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神の民を導く,賢く,思慮深く,経験のある人々ものみの塔 1979 | 3月1日
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恐れがあるからです。(テモテ第一 3:6)エフェソスに真のキリスト教が確立されてからその時までに約10年が経過していましたから,新しい弟子の一人を,会衆の長老たちに混じって奉仕するよう選ぶことは特に不適当だったのでしょう。
13,14 (イ)当人の経験の度合いをどう見るか決める際に,状況が関係してくる可能性のあることを,どんな例が示していますか。(ロ)しかし,すべての場合に,どんな要素を第一に考慮すべきですか。
13 クレテにいたテトスに手紙を書いたときにはパウロは明らかに,警戒を促すこうした忠告を与えることを同様の急務とは感じていませんでした。ですから長老の選択に関して述べた意見の中にそのことを含めていません。クレテに真の崇拝が確立されてから,比較的に日が浅かったという事実が,この事にいくらか関係していたかもしれません。よく注意してみると,パウロの最初の伝道旅行のとき,彼とバルナバはルステラ,イコニオム,ピシデアのアンティオキアなどの町々で「良いたより」を宣明し,それから同じ旅行中にそれらの町に戻り,「彼らのために会衆に年長者たちを任命し」ました。(使徒 13:14,42-52; 14:1-7,20-23)その伝道旅行全体の期間は二年に満たなかったようですから,その人々の中に,キリストの弟子としての経験の浅い人が少なくとも幾人かいたことは明らかです。しかし彼らの中にはユダヤ人の信者もいましたから,全部ではないにしても,選ばれた人の多くが,クリスチャンになる前でさえ,聖書の知識の良い背景と,ヘブライ語聖書の原則を適用する経験とを有していたことは疑えません。もちろん彼らは,キリスト教がもたらした純粋の崇拝の発展の結果生ずる諸事実に応じて,自分の考え方を調整しなければならなかったでしょう。使徒パウロ自身も,転向したその時から,特別な方法で用いられる者としてキリスト・イエスに選ばれ,後ほど長老に求められる特質を示しました。(ガラテア 1:15–2:2。使徒 13:1-4)しかし彼の場合も,エホバ神を崇拝する献身したユダヤ人として聖書的背景がありましたから,いったんメシアを認め受け入れるように助けられてからは,可能な限りの急速な進歩を遂げました。―使徒 9:15-18,20,22,26-30。ガラテア 2:6,7。
14 ですからわたしたちは,固定した制限を確立することに骨おるよりも,知恵と健全な判断に従い,長老になれそうな人の真の崇拝における経験の状態を,よく吟味しなければなりません。何十年も真理にいる成員の多い会衆では,バプテスマを受けてから三年ほどしかたっていない人は,比較的に「新しく」思えるかもしれません。しかし,成員のほとんどがごく最近真理を受け入れた人たちである,新しくできたばかりの会衆では,その人の経験が他の人と比べて長いものに思えても当然でしょう。いずれにせよ,神の羊の群れを牧することが関係している重い責任を遂行しようというのであれば,その人は知恵と思慮と健全な判断力のあるところを示している必要があるという点を,常に見失わないことが,いつの場合でも重要です。
知恵と分別を示すことにおいて進歩する
15 長老たちは自分自身の特質や能力を向上させることについて,どんな精神を示すべきですか。
15 あなたの「進歩がすべての人に明らかになるように」霊的な事柄に心を打ち込みなさい,と使徒パウロがテモテに勧めたとき,テモテはすでに経験に富んだ長老でした。(テモテ第一 4:15,16)賢明な人はわがままにはなりません。また,自分にはもう教えられる余地も向上する余地もない,と考えるようなこともしません。弟子のヤコブは,「あなたがたの中で知恵と理解力のある人はだれですか」と書き,さらに,「その人は知恵に伴う柔和さ[慎み,新英訳聖書]をもって,自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい」とつけ加えています。そのような精神は,不一致,ねたみ,争いなどの精神をすべて除き去り,長老団内部に調和を作り出すでしょう。―ヤコブ 3:13-18。
16 (イ)どんな意味で長老たちは同じですか。(ロ)どうすれは彼らの進歩は明らかになり,神の羊の群れすべてに大きな益を与えることになりますか。
16 長老たちは,羊の群れのために奉仕し働く責任と権限を有する点では“同じ”ですが,他の点では必ずしも同じではありません。ある人は人生経験も真理における経験もはるかに深く,また長年にわたる真剣な研究や努力の結果として知恵にたけています。めいめい弱いところもありますが,それと共に強いところも持っています。もしわたしたちが他の人たちの強いところを高く評価しそれから益を受けるなら,わたしたちも『自分の進歩がすべての人に明らかになるようにする』ことができます。(ローマ 12:3-10,16)知識と洞察力を持つ,謙そんでまじめな,神を恐れるそのような牧者たちの与える助けによって預言の真実性は証明され,今日の神の羊の群れは非常に『多くなってその土地で確かに実を結び』,神のとこしえの誉れとなることでしょう。―エレミヤ 3:15,16,新。
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会衆内で教える者としての資格を身につけるものみの塔 1979 | 3月1日
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会衆内で教える者としての資格を身につける
「あなたがたの中で知恵と理解力のある人はだれですか。その人は,知恵に伴う柔和さをもって自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい」― ヤコブ 3:13。
1 クリスチャン会衆内で教えるものとして仕える人々がその資格を備えていることは,どうして大切ですか。
教える者の影響は,有益であるか,有害であるかのどちらかです。崇拝の問題においては特にそうです。イエス・キリストはパリサイ人を指して,「彼らは盲目の案内人なのです。それで,盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込むのです」と言われました。(マタイ 15:14)パリサイ人の非聖書的な教えに盲目的に従った人々は,霊的破滅と死に向かって進みましたが,神の子の健全な教えに注意を払った人々は,命への道を歩みました。(マタイ 7:13-20,24-27)命が関係しているという事実がある以上,クリスチャン会衆内で教える者として奉仕する人々は是非ともその資格のある人々でなければなりません。
2 使徒パウロはなぜ,「すべての人の血について潔白である」と言えましたか。
2 使徒パウロがエフェソス会衆の長老たちに自分について言ったことからわかるように,クリスチャンの教える者は,自分の責任の扱い方いかんによって,流血の罪を負うことにもなれば,流血の罪を免れることにもなります。使徒は言いました。「きょうこの日に,わたしがすべての人の血について潔白であることに関して,あなたがたに証人となってもらいます」。(使徒 20:26,27)エフェソス会衆のどの長老がいつ不忠実になって聖書を曲げ始め,自らの霊的破滅に向かおうとも,また仲間の信者に害を及ぼそうとも,それをパウロの責任にすることはできませんでした。(使徒 20:29,30と比較してください)流血の罪は彼ら自身が負うことになったでしょう。使徒は「神のみ旨をことごとく」伝えるべく全力を尽くしたからです。救いに必要なことは何一つ控えることなく伝えました。耳をくすぐるとか,間違った態度や言葉や行動を強力に暴露する話題を避けるなどして人気を得るようなことは,彼の望むところではありませんでした。―テモテ第二 4:3,4と比較してください。
3 パウロの模範を見て,わたしたちは会衆内で人々を教える資格を持つ人にどんなことを期待しますか。
3 クリスチャン会衆内で人々を教える資格のある
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