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    ものみの塔 1961 | 12月15日
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      エフ・ジェー・フランスキーの経験談

      私が少年のころのカナダ西部の大平原には,インデアンがいました。私は牧場のカウボーイでした。その仕事は忍耐を要します。が,その報いはごく限られたものです。1921年,新しい生活が私に開かれ私は神に奉仕するため西部で生涯の大半をすごして忍耐しました。だが,その報いは実に大きなものでした。

      神のみ言葉を注意ぶかく研究したとき,私は他の人々に生命を得させるための教育のわざがあるということを知りました。1925年の「ものみの塔」の記事「国民の誕生」は,私の決意をかたくしました。私はその記事を再読しました。そして,読んで行くにつれて,神の御国についての私の認識は深まりました。神のみ国は実にすばらしいもの絶対的なものです。私はその奉仕に,自分の持つ一切のものを投げ出しても価値があると,考えるにいたりました。

      満足感をおぼえさせる奉仕

      その年,私の兄弟と私はコルポター奉仕に自発的に参加しました。ものみの塔協会は,大平原地方の諸学校で聖書講演をさせるため,4つの「学校チーム」のひとつとして私たちを派遣しました。人々の受けは良いでした。校舎の外では馬が珠数つなぎにつながれ校内ではカウボーイが耳をすませて講演を聞きました。講演の題のひとつは,「地獄は熱いか」で,私たちが聖書の地獄は墓と同じく冷たいと説明したとき,牧師たちはかんかんに怒ってあつくなっていました。あるとき,ちょっとした手ちがいから,政治家と私がいっしょに登壇したことがありました。政治家の顔は,なんと赤かったのでしょう! しかし,聴衆は,その取りきめを楽しみました。全くのところ,私たちが滞在した家族の人々は,音信を受けいれ,その娘のひとりは開拓者として全時間の伝道のわざを始めました。

      1929年になると,新しい分野における忍耐が必要になりました。協会は私をニューファンドランドに派遣して「モートン」というスクーナー船を管理させました。そのとき私は船のことを何も知りませんでしたが,それから後の年月中,私は多くのことを学びました。私のパートナーであるジミー・ジェームスと私は,ニユーファンドランドの外港全部とラブラドルの各地を伝道しました。しばしば私たちは荒海,濃霧,そして大浮永群にぶつかりました。あるときには,全速力で,海上にかくれていた岩にぶつかったこともあり,別の時には巨大な氷山のうしろに閉じこめられたこともありました。その永山は夜のうちに港口に動いて行きました。冬私はしばしば犬のチームを連れて海岸を旅行しました。私たちは聖書文書を提供し,交換物としてエスキモー人から毛皮と皮の品物,ニューファンドランド人から現金,乾魚あるいは他の品物を受けとりました。文書の配布量はばくだいなものでした。それは満足感を与えてくれる仕事でした。

      1931年,私はモントリオールにいました。そこでは荒海と闘う必要がありませんでしたが,かわりに牧師にそそのかされたケベックの暴徒たちがいました。彼らの行動が事前に分からないという点では,荒海と変わりません。私たちが聖書から伝道しようとすると,暴徒は私たちの跡を追ってきました。警察までも牧師たちの言付けに従いました。そして,市内のどの警官も私たちを捜しているように見えました。私たちはしばしば警察署に連れて行かれましたが,中止しませんでした。私たちは次の聖句を知っていました,「善を行って苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである」。―ペテロ前 2:20,新口。

      翌年,私は一群の開拓者たちの責任者になりました。この開拓者たちは,もっぱら野外奉仕を行ない,オンタリオ郡中で週末の大会を開いていました。それは興味ぶかい仕事でしたが,たいへんつらいものでした。不幸なことに私は力を貯えることを学ばず,がむしゃらに働き過ぎました。同年の秋,私は再発性神経衰弱になってしまい,変化が必要になりました。

