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  • 町の乱暴者がクリスチャンの奉仕者になるまで
    ものみの塔 1977 | 9月15日
    • 私と妻は今でも巡回の業を続けています。

      町の乱暴者としての私の評判を覚えているのは今日ではごく少数の人です。事実,私の過去について聞いて,とても信じられないと言う人もいます。今では,ハワイ諸島で平和を愛するクリスチャン奉仕者として広く知られるようになったからです。こうして,私たちの偉大な神エホバを代表できるのは何と喜ばしいことなのでしょう!

  • 古代エフェソスにおける生活
    ものみの塔 1977 | 9月15日
    • 古代エフェソスにおける生活

      すばらしい所。小アジアの古代都市エフェソスの生活について多くの人はこのように感じたことでしょう。事実,同市のギリシャ語名には,まさにそのとおりの ― すばらしい ― という意味があるようです。

      今日,エフェソスの遺跡を訪れる人は,そこがかつてすばらしい都市であったとは想像し難いかもしれません。そこで目にするのは,崩れ落ちた廃きょだけです。ですから,ここを訪れる人は,当然,「古代エフェソスでの生活を楽しめた人がいるだろうか」と問うことでしょう。

      人々であふれる大都会

      エフェソスには,少なく見積もっても22万5,000人の住民がいました。同市は,商業および宗教の両面で重要な都市でした。また非常に豊かな都市でもありました。もっとも住民のすべてが富んでいたわけではありません。

      エフェソスの重要性はその立地条件とも関係があります。同市は,小アジアの西岸のカユストロス川の河口近くに位置しており,サモス島とほぼ向かい合わせになっています。エフェソスの遺跡がトルコの都市イズミルの南東約56㌔の地点にあることを見ておけば,エフェソスの位置をずっと容易に想像できるでしょう。

      エフェソスには海底を常にしゅんせつして開かれていた人造港がありました。しかし,長年の間に,泥が堆積して港を埋めてしまったようです。それで現在,その港の跡は,海岸から数㌔内陸に入ったところにあります。とはいえ,同市の全盛期には,最大級の外航船を港で見ることができました。また,エフェソスの町並みは,ローマと東洋を結ぶ主要通商路の両側に広がっていました。海路ではローマと結ばれ,陸路ではアジアの多くの地域と結ばれていたため,市内の商店や市場へは,多数の品物が出回っていました。

      エフェソスの起源は伝説の影に覆われ,不明な点が多々あります。しかし,いつの日か,イオニア系ギリシャ人がそこに定着するようになりました。西暦前560年に,リュディアス人が同市を占領しましたが,わずか3年後にはペルシャ人の支配を受けるようになりました。そして,アレクサンドロス大王の時代に,マケドニア人の支配下に置かれました。その後何年かたって,ペルガモス(ペルガモン)の王アッタロス三世は,エフェソスをペルガモン王国の残りの領土とともにローマに譲渡しました。西暦前190年に,ローマのアジア州が成立し,ペルガモンがその首都となり,エフェソスはやがて同州の主要都市になりました。

      市内の遺跡めぐり

      それでは,ここで古代エフェソスの旧跡の幾つかを見学してみることにしましょう。門をくぐると,アゴラつまり市場がありました。ここは,柱廊に囲まれた長方形の広場で,周囲に広間や部屋がしつらえてありました。ケルススの図書館があったのはこのアゴラの近くでした。西暦2世紀に建てられたと思われるこの建物は,内壁および外壁と共に列柱でできていました。この二重の壁のおかげで,図書館に収められているパピルスの巻き物は湿気から保護されました。

      市の中心部にはスタディオンがありました。この建物はローマ皇帝ネロの治世(西暦54年-68年)中に改築されました。ここでは運動競技が行なわれたようです。また,おそらく,剣闘士の血みどろの戦いも行なわれたことでしょう。

      別の有名な遺跡はピオン山の山麓に残る劇場です。直径約150㍍のこの劇場の正面は,柱や壁がんやりっぱな彫像で飾られていました。舞台を中心に,階段状の大理石の座席が66段しつらえてあり,ここに約2万5,000人の観客を収容できたものと思われます。音響効果は特に優れており,廃きょと化した今日でさえ,舞台のあった場所で小声で話した言葉が最上段で聞き取れるほどです。

      大理石を敷き詰めた幅11㍍の街路,“アルカディアン”が劇場の前から港に通じていました。この街路の両側には柱廊が並び,その奥には店舗や倉庫がありました。通りの両端には巨大な門が立っていました。それはなんと印象的な光景だったのでしょう! しかし,それに劣らぬ壮観を呈していたのは同市の神殿です。

      アルテミスの神殿

      この有名な建造物は,いわゆる『世界七不思議』の一つとして知られています。アルテミス(つまりディアナ)の神殿は,西暦前356年にヘロストラトスが焼き払ったとされる以前のイオニア式の神殿をひな型に再建したものです。幅約72㍍,長さ127㍍の基壇の上に建つアルテミスの神殿は,幅が49㍍,長さは104㍍ほどありました。この神殿

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