和な人であるべきで,厳しく,騒々しい,自分の意見を曲げない,あるいは尊大な人であってはなりません。また,裏付けとなる確実な論拠や証拠がないのに強引に主張する人であってもなりません。柔和さに欠ける人は,パウロがテモテに与えた次の助言に従って行動するのは非常にむずかしいでしょう。「主の奴隷は争う必要はありません。むしろ,すべての人に対して穏やかで,教える資格を備え,苦境のもとでも自分を制し,好意的でない人たちを柔和な態度で諭すことが必要です」― テモテ第二 2:24,25。
資格がないことを示す特性
10 (イ)「苦々しいねたみ」を抱くことにはどんなことも含まれますか。(ロ)闘争心とは何ですか。
10 次に弟子ヤコブは,会衆内で人々を教える者としての資格があると自ら考えていた人々を主な対象にして,資格のないことを示す特性を指摘して次のように言います。「しかし,あなたがたの心の中に苦々しいねたみや闘争心をいだいているなら,真理に逆らって自慢したり偽ったりしてはなりません」。(ヤコブ 3:14)これは自己吟味を求める言葉です。それで『自分は苦々しいねたみをいだくだろうか。闘争的なところがあるだろうか』と,自問してみるのはよいことです。苦々しいねたみには,自分自身と自分の意見を極端に美化しようとする欲望を抱くことも含まれます。その欲望は,自分の意見とは異なる意見を大声で非難する一方,自分自身の意見には熱狂的でがんこなほどの熱意を示す態度,あるいは他の人々も自分と同じように,または自分よりも優れた知恵と知識を持っていることを認めようとしない態度に現われます。闘争的であることについて言えば,これはけんかや争いを起こす精神を持っていることを指します。そういう人は,他の人々を混乱させて自分の目的を推進するために障害を起こすような手段を用いる傾向があるかもしれません。そういう闘争的な精神は,誇りと利己的な野望から出てくるものでしょう。
11 苦々しいねたみと闘争心を抱く自称教師は,「真理に逆らって自慢したり偽ったりして」いるのだとヤコブが示し得たのはなぜですか。
11 教える者としての資格が自分にあることに注意を引くことによって,苦々しいねたみや闘争心を示す人は,確かに自慢している,あるいは誇っていることになります。その人が教えていると主張するキリスト教の真理は,その人が示す悪い特性を非としています。したがって,不一致を引き起こす競争心を持ちながら,クリスチャンの教え手としての資格があると考える人は,聖書に示されている真理を誤り伝える者,すなわち真理に逆らって偽る者です。そればかりではありません。その人にはそういう望ましくない特性があるので,教える者としての資格があると自慢する根拠はありません。そのように言うことは偽りを言うことです。その人の心が利己的で争いを好むという事実は,その人にクリスチャンの教え手としての資格がないことを物語るものです。
12 苦々しいねたみと闘争心を抱く人は,どんな知恵を持つ人ですか。
12 そういう利己的で闘争心を抱く人が持っていると主張する知恵は,天からの知恵ではありません。弟子ヤコブは,「それは上から下る知恵ではなく,地的,動物的,悪霊的なものです」と書いています。(ヤコブ 3:15)神の知恵は,苦々しいねたみや闘争心に反対の立場を取ります。―箴 6:16-19。
13-15 この種の知恵はどうして(イ)「地的」(ロ)「動物的」(ハ)「悪霊的」なものであると言えますか。
13 そのような自称教師のいわゆる知恵は,神から離れているこの世的な人間の特徴です。その人は,自分の時間とエネルギーを,ほしいままに快楽にふけることや,変転極まりないこの不安定な事物の体制の中での名声や財産を求めることに費やす,霊性を持たない人のようです。(フィリピ 3:19。コロサイ 3:2)教え手になりたいというその人の動機は間違っています。高慢であるために,自分がその立場と結びつけて考える尊敬や名誉を得たいと思うのです。
14 高慢で争いを好む人の知恵はまた動物的,もしくは魂的です。すなわちそれは,人が知覚力を持つ被造物つまり魂であることから自然に生ずるものです。聖書によると,人と動物はどちらも魂です。(創世 2:7。民数 31:28。啓示 16:3)知覚力のある被造物(魂)としての人間は,道徳的,知的能力を与えられていますが,感覚を持つ被造物としての動物には理性がありません。(ペテロ第二 2:12。ユダ 10)したがってこの知恵は,「動物的」もしくは『魂的』と呼ばれていて,霊的でない知恵,肉的な感覚や欲求,性向から出て来るものとして示されています。
