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聖書の原則に従って娯楽を選びますかものみの塔 1966 | 4月1日
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槍や剣あるいは短剣で刺されたものの絶叫よりもすさまじかった。『ホック ハベット』―『やったぞ,やったぞ!』―と叫ぶ幾万人もの叫び声は場内にこだました。こう叫んだのは動物的なほどに堕落した群衆はもとより,皇帝,けんらんたる衣を身につけた元老院の議員や騎士,それに貴婦人たちである。さらには聖別された女たちさえこの叫びに加わっていた。別の場合ならこれらの女たちは,たとえ犯罪者でも許すことができたのに,なんとこの闘技場では負けたものが命ごいをしても,無慈悲にも親指を下に向けてその哀願者を殺すようにと指示するのが彼女たちの役目であった……忘れてならないことは,これほどの事が偶然に,あるいは熱狂するあまりに起こる異常な興奮状態のために引き起こされたのではないことだ。これは組織的に計画され,平然と行なわれたのだ。こうして彼らはそれを国の主要な娯楽としたのである」。
このような恐るべき娯楽はその人々の道徳を堕落させずにはおきませんでした。このために同情心,憐れみ,親切そして思いやりなどの人間としての尊い特質は踏みにじられました。人の苦しみに同情できることは,人間が動物よりすぐれている点の一つですが,それさえも失われたのです。人道にかない,人を向上させる立派なクリスチャン原則に従った人が,どうしてその極端な見せ物を娯楽として選び,楽しむことができたでしょうか。
クリスチャンの立場
ローマのこの円形闘技場に集った群衆の中にクリスチャンがいるとすれば場違いではありませんか。そこで剣闘士が「勝った」と叫ぶ時に,クリスチャンも他のものと一緒に叫んで声援できますか。神のことばが殺人を禁じているのにそれを見て楽しめますか。クリスチャンの原則は苦しんでいる他の人に愛を示すことなのに,どうして人の苦しむのを見て楽しめるでしょう。また神のことばから人にやさしく,親切にし,人とやわらぐことを教えられながら,どうして血なまぐさい光景をながめて楽しむことができますか。聖書の原則に導かれたクリスチャンは,自分たちの楽しみとしてはこのローマの闘技場を避けていたに違いありません。
ローマの種々の演劇でさえ,それが聖書の原則を犯すものであったために,クリスチャンは見ようとしませんでした。大衆の娯楽のために上演された演劇はローマ人の最も腐敗した道徳状態をそのままさらけだして,人々の楽しみのために見せ物にしたのです。聖書の原則はクリスチャンに対して清い道徳に従った生活を要求しているのに,どうして彼らがこれらの堕落した見せ物などをわざわざ見に行くことなど考えられるでしょうか。一体,悪いことを見聞きすることにどうして楽しみを見出しえたでしょうか。
ローマ人の娯楽に対するクリスチャンのこの立場について,第2世紀の著作家でクリスチャンであったターツリアンは次のように書きました。「同じように,我々は無作法なことをすべて捨て去るように命令されているのではないか。この理由でまた我々は劇場に入ることも許されない。そこは無作法ものの住む特殊なところであり,立派なものはなにもなく,そこにあるものは他の場所でならとても見ておれぬようなことばかりである。世間一帯の人間の欲情の犠牲にされた淫売婦たちさえ実演の中に引き出され……年齢や階層のあらゆる人々の前で彼女たちは行進させられ,その上,この女たちのすまい,収入からほめことばまでが人々に告げられた。しかもこのようなことを聞かせるべきではないものたちにも聞かされた……。
「神のことばは,すべてのみだらなことば,いやくだらぬことばさえ禁じている。とすれば,恥ずかしくて行なえないほどのことをながめるのは正しいことであろうか。口から出て人を汚すようなものを目や耳に入れながら自分が汚されているとも思わぬのはどうしたことであろうか。目や耳は人間にとってその召使いであり,この召使いが汚れているならその人間は決して清いものではありえない。……上演される悲劇や喜劇がみだらで血なまぐさいものであり,その犯罪や情事の演出者も不敬虔でみだらなものであれば,それは極悪なことであり,思い出すことさえ良くない。行ないで避けるべきことは,口に出すことも許してはならない」。
