-
偶然に進化したのか,それとも創造の業によるのか目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
偶然に進化したのか,それとも創造の業によるのか
いよいよ激しさを増す論争
科学的創造説は学校に入り込もうとしています。米国の公立学校の科学の授業の中で,進化論と同じだけの時間をそれに割くようにとの要求が出されています。そこまではいきませんが,それはカナダでも問題になっています。
進化論者は,それを教室の中に入れまいとしています。それは科学の一分野ではなく,科学の授業の範囲に属しておらず,政教分離の原則を侵すものになるというのです。
この論争は米国全土の新聞に大きく取り上げられました。州議会で討論の対象となり,裁判ざたにまでなっています。
世に聞こえたアメリカ科学振興協会でさえ,今年の会合で創造説をこき下ろし,来年の会合では創造説と戦う方法を検討すると暫定的に発表しました。
100年以上も前にダーウィンが火を付けた論争はいまだに燃え続けています。しかし,政治的な問題に関与することなく,この「目ざめよ!」誌の特別号は幾つかの基本的な問題を検討しています。
進化論は科学的な方法によって確立された事実だろうか。それとも進化論は証明されていない学説なのだろうか。
創造に関する聖書の教理は科学的だろうか。
進化論者は生命のない科学物質がどのようにして最初の生きた,生殖能力のある単細胞になったかを説明できるだろうか。
化石の記録はこの最初の細胞が,どのようにして人類を含む地球上のすべての生物に進化したかを示しているだろうか。
無作為の突然変異の結果として,生きた生物にみられる複雑なデザインや驚くべき本能が生じ得るだろうか。
まずは驚くべき細胞に目をやり,この調査を始めることにしましょう。それはかつて考えられていた程単純ではないのです。
-
-
驚くべき細胞目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
驚くべき細胞
内部を探る
体内の100,000,000,000,000個の細胞は単なる偶然で生じたのか
チャールズ・ダーウィンの時代に進化論が提唱された時,科学者たちは細胞の内部に見いだされることになる,途方もなく複雑な仕組みについて知るよしもありませんでした。1個のごく普通の細胞を構成する様々な部分の大半は,強力な電子顕微鏡を使わなければはっきりと観察できません。ここに典型的な動物細胞の様々な部分の幾つかをあげることにします。このすべては直径わずか0.025㍉の容器の中に納められているのです。
[図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
細胞膜
ゴルジ複合体
ミトコンドリア
小胞体
中心小体
リボゾーム
リゾゾーム
ミトコンドリア ― この小さなソーセージ状の器官は,ATPと呼ばれる特別な分子を造る生産センターです。細胞はATP分子をエネルギー源として用います。ミトコンドリアの複雑な膜の内側で,ATPの生産が猛烈な速さで進行していることでしょう。ATP分子各々を造るには12以上の異なった化学反応が必要ですが,体内の細胞すべてを合わせると,その分子は毎秒幾兆個も生産されていることになります。
リボゾーム ― この小さな粒子は強力な電子顕微鏡でもかろうじて見える程の大きさで,体内の大半の細胞にはこれが幾千も含まれています。リボゾームは他の分子から与えられる指示を読み取り,体の必要とするたんぱく質を合成します。しかも,ごく詳細な点に至るまで正確に合成するのです。リボゾームは少なくとも55の別個のたんぱく質分子からできており,非常に複雑な構造を持っています。
微小管 ― 細胞に柔軟な“骨格”を与えているこれらの構造要素を生成したり分解したりして,細胞は形を変えることができます。非常に長い神経細胞の中では,微小管が細胞内部の“高速度輸送”システムを形造っています。
リゾゾーム ― これは細胞を破壊する力のある酵素を含む小さな袋で,細胞の胃としての役割を果たし,様々な物質を分解して細胞の用に供します。白血球はリゾゾームの内部にある酵素で有害なバクテリアを攻撃します。
小胞体 ― これはたんぱく質や他の分子の細胞内の倉庫の役割を果たしていると思われます。それらの分子は後に細胞内で用いたり外部に送り出したりするために,別個に蓄えられます。
ゴルジ体 ― これは小胞体から得た新たに合成されたたんぱく質を包み,細胞がそれを用いられるようにしている器官と思われます。
核の覆い ― 細胞のDNAを保護するため,核の覆いは2枚の膜から成っています。その膜には小孔がありますが,それはただの穴ではなく,時には開き,時には閉じる複雑な門になっています。
染色体 ― 核の内部にあるこの染色体には,細胞の遺伝的な基本計画ともいえるDNAが含まれています。DNAはヒストンと呼ばれる特別なたんぱく質の周りにあり,ヒストンはDNAを調節するのに一役買っているとも考えられています。
中心小体 ― この円筒状の物は各々三つの微小管9組から成っています。細胞が分裂すると,中心小体は染色体を分かつ小さな糸を制御し,新しい細胞各々が正確な遺伝的情報を得るようにするものと思われます。
細胞膜 ― この膜は単なる壁ではなく,細胞の中に入って来るものとそこから出て行くものとを制御しなくてはなりません。液体が多くなり過ぎるなら細胞が破裂しかねません。液体が不足すると細胞の化学反応が止まってしまうでしょう。危険な物質もあるので食物は注意深くえり分けなければならず,待ちかまえているリゾゾームのところへ運ぶために細胞膜の一部でそれを間違いなく包み込み,その後初めてそれを細胞の中に取り入れます。
言うまでもなく,先に挙げたのは表面的な事柄に過ぎません。1個の細胞は人間がこれまでに造ったいかなる物よりもはるかに複雑です。実際,これが偶然に生じ得たでしょうか。
-
-
偶然にバクテリアは生み出されるか目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
偶然にバクテリアは生み出されるか
最も単純なものの複雑さ
単純? バクテリアはこれまでに知られている最大の分子を持っている!
進化論者の大半は,4ページに描かれているような動物細胞が生物学上驚異的な複雑さを備えていることを認めるのにやぶさかではありません。『しかし,最初の生きた有機体はそれほど複雑ではなかった』とすぐに言葉を続けます。サイエンティフィック・アメリカン誌上で,化学の教授リチャード・E・ディッカーソンは,「地球上の最初の生きた有機体……は発酵を引き起こす現代のバクテリアに似た単細胞の存在であると思われる」と書いています。
それでは,下等なバクテリアについて考慮し,それが創造者なしに存在するようになり得たかどうか,ご自身で判断してみてください。
バクテリアの細胞壁は高等な有機体の細胞壁よりも単純なはずだと思われるでしょう。ところが,実際にはその反対なのです。高等な植物細胞には糖の分子の繊維から成るセルロース(繊維素)の壁があります。バクテリアの細胞壁も糖の分子の繊維から始まりますが,その繊維は次にアミノ酸の連なる短い鎖で複雑に織られているのです。一科学者によれば,細胞壁全体は「概して,一つの巨大な袋状の分子とみなせる」のです。
この袋はとても丈夫にできています。バクテリアの細胞壁は1平方㌢あたり20㌔余りの内圧に耐えながら,破裂しません。同じことをご自分の車のタイヤで試してみるとよいでしょう。
確かに,高等な有機体の細胞とは異なり,バクテリアには核がありません。しかし,最も単純なバクテリアさえ,普遍的な遺伝素材であるDNAをかなり有しています。バクテリアのDNAは核膜に囲まれておらず,一般にバクテリアの内部で1本の長いループ形を成しています。科学者のジョン・ケアンズ博士によると,ごく一般的な大腸菌のDNAの巨大なループ形の中には,「生物学的システムに生じると分かっている分子の中でも群を抜いて最大のもの」が存在します。
このすべてから,原始時代の海岸のどこかに偶然に打ち上げられただけの物を思い浮かべますか。「分子の中で最大のもの」は,不活性の化学物質が偶然に結合した結果だと言えますか。
大腸菌は次の細胞分裂に備えて自らのDNAを複製します。これが生じるには,大きなチャックをねじったような形をしているDNA分子の“チャックをはずし”,半分になったその各々が残りの半分を形成できるようにならなければなりません。DNA分子の塩基対と呼ばれる部分がチャックの突起に相当します。微小な大腸菌の中でこれら塩基対が毎分15万回の割合できわめて正確に複製されているのです。
大腸菌がほかの場所に移動する必要が生じた場合どうなりますか。文字通りスクリューが出てくるのです。生物学の教授であるハワード・ベルグによると,細胞の表面に6本の糸のようなものが現われ,それが一束になります。これらの糸は回転しますが,そうするためには「回転子,固定子,及び回転ベアリングに相当する構造」が必要である,とベルグ博士は語っています。“原始的な”形態の生物にしてはたいしたものではありませんか。
それだけではありません。大腸菌は他のすべての生物と同様,そのDNAで,自らが生きてゆくのに必要な化学物質の合成を指示します。必要に応じてDNAの各部分を作動させたり停止させたりする精巧な自動制御のメカニズムで,下等なバクテリアがそのDNAを制御しているのです。生化学者ジャン-ピエール・シャンジゥは,「この制御システムの並々ならぬ経済性と効率については,改めて一言述べざるを得ない」と語り,「細胞はこの制御のためにエネルギーを少しも消耗しない。……制御用自動中継機の操作にエネルギーを全く必要としない工場は,生産効率の極致ともいえるであろう」との驚嘆の声をあげています。
