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  • あなたがたはもはや諸国民と同じように歩んではいない
    ものみの塔 1979 | 9月15日
    • のことのように考えていました。初期ローマの著述家キケロは,次のように性非行を弁護することさえしています。

      「若者が高級娼婦のところへ行くことは完全に禁ずるべきである,と考える人がいるとすれば,その人は確かにひどく厳しい人である。……このことが本当に行なわれなかった時があっただろうか。このことをだれかが非難した時があっただろうか」。

      しかし,「光の子どもたち」はそのような習慣を脱し,再びもどることはありませんでした。キリスト教が成し遂げた道徳上の奇跡に比べ得るものは,歴史を通じて皆無でした。

      光の子どもたちの振る舞いは異なっている

      18 キリストの初期の弟子たちは,「聖なる民」であることに対する感謝をどんな行ないで示しましたか。

      18 それらキリストの弟子たちは,守るべき高い規準を有していました。したがってパウロは,「聖なる民にふさわしく,あなたがたの間では,淫行やあらゆる汚れ……が口に上ることさえあってはなりません」と助言しました。(エフェソス 5:3)淫行や汚れた行ないをしないというだけにとどまらず,官能的な楽しみを得る目的でそのような事柄を口にすることさえ避けねばならないのです。今日,一部の人々は,『不道徳なことを実際に行なわない限り,娯楽としてそれを見たり,そのことを話したりするのは何も悪いことではない』と考えていますが,パウロの考えは,そういう人たちの考えとはなんと遠くかけ離れていたのでしょう!

      19 二世紀と三世紀のクリスチャンの著述家たちは(イ)『破廉恥な演劇と競技場の野蛮な行為』,(ロ)「人が殺されるのを」見ること,(ハ)『人の欲情や肉欲を燃え立たせるもの』について,どのように感じていましたか。(ニ)人はどのように悪事を行なうことを学ぶようになりますか。

      19 初期クリスチャンたちは,娯楽として「流行」していた剣闘士の闘技や演劇をどのように考えていたでしょうか。二世紀と三世紀に住んでいた,クリスチャンをもって任ずる幾人かの著述家の言葉は,注目に値します。

      「われわれ[クリスチャンたち]は,狂気のさたのサーカスや破廉恥な演劇,競技場で行なわれる野蛮な行為などを,話すことも見ることも聞くこともせず,それらとは全く無関係である。……われわれがほかに楽しみがあると考えても,あなたがたが立腹することはないのではないか」― テルツリアヌス。

      「人が殺されるのを見ることは,その人を殺すのと大差ないと考えて,われわれはそのような見せ物[剣闘競技]を公然と捨てた[まじめな態度で否定した]」― アテナゴラス。

      「劇の退廃的な影響は,人を堕落させるさらに大きな力を有している。喜劇の内容は,処女を汚すこととか,娼婦の情交を取り上げたものであるからだ。……こうした事柄が恥ずかしげもなく行なわれ,すべての人が喜んでそれを見ているのを若者たちや処女たちが目にするとき,彼らは何をするだろうか。彼らは自分がしてよいことをはっきり知らされ,肉欲を燃やすのである。肉欲は見ることによってとりわけ強くかきたてられるからだ」― ラクタンティラス。[下線は本誌]

      「忠実なクリスチャンは悪い事を考えてもいけないのであるから,こうした事柄に囲まれた場合にどうするだろうか。どうして肉欲の示される場面に楽しみを見いだすのだろうか……。人は見ることを習慣にしてゆくときに,行なうようになるのである。……わたしたちは聞くことや見るものにすぐに慣れるものである」― キプリアヌス。

