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公正さと知恵とあわれみをもって裁くものみの塔 1977 | 6月15日
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公正さと知恵とあわれみをもって裁く
次の二つの記事を研究する前に,この記事に目を通されるようお勧めします。
裁くという事柄に関して,わたしたち人間はしばしば過ちを犯します。それは元来,人間の不完全さによるものです。今までに,間違った情報に基づいてあなたの動機が誤解され,非難されたことがありますか。あなたはあわれみが示されなかったと思いましたか。一方他の人々が関係している場合,すべての事実を公平に考慮しなかったため,時には自分の判断が偏っていたり,不注意にもあわれみに欠けていたりしたことはありませんか。この点に関して,わたしたちすべては自分がどれほど至らない者であるかを,正直に認めないわけにはゆきません。
公正さと知恵とあわれみの裁きがなされるためには,人間の定めたどんな規準よりも高い規準が守られねばなりません。そうした規準は神によって設けられています。わたしたちはその規準に関心を持つだけではなく,それを導きとしなければなりません。なぜですか。それはわたしたちが神の裁きのみ座の前に立たねばならない時に,「すべてのものの裁き主」であられるエホバ神がその規準をお用いになるからです。(ヘブライ 12:23。ローマ 14:10)ですから,わたしたちは神の正しいとされる事柄によって導かれるべきではありませんか。それは従うべき賢明で愛のある道です。わたしたちがどんな行動や決定をするとしても,物事を裁く際の神の見方を反映する時にのみ,永続する益がもたらされます。
神の義の規準による一貫した裁きを今日どこに見いだせますか。確かに,公職についている人や一般の人の中にも,今なお公平な裁きを行なう能力のある人がいます。とはいえ,今日神のみ言葉と物事に通じている人々は,この世は概して義の規準によって治められていないことを悟っています。この世は邪悪な者の権力下にあり,その者によって誤導されています。(ヨハネ第一 5:19。啓示 12:9)この世の一部となっているものに,汚れた女として聖書に述べられている,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンがあります。(啓示 17:3-5; 18:2-4)そこから出て来た神の民は,信仰と道徳の問題に関して,もはや彼女のゆがめられた裁きの犠牲になっていないことを感謝しています。彼らはエホバ神が真のクリスチャン会衆のうちに回復された取り決めに信頼を置いています。そこでは任命された忠実な長老たちが,イザヤ書 1章26節(口)で次のように予告されたとおり,司法上の任務を遂行します。「こうして,あなたのさばき人をもとのとおりに,あなたの[助言者,新]を初めのとおりに回復する。その後あなたは正義の都,忠信の町ととなえられる」。
古代の神の民の歴史において,西暦前1513年にイスラエル人がエジプトを去って間もなく,大勢の裁き人が初めて任命されました。モーセは,真の神の律法に従って決定されねばならない問題のすべてを処理しようとし,疲れ果ててしまいそうでした。モーセのしゅうとであるエテロは,責任の一部を分担するならば荒野に導かれた群衆にさらに十分な注意が払われるであろうと助言しました。モーセを助けるために幾千人もの有能な人々が選ばれました。それらの人々は,生じた一般的なもめ事や問題を扱うことになりました。モーセは引き続き民に神の律法を教え,彼らの歩むべき道や行なうべき業を知らせる主要な責任を担うことになります。次のような非常に秩序のある取り決めを設けることが勧められました。「すべての民のうちから,有能な人で,神を恐れ,誠実で不義の利を憎む人を選び,それを民の上に立てて,千人の長,百人の長,五十人の長,十人の長としなさい。平素は彼らに民をさばかせ,大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ,小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし,あなたと共に彼らに,荷を負わせなさい。あなたが,もしこの事を行い,神もまたあなたに命じられるならば,あなたは耐えることができ,この民もまた,みな安んじてその所に帰ることができよう」― 出エジプト 18:13-23,口。
後日,イスラエル人がカナンの地に定住したのち,エホバは裁き人を起こし,律法の違犯にかかわる事件を聞くだけではなく,圧制者の手から民を救い出すようにされました。(士師 2:18)これらの裁き人は指導者として任命されると共に,民が神の律法を知り,それを適用できるよう援助しました。そうした人々の中には,ギデオン,バラク,サムソン,エフタ,サムエルなどがいますが,ヘブライ 11章32,33節の記録によれば,彼らはめざましい功績を残し,「義を成し遂げ」ました。古代イスラエルにおいて,町の長老として仕えた他の裁き人たちは,司法上の事件を扱っただけではなく,行政上の任務にもあずかりました。―歴代上 26:29。歴代下 19:4-7。
イスラエルの王たちでさえ律法の書を読み,エホバを恐れ,そのみ言葉を守ることを学ぶよう求められました。(申命 17:19,20)もし彼らが繁栄と神の恵みを受けることを望むなら,神のみ言葉に従って問題を裁くよう要求されました。―歴代下 1:9-12。
今日の裁き人としての長老
今日,神の民のあいだで問題を裁くために,どんな取り決めが設けられていますか。エホバは,裁き人あるいは助言者として仕える立場に長老たちを起用されました。これらの人々はテモテ第一 3章1節から7節と,テトス 1章5節から9節に述べられている神のご要求にかなっていなければなりません。長老たちの責任は司法上の問題を取り扱うことだけではありません。彼らはまた,神のご要求を教え,それを明らかにし,魂を込めて神への奉仕を行ない,神の義の原則に忠実に従うよう励まします。―コロサイ 3:23。テサロニケ第一 5:21。ペテロ第一 1:22。