バクテリアが進化の所産でないことを示しているのはその複雑さだけではありません。バクテリアや他の生物を形造るのに助けとなっているたんぱく質そのものが,進化の起きる可能性は絶望的と言ってよいほど少ないことを物語っているのです。どうしてそう言えるのですか。
進化論者は,化学者が様々なガスの混合気体に放電して,幾つかのアミノ酸を含む数々の化学物質を合成した1952年の実験を吹聴します。アミノ酸をきちんとつなげると,あらゆる生物を作り上げる基本的な単位となるたんぱく質を形造るので,これは重要なことであるとみなされました。
さて,アミノ酸がどのようにつながれているかによって,“左きき”あるいは“右きき”のアミノ酸となります。様々なガスに放電する実験の結果として生ずるアミノ酸には,左きき及び右ききの型が同量含まれています。ところが進化論者のリチャード・ディッカーソンが認めるように,「特定の特別な適応形を除いて……今日のすべての生きた有機体に組み込まれているのはL[左きき]アミノ酸だけ」なのです。
典型的なたんぱく質が400個のアミノ酸から成っているとすれば,そのすべてが左ききになる確率は硬貨をはじき上げて400回続けて表が出る確率に匹敵します。それは,1に0を100個以上付けた回数行なっても1度として起こらないほどの可能性です。1に100個以上の0を付けた数というのは,宇宙の中で知られている星雲すべてに存在する原子すべての数の何倍も多いのです。たとえ400個の左ききアミノ酸から成る,とても生じ得ないと思える任意のたんぱく質が自動的に合体したとしても,20種類ある左ききアミノ酸のうちのふさわしいものがふさわしい順序で並んでそのたんぱく質を形造る可能性はほとんどありません。
偶然によってたんぱく質が発生する可能性は次のような例を用いて説明できるでしょう。触っただけでは区別のつかない小さな正方形の木片に文字を書いたものと数字を書いたものが同量入っている箱があるとします。さて,目隠しをしてそれらの小さな正方形の中から400個を選ぶように言われます。文字の書いてある正方形だけを選んで数字の書いてある正方形を一つも選ばないという確率でさえかなり低いものです。ところが,それだけではないのです。文字の書かれたその400個のブロックを選んだ順番に並べていくと,それらは意味のある,文法的に正しい一段落の文を成さなければならないのです。
大腸菌の複雑なシステムは,原始的なものであっても,生命が進化の所産であるという概念に別の問題を提起しています。DNA分子は生命に不可欠ですが,それだけでは生命が存在するのに十分ではありません。酵素など他の非常に複雑な分子がDNAの活動を導いたりその活動に協力したりすることが必要です。
ですから生命は,幾つかのきわめて複雑なシステムが同時に存在するようになり,完全に調和して働いて初めて存在し得るのです。複雑なシステムのどれを取っても,他のシステムが所定の位置になければいつまでたっても原始的な生命をさえ発生させることはできないのです。
進化論者たちは進化論に対するその“信仰”を主張するだけで,このジレンマを片付けようとします。
[6ページの拡大文]
バクテリアの細胞壁は1平方㌢当たり20㌔余りの内圧に耐える
[7ページの拡大文]
大腸菌の塩基対は毎分15万回複製されている
-
-
化石の記録 ― 進化論者の言う最善の証拠目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
化石の記録 ― 進化論者の言う最善の証拠
その主張,その事実
進化論者自身が化石の記録について述べている事柄
進化論者の花形証人
「化石は進化の最善の証拠である」― レジナルド・マンウェル著,「原生動物学入門」,36ページ。
「化石の助けを得て,古生物学者は過去の時代の生命を見事に描き出してくれる」― リチャード・キャリングトン著,「地史研究入門」,48ページ。
「進化論が真実であることは古生物学で決定的に証明された」― D・D・デービーズ著(ジェプセン,メヤー,及びシムスン共編による本),「遺伝学・古生物学・進化論」,87ページ。
その花形証人の述べる事柄
生命の起源について
「地質学は生命の起源について何も告げていない」― A・C・シューアード著,「様々な時代を経てきた植物」。
微生物について
「我々は依然として原生動物の進化についてはほとんど知らない」― マンウェル著,「原生動物学入門」,42ページ。
植物について
「理論上存在するはずの原始的な種類は我々の手をすり抜ける。我々の信仰はその存在を自明のことと仮定するが,それは実際に形あるものとして出て来ない」― シューアード,「様々な時代を経てきた植物」。
昆虫について
「知られている化石の中で,原始的な,昆虫の先祖がどんな姿をしていたかを示すものは一つもない」― ライフ自然双書,「昆虫」,14ページ。
魚について
「最初の魚類が進化した。……私たちの知るかぎりでは,この新しい動物とそれ以前の生物との“関連”はまったくなかった。魚類が,すべての動物を高等なものと下等なものに二分する構造物であるあの脊椎を身につけて,ここに登場してきたのである」― ジィーン・ジョージ著,「動物界の驚異と自然」,25ページ(リーダーズ・ダイジェスト出版)。
魚が両生類になったことについて
「過渡期のものとみなされる化石はごくわずかしか見いだされていない」― ライフ自然双書,「魚類」,64ページ。
両生類が爬虫類になったことについて
「脊椎動物の歴史に関する化石の記録で落胆させられる特色の一つは,爬虫類の進化の初期の時代,つまり殻の付いた卵が発達した時期に関し,その記録がほとんど何も語っていないことである」― ライフ自然双書,「爬虫類」,37ページ。
爬虫類が哺乳類になったことについて
「残念ながら,真の意味で最初の哺乳類とみなせる生物について化石はごくわずかなことしか明らかにしていない」― ライフ自然双書,「哺乳類」,37ページ。
「哺乳類と爬虫類[とをつなぐ]失われた鎖の環は存在しない」― ライフ自然双書,「爬虫類」,41ページ。
爬虫類が鳥類になったことについて
「爬虫類から鳥類への注目すべき変化が成し遂げられていった様々な段階を示す化石の証拠は存在しない」― W・E・スウィントン,「生物学と比較生理学」,第1巻,1ページ。
類人猿について
「6,000ないし8,000万年に及ぶ第三紀全体について,一握りの折れた骨や歯から霊長類の進化の歴史を読み取らねばならない」― サイエンティフィック・アメリカン誌1956年6月号,アイズリー記,98ページ。
「残念ながら,類人猿の出現の跡をたどることを可能にしてくれるはずの化石の記録は依然として絶望的と言えるほど不十分である」― ライフ自然双書,「霊長類」,15ページ。
類人猿から人間へ
「残念ながら,ヒトが固有の系統にそって進化してきた初期の段階はいまだに全く謎である」― ライフ自然双書,「霊長類」,177ページ。
「この比較的最近の歴史でさえ一貫して不確かである。権威者たちはたいてい,基本的な事柄についても詳細な点についても争い合っている」― テオドシウス・ドブジャンスキー著,「進化する人類」,168ページ。
結論
わたしたちは,「わたしはあなた自身の口からあなたを裁く」というイエスがかつて示された手法に従ってきました。(ルカ 19:22)進化論者たちは,化石が進化の最善の証拠となる,それを見事に描き出している,それを決定的に証明する,と述べています。それから,進化論者はこう言うのです。
『生命がどのように始まったかに関する化石はなく,微生物がどのように発生したかを示す化石も,植物がどのように発生したかを示す化石も,昆虫がどのように発生したかを示す化石も,魚がどのように発生したかを示す化石も,両生類がどのように発生したかを示す化石も,爬虫類がどのように発生したかを示す化石も,哺乳類がどのように発生したかを示す化石も,鳥がどのように発生したかを示す化石も,類人猿がどのように発生したかを示す化石も,ヒトがどのように発生したかを示す化石も存在しない』。
進化論者の「最善の証拠」は証拠ではないのです。その『見事に描き出された』ものは全くの白紙です。その『決定的な証拠』は何をも証明しません。進化論者は,その花形証人のこうした意に満たない証言を前に,どのようにして逃れるのでしょうか。続く記事は,進化論者の新戦術を明らかにしています。
-
-
進化論の革命目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
進化論の革命
求む: ダーウィンに代わるもの
新しい解決策を求める争いが始まる
進化論「は,ほぼ50年来の最も幅広く最も深みのある革命を経つつある」。これは昨年10月に米国のシカゴ市で開かれた会議に関する一報道です。150人ほどの進化論の専門家が「大進化」を主題に四日間の会議を開きました。
アメリカ科学振興協会の機関誌「サイエンス」はその雰囲気をこう伝えています。「個性の衝突と学術的な粗捜しが明白な緊張を引き起こした。……議事の進行は時には手に負えないものとなり,苛烈でさえあった」。落胆した科学者たちの多くは,「発表された意見の大多数は,データを挙げることよりも説明や主張を特色としていた」と,不満をもらしました。しかし,データの代わりに主張を持ち出すというのは進化論者の昔からの戦術ではありませんでしたか。