      20 (イ)初期のクリスチャンたちはなぜ退廃した娯楽を避けましたか。(ロ)なぜ彼らの行ないは目立って異なっていましたか。

      20 これらの人は,一世紀のクリスチャンたちよりも何年か後に住んでいた人たちですが,それでもわたしたちは,こうした問題におけるクリスチャンの立場を彼らがどのように理解していたかを知ることができます。彼らはそのような堕落した娯楽を避けました。暗やみの中から引き上げられた人,生活の中から卑わいな話しや暴力,不道徳などを閉め出した人が,わざわざ座ってそのような事柄を娯楽として見ることの矛盾を彼らは悟ることができました。大体においてそれらのクリスチャンは,「実を結ばないやみの業に彼らとともに組するのをやめ,むしろそれを戒めることさえしなさい」というパウロの助言を守りました。退廃した世のただ中で営まれる彼らの清い日常生活は,諸国民に対する絶え間ない『戒め』となりました。不敬虔な世が彼らを「人類の敵」ときめこんだのも不思議ではありません。それらキリストの弟子たちは,自分たちが肉の思いを持つ隣人たちよりも優れた影響を受けていることを,喜んで示しました。そして「[自分たちの]思いを活動させる力において新たにされ」たことを実証しました。それはなんと異なった「力」だったのでしょう! ほかの人々はそれに注目しないわけにはいきませんでした。わたしたちは,こういう人のようになりたいのではないでしょうか。口でどんなことを言っても,わたしたちは「光の実」を示すか,諸国民のように歩むかのどちらかです。―エフェソス 4:23; 5:9,11。

      21 どういう理由で今日わたしたちは娯楽の選択について現実的な見方をすべきですか。

      21 では,今日におけるわたしたちの娯楽の選択についてはどうでしょうか。わたしたちや子供たちは,テレビをつけたり,映画に行ったりするとき,何を見ているでしょうか。わたしたちが選ぶものは,『破廉恥なローマの演劇や競技場の野蛮な行為』と本当に異なっているでしょうか。幾つかの実例は,一部のクリスチャンがどのように注意を怠り,見ることを習慣にしていたもののためにどのように不道徳のわなにかかったかを示しています。

      22 (イ)一世紀のクリスチャンたちが,光の子どもとして歩むのはやさしいことでしたか。それでも彼らは何をすることができましたか。(ロ)さらにどんな質問に答えが必要ですか。

      22 それに引き替え,初期クリスチャンたちはなんという道徳的な強さを発揮したのでしょう! 人々の心が,罪を犯していることに気づかないほど無神経になり,恥も外聞も全く忘れ去られた世に住んでいながら,彼らは,『真実なこと,まじめなこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,よく言われること,徳とされること,賞賛されること』に思いを集中し得たのです。(フィリピ 4:8)不道徳な環境のただ中にあって,その強さをどのように維持したのでしょうか。彼らも今日のわたしたちと同じように血肉の人であったことを,忘れないようにしましょう。娯楽は彼らにとっても欠かせないものでした。彼らの『ほかの楽しみ』とは何だったのでしょうか。どうすればわたしたちは「光の子どもたち」の堅実な模範に一層よく倣うことができるでしょうか。次の記事ではこれらの重要な質問について検討します。

  • 光の子どもとして歩みつづける
    ものみの塔 1979 | 9月15日
    • 光の子どもとして歩みつづける

      「あなたがたはかつてはやみでしたが,今は主との関係で光となっているのです。光の子どもとして歩んでゆきなさい」― エフェソス 5:8。

      1,2 (イ)この例えでは,風に逆らって歩くことはどうして重要ですか。(ロ)なぜクリスチャンは諸国民のように歩むのを避けることに極力努力しなければなりませんか。

      その人は強風と戦いました。骨折りながら一歩一歩,しっかりした足どりで前進しました。なぜそれほどの努力を払ったのでしょうか。なぜ向きを変えて風下に向かって歩かなかったのでしょうか。なぜならその人のすぐ後ろに,深い暗い割れ目が気味悪く口を開いていたからです。もし死にたくないならほかに道はありませんでした。風に逆らって必死で歩いたのは当然です。

      2 今日,サタンの牛耳る「世の霊」はひどい風のように,全人類をある道に誘い込もうとしています。それは神の怒りが表明されるとき,必ず破滅という“割れ目”に至る道です。(コリント第一 2:12。エフェソス 5:6)その怒りを避けるには,クリスチャンはいわば『風に逆らって歩く』ことが要求されます。『光の子ども』として歩き,『諸国民が歩く』ように歩く,あるいは振る舞うつもりがないならば,一生懸命に戦わなければなりません。―エフェソス 4:17; 5:8。

      内面の強さが必要

      3 (イ)エフェソス 3章16節によると,諸国民のように歩むのを首尾よく避けるには,どこに努力を向けなければなりませんか。(ロ)わたしたちはどのように『内なる自分』を強めますか。

      3 この戦いに勝利を収めるには,どこに努力を向けなければならないでしょうか。パウロはこれ

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