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余暇を報いの多いものにすることができますかものみの塔 1971 | 8月15日
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さまざまです。いっしょに食事をしたり,ピクニックや遠足をしたり,何か近くの興味深い場所や娯楽施設に出かけたりもします。考えたり感じたりしていること,良い思いつきや経験などを話し合って,日常生活のもたらす圧迫を和げたり,互いに励ましたり建て起こしたりもします。―ロマ 1:11,12。
何を行なえるか
人はだれでもなんらかの種類の娯楽をして心ゆくまで楽しむための幾らかの時間が必要ですが,それが正しい原則にもとるものでないかぎり,どんな種類の娯楽を選ぶにしても,この点で人をさばいてはなりません。木工,ラジオの組立て,絵,草花の世話,写真,ぬいものや編みもの,外国語の勉強その他の趣味を楽しむ人もいます。また,良い音楽を聞いたり読書をしたり,テレビを見たり森を散歩したり,ショーウィンドーを見てまわったりなど,それに似た他のいろいろなことをして少しの時間を過ごす人もいます。時には,休んだり眠ったりするのが最善の息ぬきとなる場合もあります。
ある人にとっては楽しいことでも,別の人には時間の浪費と思える場合もあるでしょう。それにしても,当人にとってそれが気晴らしとなり,有益であれば,また当人がそのことに度を過ごさず,節度と平衡を保つならば,その人を非難すべきではありません。
使徒パウロはある食べ物を食べるか食べないか,またある日を休日もしくは普通の日として守るかどうかなどの事柄を論じ,次いで,自分個人の考えや意見にしたがって他人をさばこうとしていた人々にこう言いました。「なんぢ何ぞその兄弟を審くか,汝なんぞ其の兄弟を蔑するか……我等おのおの神のまへに己の事を陳ぶべし然れば今より後,われら互に審くべからず,寧ろ兄弟のまへに妨碍または躓物を置かぬやうに心を決めよ」,ある事柄が自分として悪いと考える場合,それは自分にとっては悪いということなのです。パウロがさらに指摘しているとおりです。「ただ潔からずと思ふ人のみ潔からぬなり」。―ロマ 14:10-14。
逆に言えば,その使徒がさらに述べるとおり,自分個人にとっては楽しことでも,それが他の人をろうばいさせたり,つまずかせたりするものであれば,わたしたちは自分の“権利”だからといって,それをすべきではありません。もしそれが実際に肝要なものでなければ,それは「自分個人の事柄だ」として言い抜けられるものではありません。パウロはこう助言しています。「肉を食はず,葡萄酒を飲まず,その他なんぢの兄弟を躓かする事は何をもせねぬは善し」― ロマ 14:21。
だれでも次のように自問してみるのは良いことです。暇な時間の使い方をわたしは十分に考慮しているだろうか。時間を浪費していないだろうか。何か有益な目的をし遂げているだろうか。ある晩に何かの娯楽あるいは楽しみを持っているならば,節度が守られているだろうか。それとも,あまりおそくまで起きているため,翌日,ねむ気がさしたり能率的に働けなかったりしているだろうか。あるいはそのような晩が土曜日もしくは仕事のない日の前夜の場合,夜ふけの映画やテレビを見たり,他のことをしたりしておそくまで起きているため,翌朝,寝すごして,その日の最善の時間を用いそこなっているだろうか。こうした問いに肯定の答えが出,特にしばしばそうであれば,時間の用い方には平衡が欠けていますから,やり方を変えなければなりません。もし,そうした活動に携わったのち,報いのないむなしい気持ちになったり,時間を浪費したために何かうしろめたい気持ちが残るなら,娯楽にかんする自分の活動は再検討するほうがよいでしょう。
みんなでいっしょに集まるとき
一家族が,あるいは二,三家族がいっしょに集まるなら,多くのことが行なえます。会話やいろいろな活動に子どもや老人を加えるのは良いことです。聖書を愛する人々にとっては,おそらくなんといっても聖書を読むこと,みんなで順番に二,三節を読み,それから質問を出し,その資料について注解するのは,人を一番建て起こす楽しい事柄でしょう。この「ものみの塔」誌や姉妹雑誌「目ざめよ!」誌,その他ものみの塔協会の種々の出版物を読む人であれば,同様な方法でそれら出版物の資料を読んで話し合えば,楽しむことができるでしょう。
ゲームの好きな人もいます。それが聖書に基づいたものであってもなくても,競争する気持ちを最小限度に食いとめるのは良いことです。そうすれば,群れの中の一,二の人をすぐれた者にし,他の人たちを当惑させたり,劣っていると感じさせたりせずにすみます。そのために,だれをも“当惑させる”ようなことのないゲームを選べます。何かを自発的に言うにしても,黙っているにしても,気楽にそうすることができるようにしてください。質問をする場合には,だれか特定の人にではなく,むしろ群れの人たちにすることができます。だれでも話したい人は話してもよいし,またすべての人が聞いて学べるわけです。
