ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 忍耐が必要です
    ものみの塔 1973 | 5月1日
    • 忍耐が必要です

      『なんじら神の〔意志〕を行ないて約束のものを受けんために必要なるは忍耐なり』― ヘブル 10:36,〔新〕。

      1 (イ)1914年以後も困難な時のつづくことが予想されていたのはなぜですか。(ロ)どんな困難がはっきり預言されていましたか。

      民が民に,国が国に逆らって立った1914年以後の年月は,人類にとって困難なときでしたが,それ以外のことは期待できるはずもありませんでした。わたしたちが住んでいるこの時代にかんする聖書の預言は,『ところどころにききんと地震』とがあり,しかもそうしたことは『産の苦難の始』にすぎないと述べています。(マタイ 24:7,8)黙示録 12章12節の予告によると,それは地上に災いがのぞむ時です。なぜなら,悪魔は自分の時が「暫し」しかないことを知っているからです。使徒パウロはテモテ後書の3章で,この「終わりの日」がなぜ「対処しにくい危機の時代」,多くの人が信仰も忠実さももたない時になるのかを示しています。

      2 クリスチャンはどんな苦しい状態に耐えなければなりませんか。

      2 それに加えて,マタイ伝 24章のイエスの預言は,この時代の真のクリスチャンがすべての民に憎まれ,なかには裏切られたり殺されたりする者さえあることを予告しています。それは,地ににせ予言者のいる時,不法が増加する時,人びとの愛がしだいに冷えていく時です。イエスはきたるべきこのような状態をすべて説明したのち,こう言われました。『されど終わりまで耐えしのぶ者は救はるべし』― マタイ 24:13。黙示 12:17。

      3 (イ)ルカ伝 21章の同様の記録は,クリスチャンにどんなことが生じることを示していますか。(ロ)ではなぜ忍耐は非常に重要ですか。

      3 このような時代に,神のしもべたちにとって忍耐が非常にたいせつであることは,イエスの同様の預言が記録されているルカ伝 21章でも強調されています。そのイエスの預言は,今の時代に,忠実なクリスチャンたちに苦しみと迫害がのぞむことを告げています。そこではイエスは次のように言われています。「あなたがたは忍耐によって自分の魂を得るであろう」。ですから,このことには永遠の生命を得ることが関係しているのです。―ルカ 21:12-19,新。

      4 (イ)「終わりの時」の多くの困難にもかかわらず,クリスチャンはどんな特別のわざをしなければなりませんか。(ロ)それが全世界で行なわれていることは何が証明していますか。

      4 聖書の預言によると,クリスチャンは,困難な年々を,最初から最後まで耐えまた苦しむほかに,王国の良い音信を,この事物の体制に終わりが来る前に,すべての国民への証しとして,人の住む全地に宣べ伝えるわざに従事することになっています。「1973年のエホバの証人の年鑑」が示すところによると,現在この宣べ伝えるわざは,全世界208の国で行なわれています。―マタイ 24:14。

      5 イエス・キリストの模範は,わたしたちにとってどのように助けになりますか。

      5 この「終わりの日」に,クリスチャンたちを忍耐するよう助けるものは何でしょうか。第一次世界大戦がはじまった1914年以来,多くの歳月が経過しました。そしてその間,神のしもべたちは数々の試練を経験しました。そういう苦しい状態のもとにあった時に,彼らを大いに助けたのは,多くの苦しみに耐えたイエスの模範でした。ペテロはそのことにわたしたちの注意を引いています。『汝らはこれがために召されたり,キリストも汝らのために苦難をうけ,汝らをその足跡にしたがわしめんとて模範をのこし給えるなり。彼は罪を犯さず,その口に虚偽なく,またののしられてののしらず,苦しめられて脅かさず,正しく審きたまう者に己を委ね…(給えり)』。(ペテロ前 2:21-23)わたしたちは,イエス・キリストがみ父に頼り,み父に絶えず祈られたことをおぼえています。わたしたちも,忍耐するための助けをエホバに願い求めなければなりません。―マタイ 26:39,42,44。

      6 (イ)なぜ人は倒れないように注意しなければなりませんか。(ロ)誘惑に会うときに,なぜわたしたちはエホバの助けをあてにすることができますか。

      6 苦しみに耐えるとともに,誘惑に抵抗する必要もあります。「終わりの日」における人間の悪い振舞いについて述べた,前述のパウロのことばは,悪行への強い誘惑がこの世にあるだろうことを暗示しました。したがって,クリスチャンは深い注意を怠らないように,そして誘惑に会う時に助けていただくように,常にエホバに頼っていなければなりません。パウロはコリント前書の10章で,エホバの昔のしもべたちが遭遇した,偶像崇拝とか淫行など,いくつかの誘惑についてあらまし述べたあと,次のように言いました。『さらば自ら立てりと思う者は倒れぬよう心せよ。汝らが遭いし試練は人の常ならぬはなし。神は真実なれば,汝らを耐え忍ぶこと能わぬほどの試練に遭わせ給わず。汝らが試練を耐え忍ぶことを得んために,これとともにのがるべき道を備え給わん』― コリント前 10:12,13。