      アメリカ・トナカイの中で忍耐

      私は西部海岸に戻り,以前警官をしていた人といっしょになって,伝道に没頭しました。伝道したところは,有名なアメリカ・トナカイ牧場地と中央ブリティシュ・コロンビアの金鉱山地区で,私たちは鉱夫,きこり,罠をしかける人,カウボーイ,インデアンの中で伝道をしました。それは男の仕事で,荒々しいものでしたが,同時に産出の多いものでした。定住地はまばらであって,町と町のあいだ,および一つの訪問地から別の訪問地までの距離が,非常に離れていたので,食糧を携行するのがむずかしいでした。私たちはライフル銃を持って,獲物を射ってその肉を食べ,また山の急流で魚を釣りました。私たちのメニューは,きいちご,野生のらいちょう,おおじか,そして熊のステーキという具合で変化に富んでいました。かがり火の上にフライパンをかけて,パンも焼きました。私たちはほんとうに地の肥えたるものを食べて生活しました。

      1日が終わってから私たちは,しばしば高山に生えるかおり高い松の木かげにすわり,ぱちぱち燃える火のもえさしをながめました! 星の輝く空の下で,私たちは「ものみの塔」を論じたり,聖句について考え,御国の支配の下に実現する将来のすばらしい見込みについて思いをめぐらしました。私たちは御国のために働き,そのために祈りをささげたのです。

      翌年の春,私のパートナーが自動車事故で死んだため,私たちの計画はだめになってしまいました。私ひとりでしようとつとめましたが,1ヵ月のあいだひとりだけでいるのは,とうてい耐えることができず,奉仕をつづけて行こうと思うなら,環境になんらかの調節が必要であることをさとりました。

      私は伴侶を必要としました。私の見出した伴侶は,忍耐づよく,実際的で,不平を言わず,最初から私に忠実でした。私たちは1935年に結婚して,共々にアメリカ・トナカイの中で仕事をつづけました。私たちの区域は旅行するのにむずかしいところで,幾度も急な山道をすべり落ちそうになりました。あるときは沼にはまりこんでしまい,車とか一切のものを引きあげることが必要でした。パートタイムの仕事でおのを使っていたとき,私は足に大けがをしてしまいました。お医者はいませんでした。そして傷はずい分悪いようでした。それでも,野生の香液ガムを木から取って,傷口にあてがう処置をしました。私たちは自分の区域と人々を愛しました。人々が「さあおはいりなさい。どうぞご遠慮なく」という快活な招待の言葉を聞くと,いつでも心はほのぼのとあたたまりました。そこにいるあいだ,私たちはインデアンや白人たちと心あたたまる友情をむすぶことができました。いまでは,この地方はエホバの証者の会衆でいっぱいです。

      船にもどる

      バンクーバー島やウイニペグで奉仕し,また協会の舟に乗って,短期間の奉仕をして後,私はふたたび神経衰弱気味になりました。私は時間を入れてはいましたが,ほんとうの意味で仕事をしていませんでした。完全な変化が必要だったので,私は曳船のエンジニアになりました。それは肉体的には私の益になりましたが,会衆の集会に出席できず,またクリスチャンの兄弟たちと交わることができなくなりました。その生活にはとうてい耐えられず,私は大きなさけ漁船を買って魚取りをつづけ,妻はバンクーバーで開拓奉仕をつづけました。深海用の漁船をつくって,それに私たちの居間を設け,ふたりでブリティシュ・コロンビア海岸沿いに開拓奉仕をしようではないかという計画を立てていた矢先に,私の妻はガンにかかり,1946年の11月,私は彼女を埋葬しました。これからどうしましょうか。

      私は失意落胆しました。しかし,ぶらぶら時間を過ごしても,悲しみは消えません。私は船上で仕事をつづけ,ジム・キンをパートナーにしました。私たちふたりは,海岸沿いのすべての島に,入江に,丸太伐出しキャンプ,灯台,そして定住地に御国の音信を伝えました。私たちは1ヵ月に200時間以上を伝道し,90時間を航海に費しました。航海はたいてい夜おこなわれました。バンクーバーからプリンスルパートそしてアラスカにいたるまで,私たちは聖書文書を配布しました。12ヵ月のうちに,1500以上の「ものみの塔」と「目ざめよ!」の予約を得ました。私のあたまはふたたびすっきりしてきました。

