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その10 近代における真の崇拝の復興(1919-1932)ものみの塔 1955 | 11月15日
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宏大な9階建の近代的建物がアダム街117番地に建てられたのです。ベテルの家もこの頃には再築され,拡大されました。
カナダに於いて『ものみの塔』の文書に課せられていた検閲は,1920年1月1日から廃止されました。このことによつて,カナダ内の聖書研究者は力強い御国宣明の業に乗りだすことが可能になりました。その後まもなくのこと,アメリカ合衆国政府がルサフォード及びその7人の友に対する起訴を完全に撤回し,1920年5月5日に完全に無罪としたとき,協会の会長は欧州方面に旅行し,その方面でのヱホバのぶどう畑を力強くもり立てる業に着手できました。大規模な大会がグラスゴウ・ロンドン及びその他のイギリスの都市で開催されました。その大会上や,又後に開かれたアメリカでの大会では,次のことが明らかにされました。即ち聖書から検討して見るとき,準備の業は1918年までに完結し,今ではヱホバの民により新しい業が取り上げられ,豊富な機会をもつた運動が行われているということです。異邦人のときは1914年に終了し,天的御国はそのとき設立されていますから,『御国のこの良いたより』を伝道することは焦眉の急務でありました。ヱホバの民に,その業は彼ら凡てのなすべきものであり,又,彼ら凡ての前に置かれていたものであることが示されました。
新しい証言の業を推進し,更に中央集中化された制度を築き,証者を一丸として強く団結された力あるものとするためには,ヱホバの民の地方会衆に居た非進歩的な『選出長老』からの可成りの反対にぶつかりました。これらの人々の多くは過去のときに住むことを主張していました。それらの人々によると,ラッセル兄弟は聖書的解明を与えられる唯一のものであり,マタイ伝 24章45節にあるその『僕』であると信じられていたので,彼らは何時までもラッセル時代にとどまりたかつたのです。1920年4月1日号の『ものみの塔』及びそれに続いた研究は明確に次のことを示していました。即ち,ものみの塔協会は地上の神の民を教えるためヱホバによつて用いられている機関であり,経路であることをラッセル兄弟自身も1884年に,それ以後にもひきつづいて重ねて強調していることを明確にしました。ヱホバの天的宮から沢山の新しい霊的光がひらめいていましたから,これら『選出長老』はいつまでも後退的態度をとり,地方会衆が急速に進歩している証言の業と歩調合すのをとどめるべきではありませんでした。協会はラッセル兄弟のときにも,また現在も,ヱホバに用いられている刊行機関であり,今後もそう継続するであろうことは,正しい論でした。個人解釈をさけ,自己流の指導者に従つて暗やみへとひきづりこまれぬように警告されました。凡てのものは,それまでに斯くまで素晴らしく用いられつづけた協会にこそ,参集すべきでした。人を喜ばすことは回避すべきです。しかしながら当時,ヱホバの機関として神に用いられた協会は,各地方会衆の統治上の問題にまで,その統轄を全きまでに延ばしていませんでした。
神権的指示の芽生えは,1919年の秋に,まことに見られます。それは,1919年,10月に公やけにされた新しい雑誌『黄金時代』の業の開始されたときです。
『「黄金時代」の業は,家から家へと御国の音信をすすめる仕事であつて,我らの神の報いの日を宣明し,歎くものを慰める。すすめるだけでなく,「黄金時代」は,予約をした家庭にも,予約をしない家庭にも,必ず配布すべきである……群の働き人もその見本を指導者から入手するように』―『誰に業は委ねられたか?』 1頁。
