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「つまずきとなるな」ものみの塔 1961 | 12月1日
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う。自分自身に栄光を求めるかわりに,神をあがめ,制度からの教えをあおぎなさい。
不注意な行動によって
献身したクリスチャンは,特に自分の行動に注意し,許されていることが,必ずしも益にならないということをおぼえている必要があります。今日では,ある種の肉を食べたために,兄弟をつまずかせるという問題はないかもしれません。しかし,パウロがつけ加えて言ったことに注意して不さい,「そのほかなんぢの兄弟をつまづかすこと……」。―ロマ 14:21。
アメリカのある州,またある国々でもアルコール飲料が禁じられている所があります。このような場所でクリスチャンが酒にひたるなら,すぐ善意者をつまずかすことになるでしょう。飲酒が合法的に認められている所でも,酒場に足しげくかようなら,同じように悪い結果をまねくでしょう。または,社交的な集まりのさい,酔う寸前でやめたとしても,悪い印象を与えるほど飲んだかもしれません。自分が少々がまんしても,他の者に良い印象を残す方が,どんなに良いかしれません!
道徳的価値からいって疑わしいような映画や,舞台劇を見に行くばあいがあるかもしれません。そして自分なら見ても大丈夫だと思います。しかし,あなたがそういう所にはいるのを他の人がみて,よくあんなところに行けるものだと思いショックを受けるでしょう。または,ある映画が見たいばっかりに,集会をおろそかにするかもしれません。1回ぐらいなら大丈夫だと思うかもしれません。しかし,クリスチャン会衆の集まりに定期的に出席するようにと,すすめてその重要性を説いておきながら,あなたが集会を休むなら,あなたのすすめを聞いた人々をつまずかせることになるでしょう。
あるいはまた,あなたが,この世のものをゆたかに持っているかもしれません。そのために,物の扱い方が下手で不注意であるかもしれません。それはたしかに,あなたのものですが,あなたをお手本にしたいと思っている弱い人,あるいはあなたのやり方をいぶかしく思っている弱い人は,あなたの賢明でないコースによりつまずくことになりはしないでしょうか。
ある人は,献身したエホバの証者になる前,遊びとして狩猟や魚釣りが好きだったかもしれません。今もってそれが楽しみなので,市場で買うものより五,六倍高くついても,獲物を食べればよいのだからと言って,良心をなだめ,狩猟や魚釣りに興ずるというばあいがあるかもしれません。このばあい,このようなスポーツをしたことがない人を,すぐつまずかせることでしょう。しかし,食べるため,あるいは生活のために狩猟したり魚を取っても,別にわるいことではありません。
ゆたかになったので,お金に対する愛がめばえましたか。もしそうであるなら,富を得ることに熱中するあまり,他の人に対する関心がうすらぐということがないよう,注意しなくてはなりません。良い奉仕をして,良いものを与えるということ以上に,利益を得ることに関心を払ってはなりません。
両性間の作法についてはどうですか。ある人は自分に自信があり,結婚した人,あるいは婚約している人と浮気をするというような,気ままなことをするかもしれません。その人が,感情的に深くまき込まれるということは,決してないかもしれません。しかし,その人は自分の権利ではないことをしているのです。そして自分も罪におち入り,ほかの人もつまずかせることになります。それで私たち全部が次の助言を思い出すようにしましょう,「足のなえている者が踏みはずすことなく,むしろいやされるように,あなたがたの足のために,まっすぐな道をつくりなさい。すべての人と相和し……気をつけて,神の恵みからもれることがないように,また,苦い根がはえ出て,あなたがたを悩まし,それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい」。―ヘブル 12:13-15,新口。
言わなかったり,しなかったりすることにより
語るべき時に語らなかったため,クリスチャンが他の人をつまずかせる時があります。たとえば,はげましの言葉が必要な時,建ておこすような方法で話して愛を示さないなら,人々は失望します。
同様に,兄弟が病気だったり困っている時に,援助の手をさしのべますか。兄弟が未熟のばあいそうしないなら兄弟をつまずかせるでしょう。ほかの人を助けて集会や野外奉仕に伴っていくような機会に背を向けてしまいますか。天候がわるいからといい,つまり不必要に,清い崇拝にたずさわらないようにしますか。以上のようなことをすれば,弱い人を容易につまずかせるでしょう。