      7 (イ)わたしたちには励ましとなるどんなものがありますか。(ロ)ある人たちは霊的に弱くなるということを示すどんな証拠がありますか。

      7 エホバは,わたしたちに霊的導きと励ましを与えることによって,誘惑に耐え,苦しみに負けないよう,わたしたちを助けてくださいます。また,エホバはその民に,仲間の証人の大幅な世界的増加を与えてくださいました。このことも,わたしたちの励みとなります。わたしたちは,互いに対して愛をいだいているのですから,家族の中にあっても,会衆の中にあっても,いつも他の人びとを励ましていなければなりません。多くの人が,自分の霊的必要に気づくよう助けられる必要のあることは明らかです。なぜなら,真理の光を受けて神に奉仕しはじめたあと,霊的に弱くなる人たちがいるからです。そういう人たちは,エホバの義に対する認識を失い,霊的事柄にかんするかぎり,無活動になります。(マタイ 5:3)そのように,奉仕において不活発になった人たちは目をさまし,再び活動を行なうようにすべきです。したがってこのことは,わたしたち強い者に大きな活動の分野を開きます。a ―ガラテヤ 6:1。

      8 不活発になるのはどれほど重大なことですか。それでどんな質問が生じますか。

      8 ある人がエホバに奉仕しはじめ,そのあと熱意を失っていくのを見るのは残念なことです。なぜなら,それはその人が永遠の命の機会を失うかもしれないことを意味するからです。(黙示 3:15,16)誘惑に屈し,神の律法を破って容易ならぬ罪を犯し,その結果,会衆から出されなければならない人たちの立場も,同様に重大です。排斥が関係している場合,それはいつでも,神のことばが会衆の成員に対して標準を設けているために行なわれます。(コリント前 5:9-13)問題は,どうすればこうしたことが,わたしたち自身や,わたしたちの周囲の人びとに起こらないようにすることができるかということです。忍耐力を増すには,どうすればよいでしょうか。

      西暦1世紀において

      9 (イ)どんな状態と状況のために,西暦1世紀のクリスチャンにとって,忍耐は非常に重要なものとなりましたか。(ロ)初期のヘブル人のクリスチャンたちが経験した圧迫の種類を理解するには何が役だちますか。

      9 他の人びとを忍耐するよう助ける仕方の興味深い例は,西暦33年のペンテコスト後にクリスチャンになったヘブル人と関係があります。彼らは,動物の犠牲をささげること,祭司職を認めること,神殿を維持することなどを含め,律法契約のもとで行なわれていた儀式を捨て,キリスト・イエスのあがないの犠牲によって発効した,新しい,よりよい,神の取決めを受け入れていました。それらのクリスチャンは,ユダヤ教の「事物の体制」の「終わりの時」に住んでいました。そして,エルサレムとユダヤで,同胞のユダヤ人たちのひどい,狂信的な反対に耐えました。パウロ自身も,カイザルに上訴すべくローマへ送られる前に,狂信的なユダヤ人から同様の迫害を受けました。(使徒行伝 22,23章)そのような苦しい状態のもとにあったにもかかわらず,ヘブル人のクリスチャンは,忠実を守らなければなりませんでした。加えて,彼らのすぐ前途には,ルカ伝 21章20節から24節にあるイエスの預言の成就がひかえていました。それが彼らにとって非常にむずかしい時であったことを今のわたしたちは知っています。ユダヤ人が反乱を起こした(西暦66年)ためにローマ軍が同地域に移動してきます。そして突如その軍隊は撤退し,キリストの預言を心に留めていた人びとに,逃げる機会が生じます。物質を重んじていた人びとにはそれは試みとなったでしょう。家財を捨ててユダヤから逃げるには,ほんとうに信仰がなければなりません。それで,マタイ伝 24章とルカ伝 21章は事実上小規模に成就し,大規模のほうの成就はわたしたちの時代にあります。わたしたちの時代の状態から推察すれば,西暦1世紀の,幾年かの期間にわたり,ヘブル人のクリスチャンたちにどんな圧迫がのぞんだかを,ある程度理解することができます。―1969年2月15日号の「ものみの塔」をごらんください。

      10 (イ)なぜパウロはヘブル人に手紙を書き送りましたか。(ロ)パウロはどのように彼らを励ましましたか。過去の試練を振り返ってみることは,次の試みに勇敢に立ち向かうのにどのように役だちますか。

      10 いく人かのクリスチャンの献身が冷えはじめたらしく見えたとき,パウロは,彼らを励ます手紙を書き送りました。(ヘブル 13:22)わたしたちは,使徒パウロの述べたことに注目することにより,どのように自分自身に気をつけ,また他の人びとをも忍耐するよう助けるかを学ぶことができます。人を励ますひとつの良い方法は,その人が大きな試練に直面したときにエホバがどのようにささえてくださったかを,その人に思い出させることです。パウロは言いました。『なんじら御光を受けしのち苦難の大いなる戦闘に耐えし前の日を思い出でよ。あるいはそしりと患難とに遭いて観物にせられ,あるいはかかることに遭う人の友となれり。また囚人となれる者を思いやり,永く存するもっとも勝れる所有の己にあるを知りて,我が所有を奪わるるをも喜びて忍びたり。されば大なる報いを受くべき汝らの確信を投げすつな。なんじら神の御意を行いて約束のものを受けんために必要なるは忍耐なり』。(ヘブル 10:32-36)そうです,彼らはいくつかの激しい試練を通過し,所有物を一部失いました。しかしまだ生きており,衣食その他の必需品を持っていました。ですから彼らはエホバに感謝の念をいだいて奉仕をつづけることができました。そのうえ彼らには,忍耐することによって永遠の生命を得る見込みがありました。このすべてから彼らは,エホバが,将来に来る多くの試練をも通過させうることを悟り,次にのぞむ試練を恐れるべきではありませんでした。その励ましの目的は,ヘブル人のクリスチャンたちに,エホバにかんする事柄と,忠実を保つことによって得られる賞とに対する深い認識を保たせることにありました。

