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  • 御国が近づいた ― いつ?
    ものみの塔 1966 | 4月1日
    • するとき,イエスは同様なわざを全世界的に,また完璧に行なわれることでしょう。しかしそのいやしが行なわれる前に,御国の敵対者,なかでも偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンが一掃されねばなりません。そののち,次のように叫ぶことができます。「ハレルヤ,全能者にして主なるわれらの神〔エホバ〕は,王なる支配者であられる」。(黙示 19:6,〔新世〕)そのとき神の支配は現在よりもさらに広いものとなります。そのとき,まことの崇拝に敵対する宗教は存在しないからです。ついで神の国にいま敵対している世の政府が一掃されて,キリストの栄光の千年統治が始まり,神の支配はあらゆるところに及びます。キリストの選んだ14万4000人の人々はキリストとともに支配し,アブラハムの契約が約束する祝福を地の全家族に及ぼすことでしょう。―創世 22:18。ガラテヤ 3:29

  • 聖書の原則に従って娯楽を選びますか
    ものみの塔 1966 | 4月1日
    • 聖書の原則に従って娯楽を選びますか

      最近の娯楽といえば,強烈な刺激,闘争,犯罪,恋愛それに美貌などが中心となっています。それはあなたの心をとらえ,想像力をたくましくさせ興奮させ,一時的にではあってもあなたの生活の心配ごとを忘れさせるかもしれません。しかし娯楽を選ぶ際には,これらの事がらだけをその基準とすべきではありません。むしろクリスチャン生活の原則を考慮すべきです。

      たとえば,西暦第1世紀のローマ帝国で流行していた娯楽も聖書の原則とは矛盾するものでした。このために当時のクリスチャンは,他の幾千人もの人々が集まる円形闘技場に行かなかったのです。そこで行なわれた娯楽がどんなに悪いものであったかは,ヘンリー・ウイリアムス著「歴史家の記した世界歴史」の中の次のような描写からもわかります。

      「円形闘技場は,そこに横たわる死体や息もたえだえになった人間をできるだけ多くの観衆が容易に眺められるようにできていたので,血のほとばしり出る光景を見ようとする人間の欲望をそだてるものとなった。この欲望のために,ローマ人はそれから幾世紀にもわたって良い意味での刺激のある生活を営めなかったほどである……そのとき人間が互いに戦い合った……彼らの残忍さはその極に達し,熱狂のあまりこうこつとしていた…………興奮して立ち上がった観衆の中のあるものがはり上げた声援の叫び声は,槍や剣あるいは短剣で刺されたものの絶叫よりもすさまじかった。『ホック ハベット』―『やったぞ,やったぞ!』―と叫ぶ幾万人もの叫び声は場内にこだました。こう叫んだのは動物的なほどに堕落した群衆はもとより,皇帝,けんらんたる衣を身につけた元老院の議員や騎士,それに貴婦人たちである。さらには聖別された女たちさえこの叫びに加わっていた。別の場合ならこれらの女たちは,たとえ犯罪者でも許すことができたのに,なんとこの闘技場では負けたものが命ごいをしても,無慈悲にも親指を下に向けてその哀願者を殺すようにと指示するのが彼女たちの役目であった……忘れてならないことは,これほどの事が偶然に,あるいは熱狂するあまりに起こる異常な興奮状態のために引き起こされたのではないことだ。これは組織的に計画され,平然と行なわれたのだ。こうして彼らはそれを国の主要な娯楽としたのである」。

      このような恐るべき娯楽はその人々の道徳を堕落させずにはおきませんでした。このために同情心,憐れみ,親切そして思いやりなどの人間としての尊い特質は踏みにじられました。人の苦しみに同情できることは,人間が動物よりすぐれている点の一つですが,それさえも失われたのです。人道にかない,人を向上させる立派なクリスチャン原則に従った人が,どうしてその極端な見せ物を娯楽として選び,楽しむことができたでしょうか。

      クリスチャンの立場

      ローマのこの円形闘技場に集った群衆の中にクリスチャンがいるとすれば場違いではありませんか。そこで剣闘士が「勝った」と叫ぶ時に,クリスチャンも他のものと一緒に叫んで声援できますか。神のことばが殺人を禁じているのにそれを見て楽しめますか。クリスチャンの原則は苦しんでいる他の人に愛を示すことなのに,どうして人の苦しむのを見て楽しめるでしょう。また神のことばから人にやさしく,親切にし,人とやわらぐことを教えられながら,どうして血なまぐさい光景をながめて楽しむことができますか。聖書の原則に導かれたクリスチャンは,自分たちの楽しみとしてはこのローマの闘技場を避けていたに違いありません。

      ローマの種々の演劇でさえ,それが聖書の原則を犯すものであったために,クリスチャンは見ようとしませんでした。大衆の娯楽のために上演された演劇はローマ人の最も腐敗した道徳状態をそのままさらけだして,人々の楽しみのために見せ物にしたのです。聖書の原則はクリスチャンに対して清い道徳に従った生活を要求しているのに,どうして彼らがこれらの堕落した見せ物などをわざわざ見に行くことなど考えられるでしょうか。一体,悪いことを見聞きすることにどうして楽しみを見出しえたでしょうか。

      ローマ人の娯楽に対するクリスチャンのこの立場について,第2世紀の著作家でクリスチャンであったターツリアンは次のように書きました。「同じように,我々は無作法なことをすべて捨て去るように命令されているのではないか。この理由でまた我々は劇場に入ることも許されない。そこは無作法ものの住む特殊なところであり,立派なものはなにもなく,そこにあるものは他の場所でならとても見ておれぬようなことばかりである。世間一帯の人間の欲情の犠牲にされた淫売婦たちさえ実演の中に引き出され……年齢や階層のあらゆる人々の前で彼女たちは行進させられ,その上,この女たちのすまい,収入からほめことばまでが人々に告げられた。しかもこのようなことを聞かせるべきではないものたちにも聞かされた……。

      「神のことばは,すべてのみだらなことば,いやくだらぬことばさえ禁じている。とすれば,恥ずかしくて行なえないほどのことをながめるのは正しいことであろうか。口から出て人を汚すようなものを目や耳に入れながら

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