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エネルギーを求める必死の努力目ざめよ! 1978 | 5月8日
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エネルギーを求める必死の努力
「その規模は我々の想像以上のものである。……それが,どこよりも先進国に大きな社会的混乱をもたらすことはまず間違いない」。これは,「1980年代の深刻なエネルギー危機」について語った,海洋学者ジャック・クストーの言葉です。
一方,他の多くの人々は,わたしたちの地球にはまだ石油や石炭や他のエネルギー資源が埋蔵されており,エネルギーを豊富に供給する能力があることを表や統計から示そうとします。「エネルギー危機」に関する文献を読んでいてすぐ気づくのは,意見の不一致や混乱があるということです。
では,混乱があるのはなぜか
この危機には確かな根拠があるのでしょうか。もしエネルギーが枯渇しつつあるなら,そのことは容易に分かるはずではありませんか。主婦は食器だなが空になればそれに気づきます。それなのに,エネルギー資源の蓄えという一見簡単な問題の答えを出すことができないのはなぜでしょうか。
それは,この問題が単一の問題ではなく,幾つもの問題の重なり合ったものだからです。同様に,提案されている解決策も数々あります。あるエネルギー問題の専門家の言うとおり,この危機の原因は,「一部は物理的,一部は政治的,そして一部は経済的」なものなのです。
さらに,解決策の多くは,“様々な条件”にかかっています。諸国間の協力関係が改善されるなら,しかじかの資源から経済的にエネルギーを得る方法を開発できるなら,それを輸送し,必要とされているところに分配できるなら ― そうすれば問題を解決できるというのです。理論的には様々な可能性はあっても,実際問題になると,選択の余地は少なくなります。
今日の世界において,ある国が安く入手できるエネルギー源を持っているなら,自国民の経済状態を一層安定させることができます。幾億人もの人々の生活様式全体が危機にひんしていると考える科学者は少なくありません。米国のエネルギー担当の一当局者の語っているとおり,「石油がなくなってしまったときには,実験をしている時間などはない」のです。
しかし,それに加えて,エネルギー資源を保有している国は,他の国々に対して,政治および経済的な権力を持つようになります。それで,エネルギーを必死になって求めることの裏には,数々の動機があるのです。
問題の複雑さを理解するため,一つのエネルギー資源 ― 原油のことだけを取り上げて考えてみましょう。黒光りする原油は,人間の必要とするエネルギーをいつまでも供給してくれるものと思われていました。しかし,今日ではそのように考えられていません。なぜなら,地球にはまだ石油が豊富にあるものの,そうした石油の埋蔵が各地に均等に分散してはいないからです。石油資源の大半は,アラビア半島とソ連領内にあります。そのため,少数の国々が,石油の価格を操作するだけで,世界経済の均衡に大きな影響を及ぼすことができるのです。強大国は,自国が石油に頼っているため,経済的にあやつられることを恐れています。
一つの解決策は,自国内で他のエネルギー資源を開発することす。しかし,そうした資源を探し出し,それを効率よく利用してゆくには技術が進歩しなければなりません。新しい資源に関する,こうした相いれない見解の“細目”を読むと,多くの場合,エネルギー資源となり得るものがあっても,現在のところ人間はそれを引き出し,経済的な仕方でそれを“活用する”方法を知らないでいることが分かります。現在の価格の幾倍もの値段でエネルギーを買いたいと思う人はいません。
どこに解決策を求めているか
現在開発途上にある,実験的な,あるいは限定的なエネルギー体系のごくわずかな例をここに掲げます。
● 幾つかの国々は,地熱,すなわち地球の内部から得られる熱について調査している。(1978年4月8日号の「目ざめよ!」誌をご覧ください。)
● 核融合 ―(原子を分裂させる)現在の原子力発電所とは異なり,二つの元素の核を融合させることにより強大なエネルギーを発生させる。問題点: 非常に複雑な技術を必要としており,現在のところコストが高い。“商業ベース”に乗るのは西暦2000年になる予定。
