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『平和を好む人は幸福です』ものみの塔 1971 | 9月15日
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立ったまま,いつまでも犬の耳をつかんでいられますか。
さて,他の人のけんかにまきこまれると,それと同じような困ったことになるのです。わたしたちは,だれがそのけんかを始めたのか,また,その人たちがなぜけんかをしているのか知らないかもしれません。一方の人がたたかれていても,その人はあいての人から何かをぬすんだのかもしれません。もしその人を助けたなら,どろぼうを助けたことになります。それはよくありませんね。では,けんかを見たらどうすべきですか。それが学校でのことなら先生のところへ走っていって知らせることができます。学校から遠く離れているところでのことなら,おまわりさんを呼べます。
他の人がけんかをしたいと思っても,わたしたちは平和を好む者になれます。他の人はけんかをしたいと思うかもしれません。でもわたしたちは,自分が正しい事柄に対して強いことを示せます。
平和を好む者は幸福である。彼らは「神の子たち」と呼ばれることになるからである。―マタイ 5:9,新。
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あなたは人々の励みとなるクリスチャンですかものみの塔 1971 | 9月15日
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あなたは人々の励みとなるクリスチャンですか
人の助けになることをして得られる喜びほど清く純粋な満足を自分の生活にもたらすものはありません。とはいえ,あなたは困っている人に施しができるほどこの世の財産を多くは持っておられないかもしれません。時間や体力の面でも同様にたいへん限られているかもしれません。しかし,神のしもべである仲間の人々に愛を示すために,あなたに必ずできることが一つあります。それは人々の励みとなることです。
人々の励みとなるとは,他の人の自信や希望を強めるような話をしたり行ないをしたりすることです。事実,英語の「カリジュ(勇気)」ということばはフランス語で「心」を意味するクールを語源としています。ですから,人々の励みとなるとは心を強めることを意味します。
他の人々が忍耐し,しんぼうし,神の奉仕から『落後』しないよう,励ましを与えることによって助けられます。そうすれば,彼らがいっそうすぐれたクリスチャンになるのを助けることになるのです。「矯正には効果があるが,励ましにはさらに多くの効果がある。譴責された後の励ましは夕立ちの後の陽光のようである」とはよくいったものです。
励みとなった人々の例は聖書の中にたくさんあります。使徒パウロが,争い合っているパリサイ派とサドカイ派の人々にあやうく引き裂かれるところをローマの兵士たちによって救い出された日の夜,主イエスは彼に現われてこう言われました。「勇気をだしなさい! あなたは,わたしにかんする事柄についてエルサレムで徹底的な証をしてきたように,ローマでもまたそのように証をしなければならないからです」。(使行 23:11,新)そうした試練のときにあったパウロは,そのためにどれほど強められたことでしょう。
パウロ自身マケドニヤのクリスチャンたちを「幾多のことばで」励ましました。またヘブル書やペテロ前書など,聖書中のいくつかの本は,その全体がおもに仲間のクリスチャンへの「勧め」として書かれました。―使行 20:2,新。ヘブル 13:22。ペテロ後 5:12。
神のしもべには人々の励みとなるようにと,再三再四助言されています。「なんぢら萎たる手をつよくし弱りたる膝をすこやかにせよ心さわがしきものにむかひていへなんぢら雄々しかれおそるゝなかれ…みよ…神きたりてなんぢらを救ひたまふべし」。(イザヤ 35:3,4)『集まり合う』ようにとの忠告がクリスチャンに与えられているおもな理由は一つに,「互いに励まし合い,その日の近づくのを見て,ますますそうする」ためです。―ヘブル 10:25,新。
励ましはたいせつな必要を満たす
たしかに,神のしもべたちにとって励ましほど必要とされ,しかも歓迎されるものはありません。この世の一部となっていないために,彼らは反対や激しい迫害に直面することも少なくありません。(ヨハネ 15:18-21)ちょうど預言者エレミヤの場合がそうであったように,そうした扱いを受けたためクリスチャンが落胆することはありうることです。(エレミヤ 20:9)彼らは励ましを通して,そうした反対に耐え抜くだけの力を与えられるかもしれないのです。パウロとバルナバが熱心に,ルステラ,イコニオム,ピシデヤのアンテオケにいるクリスチャン兄弟たちを「信仰にとどまるよう」励ましたのはそのためです。彼らふたりはこう言いました。「わたしたちは数多くのかん難を経て神の王国に入らねばならないのです」― 使行 14:22,新。
また,財政困難とか誤解,場合によっては性格が合わないことからくる摩擦といった個人的な問題をかかえている人もいます。からだのぐあいが悪い時や,ただ元気がないという時でも,クリスチャンには励ましが必要です。使徒パウロは『肉体に刺』を持ち,悩まされていました。しかし彼は主に励まされて,その弱さにもかかわらず強いと感じることができました。―コリント後 12:7-10。
さらに,自分ではどうすることもできない事情のために,王国の音信を公けに宣明したりするクリスチャン宣教に十分携われないという理由で,励ましを必要とする人々がいます。しかしそうした人々が自分のできる限りのことをしているなら,彼らを励ますべきではありませんか。わずかな額の硬貨2枚を寄付することしかできなかったやもめをイエスは称賛されませんでしたか。―ルカ 21:1-4,新。
どのように励みとなれるか
どのようにすれば人々の励みとなれますか。まず第一にりっぱな模範を示すことによってです。行ないは単に口で言うよりもはるかに大きな力を持っています。愛・喜び・平和といった霊の実を表わすことによって,他の人々に大きな励みとなれます。また,病気になった仲間のクリスチャンを訪問して励ましを与える機会についてはどうですか。イエスのたとえ話の中の“羊”が行なったのはそうした事柄ではありませんか。―マタイ 25:35-40。
クリスチャン宣教の他のさまざまな面で熱心さを表わすことについても同じことが言えます。たとえば,悪天候というような障害にもかかわらず神の王国の良いたよりを活発に伝道すれば,当然,あなたの良い模範にならうよう他の人々を励ますことになります。
神の民の集会に出席することによっても,人々の励みとなれます。使徒パウロは,ローマから自分に会いに来た兄弟たちを見ただけで,「神に感謝し,かつ勇気を出し(まし)た」。(使行 28:15,新)親しみ深いほほえみ
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