わたしたちは自分の交わっている土地の会衆に見られるこうした取り決めに対してどんな見方をとりますか。わたしたちは不信者の前でお互いを告訴し合った西暦一世紀のコリント会衆の中のある人々のようになりたいとは思いません。使徒パウロは次のように述べて彼らを戒めました。「わたしは,あなたがたを恥じさせるために話しています。あなたがたの中に自分の兄弟たちの間を裁くことのできる賢い人がひとりもおらず,兄弟が兄弟とともに法廷へ,しかも不信者たちの前に行くというのはほんとうですか」。(コリント第一 6:5,6)クリスチャン会衆の内部で取り扱うことのできる問題を世の法廷に持ち出すことによって,そうした人々は霊的な敗北を喫していました。わたしたちはだれも,聖書的な手順に従って裁くための現代の取り決めに対する正しい見方を持たないために,恥をこうむったり,後悔したりすることを望みません。むしろ,これらの神権的な備えに対して心からの感謝の念を表わすべきです。『わたしたちに神のことばを語った』人々から与えられる助言や正しい裁きに注意を払うことによって,キリストに服従する「忠実で思慮深い奴隷」級と密接に働きたいという願いを表わします。―ヘブライ 13:7,17。エフェソス 5:24。マタイ 24:45-47。
今やエホバの裁きが明らかにされており,わたしたちは守るべき生活上の高い規準を認識するようになっています。今なお不完全ではあっても,会衆や個人の問題を正しく決定するよう助けられています。またエホバに一層近づき,神の義の新秩序を前もって味わうことができます。輝かしい時代を予期し,確信を抱いてエホバに次のように述べることができます。「あなたのさばきが地に行われるとき,世に住む者は正義を学ぶからである」― イザヤ 26:9,口。
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裁くためにはそれに適した特質が必要ものみの塔 1977 | 6月15日
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裁くためにはそれに適した特質が必要
「あなた方の兄弟たちの間で聴問を行なう時,あなた方は,人とその兄弟もしくは外人居留者との間を義をもって裁かねばならない」― 申命 1:16,新。
1 モーセが申命記 1章16,17節で述べている,裁く際に必要な事柄の中でどんなことが目立っていますか。
人々の命や相互の関係に影響する問題を裁くことは,責任の重い仕事です。クリスチャン会衆内では特に長老たちが,この責任をどのように果たしているか自分を吟味してみなければなりません。助言することや決定を下すことにおいては,意見を述べることと義をもって裁くこととは全く別の問題です。神の裁きの規準を守るには,長老たちはモーセが当時の裁き人たちに命じたことを心に銘記していなければなりません。「あなた方の兄弟たちの間で聴問を行なう時,あなた方は,人とその兄弟もしくは外人居留者との間を義をもって裁かねばならない。裁きにおいて不公平であってはならない。小なる者の述べることを,大なる者の述べることと同じように聞くべきである。あなた方は人のゆえに恐れ驚いてはならない。裁きは神のものだからである」。(申命 1:16,17,新)物質の富,学歴,大きな業績などがあるために偉く見える人が関係している問題であろうと,それらの点では「貧しい」人が関係している問題であろうと,長老たちは公平でなければなりません。彼らの目標は,自分自身の目ではなく問題に対する神の見方に従って正しいことを行なう,ということでなければなりません。(箴 21:2,3)そうすれば裁きは本当に,神の言葉と地上の経路とを通して表明されるエホバの裁きとなります。
2 裁く際に知恵が不可決であるのはなぜですか。それはどんな結果を生みますか。
2 長老たちは,わずかのことを知っているだけでは,問題を正しく解決することができません。一つの問題について聴問を行なうときには,事の全容を知る必要があります。要点を取り出すには,また問題がどのように発展したか,なぜある事柄が行なわれたかを知るには,長老たちは当を得た,思慮深い質問を行なわねばなりません。また問題に関係している人々は,自分の知っていることを部分的に述べるのではなく,事実を残らず述べることによって長老たちに協力すべきです。そうすれば長老たちは神の律法を,起きている問題と,または取り上げられているとがと関係づけることができます。ソロモンは自分に課された責任を果たすための知恵を願い求めました。(列王上 3:9,12)長老たちも,自分たちが扱うよう求められている状況に関して神の言葉が述べていることを正しく適用するために,天からの知恵が必要です。これは結果として会衆内に義の実を生み出します。―ヤコブ 3:17,18。
3,4 (イ)長老たちはあわれみを示す点でどのようにエホバに見倣うべきですか。(ロ)悪行者以外のどんな人にも積極的にあわれみを示すべきですか。
3 長老たちが裁きを行なうに当たって働かせなければならない別の特質はあわれみです。(ヤコブ 2:13)彼らはエホバに見倣わねばなりません。詩篇作者はエホバについて次のように述べています。「父親が自分の子たちにあわれみを示すように,エホバはご自分を恐れる者たちにあわれみを示してくださった」。(詩 103:13,新)イスラエルが迷い出たとき,エホバの恵みを求める彼らの正しい心の態度に,エホバはどのようにこたえられたでしょうか。エホバはただ裁きを和らげるという,消極的な方法ではなく,違犯を覆うという積極的な方法で同情を示されました。エホバの憤りは,差し伸べられたあわれみの長さに比べれば短いものでした。(イザヤ 54:7,8)不利な境遇にあった人々について言えば,霊感を受けた記述者は,「エホバは外人居留者を守っておられる。父のない少年や,やもめを救済してくださる」と述べてエホバを賛美しています。―詩 146:9,新。
4 同様に長老たちは,悪行を悔い改めた人だけでなく,不利な境遇にある人々も心の安らぎを得るようにしなければなりません。わたしたちの中には,病気の人,身体に障害のある人,高齢の人,内気な人,窮乏している人たちがいます。(ヤコブ 1:27)それで長老たちは,悔い改めがはっきり見られるときに審理上の事柄を控え目にすることによってあわれみを示すだけでなく,罪に陥ったためであろうと,霊的な弱さや身体の不自由なことが原因であろうと,ともかく困っている人すべてに対して親切な思いやりと同情を示すことによってもあわれみを示さねばなりません。