      11 一部のヘブル人が霊的な機敏さを失っていたことは何が示していますか。そういう状態にあることは危険ですが,なぜですか。

      11 パウロはそれらのクリスチャンに対して,きわめて率直に書き送っています。彼らは『聞くことに鈍くなって』いました。(ヘブル 5:11)これは,彼らの耳の機能が衰えていたという意味ではなく,むしろ彼らの霊的聴力が弱く,霊の事柄に対する機敏さに欠けていることを意味しました。彼らは,エホバのことばと目的に対して多少無関心で,自分たちの霊的な必要にむとんちゃくでした。おそらく,自分たちの立場の危険なことに気づいていなかったのでしょう。だれかが警告を与えねばなりません。そこでパウロは,彼らの当面の必要は,だれかに,神の聖なることばの初歩を最初から教えてもらうことだ,と述べました。

      12 (イ)霊的聴力が弱くなった人を助ける最善の方法は何ですか。(ロ)初歩の真理で満足することなく,元気を取りもどすよう励ますのに,パウロはなんと言いましたか。

      12 これこそまさに,不活発になり,霊的に眠りに落ち入った人びとを助けるための定則です。つまり真理を教えなおすことです。霊の事柄を聞くことに鈍くなれば,神のことばの堅い食物を取り入れることはしません。そういう人たちは,霊的には乳しか飲めない赤ん坊のようになり,神のことばの強力な真理を理解しません。(ヘブル 5:13)赤ん坊は自分で自分のことができないので,世話をしてくれる者が必要です。赤ん坊は,正しいか,まちがいかを決定することができません。確かにクリスチャンはそのような状態でいることはできません。なぜなら,決定をまちがえることは,エホバの恵みと,命そのものを失うことになるかもしれないからです。もし忍耐したいのであれば,彼らは知力と聖書とを用いて堅い食物を取り入れ,何が正しく,何がまちがいかを決めるための基礎を持たねばなりません。ヘブル人の場合にはパウロは,真理の知識を増し加え,円熟に向かって進むように彼らを動かしました。(ヘブル 6:1,2)パウロはそれらのクリスチャンを,倒れてしまって再起の見込みのない人びとの部類には入れず,むしろこう述べました。『愛する者よ,われらかく語れど,汝らには更に善きこと,すなわち救にかかわる事あるを深く信ず。神は不義にいまさねば,汝らの勤労と,前に聖徒につかえ,今もなおこれにつかえて御名のためにあらわしたる愛とを忘れ給うことなし。我らは汝らがおのおの終まで前と同じ励みをあらわして全き望を保ち,怠ることなく,信仰と耐忍とをもて約束をつぐ人々にならわんことを求む』。(ヘブル 6:9-12)パウロのこのことばは,わたしたちにとっても大きな励ましです。

      認識を深める

      13 ヘブル人への手紙の冒頭の章で,パウロはどのように,エホバが行なわれたことへの認識を深めさせることをはじめますか。

      13 使徒パウロによって書かれたこの手紙を調べるとき,わたしたちは,クリスチャンが他のクリスチャンの思いに,霊の事柄への認識を築き上げることのたいせつさを悟ります。使徒は手紙の冒頭の1,2章の中で,エホバがその昔(多くの場合み使いたちから情報を受けた)預言者たちを通して,ご自分のしもべたちに語られたことを述べています。(ガラテヤ 3:19と比較してください)ヘブル人は歴史に通じており,エホバが,彼らの先祖たちと交渉するさいにみ使いを用いられたことを知っていました。それはすばらしいことでした。もしわたしたちのうちのだれかが,エホバのみ使いから直接に話しかけられたなら,そのことは生きているかぎり忘れられないでしょう。しかし,1世紀においては,クリスチャンたちのために,特別のことが行なわれました。はるかにすばらしいことが生じたのです。つまり神は,み使いよりもずっと高い地位におられたみ子を通して語られたのです。『いずれの御使に[神]かつてかくは言い給いしぞ「われ汝の仇を汝の足台となすまでは,我が右に坐せよ」と』― ヘブル 1:13。

      14 聞いた事柄に対して普通以上の注意を払う必要があるのはなぜですか。

      14 理性のあるクリスチャンは,これらの偉大な真理を認識し,この神のみ子の言われることに注意を払うことがいかに重要であるかを悟ります。そこでパウロは次のように書きます。「こういうわけだから,わたしたちは,聞く事柄に普通以上の注意を払う必要があります。わたしたちが決して漂い出ることがないためです。天使たちを通して話されたことばが確かなものであって,違背および不従順な行為がことごとく,公正にのっとった懲罰を受けたとすれば,わたしたちの主によって話しはじめられ,彼の話を聞いた人々によって,わたしたちのために確証されたという点でこれほど偉大な救いをなおざりにするなら,わたしたちはどうしてのがれうるでしょうか」。(ヘブル 2:1-3)したがって,もしわたしたちが,聞いた事柄に普通以上の注意を払わない傾向を持っているなら,わたしたちは必ず漂い出て,永遠の命を失います。