ダーウィンは,生命は数々の小さな変化を非常にゆっくりと経て,単細胞生物から人間を含む地球上のあらゆる生物へと進化してきた,と述べました。化石の記録はそうした推移を示すはずですが,ダーウィンはそれがそうした推移を示していないことを認めました。120年前にダーウィンはその記録に不備な点があると語りましたが,やがてもっと多くの化石が発見されて,その間隙を埋めてくれるものと考えていました。
「過去120年にわたり発見されると言われてきた型は存在しない」と,古生物学者ナイルズ・エルドリッジは断言しています。新しい種は漸進的な変化の結果ではなく,急激な爆発的進化の結果である,と考えているのです。ダーウィンの進化論に必要とされた数多くの過渡的な形態は一度も存在しなかった,そしてその間隙をつなぐ化石はこれからも見付からないというわけです。
ハーバード大学のスティーブン・ジェイ・グールドも同意見です。シカゴでの会議の席上,彼はこう言明しました。「確かに記録は貧弱だが,断続的であるように見えるのは間隙があることの結果ではなく,進化の変化の断続的な様式の必然的な結果である」。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の古生物学者,エバレット・オールソンは,「私はデータの源として化石の記録を当てにはしていない」と語っています。かつては,ダーウィンの提唱した緩慢な変化の唱道者であったフランシスコ・アヤラは次のように述べています。「今では,古生物学者の述べることから,小さな変化は蓄積されないということを確信するに至った」。
サイエンス誌はその論争をこう要約しています。「シカゴでの会議の中心的な問題は,小進化[種の内部における様々な小さな変化]の背後にあるメカニズムから推測して大進化[種の境界を飛び越える大きな飛躍]の現象を説明できるかどうかということであった。……その答えとして挙げられるのは,はっきりとしたノーである」。
この進化論に関する新見解は,“中断された平衡”と呼ばれています。それは,一つの種が幾百万年も化石の記録にとどまり,それが突如として消え失せ,新しい種がそれと同じほど忽然とその記録に現われる,という意味です。しかし,これは実のところ新しい提議ではありません。1930年代に,リヒャルト・ゴルトシュミットがそれを唱道し,“希望的な怪物”仮説と呼びましたが,当時そのためにかなりけなされました。“中断された平衡”というのははるかに印象的な名称です。
この学説によれば,変化は化石が記録にとどめることができないほど早いものだが,わたしたちの目に止まらないほど急激ではない,と進化論者たちは主張します。しかし,そのことはこの学説にとって不利な点でもあります。創造論者が自然界に見られる複雑な造りには設計者が必要であることを指摘した時,進化論者は自然選択をその設計者の位置に高めました。今では,自然選択の役割は徐々に減少し,代わって偶然がその位置に就きました。創造論者は,進化論者が偶然を当てにしなければならないと長い間主張してきたのです。
グールドは,偶然の前に自然選択が道を譲ったことを認めてこう述べています。「かなりの量の遺伝的な変化は,自然選択の対象にはならず,任意の個体群の間に広まったのかもしれない」。
地質学主事,デービッド・ラウプは,シカゴのフィールド自然博物館公報の1979年1月号に,「ダーウィンと古生物学との対立」について書きました。ラウプによると,化石の記録は変化の起きたことを示してはいるが,「自然選択の最も理屈に合った結果としてでは[ない]……格好の例は驚くほど少ないが,ともかくそれは自然界で起きているのである。……現時点で自然選択に代わるものとして重要な説は,純然たる偶然の影響と関係がある。……それゆえ我々は,適者生存だけでなく,幸運な者の生存についても語っているのである」。ラウプは,「哺乳類は恐竜よりも優れていたのではなく,単に恐竜よりも運がよかっただけ」なのかもしれない,と考えています。そして,その記事の結論の中でダーウィンについて,「彼が見落としていた部分は,偶然という単純な要素であった」と語っています。
偶然が進化を導く主要な役割を果たすとなると,意図的な造りに関する難問が再び持ち上がります。至る所に見られる複雑で驚くべき造りがどうして偶然の所産であり得るでしょうか。ダーウィンはかつて,目の造りを見ると身震いがする,と語りました。しかも,そのような奇跡は偶然に1度起きるだけではなく,関連のない様々な種の中で何度も何度も起きなければならないのです。
例えば,タコは人類とつながりはありませんが,その目は驚くほど“人間的”です。互いにつながりのない魚とうなぎが電気ショックを与える装置を備えています。互いにつながりのない昆虫や蠕虫,バクテリアそして魚などが冷光を放つ発光器官を備えています。互いにつながりのないヤツメウナギ,カ,それにヒルは獲物の血が固まらないようにするための抗凝固剤を持っています。互いにつながりのないイルカとコウモリはいずれも音波探知システムを備えています。互いにつながりのない魚と昆虫は空中と水中で物を見るために二重焦点の目を持っています。
さらにこのすべてに加えて進化論者は,冷血の爬虫類が異なった時期に3度進化して温血動物になり,3度別個に進化を遂げて天然色の視覚を備え,互いにつながりのない魚,昆虫,翼竜,鳥そして哺乳類の場合には翼と飛行能力が5回進化したことを信じ込ませようとします。
偶然がこうした離れ業を幾度も繰り返しやってのけることができるでしょうか。確率に関する数学は,あり得ないと言っています。進化論の革命のお陰で,進化は間隙だらけの化石の記録と心中せずに済んだかもしれませんが,偶然というものに,重きに過ぎる役割を与えたのです。
[10ページの拡大文]
“希望的な怪物”の仮説は“中断された平衡”として再登場する
[11ページの拡大文]
適者生存が生じ得る前に,偶然が適者の到来をもたらさなければならない
-
-
最初にそれを行なったのは神目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
最初にそれを行なったのは神
人間は模倣者
人は神の発明を認めようとはせず,特許を自分のものにする
温度計
人間は非常に感度の良い温度計や,熱を測定する他の計器を作りましたが,幾千年にもわたってある種のヘビが示してきた生来の能力と比べるとそれは粗雑なものです。例えば,ガラガラヘビは摂氏1,000分の1度の温度の変化をも感知する能力を持っています。オウジャは35㍉秒で,ある温度に反応しますが,人間の作った感度の良い器具は同じ温度を測定するのに1分かかります。そのようなヘビはこうした温度を感知する能力を用いて,体の温かい獲物を暗がりで探し出し,捕らえるのです。この温度感知器は,その熱の源の存在する方向をも教えてくれます。
低体温法
外科医はある種の手術を行なう際に今では体温を下げ,鼓動や呼吸を緩慢にさせるようにしていますが,これよりもずっと昔から,冬眠をする動物は低体温法を実践してきました。例えば,体の小さいアメリカ・スジ・ハタリスの鼓動や呼吸数は夏の活動期間中毎分数百回に上ります。ところが,冬眠期間中には,心臓の動きが遅くなって毎分一,二回になり5分に1度ゆっくりと息をします。体温は冬の寒い外気と数度しか違わないところまで低下します。それでも,血液は体内をくまなく循環し,血圧は正常に保たれ,酸素は供給され,筋肉の調子は維持されています。
電気
動物電気に関するルイジ・ガルバーニの論文に刺激されて,イタリアの物理化学者ボルタは定常電流を得る最初の人工的な電池を作りました。しかし,幾千年も前に,500種ほどの電気魚にはすでに電池が備わっていました。アフリカのナマズは350ボルトの電気を起こし,北大西洋の巨大なシビレエイは50アンペアのパルスを60ボルトで出し,南米の電気ウナギのショックは886ボルトにまで達することが測定されています。この電流は幾つも接続して並べられた電函 ― 実際にはボルタ電池 ― によって起こされます。電函各々は1ボルトの何分の1かの電気しか起こさない電気化学的な電池です。しかし,神の創造物の体内でそれが幾千幾万,時には幾百万も様々な形で直列や並列に連結されると,結果として自然の電池が得られるのです。
化学戦
神経ガス弾には二つの容器があって,各々に比較的毒性の弱い化学物質が入っています。そして,それが発射されると化学物質が混合し,爆発時に致死的な神経ガスが放出されるのです。これが発明されるよりもずっと前に,しかも専ら防御だけを目的として,ホソクビゴミムシは化学的な駆虫剤を用いてきました。腺が2種類の異なった化学物質を生産し,それを筋肉のバルブで閉じられた別個の仕切りに蓄えます。攻撃を受けると,バルブが開いて2種類の化学物質が3番目の厚い壁で覆われた仕切りに流れ込みます。そこでは,酵素の働きで爆発反応が起こり,ポンという音と共に有毒な霧を放ちます。ゴミムシはどんな方向へでもそれを放つことができます。ホソクビゴミムシは繰り返しそれを放つことができ,1分間に何十回もその霧を放ち,こうしてアリ,クモ,カマキリ,鳥やヘビが息を詰まらせて退散するのです。
コンピューター
