-
世界を一周 ―「永遠の福音」大会とともにものみの塔 1964 | 1月1日
-
-
― 生きた自由を目撃していることを忘れないでいただきたい」。
ミルウォーキーの多くの市民は,「神が全地の王となるとき」という講演のビラによる招待に応じました。公開講演を聞きに集まった群衆はたいへんな数にのぼり,1963年7月8日付のミルウォーキー・ジャーナルが次のように報道したほどです。「日曜日の午後,スタジアムの記録は再び破られ,5万7055人がエホバの証者の大会最後のプログラムに出席した。そしてハルマゲドンの戦争の生存者を待ち受ける地上の楽園についての講演を聞いた」。
エホバの証者の世界一周大会は,ミルウォーキーからニューヨークに移動したのち,英国のロンドンにやってきました。大会と共に世界を一周していた代表者たちはジェット機でヨーロッパに来ましたが,その途上,時間を賢明に用いて「バビロン」の本を読む彼らの姿がよく見かけられました。バビロンの崩壊は大会出席者たちの話題になりました。早くひとりだけになってこのすばらしい本を精読したい,という人がたくさんいました。
ロンドン,ストックホルム,ミュンヘン,ミラノ
ツイッケナムの大会場であるラグビー・ユニオン・グランドに到着した時,大会出席者たちは,見なれぬもの,つまりスタジアムの近くの駐車場が小さな町に変っているのを見ました。そこには244のテントが張られ,大会中8日間各テントに24人が宿泊しました。これらのテントは,町名もつけられた区画に秩序正しく張られ,まるで小さな町のようでした。
公開講演の行なわれた7月21日の日曜日には,空はあおく晴れ渡り,スタジアムには5万111人の群衆があふれていました。
出席者たちはまたこの機会を利用して大英博物館を訪れ,聖書を研究する者にとって興味ぶかい多くの物を見学しました。会期中毎朝この博物館の見学が行なわれましたが,ここを見学した大会出席者の数は7000名近くにのぼります。彼らは有名なシナイ聖書写本,アレクサンドリン聖書写本,またバビロンの崩壊が西暦前539年であることを示すナボニダス年代記を見ました。
ロンドンの大会と日を同じくして,スウェーデンのストックホルムでも大会が開かれていました。ここでは,ほとんどの講演が,デンマーク語,ノルウェー語,フィンランド語,スウェーデン語の4ヵ国語に翻訳されました。他の言葉に妨げられないよう,各セクションの拡声器は,方向をよく考慮して設置されていました。芝生のまん中には,四つ葉のクローバーの形をした演壇が設けられ,その四つの「葉」から行なわれる講演を,北欧の四つの国から出席した人々は,それぞれ自国語で同時に聞くことができました。協会の副会長F・W・フランズの励ましを与える公開講演を聞いた2万5160名のうちには,ストックホルム地区から集まった推定3000名の善意者も含まれていました。
世界一周大会は次にミュンヘンとミラノに移り,両市で同時に開催されました。ミュンヘンの公開講演では,聴衆が10万人に達するものと予想されていました。ところがその予想を上回って,出席者は10万7164名になりました。ニューヨークの時よりも319名少ないだけです。ミュンヘンには,10万人を収容するだけのホールはないので,証者たちは広大なテレジーン牧場を,露天御国会館に仕立てなければなりませんでした。
イタリアのミラノで開かれた大会にとって,7月24日の水曜日は喜ばしい日でした。この日に会長は6ヵ国語の「新世訳」を発表したのです。そのうちの四つは,大会で使われた言葉だったので,出席したほとんど全部の人が新世訳を手に入れることができ,喜びと満足を味いました。この希望を与える講演は,それぞれ自国語で話を聞いた9864人のイタリア人,8454人のフランス人,1444人のスペイン人,754人のポルトガル人,合計2万5016人の聴衆に喜びをもたらしました。そのうちの約4000人は,招待に応じて講演を聞きにきたミラノの人々だったようです。
ミラノにいる間,世最一周大会参加者たちは,他の都市でしたと同じように,同市の人々に「永遠の福音」を伝道しました。彼らはかつて一度も証者の訪問を受けたことのない人々と話す機会がありました。日本人のある姉妹の証者の話によると,ひとりのイタリア人の主婦は,この証者が彼女に神の御国の福音を伝えるため,はるばる東洋からやってきたと聞いたとき,彼女を抱きかかえてキスしました。これは,日本人の証者と一緒にいたイタリア人の奉仕者が,神の真理を説明するよい機会となりました。
予定によると大会は,ミラノとミュンヘンからギリシャのアテネに移動し,7月30日に1日の大会を開くことになっていました アテネの警察署は,証者に大会開催の許可を与えていたのですが,1400人ばかりの大会出席者たちがアテネに集まる二,三日まえ,政府は許可を取り下げて大会を禁止しました。ギリシャ政府は,ギリシャ正教会の牧師の要求 ― 彼らは大会を禁止するようくりかえし要求していた ― に屈服して,自らの体面を傷つけたのです。けれどもその禁止もギリシャの証者たちの熱意をそいだ様子はなく,大会と共に旅行中の多くの証者がアテネに来て,二,三日彼らと共に過ごしたことを感謝していました。
証者たちは時間を賢明に用いて,古代のコリントや,アクロポリス,マルスの丘など,聖書にゆかりのふかい場所を訪ねました。マルスの丘に立った時,彼らは感激しました。使徒パウロはここに立って,真の神を知らなかったアテネの権力者たちに向い,使徒行伝 17章22節から31節までの言葉を語ったのです。丘の一方の斜面には以前,段々の坂道があって,自然の階段式さじきになっていました。そして人々はそこに集まって景色をながめたり,演説を聞いたのです。
さて大会参加者たちは,ギリシャを去って空路レバンノンのベイルートに向かいました。ここでは証者の大会は許可されていませんでしたが,御国会館で集まることは許されていました。それで世界一周大会と共に旅行していた証者のいく人かは,ことに協会本部から来ていた講演者たちは,予定に従って多くの御国会館で講演をしました。ですからレバノンの証者たちは,大会の主要な講演を聞いたわけです。「神が全地の王となるとき」という公開講演はあちこちの御国会館で行なわれ,合計914名がそれを聞きました。
レバノンにいるあいだ,大会参加者たちは,あの名高いレバノンの香柏を見にいく機会がありました。香柏の小さな森に着くまでは曲がりくねった山道で,そこを行くのはかなりの冒険でした。香柏はずんぐりと太く,高さは15メートルから24メートルくらいです。いまの香柏は,何世紀も前の香柏ほど大きくはないようです。しかし,レバノンの香柏の木陰に座して,おべんとうを食べながら,雪をいただいたヘルモン山をながめるなど,大会代表者たちにとってはほんとうにうれしいことでした。これらのものを実際に目で見たのですから,これからは,聖書に出てくる場所の様子がいっそうよく理解できるというものです。
聖地を訪ねて
世界一周大会参加者たちが次に訪問するところはヨルダンのエルサレムです。ヨルダンでは大会は予定されていませんでしたが,大会参加者たちはエルサレムを見ることを心から望み,神の御子が歩まれた地,そして使徒たちが御国の伝道を行なった地の土を踏むことを願っていたので,そこの訪問は有益でした。多くの証者にとってそれは,世界一周旅行の最も興味ある部分でした。彼らを驚かせたのは,聖地の地形の変化が激しいことでした。ある人は,小高い丘の起伏する土地を予想していたのですがそうではなく,実に山の多い所です。エルサレムからベッヘレムまたはベタニヤまで行くには,曲りくねった山道を下り,また同じような道を登らねばなりません。
大会参加者たちは,エルサレムの写真をたくさんとりました。キデロンの谷の向うにはゲッセマネの園が見えました。いまはそのほんの一部が残っているだけで,他の部分には二つの大きな教会が建っています。大会参加者たちは,初期クリスチャンたちの活動を心に描きながら,ふかい興味をもって地形を勉強しました。彼らはヨルダン川と死海にも行きました。死海は海面下396メートルのところにあります。少し元気をつけようと,旅行中の大会参加者のいく人かが死海の海辺まで行って水の中を歩いてみましたが,水は生ぬるいというよりも熱いくらいで,とても気分をせいせいさせるようなものではありませんでした。
インド,ビルマそしてタイ国
ヨルダンからレバノンに戻った世界一周大会の旅行者たちは,次にインドのデリーにやってきました。583名の旅行者は全員,政府直営のアショカ・ホテルに泊まりました。これはインドご自慢のホテルです。大会の開かれた場所も立派な所で,これまたインドご自慢の印象的なホール・ビグヤン・バーバン(知識の家)でした。各いすには物を書くための机とイヤホーンが設けてあります。イヤホーンにはセレクター・スイッチがついているので,演壇からの話に加えて,四つの言葉のうちのどれにでもスイッチを合わせることができます。会場の半分は,カナラ語,マラヤラム語,タミル語,ウルドゥーヒンディー語で話を聞くインド代表で占められました。公開講演の出席者数は,インドの証者がいままでに経験したことのない最高数に達し,1296名が,「神が全地の王となるとき」を聞いて心から喜びました。
次に「永遠の福音」大会は,ビルマのラングーン,タイ国のバンコクに移動し,8月8日から11日まで,両国で同時に開かれました。ラングーンでの公開講演は,土曜日の午後6時から行なわれました。講演の始まる1時間前に,大雨が町を襲ったので,記録的数の聴衆は見込み薄のように思われました。にもかかわらず,出席者は徐々にふえ,ついに603名に達しました。バンコクでは,公開講演出席者は961名にのぼり,うち200名は新しく興味をもった人々でした。
北のルート
タイ国から世界一周大会は北と南の二つのルートに分かれました。北回りの大会参加者たちは次に香港に行きました。ここでは8月13日に大会が開かれました。公開講演には土地の中国人の兄弟と善意者が多数 ― 合計1180名 ― 出席し,中国人の通訳を通して行なわれた協会会長の胸おどらす講演を熱心に聞きました。
香港から大会はフィリピンのマニラに移りました。ここの証者たちは,公開講演の宣伝に5000枚のプラカード,50万枚の招待ビラ,5万枚のポスター,2000枚のバスにはるポスター,46枚のジープにはるポスター,32の掲示板を使いました。この大会では聴衆が,タガログ語,セブービサヤン語,イロカノ語で話を聞けるよう準備がされていました。日曜日午後の公開講演には,スタジアムを埋めた3万7806人の大群衆の上に太陽が明るく輝いていました。スタジアムのある職員は,「何年もここで働いていますが,スタジアムが満員になったのを見るのはこれが始めてです」と言いました。
次は台湾の寿豊です。ここでの世界一周大会は一風変った場所で行なわれました。それは,台湾特有の水々しい青葉におおわれた山のふもとにある公立学校の運動場で,神の御国が全地を楽園にする時のことについて学ぶには理想的な場所でした。公開講演は中国語で行なわれ,土地のアミ語に訳されました。そして1566名の聴衆がその講演を聞きました。
次の「永遠の福音」大会は,3500のお寺のある仏教的伝統のゆたかな京都市で開かれました。ここでも旅行中の証者たちは,他の大会開催都市でしたと同じく,戸別伝道に参加し,市内を見学しました。そして神社や仏閣で,キリスト教国でも使われている,バビロンに起源をもつ崇拝の付属物 ― 聖水,香,ろうそく,じゆず,像,後光のさした「聖人」,「地獄」の絵 ― が仏教の中にもはいっているのを見ました。
大会は日本から韓国の京城に移りました。世界一周大会参加者たちは韓国に到着したとき,自分の氏名と国名が韓国語で書かれている大会バッジを渡されました。ですから韓国人ならだれでもすぐに読め,その代表がどの国からきたか,何を代表しているか直ぐにわかりました。この大会は,韓国における新世社会の歴史上最大の出来事となりました。大会は美しい市の公会堂で開かれ,ノア兄弟の講演には,場外にあふれ出た1042名を含めて8975名という記録的な群衆が集まりました。
南回り
世界一周大会参加者のうち,463人は北に回りましたが,120人は大会と共に南回りを選びました。タイ国の次はシンガポールです。彼らはここで中国人街を見学し,「地獄の金」など宗教に関係のある興味ぶかい物をたくさん見ました。地獄の金とは,信者が燃やすもので,それによって火の燃える地獄にいる親族や友人が助かると考えられているものです。シンガポールでの公開講演には560名が出席し,この地で行なわれた最大の神権的な大会となりました。次の大会開催都市であるインドネシアのバンドンでもやはり出席者は記録的な数にのぼり,公開講演には752名が集まりました。そのまえの公開講演出席者の最高数は451人でした。
インドネシアから「永遠の福音」大会はオーストラリアのメルボルンに移りました。この大会の最高潮の日について,1963年8月31日号のオーストラリアの雑誌「ザ・ブルテン」は次のように描写しました。「メルボルンですばらしい大会がいくつか開かれたことがある。……しかしエホバの証者の『永遠の福音』大会のような大会はなかったように思う。……時間は午後7時45分になろうとしていた。重要な時,すなわち大会の最高潮が訪れた。ニューヨークのブルックリンから来た,ものみの塔協会の副会長F・W・フランズ兄弟は,『神が全地の王になるとき』という講演を行なうことになっていた。1万2000以上の群衆が巨大な観覧席にあふれ,その光景はちょっと信じられないほどであった。……羊のおりのなかの1万2000人は,永遠の福音に万雷の拍手を送った」。実際の出席者数は,ドイツ語,ギリシャ語,イタリア語で聞いた人々をも含めて1万3142名でした。
世界一周大会は次にニュージーランドのオークランドに行きました。エホバの証者が「永遠の福音」大会のためにニュージーランド最大の劇場を借りた,ということを耳にした多くの人は,「そんなことは聞いたこともない」とか「どうやって借りたのですか」と言いました。5日間の宗教的大会のために映画を休むなど,前例のないことだったのです。ところがその劇場もこの大会には小さすぎました。それで群衆を収容するために,2000人分の席のあるオークランド公会堂がシビック劇場と共に用いられました。この二つの建物は目抜通りにあるため,ニユージーランド史上最大の宗教的大会を開くには絶好の場所でした。公開講演の日に二つの会場は6005人の聴衆でぎっしり埋まりました。
オークランド大会中も,他の場合と同じく,世界一周大会参加者たちは時間をさいて野外に出,オークランドの人々に福音を伝道しました。家の人の多くは,世界一周旅行をしている人が,見物する時間をさいて神の国を述べ伝えているので驚きました。オークランドの人々は,エホバの証者の振舞からもよい印象を受けました。たとえばシビック劇場の支配人は,「あなたがたほどよく組織され,行儀のよい人々は見たことがありません」と言いました。
次の大会はフィジー諸島のスバです。ここでの「永遠の福音」大会のプログラムは,英語,フランス語,サモア語,フィジー語の四つの言葉で行なわれ,代表たちは西サモア,アメリカ・サモア,タヒチ,トンガ,ニウエ,ニューカレドニア,ニューヘブライズ等17の島からきていました。世界一周旅行者たちはここで,この島独特のおいしい土地料理をごちそうになり,また太平洋諸島の人々の商業化されていない純粋のもてなしを受けました。公開講演の始まる半時間前,聴衆は,土地の衣服を身につけたサモア人とフィジー人の合唱団による御国の歌を楽しみました。そして1080人という記録的群衆が,希望を与える公開講演を聞きました。
ハワイそしてパサデナ
次の大会開催地であるハワイのホノルルでは,北回りと南回りの大会参加者が再び一緒になり,それに加えてアメリカ,カナダ,アラスカから1200名の代表が,ワイキキ・シェルで行なわれる大会にきました。ワイキキ・シェルは,ダイアモンドヘッドのふもとにある野外競技場で,ワイキキの浜から2区画ほど離れたところにあります。シェルの背景は美しいココヤシの木です。この理想的な環境の中で会長は,6189名の聴衆に,「神が全地の王となるとき」という音信を伝えました。それはかってハワイ諸島で行なわれたどの団体の大会よりも大きいものでした。また,公開講演がテレビで放送されたのもこれが初めてでした。聴視者は推定6万人から10万人で,ハワイ諸島全域におよびました。
南部カリフォルニア州パサデナの有名なローズ・ボールで開かれた8日間の大会と共に,世界一周大会は最後に来ました。初日の午後までには,8万543名の大会参加者たちが,英語を話す代表はローズ・ボールに,スペイン語を話す代表たちは隣接した野球場に集まりました。アメリカ各地から,また他の国々から来た彼らは,まる8日間,全世界の兄弟たちがすでに楽しんだ同じ霊の食物にあずかりました。そして土曜日の朝2496名の新しい奉仕者たちがバプテスマを受けた時,彼らはたいへんよろこびました。しかしその翌日,公開講演にもっと多くの友だちが集まって,出席者が11万8447名に増加したとき,その喜びはいっそう大きくなりました。
もう一つ大会参加者たちを感激させたものは,非常な成功のうちに終わった各大会について行なわれた3時間半のノア兄弟の説明でした。会長は,エホバの祝福によって,あらゆる国の人々の大群衆がエホバの組織に集められていることを強調しました。71日間の世界一週大会に1万6267名の新しい奉仕者がバプテスマを受け,57万932名が集まって公開講演を聞いたのです!
ですからノア兄弟は,献身したクリスチャンの大聴衆に向かい,エホバ神がご自身の組織に集めておられる羊のような人々の世話をよくして,自分の責任を全うするように激励しました。またノア兄弟は,宣教者の精神にならうように彼らを励ましました。各大会をとおして805名の宣教者が出席していました。将来の大会の計画をあらまし述べたのち,ノア兄弟は,エホバの組織に固くつき従うようにとの心のこもったすすめをもって,世界一周大会の幕を閉じました。
世界一周旅行と直接関係のなかった都市でも大会の開かれたところがありました。115名が公開講演を聞いたイスラエルのハイフア,702名が「神が全地の王となるとき」を聞いて歓喜したキプロス島のニコシアでの大会などがそれです。すべての詳細な事柄については,間もなく出版される,写真のたくさんのった200ページの大会報告に説明されているでしょう。
たしかに全世界の多数の人はこの叙事詩的な「永遠の福音」大会の益を楽しみました。また世界を一周した大会参加者にとって,新世社会が全世界に拡大しているありさまを見るのはすばらしいことでした。多くの人が神の真理を知りました。彼らは大いなるバビロンの束縛から解放されたことを心から喜んでいます。そして「永遠の福音」にあずかってエホバに賛美をささげ,楽しい生活を送っています。
-
-
読者よりの質問ものみの塔 1964 | 1月1日
-
-
読者よりの質問
● マタイ伝 24章19節は,クリスチャン会衆内の人にあてはまるのですか,それとも会衆外の人にあてはまるのですか。―アメリカの一読者より
キリストの預言した患難の時が臨むゆえに,妊娠した婦人また乳のみ子を持つ婦人は大きな苦しみを味わいます。マタイ伝 24章19節においてキリストは言われました,「その日には妊りたる者と乳を哺する者とはわざはひなるかな」。西暦70年ローマの軍隊がエルサレムを襲い,ユダヤ人をほとんど壊滅させたとき,みごもった者と乳を飲ませる者はキリストの言葉にたがわず大きな苦しみをなめました。何千人の人が苦しんで死にました。食糧不足が甚しく,それだけでも悲さんな状態でした。暴徒と化したユダヤ人が同じユダヤ人に加えた仕うちについて,ヨセハスは次のように書いています。
「自分の食糧を確保した老人は打たれ,あるだけのものを隠した女は髪の毛をひき抜かれた。老人も子供も容赦されなかった。彼らは,わずかな食物にかじりついた子供のえり首をつかんで持ちあげ,手に
-