裁きにおいて敬虔な特質を示す
5 (イ)当を得た賞賛は人々にどんな影響を及ぼしますか。(ロ)好ましくない傾向がある場合,長老たちはそれをどのように扱いますか。なぜすべての事柄において節度を保つことに関心を払うべきですか。
5 長老たちは,日常兄弟たちと接触する際に兄弟たちの良い点を探すようにすべきです。兄弟たちの進歩に注目し,それをほめるのにやぶさかであってはなりません。ほめることは,さらによくなりたいという意欲を高めます。個人の好みに属する領域において,長老たちは自分の個人的な考えを他の人々に押し付けようとはしないはずです。聖書が原則をもうけていないところには,好みの多様性を受け入れる余地があることを彼らは認めています。このことは,娯楽,飲食における習慣,衣服や身なりに関する習慣などの分野について言えます。何か望ましくない傾向が見られるときには,明敏な長老たちは,厳密な規則をもうけてそれを相殺するのではなく,望ましい事柄を勧めて建設的に行動します。もちろん,ある人が節度を失って極端に走り,神の言葉を犯すようになったら,その時にはその人たちを助けるために何かを言うかまたは行なう必要があります。―ローマ 14:19-23。テトス 2:2-5。
6 (イ)衣服や身なりについて正しい決定をするには,聖書のどの原則を考慮すべきですか。(ロ)霊感による箴言の中で強調されている点を念頭において,わたしたちはだれの前に恵みを得るよう努めるべきですか。どうすればそれができますか。
6 例えば服装のことを考えてみましょう。これに関する問題は折々「ものみの塔」誌に取り上げられてきましたが,ある人たちはこのことに関係している聖書的原則を考えるのがむずかしいようです。あるいは,言われた事柄を,一定の状況との均衡がくずれるまでに拡大して,それらの原則から巧みにのがれる方法を探します。基本的な問題を考慮し,それについて話し合うなら,その人々は考え直すでしょう。その服装は,きちんとしていて清潔でしょうか。神を敬う者にふさわしく良くととのった,慎みのあるものでしょうか。静やかで温順な外観を強調するものですか,それとも極端な身体的外観が大方の注意を奪うようなものですか。(テモテ第一 2:9,10。ペテロ第一 3:3-5)他の人々が見て不愉快に感じるでしょうか。崇拝の場所では特に,その場の威厳を減じるようなものでしょうか。(コリント第二 6:3,4)家族の頭の権を行使する父親または夫にはどんな責任がありますか。(コロサイ 3:18-21)身に着けているものが人に疑問を抱かせたり,会衆に不利な影響を及ぼすなら,聖書はどうすることを勧めていますか。(コリント第一 10:31-33)敏感な良心を持つ人々を悩ませないよう自分の好みを抑えるだけの謙そんさがありますか。(ローマ 14:21)こうした質問やこれらに関係している原則を取り上げるなら,長老たちは,他からの圧力によって仕方なく規則を作るようなことをする代わりに神の言葉を一層強調することができます。そうすれば長老たちは,個々の人が自分の悟りに頼ったり感傷に支配されたりせずに聖書に基づいた決定を下すよう助けて,神の目に正しいことを行なうよう励ますことになります。―箴 3:5-7; 12:15; 16:2。
7 (イ)もしある人が小さな罪過を犯したなら,その人にはどんな道が開かれていますか。(ロ)聖書は許しを得るための唯一の方法を示すにあたってどのように述べていますか。
7 個々の人は時々間違いをし,小さな罪を犯します。小さな罪を犯すたびに長老たちのところへ行くことは,『神と和解する』ための必要条件ではありません。例えば,めったにないことに,ある人に対して非難めいた言葉を使ったとしたら,どうすべきですか。あるいは,時々かんしゃくを起こしたでしょうか。ある兄弟とけんかをし,そのあとちょっと口論が生じましたがすぐに後悔したでしょうか。もし望むならそのような出来事を長老に話すこともできます。しかし忘れてならないことは,長老たちは,なんらかの原則が少しばかり犯されるたびに一々その告白を聴いてきた『聴罪師』のような者ではないということです。長老はそうしたことで自分のところへ来る人を助けることに努めるでしょう。しかし長老が助言を与えても,それ自体が当人の問題を正すわけではありません。許しは,エホバに直接祈り,間違いを告白し,悔い改め,そして間違った行ないから離れるときに得られるのです。―ヨハネ第一 1:9。ヘブライ 4:14-16。
8 もしある人が罪を犯したために心にとがめを感じて年長者のところへ来るなら,年長者はその人をどのように助けることができますか。
8 しかし一方,なんらかの問題で霊的に悩んでいる兄弟は,遠慮なく長老たちのところへ来るべきです。もし重大な罪を犯したのであれば,それは直す必要のある弱点がいくらかある証拠です。ある人は,自分の祈りが妨げられるように,あるいは効力がないように思えるところまで行くかもしれません。心がとがめて確信を失い,自由に祈れなくなるかもしれません。(ヨハネ第一 5:14; 4:17,18)そのような場合には年長者たちのところへ行き,罪を告白し,彼らの助言と祈りの益にあずかるよう勧められています。―ヤコブ 5:14-16。
9 迷惑をかけそうな人を,どうすれば聖書的に扱うことができますか。
9 長老たちの辛抱強さと自制力が要求される場合もあります。人間家族の不完全さは根深いものがあります。人によってはそれが行動に他の人よりも著しく表われ,人の気をいらだたせるようなことを言ったり行なったりします。ある人は,足しげく長老のところへ来て,おきまりの不平や想像しただけの悪行について話し,気付かずに『迷惑』をかけるかもしれません。さらには長老たちのやり方を手厳しく批判する人もあるかもしれません。長老はそれにどう反応すべきでしょうか。テモテ第二 2章24,25節にある,「すべての人に対して穏やかで,教える資格を備え,苦境のもとでも自分を制し」,また「好意的でない人たちに柔和な態度で諭」しなさいというパウロの助言に従って問題を処理しまた正すことができます。