コンピューターはけた外れの演算をやってのけますが,それでも人間の脳とは比べものになりません。1,300㌘の神秘といわれる人間の脳は,重さこそ体全体の2%を占めるに過ぎませんが,血液の20%を用い,供給される酸素の25%を消費します。そのノイロンの数は推定100億から1,000億に上り,ノイロンの接合部(シナプス)は100兆から500兆に上ります。毎秒1億ビットもの情報が流れ込み,脳は自らを10分の1秒ごとに調べますが,それが20㍗の電力で作動しているのです。脳は情報を受け取り,処理し,評価し,決定を下し,目標を定め,行動を起こし,音楽や芸術を生み出します。人間の脳以外には,言語のためのプログラムが組み込まれたシステムは存在しません。また,人間の脳以外には,より高位の力を信じ,それを崇拝する生来の必要も存在しません。
一人の科学者の述べたように,「コンピューターを“電子頭脳”と呼ぶ人は脳というものを一度も見たことがない」のです。リチャード・レスタク博士が,人間の脳は「既知の宇宙の中に存在するいかなるものより,はるかに複雑である」と語っているのも少しも不思議ではありません。また,人類学者のヘンリー・フェアフィールド・オズボーンはかつてこう言明しました。「私の考えでは,人間の脳は全宇宙で最もすばらしく,神秘的な物体である」。
神の方が先に行なわれた事柄は数限りない
コウモリやイルカは音波探知器を用い,タコはジェット推進を用い,カは皮下注射用の注射針を用い,スズメバチは紙を作り,ビーバーはダムを築き,アリは橋を架け,ハチやシロアリは空調設備を利用します。魚や蠕虫や昆虫の中には,冷光を発するものもいます。鳥の中には,機織りをし,結び目を作り,ふ卵器を作り,石細工をし,アパートを建て,海水を脱塩化し,羅針盤と体内時計を持っていて空の旅をするものもいます。アクアラングを使う甲虫もいます。クモの中には潜水鐘を用い,ドアを作り,気球に乗って旅をするものもいます。二重焦点の目を持つ魚や甲虫もいます。カミツキガメやタイコウチはシュノーケルを用います。動物の目は人間の作った太陽電池のように光を電気に転換します。アリは園芸や牧畜を行ない,ある種の甲虫は木を剪定します。人間の発明家たちが模倣している創造物の様々な仕組みを挙げていけばきりがありません。人間の業績はその非凡な才能の結果であるといわれますが,神の業績は盲目的な偶然の結果として片付けられてしまいます。少なくとも,進化論者はそう言っています。全く不思議なことです。
-
-
意図的な造りには設計者が必要目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
意図的な造りには設計者が必要
答えが一貫しない進化論者
「家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です」― ヘブライ 3:4
無生物である家が自力で建ったなどと主張する進化論者はいないでしょう。ところがその進化論者が,無生物である宇宙は自力で存在するようになったと独断的に語ります。宇宙には,各々無数の星から成る無数の星雲があり,そのすべてが畏怖の念を起こさせる壮大さをもって寸分の狂いもないタイミングで動いているのです。
それだけではありません。進化論者の説によれば,地球上では無数の生きた有機体すべてがその祖先から自らを造り出し,それをずっとさかのぼってゆけば万物の最初の根源となる親にたどり着き,それは無生物である化学物質から自発的に自らを造り上げたことになります。これらすべての生物にみられる驚くべき複雑さや目的のある込み入った造りなども,進化論者のこのような方向を妨げるものとはなりません。
わたしたちは設計の専門家の精巧な発明に感嘆の声を上げますが,その中で最も偉大な業績でさえ,最も単純な生物と比べると取るに足りないものです。その20世紀の科学技術すべてをもってしても,人間は小さな単細胞のアメーバの製作にさえ着手することができないのです。ところが,人々は盲目的な偶然 ― 自然選択の疑わしい助けを得た無作為の突然変異 ― に,地球上の生物すべてを造り上げる力をたやすく付与してしまうのです。
ここに,見逃すことのできない矛盾がみられます。進化論者はむとんちゃくにも,偶然の力によって複雑な生物すべてが設計されたとしながら,同時に,極めて単純な物体が存在するには知的な設計者が必要であったと主張するのです。
例えば,ある科学者は古代の塚を発掘し,中央部に輪の形をした溝のある長円形の石を発見し,それは原始人が棒に結び付けてハンマーか武器として用いたものだ,と確信を持って発表します。理知ある生物が一つの目的を持ってそれを設計したと言うのです。ところが,鳥の羽毛はそうではないと言うのです。風切り羽にはその羽軸から幾千本もの羽枝が出ており,その羽枝からは幾十万本もの小羽枝が出ています。飛行中このすべての部分を一つにまとめておくための小鉤,つまり小さな突起が幾百万もあります。羽枝が離れ離れになると,鳥はそれを口ばしでチャックを閉めるようにつなぎ合わせることができるのです。人間がチャックなるものを“発明”するずっと前からチャックを用いていたのです。
理知ある設計者の生み出したものではありませんか。進化論者にとってはそうではありません。進化論者はこう語ります。「この驚異的な構造はどのように進化したのだろうか。大して想像力を働かせなくとも,羽毛は,基本的には爬虫類のうろこと変わらないうろこが変化したものとみなせる。それほど密着してはいなかった長めのうろこの外側の先端がすり切れ,広がってゆき,今日のようなきわめて複雑な構造へと進化していったのである」― ライフ自然双書,「鳥」,34ページ。
進化論者が独断的であることを示す別の例があります。進化論者は先のとがった平らな石を見付けると,それは理知のある“石器時代”の人がナイフかスクレーパーとして使うよう設計したものだと確信します。ところが,“ミモザ・カミキリムシ”という小さな甲虫には設計者は必要ない,と言うのです。この甲虫の雌はミモザの木に登り,大枝の端の所まではい上がって行き,樹皮に穴をあけて,そこに卵を産みます。それから,大枝の中間の所まではって戻り,そして枝の周囲を形成層に達するまでかみ切ります。すると,枝の先の方は枯れて,下に落ちます。その甲虫の卵は散乱して,ふ化し,同じ循環が再び始まります。ミモザの木の方も恩恵を受けます。木が剪定されるので,剪定されなかった場合の2倍も長く,つまり40ないし50年生き続けます。事実,ミモザの木はミモザ・カミキリムシを引き寄せるにおいを放ちます。そして,この小さな甲虫が繁殖できる木はほかにないのです。先のとがった平らな石には設計者が必要とされ,ミモザ・カミキリムシは偶然に生じたのです。いや,そのように言われているのです。
別の比較をしてみましょう。矢じりのような形をした火打ち石のかけらを見ると,進化論者はそれは矢あるいはやりの先に付けて使うために人が設計したものだと確信します。そのような目的を持って設計されたものは偶然によって生じることはない,と進化論者は結論します。しかし,クモは別問題だ,と言うのです。真正クモ目のクモについて考えてみましょう。クモには各々約100個の紡績管を持つ紡績器が六つあり,紡績管は各々1本の管でクモの体内の別個の腺に結び付けられています。それは別個の糸を造ることもできれば,それらを一つにして絹糸状の幅のある帯をも造れます。クモは7種類の糸を分泌します。7種類すべてを分泌する種は存在しませんが,どの種類も少なくとも3種類の糸を分泌し,真正クモ目は5種類の糸を分泌します。600の管すべてが糸を造るわけではありません。中にはある網に粘り気を与えるにかわ状の物質を出す管もあります。しかし,真正クモ目は自分の足に油を付けているので,決して網にひっかかることはありません。これらの紡績突起の起源は何ですか。足が紡績突起になったのだ,と進化論者は言います。
考えてみてください。クモには糸を造る化学工場と糸を紡ぐ体の機構,網を張る本能的な知識が備わっているのです。このいずれを取っても,他の二つのものがなければ何の役にも立ちません。そのすべては偶然に,しかも同時に,1匹のクモの体内で進化しなければなりません。進化論者はそのようなことが起きたと信じています。あなたはどうですか。火打ち石の鋭いかけらとクモ,そのどちらが容易に偶然に生じ得たでしょうか。
宇宙時代に目を向け,コーネル大学のカール・サガン博士の言葉に耳を傾けてみましょう。「理知ある生物から発していることが明白に認められる星間の電波通信を作ることは容易である」と同博士は語ります。「はるかに有望な方法は絵を送ることである」と信じているのです。送ることを提案された一つの絵は,男・女・子供・太陽系・数個の原子を表わすもので,一続きの点と線の記号を送ることにより,すべてが成し遂げられます。点と線の記号のそれぞれは1“ビット”の情報と呼ばれ,全部で1,271ビットが必要でした。
この点について筋道をたてて考えてみてください。一定の順序に並んだ1,271ビットの情報が秩序と設計を示し,「理知ある生物から」出ていることを「明白に」証明するものであるなら,すべての生きた細胞の染色体の中に組み込まれている約百億ビットの情報についてはどうですか。進化論者は,1,271ビットの情報は『理知ある設計者の存在を明白に証明する』と述べながら,百億ビットの情報には設計者が必要なく,単に偶然に生じたのだと言って退けてしまうのです。
そのような論議は筋が通ってはおらず,独断的で,偏見に満ちているとさえ思えるのではありませんか。単純な造りのものに設計者が必要なのであれば,極めて複雑なものにはそれよりも偉大な設計者が必要とされるもっと強力な理由があるのではないでしょうか。英国の理論家エドワード・ミルンは,宇宙の起源を考慮した際,賢明にも,「神の存在なくしては我々の描写は完成しない」と結論しています。
[15ページの図版]
矢じりには設計者が必要だが,DNAには必要ではない?