      15 (イ)舟はどのように漂い出ることのたとえになりますか。(ロ)クリスチャンは,神とクリスチャン会衆からどのように漂い出るかもしれませんか。

      15 パウロがこの「漂い出る」という表現を用いていることを考えると,たいへん興味深いものがあります。たぶんあなたは,だれかが小舟に乗って来て,岸へ着くと舟をつながずに大急ぎで行ってしまったのを,見たことがあるかもしれません。もしその舟を見守っているなら,その舟が流れと風に乗って岸から離れていく速度は,最初のうちはゆっくりしていることがわかります。しかし時がたつにつれてそのボートは湖をしだいに遠くへ漂っていきます。一方,絶えず見守っていないなら,少しあとで,ボートが遠く湖心に出ているの見て驚くでしょう。ですから漂い出る過程は一般にゆっくりしています。これは,クリスチャンが,「聞く事柄に普通以上の注意を払う」のをやめ,『聞くに鈍くなる』時に起こりうることです。霊の事柄に対する認識を失うにつれ,その人はしだいによくない習慣がつき,勉強をしなくなったり,クリスチャンの集会に欠席したりするようになるでしょう。他の人びとに良いたよりを伝えることが不定期になるのは,湖を急速度で横断するスピードボートのように起こるものではなく,むしろカヌーが,少しずつ,安全な係留場から漂い出る時のように,ゆっくりとした過程です。それは実際に使徒パウロが呼んでいるもの,すなわち『救いをなおざりにする』ことです。

      16 (イ)ヘブル書 2章10,14,18節に述べられているようなどんな重要な真理にわたしたちは感謝すべきですか。(ロ)わたしたちは忍耐を試みられる時にどうすべきですか。

      16 わたしたちの敵,つまり苦しみの原因と救いを失う原因をつくり出す者は,サタン悪魔です。キリスト・イエスがこられたことにより,悪魔を無に帰せしめる手段は確実なものになりました。キリストは救いの主要な代理者となり,この備えをすべく死なれました。(ヘブル 2:10,14)確かにクリスチャンは,このすばらしい救いの準備を,深い感謝をもって見るべきです。パウロは,苦しむヘブル人の兄弟たちに対して,キリスト・イエスはわたしたちの立場を理解してくださる,ということを力説しました。イエスもかつては人間として苦しまれました。パウロはこの事実を指摘して大きな励ましを与えました。『主は自ら試みられて苦しみ給いたれば,試みらるる者を助け得るなり』。(ヘブル 2:18; 4:15,16)そうです,クリスチャンは,天に生きたキリストがおられて,自分たちが試みられる時にはすぐに助けに来てくださることを知っています。ですからこの次にあなたの忍耐と忠実がきびしい試みに会う時には,この神の援助を祈り求めてください。

  • 忍耐するよう他の人びとを励ます
    ものみの塔 1973 | 5月1日
    • 忍耐するよう他の人びとを励ます

      1 (イ)パウロはヘブル人の兄弟たちに,どうすることを勧めましたか。(ロ)どれほどしばしば励まし合うのはよいことですか。

      使徒パウロが,エルサレム市にあったヘブル人のクリスチャン会衆にあてて力強い手紙を書き送ったのは,エルサレムが,西暦70年にローマ人によって滅ぼされるわずか9年ほど前のことでした。前の記事ではわたしたちはその手紙の1,2章で彼が述べていることを取り上げました。クリスチャンになったヘブル人たちへのその手紙の第3章では,パウロは,子として神の家に忠実であった,使徒であり大祭司であるイエスを思いみなさい,とヘブル人の兄弟たちに勧めています。もしクリスチャンたちが,はばからずに語ることと,希望の誇りとを最後までしっかりと持ちつづけるなら,彼らの前には神の家の一員となる機会があります。それは忍耐を意味します。クリスチャンは,「活ける神を離れんとする不信仰の悪しき心」をいだくことを避け,むしろ「今日」といううちに日々互いに勧め,励まし合わなければなりません。―ヘブル 3:12,13。

      2 ヘブル書の4章で,パウロはどのように兄弟たちを激励しましたか。

      2 聖書の中には,わたしたちが熟考すべきりっぱな助言や模範がたくさんあります。パウロは,エルサレムにいたヘブル人のクリスチャンたちを励ますために,それらの模範をいくつか彼らに思い出させました。パウロは,神が古代イスラエルにあいそをつかされ,エジプトを出てきたヘブル人の,年の古いほうの者たちのほとんどに,約束の地へはいるのを許されなかったことについて述べました。なぜ許されなかったのでしょうか。なぜなら,彼らは信仰を欠き,不従順に振舞ったからです。ところで,わたしたちも,同様に約束を得そこなうことがないようにしなければなりません。良いたよりはわたしたちに宣明されました。もし信仰を働かせるなら,わたしたちは確かに『神の休み』にはいることができます。ですからわたしたちは,エジプトから出てきた人びとが落ち入ったのと同じ不従順の型にはまらないように,互いに勧め合い,励まし合うのです。わたしたちは,自分に告げられた良いたよりを常に高く評価し,信仰を強く保たねばなりません。自分の生活の中で,神のことばにその力を発揮させましょう。「神のことばは,生きていて,力を出し,どんなもろ刃の剣よりも鋭く,魂と霊,また関節とその骨髄とを分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができるからです」― ヘブル 4:1-5,11,12,新。

