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会衆の長老たち ―『りっぱに主宰の任を果たしなさい』ものみの塔 1977 | 6月15日
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節(新)で強調されています。「内密の話し合いのないところには計画のざ折がある。しかし助言者の多いところには完遂がある」。謙遜さは,長老同士の密接な結びつきと,会衆内のすべての人とのより穏やかな関係を強めるのを可能にします。
9 (イ)主宰監督の通信物の扱い方によって,長老たち,また会衆との意思の疎通はどのような影響を受けますか。(ロ)主宰監督がこの点で自分の役目を正しく果たすならどんな結果になりますか。
9 司会者として奉仕する主宰監督は特に平衡の取れた見方を保つことが大切です。主宰監督は長老団の決定したことがずっとよく守られているかどうかを見守らねばなりません。意思の伝達が勧められるのは,長老の集まりの時だけに限られてはいません。兄弟たちや業全体に影響する重要な問題に関してはお互いに最新の情報に通じていたい,という自然の願いがあるべきです。そのためには主宰監督が,支部事務所,大会委員,旅行する監督,あるいは他の会衆の長老たちとの通信をすべて扱う必要があります。その種の通信物を読んだあと,主宰監督は長老団全体に指示されている事柄をできるだけ早く伝えるようにします。会衆あての知らせも余すところなく伝えます。この点で主宰監督が不注意であったり,怠慢であったりすることはできません。あらゆることを自分一人でするのは不可能です。それで主宰監督は,必要な事柄がなされるように助力を求めます。各長老は割り当てられた仕事を持っていますが,全員が一致協力します。大きな問題が関係している場合には主宰監督は一方的に行動しないで,他の長老たちに正式に,あるいは非公式に相談します。(箴 18:1)それは通常秩序を保つのに役立ち,兄弟たちの霊性と王国の業に正しい注意が払われる結果になります。
10 (イ)パウロがガラテア 5章15,25,26節で警告しているように,会衆の一致はどんなことで犠牲になることがありますか。(ロ)ローマ 12章,フィリピ 2章,エフェソス 4章に示されているように,長老たちはどんな特質を培うように注意すべきですか。
10 長老団の中に,他の長老たちに抜きん出ようとする人が時々いるかもしれません。もし競争心が生まれるなら,あるいは存在しているなら,それは謙遜さが欠けているしるしです。ある長老は,長老団があまり価値がないと判断しても,なお自分の意見を固執するかもしれません。もしその長老が自分の意見に共鳴するように人々の気持ちをかきたてて支持を得ようとすれば,おそらく会衆の一致はその犠牲になってしまうでしょう。(ガラテア 5:15,25,26)そのような傾向を避けるためには,各長老は絶えず自分を見つめ,『自分のことを必要以上に考えない』ように注意が必要です。(ローマ 12:3,10)りっぱに主宰の任を果たすにはすべての長老が『ほねおる』必要がありますが,しかし正しい動機で,謙遜の限りを尽して群れを助けたいという真剣な気持ちでそれを行なうように気をつけなければなりません。―フィリピ 2:5-8,14-18。エフェソス 4:1-3。
謙遜さは意見の相違を解決するのに役立つ
11 (イ)様々な意見が時にはどのように役立つか説明しなさい。(ロ)長老の集まりで長老たちは自分の意見を述べることについてどう考えるべきですか。しかし何を避けるべきですか。
11 長老たちの意見が分かれるような問題が生ずる時もあります。人々の背景や経験は様々ですから,引き出す結論も自然異なる傾向があります。異なる意見は,自分自身の見解を健全であるかどうか調べるための刺激的な根拠を提出します。ある問題に関する自分の説明はもっともらしく,正しく聞こえるように思えても,箴言 18章17節(新)にあるように,「仲間が入って来て」,もっと事実に即した取り組み方と聖書的な論議とをもって「必ずその者を吟味」します。これは確かに,兄弟たちの霊的福祉に影響するある質問または問題を解決するためにそのような過程を必要とする,長老たちの間の討議に当てはまります。したがって,明確な原則や指針がもうけられていないところでは,長老たちが率直に述べる意見に相違のあることは考えられることです。長老の集まりでは口論,「憤りや議論」は別として,長老たちは自由に自分の意見を表明すべきです。―テモテ第一 2:8。