● 石炭,とりわけ石炭のガス化や液化に対する関心が再び起きる。
● 風車,および潮の満干を“動力源として利用”する装置は『有望』だが,実用的なエネルギー源となるまでには,さらに開発が必要である。
上記の方法に加えて,現在幾つかの国々で開発されている,顕著なエネルギー源がほかにも二つあります。それは,原子力発電所(核分裂による)と太陽熱の利用です。
これらのエネルギー源の持つ諸問題と可能性は,次に掲げるドイツと日本の「目ざめよ!」通信員による記事の中で検討されます。地域的な状況を反映してはいるとはいえ,次の二つの記事はエネルギーにかかわる,わたしたちの世界の苦闘をさらに考えさせるものとなるでしょう。
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ドイツが直面する原子力のジレンマ目ざめよ! 1978 | 5月8日
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ドイツが直面する原子力のジレンマ
ドイツ連邦共和国の「目ざめよ!」通信員
核戦争! 考えただけでもぞっとするではありませんか。ドイツが核戦争の最初の被爆国という,ありがたくない名称を受けずにすんだのは,1945年の春にヒトラーの軍隊が急速に崩壊したお陰かもしれません。しかし,30年余りたった今日,ドイツの有力新聞や雑誌が別の種類の“核戦争”になぞらえるものに同国は襲われています。それは広範な影響を及ぼしかねない深刻なものです。
この問題で,だれもが意見の一致を見た点といえば,その“戦争”が何に関するものかということぐらいです。それは,原子力の平和利用に関する“戦争”です。これは“平和な核戦争”と呼べるでしょう。しかし,人々の意見が一致するのはそこまでで,それから先には意見の相違があります。そもそも,原子力発電所を建設するのは,得策でかつ必要なことなのでしょうか。もしそうであれば,建築基準は安全性を保証できるほど高いものですか。放射性廃棄物の投棄についてはどうですか。他の国に原子力発電所を売るのは賢明なこと,また望ましいことなのでしょうか。核に関する専門的な知識をテロリストに誤用されるのを未然に防ぐ,どんな対策があるでしょうか。
人間は原子核を分裂させることには成功しましたが,その知識が人間社会や人間の政府を分裂させないようにすることには成功していません。1977年2月25日付のディー・ツァイト紙は,その第一面に,「国を二分する原子力」という見出しを掲げて警告しました。今や原子のしっぺ返しに遭おうとしているのでしょうか。
建設の是非
原子力発電所の支持者たちは,国の工業力を保証するために,ほかのエネルギー源がどうしても必要であると論じます。そして,現時点では原子力に代わるものはないと言うのです。ある種の危険が伴うことは認めながらも,その危険を最低限に抑えるために必要な予防策が取られていることを彼らは力説します。
一方,ノルトライン・ウェストファーレン州の経済相,ホルスト-ルードウィヒ・リーマーは次のように語っています。「確率論によれば,原子炉の事故は一万年に一度しか起きないという言い古された見通しなど説得力のあるものではない。その事故が操業第一年目に起こらないと保証できる人はだれもいない」。ジュートドイチェ・ツァイトゥング紙は,同様に,「原則的に言って,いつか起こり得ることであれば,それが今起きても不思議ではない」と述べています。
現在操業中,あるいは建設中の20余りの原子力発電所のうち三か所の名前 ― ヴィール,グローンデ,ブロックドルフ ― は,反対運動とほぼ同義語と言えるほどになりました。1976年11月にブロックドルフで起きた,反対派と警察の激しい衝突を描写して,ハンブルガー・モルゲンポスト紙は,「戦時中の戦闘」のようだと述べました。スターン誌はそれを,「ブロックドルフの内戦」と呼び,さらにこう述べています。「緑の草原で核戦争が行なわれている。もっとも,使われている武器は旧式のものである。その放射作用が人を殺すことはないが,1968年の学生暴動以来の最も残酷な処置の引き起こした衝撃は,有毒な放射作用ともなった。それは政治家たちにとって有毒だったのである。自分たちを批判する人々に耳を傾ける代わりに,そうした人々を抑えつけてしまう政策に固執する者たちは,民主国家を警察国家に変えてしまっている」。