『黄金時代』の運動をもつて開始された,この新しい野外奉仕に参加したい希望の会衆は,協会の奉仕制度として登録するようになりました。協会は,このような要請を受けとつてから,その会衆の中から『指導者』と名付けられる協会からの任命者をおきました。これは神権的な方式であつて,『指導者』は毎年の地方選挙によつて選出されるものではありません。さてこのようにして,『選出長者』のもとに,民主的な管理のもとにあつた会衆から,初めて権限が取り除かれ始め,代りに協会の国際的監督のもとに密接におかれるようになりました。このときから,会衆の野外奉仕に対する協会の部分的な神権的監督が始められましたが,『選出長老』も依然として運営され,会衆の研究とか講演を民主的な方式により管理しつづけたのです。
1921年には,地方の『選出長老』が出過ぎた行動をとり,本部の制度からは別個に,独立した民主方式を追い求め,地方の『理事』たちのように振舞つたのをいましめられました。地方の長老と会衆との関係を更に明確なものにする努力が注がれました。更に,伝道の業を達成するにあたり,ヱホバの民の全世界の統一と一致への願いがなされました。アメリカ内に発展していたこの動きを,イギリスのクリスチャンたちも同様に取るよう助言が送られました。伝道の責任を認識させるため,証言の業に参加した人々は毎週,その報告を提出するように1920年から決められました。1918年以前には,開拓者だけが奉仕活動を報告しなければなりませんでした。各々の会衆に対しても,野外活動のためのはつきりとした区域の割当てがなされていました。まことに,会衆は奉仕のために『結ばれ』ていました。このような報告のはじめられた1920年には,8052名の『群の伝道者』と350名の開拓者がおります。1922年までに,1200以上あつた会衆のうち,980の会衆は野外奉仕に携るため全く再組織され,8270名の『群の伝道者』を報告しました。1923年から幾日かの日曜日を『全世界に亘る証言』にふり当て,全地で一齊に同じ講演会を開催し,統一された運動がおこされました。この講演会の題目は『現在生存する万人は決して死する事なし』であつて,この話の宣伝にすべてのものが参加しました。
1923年の5月1日から毎月の第1火曜日は,『奉仕の日』と名付けられ,この日には,『奉仕指導者』の指示のもと,会衆の伝導者は書籍を売ることに数時間を献げました。この頃から,毎週水曜日の晩の集会の半分を割いて祈りの会にあてられ,奉仕の業についての色々の証言に使われるようになりました。ここでつけ加えますと,『奉仕指導者』は1936年に『会の僕』に,次に1953年には『会衆の僕』へとその名は変更されました。斯くして,ヱホバの民の中央集中化と部分的ながらも神権的指示が1919年に実現しましたが,それはやがて実を結び,当時全世界で伸びつつあつたヱホバの民はヱホバの宣べられていた審判を力強く宣言する準備を整えることができました。1922年10月以後から毎月,『会報』が刊行されるようになりましたが,それには,奉仕上の色々の指示がのせられて居り,『勇敢なる戦士』凡てが協会の準備した証言を記憶するようにすすめていました。その証言は『すすめ』と名付けられ,聖書文書をすすめるときに使われたものです。(1935年10月には,この月毎の奉仕指示は『指導者』と名付けられ,1936年,7月に,現在の名称『通知』となりました)これら制度からの備えは,統一された全世界の運動を遂行させ,また中央への団結を強める神権の指示を与えるに大きな役目を果しています。
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台湾,お目出とう!ものみの塔 1955 | 11月15日
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台湾,お目出とう!