12 (イ)使徒 15章に記録されていることを考えるに当たって,探し求めかつ学ばねばならないのはどんな事柄ですか。(ロ)使徒 15章1,2節に述べられている問題はどんな性格のもので,どの程度大きなものでしたか。
12 一世紀における使徒と年長者の集まりでどんなことがあったかを考えてみるなら,謙遜さの価値や,争論の解決に役立つ種々の要素について,多くのことを学ぶことができます。そのことは使徒 15章に記録されています。それは,パウロとバルナバが「今や十分に成し遂げた業のため,神の過分のご親切に託された」,シリアのアンティオキアでのことでした。(使徒 14:26)しかし,二人は第一回の伝道旅行から戻るとすぐに一つの問題に遭遇しました。「ある人たちがユダヤから下って来て,『モーセの習わしどおり割礼を受けないかぎり,あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えはじめた。しかし彼らを相手に,パウロとバルナバによって少なからぬ争論と議論が起きた時,人びとは,パウロとバルナバおよび自分たちのうちのほかの幾人かが,この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに上ることを取り決めた」。(使徒 15:1,2)この場合には一つの重要な教理上の問題が,兄弟たちの間に少なからぬ騒ぎを引き起こしていました。これを解決しなければなりません。
13 使徒 15章7節で,「多くの議論」という表現が用いられているのを,どのように理解すべきですか。
13 その問題がエルサレムの責任ある長老たちに提出されたのは適切なことでした。聖書の記録はそこでどんなことが起きたかを教えてくれます。最初のうちは意見が分かれていましたが,最後には「全員一致」に達しました。(使徒 15:25)しかし,使徒 15章7節から考えると,集まりで「多くの議論」があったのではありませんか。「議論」に相当するギリシャ語は,「捜し求める」(王国行間逐語訳)という意味の動詞と関連があります。したがってそれは次のことを示しています。すなわち真理を,あるいはある事柄を行なう最善の方法を見いだすには,問題を調べ極める勤勉な努力が求められるということです。問い尋ね,討論をし,こうして正しい結論に達するのです。このことを念頭に置いているなら,聖霊の導きによって事態がどのように進展したかに注意しながら,記録を興味深く読むことができます。
14,15 (イ)歴史的会議の席上で,ペテロ,次いでパウロとバルナバ,最後にヤコブがどんな発言をして審議に寄与しましたか。(ロ)その時はどんな要素が「全員一致」に導きましたか。
14 「多くの議論」ののち,ペテロは自分の経験を語り,異邦人が良いたよりを聞く道を開くべく自分がエホバに用いられたことを述べます。救いを可能にしているものが,イエス・キリストを通して示された神の過分のご親切である以上,それら異邦人の信者に重荷を課すのは果たして妥当か,という質問を彼は提起します。次いで,パウロとバルナバが証言を加えたときには敬意のこもった沈黙が生じていたことが12節に述べられているのに注意してください。この旅行する使徒たち(アンティオキアの会衆から「遣わされた者たち」)は,諸国民の間で宣べ伝えたとき,「多くのしるしや異兆」により,神の祝福の証拠を得ていました。そのことは,どうすべきかに関するペテロの勧めを有力にしました。―使徒 15:7-12。
15 次にヤコブが発言を希望します。彼はアモス 9章11,12節にあるような,ペテロが述べたことと一致する預言者たちの言葉を用い,パウロとバルナバを通して神の霊が成し遂げたことを確証します。したがってヤコブの決定には聖書の裏付けと神の霊の後ろだてがありました。その強い立場に立って彼は,神に心を向けていた諸国民の中から出た信者たちに,彼らに対する神のご要求が実際になんであるかについて書き送ることを提案しました。使徒および年長者たちは全員一致してそれに賛成しました。論議をかもしていた問題も,非常な謙遜さのゆえに解決しました。―使徒 15:13-29。
16 ある点に関して違った意見を持つ長老があるかもしれませんが,長老たちおよび会衆の中にはどんな精神がみなぎっているべきですか。
16 もし長老の一団の中で「全員一致」が不可能であるならば,違う意見を持つ長老は,決定された事柄に,反感を示すことによって反対するようなことがあってはなりません。長老団全体と共に引き続き「ほねおっている」ことが大切です。そうすれば会衆は,全員が一致して働いていることを知り,長老団をいつも信頼しているでしょう。「全くへりくだった思い」で歩むなら,長老たちは平和のきずなを強くすることができます。―エフェソス 4:2,3。