      3 どんな状況は,ヘブル人のクリスチャンにとってわなとなったかもしれませんか。

      3 1世紀のそれらヘブル人のクリスチャンたちは,伝統的なラビの宗教を実践する,そして律法契約は終わったにもかかわらずそれを守ろうとするユダヤ人の大群衆のまん中に住んでいました。クリスチャンは少数者でしたから,人気がなく,迫害され,憎まれました。しかし彼らは,憎しみと迫害を避けるために,ユダヤ教にもどることなど少しも考えてはなりませんでしたし,会堂と関係のある社交的祝祭に心を引かれてもなりませんでした。彼らは,キリストが律法を成就されたことについて健全な知識と理解を持っていなければなりませんでした。それは,ユダヤ教と,動物の犠牲をささげることとに逆もどりしないようにするためで,その時までには,そうした事柄はすべて,神の目にはむなしい,効力のない儀式にすぎないものになっていました。

      4 ヘブル人を強めるために書き送った手紙の中でパウロが述べている教理をあげなさい。

      4 こうした状態のもとにあって,エルサレムのクリスチャンたちがさらされていた圧迫と迫害を,使徒パウロ以上に理解し得た人がいたでしょうか。元パリサイ人のパウロ以上に,ユダヤ教の伝統に対する強力な反論を彼らに供給する備えのあった人がいたでしょうか。ガマリエルに師事して学んだモーセの律法にかんする知識をもって,パウロは,キリストが律法および律法の儀式や犠牲の成就であり,しかも前の制度は,いまやはるかに栄光ある実体に置きかえられたという,議論の余地のない証拠を提出することができました。キリストにかんするすべての驚くべき,輝しい,新しい教えが,ヘブル語聖書からの非常に多くの証拠とともに,ユダヤ人の改宗者たちに示されたので,道理をわきまえた人はみな確信を与えられ,霊的に強められずにはいませんでした。ヘブル人への手紙には,兄弟たちに対するパウロの深い愛と,兄弟たちの霊的必要が非常に大きい時に,実際的な方法で彼らを助けたいという燃えるような願いが表われています。

      古いものに対する新しいものの優越性

      5 新しいキリスト教制度のまさっていることを彼はどのように強調しましたか。

      5 ヘブル人へのこの手紙をよく考えてみると,神がご自分の民のためにつくられた新しい取決めのまさっていることをパウロが強調していることがわかります。この新しい事物の体制下においては,イエス・キリストが永遠に大祭司となられました。この大祭司は,昔のレビ族の時代の大祭司たちとは異なり,後継者を全く必要としません。それらの大祭司たちがしたように,自分自身の罪のために,次いで民の罪のために,日々犠牲をささげる必要もありません。彼は民の罪のために一つの永遠の犠牲をささげることができました。そして神の右にすわられました。―ヘブル 6:20; 7:11-28; 8:1; 9:6-28。

      6 なぜ新しい契約は律法契約よりもずっとまさったものですか。

      6 いまや,律法契約がなしえなかったことを行なう新しい契約が効力を発しました。律法契約は人びとに彼らの罪を常に思い出させ,彼らが犠牲をささげつづけることを要求しました。それにもかかわらず,律法契約は人間のために,永遠の命を受ける道を開くことができませんでした。パウロは,エホバが結ばれる新しい契約にかんするエレミヤの預言を引用しました。『「この日の後,われ彼らと立つる契約はこれなり」と〔エホバ〕いい給う。また「わが律法をその心に置き,その念に銘さん」』。彼はつづけて引用します。『この後また彼らの罪と不法とを思い出でざるべし』。『かかる赦ある上は,もはや罪のためのささげ物をなす要なし』とパウロは論じます。(ヘブル 10:16-18〔新〕; 8:7-13。エレミヤ 31:31-33)したがって新しいものは多くの面で古いものよりもまさっています。

      7 (イ)パウロは信仰を持つことの重要さをどのように強調しましたか。(ロ)イエスの模範は信仰と忍耐の関係をどのように示していますか。

      7 ヘブル人へのパウロの手紙の11章では,信仰が絶対に必要なものとして強調されています。信仰がなければ,神を喜ばすことは不可能だからです。クリスチャンになったヘブル人たちは,彼らの先祖たち,昔の忠実な人びとについてよく知っていました。それでパウロは,アブラハムや他の信仰の人びとの経験を,励ましの手段として用いることができました。それらの神の人びとは,多くの試みに会って,強い信仰を保つことが絶対に必要であることを実証しました。つぎにパウロは12章の中で,わたしたちの信仰の主要な代理者そして完成者に言及して結論とし,次のように述べます。「この故に我らはかく多くの証人に雲のごとくかこまれたれば,すべての重荷とまとえる罪とを除け,忍耐をもて我らの前に置かれたる馳場をはしり,信仰の〔主要な代理者〕またこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歓喜のために,恥をもいとわずして〔刑柱〕をしのび,ついに神の御座の右に座し給えり。なんじらうみ疲れて心を喪うことなからんために,罪人らのかくおのれに逆いしことを忍び給える者をおもえ』。(ヘブル 12:1-3,〔新〕)キリストの忠実な忍耐は,わたしたちがみならうべき模範です。イエスは信仰により,死の経験を越えた,前方にある喜びを見ることができたので,反対や苦痛に耐えました。もし信仰が強く,前途にある新秩序を胸に描くほどであるなら,わたしたちも忍耐できるはずです。このようにキリストの模範の優越性と,キリスト教制度に霊的スポットライトをあてつづけることによって,パウロは,神聖な物事に対する評価を高く保つことを,仲間の神のしもべたちに説き勧めることができました。