10 無知が原因である場合,あるいはほんの少しの間弱くなって平衡を失った場合,長老たちはどのように知恵とあわれみを働かせますか。
10 人々の動機が悪かったのだ,と性急に思い込むのは賢明なやり方とは言えません。時には無知なるがゆえに悪を行なうこともあるからです。その場合には,過ちをした人はあわれみを心からありがたく思うでしょう。改宗する前,無知ゆえに悪を行なっていた人パウロは,自分に差し伸べられたあわれみを深く感謝しました。(テモテ第一 1:12-15)もし人が,献身した神のしもべとなったのち気付かずに過ちを犯したならどうでしょうか。そういう場合には長老たちは,過ちを犯している人を,あわれみ深い態度で助言しかつ再調整すべく努力する責任があります。―ガラテア 6:1。
より重い罪に対する措置
11 聴問会が必要かもしれない重大な罪にはどんなものがありますか。そうした罪は普通どのようにして長老たちの注意を引くようになりますか。
11 重大な悪行がなされた場合には長老たちは,すべての人の霊的健康を守るのに必要なものは何かを見定めることに注意を向ける必要があります。重大な悪行には,パウロがコリント第一 6章9,10節,ガラテア 5章19-21節の中で挙げている罪が含まれ,人がバプテスマを受けたのちに犯す罪です。神の律法をひどく犯した人は,自分から進み出て罪を告白するかもしれません。あるいは,会衆のある成員が重大な性格の罪で訴えられるということがあることも考えられます。そのような場合,問題を審理する者としての資格をもって奉仕している長老たちは,ある要素が状況の違いを見分けるのに役立つときもあることをわきまえて,問題を慎重に考量しなければなりません。厳密な規則を導きとして頼る代わりに,問題を原則の点から考え,各ケースをそれ自身の功罪に基づいて裁く必要があります。
12 義をもって問題を裁く際に審理委員が行なう事柄を幾つか挙げなさい。
12 審理委員は,神の義の規準が要求するところを知っているのですから,決定を下す前にすべての事実を知る責任があります。(箴 18:13)もし悪行者,つまり訴えられた人が,重大な罪を隠し立てて告白しないなら,その問題の真否を確証するため,証人たちから事情を聞かねばなりません。(申命 19:15。テモテ第一 5:19)長老たちはまた問題の周囲の状況もよく調べます。以前与えた助言が無視されてはいなかったか。証拠は,問題の行為が意識的になされたものであること,または常習的な罪が関係していることを示してはいないか。これらの要素は問題の扱い方に関係してきます。祈りを込めてすべての事実と状況を考慮し,神の律法をよく考えるなら,長老たちは大抵の場合しっかりした決定を下せます。
13 (イ)審理委員は何を目的として努力すべきですか。マタイ 18章17節は,悪行者の反応が彼の問題の成り行きに関係を持つことを,どのように示していますか。(ロ)時々,排斥措置を取る必要が生ずるのはなぜですか。
13 長老たちは,たとえ悪行者が重大な罪を犯していても,自分たちの目標は,悪い道に陥った人を可能な面で助けることにある,ということを自覚しています。もし当人が,真に悔い改めたことを示して「彼らの述べることを聴くなら」,彼を兄弟として『得る』結果になって排斥しなくて済むかもしれません。(マタイ 18:15-17)さもなければ,長老たちはいつまでもあわれみをもってその人を扱うわけにはいきません。なぜなら,もしそれをすれば,神の義の規準と神聖さを無視することになるからです。そういう悔い改めない悪行者が神の民の中にとどまることを許されると,会衆の精神に悪い影響が及ぶでしょう。(コリント第一 5:3-6)そういう場合には排斥措置が非難を一掃し,クリスチャン会衆の清さを保ちます。
14 箴言 13章10節が裏付けているように,時には,資格のある他の長老たちに相談するのは賢明ですが,なぜですか。
14 とはいっても,時には問題の幾つかの面をはっきりさせる必要のあることもあるでしょう。性急に断定を下すのではなく,確かに正しい決定を下すためには,どうすればよいでしょうか。会衆内の資格ある他の長老たちに相談することも,妥当な結論に到達する助けになるでしょう。問題を扱っている長老たちが経験の浅い人たちであるなら特にそうです。(箴 13:10)もしそれでも問題が解決しないなら,その地域内の経験の深い長老たちか,または旅行をする監督が訪問中であるならばその監督に援助を求め,彼らの意見を聞かせてもらうこともできます。そういう人たちは,同じような問題を扱ったことがあるかもしれないので,大いに役立つ助言を与えてくれるでしょう。
15 一時期排斥さていた人たちがこの節に参照されている聖句にある通り,現在またエホバの民との良い関係を取り戻しているのはどうしてですか。
15 ある時期に排斥されていた人々のうち多くは現在復帰していて,エホバの民との良い関係を取り戻しています。彼らは過ちを悔い改めた人としてあわれみを受け,生き方を正してエホバに帰りました。(イザヤ 55:7)エホバの取られた措置を,心を謙そんにして受け入れた人々の場合には,神の祝福がはっきり見られます。会衆が司法的措置を取ったために排斥された状態にある他の人たちも,今は迷いからさめ,エホバに帰ることを切望しているかもしれません。―ルカ 15:17,18。
16 排斥された人が復帰を願う場合,審理委員はどんな事柄を念頭に置いてどんな点に注意を向けますか。
16 復帰の願いを聴くに際しては長老たちは平衡を保つことが必要です。それはただ当人が願うから復帰させるというだけの問題ではありません。間違いをしてエホバのみ名と会衆に非難をもたらしたような人を復帰させるためには,聖書的根拠がなければなりません。したがって長老たちは決定する前に,悪行をした人が真に悔い改めたかどうかを見定めなければなりません。その人は悔い改めにふさわしい業をしているでしょうか。(使徒 26:20)言うまでもなくそのことのほうが言葉よりも重要です。行ないがはっきり見られなければなりません。その人の振る舞いはどうだったでしょうか。それはいつごろからですか。その人の精神態度は何を物語っていますか。神の言葉を勤勉に学び,それに従って自分の生き方を正す努力をしてきましたか。(エレミヤ 10:23,24)自分は,エホバに対して,罪を犯したのだ,ということを本当に認めていますか。それと分かるほどに良い方へ変化し,悪行が露見したのをただ残念に思うというのではなく,敬神の念から生まれた悲しみによって心を変えたことを示していますか。こうした点を念頭に置いて長老たちは当人と話します。そうすれば長老たちは,その時点で復帰を許せる根拠があるかどうかを,ずっと容易に決定することができます。