これ以上原子力発電所を建設させないために組織された市民グループは,エネルギーの十分な供給を保証するために,もっと危険性の少ない方法を用いることができるはずであると主張しています。そうした人々は,「放射能を浴びる明日よりも,健康な今日一日」とか,「原子力粉砕」などといった,人の心を引くスローガンを掲げて抗議運動を展開しています。また,それらの発電所から出る放射性廃棄物を捨てる安全な場所がどこにあるか,ということをも問題にしています。
民主国家の市民には,抗議をする権利があります。当局者は,市民運動そのものとの間に争いはないと語り,それらのグループの提起した反論を考慮に入れ,そのエネルギー計画や建築基準を再検討する用意が政府にあることを認めさえしました。しかし,過激派や犯罪分子がこうした市民運動に入り込み,平和裏に行なわれるはずだった抗議行進を激しい暴動に変えてしまったのです。市民運動の指導者の中には,過激な者たちが入り込む恐れのあることを認めながらも,テロリストや過激派や犯罪分子と同列に置かれることを拒む人もいます。独自の政治目的のために抗議の行進を誤用しようとする人についてまで責任は負いかねるし,そのような誤用をただ防ぐために平和的に抗議をする自分たちの権利を捨てるわけにはゆかない,というのが彼らの考えです。さらに彼らは,警察が時として過剰防衛をし,権力主義的な策略を用いたと主張しています。
抗議運動の問題をどのように解決するかは,有力な政治家の間でも意見の一致を見ていません。ディー・ツァィト紙はこの問題を扱った記事に,「内閣分裂」という見出しを掲げました。裁判所にしても同じです。一つの法廷がある原子炉の建設を中止するよう判決を下したのに対し,一か月もたたないうちに,別の法廷は別の発電所の工事を続行しても良いとの判断を示しました。どちらの場合にも,本質的には同じ問題が関係していました。それで,建設の是非の問題は,依然として未解決のまま残されているのです。
売り込みの是非
1975年に,ドイツ連邦共和国は,八基の原子炉,ウラン濃縮工場,および核燃料再処理工場をブラジルに売り渡すことに同意しました。米国はこれに強く反対しましたが,ドイツ政府はその反対を意に介せず計画を進め,1977年4月にその交渉を成立させました。その結果NATO,つまり北大西洋条約機構の強力な加盟二か国の間に緊張が生じました。平時における原子力の使用が,戦時における核兵器の誤用を防止するために設立された組織の一致を脅かすとは何とも皮肉なことです。
テロリストの脅威を抑える
問題となっている別の要素は,テロリストによる核の誤用です。ドイツでもここ数年間,テロリストが活動してきました。ですから,原子爆弾を作ることのできる核分裂性物質を,テロリストが何らかの方法で手に入れるかもしれないという,不安が絶えず付きまといます。確かに原爆を作るのは容易なことではありませんが,それは決して不可能とは言えません。では一体,政府はどの程度までそうした行為を未然に防ぐための措置を取れるのでしょうか。不法かつ違憲とも言える手段に訴えても構わないのでしょうか。
1977年3月の新聞の報道はそうした質問をするのが妥当であることを示しています。その報道によると,ドイツの原子力科学者クラウス・トラウベは,政府による盗聴の被害者となりました。テロリストと関係があるとの嫌疑がトラウベにかけられ,政府は核に関する知識がテロリストの手に陥ることを恐れ,盗聴を禁ずる自らの法律を破ったのです。
この事実が明るみに出た結果,連鎖反応によって別の不穏な事実がさらに明るみに出されました。政府は,今では有罪宣告を受けている,バーダー-マインホフ・テロリスト・グループの首謀者たちとその弁護士たちの間の個人的な会話を,1975年と1976年中,不正な方法で録音していたことを認めたのです。二年にわたる公判の途中で自殺したウルリケ・マインホフは,自分の会話が録音されるのを恐れ,彼女の弁護士と口頭で話すのをしばしば拒み,代わりに筆談することを求めました。この事件は,核の問題と直接の関係はありませんが,それを白日にさらすきっかけとなったのは,テロリストが核に関する知識を誤用することに対する恐れでした。この事件はまた,政府と国民との間の“信頼感の欠如”を一層深刻なものにし,その結果,原子力に関する問題で合意を見ることがいよいよ難しくなってしまいました。