-
-
本能 ― 生まれる前に組み込まれた知恵目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
本能 ― 生まれる前に組み込まれた知恵
小さな脳の並みはずれた離れ業
「それらは本能的に賢い」― 箴言 30:24,新
信じられないような旅
ズグロアメリカムシクイという小鳥が進化の体制の“挑戦を受けて立つ”とはとても思えませんが,実際に受けて立っているのです。この北米の鳴き鳥の体重はわずか20㌘に過ぎず,体長は13㌢しかありません。ところが,並みはずれた渡りの離れ業をやってのけます。
秋が近付くと,この鳥はアラスカにある夏の間の住みかから北米大陸を南東へ向かって飛び,大西洋岸にまで達します。ムシクイの旅はまだ始まったばかりなので,この間の食欲はおう盛です。
米国のニューイングランド地方の海岸沿いで,ズグロアメリカムシクイは天候を見計らって待っています。どういう方法でかは分かりませんが,この鳥はどんな天候が望ましいかをはっきりと知っています。それは,南東へ向かって海岸線を越え,大西洋に張り出す勢力の強い寒冷前線です。
この寒冷前線の到来と共に,小さなムシクイは旅立ち,南東の海の方へ追い風を受けて飛んで行きます。寒冷前線に乗るので,途中やっかいな熱帯性の嵐にも遭遇せず,賢明な天候の選択です。
南東に飛ぶこの小鳥は次にアフリカに向かいます。距離的にもとてもたどり着けませんし,その目的地でもありません。しかし,ズグロアメリカムシクイは方向を変えません。ノンストップでバミューダ島を越え,アンティグア島に近付くと高度6,300㍍まで上昇します。その高度では温度は低く,酸素は希薄になります。どうして小さなムシクイはこのような高度まで上昇するのでしょうか。その高度に達すると,この鳥の本来の目的地である南米まで西へ向かって運んでくれる卓越風が吹いているからです。3昼夜余り3,800㌔以上の距離をノンストップで飛んで,ムシクイはお目当ての別の大陸に到着するのです。
科学者たちはこの小鳥が毎年やってのける離れ業に目をみはります。どんな天候状況がおあつらえむきかどうして知るのでしょうか。南米まで運んでくれる風に乗るためにいつ行動を変えたらよいかを一体どのようにして知るのでしょうか。海洋上のほど良い場所でその風と交差する,寸分たがわず正確な進行方向をどのようにして選ぶのでしょうか。科学者たちには説明できません。当然,進化説でも説明できません。
ところが,このアメリカムシクイのまれに見るようなルートの背後にはそれなりの理由があるのです。南米へのその海上ルートは,“島づたい”の旅よりもずっと短く,捕食動物に食べられる心配も少なくてすみます。その特別に設計された新陳代謝作用のお陰で,ズグロアメリカムシクイは1,600㍍を2分で走る競馬ウマのペースで,80時間ノンストップで飛行することができます。ある科学者は,「体に蓄積された脂肪の代わりにズグロアメリカムシクイがガソリンを燃焼させているとしたなら,リッター当たり30万㌔の燃費を誇れるであろう」と述べています。
シロアリ ― 空調技師
シロアリに悩まされているなら,その体のもろさに同情することなどはないでしょう。その体は柔らかくてもろく,温度と湿度が注意深く調節されなければ生きてゆけません。こうした昆虫は熱帯の厳しい気候の中ではとても生きてゆけないと思えます。ところが,熱帯でも大いに繁殖しているのです。どのようにしてですか。
その答えはシロアリの建築及び工学上の技術によります。熱帯のシロアリの巣は土で堅く固めた塚であり,おのでたたくと火花が飛び散るほどです。オーストラリアのシロアリの中には必ず南北を指す長くて細い,くさび形の塚を築くものもいます。これはどうやら暑い真昼の太陽をしのぐ工夫のようです。遠くから見ると人間の作った小屋のように見える塚を築く種もあります。
シロアリの塚の外側が熱くて触れられないほどでも,その内部は摂氏30度ほどで快適です。どのようにして温度が調節されるのでしょうか。厚い壁も一役買っていますが,それだけではありません。ある種のシロアリは巣の下の地面に40㍍のトンネルを幾つも掘って水を得,乾燥した砂漠の熱気の中でも,その水を利用して,蒸発作用により巣を涼しく保ち,ほど良い湿度を保っているのです。“地下室”や“屋根裏”の付いた巣を築くシロアリもいます。換気のために,塚の外側には温度を調節し巣の中に新鮮な空気が十分入るようにするための中空の管が通っています。この管の中でシロアリが絶えず働いているのが観察されています。この管を開けたり閉じたりして,その空調は完璧と言えるまでに調節されるのです。
建築と工学のこうした技術をシロアリに誰が教えたのでしょうか。盲目的な進化ですか。それとも識別力のある腕の良い設計者でしょうか。
ダンスをするハチの投票
ミツバチの本能的な離れ業のことはご存じでしょうが,この小さな生き物は短い一生の間になすべき数多くの仕事を持っているのが普通です。まずは女王バチや幼虫の保母虫として一生を始め,徐々にハチの巣の作り手や巣の番人や営繕係になってゆきます。しかし,みつやその他の必要物を求めて食糧を探しに行く責任の重い割当てを受けるのは比較的年のいったハチです。そして,最も驚嘆に値するのはこのハチの本能なのです。
食糧を探すハチがみつのある所を新たに見いだすと,巣へ戻ってその良い知らせを伝えます。これはダンスで伝えられます。ダンスの速さ,その形(円を描くか,8の字型を描くか),そしてダンスをしているハチがどれほど腹部を振るかで,他のハチはみつのある所までの距離を知ります。太陽との関連で見たみつの場所の方角もダンスで示されます。「昆虫」という本は,「ハチの言語は信じ難いように思えるが,無数の実験によって確証されている」ことを認めています。
ハチの巣が込み合ってくると,そのうちの幾匹かは古い女王に連れられて新居に移ります。では,その群れはどのようにして行くべき所を知るのでしょうか。この新しい群れから斥候が四方八方へ飛んで行きます。しかし,今回は花を探すのではありません。新居になるような木のうろや壁の裂け目を探すのです。帰って来ると,斥候はその新居の位置を示すため,花の位置を示すダンスとほとんど同じようなダンスをします。良い場所を見いだした斥候は非常に熱心にダンスをし,他のハチの多くがその精力的なダンスを見て刺激を受け,そこを見に行こうという気になるまで何時間も踊っていることがあります。たいして望ましい場所を見つけたのではない斥候はそれほど長くあるいはそれほど熱心に踊らないので,見に行こうという気になるハチは余り多くありません。
やがて,そのハチの群れは候補地を数か所に定め,続いて斥候に出たハチの熱心なダンスに引かれて最善の場所への支持が増えてゆき,最後に一つだけが残ります。事実上,この群れは幾つかの候補地を見て,自分たちの最も好む場所に票を投じているのです。このすべての過程を踏むのに五日間かかることもありますが,それが済むと群れは全員一致で新しい住みかへと飛んで行きます。
偶発的な突然変異と無作為の出来事がこのようなすばらしい意思伝達の離れ業と社会的な調和を生むでしょうか。偶然の出来事と混乱で調和が生まれるような社会がどこかにあるでしょうか。
[16ページの図版]
ズグロアメリカムシクイ ― 海洋を飛び越える賜物を持った渡り鳥
[17ページの図版]
空調のきいた快適なシロアリの家
投票に行くハチ
-
-
それは事実か目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
それは事実か
科学的方法は何を明らかにしているか
そう断定する進化論者は少なくないが,合理的疑いを差しはさむ余地はないのか
進化は科学の事実でしょうか。スミソニアン研究所の科学者ポーター・キールはそう断定しています。米国科学振興協会の昨年の総会で,キールはこう述べました。「世界各地の博物館には化石が1億個もあり,それらはいずれも分類され,種別が同定されている。進化を裏付ける1億個の事実である」。これらの化石が進化論に必要な過渡的段階の化石でないことは一般にも認められており,1億個の化石が,進化を証明する1億の事実をどう成しているのかは,少しも定かではありません。進化論者は詳細な事柄について議論するかもしれないが,「進化論が事実であり,それを事実と呼ぶべきであることについては意見の一致をみている」ともキールは語っています。
有名な進化論者テオドシウス・ドブジャンスキーはこれほど独断的ではありません。「進化」と題する本の中で,ドブジャンスキーとその共同研究者たちは,これを仮説もしくは理論と述べ,さらに,「科学の仮説は,その真実性を最終的に確立することが決してできないので,一時的に受け入れられるに過ぎない」点を認めています。同氏はまた,カール・ポッパー博士の意見を権威ある論拠として引用して,「少なくとも原則的には,経験(実験)により誤りが立証される可能性のない仮説は科学の分野に属するものではない」とも述べています。ハーバード大学のスティーブン・ジェイ・グールドもポッパーの言葉を引用し,「一連の思考で,原則的にその誤りを立証できないものは,科学ではない」と語っています。
こうした主張はここの論議とどう関係しているのでしょうか。実は,グールドをはじめとする人々はこれを盾に,創造論を科学から除外し,それは科学の範ちゅうに含めるべきではないと語っています。創造論は検証不可能,つまり科学的な実験によってその誤りを立証することが不可能であると言うのです。創造説の支持者は『神がそれをなさった』と言い,その真偽を立証する方法がないとされています。「“科学的創造説”という言葉は厳密には矛盾した表現である。なぜなら,その誤りを立証することは不可能だからである」とグールドは語っています。その一方で,グールドは,進化は事実であると主張して譲りません。