      神聖な物事を認識するように励ます

      8 清さと,神聖な物事に対する認識とは,忍耐とどのように関係していますか。

      8 彼はまた,清いことと清潔であることの重要さを示し,それらをすべて次のように結びつけました。『力めてすべての人と和ぎ,自ら潔からんことを求めよ。もし潔からずば,主を見ること能はず。なんじら慎め,恐らくは神の恩恵に至らぬ者あらん。恐らくは苦き根はえいでて汝らを悩まし,多くの人これによりて汚されん。恐らくは淫行のもの,あるいは一飯のために長子の特権を売りしエサウのごとき妄なるもの起らん。汝らの知るごとく,彼はそののち祝福を受けんと欲したれどもすてられ,涙を流してこれを求めたれども回復の機を得ざりき』。(ヘブル 12:14-17)そうです,エサウは,空腹感というちょっとした圧迫のもとに置かれた時でさえ,神聖な物事に対する認識を保ちえなかったのです。彼には,忠実な者たちにのぞむことになっていた喜びを心に描くのに必要な信仰がありませんでした。彼は非常に小さな試みに耐えることができませんでした。この「終わりの日」には食糧不足が生じ,わたしたちも空腹を感じる時があるかもしれません。しかしそれは,神のしもべとしてのわたしたちの祝福された立場を捨てる理由にはなりません。エホバはわたしたちを助けて,大小にかかわらず,すべての試みを通過させてくださいます。(マタイ 4:1-11)この点で,イエスはわたしたちのすばらしい模範です。

      9 霊的な事柄と,忍耐する必要とを認識するように自分自身気をつけ,また他の人を助ける最善の方法のひとつは何ですか。

      9 聞くに鈍くなるかもしれない人びと,またいつのまにか不活発になっていく人びとの救済法として,パウロは次のことを勧めます。『また約束し給いし者は忠実なれば,我ら言いあらわすところの望を動かさずして堅く守り,互いに相顧み愛と善き業とを励まし,集会をやむるある人の習慣のごとくせず,互いに勧め合い,かの日のいよいよ近づくを見て,ますますかくのごとくすべし』。(ヘブル 10:23-25)このことばからわたしたちは,霊的な物事に対する認識を保つために,集会に出席することと,集会でいつも参加することのたいせつさを感じます。弱くなった,あるいは聞くに鈍くなった人は,わたしたちがクリスチャンの集会にその人を連れてくることによって,思いを新たにするか,あるいは愛とよきわざに励まされます。実際,神のこの備えに代わるものは何もありません。

      10 (イ)なぜ今,お互いに励まし合っているべきですか。(ロ)どんな資質が,兄弟たちを励ますように人を動かしますか。

      10 パウロは,互いに励まし合いなさい,そしてかの日が近づいているのを見てますますそうしなさい,とわたしたちに告げています。わたしたちは歴史のこの時期,すなわちサタンの支配の終わりが近づいているときにいるのですから,お互いを常に励まし合うことが非常に必要になってきます。今日の真のクリスチャンのほとんどは,初期のクリスチャンに反対し彼らを迫害したユダヤ教制度から出てきたのではないかもしれませんが,それでも,多くの誘惑に取り囲まれ,各方面から加えられる迫害と憎しみの圧力のもとにあります。わたしたちは大いなるバビロンから出てきました。場所によっては大いなるバビロンは依然として物質的に繁栄しているように見えます。しかしわたしたちは確かに彼女の悪行にもどりたいとは思いません。ペテロはそういうことのないように警告を与えています。(ペテロ後 2:21,22)今は,自分が学んだ神聖な物事に対する評価を高く保つべき時です。クリスチャン会衆内には愛がありますから,兄弟姉妹たちが忍耐して,永遠の生命への道を歩み続けるのを見たいとだれもが思います。ですから,今こそ互いに勧め合い励まし合う時です。わたしたちひとりびとりが,兄弟たちを励まし助けるために使徒パウロの行なったことをおぼえておくことができます。パウロは,神がその民のためにつくられたこの新しい,よりすぐれた取決めのまさっていることを彼らに力説しました。ですからわたしたちは,この世やこの世の宗教制度に漂い出るような傾向をもつべきではありません。

      11 パウロがヘブル人に書き送った霊的な事柄によって,わたしたちはどのように益を受けますか。

      11 エホバが永遠の祭司制を通して設けられたすばらしい備え,新しい契約の益,キリストの一つの犠牲を通しで罪を永遠に取り除くこと,などについて思い出して,わたしたちもパウロがヘブル人に告げたことから益を受けることができます。わたしたちは,こうした事柄を幾度も聞いてきたかもしれませんが,しかしこれはありふれた,普通のことではなく,きわめてまさったことなのです。真理をくりかえし語ることは人を強めます。この『終わりの日』に,エホバの献身したしもべとしてわたしたちすべてが享受している霊的益について話すよい機会は,たくさんあります。これらの非常に重要な事柄をお互いに思い起こさせるようにすれば,わたしたちは,徐々に漂い出ることがないよう,互いに助け合うことになります。