犠牲者
戦争の犠牲者と言えば,死傷者,そして行方不明者の数が幾万,あるいは幾百万という単位で数えられるのが普通で,死者の出ない戦争など小ぜり合い程度にしかみなされません。ドイツの“平和な核戦争”が直接の原因で死んだ人はまだ出ていませんが,将来死者が出る可能性はあります。グローンデでは,原子力発電所反対派2万人と警官4,000人が,警棒,鎖,鉄パイプ,火炎びん,催涙ガス,放水車などを使って争い,300人近くの重傷者を出しました。このような衝突は,多数の死者を出しかねません。また,反対派の人々が恐れるように,何らかの事故で放射性物質が漏れるなら,多くの死傷者が出るでしょう。
ある意味では,ドイツ政府もその犠牲者になっています。増大するあつれきは,国内では民主的な手順が無視され,国外では同盟関係を弱める傾向にあります。市民運動のグループが法廷で勝訴し,それが広く報道されたため,そのようなグループの力が一層強くなり,その活動基盤が広くなる結果になりました。例えば,グローンデにおける暴動の後三か月もたたないうちに,そこでの建設工事を一時中止するようにとの命令が出されました。その結果,市民運動が力を持ちすぎる余り,政府の正常な機能をも妨げるようになるのではないか,という懸念が起きています。もしそんなことにでもなれば,国中は混乱状態に陥るでしょう。
一般市民が心配するのも無理のないことです。人々は自由が失われること,そして政府が崩壊することを危惧しているのです。また一方では,核拡散,放射能による汚染,およびテロリストによる原子力の誤用などについても心配しているのです。
こうしたジレンマは,世界各地の人々が今日直面しているジレンマの一つにすぎません。新たな解決策が求められていることに疑問の余地はありません。太陽エネルギーはその解決策の一つになりますか。
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“太陽の家”はひとつの解決策となるか目ざめよ! 1978 | 5月8日
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“太陽の家”はひとつの解決策となるか
日本の「目ざめよ!」通信員
白地に赤く日の丸を染め抜いた日本の国旗は,太陽の女神,天照大神がこの国の津々浦々で崇拝されていた時代の名残をとどめています。近年,日本人の注意は再び天に向けられましたが,この度は手ごろな価格で利用できるエネルギー源を求めてのことでした。
事実日本では,幾万戸もの家々の屋根に,かなり前から太陽熱温水器が取り付けられていました。しかし,個人の住宅以上の規模で太陽エネルギーを利用することが真剣に考えられるようになったのは,1973年に石油危機が起き,それに伴ってエネルギーが配給制になる恐れが生じてからのことでした。
こうした考え方に添って,富士の裾野を背にした駿河湾に面する,人口20万3,000人余りの沼津市で,際立った進展が見られました。同市の市当局者と技術者たちは,太陽エネルギーを利用して,市の石油および電力の消費量を減らすことに決めたのです。その最初の実用的な成果は,金岡会館の新築工事に現れました。この会館は,その名も“太陽の家”,あるいはソーラーハウスと呼ばれています。完成後最初の一年に,この建物は屋根に注ぐ陽光を利用することにより,沼津市の経費を約120万円節減しました。この“太陽の家”を成功に導いた要素を,さらに詳しく知りたいと思われますか。
太陽エネルギーを利用する
地球は,人間が現在使っているエネルギーの約2万倍もの量のエネルギーを太陽から受けていると言われています。ですから,このエネルギー源に将来性があることは明白です。太陽エネルギーを利用する際に主な障害となるのは,(1)持続性に欠ける(地球の自転のため,また曇天などのために日照が妨げられる),および(2)単位面積当たりのエネルギーが低いので,このエネルギーを利用するには広い面積を必要とする,の二点です。