どんな場合でも覚えておくたいせつなことの一つは,何をして楽しむにせよ,そのために,他の人が別の事柄に用いたいと思っている時間を侵害すべきではないということです。訪問の時間の長さや頻度については人はみな良い判断を働かせねばなりません。聖書の格言はこの点でも賢明な助言を述べています。「なんぢの足を隣の家にしげくするなかれ恐くは彼なんぢを厭ひ悪まん」― 箴言 25:17。
警戒を要する危機的な時代
聖書は,急速に退廃してゆく現在の事物の体制の「終わりの日」のしるしの一つとして,「対処しにくい危機の時代」が来ることを予告していました。(テモテ後 3:1,新)わたしたちは,映画や本や雑誌に出てくる春画はもとより,犯罪や不道徳が怒とうのように増大するのを見ています。映画やスポーツその他この世的な娯楽を求めて群衆が集まるところに行くのはいよいよ危険になっています。ニューヨーク市最大のある劇場で爆弾が発見されたのはつい最近のことです。そうした集まりに出席する人は強盗や強奪また暴動の脅威にさえさらされるのです。
こうした状態が見られるにもかかわらず,現在の危機的な時代の人生経験しかない若者は,その“気晴らし”となる娯楽のある種のものに魅力を感ずるかもしれません。そして,“したいほうだい”のことをして,あとでもっとまじめな落ち着いた生活をしてみたいと考えるかもしれません。しかし,こうした考えを持つ人はだれでも,霊感を受けた伝道の書の記述者の次の助言のことばと自分の態度とを比較考量すべきでしょう。「少者よ汝の少き時に快楽をなせ 汝の少き日に汝の心を悦ばしめ 汝の心の道に歩み 汝の目に見るところを為せよ 但しその諸の行為のために神汝をさばきたまはんと知るべし」― 伝道 11:9。
若い人が楽しみに対して熱意をいだくのは自然なことです。心はそうすることを好みます。もとより神は,若い人だけでなくすべての人が生活を楽しむのを望んでおられます。しかし神は特に若い人たちに対して,自制を働かせねばならないことを警告しておられます。(テモテ後 2:22)もし快楽をほしいままにしたり,良くない事を行なったりするなら,そうする人は自分の行為にかんして神に申し開きをしなければならなくなるでしょう。この点で伝道之書の記述者はさらにこう続けています。
「然ば汝の心より憂を去り汝の身より悪き者を除け,少き時と壮なる時はともに空なればなり」。若い時は一時的なもので,長くは続きません。ゆえに,放とうや災いまた神の不興をもたらす悪習を若い時に避けてください。そして,今正しい娯楽や楽しみを選んでください。―伝道 11:10。
良い映画やテレビ番組その他の娯楽を取捨選択できる余地はいよいよ狭くなっているおりから,老若を問わず,わたしたちはみないっそう慎重さを期さねばなりません。しかし逆説的に言えば,こうした事態はクリスチャンを益するものとなっています。それはクリスチャンを,満足と報いをもたらす根本的な事柄にいっそう専念させるのに役だつのです。そうです,それは「凡て神の栄光を顕す」ために物事を行ない,同時に人を建て越こし,平和に寄与するようクリスチャンを促すものとなるのです。
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交換された神のことばの「種」ものみの塔 1971 | 8月15日
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交換された神のことばの「種」
キリスト教世界の主要な宗派の主張とはうらはらに,「羊」は,ヨハネ伝 21章17節でイエスがペテロに指示したとおりには養われていません。カトリックの勢力下で人々が無知の状態に置かれているため,奉仕者を大いに必要としているガテマラのある区域に派遣されたエホバの証人の特別開拓者が,「失楽園から復楽園まで」と題する本を黒豆4キロほどと引き換えに配布しました。特別開拓者はその結果をこう伝えています。「わたしが再び訪問したところ,少年がその本を読んでいたので,その少年と家庭聖書研究を始めました。しかし3回目に訪問したとき,少年は,自分はカトリック教徒だから何の義務も負わされたくないと言いました。わたしは,何の義務も負う必要がないことを説明し,その聖書研究を続けました。偶像崇拝はエホバに喜ばれないこと,また像を敬うのも正しくないことを学んだ少年は,カトリック教会の墓掘りをしている父親にそれを説明しました。11月になって,少年は父親が自分たちの像を焼き捨てるのを手伝いました。また翌3月には父親は教会における自分の務めをやめました。6月になって少年はエホバに対する献身を表わし,家族との聖書研究を司会しはじめました。こうしてその家族は喜びを得,今では集会に出席しています。少年はまた別の家族との聖書研究をも司会し,結果として,その家族のうちの何人かがエホバに献身しました。実際の種と交換された神のことばの「種」は「良き地」に落ちて何倍もの実を生みました。
― エホバの証人の1971年度年鑑より
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