17 (イ)公正と知恵とあわれみをもって裁くために,長老たちはどのように行動しますか。(ロ)それは長老自身にどのように益となりますか。
17 場合によっては,ある人に関する訴えが最初になされるとき,証言にいくらか食い違いがあるかもしれません。そういうときに長老たちは,それほど明確には証明されていないかもしれない罪を一つ一つ認めさせようとする極端に走らないよう,注意が必要です。実際に犯した,そしてはっきりした証拠のある罪をその人が悔い改めているかどうか,全般的傾向を考慮します。商売上の取り引きが関係しているとか,負債が未払いになっている場合など,復帰のための先要条件として負債の返済をどのケースにおいても,例えばある程度の詐欺が関係しているようなときに,強調することは必要ではないかもしれません。もし全員が賛成するなら,長老たちは,問題の解決に有効な適当な方法を考え出す点で助力するとよいでしょう。正しい判断と正義感とは,あわれみとよくつり合いが取れていなければなりません。(ヤコブ 2:13)そうすれば長老たちは,将来いつか裁かれるようなことがあっても,あわれみが差し伸べられることを期待できます。
現在と将来における益
18 神のもうけられた義の規準を守るときわたしたちは皆どうすることができますか。そのことは現在および将来において,わたしたちにどのように益となりますか。
18 この終わりの時代にエホバがご自分の民の中に復興された取り決めに対し,わたしたちすべてが感謝する十分の理由があります。裁く者また助言者としての長老は,神の義の規準にわたしたちが従うのを助ける責任を割り当てられています。代わってわたしたちには,神聖な特質をもって裁くそれらの人々にふさわしい敬意を示す義務があります。どうすればそれを最もよく行なうことができるでしょうか。それは,聖書の助言に喜んで答え応じ,神権的秩序に進んで従うときにできます。(ヘブライ 13:17)そうすることは,不法のはびこっている世のただ中にある現在のわたしたちの保護となり,福祉を増進するものとなります。それはまた,わたしたちが神の是認を受けることを求め新秩序における生活に備えて,神のご要求にかなうようになりたいという心からの望みを実証するものでもあります。
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会衆の長老たち ―『りっぱに主宰の任を果たしなさい』ものみの塔 1977 | 6月15日
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会衆の長老たち ―『りっぱに主宰の任を果たしなさい』
「りっぱに主宰の任を果たす年長者たち……は,二倍の誉れに値するものとみなしなさい」― テモテ第一 5:17。
1 箴言 11章14節から考えると,神の民の中に主宰の任に当たる長老たちがいるということにはどんな益がありますか。
一致してある高潔な目的または仕事を行なおうとする人々は,それに関係した種々の事柄を主宰する人を立てるのが常です。それがりっぱに行なわれているなら,人々は適切な指示を受けることができ,その結果,仕事は進みはかどります。しかしこれが反対の場合には,人々はまごつき倒れます。箴言 11章14節(新)はこれを次のように述べています。「巧みな指導がない時,民は倒れる。しかし助言者の多いところには救いがある」。神聖な目的と仕事を持つ組織された民であるエホバの証人は,自分たちの監督者である忠実な長老たちから指示と助言を受けられることを感謝しています。
2 会衆内で主宰の任に当たる人についてどんな質問が生じますか。またテモテ第一 5章17節はその問題をどのように明らかにしていますか。
2 現在,世界にはエホバの証人の会衆が4万余りあって,各会衆には任命された「主宰監督」が一人います。しかし,主宰する特権は主宰監督だけにあるのでしょうか。年長者団を構成する他の長老たちは,どうですか。すべての年長者は,テモテ第一 5章17節の神の言葉が年長者たちに命じていることを認めなければなりません。「りっぱに主宰の任を果たす年長者たち,とりわけ,話すことや教えることにほねおっている人たちは,二倍の誉れに値するものとみなしなさい」。会衆に数人の任命された長老たちがいるところでは,それぞれが会衆の種々の活動の主宰にあずかります。
3 会衆内で主宰の任に当たる長老は,どんな点で,家族を治める父親とは違いますか。
3 といっても,長老たちはどういう意味で「りっぱに主宰の任を果たす」のでしょうか。それは,父親が家族の者たちを治めるのと同じ権威をもってするのではありません。家族の頭は,自分の妻や子供たちに影響し彼らを左右する様々な問題に最後的な決定を下すことを要求されることがあります。しかし,個々の長老はそのような権威をふるうことはしません。個人としても,集合体としても彼らは会衆に対して頭の権を行使することはありません。会衆に関する限り,頭の地位にあるのはイエス・キリストです。(コロサイ 1:18)コリント第一 11章3節でも,「女の頭は男」とあるのに対し,イエスは「すべての男の頭」として述べられています。したがって,神の民の会衆を主宰することと,家庭内で頭の権を行使することとの間には相違があります。
4 長老たちの聖書的な責任を考えるなら,長老たちが会衆内で「主宰の任を果たす」のはなぜふさわしいことですか。