この世の不道徳の巣くつから逃げ去り,聖書の原則に従ってその生活を変化させた人が,クリスチャンになるために一度捨て去ったものつまり世の醜悪なことがらを劇化したものをどうして自分の娯楽として選べるでしょうか。そのような腐敗したことで自分の心を満たそうとする人は,自分を神の正しいみ心に一致する新しい人格をつけるには自分の心に働きかける力が重要であるということをまだ十分に悟っていないのです。(エペソ 4:22-24)聖書の原則では許されない行為を演じる遊びごとをクリスチャンが娯楽のために見るのは矛盾しています。―ペテロ前 2:1; 4:3,4。
聖書の詩篇 97篇10節は,「エホバを愛しむものよ悪をにくめ」(文語)と戒めています。もしクリスチャンが悪をにくんでいるなら,同時にそれを見て娯楽とすることができますか。人がクリスチャンとなって,世の道徳的な悪からすっかり離れ去ったなら,その人はその悪,それもその詳細をあらわにするようなものを見て娯楽にしようとはしません。そうではありませんか。エペソ書 5章3節はわたしたちのために次のように述べています。「また,不品行といろいろな汚れや貪欲などを,聖徒にふさわしく,あなたがたの間では,口にすることさえしてはならない」。もしこれらのことを話題にさえしていけないのなら,それをどうして娯楽として目や耳に入れることができるでしょう。
今日のクリスチャン
第1世紀のクリスチャンを導いた原則は,今日のクリスチャンをも導くべきです。今日の娯楽には,そこで命をかけて戦う円形闘技場はないにしても,人間が互いになぐり合う残忍な「スポーツ」や,人間が殺され血が流される場面をなまなましく描き出す劇があるのです。またある劇は20世紀の人間の堕落した生活を大きく取り扱っています。それで初期のクリスチャンと同様に,今日のクリスチャンはなにを娯楽とするかを慎重に考えなければなりません。
たとえばテレビの番組にしても,極端に残忍で暴力的なものがあり,しばしば非難されてきました。アメリカでは,青少年犯罪に関する上院分科委員会が次のように述べました,「国内における最近のテレビの画面に写される暴力と犯罪行為は明らかに極端すぎる」。テレビや映画を見る人は,昔ローマ人が円形闘技場の観客席から残虐なことを見たよりも,はるかに身近かにながめることができるのです。
今多くの国々で映画会社が作って上映している映画は,しばしば低俗で,性を売り物にしており,クリスチャンに関する限りおよそ健全な娯楽とはいえません。姦淫,強姦,同性愛など聖書の原則から考えて不道徳なことばかりが目の前で映し出されるのを見て,一体何が楽しいのですか。暗黒な犯罪の世界での残忍な行為や犯罪がどのように行なわれてゆくかを詳細に映し出されるのを見て,何の喜びがあるのですか。
テレビや映画から文学の世界に目を向けましょう。ここでも健全なクリスチャン原則に従う人にとって,読者の心を世の不道徳の巣くつにひきつけようとしたり,不道徳で残忍なうえ,性的に異常に残虐で横暴な人間を英雄にしたて上げるような物語りを読んで楽しむことを自分に許せますか。クリスチャンは,自分があたかも道徳的な基準を持たないかのように,何時間にもわたって著者の思うがままに不道徳な考えを自分の心に入れさせるようなことを許しますか。聖書の原則に導かれているなら,決して許しません。
映画,テレビ番組,文学書,雑誌にも教育的で楽しいものもありますが,あなたは選択することが必要です。たしかに娯楽を選ぶのがあなたではなくて,あなたを招待した相手である場合もあるでしょう。しかし招待に応ずる前に,そこで何が計画されているのかを尋ねることができます。他の人間がするというだけで,聖書の原則を無視するようなことがあってはなりません。