他の人を恐らせたと思うふしがありますか。もしそうなら,マタイ伝 18章15,16節をたてにとり,相手の者が苦情を持って,自分の所にくるべきだと言ってそのことを無視することはできません。もし,相手の者が未熟であり,この戒めに従うという気持ちが同じようにないかもしれません。それで,マタイ伝 5章23,24節(新口)の戒めに従い,私たちがその人のところに行かねばなりません,「だから祭壇に供え物をささげようとする場合,兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを,そこで思い出したなら……まず行ってその兄弟と和解し,それから帰ってきて,供え物をささげることにしなさい」。この命令に従わないなら,すぐ兄弟をつまずかせることになります。
もちろん,これらすべての点において,会衆の僕たち,そして特に監督の責任は一そう注意してつまずきにならぬようにすることです。彼らには,より深い知識と経験があり,またほかの人よりも円熟していることから,神と兄弟たちから,期待されるところも大きいのです。また,その地位のゆえにも,他の者をつまずかせやすいのです。同時に,他の者がつまずきになるようなことをしないように,見張っていなくてはなりません。使徒パウロのように感じなくてはなりません,「たれかつまづきて我燃えざらんや」。特に自分たちにゆだねられた羊が害を受けないように,「分裂を引き起し,つまずきを与える人々を警戒」しなければなりません。―コリント後 11:29。ロマ 16:17,新口。
私たち自身がつまずいたり,またつまずきになったりしないためには何が必要ですか。愛です。愛があると,私たちは寛容になり,情深くなります。愛があれば,ねたんだり,高ぶったり,誇ったり,不作法をしたり,自分の利益だけを求めたり,いらだったりしません。むしろすべてを忍びすべてを信じ,すべてを耐えることができます。愛はいつまでも絶えることがありません。―コリント前 13:48,新口。
それで,このような危険な時に,献身したすべてのクリスチャンは,愛を保つようにいたしましょう。そうすれば,つまずきになって,他の人を永遠の救いの道からはずすというようなことがないでしょう。同時に,円熟したクリスチャンなら,ほかの人が言ったりしたりしたことあるいは言わなかったり,しなかったことによってすぐにつまずいたりしないことをおぼえていましょう。
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平和を追い求める道ものみの塔 1961 | 12月1日
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平和を追い求める道
北ローデシアの新世社会
北ローデシアにおいて,昨年ほど,新世社会と古い組織制度の違いがはっきりと示された年は,今までにありませんでした。古い世が,政治的緊張とか人種的な問題で騒然としている時,エホバの証者は,神の御国のたしかな希望を人々に指し示して,平和を追い求める道を歩み続けました。
迫害下にあってたえしのぶなら,時には予期していなかった良い実を結びます。ひとりの兄弟が,婦人の訪問客に証言していたところ,その家の主人が出て来て,帰ってくれと言いました。その兄弟がたくみに反対を克服し,興味を示した婦人に証言をすませようとしたところ,家の主人は体で兄弟を外に押しだし兄弟のシャツをやぶってしまいました。翌週 ― アフリカの町では少なくとも1週間に1回働くことは普通です ― その兄弟は同じ区域で伝道していました。しかし,今度は,反対した男がいる家はぬかす方がよいと思いました。ところがその男の人は彼が通り過ぎてゆくのを見て,呼び止めてこう言いました。「私に伝道しないでなぜ行ってしまうんです?」 それで兄弟は,足をとめて聖書の話をし始めました。その話が終わった時,男の人はたずねました,「先週私がやぶったのは,あなたのシャツじゃなかったですか。そのことをなんとも思いませんか。どうして私のことを怒らないんですか」。そのアフリカの兄弟は答えました,「傷ついたのは私の体ではありませんでした。シャツならいつでも変えられますよ。たいしたことではありません」。兄弟のこの態度がふつうの人とは全く違っていたので,その人はすっかりおどろいてしまいました。そして2冊の書籍をとり,まもなくして,聖書研究が始められ,今この人は全部の集会に定期的に出席しています。―1961年のエホバの証者の年鑑より
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