4 「主宰する」に相当するギリシャ語には,司会者であること以上の意味があります。「主宰する」の文字通りの意味は「前に立つ」ですから,それは指導し,司会し,指示を与え,他の人々の世話をすることです。これは長老たちになんとぴったり当てはまるのでしょう。わたしたちは長老たちがわたしたちの集会で司会をし,教え,奉仕活動に関して指示を与え(ヘブライ 13:7,17),牧羊の業すなわちわたしたちの霊的福祉に気を配り(ペテロ第一 5:2,3),わたしたちと会衆との,なかんずくエホバ神との関係を危うくするものすべてからわたしたちを守ることによって(ヨハネ 10:11-15),わたしたちの中で「指導の任に当たっている」とわたしたちは見ています。このすべてにおいて長老たちは「りっぱな羊飼い」であるイエス・キリストの助言と模範に従うべく努力しています。
集会の主宰に対する態度
5 ローマ 12章8節にあるパウロの勧めは,主宰の任に対する長老の態度にどのように影響するはずですか。
5 各長老が自分の責任を正しく果たすために養わねばならない態度とはどんな態度でしょうか。パウロはローマ 12章8節で,兄弟たちを教え啓発し励まし助けるよう,『主宰の任に当たる者は真剣にそれを行ないなさい』と勧めています。長老がそうした責任を遂行する仕方に関心を払い,「真剣に,そしてりっぱに主宰するにはどうすべきか』と自問するのは良いことです。
6 (イ)「真剣に」主宰の任に当たっていることを示すには,神権学校の監督はどうすべきですか。(ロ)個々の生徒はどんな益を受けますか。
6 「真剣に」行なうということは,誠実な気持ちで行なうというだけでなく,自分のしていることに熱意を注ぐことでもあります。例えば,神権学校を担当している長老は,おざなりなことでは,自分に割り当てられている務めを果たせないことを知っています。その長老は一人一人の生徒に関心を持ち,生徒が特に必要としている事柄に注意を払わねばなりません。なぜですか。生徒が進歩することを願っているからです。今は多くの新しい人たちが学校に入っていて,個人的な助けを必要としています。進歩の遅い人や内気な人がいます。教育のない人,読書力の弱い人,あるいは他の問題を抱えている人もいます。自分のつとめを『真剣に行なう』,神権学校の監督は,生徒が助言と指導にこたえて進歩していくのを見ることになるでしょう。それは集会での注解に反映し,また野外におけるより効果的な奉仕となって表われるでしょう。
7 (イ)「ものみの塔」研究,あるいは会衆の書籍研究を司会するとき,主宰の任に当たるということにはどんなことが含まれますか。(ロ)詩篇 25篇4,5節と箴言 16章9節に述べられていることを理解するなら,教える時に長老はどんな目的を持つ助けになりますか。
7 「ものみの塔」研究や会衆の書籍研究の司会者として主宰する人々も,これら同じ原則を念頭に置いていなければなりません。彼らは,単に質問をして聴衆に答えを求めるというだけの意味の司会者なのではありません。有意義な方法で主宰するためには,かぎとなる聖句を強調し,そういう聖句が正しく適用されるように心を配り,重要な点の実際的な価値がすべて取り上げられるのがみんなに分かるように助けて,研究をいつも興味深い,活気のあるものにすることが求められます。もし注解に参加することをためらっている人がいるなら,個人的にひとこと励ましの言葉を与えるだけで,その人たちも集会で注解をするようになるかもしれません。主宰する人々は,兄弟たちの心を動かし,エホバの道を歩む動機を彼らに与え,そのための聖書的導きを与えることを目標にして,より有能な教え手となるべく努力すべきです。―詩 25:4,5。箴 16:9。
謙遜な態度で主宰する
8 (イ)謙遜さを培うにはわたしたちは皆どんな努力が必要ですか。(ロ)謙遜さと「内密の話し合い」は,長老たちにどのように役立ちますか。
8 群れを牧するよう年長者たちに助言を与えた直後,使徒ペテロは,わたしたち全部が努力しなければならないある点に触れます。「あなたがたはみな,互いに対してへりくだった思いを身につけなさい。……神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となりなさい。そうすれば,神は定めの時にあなたがたを高めてくださるのです」。(ペテロ第一 5:5,6)謙遜さは,特に長老間の意思の疎通と互いに対する振る舞いに大いに寄与します。処理すべき問題が持ち上がったとき,各長老は,本当に重要な情報を提供しているかどうかをよく判断しなければなりません。互いに相談し合う人々は仲間の長老たちから,また全会衆から尊敬されます。群れのためになる事柄に関してしばしば連絡を取ったり,「内密の話し合い」をしたりすることは実際的な結果をもたらします。その反対にもし長老たちが『密接な連絡』を保って事が完成に向かってどのように進展しているかを見ないなら,最初に計画されたことはあまりうまくいかないかもしれません。このことは箴言 15章22節(新)で強調されています。「内密の話し合いのないところには計画のざ折がある。しかし助言者の多いところには完遂がある」。謙遜さは,長老同士の密接な結びつきと,会衆内のすべての人とのより穏やかな関係を強めるのを可能にします。
9 (イ)主宰監督の通信物の扱い方によって,長老たち,また会衆との意思の疎通はどのような影響を受けますか。(ロ)主宰監督がこの点で自分の役目を正しく果たすならどんな結果になりますか。
9 司会者として奉仕する主宰監督は特に平衡の取れた見方を保つことが大切です。主宰監督は長老団の決定したことがずっとよく守られているかどうかを見守らねばなりません。意思の伝達が勧められるのは,長老の集まりの時だけに限られてはいません。兄弟たちや業全体に影響する重要な問題に関してはお互いに最新の情報に通じていたい,という自然の願いがあるべきです。そのためには主宰監督が,支部事務所,大会委員,旅行する監督,あるいは他の会衆の長老たちとの通信をすべて扱う必要があります。その種の通信物を読んだあと,主宰監督は長老団全体に指示されている事柄をできるだけ早く伝えるようにします。会衆あての知らせも余すところなく伝えます。この点で主宰監督が不注意であったり,怠慢であったりすることはできません。あらゆることを自分一人でするのは不可能です。それで主宰監督は,必要な事柄がなされるように助力を求めます。各長老は割り当てられた仕事を持っていますが,全員が一致協力します。大きな問題が関係している場合には主宰監督は一方的に行動しないで,他の長老たちに正式に,あるいは非公式に相談します。(箴 18:1)それは通常秩序を保つのに役立ち,兄弟たちの霊性と王国の業に正しい注意が払われる結果になります。