太陽エネルギーを利用するために検討されている数々の異なった方法は,1㍑の水を20分で沸騰させる反射調理器から,太陽エネルギーを直接電気に変える太陽電池(普通シリコンで作られている)まで多岐にわたります。南フランスには,3,500枚の小さな鏡の焦点を一点に合わせ2,980度もの高温を作り出す,大きな太陽熱溶鉱炉があります。科学者の中には,集熱器を衛星軌道に乗せ,そのエネルギーを(マイクロウェーブにして)地上の大きな受信装置に送ることを提唱している人もいます。また,広い砂漠に太陽エネルギー集熱器を据え,そのエネルギーでタービンを回す蒸気を作り出すことにより,米国の電力需要をまかなってゆけると考える人々もいます。
そうです,太陽エネルギーを利用する方法は数多くありますが,こうした方法は大抵の場合,大きな規模で実用化するにはまだまだ研究を重ねなければなりません。しかし,“太陽の家”で採用されているシステムはすでに実用化されており,汚染のない太陽エネルギーを用いて,お金と資源を節約しています。それが非常な成功を収めたため,沼津市都市環境部住宅営繕課の渡辺清彦課長補佐は,三年以内に,官公庁の新しい建物には同様のシステムを取り付けることが必要になるだろうと考えています。
沼津市の当局者は,総合的な太陽エネルギー・システムの完成を待たず,すでに開発されているものを採用することに決めました。このシステムは簡単なものですが,30%の効率で作動します。晴天の日には,床面積716平方㍍の二階建の建物の冷暖房と給湯を十分にまかなえるだけのエネルギーをこのシステムが集めます。雨天や曇天の場合には,補助ボイラーを運転しなければなりませんが,そうした日は三日に一度ほどの割です。しかし,熱エネルギーの三分の二を太陽から得るということは,自国で消費する石油の98%を輸入しなければならない国では注目に値する進展です。“太陽の家”は,その名称の由来となっている太陽のエネルギーをどのようにして利用しているのでしょうか。
屋根の上には224枚の集熱器が並んでおり,直射日光を捕らえるためにいずれも25度の傾斜角をもって設置されています。どの集熱器にも,日光を透過させるためにガラスの覆いがしてあります。水は内部の細い黒い管を通って循環する際に温められます。加熱された水は容量20㌧の蓄熱そうに送られますが,そこでは水温が沸点に達することもあります。この蓄えられた温水の温度が屋根の上の集熱器の温水の温度よりも低くなると,小さなポンプがその温水を建物の中のラジエーターに送って循環させ,送風器がその熱を各部屋へ送ります。さびや沈積物が生じないようにするためこの水には溶剤が含まれているので,それを飲むことはできません。しかし,大きな蓄熱そうの内部にある500㍑入りの別の貯湯そうが熱せられ,給湯用の温水が作られます。
ガス冷蔵装置に使われている原理を応用することによって,建物の冷房にも太陽エネルギーを利用できます。ですから,屋外が暑くなればなるほど,冷房のために使えるエネルギーが増えることになります。夏の暑い日に“太陽の家”に入って,屋内の気温が摂氏25度に保たれているのを膚で感じると,太陽エネルギーを実用化する方法があることを確信させられます。
沼津市の“太陽の家”は,とりわけ北緯35度線と南緯35度線の間で利用できる豊富なエネルギー源を活用する実際的な例です。沼津市の当局者は自分たちの方向づけが間違っていなかったとの確信を強め,同市の愛鷹山付近に建てられた新しい養護老人ホームにも,太陽熱冷暖房を設置しました。
この新しいホームの床面積は“太陽の家”のほぼ二倍に相当するので,同ホームの太陽エネルギー・システムの熱容量は“太陽の家”のそれの二倍以上になります。屋根の上に取り付けられた522枚の集熱器は,ホームの冷暖房,および給湯のためのエネルギーを供しています。将来の増築の可能性を考慮に入れて集熱面が100平方㍍余分にあるので,この装置の効率は37%に上り,後で使うためにエネルギーを蓄えておくこともできるようになっています。
将来のエネルギー問題の解決策?
