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  • 進化論には何が起きているか
    目ざめよ! 1974 | 4月22日
    • 進化論には何が起きているか

      進化論が再び世の注目を集めています。しかしそれは,多くの人の予期しなかったかたちで起きています。

      何が起きているのですか。次のことです。すなわち,進化論が,数年前にはとうてい考えられなかったような規模で挑戦を受けているのです。そして,科学界から加えられる攻撃の強さと質が,科学は人間の起源に関する問題にずっと以前に決着をつけたと考えてきた多くの人を驚かせています。

      しかし,人間がどのようにして今日ここにあるのかという問題が,わたしたちにどのような変化をきたすのでしょうか。では,あなたは学校に通うかたですか。そうであれば,あなたの学校でも,ほかのほとんどすべてのところと同じように,進化論が教えられていることでしょう。この進化の教えは,文学・医学・歴史学・哲学,そして宗教にさえ,そうです,ほとんどすべての分野に非常に大きな影響を与えています。進化論が誤りであるとすれば,あなたが教えられている事の多くは誤った前提に基づいていることになります。

      親の立場にいるかたでしたら,ご家族の将来が幸福なものであるようにと願っておられるでしょう。進化論はどのようなものを与えていますか。暴虐の世界での幾年かの命がすべてであるなら,うそをついたり,盗んだり,淫行をしたり,だましたりすることがどうしていけないのだろうか,とお子さんたちは考えることでしょう。“適者は生存し,弱者は淘汰される”というのはこうしたことではありませんか。あなたにとっても,進化の教えに関する事実を知ることは賢明です。

      あなたは神への信仰を持つかたですか。しかし,進化論と聖書の両方を信じることはできません。聖書は,神が人間を他の生物とは別に創造したと述べているのに対し,進化論はそれを否定しているからです。いずれか一方は誤りです。

      あなたが進化論に従いつづけるなら,それはあなた個人の将来に何を差し伸べますか。ただ,死にほかなりません。しかし聖書は,神がこの邪悪な事物の体制全体をこの時代のうちに終わらせ,平和な新秩序をもたらすことを約束しています。(詩 37:11,29)その新秩序においては,もはや悲しみも,病気も,苦痛も,死もない,と聖書は述べています。(啓示 21:4)十分に調べずに進化論に固執し,こうした見込みを全く退けてしまうのは分別のあることですか。

      ここに述べたとおり,進化論の前に提出されている挑戦は,科学と道徳の両面からのものです。そして,神が存在され,まもなくその行動を起こされるとすれば,進化論とそれを信じる人々とは,神とまともに衝突することになります。

  • しだいに強まる挑戦
    目ざめよ! 1974 | 4月22日
    • しだいに強まる挑戦

      進化論に関することが最近とくに取り上げられているのはなぜですか。一つには,それに対する科学面からの挑戦がしだいに大きくなっているからです。

      情報に通じていないほんの少数の“宗教的な熱狂者”がこの理念を退けているのではありません。進化論は今,情報に十分に通じた多くの知識人からの挑戦を受けているのです。科学者,教育者,また他の分野の有能な人々が,進化論に対して異論を唱えています。

      また,最近の科学関係の文書の中では,進化論者自身で今日の進化理論に対するまじめで真剣な批判をする人の多いことが注目されます。そうした人たちのことばは多くの点を明らかにしています。

      科学者たちの語ること

      「人間と時間と化石」という本の中で,進化論者R・ムーアはこう述べています。「1950年以来の科学上の証拠は,一つの必然的な結論を提示する。つまり,人間は,ダーウインや現代の進化論者たちが想定したような方法や時間的過程で進化してきたのではない,という点である」。

      他の進化論者たちもこれに同意しています。1971年,カリフォルニア大学の遺伝学の教授であり,進化論者のひとりであるG・L・ステビンズは,次のように述べて,それら進化論者たちの一般的な態度を反映しました。「人間の進化に関して1950年以前に書かれたものはみなすでに時代遅れとなっており,そうでないものもまもなくそうなるであろう」。

      こうして,1972年までに,進化論者たちの間では,人間の起源に関するさらに新しい説明がなされるようになりました。進化論者たちは以前の理念のうちその多くの部分を放棄し,こうして得た新しい説明こそ“事実”であると確信しました。ところが,そうした新しい理念がまだ十分に浸透しないうちに,その新しい理念に対しても疑問が投げかけられるようになりました。1972年の後半に明るみに出た証拠のために,その理論の一つの面が特に激しくゆさぶられるようになりました。

      同年11月に出た多くの新聞報道の数例に注目してください。「昨日の発表の結果として,人間進化に関する物語の大きな部分が書き改められねばならないことになろう」。(ロンドン・タイムズ)「人間の進化に関する現在の理論は混乱の中に投ぜられたことになる」。(英国のガーディアン紙)「わずか数個の古代の頭がいの上に立つ従来の人間進化の理論は容易に覆されるであろう」。(ニューヨーク・デーリー・ニューズ)そして,ロンドンのデーリー・メール紙は,最近の証拠によって「ダーウインが人間は類人猿の子孫であると言って以来最大の混乱が科学界に起きるかもしれない」と言明しました。

      「アメリカ人の生物教師」と題する雑誌は,次のように伝えました。「著名な科学者で,この理論に対して,知識に基づく警戒から,疑念,さらにはあからさまな反対に至るまでの見解を表明する人たちが多くいる」。英国の科学雑誌「ニュー・サイエンティスト」はこう述べています。「人間の進化を理解することは特に難しくなっている……われわれの理論構成を空想の領域から引き出すには,進化のしくみやその時間的過程に関するわれわれの知識があまりに乏しく,化石証拠も十分ではない」。

      また,英国の医学雑誌「オン・コール」は次のように報じました。「基礎生物学の学徒が持つ証拠は進化論を支持していない……そして,第一線の科学者たちはそれを退けていることが知られている以上,それを事実として提出する一般の風潮は弁護できない」。そして,米国ミシガン州立大学のジョン・ムーア教授は,「今日の知識から見る場合,従来の典型的な進化論的説明は意味をなさない」と語りました。

      他の研究者たちはなんと述べているか

      他の分野の人々も,現実の証拠を研究した結果として,同様の見解を言い表わしています。歴史家アーノルド・トインビーはこう語ります。「わたしは,ダーウイン流の進化説が,宇宙の生成に関する選択的な説明として明確なものを与えたとは考えない」。

      ハーバード大学で学んだ法律家ノーマン・マクベスは,多年にわたる慎重で公正な調査ののち,自分の見いだした事がらを,「ダーウイン再考」(1971年)と題する書物にまとめました。同書の出版者はその本について次のように注解しています。「この本は,全く新たな態度で考え直すべきであるが,現状では,現在の理論とそれほど変わらないものしか考え出せないことを示している」。

      マクベスは進化の証拠とされているものがきわめて薄弱なものであることを知り,指導的な進化論者の記した,進化論に関する代表的な本を読んだのちに,「仮にわたしがこの人と法廷で戦うとすれば,わたしは彼の訴えを打ち負かすことができよう」と語りました。他方,進化論に関する「目ざめよ!」誌の特集号を読んだ彼は,それが確かな根拠に基づいており,科学的に正確であることを知りました。そのため彼は,進化論を否定する者は「科学的な証拠に無知である」といった見方を押し通すことのないように,と進化論者たちに警告のことばを述べました。マクベスは創造論者ではありませんが,さらにこう述べています。

      「古典的なダーウイン説の個々の部分を調べた結果,わたしは,それらがすべて悲しくも腐朽していると判断した。……腐朽した各部分を集めても健全な総体は決してできないから,その理論全体もまた腐朽しているに違いない……

      「わたしとしても,しっかりした説明であるかぎり,それに異議を唱えるつもりはない。しかし,残念なことに,進化論の分野では,たいていの説明がそれほど確かなものではない。実際のところ,それらは説明としての資格をほとんど持たないものである。それらはむしろ,暗示,感,幻想的な夢などであり,学説と呼ばれる価値のほとんどないものである。……

      「これは決してこじつけではない。この分野の当事者たちは,自らを当惑的な事態に立たせている。ジュリアン・ハックスリ卿がテレビの聴視者に向かって,『ダーウインの説に関してまず第一に述べるべきことは,それはもはや仮説ではなく事実である,という点だ』と述べている一方で,それとほとんど時を同じくして,メイル教授が,真剣な学生たちを前にして,『基礎となるべきこの説は多くの点でいまだに仮定の域を出ない』と語っているからである。

      「ふたりの指導者の間のこうした大きな食い違いは……この学問の立場上マイナスである。一般の人々が,これは結局まやかしなのだと感じてもしかたがないからである」。

      一辞書は「まやかし」ということばを,「それらしく見せかけたもの」と定義しています。そして,進化論の説明についてまさにそのように感じている人が多くなっています。

      [5ページの図版]

      強力な反論を呼ぶ進化論

      1971年11月21日付 シアトル・タイムズ紙

      染色体数からくる矛盾 ダーウィンは結局は誤っていたのか

      1971年12月27日付 ワシントン・デーリー・ニューズ紙

      進化ではなく神が人間を創造したと科学者たちは言う

      1973年5月3日付,ペンシルバニア州イーストンのエキスプレス紙

      これは,上記英文刊行物の記事を訳したものです

  • 証拠を調べる
    目ざめよ! 1974 | 4月22日
    • 証拠を調べる

      仮にあなたが法廷に立って審理を受けるとする場合,証拠の提出がただあなたの相手方だけに許されるとすれば,それは公正なことですか。そうではありません。おそらくあなたは,法廷があなたの側の言い分をも聞くことを願うでしょう。

      これまで幾年もの間,大学,高等学校,そして小中学校においてさえ,また世界のたいていのところで発行されているおおかたの科学関係の書物の中でも,ただ進化論の側からだけ説明がなされてきました。しかし今,他の側の見解を聞こうという要望がしだいに広がっています。

      道理にかなった判断

      道理をわきまえた人ならだれでも認める点ですが,唯一の公正な方法は,物事の両面を見ること,つまり,問題とされる説に肯定的な証拠と否定的な証拠の両方を調べることです。こうしてはじめて,人は真理に到達することができます。

      多くの科学者は今,進化論についてもこれを行なうべきことを認めています。そのことは,ダーウインの著名な書「種の起源」の特別版の前書きの中でさえ述べられました。「アメリカ人の生物教師」と題する雑誌はその点について次のような一文を載せました。

      「ダーウインの『種の起源』の百年記念版の前書きを書くように選任されたW・H・トンプソンは次のように述べた。『われわれの知るとおり,生物学者の間には,進化の要因だけでなく,その現実の過程についてさえ,見解上の大きな相違がある。

      「『そうした相違が存在するのは,提出されている証拠が不満足なものであり,なんら明確な結論の根拠とならないからである。したがって,直接科学に携わっていない一般公衆に対しても,進化論に伴う意見の不一致に注意を促すことが,適正かつ妥当なことと考える』」。

      生物学関係の上記刊行物は,広く尊敬される科学者であるこのトンプソンのことばをさらに紹介しています。彼はこう語りました。

      「しかし,進化論者たちの最近の幾つかの発言は,彼らがこれを無分別なことのように感じていることを示している。こうした事態,すなわち,[科学に携わる]人々が,科学的な厳密さをもって論証することはおろか,科学的に明示することさえできない教理の弁護のために大挙し,批判の抑圧と異論の排除という手段によって公衆に対する体面を保とうとしている事態は,異常であり,科学の見地から見ても好ましいことではない」。

      批判を抑えておこうとする傾向に対しては,これを退けようとする人たちが多くなっています。そのことは,対立する見解に対しても学校において同等の扱いがなされるべきだという,多くの科学者・教育者・親たちの最近の要望の中に示されています。そうした人たちの考えは,ワシントン特別市のイブニング・スター・アンド・デーリー・ニューズ紙に載った一記事の中の,W・ウィルビーのことばに代表されています。

      「聖書およびかなりの数の有能な科学者は,すべてのことが一つの方法[創造]によって起きたことをわたしに示している。ところが,可能なかぎり最良の教育を受けさせようとしてわたしがバージニア州に税金を払って学校に行かせているわたしの子どもたちは,それが別の方法[進化]によって起きたと教えられている……

      「世界に公正な処置のあるべきところが存在するとすれば,それは科学の世界であるはずである。ところが,[一般の学校で広く用いられている生物関係の教科書]は,宇宙の起源における設計性を支持する論議を故意に排除している……

      「ここでわたしが望むのは,人間の起源に関し,それぞれの側が提出できる最良の学識と研究に基づく説明を,なんら冷笑を加えることなく平衡の取れたかたちで児童や学生の前に提出することである」。

      「知性上の不正」

      こうした要望は,進化論以外の理念が学校用教科書に登場することを望まない多くの進化論者たちから強烈な反対を受けるのが普通です。しかし,物理学者L・ドルフィンはサンフランシスコのクロニクル紙にこう書きました。「教科書の中でこうした問題分野のあるものに答えず,科学的に根拠のある他の考え方を,それが基本的には宗教上の信念であるというだけの理由で排除してしまうのは,知性上の不正である」。

      このように論議の多い問題に関して自分と対立する見解が表面に出ないようにと願うのは,確かに「知性上の不正」です。分別のある人は,これはなぜだろうか,と考えます。

      分別のある人はまた,専断的な態度や一種の脅し,また著名なアメリカの科学者アイザック・アシモフが取ったような態度で進化論に対するいっさいの批判を抑えようとすることが,まじめな学問にそぐわない,という点も考えます。アイザック・アシモフは,進化論を疑問に思うのは「引力の法則を攻撃する」ようなものである,と述べ,さらに,「それは推測ではなく,事実である」と付け加えました。

      しかし,引力の法則については,研究室その他の所で,それを実験し,実証し,論証することができますが,進化論についてはこれができません。非常に多くの人がこれに挑戦するのはそのためです。引力の概念については,だれもこれに挑む人はいません。

      進化論者自身の中にさえ,この理論がまだ証明されていないことを認める人が多いのですから,進化論に対する批判を沈黙させようとして,その批判に含まれる知性をさえ見下す態度を取ることは,とりわけ「知性上の不正」であると言わねばなりません。現に,アシモフのことばを借りれば,進化論の多くの部分が「分別に基づく推測」から成り立っていることを,彼自身が認めています。

      問題の真の姿は,進化を論じたある本に対する「ニュー・サイエンティスト」誌の書評の中によく述べられています。その本は「やむをえないことであるが……人間の進化に関する最近の書物に見られる『ぼやけた面』を随所にのぞかせている。率直に言って,われわれは,人間がどのように,またどのような要因で進化したかを知らないのである。……しかし,このような[本]がその記述をただ事実だけに限定するとすれば,それは全く薄っぺらな本となってしまうであろう」,と同誌は述べました。

      そうです,進化論に挑む人々を威圧したり見下したりすること,またそうした人々は知識が足りないのであるとほのめかしたりすることはもはやできません。問題の核心をつかむために,わたしたちは「推測」を排し,入手しうる事実を正直な態度で分析しなければなりません。

      ある科学者が言うとおり,進化は「事実」ですか。それとも,別の科学者が言うとおり,進化論は「科学の名をかたって登場した最大のおとぎ話」にすぎないでしょうか。

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