10 (イ)パウロがガラテア 5章15,25,26節で警告しているように,会衆の一致はどんなことで犠牲になることがありますか。(ロ)ローマ 12章,フィリピ 2章,エフェソス 4章に示されているように,長老たちはどんな特質を培うように注意すべきですか。
10 長老団の中に,他の長老たちに抜きん出ようとする人が時々いるかもしれません。もし競争心が生まれるなら,あるいは存在しているなら,それは謙遜さが欠けているしるしです。ある長老は,長老団があまり価値がないと判断しても,なお自分の意見を固執するかもしれません。もしその長老が自分の意見に共鳴するように人々の気持ちをかきたてて支持を得ようとすれば,おそらく会衆の一致はその犠牲になってしまうでしょう。(ガラテア 5:15,25,26)そのような傾向を避けるためには,各長老は絶えず自分を見つめ,『自分のことを必要以上に考えない』ように注意が必要です。(ローマ 12:3,10)りっぱに主宰の任を果たすにはすべての長老が『ほねおる』必要がありますが,しかし正しい動機で,謙遜の限りを尽して群れを助けたいという真剣な気持ちでそれを行なうように気をつけなければなりません。―フィリピ 2:5-8,14-18。エフェソス 4:1-3。
謙遜さは意見の相違を解決するのに役立つ
11 (イ)様々な意見が時にはどのように役立つか説明しなさい。(ロ)長老の集まりで長老たちは自分の意見を述べることについてどう考えるべきですか。しかし何を避けるべきですか。
11 長老たちの意見が分かれるような問題が生ずる時もあります。人々の背景や経験は様々ですから,引き出す結論も自然異なる傾向があります。異なる意見は,自分自身の見解を健全であるかどうか調べるための刺激的な根拠を提出します。ある問題に関する自分の説明はもっともらしく,正しく聞こえるように思えても,箴言 18章17節(新)にあるように,「仲間が入って来て」,もっと事実に即した取り組み方と聖書的な論議とをもって「必ずその者を吟味」します。これは確かに,兄弟たちの霊的福祉に影響するある質問または問題を解決するためにそのような過程を必要とする,長老たちの間の討議に当てはまります。したがって,明確な原則や指針がもうけられていないところでは,長老たちが率直に述べる意見に相違のあることは考えられることです。長老の集まりでは口論,「憤りや議論」は別として,長老たちは自由に自分の意見を表明すべきです。―テモテ第一 2:8。
12 (イ)使徒 15章に記録されていることを考えるに当たって,探し求めかつ学ばねばならないのはどんな事柄ですか。(ロ)使徒 15章1,2節に述べられている問題はどんな性格のもので,どの程度大きなものでしたか。
12 一世紀における使徒と年長者の集まりでどんなことがあったかを考えてみるなら,謙遜さの価値や,争論の解決に役立つ種々の要素について,多くのことを学ぶことができます。そのことは使徒 15章に記録されています。それは,パウロとバルナバが「今や十分に成し遂げた業のため,神の過分のご親切に託された」,シリアのアンティオキアでのことでした。(使徒 14:26)しかし,二人は第一回の伝道旅行から戻るとすぐに一つの問題に遭遇しました。「ある人たちがユダヤから下って来て,『モーセの習わしどおり割礼を受けないかぎり,あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えはじめた。しかし彼らを相手に,パウロとバルナバによって少なからぬ争論と議論が起きた時,人びとは,パウロとバルナバおよび自分たちのうちのほかの幾人かが,この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに上ることを取り決めた」。(使徒 15:1,2)この場合には一つの重要な教理上の問題が,兄弟たちの間に少なからぬ騒ぎを引き起こしていました。これを解決しなければなりません。
13 使徒 15章7節で,「多くの議論」という表現が用いられているのを,どのように理解すべきですか。
13 その問題がエルサレムの責任ある長老たちに提出されたのは適切なことでした。聖書の記録はそこでどんなことが起きたかを教えてくれます。最初のうちは意見が分かれていましたが,最後には「全員一致」に達しました。(使徒 15:25)しかし,使徒 15章7節から考えると,集まりで「多くの議論」があったのではありませんか。「議論」に相当するギリシャ語は,「捜し求める」(王国行間逐語訳)という意味の動詞と関連があります。したがってそれは次のことを示しています。すなわち真理を,あるいはある事柄を行なう最善の方法を見いだすには,問題を調べ極める勤勉な努力が求められるということです。問い尋ね,討論をし,こうして正しい結論に達するのです。このことを念頭に置いているなら,聖霊の導きによって事態がどのように進展したかに注意しながら,記録を興味深く読むことができます。
14,15 (イ)歴史的会議の席上で,ペテロ,次いでパウロとバルナバ,最後にヤコブがどんな発言をして審議に寄与しましたか。(ロ)その時はどんな要素が「全員一致」に導きましたか。
14 「多くの議論」ののち,ペテロは自分の経験を語り,異邦人が良いたよりを聞く道を開くべく自分がエホバに用いられたことを述べます。救いを可能にしているものが,イエス・キリストを通して示された神の過分のご親切である以上,それら異邦人の信者に重荷を課すのは果たして妥当か,という質問を彼は提起します。次いで,パウロとバルナバが証言を加えたときには敬意のこもった沈黙が生じていたことが12節に述べられているのに注意してください。この旅行する使徒たち(アンティオキアの会衆から「遣わされた者たち」)は,諸国民の間で宣べ伝えたとき,「多くのしるしや異兆」により,神の祝福の証拠を得ていました。そのことは,どうすべきかに関するペテロの勧めを有力にしました。―使徒 15:7-12。