太陽エネルギー・システムを採用するに当たって,困難な点や不利な点がありますか。確かにあります。2平方㍍の集熱器とパイプの中の水をバランスを取って循環させることは最大の問題でした。しかし,この問題は克服され,“太陽の家”のシステムは,維持にも比較的手間がかからずに作動しています。恐らく,最も不利な点は当初の費用でしょう。当初の費用は,ガスや石油を使う従来のシステムよりずっと高くつきます。しかし,燃料費を節約できるので,“太陽の家”にこのシステムを設置するために当初かかった余分な費用も,七年間で償却できます。あるいは,このまま石油の価格が上がり続ければ,もっと早く償却できるかもしれません。愛鷹山の養護老人ホームの建築費は1,850万円ほど余計にかかりましたが,運営後4年もすれば,元が取れると考えられています。どうしてですか。このホームの冷暖房費は年間75万円ですが,50人を収容する同規模の施設で従来のシステムを採用している所では,年間520万円かかっているからです。
それで,“太陽の家”はどんな印象を与えますか。まず第一に,この建物は,太陽エネルギーに対して現実的な見方をするよう教訓を与えています。これは総合的なエネルギー・システムではありません。照明や事務機器の作動,そして太陽エネルギー・システムとつながったポンプや放風器を動かすためにも電気が必要とされます。また,雨天や曇天の場合には補助ボイラーを使わねばなりません。(これは別個のシステムではなく,単に太陽エネルギー・システムの水を熱するためのものです。)一方,昼間の時間の三分の二に相当する,日の照っている時には,さもなくば反射して大気中に戻っていったり,屋根に吸収されたりしてしまうエネルギーを,実質的には公害のないシステムを使って活用できるのです。
わたしたちの印象に残る二番目の点は,一つの都市が,普通に採用されている冷暖房の手段をためらいなくやめたということです。これは地球の資源の利用法を検討してみる必要性を銘記させます。このままでゆけば,地球の燃料資源は比較的短期間で枯渇してしまう,と懸念する人は少なくありません。しかし,そうした燃料を使うほうが便利なため,人々は新しい方式を採用するとなると二の足を踏みます。たとえ新しい方式を採用するほうが将来性はあるとしても,自分たちのエネルギー消費を調整するよう求められたり,当初の設備投資が高くついたりするとそうした方式を採用しかねるのです。
第三に,太陽エネルギーに頼ることは,より単純なものや当たり前とみなしていたものに対する感謝の念を築き上げるのに役立ちます。興味深いことに,“太陽の家”の中を案内してくれた,沼津市の技術者は,これらの建物ができるまで,太陽が毎朝昇ることにどれほどの意義があるかを本当に認識してはいなかったと語りました。そのことをちょっと考えてみてください。もし太陽の光が注がなかったとすれば,地球上どこでも気温は零下240度になってしまうのです。
屋根の上に集熱器がなくても,太陽エネルギーはわたしたちの生活に様々な仕方で影響を及ぼしています。太陽からの光によって,植物は空気中の炭酸ガスと,土の中の水から得た水素を炭水化物に変え,それがわたしたちの食べ物になるのです。風は太陽エネルギーが形を変えたものといえます。陸地や大気が暖まったり,冷えたりする結果として風が吹くからです。太陽熱によって,毎日大量の水が地球から蒸発し,それが後に雨や雪になって降り注ぎます。その水が川や貯水池に蓄えられると,人間は水車や水力発電システムによって,蓄積された太陽エネルギーを利用することができます。
地球は毎年,7×1017㌔ワット時のエネルギーを太陽から受けています。しかし,この驚くべき量のエネルギーも,太陽の放出するエネルギーの総量のほんの一部にすぎません。というのは,太陽はあらゆる方向にその光を輝かせているからです。人間がこの事実上無尽蔵のエネルギーを将来どの程度利用できるかはいずれ明らかになるでしょう。しかし,“太陽の家”のような近代的な建物のことを考えると,その気になれば,人間は太陽エネルギーを実用化できる,ということが明らかになります。
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