      増加した奉仕の特権

      その年の秋,私は協会の旅行代表者になって巡回のしもべのわざをするようにとの招待をうけました。それで,西海岸の諸会衆を訪問するため,船による奉仕を止めました。それは実に興味ぶかい仕事でした。数年後,地域のしもべに任命され,定期的に大会に奉仕しました。カナダはそのとき二つの地域に分けられていて,私は西の地域で奉仕し,ジャック・ナタンは東の地域で奉仕しました。範囲が広かったので,自動車,汽車,船,そして飛行機で旅行しました。1年の後,私たちの地は入れちがいになって私は東部に行きました。

      1953年のニューヨーク市における新しい世の社会大会の後,私はカナダのベテルの家族の一員になる招待をうけました。カナダの御国農場の農場のしもべに任命されることは,予期していなかった特権でした。そのおかげで私は有益な経験をたくさん積むことができました。野外奉仕にも参加しつづけましたが,同時に宣教の一部としての他のわざの重要性を一層認識するようになりました。そのわざとは,私の場合,ベテルでいっしょうけんめいに働く人々に必要な食物を供給することでした。それは野外で働いている奉仕者たちに聖書の出版物と教訓を与えつづけるのに必要です。この新しい任命の仕事をするためには,酪農,園芸,果実栽培,それにともなう一切のことを知らねばなりません。これは,西部で過ごした少年時代を思いおこさせました。私は牛といっしょに成長した人間ですから,仕事はうまくできました。

      むくいを楽しむ

      エホバの奉仕をするときなんと多くのことが学べるのでしょう! そして,それらはなんと益のあるものでしょう! 幾年もの歳月を経てくるうちに,私たちは兄弟姉妹と共同生活をし,密接な協力の中で働くことを学びました。彼らは不完全ですが,エホバを愛し,互いに愛し合っているので,すこしのまさつはよろこんで見すごします。私たちは人の個性についてとやかく言わず,キリスト教の原則を公平に適用する仕方を学びました。私たちは,はなればなれにならず,むしろお互いが必要であることを学びました。クリスチャンの兄弟たちの暖かい友情と熱心な言葉は,意気消沈している私たちを元気づけます。そして神の御言葉に思いをめぐらして熱心な祈りをささげると,だれ気味の精神をシャンとなおしてくれます。

      私は世間一般の家族生活のよろこびを味わったことがありません。しかし,神の民の大家族と交わりを持ったこと,また,神の民のために奉仕していろいろの特権を楽しんだことは,私にとって実に楽しいことでした。それは,他のいかなる経験にもまさるすばらしいものです。私がどこへ行こうと,御国会館へ行こうと大会へ行こうと,だれかが「私のことをおぼえていますか」と話しかけます。すると,私はその人といっしょに奉仕した時のことを思い出すのです。多分,私はその人を援助して,始めて奉仕に出したのかも知れません。または激励の言葉を与えて,つらい状況を乗り切らせたのかも知れません。数多くのすばらしい経験や感謝の念に満ちる家族をすてて,そのかわりにこの古い世のものを持ちたいというような気持ちを持つ人は,まずいないでしょう。

      私の生涯の経験から,次のことをしみじみ感じます。エホバは彼の制度を通してご自分の民と交渉を持たれ,苦しい時には彼らを支えて下さるということです。私たちは,倒れることはけっしてないと考え,自分自身に依存してはなりません。私たちはエホバによりたのまねばならないのです。そして,エホバは必要に応じて力を与えて下さいます。使徒パウロも,そのことをこう適切に言い表わしています,「だから,立っていると思う者は,倒れないように気をつけるがよい。あなたがたの会った試錬で,世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか,試錬と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである」。―コリント前 10:12,13,新口。

      むずかしい問題に面したときに,あきらめて止めてしまっていたなら,私はずい分多くのものを失っていたことになります。私の直面したいろいろの問題は,不完全な人間に共通の問題です。ときには,むずかし問題があります。しかし,エホバに頼る者は,神の御霊によって支えられます。

      いま私は白髪の老人で,仕事も多くできません。私よりも年若い人,有能な人に仕事をゆずることが必要になりました。しかし,まだ倒れておらず,死んでしまったわけではありません。私の足はまだ動きますし,私の心は神への賛美の歌でみちています。