15 次にヤコブが発言を希望します。彼はアモス 9章11,12節にあるような,ペテロが述べたことと一致する預言者たちの言葉を用い,パウロとバルナバを通して神の霊が成し遂げたことを確証します。したがってヤコブの決定には聖書の裏付けと神の霊の後ろだてがありました。その強い立場に立って彼は,神に心を向けていた諸国民の中から出た信者たちに,彼らに対する神のご要求が実際になんであるかについて書き送ることを提案しました。使徒および年長者たちは全員一致してそれに賛成しました。論議をかもしていた問題も,非常な謙遜さのゆえに解決しました。―使徒 15:13-29。
16 ある点に関して違った意見を持つ長老があるかもしれませんが,長老たちおよび会衆の中にはどんな精神がみなぎっているべきですか。
16 もし長老の一団の中で「全員一致」が不可能であるならば,違う意見を持つ長老は,決定された事柄に,反感を示すことによって反対するようなことがあってはなりません。長老団全体と共に引き続き「ほねおっている」ことが大切です。そうすれば会衆は,全員が一致して働いていることを知り,長老団をいつも信頼しているでしょう。「全くへりくだった思い」で歩むなら,長老たちは平和のきずなを強くすることができます。―エフェソス 4:2,3。
17 長老たちの集まりがあるとき,若い長老たちと年長の長老たちはどんな健全な助言を念頭に置いているべきですか。なぜですか。
17 長老たちが集まるとき,若い長老たちは特に,箴言 16章31節(口)に述べられていること,つまり,「しらがは栄えの冠である,正しく生きることによってそれが得られる」ということを認めて,年長の,そしてクリスチャンとして生きることにもっと経験の深い長老たちの言うことに注意深く耳を傾けるべきです。他方,年長の長老たちは,ある若い人が一つの問題について正しい見方を持っているかもしれないことを認めなければなりません。したがって,真の価値は言い表わされる健全な知恵にあるのであって,必ずしも話し手の年齢にあるのではありません。しかし,若い長老たちは自分の考えを述べる際には,テモテがきっとパウロとその助言に敬意を示したように,またエリフが年齢というものを考えて自制し,自分の話す時を待ったように,年齢に敬意を表わすべきです。―テモテ第一 5:1,19。ヨブ 32:6-9。
18 使徒 6章1-6節に示されているように,使徒たちは「必要な仕事」に注意を向けましたが,それよりももっと重要視されたのはどんなことでしたか。
18 長老たちは,王国会館や他の「必要な仕事」に関係した問題を討議する会合で多くの時間を費やすかもしれませんが,そうした問題はいつも,群れの霊性に影響するより重要な事柄に次ぐ付随的なものにして置くことが大切です。(使徒 6:1-6。フィリピ 1:9,10)そのようにするとき,長老たちは主宰の任をりっぱに果たしていくことができます。
19 (イ)世の支配者たちが人々を取り扱う方法とは対照的に,わたしたちの中には,イエスやパウロの助言に一致したどんな取り決めがありますか。(ロ)りっぱに主宰の任を果たす長老たちのいることはどのように有益ですか。
19 世界の悲しむべき混乱を見るとき,わたしたちは,世界中のエホバの会衆内に,りっぱに主宰の任を果たす長老たちがいることを,本当に感謝します。人類はその諸問題から,また愛のこもった,助けになる,心身をさわやかにするような方法で導く代わりに『人びとに対していばる』支配者たちの手から逃れる道を模索しています。(マタイ 20:25-27)しかしわたしたちの中には,群れの模範となる霊的に円熟した人々がいます。そしてわたしたちは,わたしたちの間で主宰の任にあたるその人たちを重んじています。(テサロニケ第一 5:12,13)会衆,または都市,国,または世界の一地域の中の一人の人ではなく,すべての長老が自分に割り当てられた範囲内で主宰の任を果たしているのです。この多数の助言者たちが与える愛のこもった援助と指示により,王国を宣べ伝える業と弟子を作る業は前進し,成功裏に完遂されるのです。会衆はりっぱに主宰の任を果たす長老たちの下でその努力を結集します。こうしてわたしたちは頭であるイエス・キリストにより密接に連なり,すべての栄光をエホバに帰すのです。
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『完全さの終わり』ものみの塔 1977 | 6月15日
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『完全さの終わり』
● 詩篇作者は,「すべての完全さにも,わたしは終わりを見ました。あなたのおきては非常に広いのです」と語りました。(詩 119:96,新)人間の見地から見て完全と思えるいかなるものにも,やはり限界があります。しかし,エホバのおきてにはそのような限界はなく,そのおきては生活のあらゆる分野に対する健全な導きを与えています。口語訳聖書は,詩篇作者のこの言葉を次のように訳出しています。「わたしはすべての全きことに限りのあることを見ました。しかしあなたの戒めは限りなく広いのです」。
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霊的な人 ― なぜいかなる人によっても調べられないかものみの塔 1977 | 6月15日
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霊的な人 ― なぜいかなる人によっても調べられないか
◆ 使徒パウロはコリントのクリスチャンに,「霊的な人は実にすべての事柄を調べますが,その人自身はいかなる人によっても調べられません」と書き送りました。(コリント第一 2:15)どうしてそう言えるのですか。神の霊の助けによって,霊的な人は物事を正しく評価することができます。しかし,霊的な洞察力を持たない人々は,霊的な人を調べる,または正しく評価することができません。間違った根拠に基づく推論をし続けるために,霊的でない人は霊的な人に関して間違った結論を導き出します。イザヤ 53章3,4節に予告されていたとおり,霊的でない人々はイエスに対してそうしたことを行ないました。ですから,霊的な人は,「いかなる人によっても」,つまり霊的でないいかなる人によっても「調べられ」ることはあり得ないのです。
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