15 またヤコブがその知恵を悪霊的な知恵と呼んでいるのも正しいことです。悪霊は神の知恵とは反対の性向を示すからです。悪霊にとりつかれていた人々の,手に負えないひどい状態からもわかる通り,悪霊たちはか酷で意地が悪く,柔和ではありません。(マルコ 5:2-5)悪霊たちの支配者である悪魔サタンはどうかというと,利己的な誇りと野心が彼の堕落の原因となったことを聖書は示しています。―テモテ第一 3:6。
天からの知恵と結びついている望ましい特質
16 天からの知恵にはどんな特徴がありますか。
16 仲間の信者の教え手としての資格を身につけるには,地的,魂的,悪霊的知恵と結びついている特性のない者にならなければなりません。その生活は,天からの知恵に支配されていることを示すものでなければなりません。弟子ヤコブはこの知恵を次のように説明しています。「上からの知恵はまず第一に貞潔であり,ついで,平和を求め,道理にかない,すすんで従い,あわれみと良い実とに満ち,不公平な差別をせず,偽善的でありません」。(ヤコブ 3:17)ではこの意味を考えてみましょう。
17 「貞潔」で「平和を求める」とはどういう意味ですか。
17 教える者として奉仕する資格のある人々は「貞潔」で,思いと心が清い,つまり汚されていないと言われています。また「平和を求める」とありますから,彼らは平和を促進する人々です。攻撃的になったり,好戦的になったりしないようにするばかりでなく,自分と他の人々との,また人々同士の関係を良いものにするように,特別に努力を払います。(ローマ 14:19。テモテ第一 3:3)平和を乱すような事柄には一切携わらず,そうした事柄を容認することもしません。―箴 16:28; 17:9と比較してください。
18 人は(イ)『道理をわきまえていること』,(ロ)『すすんで従うこと』,(ハ)「あわれみと良い実とに満ち」ていることを,どのように示しますか。
18 『道理をわきまえた』人は,人に譲ることをよくし,節度があり,よく忍び,熱心であっても熱狂的ではありません。また自分のやり方や法律の条文を固執せず,慈悲心を持って問題を見,十分に考慮します。(ペテロ第一 2:18と比較してください)天からの知恵を持つ人はがんこでなく,「進んで従い」ます。そして協力の精神があり,正しい要求には進んで応じます。また,一つの意見を主張しだしたら,正しかろうとなかろうと譲らないというような態度を取らずに,聖書の言うところに従います。自分がまちがった立場を取った,あるいは誤った結論を引き出した明確な証拠があるなら,すぐに改めます。天からの知恵を持つ人はまた,「あわれみと良い実とに満ち」ています。他の人に接する際に同情心をもってします。苦しみ悩む人をあわれみ,その人を助けるために自分にできることを進んで行ないます。「良い実」には,善良さと義と真実さとに調和した行動すべてが含まれます。―エフェソス 5:9。
19 『不公平な差別をしない』とはどういうことですか。
19 天からの知恵に導かれている人は「不公平な差別」をしません。外見,地位,富,この世における身分,会衆内での影響力などによって,人を差別して扱うというようなことをしません。(ヤコブ 2:1-4と比較してください)仲間に接するにあたって公平であることに努めます。
20 (イ)偽善者とはどんな人ですか。(ロ)天からの知恵を持つ人は,偽善的でないことをどのように示しますか。
20 天からの知恵は人を偽善者にしません。偽善者はうわべを飾ります。天からの知恵を示す人は,いわば仮面をつけていません。すべての関係において高潔で,信頼が置けます。―エフェソス 4:25。
21 会衆内で教える者として奉仕するための必要条件について聖書が述べていることを,わたしたちはどのように自分に当てはめてみることができますか。
21 クリスチャンの教え手に求められていることを知るとき,わたしたちはみな自分自身を注意深く調べてみるはずです。わたしたちは天からの知恵に従って生きることを望んでいる証拠を示しているでしょうか。会衆内で教える者の立場にはいないかもしれませんが,わたしたちはみなキリストの弟子として他の人々に真理を教える責任を担っています。ですからわたしたちの態度や言葉また行動は,キリストの弟子と公言する者にふさわしいものであることが大切です。(ローマ 2:21,22)わたしたちの心からの願いは,天の父のより良いしもべとなるよう努力をつづけ,父がわたしたちの上に注いでくださった祝福を喜ぶことです。―テモテ第一 4:15,16と比較してください。
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