      霊的な益

      12 (イ)永遠の生命を得る方法を知っているということは,なぜ現在それほど特別な事なのですか。(ロ)現在,比較的にわずかの人しか知らない他の事柄にはどんなものがありますか。

      12 わたしたちがエホバのクリスチャン証人として互いに話し合える霊的益にはどんなものがあるでしょうか。それは非常にたくさんあります。まず,わたしたちはどのようにして命を得るかを知っている,と言うことから始めることができます。わたしたちはキリストのあがないの犠牲に感謝しています。(ロマ 6:23)まだユダヤ教に属していて依然メシヤの到来を待っている人びと,あるいは,キリストおよび命の希望についてわずかしか,または全く知らない人びとのことを考えてごらんなさい。(コリント前 1:18,23)あるいは,キリスト教世界のことを考えてごらんなさい。多くの偽りの理論や哲学と混合してしまい,キリストによる救いへの道を歩んではいません。(マタイ 15:1-9と比較してください)それとは対照的に,エホバのしもべたちは,大いなるバビロンの伝統から解放されました。(ヨハネ 8:31,32)わたしたちは,煉獄や地獄での苦しみを恐れて生活してはいません。死者は無感覚であることをわたしたちは知っています。わたしたちにはすばらしい復活の希望があります。(ヨハネ 5:28,29。テサロニケ前 4:13-18。黙示 20:4-13)わたしたちは三位一体という偽りの教理によって混乱させられてはいません。数々の迷信から解放されましたから,お守りや彫像や偶像に頼ることをしません。宗教儀式として山腹をひざではい登ったり,祭壇までひざではっていく必要もありません。わたしたちは,キリスト教世界の偽りの牧者たちに霊的に打ち捨てられて苦しんでもいなければ,僧職者たちに圧迫されてもいません。(コリント前 10:14。マタイ 9:36。ルカ 22:25,26。コリント後 1:24)これらの真理は,比較的に少数の人しか理解していない,特別のものです。

      13 エホバに奉仕する人たちは,悪霊崇拝からどのように守られますか。

      13 占星術や占いなど,多くの事柄に現われている悪霊崇拝の危険を認識するよう,エホバがご自分の民の思いと悟りを開き,またそれからどのように守っておられるかを考えてごらんなさい。(申命 18:10-12。コリント前 10:21。ガラテヤ 5:19,20。テモテ前 4:1。黙示 18:4,23)ほかの人たちは恐れていても,わたしたちは交霊術を恐れる必要はありません。―民数 23:21,23。箴 18:10。

      14,15 世界の歴史のこの時期において,神のしもべたちはどんな強みを持っていますか。

      14 世界の状態は日増しに悪化しています。人びとは,こようとしていることを恐れて,きもを失っています。すべての人びとの中で,将来に対する真の希望を持っているのはエホバのクリスチャン証人だけです。これらのクリスチャンたちには,慰め強めてくれる愛のある兄弟たちがいます。困る時にはほかの人たちが来て助けてくれます。とりわけ大いなるバビロンが,激しい状態のただ中で滅びる時こそ,これらの忠実なクリスチャンたちが,互いに慰め助け合って,エホバの救いを見る時です。であれば,エホバの民の隊伍の中にいることによって,確かに多くの祝福を受けることになります。―ルカ 21:26。テサロニケ前 5:12-15。黙示 17:15-18; 19:1。

      15 わたしたちは悪の存在が許されてきた理由を知っています。「終わりの日」の意味も理解しており,世界の政治や混乱に巻き込まれる必要はありません。真のクリスチャンは,この「終わりの日」のストライキや暴動や反乱,不法行為などに巻き込まれません。このことはすべて,わたしたちにとっては保護です。―出エジプト 9:15,16。ヨブ 1:6–2:10。ヨハネ 6:15; 17:16。ロマ 13:1-9。

      16 神のことばを知っており,またそれに従って生活するために,わたしたちが個人的に得ている益にはどんなものがありますか。

      16 エホバの証人には個人的にも多くの益があります。この古い事物の体制の中にいる希望のない人びとがもつ心配を経験しないので,わたしたちは多くの苦悩を避けることができます。心配は心臓病の主因のひとつです。わたしたちは,道徳にかんするエホバの律法に従うことによって,この「終わりの日」に急速に広がっているこの世の性病を避けます。わたしたちは喫煙しません。これは,現在多くの人びとを苦しめているがんに対する保護となります。わたしたちは泥酔しません。ですから,心身に破壊的影響を与えるアルコール中毒に悩まされることもありません。かけ事がもたらすいろいろな不幸に悩むこともありません。この世の祝祭日は,多くの人びとが,「祝日の精神」を示すために借金をする原因になります。彼らはそのあと何か月も費やして借金の返済に努めます。それとは対照的に,神のことばの真理にかんする知識はわたしたちを幸福にします。そしてしあわせな心は良いくすりであると言われています。また真理を他の人びとに与えることにも大きなしあわせがあります。ですから,あらゆる面で多くの益があります。―ピリピ 4:6,7。ガラテヤ 5:19-23。箴 4:20-22。マタイ 5:3-12。使行 20:35。

      17 神の律法を守ることによって,クリスチャンの家族はどんな益を受けますか。

      17 エホバの律法を尊重しないために,たくさんのこの世的な家族が崩壊してしまいました。しかし,エホバの教えは,家族の一致を保つようわたしたちを助けてくれます。両親から,クリスチャンの活動を正しく教えられている子どもたちは,聖書に従うので,今日広く流行している,そして大きな苦悩と不幸に終わる非行と麻薬常用の悪影響から守られます。―エペソ 6:1-4。箴 3:1,2。