ところが,興味深いことに,ポッパー博士はこの同じ判断規準を進化に適用し,こう述べています。「私は次の結論に至った。ダーウィン説は検証可能な科学理論ではなく,形而上学的研究の一つである」。この定義に基づけば,進化論は検証不可能であるゆえ,科学ではありません。進化論は観察することも,実験によって例証することもできず,独断的な主張だけに裏付けられています。それを科学的方法によって確証することは不可能です。科学的方法の研究で知られている同博士は,その科学的方法に基づいて,進化論には科学理論としての要件が欠けていることを見いだしました。それが科学ではなく,むしろ形而上学的研究と呼ぶ方がふさわしいことが分かったのです。
クーザンは科学的方法を定義し,科学的方法そのものとその価値についてこう述べています。「科学に関して最も重要なものは科学的方法である。科学的方法とは,系統立った思考の方法,証拠を集め,それを評価する方法,一定の状況のもとで生じる事柄を正確に予測できるようにするための実験法,自己の理論の誤りを突き止め,それを認識する方法,長い間受け入れられてきた考えの誤りを見付ける方法のことをいう。科学は絶えず変化してきたが,それは科学的方法によるところが大きい」―「病気の分析」,120,121ページ。
進化も創造も,過去に生じた,もしくは生じたとされる出来事を言い表わした言葉です。その場でそれを目撃した人間はいません。その様子を実験室で再現することもできません。進化と創造のどちらが正しいかを科学的な実験によって証明することはできないのです。この論法に基づけば,もし創造に関する聖書の記述を科学的でないとするなら,それと全く同様の根拠に基づいて,進化も科学的ではないと言わざるを得なくなります。
では,これほど大勢の科学者が進化を信じているのはなぜでしょうか。ポッパー博士は次のように書いています。「ダーウィン説がほとんどすべての人に受け入れられている理由は,適応形質説が説得力のある最初の無神論的理論であった点にある。この説は最終的な説明に到達したかの印象を与えていたため,その誤りを公に認めることよりも有神論の方が好ましくないとされていた」。進化論者のピーター・メダワーも,「生物学者にとって,進化論の用語による思考に代わるものとは何も考えないことである」と語っています。
科学者が進化論を受け入れているのは,多分に,それに代わるもの ― 有神論,つまり神に対する信仰を受け入れたくないためです。しかし,代わりのものが好ましくないからというだけの理由である理論を受け入れるのは科学的でしょうか。メダワーをはじめとする科学者の感情をひどく害していると思われるのは,神を創造者として認めるなら,その創造に関する驚嘆すべき新たな事実を見いだすとき,神に栄光を帰さねばならなくなることです。それは彼らの誇りが許さないほどのものなのでしょうか。無神論者オールダス・ハクスリーの次の言葉は別の可能性を示しています。「[聖書の]道徳律は性の自由を拘束するものであるため,我々はこれに反対した」。
進化は科学的事実でしょうか。いいえ。
検証可能な科学理論でしょうか。いいえ。
科学的方法にかなったものですか。いいえ。
進化論とは何なのでしょうか。なぜこれほど大勢の人が信じているのですか。
続く記事をお読みください。
[18ページの拡大文]
「ダーウィン説は検証可能な科学理論ではなく,形而上学的研究の一つである」
[19ページの囲み記事]
合理的疑いを差しはさむ理由があるか
アメーバが魚,魚がトカゲ,トカゲがコマドリやオオカミになったとする説に疑問を差しはさむのは道理にかなったことか
ドブジャンスキーの「進化」と題する本には,進化の真理は決して確証できないものと思われるが,それは「合理的疑いを差しはさむ余地のない強力な」仮説である,とされています。法律用語としての「合理的疑い」は,「生活上の重要かつ重大な事柄において理性と分別を働かせることのできる人が,説示されている[あるいは,主張されている]物事の真理に基づいて行動することを中断もしくは躊躇させるような疑い」と定義されています。ある裁判の判決は次のように述べています。「“合理的疑い”は,廉潔な人に,真実を求めて公正な調査を行ないたいという気持ちを抱かせるような疑いのことである」― ブラックの法律辞典,580ページ。
裁判の際,証拠の重大な点に合理的疑いがあるなら,有罪の判決は下されません。生命は偶然のいたずらで自然に発生したとする考えに疑問を差しはさむのは合理的なことでしょうか。アメーバが魚に,魚がトカゲに,トカゲがコマドリやオオカミになったという考えに疑問を差しはさむのは道理にかなっていますか。進化を疑うことは,合理的疑いでしょうか,それとも非合理的疑いでしょうか。
進化を信じている方は,他の人の前で面子を失う心配のない寝室でひとり鏡の前に立ち,こう自問してみてください。わたしはなぜ進化を信じているのだろうか。それを裏付ける証拠を挙げることができるだろうか。自分で納得がいくように証明できるだろうか。それとも,信じるべきであると人から言われたので信じているのだろうか。進化は本当に,「合理的疑いを差しはさむ余地のない強力」で,真実なものだろうか。
-
-
事実でなければ,それは何か目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
事実でなければ,それは何か
宗教的“信念”? 哲学?
進化は「著名な科学者からも疑問視されている」
『信じない者は,言われるままに行動する無責任かつ無知な者たちで,理性と能力に欠け,独断的で,昔の幻想に取り付かれ,偏見に満ちている』。指導的立場の進化論者は,進化を事実として受け入れない人々についてこう述べています。しかし,観察と実験による証拠に裏打ちされた,冷静で論理的な科学的推論には,こうした口汚い個人攻撃に訴える必要はありません。
進化論者の立場は宗教的教条主義と似ています。群衆がイエスを受け入れているのを見た祭司長やパリサイ人は,役人を遣わしてイエスを捕らえさせようとしました。その結果についてこう記されています。「[イエス]を捕らえるよう遣わされた神殿の警護員が祭司長やパリサイ人たちのところに戻って来た。『どうしてあの男を連れて来なかったのか』と彼らは問いただした。彼らは口ごもりながら答えた。『あの人はとてもすばらしいことを話すのです。あのようなことは聞いたためしがありません』。パリサイ人たちはあざ笑って言った。『お前たちも惑わされたな。あの男をメシヤであると信じている者が我々ユダヤ人の支配者やパリサイ人の中に一人でもいるか。この愚かな群衆どもは信じているが,彼らが何を知っているというのだ。のろわれた者たちめが』」― ヨハネ 7:32,45-49,リビング・バイブル[英語版]。
祭司長やパリサイ人たちは間違っていました。支配者の多くがイエスの教えの影響を受け,祭司の中にさえイエスの追随者になる人がいました。(ヨハネ 12:42。使徒 6:7; 15:5)誤りを証明できなかったパリサイ人は,集団として権威のかさを振りかざす挙に出ました。今日の進化論者も同様に,『愚かな群衆に何が分かるか。著名な科学者はみな進化を受け入れているのだ』と言います。しかし,ディスカバー誌はこう伝えました。「神聖視されてきたその理論は,キリスト教の根本主義者から攻撃されているだけでなく,著名な科学者からも疑問視されている」― 1980年10月号。
ギブソンは,サイエンス誌の中で,ガリレオは「人間の権威に基づくいかなる独断的主張にも激しい敵意を」抱いていた,と書きました。この知的忠誠心によってガリレオは異端審問にかけられたのです。しかし,こうした忠誠心は「現在では余りもてはやされていない。力を増した科学界がガリレオの時代の教会と似た行動を取るというのが現在の一般的傾向である」とギブソンは主張しています。現代科学はその力と名声を当時のカトリック教会よりも好ましい仕方で用いているでしょうか。アインシュタインはかつて,我々は自分たちが考えているほどガリレオの時代から遠く隔たってはいない,と語りました。―サイエンス誌,1964年9月18日号,1271-1276ページ。
ジャストローは「科学者の宗教的信念」に言及し,証拠が自分の信念に合致しない時にいら立ちを感じることを述べています。サリバンは自然発生に対する信念を「一種の信仰箇条」と呼び,ハクスリーは,それを「哲学的信念の表われ」と語りました。進化が地上のあらゆる生物を生み出したとする説を信じるのは「顕著な信仰上の行為」である,とサリバンは語っています。デュラント博士は次のことを指摘しています。「多くの科学者は独断的になるという誘惑に屈し,宣教師的熱情を持って新概念を受け入れる。……進化論の場合に,その宣教師的精神が顕著にみられるようである」。物理学者H・S・リプソンはこう語っています。ダーウィンの「進化論が一種の科学宗教となった[後],ほとんどすべての科学者がそれを受け入れるようになった。自分の観察結果を“ゆがめ”てそれに合うようにする者さえ少なくない」。
