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本当に心身をそう快にするレクリエーションものみの塔 1979 | 9月15日
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た家族に例えることができます。(マルコ 10:28-30)ですから,会衆の成員が群れで一緒に証言を行なうことだけでなく,互いに築き上げる交わりのひとときを持つことを楽しむのは当然と言えます。
こうした社交的な交わりは,人をさわやかにし,会衆に暖かさを増し加えることでしょう。クリスチャンのある若い女性は,これまで出席した集いの中でどれが一番楽しかったかと尋ねられた時,ためらうことなくこう答えました。
「それは会衆内の二,三の家族が親子連れで集い合った時です。軽食をとってから,全員が座って話をしました。特別の趣向は何もありませんでした。私たちの何人かは,エホバの証人になったいきさつや,他の人を教える業に関連した経験を話すよう一人の兄弟から求められました。しばらくすると,何人かの違った人が,クリスチャンになったいきさつや克服しなければならなかった問題について語りました。だれも会話を独占することなく,多くの人が話に加わりました。私たちは皆経験によって励みを得ました。それは忘れられないひとときとなりました」。
聖書の原則を適用することによって,またそこに同席する長老や奉仕のしもべや他の円熟した人が良い方向に影響力を及ぼすなら,そのような集いは真にさわやかなものとなり,品位に欠ける振舞いによって多くの人にあと味の悪い思いをさせないですみます。わたしたちの主要な使命が,エホバのみ名と王国を証しすることにある点を忘れてはなりません。くつろいだ雰囲気の中で行なわれるクリスチャンの社交的な交わりにおいてさえ,わたしたちの行状は聖なるみ父に栄光を帰すものであるべきです。二世紀のクリスチャンの著述家が,「クリスチャンでないクリスチャンはどこにもいない」と語っている通りです。―イザヤ 5:12; 43:10-12。コリント第一 10:31。
レクリエーションの相対的な価値
健全なレクリエーションは楽しい気晴らしとなります。新鮮な気分になって,通常の仕事を続けて行く力が得られます。しかし,レクリエーションは生活の中で重要な事柄ではありません。ヨーロッパで良いたよりの全時間の宣明者として奉仕している,平衡の取れたある若い姉妹はこう語りました。
「家で娯楽が強調されることはありませんでした。正直なところ,私たちの家では,野外奉仕が重視されていました。衣食住や霊的な事柄,集会が重要な事柄とみなされました。もっとも,時間のある時には,会衆内の他の家族を訪問するなどして楽しいひとときを過ごしました。
「若い人たちが娯楽をしにいろいろな所へ行くのを度々見掛けてきましたが,そんな時,『わたしもやってみたい』などと考えたものです。でも,絶えずレクリエーションができないからといって,それを苦痛に思うことはありませんでした。そのために自分が不利になったことはありませんでした。自分と同年齢の若い人々すべてと比べても,引け目を感じることはありません」。
娯楽が生活の中で主要な位置を占めるのを許すなら,霊的に,そしておそらくは身体的に害を被ることになるでしょう。箴言 21章17節(新)の次の明りょうな警告に留意してください。こう記されています。「歓楽を愛している者は窮乏する者となり,ぶどう酒と油を愛している者は富を得ることがない」。
社交的な集いや祝宴では,ぶどう酒を飲み,香油その他の芳香性のものを頭や服にそそぐのが習慣になっていました。(箴 27:9。アモス 6:6)こうした浮かれ気分を愛する人は,やがて,生活の他の活動に影響が及んで害を被ることに気づくでしょう。全くの浮かれ気分になる気晴らしを定期的に行なう人々は,世俗の事柄に引っ張られていく傾向のあることを,幾多の悲しい経験が物語っています。ですから,十分注意を払わねばなりません。
世界各地の多くのクリスチャンたちは,工業国の人々が“娯楽”と呼んでいるものの多くを持っていないことを忘れないでください。それでも,結構楽しく暮らしているのです。事実,様々なレクリエーションを行なう人と比べて,多くの面でより深い幸福と満足を感じてさえいるようです。国際的な状況を注意深く観察した一人の長老は,「娯楽が重視されるにつれて,道徳が低下していると感じている人は少なくない」と述べています。ですから,個々のクリスチャンはこうした危険に対して用心し,天のみ父の崇拝にあずかることを“重視”していかなければなりません。
また,次の事実も直視する必要があります。つまり,この「終わりの日」に神の王国を宣明するという緊急な使命を持つ者として,わたしたちクリスチャンであれ,子供であれ,娯楽に費やす時間は,最少限度に押さえなければならないということです。また,世が“娯楽”と呼ぶすべてのものをクリスチャンが行なえるわけでないことも明白です。ですから,レクリエーションはそのあるべき位置に保たれなければなりません。そのためには,肉的な見方ではなく,霊的な見方を絶えず保ち,子供の心にそうした見解を教え込むことが必要です。
では,個々のクリスチャンがレクリエーションに対して平衡の取れた見方を保てますように。時折,築き上げるレクリエーションを楽しみながら,心に真の喜びと満足をもたらす事柄を中心とした生活を築いていけますように。加えて,クリスチャンとして清い生活を送り,壮大な王国の希望を他の人に宣明する業に熱意を込めてあずかることに最大の幸福を見いだせますように。やがて,この王国の下で,全人類は,わたしたちの神エホバに永遠の賛美となるよう平衡の取れた価値ある生活を送るよう助けられることでしょう。
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ナイジェリアの村で証言するものみの塔 1979 | 9月15日
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ナイジェリアの村で証言する
ゴスタは広々とした庭の中に車を乗り入れると,マンゴーの木の下に止めました。二軒の土壁の家から人々が出てきました。一人の老人が別の木の下に座っており,私たちは「ワ ドモ・オ」(「こんにちは」)と言ってあいさつをしました。彼はしばらくの間私たちをじっと見ていましたが,やがてそのしわだらけの顔の表情が和らぎ,「オボキヤン」(「ようこそ」)と言いました。
私たち四人は,村人たちと聖書の音信について話し合うためにやって来たのです。この最初の家は村の他の部分から孤立しており,またここには車を止められる場所があったので,最初に全員でこの家を訪問し,それから他の村人に証言するため分かれて家から家の奉仕を行なうことにしました。
村へ出掛ける前に,私たちは話し合いの際どんな
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