台湾で勝利が得られました! それは,人間の権利を確保する勝利であり,文明人の大切に重んずる自由を得る勝利です。それは,いま台湾にある中国政府の勝利であり,今日の自由人に是非必要な理想についての正しい評価を示します。政府は,万人にたいする自由と平等権利をよろこんで認めるだけでなく,行によつてその言葉を裏づけしています。
1955年3月23日,台湾省の主席は台湾における万国聖経研究会の登記を認可しました。そして,台化にある地方法院が調査を行つて,4月25日に最終的な認可を与えたとき,その登記は実施されました。
かくして,台湾にいたヱホバの忠実な証者たちが行つて来た18年に亘る登記と宗教的自由のための戦は,ついに実を結びました。それは,称讃に値する結果です。神の僕たちの持つた強い決意,忍耐,そして忠実に対して,この報いが与えられたのです。台湾政府をも称讃すべきです。政府は以前抱いていた偏見を快よく棄て,先任者たちの為した誤りを訂正したからです。
台湾の地に生まれて,その地で育つた人が,ヱホバの証者から聖書の教えを初めて聞いてから,18年もの長い年月が経ちました。ヱホバの証者たちは一番最初から真理のために戦いました。台湾人であるそのヱホバの証者は,洗礼をうけて3週間後に,日本人により牢に入れられました。その奉仕者の記録を見ると,それから10年のあいだ,大部分の時を刑務所や拷問室で過したことが分ります。
しかし,彼は真理のために戦い続け,他の者もその戦に参加しました。日本人迫害者たちから身を護るこの世の武器を持つていなかつたので,普通の戦よりはずつとつらいものでした。しかし,彼らは神の御言葉により強められ,かつ信仰の盾や神の他の備えを持つことにより,戦い続けて行きました。外部から『ものみの塔』の雑誌が1冊も入手できず,なんらの助けもなかつたのです。同じ信仰を持つ他の信者たちとの交りはなかつたのです。はじめの10年間に,台湾の奉仕者たちの持つた交りと言えば,一番最初の台湾人奉仕者が,日本人奉仕者と結んだ1週間の交りだけでした。その日本人奉仕者が,始めて聖書真理を伝えたのです。この日本人奉仕者は大胆なクリスチャン活動を行つたため,後に日本人独裁者により射殺されました。
それから,日本人の支配者たちは去つて,中国政府が来ました。台湾にいた300人のヱホバの証者はこおどりしてよろこびました。ついに宗教的な自由が得られるでしようか? しかしその希望は束の間のものでした。中国の地方警察は,日本人独裁者の残した偽りの記録を取り上げ,それらの記録を信じたようです。そして,弾圧は続きました。ヱホバの証者のクリスチャン制度を認可してもらいたいという8通の申請書は,政府各省をのろのろと回付されて行きました。8回とも,これら申請書は却下されました。
しかし,台湾に変化が起りました。国民政府は,いまや西洋の民主主義と密接な結びつきを持つようになり,西洋の思想を取り入れました。蒋総理も,本土で失敗したことを認め,これらの失敗を真剣に訂正せねばならぬと悟りました。台湾に文明化された政府の設立を図るため,いろいろの手段がとられました。東洋の多くの国々に良くある残酷と,不正は次第次第に取りのぞかれました。そして遂に,ヱホバの証者の件が再考慮され,やつと第9番目の申請書提出のときに,台湾にあるヱホバの証者の制度は登記されました。
台湾にいるヱホバの忠実な証者たちは,この登記のため18年のあいだ根強く戦つてきました。そして,いまも忙しい毎日です。何をしていますか? 台湾の戦時統制下にあつて,合法的な集会を開くのに必要な28の御国会館を建てているのです。読者の方々が,この記事を読む時までには,それらの御国会館は完成されていましよう。そして,台湾にいる1782名の活潑なヱホバの証者たちは,他の多くの善意者とともに集会し,ヱホバ神の崇拝を行つていることでしよう。そして更に,彼らは新しい世のキリストの御国を宣明しつづけ,また法律に正しく従うことにより,崇拝の全き自由を与えた政府の信頼に答え応ずるでしよう。
文明化された台湾が,ヱホバの証者に親切を示したことは,まことにけつこうなことであり,ヱホバの証者を大いによろこばすものであります。台湾,お目出とう!
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東京に於ける巡回大会ものみの塔 1955 | 11月15日
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東京に於ける巡回大会
ヱホバの証者の秋の次の巡回大会は数日にせまりました。11月25日から27の3日間東京都新宿区箪笥町15,東京都新宿生活館で催されます。あなたは参加する御計画をたてられましたか。あなたの宿舎請求書を東京都千代田区富士見町2丁目16マッケー・パイスブルに送られましたか。ヱホバの大なる祝福が大会を通して与えられるでしよう。その機会を失われないように。
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『ものみの塔』研究ものみの塔 1955 | 11月15日
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『ものみの塔』研究
12月11日 『死後の生存』についての聖書的研究 1-21,423頁
12月18日 同上 22-40 428頁
12月25日 同上 41-58 433頁
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