      18 クリスチャン同志の交わりが,この世の人びととの交わりよりもまさっていることを,聖句を用いて示しなさい。

      18 クリスチャン会衆内での交わりや,兄弟たちとの交わりは,大きな祝福です。霊の実を結んでいる人たちの近くにいることは,ほんとうに楽しいことだからです。ですからわたしたちは,非常に有害な肉の働きに巻き込まれないのです。―箴 17:17。ガラテヤ 5:22-26。コリント前 15:33。

      19 (イ)エホバに感謝すべき理由がまだありますか。(ロ)どうすれば最後まで忍耐できますか。

      19 エホバの取決めがそのしもべたちに与える祝福を数えあげれば,何時間でも費やせるでしょう。西暦1914年に王イエス・キリストが天で支配を開始されてからのちの神の王国が何を意味するかを,エホバのしもべたちのほかにだれが悟りうるでしょうか。(詩 2:4-6; 110:1,4。ダニエル 2:44; 7:13,14。マタイ 11:25-27; 13:44。黙示 11:15-17; 19:11-21)その王国の支配下で,エホバがこの地球を楽園にし,その中で人間が永遠に生きるということを,ほかにだれが理解しているでしょうか。(黙示 21:1-5。詩 37:9-11,29。伝道 1:4。イザヤ 65:17,23。エゼキエル 34:25-27。ルカ 23:42,43)神のことばを読む時には,エホバがあらゆる面で,わたしたちの必要とするものを備えてくださったことを考えつづけてください。そうすれば,エホバに対する感謝の念を失うことはありません。(ロマ 8:28)人を強くし励ますのは,エホバの良いものに対するこの種の認識であり,エホバの多くの祝福をこのように考えつづけることです。わたしたちが話題にするのはこうした事柄です。(使行 14:21,22。コリント前 14:3)以上のような方法でわたしたちは霊性を保つよう,互いに助け合うことができます。たとえ試練がのぞんでも,わたしたちは,忍耐するための助けとなる多くの備えをエホバから与えられています。(ヤコブ 1:12)個人としても,会衆としても,わたしたちは信仰を固くしたので,この「終わりの日」にのぞむ誘惑やいろいろの悪影響に抗して良いたよりの宣明に参加し,最後まで忍耐しうる非常によい立場にあります。それでわたしたちも,使徒パウロと同じ決意を持ちましょう。「ところで,わたしたちはしりごみして滅びるような者ではなく,魂を生きながらえさせるための信仰を持つ者である」― ヘブル 10:39,新。

      [272ページの図版]

      集会で考えを述べることにより,忍耐するよう互いに励まし合い勧め合う

      [273ページの図版]

      わたしたちが話題にする事柄は,ほんとうに霊的益をもたらすものだろうか

  • ねばり強さ
    ものみの塔 1973 | 5月1日
    • ねばり強さ

      ◆ 他の人のために良いことをしようと努めているときでさえ,時にはかなりのねばり強さが要求されます。このことは,最善の事がらを行なう,つまり人びとが神のことば聖書を理解し,適用して,神の祝福にあずかるよう援助しているエホバの証人の奉仕者についてもしばしばあてはまります。

      マレーシアに住むエホバの証人のある婦人の奉仕者は,大きな家のうしろのガレージに住んでいる中国人の少女を訪問し,「失楽園から復楽園まで」と題する中国語の聖書研究の手引を配布し,その少女との無償の家庭聖書研究を行なうため,ふたたび訪問する取り決めが設けられました。婦人がふたたび訪問したときには,少女は山のようなたくさんの洗濯物に忙しくアイロンをかけており,その本は全然読んではいませんでした。土曜日は少女の休みの日だったので,その日に訪問する取り決めが設けられました。二度目に訪問してみると,部屋いっぱいに親せきの人が来ており,そのうえ,少女はやはり山のようなたくさんの洗濯物にアイロンをかけていました。次の土曜日に三度目に訪問したその奉仕者は,少女がアイロンかけの仕事をまだかかえているのを知りました。しかし,少女は依然として無償の聖書研究に関心をいだいており,聖書の勉強に加わるよう肉親の姉妹に話すつもりでいました。次の訪問つまり四回目の訪問のさい,少女の姉妹も聖書の勉強を望んでいるとの良い知らせに接しました。そこで,3㌔ほど離れた姉妹の家で翌週集まることになりました。

      次の土曜日は早くから雷雨になりそうな空模様でしたが,そのエホバの証人は約束を破りたくはなかったので,とにかく出かけましたが,途中でずぶぬれになってしまいました。家についてみると,戸にはかぎがかかっており,だれもいませんでした。その証人は,『もう一度だけ,少女に機会を与えてあげよう』と考えました。

      六度目に少女の家を尋ねたところ,少女は先回のことを心からあやまり,次の土曜日に聖書研究を行なう取り決めが設けられました。七度目の訪問で聖書研究が実際にはじまり,それ以後研究がとどこおったり,中断されたりしたことは一度もありませんでした。その中国人の少女はよく勉強し,エホバの証人のクリスチャンの集会にも出席し始め,そして今では任命された奉仕者になりました。このすべては,良いことをねばり強く行なったからこそもたらされたのです。―ガラテヤ 6:9。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする