-
わたしたちはどのようにして逃れるかものみの塔 1981 | 3月1日
-
-
わたしたちはどのようにして逃れるか
「それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:36。
1 逃れる話にはいつもはらはらさせられますが,それはなぜですか。この点をどのように例証することができますか。
逃れよ! これはいつの場合でもはらはらさせる言葉です。本当に危険で,緊急な行動が必要でない限り,この言葉は使いません。例えば,地元のエホバの証人の王国会館で開かれるクリスチャンの集会の後,何らかの理由で急いで家に帰らなくてはならない場合があるかもしれません。しかし,煙がもうもうと立ちこめていることに突然気付くのでもない限り,そこから逃げ出さなければならないとは言わないでしょう。別の例を考えて見ましょう。あるアパートの建物が燃えているのを見て,急いで現場に駆け付けたとしましょう。その建物の上の階の窓際には子供を抱いた婦人が恐怖におののいています。飛び降りるには高すぎ,その子供を落とすには危険が大きすぎます。どんな望みがありますか。消防夫たちがはしごを登って救いを求めるその親子の所へ行くか,素早く火災避難装置を使うかしなければなりません。
2 逃れることにはどんな要素が関係していますか。
2 実際のところ,避難に関する話には必ず二つ以上の要素が関係しています。次に挙げるのはその主要な要素です。(1)緊迫感を持って,逃げ去らなければならない場所または危険をはらんだ状況。(2)保護と安全を求めて行くことのできる,避難場所の必要性。そして(3)わたしたちの窮状を見て,安全な場所を備えることができ,しかもそこへ行くのを進んで助けてくれるだれかの指示に聞き従うことの必要性。そのような助けを差し伸べる人は最も重要な人です。
「逃れさせてくださる方」
3 (イ)詩篇 18篇の表題はわたしたちに何を思い起こさせるかもしれませんか。(ロ)詩篇 18篇1節から6節では,どんな要素が強調されていますか。
3 エホバ神は逃れさせてくださる方として比類のない方です。詩篇 18篇をお開きになり,その詩が,表題にあるようにダビデの作であることに注目してください。それが作られたのは「エホバがそのすべての敵のたなごころより,またサウルの手より[ダビデ]を救い出してくださった日」のことでした。イスラエルの最初の人間の王サウルと言えば,すぐに次のことが思い浮かぶかもしれません。それはダビデが幾度となく死の迫っていることを感じたに違いないということです。何と三度にわたって,王は槍でダビデを壁に突き刺そうとしたのです。(サムエル前 18:11; 19:10)その後数年の間,ダビデはサウルに情け容赦なく追われ,逃亡を続けました。(サムエル前 26:20)このことを念頭におくなら,ダビデが詩篇 18篇の冒頭の言葉を述べた際の深い心情を容易に察することができます。次のように書かれています。「わたしの力,エホバよ,わたしはあなたに愛情を抱きます。エホバはわたしの大岩,わたしのとりで,わたしを逃れさせてくださる方なのです。わたしの神はわたしの岩。わたしはそのもとに避難します。わたしの盾,わたしの救いの角,わたしの堅固な高みなる方。たたえられるべき方であるエホバを,わたしは呼び求め,そして,敵から救われる。死の縄がわたしを取り巻き,無益な者たちの突然の出水もまた,絶えずわたしを恐れおののかせた。……わたしは苦難の中にあってエホバを呼び求め,わたしの神に助けを求めて叫びつづけた。すると,その神殿からわたしの声をお聞きになり,み前で助けを求めるわたしの叫びが,ついにその耳に入った」― 1-6節,新。
4 どんな崇高な称号がエホバに帰せられていますか。そして詩篇 18篇はそれがふさわしいことをどのように確証していますか。
4 「逃れさせてくださる方」― ここで何と壮大で慰めを与える称号がエホバに帰せられているのでしょう。ではエホバ神はそれが真実であることを証明されましたか。確かに証明されました。エホバの力強いみ業を描写した後,ダビデはさらに次のように述べているからです。「[神は]わたしの強い敵から,わたしを憎んでいるものたちから,わたしを救い出されるのであった。彼らはわたしよりも強かったからだ。彼らはわたしの災難の日に終始わたしに立ち向かった。しかしエホバはわたしの支えとなってくださった。そして,広々とした場所にわたしを連れ出し,わたしを救い出してくださるのであった。わたしを喜ばれたからだ」― 詩 18:17-19,新。
5,6 (イ)詩篇 37篇は,「逃れさせてくださる方」としての神に信頼を置くようどのようにエホバの民を助けますか。(ロ)詩篇 70篇では緊迫感がどのように強調されていますか。
5 ダビデは詩篇全体を通して何回もこの同じ主題を取り上げています。詩篇の四つの篇で,ダビデはエホバを「逃れさせてくださる方」と呼んでいます。(詩 18:2; 40:17; 70:5; 144:2,新)わたしたちはエホバの証人として,他の人々にエホバの優れた特質と目的を語る際,しばしば詩篇 37篇の一部分に言及します。ではその見事な結論に注目してください。「義なる者たちの救いはエホバから来る。主は苦難の時の彼らの要塞である。また,エホバは彼らを助けて,逃れさせてくださる。これを邪悪な者たちから逃れさせ,救ってくださる。彼らがご自分のもとに避難したからである」。(39,40節,新)これらの言葉は,正に,神に信頼を置くようエホバの民を動かすはずです。
6 詩篇 70篇は緊迫感を生き生きと伝えます。ダビデが次のように嘆願したのは,彼が絶望的に感じた時でした。「神よ,わたしを救い出すために,エホバよ,わたしを助けるために急いで来てください。……わたしは苦しんでおり,貧しいのです。神よ,わたしのためにどうか急いで行動してください。あなたはわたしを助けてくださる方,わたしを逃れさせてくださる方なのです。エホバよ,どうか遅すぎることがありませんように」― 詩 70:1,5,新。
7 緊急に助けを必要としている際に,どんな態度でエホバにふさわしく祈ることができますか。
7 あなたはそのように感じたことがありますか。わたしたちがエホバの僕として,神が「急いで行動して」くださることに確信を抱けるのは,慰めとなり,信仰を強めるものとなります。神はわたしたちが必要とするものと,それらを備える方法をご存じです。愛のある天の父は,ちょうど必要な時に,確かに「逃れさせてくださる方」なのです。わたしたちはダビデと同じく,時折り自分自身の欠点のために困難な状況に陥ることを知っています。しかし,神はわたしたちの祈りを聞かれ,答えてくださるという確信を持って,ダビデのように誠実さのうちに,場合によっては「砕かれた霊」をもってエホバに近付くことができます。わたしたちはダビデがしたように嘆願することができます。「神よ,わたしのうちに清い心を造り,わたしの内に新たな霊,動くことのない霊を置いてください」― 詩 51:10,17,新。
8 「時にかなった助け」を受ける際にイエス・キリストはどんな役割を果たしますか。
8 銘記すべきもう一つの要素は,わたしたちの神が「わたしたちの弱いところを思いやる」ことのできる大祭司を備えてくださったことです。その方を通して「時にかなった助けとしてあわれみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に」近付くことができるのです。わたしたちはこの思いやりのある大祭司,イエス・キリストをいただいていることを本当に感謝しています。イエスはみ父の指導の下に,わたしたちを「解放する」,つまり霊的束縛からの逃れ道を備えることがおできになります。―ヘブライ 2:15; 4:15,16。
9 (イ)一度だけどんな時にイエスは『逃れること』について話されましたか。(ロ)逃れる際にはどんな二つの事柄を守らなければなりませんか。
9 福音書の記録によると,大いなるダビデであられるイエス・キリストはただ一度だけ『逃れること』について述べられました。「事物の体制の終結」について話された際,イエスはご自分の弟子たちにこう勧められました。「それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。(ルカ 21:36。マタイ 24:3)しかし,その聖句を詳細に調べる前に,ヘブライ語聖書中に記録されている,逃れることに関する胸の躍るような幾つかの記録を思い起こし,わたしたちが学んで自分に当てはめるべき大切な教訓の幾つかに注目することにしましょう。わたしたちが危険な状態にある時には,取るべき重要な処置と首尾よく逃れるために避けるべき事柄が必ずあるものです。歴史的な出来事を考慮しながらこの点を調べてみましょう。
大洪水を逃れる
10,11 ノアとその家族にとって逃れることは何に依存していましたか。しかしどんな場合に逃れることは不可能になりますか。
10 考慮する最初の記述は,邪悪な者たちの世界的な滅びが関係しているため,確かに胸の躍るものです。だれか逃れる人がいたでしょうか。エホバがノアに次のように言われたことを思い起こしてください。「わたしはいま,地に大洪水をもたらして,その内に命の力が活動しているすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去ろうとしている。地にあるものはすべて息絶えるであろう」。(創世 6:17,新)しかしながら,エホバは箱船の建造に関する詳細な指示を既にノアに与えておられました。全地に及ぶ洪水について警告を与えた後,神はノアとその家族が他の特定の生き物ともども命を保護され,その破壊的な洪水に飲み込まれないためになすべきことをノアに指示されました。
11 逃れることは何に依存していましたか。そのことは次の言葉にはっきり示されています。「それでノアはすべて神から命じられたとおりにしていった。まさにそのとおりに行なった」。(創世 6:22,新)神が明白な命令や指導をお与えになる時,絶対的な従順が求められます。もし指導や警告の面で何かが無視されるなら,逃れることは不可能となります。その場合,結果はノアの時代の人間家族の残りの者に生じた事柄と似たものになるでしょう。イエスは彼らの態度とその結果についてこう言われました。「洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでした」。(マタイ 24:39)そのような人たちにとって逃れることは不可能でした。なぜなら彼らはその危険な状況を認めませんでしたし,「逃れさせてくださる方」がノアを通して与えられた逃れるためのいかなる指示にも注意を払わなかったからです。
12 ペテロ第一 3章20節によると,「八つの魂」はノアの日にどのように逃れましたか。
12 この記述の中で,もう一つの点はとりわけ注目に値します。それら「八つの魂」はどのようにして逃れたのですか。使徒ペテロの答えを注意深く調べてください。彼らは「無事に水を切り抜けました」。(ペテロ第一 3:20)彼らは“事物の真っただ中に”いたのであり,例えば,月への旅行で地上から取り去られて救われたのではありません。今から見るとおり,今日エホバに仕えている人々についても同じことが言えます。
ソドムから逃れたロト
13 ロトはどのようにしてソドムに住むようになりましたか。
13 次に,ソドムから逃れたロトについて考えてみましょう。その背景を思い起こしてみてください。すべての動物たちのための牧草地が十分なかったために,アブラハムはロトに,どちらへ行くかを決める機会を与えました。「そこでロトは自分のためにヨルダン地域全体を選び,こうしてロトは自分の宿営を東方に移した。……やがて彼はソドムの近くに天幕を張った。ところで,ソドムの人々は悪く,エホバに対しはなはだしい罪人であった」。ロトは疑いもなくソドムの住民たちの悪い評判について知っていたに違いありません。しかし物質的に繁栄する可能性はその地域にありました。「その全域がよく潤っており……エホバの園のようであった」からです。―創世 13:5-13,新。
14 緊急な警告が与えられた時,(イ)ロトの婿,(ロ)ロト自身二度にわたって,(ハ)ロトの妻,はそれぞれどんな反応を示しましたか。
14 やがて,人間として肉の体を身に着けた二人のみ使いがソドムに来て,「この都市を滅びに至らせ(る)」というエホバの決定についてロトに告げました。直ちに,ロトは自分の将来の婿たちに警告を与えました。ところで彼らは危険な状況と緊急に逃れる必要性を認めましたか。それは首尾よく逃れるための主要な要素の一つです。ところが彼らはそれを認めませんでした。「しかし,その婿たちの目に[ロト]は冗談を言っている者のように見えた」のです。(創世 19:12-14,新)夜明けになって,直ちに行動を取るようにと,「み使いたちはロトをせき立て」ました。ロトの反応はどんなものでしたか。『彼は手間どっていました』。しかし「彼に対するエホバの同情によって」,み使いたちはロトとその妻と二人の娘を市の外へ素早く導き出しました。それから彼らは次のような言葉で行動を促されました。「自分の魂のために逃げよ。後ろを振り返ってはいけない。……自分がぬぐい去られることのないよう山地に逃れよ!」 ここで,ロトはまたもやどんな反応を示しましたか。「そのときロトはその人々に言った,『エホバ,どうかそのようにではなく!……お願いです。いま,この都市はそこに逃げて行くのに近いところにあります。それは小さなことです。どうかそこに逃れさせてください ― それは小さなことではないでしょうか。そうすれば,わたしの魂は生き長らえることでしょう』」。エホバの憐れみ深い思いやりによって,ロトの願いはかなえられ,彼はゾアルの町へ逃れました。しかしロトの妻はどうでしたか。彼女は明白な指示を故意に無視しました。「ロトの妻はその後ろで振り返るようになり,そのために塩の柱となった」― 創世 19:15-26,新。
15 (イ)ロトが滅びを逃れたのは彼自身の功績によるものでしたか。(ロ)ロトが逃れたことからどんな個人的な質問が生じるかもしれませんか。
15 わたしたちはこうしたことすべてから何を学びますか。ロトが逃れるのに成功したのは全く彼自身の功績でしたか。そうではありません。アブラハムが隣れみを求めて熱心に嘆願したことも成功の一因でした。(創世 18:20-33)したがって,「神がその地域の諸都市を滅びに至らせたとき,神はアブラハムのことを思いに留めて……その覆しの中からロトが出られるようにされたのである」。(創世 19:29,新)そのうえ,神はロトを救い出されました。なぜなら,ロトは「無法な人びと」の間に住んでいましたが,「義」人として,そうした人々の邪悪な行為には全く同調していなかったからです。(ペテロ第二 2:7)それでも,ロトは自分の関心事のいくつかが残っていたソドムから急いで出たわけではありません。促してもらうこと,また手を取って連れ出してもらうことさえ必要でした。(創世 19:16)ロトの逃れたことを考えて,次のように自問するのは良いでしょう。わたしたちは不敬虔で,無法な人々に全く共鳴しない立場をとっているだろうか。また,逃れるために,見せかけの物質上の利益よりも霊的な関心事に進んで重きをおくだろうか。―マタイ 6:33。
16 ロトとアブラハムの間ではどんな対照的な反応が見られましたか。
16 ロトが素早く逃れることをためらったのとは対照的に,『神がアブラハムを試みられ』,その愛する息子イサクを焼燔の捧げ物としてささげるようアブラハムに告げられた時の出来事を考えてみてください。なるほど逃れるという要素は関係していません。しかしアブラハムはどのようにこたえ応じましたか。ぐずぐずしたでしょうか。それとも何か代わりの捧げ物があるはずだと嘆願しましたか。そのようにはしませんでした。「アブラハムは朝早く起き」,イサクを携えて直ちに三日間の旅に出かけました。アブラハムは「屠殺用の短刀を取り,自分の子を殺そうと」さえしましたが,その時に神が介入されたのでイサクは死を免れました。―創世 22:1-14,新。
17 (イ)今討議したばかりのことを考えながら,どんな教訓を心に留めるべきですか。(ロ)イエスのどんな言葉は,その追随者であるわたしたちが現在の事物の体制に関連した自らの立場を評価する上で助けとなりますか。
17 ここにわたしたちが心に留めることのできる教訓があります。実際の悪行を避けることで満足して,ただ消極的な仕方で義の道を追い求めることがないようにしましょう。ぐずぐずしてこの邪悪な事物の体制のふちにどれだけ近付けるかを試してみるようなことがあってはならず,その体制に同調し,その物質的な利益のすべて,またその体制の“面白いもの”すべてをできるだけ得ようとしてはなりません。キリストの追随者が態度の面でこの世的であってはならないことは,キリストが神への祈りで次のように言われた時に明らかにされました。「わたしはあなたのみことばを彼らに与えましたが,世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないのと同じように,彼らも世のものではないからです」― ヨハネ 17:14。
どのようにして首尾よく逃れるか
18 イエスはノアとロトの記述をどのように結び付けましたか。そしてこのことは今日のわたしたちにもあてはまりますか。
18 ある時,イエスはノアとロトに関する記述を結び付け,それらが来たるべき「人の子の日」を予表するものであると言われました。それらの預言的な記述は,イエスの日の世代に成就を見ましたが,この「終わりの日」における,わたしたちの日に大規模な成就を見ます。(ルカ 17:26-33。ダニエル 12:1-4,新)聖書の記述によると,「ロトの日」にはノアの日のように,人々はただ食べたり飲んだりしただけでなく,買ったり売ったり植えたり建てたりしました。日常生活の事柄に全く没頭してしまいがちな今日に何とよく似ていることでしょう。確かに,インフレや国家主義また,「自分自身のことを行なって」,この世で成功を収めることへの誘惑などから生ずる不利な圧力はかつてないほど大きくなっています。
19 イエスは地上でのその偉大な預言の中で,脅威となる状況がどのような進展を見せると話され,その後どんな教訓をお与えになりましたか。
19 さて,わたしたちの時代に生ずる事柄の進展と,その結果逃れることがどうしても必要となるような,非常な脅威となる危険な状況を描写している,イエスの偉大な預言について考えてみましょう。イエスが言われたところによると,「諸国民の苦もん(があり)……同時に人びとは,人の住む地に臨もうとする事がらへの恐れと予想から気を失います」。この状態は,サタンの『天と地』が取り除かれる,「大患難」で頂点に達します。(ルカ 21:10-33。マタイ 24:21。ペテロ第二 3:7)それから時宜にかなった教訓が続きます。「しかし,食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。
20 (イ)ノアはどのようにしていつも『真の神と共に歩み』ましたか。(ロ)同様に,わたしたちは何を行なうように注意深くあるべきですか。
20 では,わたしたちはどのようにして逃れますか。活動している場面から連れ去られることによってではありません。むしろわたしたちはノアの模範に倣う必要があります。ノアは従順であることに心を配り,神の備えである箱船を建造し,それから家族と共にその中に入りました。その困難な期間中,ノアはエホバの前で是認された立場を保ちました。「ノアは真の神と共に歩んだ」と述べられています。(創世 6:9,新)脅威となる状況が存在しており,そこから緊迫感を抱いて逃げなければならないことをわたしたちはノアのように認める必要があります。またこの信仰の人のように,わたしたちは「逃れさせてくださる方」に従い,この危急な時代における神からの指示に従って行動するよう注意深くあらねばなりません。一方,過度に食欲を満たして放縦になったり,日常生活の思い煩いで押しひしがれたりするのを避けなければなりません。さもないと眠気が生じ,何事にもぐずぐずするようになります。そしてその日が突然わなのように臨む時,敗北者となるのです。一方,わたしたちは常に油断なく霊的に目覚め,祈りのうちに神に近付き熱心に嘆願しなければなりません。わたしたちがどちらの側にいるか ― 王キリストの下なる神の王国の側にいることについて,自分の思いの中に疑問があってはなりません。―マタイ 6:31-34。
21 わたしたちは常に是認された立場を保つようどのように励まされていますか。
21 わたしたちがこの危機の時代に,一貫して人の子イエス・キリストのみ前における是認された立場を保とうとするのは絶対に必要なことです。そうするのは試練となるかもしれませんが,もしいつも目覚めていて従順であれば耐え難いものとはならないでしょう。使徒パウロはこのように保証しています。「神は忠実であられ,あなたがたが耐えられる以上に誘惑されるままにはせず,むしろ,あなたがたがそれに耐えられるよう,誘惑に伴ってのがれ道[必ずしもその状況から逃れることではない]を設けてくださるのです」。ですから忍耐を培うことが必要です。それはわたしたちがこの『事物の体制の終わり』に忠実に「立ち」続けるべく,誘惑や試練を乗り越えるためです。―コリント第一 10:11-13。マタイ 24:3。
22 わたしたちは逃れるためにどこに導きを仰ぐべきですか。そしてなぜですか。
22 しかし,わたしたちはどのようにしてどこへ逃れるか,という質問の答えとしてさらに付け加えることがありますか。確かにあります。そしてこの点に関して,わたしたちの必要をご存じであり,謙そんにその導きを求める時にわたしたちを顧みてくださる神,エホバのみ言葉をさらに調べましょう。―ペテロ第一 5:6,7。
-
-
神の王国へ逃れなさいものみの塔 1981 | 3月1日
-
-
神の王国へ逃れなさい
1 ヘブライ人にあてたパウロの手紙の中で,逃れることに関連したどんな点に注目できますか。
使徒パウロはヘブライ人への手紙の中で,逃れることに関連してある重要な事柄を述べています。パウロは二つの面,つまり守るべき事柄と避けるべき事柄を取り上げています。自分の論議を裏付ける際に,パウロはしばしばヘブライ語聖書から引用しています。当時その手紙を読んだ人たち ― クリスチャンになっていたユダヤ人たち ― はそのヘブライ語聖書によく通じていました。
2 パウロは神のみ子をみ使いたちとどのように比較し,その結果どんな結論に達しましたか。
2 ヘブライ 1章の中で,パウロは神のみ子がみ使いたちよりも優れた立場にあることを強調しています。それから同使徒は次のように述べています。「それゆえわたしたち[クリスチャン]は,自分が聞いたことに普通以上の注意を払い,決して流されないようにすることが必要です。み使いたちを通して語られたことばがゆるがぬもの……であれば,わたしたちの主[イエス・キリスト]を通して語りはじめられ……たという点で,これほど偉大な救いをおろそかにした場合,わたしたちはどうして逃れられるでしょうか」― ヘブライ 2:1-4。
3 (イ)キリスト・イエスを通して得られる救いの希望は,他のどんな希望より勝っていますか。そしてどんな面で勝っていますか。(ロ)この「勝った希望」には何が伴いますか。(ハ)わたしたちの希望が天的なものであっても地的なものであっても,何をすることが必要ですか。
3 イエス・キリストを通して与えられた救いの希望は,シナイ山で「み使いたちを通し……伝えられ(た)」律法によって捧げられた物よりはるかに勝っており,偉大です。(ガラテア 3:19)それが勝っているのは,それが『勝った約束に基づいて法的に確立された勝った契約』,(「一度かぎり」捧げられ,「勝った希望を与える」)はるかに勝った犠牲,およびメルキゼデクの祭司職に似た,より優れた祭司職に基盤を置いているからです。(ヘブライ 7:15-25; 8:6; 9:23-28)しかしながら,この「勝った希望」にはより大きな責任が伴います。それで,『わたしたちが決して流されないようにする』ため,またどんな怠惰をも避けるため細心の注意を払い,注意深くあらねばなりません。そして,ここでは天的な救いのことが述べられていますが,神の王国の下での地的な救いの希望を持つ人々にも同様な責任がゆだねられます。
4 流されるということにはどういう意味がありますか。そしてこのことはクリスチャンにどのように当てはまりますか。
4 流され始めるにはどれ程の努力が求められますか。少しも必要ではありません。わたしたちが川でボートに乗っているか水中にいるとしましょう。そうすると川の流れで自然に川下に押し流されて行きます。実生活の面でも同じことが言えます。もしクリスチャンとして流され始めるならば,外部から,あるいは受け継いだ内面的な傾向から生じ得るどんな影響力にも同調するようになります。わたしたちは霊的な価値に対する認識を失うようになります。これは徐々に生じるものですから用心しなければなりません。さもないと,わたしたちはもはや「真の命をしっかりとらえ」続けていることにはなりませんし,命を全く失う危険にさらされます。(テモテ第一 6:19)パウロが指摘しているように,もしこの怠惰な態度や歩みをそのままにしておくなら,どうして最後の悲惨な結果を逃れることができるでしょうか。
5 パウロがヘブライ人のクリスチャンたちにさらに語った言葉により,わたしたちは心のどんな危険な状態に注意するよう促されていますか。
5 使徒パウロがヘブライ人のクリスチャンたちにさらに語った言葉によると,わたしたちは一層危険な歩みに注意するよう促されています。パウロは次のように書いています。「兄弟たち,あなたがたのうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないよう気をつけなさい。むしろ,『きょう』ととなえられるかぎり日ごとに勧め合い,あなたがたのだれも,人を欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい」― ヘブライ 3:12,13。
6 (イ)だれかから「離れる」とはどういう意味ですか。(ロ)何が原因で「生ける神から離れ」ますか。(ハ)どのようにしてそれは避けられますか。
6 流され始めるには何の努力もいりませんが,だれかから「離れ」始めるにははっきりした行動をとることが関係しています。わたしたちはある人の好意を得ようとしてその人の方を向いているかもしれませんが,それでも後ずさりすることによってその人から退く,つまり後退し始めるかもしれません。人が「生ける神から離れ」始めるのはなぜでしょうか。信仰の欠如がその答えです。文脈が示すように,パウロは知識が不十分なために,あるいは誤った理解のために生じる弱い信仰について語っているのではありません。むしろパウロは,「心をかたくなにしてはならない」という警告を引用しています。肉のイスラエル人は,エホバの「業を40年の間」見,神の奇跡的な備えと保護を絶えず受けていたにもかかわらず,荒野においてそうしたのです。(ヘブライ 3:7-11)それゆえに,今日真のクリスチャンすべては,「人を欺く罪の力のためにかたくなに」なって後ずさりしないようにするため,引き続き互いに助け,励まし合うことが必要です。わたしたちの信仰を生きたものとするために互いに勧め合うべきです。どのようにですか。信仰の業によってです。アブラハムが厳しい試練の下でも信仰のうちに従順に行動し,そうすることによって「『エホバの友』と呼ばれるようにな(っ)た」ことを思い起こしてください。今日,エホバの証人としてわたしたちは「初めにいだいた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて」勝利を収めるのです。―ヘブライ 3:13,14。ヤコブ 2:21-26。
7 パウロはヘブライ人への手紙の終わりの方でクリスチャンに課せられている責任が,肉のイスラエル人に課せられている責任よりも大きいことをどのように示していますか。
7 パウロはヘブライ人への手紙の終わりの方で,ヘブライ 2章1節から4節で行なったのと同じような論議を進めています。パウロは古代の肉のイスラエル人と比べて,クリスチャンにはより大きな責任が課せられていることを示しています。しかしパウロは,一層力強い表現を用い,こう述べています。「地上で神の警告を伝えていた者を言いわけをして拒んだ人たちが逃れられなかったのであれば,天から語るかたに背を向ける場合,わたしたちはなおのこと逃れられないからです」― ヘブライ 12:25。
8,9 (イ)だれかに背を向けることには何が関係していますか。そして,霊的な事柄において,それはどんな結果を招きかねませんか。(ロ)わたしたちはどのように,またなぜこれらの警告をしっかり心に留めるべきですか。(ハ)わたしたちが神の懲らしめを受け入れるならどんな結果になりますか。
8 だれかに背を向けるということは故意に相手を避けることであり,しばしば拒絶することを意味します。これは肉のイスラエル人が一国民としてマラキの時代に至るまで取っていた態度であり,歩んで来た道でした。そのマラキの時代にエホバは「父祖たちの日以来,あなた方はわたしの規定から離れ,これを守って来なかった」と彼らに言われました。(マラキ 3:7,新)それで,もし霊的イスラエル人である油そそがれたクリスチャンがこうした悪い道を徐々に進んで行くなら,どんな結果になるでしょうか。パウロが記した次のような人々の範ちゅうに入る重大な危険があります。「一度かぎりの啓発を受け……ながら,なお離れ落ちた者たちについては,そうした者たちを再び悔い改めに戻すことは不可能なのです」。(ヘブライ 6:4-6)もとより,再び悔い改めに戻ることが不可能な点に達したかどうかを見極めることができるのはエホバ神とキリスト・イエスだけです。
9 わたしたちはこれらの警告をしっかり心に留めるべきです。信仰の欠如は,わたしたちが物事をあたりまえと考え,無関心の霊を示し,ほとんど気付かないうちに流されて行くことから始まるかもしれません。誤った一つの歩みや態度は,容易に次のものへと発展し,ついには遠くへ行き過ぎ,回復できない所にまで離れ落ちてしまっている自分に気付くのです。そのようなことが起こらないうちに,エホバはきっと何らかの懲らしめを与えてくださるでしょう。パウロはこの同じ手紙の中でそのことについて語っており,わたしたちは思慮深くその助言を受け入れるべきです。パウロはそれらヘブライ人のクリスチャンたちに次のように書きました。「あなたがたを子と呼びかけているこの勧めをすっかり忘れてしまっています。『わたしの子よ,エホバからの懲らしめを軽く見てはならず,また彼に正されるとき,弱り果ててもならない。エホバは自分の愛する者を懲らしめるからである。事実,自分が子として迎える者をすべてむち打たれるのである』。……たしかに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに見えず,むしろつらいことに思えます。しかしのちには,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」― ヘブライ 12:5-11。
10 霊的な兄弟たち,あるいは自分についてさえ消極的で悲観的な見方をすべきでないのはなぜですか。
10 前述のことから,パウロは自分の霊的兄弟に関して消極的で悲観的な見方をしていたと結論すべきではありません。今日わたしたちは,自分自身や会衆内の他の人たちをそのように見るべきでもありません。使徒パウロは,ヘブライ人のクリスチャンたちに,彼らは『聞く力が鈍くなっており』,『固い食物ではなく,乳を必要としている』と告げた後でさえ ― そして悔い改めが不可能なほどに離れ落ちて行く人々について警告を発した後でさえ ― こう語っています。「しかし,愛される者たちよ,わたしたちはこのように語りながらも,あなたがたに関して,より良い事がら,また救いを伴う事がらを確信しています」。それからパウロは「信仰としんぼうとによって約束を受け継ぐ人びとに見倣う者となる」よう優れた励ましを与えています。―ヘブライ 5:11,12; 6:4-6,9-12。
バビロンから逃れる
11 霊感を受けたダニエルはどの預言の中で神の民が逃れることを予告しましたか。
11 どんな場合でも逃れる際の重要な要素は,危険をはらんだ場所または状況から逃れることであり,しかも緊迫感をもってそうすることです。今日そのような行動を取る必要がありますか。確かにあります。現在クリスチャンが置かれている危機的な状況と直接関係があるのは,預言者ダニエルが霊感を受けて書いた次の言葉です。「その時,あなたの民の子らのために立っている大いなる君,ミカエルが立ち上がる。そして,国民が生じてからその時までに臨んだことのないような苦難の時が必ず臨む。そして,その時,あなたの民,書に記されている者はみな逃れる」。(ダニエル 12:1,新)そうです,ダニエルの民 ― 実際には神の民 ― は逃れるのです。何とすばらしい保証なのでしょう。
12 (イ)イエスはダニエルのその預言にいつ言及されましたか。(ロ)ミカエルはいつ,そしてだれのために立ち上がってその力を示されましたか。
12 イエスはマタイ 24章に記録されているご自分の偉大な預言を語られた際,「終わりの時」であるわたしたちの時代の大規模で主要な成就に注意を促しながら,ダニエルの言葉に言及されました。イエスは次のように語っておられます。「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難がある(の)です」。(ダニエル 12:4,新。マタイ 24:21)西暦1914年以来,イエス・キリストは,今日の神の民のために立ち上がってその力を示された天的な君ミカエルとなっておられます。では神の民とはだれですか。肉的イスラエル人ではなく,霊的イスラエル人の残りの者たちであり,彼らの「割礼は霊による心の割礼で,書かれた法典によるものではありません」― ローマ 2:29。
13 いつから霊的イスラエル人の残りの者は,大いなるバビロンから逃れるよう求められましたか。またその時以前の彼らの状態はどんなものでしたか。
13 しかし,特に西暦1919年以来,この忠実で清められた残りの者は次の呼び掛けに注意を払って来ました。「あなた方は北の地から逃げ来たれ……さあ,シオンよ,バビロンの娘と共に住む者よ,逃れよ」。(ゼカリヤ 2:6,7,新。エレミヤ 51:45)この時より前の第一次世界大戦中には,この残りの者は偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンに捕らわれとなっていました。
14 (イ)「書に記されている」のはだれですか。(ロ)滅びを逃れる人がほかにいますか。もしいるなら,それはだれですか。
14 ダニエルが告げられたように,この残りの者の一人一人は,「書に記されている」のです。彼らは「天に登録されている初子たちの会衆」の一部です。(ヘブライ 12:23。またマラキ 3:16もご覧ください。)邪悪な者たちの滅びを逃れるこれらの人々に加えられるのは,霊的イスラエル人でなく,比較すれば「外国人」である「大群衆」です。しかもこれらの人々も,「エホバのみ名を愛し」,神の忠節な僕たちになりました。彼らにはどんな見込みがありますか。エホバは次のように述べて答えておられます。「わたしはまた,それらの者たちをわたしの聖なる山に連れて来て,わたしの祈りの家の中で彼らを歓ばせる」。これら「大群衆」の者たちは,その神殿で神に神聖な奉仕を捧げます。彼らは「大患難」を生き残り,「命の水の泉」に導かれるのです。―イザヤ 56:6,7,新。啓示 7:9-17。
15 大いなるバビロンから逃れることについてどんな最終的警告が与えられていますか。
15 前述の預言を確認するために,今日の神の民にあてられた,聖書の最後の預言的な書物をもう少し読んでみることにします。そこには次のような言葉で,あの偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンに関して最終的な警告が与えられています。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい。彼女の罪は重なり加わって天に達し,神は彼女の数々の不正な行為を思い出されたのである。……彼女の災厄は一日のうちに来る。……彼女は火で焼きつくされるであろう。エホバ神,彼女を裁いたかたは強いからである」― 啓示 18:4-8。
16 (イ)大いなるバビロンの滅びを逃れる時間がまだ残されていると言えるのはなぜですか。(ロ)どのようにしたら,神が「わたしの民」とお呼びになる人々のうちに数えられますか。
16 逃れるための時間はまだあります。逃れよとの警告は力強さと明確さをもって発せられています。それはエホバの証人によって宣明されている緊急な音信です。今度燃えるのはただの家ではありません。むしろ,「都市」全体が燃え上がるのです。いったんその火が燃え上がるなら,逃れるのには遅過ぎるでしょう。根がバビロニア人的である人は,今もまたこれからもその警告にこたえ応じないでしょう。しかし,キリスト・イエスの治める神の王国に対する忠節心をもってエホバ神に仕えることを心から望んでいることを示す機会はまだ他の人々に開かれています。ですからそれらの人たちには,神が「わたしの民」とお呼びになる人々の中に数えられるにふさわしいことを示す時間がまだ残されています。それらの人たちは,「ひとりの羊飼い」の下での「一つの群れ」の一部を成す「ほかの羊」になるよう招かれています。(ヨハネ 10:16)幸いなことに,エホバに対する心からの奉仕と神の王国への忠節によって,あなたも神の民と共に数えられるのです。
神の都市 ― シオンに逃れなさい
17 エホバは逃れる人たちのためにどんな備えをされましたか。
17 前にも述べたように,問題は単に大きな危険のある場所や状況から逃れるだけのことではありません。安全な場所を見いだし,そこに導かれるという問題もあります。「逃れさせてくださる[大いなる]方」はこの点を顧みておられるでしょうか。その方は,火で滅ぼされようとしていた「都市」から逃れるようご自分の民に警告を与えた後,荒野で彼らがさまようままにしておかれましたか。み言葉の中で与えられている答えに注目してください。「エホバの名を呼ぶ者は皆安全に逃れることになる。エホバが言われた通り,シオンの山とエルサレムに,また生き残った者たちの中に,エホバのお呼びになる逃れた者たちがいるからである」― ヨエル 2:32,新。
18 現代において,イスラエルの古代の首都に相当するものは何ですか。
18 ですから,聖書は二つの都市,つまり逃れて立ち去る都市と他の多くの人々と避難所を見いだすことのできる都市について述べています。シオンまたはエルサレムとしてしばしば語られているイスラエルの古代の首都は,「天のエルサレム」,神の天の王国を予表しています。それを地上で代表しているのは,イエスがマタイ 24章45節から47節で語っておられる「忠実で思慮深い奴隷」級の残りの者です。(ヘブライ 12:22)エホバは,ご自分の王国に逃れるすべての人々に励ましの言葉と導きを得させるため,昔の忠実な僕たちの多くに霊感を与えました。
19,20 イザヤによるどんな導きと励ましが,(イ)イザヤ書 2章2-4節で,また(ロ)イザヤ書 26章1-4節で与えられていますか。
19 イザヤはそれら忠実な僕たちの一人であり,次のような言葉で最高の喜びに満たされる時を予告しました。「多くの民は必ず来て,言う,『さあ,エホバの山に……上ろう。彼はわたしたちにその道を教え諭してくださるであろう。そしてわたしたちはその道筋を歩もう』。律法はシオンより,エホバの言葉はエルサレムより出るからである」。その律法と言葉の下で彼らは平和に暮らす方法を学び,「もはや戦いのことを学ぶこと」はなくなるのです。―イザヤ 2:2-4,新。ゼパニヤ 2:3もご覧ください。
20 イザヤは霊感を受け,このことがどのように達成されるかをさらに詳しく次のように述べました。「その日には,ユダの地でこの歌がうたわれる。『わたしたちには強固な都市がある。彼は城壁と塁壁のために救いを置かれる。門を開けて,忠実な行ないを保ち続ける義なる国民を入れさせよ。しっかりした支えのある志向は絶えざる平安のうちに安全に守られる。人はあなたにより頼むようにさせられているからである。いつまでもエホバに信頼せよ。ヤハ,エホバに,定めのない時までの岩があるからだ」― イザヤ 26:1-4,新。
21 霊的パラダイスは,イザヤ書 61章4-11節でどのように魅力的に描写されていますか。
21 イザヤはその預言の終わりの方で,そして幻をシオンに属する土地全体を含んだものへと広げながら,回復した霊的パラダイスを,熱のこもった言葉で描写しています。その霊的パラダイスで逃れた者たちすべては,『久しく荒れ廃れた場所を立て直す』という喜ばしい活動を見いだすのです。霊的イスラエル人はこの点で率先しますが,それだけではなく次のようにも述べられています。「よそ人がまさしく立って,あなた方民の羊の群れを飼い,異邦人があなた方の農夫や園丁となるであろう」。これらの預言が声を大にして語っているのは,『かろうじて救われること』ではなく,完全な救出と解放です。それゆえ,わたしたちすべてはこのような賛美の言葉に,エホバの忠実な油そそがれた「奴隷」の残りの者と共に喜んで加わることができます。「わたしは必ずエホバにあって歓喜するであろう。わたしの魂はわたしの神にあって喜びに満たされる」― イザヤ 61:4-11,新。
22 (イ)個人的レベルで,逃れるためのどんな備えが設けられて来ましたか。(ロ)この益を得るために,わたしたちはどんな分を果たすべきですか。
22 あなたは,今まで考慮して来た事柄が神の民全体にあてはまることには同意するとしても,自分個人にはどんな影響があるだろうかと考えておられるかもしれません。あなたは一つかそれ以上の個人的な問題から逃れる必要がありますか。その必要のない人がいるでしょうか。人間的に言えば,人生は揺りかごから墓場までの短い旅であるという昔からのことわざは真実です。罪と死への束縛から逃れる道はないのでしょうか。興味深いことに罪と死の両方は王として語られており,その両方とも消え去ってしまいます。(ローマ 5:14; 6:12)使徒パウロは仲間のクリスチャンに手紙を書き,逃れ道がどのように開かれたか,つまり「キリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し(て)」それが行なわれたことを説明しました。「神は彼を,その血に対する信仰によるなだめのためのささげ物として立てられた」からです。(ローマ 3:24,25)そうです,贖いをするその犠牲に信仰を働かせることによってわたしたちは神の恵みに入ることができます。もとより,わたしたちは依然不完全であり,日ごとに自分の罪の許しを願い求めることが必要です。しかし,生活の中で自分の罪深い傾向に身を任せる必要はありませんし,またそうさせるべきでもありません。パウロはこのように書いています。「罪があなたがたの死ぬべき体の中で引き続き王として支配し……てはなりません。……罪があなたがたの主となってはならないからです」。この点でわたしたちを助けるため,神はみ言葉やご自分の忠実な僕たち,それにご自分の聖霊による助けを備えてくださいました。―ローマ 6:12-14; 8:11。ヤコブ 5:14,15。
23 わたしたちの前にはどんなすばらしい前途がありますか。そしてだれの王権の下における前途ですか。
23 また,現在の「対処しにくい危機の時代」のかなたに,そしてサタンの「事物の体制」が全き終わりをみる時に,何と輝かしい前途がわたしたちの前に開けるのでしょう!(テモテ第二 3:1。コリント第二 4:4)死と罪はもはや王として支配しません。かえって,完全で永続的な自由へ逃れることが完了するのです。キリストの共同相続者たちが天の報いに入ると,「創造物みずから[人類]も腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つようになる(の)です」。「神がすべての敵を彼の足の下に置くまで,[キリスト・イエス]は王として支配しなければならないのです。最後の敵として,死が無に帰せしめられます」。すべての忠節な逃れる者たち ― 神の王国に逃れる者たちにとって,何と喜ばしい前途なのでしょう! すべての賛美と感謝が,「逃れさせる[偉大な]方」であるエホバに帰せられますように!―ローマ 8:19-21。コリント第一 15:25,26。
-