娯楽として楽しむことのできるものは少なくありません。健全なものも多いのです。家族のみんなで一緒に楽しめる屋外あるいは屋内のゲームもあるでしょう。家族全員で一緒に聖書のクイズをしたりあるいは合唱をするのはいかがですか。あるいは一緒に森や丘にでかけていって,自然の驚異を楽しむこともできます。このような楽しみによって気分はさわやかになり,あなたは愛する者たちとさらに心を近づけることもできるのです。
どこにあっても,何をしていても,あなたがもし聖書の原則に従って歩みさえすれば,結果として祝福されるでしょう。わたしたちの周囲の世界はわたしたちの心を汚すもので満ちていますが,ピリピ書 4章8節にあるすぐれた助言に聞き従って下さい。「最後に,兄弟たちよ。すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい」。
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読者からの質問ものみの塔 1966 | 4月1日
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読者からの質問
● 詩篇 72篇8節で述べられている川は何を指していますか。
ソロモン王の広範囲にわたる平和な支配に関するこの詩篇の中に次の約束があります。「彼は海から海まで治め,川から地のはてまで治めるように」。(詩 72:8)アブラハムに対するエホバの約束を思い出すなら,この「川」という語がどの境界線を指しているかを理解することができます。
アブラハムはかつてユフラテ川の「向こう」に住んでいたことがあり,そこで彼の父はほかの神々に仕えていました。(ヨシュア 24:2,15)しかし,彼がカナンへ来てから,彼の子孫がカナンの南の「エジプトの川から,かの大川ユフラテまで」の土地を受けるであろうと神が約束されました。(創世 15:18)それゆえ,ユフラテ川が約束の地の境界線の一つであったと理解されていました。(出エジプト記 23章31節と申命記 11章24節を比較して下さい)ソロモン王の統治期間中にイスラエルが治めた地域はユフラテ川にまで及びました。―歴代志下 9:26。
興味深いことにヘブル語聖書の一部をアラミヤ語に翻訳して注解を加えたユダヤ教のタルグムは詩篇 72篇8節の中で「川」のかわりに「ユフラテ川」と書いています。
海から海に,ユフラテ川から地のはてまで治めるとは,イスラエルの王の場合,広範囲な支配を指していました。大いなるソロモンであるイエス・キリストはこの預言的な詩篇の大規模な成就として全地をくまなく支配するでしょう。
● 出エジプト記 3章1節にしるされているエテロはどのような祭司でしたか。
出エジプト記 3章1節には次のように書かれています。「モーセは妻の父,ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていた」。明らかにエテロはミデヤン人の族長で,当時の慣習に従って宗教的あるいは世俗的な事柄において人々を教え導く責任を持っていました。また,ミデヤン人は,アブラハムがサラの死後妻に迎えたケトラから生まれたアブラハムの子孫であることも忘れてはなりません。昔アブラハムが家族とともに常に喜びをもって行なっていた清い崇拝,つまり真の神エホバの崇拝をミデヤン人はモーセの時代でも覚えていたことでしょう。出エジプト記 18章1から24節までの記録は,エテロ自身エホバを神として深く認識していたことをたしかに示しています。その時エテロは犠牲をささげエホバを祝福し,モーセ,アロンおよび他のイスラエルの長老たちとともにエホバの前でパンを食べました。その上,民を裁くモーセの仕方についてきわめて良い助言を与え,神を恐れ悪を憎む信頼できる有能な男子を任命するようにすすめ,モーセはただちにこの助言を受けいれました。結局のところ祭司としてのエテロの地位は,先祖代々受け継いだものか,あるいは同族中で選任されたかのいずれかですが,エホバの特別な任命によるものではありません。
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