17 長老たちの集まりがあるとき,若い長老たちと年長の長老たちはどんな健全な助言を念頭に置いているべきですか。なぜですか。
17 長老たちが集まるとき,若い長老たちは特に,箴言 16章31節(口)に述べられていること,つまり,「しらがは栄えの冠である,正しく生きることによってそれが得られる」ということを認めて,年長の,そしてクリスチャンとして生きることにもっと経験の深い長老たちの言うことに注意深く耳を傾けるべきです。他方,年長の長老たちは,ある若い人が一つの問題について正しい見方を持っているかもしれないことを認めなければなりません。したがって,真の価値は言い表わされる健全な知恵にあるのであって,必ずしも話し手の年齢にあるのではありません。しかし,若い長老たちは自分の考えを述べる際には,テモテがきっとパウロとその助言に敬意を示したように,またエリフが年齢というものを考えて自制し,自分の話す時を待ったように,年齢に敬意を表わすべきです。―テモテ第一 5:1,19。ヨブ 32:6-9。
18 使徒 6章1-6節に示されているように,使徒たちは「必要な仕事」に注意を向けましたが,それよりももっと重要視されたのはどんなことでしたか。
18 長老たちは,王国会館や他の「必要な仕事」に関係した問題を討議する会合で多くの時間を費やすかもしれませんが,そうした問題はいつも,群れの霊性に影響するより重要な事柄に次ぐ付随的なものにして置くことが大切です。(使徒 6:1-6。フィリピ 1:9,10)そのようにするとき,長老たちは主宰の任をりっぱに果たしていくことができます。
19 (イ)世の支配者たちが人々を取り扱う方法とは対照的に,わたしたちの中には,イエスやパウロの助言に一致したどんな取り決めがありますか。(ロ)りっぱに主宰の任を果たす長老たちのいることはどのように有益ですか。
19 世界の悲しむべき混乱を見るとき,わたしたちは,世界中のエホバの会衆内に,りっぱに主宰の任を果たす長老たちがいることを,本当に感謝します。人類はその諸問題から,また愛のこもった,助けになる,心身をさわやかにするような方法で導く代わりに『人びとに対していばる』支配者たちの手から逃れる道を模索しています。(マタイ 20:25-27)しかしわたしたちの中には,群れの模範となる霊的に円熟した人々がいます。そしてわたしたちは,わたしたちの間で主宰の任にあたるその人たちを重んじています。(テサロニケ第一 5:12,13)会衆,または都市,国,または世界の一地域の中の一人の人ではなく,すべての長老が自分に割り当てられた範囲内で主宰の任を果たしているのです。この多数の助言者たちが与える愛のこもった援助と指示により,王国を宣べ伝える業と弟子を作る業は前進し,成功裏に完遂されるのです。会衆はりっぱに主宰の任を果たす長老たちの下でその努力を結集します。こうしてわたしたちは頭であるイエス・キリストにより密接に連なり,すべての栄光をエホバに帰すのです。
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霊的な人 ― なぜいかなる人によっても調べられないかものみの塔 1977 | 6月15日
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霊的な人 ― なぜいかなる人によっても調べられないか
◆ 使徒パウロはコリントのクリスチャンに,「霊的な人は実にすべての事柄を調べますが,その人自身はいかなる人によっても調べられません」と書き送りました。(コリント第一 2:15)どうしてそう言えるのですか。神の霊の助けによって,霊的な人は物事を正しく評価することができます。しかし,霊的な洞察力を持たない人々は,霊的な人を調べる,または正しく評価することができません。間違った根拠に基づく推論をし続けるために,霊的でない人は霊的な人に関して間違った結論を導き出します。イザヤ 53章3,4節に予告されていたとおり,霊的でない人々はイエスに対してそうしたことを行ないました。ですから,霊的な人は,「いかなる人によっても」,つまり霊的でないいかなる人によっても「調べられ」ることはあり得ないのです。
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