      私を強めて奉仕に耐え忍ばせ給うた神に,心から感謝しています。神の奉仕に生涯をささげた私は,みちたりた生活,すばらしい報い,深い満足感で一杯です。

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1961 | 12月15日
    • 読者よりの質問

      ● エジプト学者の示すある日付と,「ものみの塔」にのせられる時代とは合わないという人に対して,どう説明することができますか。―アメリカの一読者より

      エジプト学者たちは,強い証拠よりもむしろ強い自信をもってエジプトの諸王朝に年代を付しているというのが実際の状態です。つぎにかかげたのは,アメリカの指導的なパレスチナ考古学者タブリュー・エフ・アルブライトの著わした「パレスチナの考古学」という本からの引用ですが,これはそのことをよく証明しています。

      「パレスチナの考古学の科学性は,聖地で発掘を行なった学者たちの先入見によってはなはだしく傷つけられてきたとよく言われる。聖書に対する興味からパレスチナに引きつけられた考古学者たちがいく人かいるのは事実である。しかもそのうちのいく人かは,そのまえに,主に聖書学者としての教育を受けていた。筆者はそのような学者をたくさん知っていた。しかし,彼らがその宗教的見解をもとにして決定を下した場合を彼は一度も思い出すことができない。そうした学者の中のいく人かは,過激な批評家であり,さらに他の者はもっと保守的な批評家であった。また徹底した保守主義者もいく人かいた。しかし,彼らの考古学的断定は,ほとんど一様にその批評的見地とは無関係に行なわれたものであった。

      「これらのパレスチナ発掘者たちによって,学問的観客性が害された場合は2,3ある。しかし,ベルゾニとバサラワアの大略奪や,この分野におけるマリエテの独占,アメリエオが王室の墓をでたらめに利用したことなどから,エジプト学がこうむった損害と比較するなら,まことに微々たるものである。われわれはまた,ペトリエとかレイスナーなどの一流の科学的発掘者たちが,パレスチナにおいて最も輝かしい栄冠を勝ち得たことも忘れてはならない。指導的パレスチナ考古学者たちが払った注意の一例として,ペトリエ,ブリス,マクアリスター,ワッジンガー ― 他のものもみなそれにならった ― などが,ほとんどいつも日付を若くしすぎていたことを興味深く思い出す。それにくらべると,エジプトの年代は一般にはるかに古くされすぎた。それで,パレスチナにおける考古学的年代は徐々に古くされつつあり,一方エジプトでは徐々に若くされているという奇妙な現象が生まれているわけである」。

      以上のことからクリスチャンは2,3の結論を下すことができます。その一つ ― 最も重要 ― は,エジプト学者の年表と聖書のそれとが合わなくても,心配したり,びくびくする必要はないということ。二つ目は,エジプト学者はパレスチナ学者ほど良心的でなかったらしいということです。パレスチナの考古学者は,非常に良心的だったので,逆の態度をとり,法外に古い年代を付さなかったのです。

      ●「男が自分の種を地にもらすより売春婦のはらに入れるほうがよい」という言葉が聖書にあるそうですが,どこに書かれているか教えて下さい。―アメリカの一読者より

      これは何度も尋ねられた質問です。そしてローマ・カトリックはこの言葉をよく引用します。米国カトリック慈善会報道部によると,この言葉はローマ・カトリックの見解を表わすものではないということです。しかし,一方,ニューヨークのセント・パトリック寺院を代表して一司祭は次のように語りました。つまり,そういう聖句はないにしても,種を地にもらすより,売春婦のはらに入れるほうが,もっと自然であるというのです。この種の考え方は,イタリアのある場所でローマ・カトリックの同祭たちによって受け入れられています。そこでは,産児制限さえしなければ,司祭たちが淫行や姦淫をしてもかまわないとされているのです。

      あきらかに,このステートメントは,性交にかんして聖書が述べているすべてのことに反するものです。しかし,このステートメントは,オナンについての聖書の記録をまげたものかもしれません。オナンは,死んだ自分の兄の妻と,継承結婚をするのをきらい,自分の種を地にもらしました。―創世 38:9。

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