これを裏付けて,US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌(1981年3月2日号)は科学研究所内のスキャンダルを報じました。エール大学の一研究者は,「科学界のウォーターゲート事件だ」と言いました。同誌はその記事を次のように結んでいます。「ニューイングランド医学ジャーナル誌の編集長は,『それが衝撃的な事件である』ことを認め,こう語っている。『これはもう一つの誤った認識を打破するものである。誰もが粘土の足を持っており,科学研究者の一部でさえ例外ではない』」。進化論者は「同一のデータを正反対の理論の“証明”に用いることがあり」,それぞれの進化論者は「自分の理論に合わせてデータを解釈する」と,シンプソンは「進化の意味」の中で述べています。(137-9ページ)サリバンはこう語りました。科学者は「専門の科学に関する事柄についてさえ,常に真実を語るわけでも,そうしようとするのでも[ない]。科学者が偽りを語ったことはこれまでに明らかになっているが,彼らは科学のためにそうしたのではなく,大抵は宗教的もしくは反宗教的偏見ゆえにそうしている」―「科学の限界」,173-5ページ。
感情に基づく信念を強化する知識を集める際,真理に対する当初の探求心がしばしば忘れ去られてしまいます。これは科学上の独断的な主張にも,宗教的信条についても言えます。進化論は,人間を月に送り込んだり遺伝暗号<コード>を解読したりするような科学とは違い,むしろ宗教に似ています。僧職者にも似た権威者たちが,権威の座から宗派的愚論を展開し,不可解な奥義を語り,失われた鎖の環や確認できない突然変異に信仰を置いています。また,自分たちの信条に合致するよう証拠を曲解し,信じない人々を愚か者と決めつけ,平信徒のような一般の人々はその教えに盲従しています。その神ですか。それは古代の人々が犠牲をささげたのと同じ神で,彼らは「幸運の神のために食卓を」調えています。―イザヤ 65:11,新。
アンデルセンの有名な裸の王様の童話では,子供が王様に裸であることを告げています。進化は今や,事実としての装いを完全に身に着けているかのように誇らしげに歩いています。現実には裸であるということを告げる子供のような正直さが必要です。リプソン教授のような勇気のある科学者が必要なのです。同教授はこう語りました。「我々はさらに進んで,創造こそ納得のいく唯一の説明であることを認めるべきである。これが物理学者にとって受け入れ難いものであることはよく分かっている。実際,わたしにとってもそうである。だが,実験による証拠に裏付けられている限り,気に入らないからといってその理論を退けるべきではない」。
創造説を信じるどんな証拠がりますか。それについては,次の記事をお読みください。
[21ページの囲み記事]
進化論者が振りかざす“権威のかさ”
「[ダーウィン]がその理論を完成させるに及び,理性を捨て去らない限り進化の事実は否定できないものとなった」― ライフ自然双書,「進化」,10ページ。
「進化を信じるかどうかは個人の好みの問題ではない。進化を裏付ける証拠は歴然としている」― ドブジャンスキー著,「進化と遺伝子と人間」,319ページ。
「その本質的真理は今や科学者によって例外なく受け入れられており,そう判断すべき正当な根拠がある」― ハーディン著,「自然と人間の運命」,5ページ。
「進化過程に基づく生物の系図が確立されたものであることは,今や信頼できる科学者によって例外なく認められている」― キャリントン著,「地史研究入門」,82ページ。
「今日の知識人で,人間が魚やカエルの世界から多くの時間をかけて派生してきたことを否定する者は一人もいない」― ライフ誌,1966年8月26日号,アードレイ。
「それはほぼ自明の真理となっており,昔の幻想や偏見にとらわれない理性的な人には,それ以上の証拠は必要ではない」― シンプソン著,「進化の意味」,338ページ。
「これに対抗する仮説は特殊創造説以外にはないが,この説は時代遅れで,完全に論破できる。これは今では,無知な者,独断的な者,偏見に満ちた者の支持しか得ていない」― ニューマン著,「一般動物学概説」,407ページ。
-
-
事実に合致するのはどちらか目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
事実に合致するのはどちらか
読んだ上で読者がご自分で判断してください
知識が増すにつれ,進化論は後退する
古代エジプト人はスカラベという甲虫が地中から突然現われるのを見て,この虫は独りでに生まれるのだと考えました。しかし実際には,雌の虫がだんご状の糞に卵を産み付けて,それを地中に埋め,その後にスカラベが姿を現わしたのです。これは自然発生でしょうか。西暦前5世紀のギリシャの哲学者アナクサゴラスとエンペドクレスはそう説いています。次の世紀のアリストテレスは,ミミズやカタツムリは腐敗作用の結果生じると考えました。17世紀に至ってさえ,フランシス・ベーコンやウィリアム・ハービーといった科学者は自然発生説を教えていました。
知識が深まるにつれ,このすべては変更を余儀なくされました。同じ17世紀に,レーディはハエが肉に卵を産み付けた後でなければ肉にウジがわかないことを示しました。バクテリアが発見され,これこそ生命の自然発生の例であるとして大きな注目を集めましたが,1世紀後にスパランツァーニがその風船に針を刺しました。次の世紀には,パスツールが,「生命は生命からのみ生じる」ことを明らかにしました。今ではこれは原理となっています。ダーウィンでさえ,「種の起源」の結びで次のように述べて,これを認めました。「創造者が息を吹き入れられてごくわずかな,もしくは一つの形態の生物ができ」,そこから生命が始まった。―メントール版,450ページ。
創造説は「生命は生命からのみ生じる」という事実と合致します。エホバ神について,『命の泉はあなたと共にある』と記されています。―詩 36:9,新。
次に,化石も創造説を支持しています。シンプソンは,「進化の意味」の中で次のように書いています。「5億年ほど前のカンブリア紀前期にできた岩石には化石が多数見られる。カンブリア紀初期以降のほぼ全時代の岩石にも化石が豊富に含まれており,そうした岩石は地上のあちこちにある。ところが,カンブリア紀以前の15億年という長い期間にわたり,岩石には概して化石がほとんど見られず,化石とされるものも疑わしく,論議を呼んでいるのが普通である」。動物分類上の大区分である門のうち,脊椎動物門を除くすべての門の動物の化石が化石の記録に突然出現することを,シンプソンは,「生命の歴史における一大ミステリー」と呼びました。―16-19ページ。
ハーバード大学のローマー教授は,このミステリーについてダーウィンが述べた,「私には満足のいく答えを与えることができない」という言葉を引用し,次いで,「今日の我々にもそれはできない」と述べました。ローマー教授がさらに次のように述べているのは重要なことです。「一般的状況はカンブリア紀の初めに特別の創造がなされたとする考えと調和しているとする方が理にかなっている」。しかし,カンブリア紀以降に化石の記録が多数残っていることは脊椎動物,すなわち背骨のある生物の始まりを示しているのではありませんか。そう言うことはできません。動物学の教授ゴールドシュミットは,「進化の物質的基盤」と題する本の中でこう述べました。「高等な種属については言うに及ばず,事実は個々の種の起源に関するいかなる情報も与えてくれていない」。(165ページ)今日の化石の専門家の間でも,このことは事実として広く認められています。
興味深いことに,進化論者たちは,創造説を強く否定してはいるものの,化石の記録が進化論よりも創造説の方とよく合う点に気付いています。何年か前,数人の進化論者は次のように語りました。「古生物学を研究すればするほど,進化論が信仰だけに基づくものであることを強く感じる。その信仰とは,宗教上の偉大な奥義に接する際求められるものと全く同じ種類の信仰である。……これに代わる唯一の学説は特殊創造説であり,これは真実であるかもしれないが,合理性を欠いている」。(L・T・モア)「進化論が動物学者によって受け入れられているのは,それが……論理的かつ首尾一貫した証拠によって証明できるからではなく,それに代わる唯一のもの,つまり特殊創造説が明らかに信じ難いものであるためである」。(D・ワトソン)「進化論は証明されてもいないし,証明可能なものでもない。我々が進化を信じているのは,それに代わる唯一のものが特殊創造説であり,それはとうてい考えられないからに過ぎない」― アーサー・ケイス卿。
今日でも,創造説の方が事実に合致していることを認めている人がいます。ケンブリッジ大学の植物学者で進化論者でもあるJ・H・コーナーはこう述べました。「偏見を交えずに言えば,化石に残る植物の記録は特殊創造説を支持しているものと思う」。(「現代植物学思潮」,1961年,97ページ)1980年5月号の物理学会会報の中で,リプソン教授は不本意ながらもこう語りました。「我々はこれから一歩踏み出し,納得のいく唯一の説明は創造説であることを認めるべきである」。
化石の記録は進化論を支持してはいません。事実に合致しているのは創造説の方です。
突然変異でさえ進化を説明するものとはなりません。突然変異は遺伝物質に生じる変化で,生物に新たな遺伝特質を賦与します。小さな変異の大半は有害であり,大きな変異は奇形体を生み出したり死をもたらしたりします。突然変異は生物の退化を促進し,様々な病気や奇形の原因になっているものと考えられています。それでも,進化論者たちは,進化の仕組みを説明するものとして突然変異に希望を置いています。しかし,突然変異では新たな種属を造り出すのに十分でないことが明らかになっています。進化論者であるベンゲルスドルフはこう語りました。「遺伝子の根本的変化を含む突然変異は二人の人物の間の相違を説明するものである。……しかし,様々な理由から,それは進化全体 ― 魚類,爬虫類,鳥類,哺乳類が存在する理由を説明するものではない」。
創造説を主張する人々は,創世記 1章で言われている種の範囲内で様々な変化の見られることを常に認めてきました。その変化の程度については,1980年11月21日号のサイエンス誌上でも次のように明示されています。「種には身体的特徴その他の面で軽微な変異を生ずる可能性が確かに備わっている。しかし,それは限定されたものであり,長期的観点に立つと,ある中心の前後を揺れ動いていることになる」。遺伝学者たちは,短期間に世代が交代する生物におびただしい数の突然変異を生じさせて,この点を実験によって証明しました。「数日で次の世代の卵を産むミバエの進化を40年にわたって人為的に操作したところ,様々な奇怪な変異が認められたが,ミバエはあくまでもミバエであった」と報告されています。
進化論者によると,化石の記録は幾百万年もの間に幾つもの新しい種が生み出されたことを示しているとされています。観察と実験によれば,突然変異は種の変化をもたらしません。創世記 1章12,21,24節(新)には生物が「その種類にしたがって」産み出されることが述べられており,これは科学の事実と合致します。
最後に,越え難い隔たりの存在があります。人間に最も近いと進化論者が考えている動物と人間との間には実に大きな溝があります。ドブジャンスキーは次のように語っています。「比較的最近の歴史でさえ不確かなところだらけであり,権威者たちは基本的な事柄と詳細な点の双方においてしばしば相矛盾する見解を表明している」。(「進化する人類」,168ページ)人類学者は,骨や歯の破片を見付けると,興奮してそれを自分の功績にします。ところが,同様の他の破片が見付かると,失われた鎖の環であるとされていた以前のものを捨て去り,新たに発見された破片をこれこそ猿人とヒトの間の失われた鎖の環であると主張します。そして,自分の発見したものこそ真の環であると主張する他の進化論者と議論を闘わせます。
人間に備わっている能力,すなわち言語能力,論理的思考力,独創力,音楽や芸術の才能,現在・過去・未来を意識する力,人生における達成感や意義,目的を望む気持,公正・親切・思いやり・愛といった特質を発揮する能力 ― こうしたものが人間と動物の間に大きな隔たりをもたらしています。それを進化によって説明することはできません。これは,人間が『神の像と様』に創造されたからにほかなりません。(創世 1:26,27,新)ここでも事実にかなっているのは創造説の方です。
ついでながら,神は人間を創造されたが,進化過程を用いてそのようにされた,と主張して進化論を受け入れる現代主義の宗教家が少なくありません。創世記の記録はそうした考えを排除しています。創造者は何かの動物から人間を進化させたのではありません。「エホバ神は地面の塵で人を形造(られた)」のです。―創世 2:7,新。
生命の起源は創造を支持し,化石も創造を支持し,突然変異も創造を支持しています。人間及びそれと最も近縁の動物とされているものの間の大きな隔たりも,創造を支持しています。科学の事実に合っているのは進化ではなく創造です。
[24ページの拡大文]
「偏見を交えずに言えば,化石に残る植物の記録は特殊な創造説を支持している」
[23ページの囲み記事]
創造の日の長さ
進化論者は自分たちの理論を幾十億年という長い期間によってつかみどころのないものとする一方,六日に及ぶ聖書の創造の「日」をしばしば嘲笑してきました。しかし,興味深いことに,聖書はこれらの日が24時間の1日ではなかったことを示しています。創世記の1章と2章で「日」と訳されているヘブライ語“ヨーム”には次のような様々な意味があります。
1. 昼間の光のある間。―箴 4:18。
2. 昼と夜を合わせた24時間。―創世 7:17。
3. 特定の出来事によって特徴付けられるある期間。ウィリアム・ウィルソンの「旧約聖書語彙研究」には,この語が次のように定義されています。「日: この語はしばしば,一般的意味での時,長い期間,考慮中の全期間を表わすのに用いられる。……日という語はまた,何かの特別な出来事が生じる特定の時節や時を表わすのにも用いられる」― 109ページ。
3に該当する聖書中の例:
「日」には夏や冬といった季節の移り変わりの含まれることがある。―ゼカリヤ 14:8。
単数形で表わされている「日」は後に何日もの日であることが示されている。―エゼキエル 38:14,16。箴 25:13と創世 30:14とを比較。いずれも英文新世界訳。
千年は一日に,また4時間にわたる一夜警時になぞらえられている。「千年もあなたの目には……昨日のことのようであり,夜警の一時のようなもの……です」― 詩 90:4,新。ペテロ第二 3:8,10も参照。
『救いの日』は幾千年もの期間に及ぶ。―イザヤ 49:8。
「裁きの日」は幾年にもわたる。―マタイ 10:15; 11:22-24。
人の生涯はその人の日として言及されている。「ノアの日」,「ロトの日」。今でも「わたしの父の日」にはと言うようなことがある。その日をさらに区分して,「人生のあけぼの」とか「人生のたそがれ」と言うこともある。―ルカ 17:26,28,文語。
創造の日:
創世記の創造の日が24時間の日ではないことはどのように分かるのでしょうか。それは,次の創世記 2章4節(新)にあるように,創造の六日すべてが一日と呼ばれているからです。「これは,天と地が創造されたとき[六日],エホバ神が地と天を造られた日[一日]におけるその歴史である」。さらに,創造の週の第七日はエホバの休みの日,つまり地的な創造の業を休まれる安息日とされていますが,聖書はそれが今でも続いていることを示しています。―ヘブライ 4:3-11。
創造の六日間は特定の業が成し遂げられる期間を表わしていました。「日」と訳されるヘブライ語“ヨーム”はこうした長い期間を表わすことがあるのです。―ニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会発行の「聖書理解の助け」(英文),1427ページをご覧ください。
-
-
科学の事柄に言及している場合,聖書は科学的に正確である目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
科学の事柄に言及している場合,聖書は科学的に正確である
「初めに神は天と地を創造された」― 創世 1:1,新。「神と天文学者」と題する本の14ページには次のように記されています。「天文学上の証拠から,我々は世界の起源に関する聖書の見解に達することが理解されるようになった」。
「主は……地を無の上に掛けておられる」― ヨブ 26:7,新。エジプト人は地は柱によって支えられていると言い,ギリシャ人はアトラスが支えていると言いました。宇宙の海を泳ぐカメの背にゾウが立っていて,そのゾウが地を支えていると言う者もいました。しかし,西暦前15世紀に書かれたヨブ記の記述は科学的に正確なものでした。
西暦前8世紀にイザヤは,エホバが『地の円の上に住んでおられる』と書きました。「円」と訳されているヘブライ語“フーグ”には,デービッドソンの「コンコーダンス」やウィルソンの「旧約聖書語彙研究」が示しているように,「球」という意味もあります。そのため,モファット訳のイザヤ書 40章22節は次のようになっています。「主は丸い地の上に座られる」。
「星は他の星と栄光の点で異なります」と聖書は述べています。青い星,黄色い星,白色矮星など,様々な色彩の星のあることが,今や科学によって明らかにされています。―コリント第一 15:41。
動物学者が鳥の渡りに気付く幾世紀も前に,エレミヤは次のように書きました。(西暦前7世紀)「空のコウノトリは渡りをする時を知り,ハトとアマツバメとアリスイは戻って来る時節を知っている」― エレミヤ 8:7,新英語聖書。
西暦前1000年ごろに,ソロモンは象徴的な言葉で血液の循環について書きました。(伝道 12:6)医学界は,西暦15世紀にハービー博士が研究を行なうまで,これを理解していませんでした。
モーセの律法の規定(西暦前16世紀)は,パスツールが病原菌を発見するより幾千年も前に,病原菌の存在が知られていたことを示しています。その律法には接触伝染を防ぐ条項が含まれていました。―レビ記 13,14章。
医学は1907年に,ネズミが流行病を引き起こす事実を突き止めました。病気の流行と関連して,サムエル前書 6章5節には「地を荒らしているネズミ」のことが言及されています。(新英語聖書)これは西暦前11世紀のことでした。
それぞれの種属が「その種類にしたがって」繁殖するという創世記の創造の記録は生物学の面からも正確であり,それは化石の記録と現代遺伝学によって証明されています。―創世 1:12,21,25,新。
「怠惰な者よ,ありのところへ行け。……[ありは]収穫の時にもその食糧を集めた」。(箴 6:6-8,新)アリはそのようなことをしないと言って冷笑する人たちがいましたが,1871年に英国の一動物学者が,巣の中に貯蔵庫を作るアリを発見しました。このアリは収穫アリと呼ばれています。聖書は西暦前幾世紀もの昔からそのアリのことを知っていました。
人間の受精した卵細胞にある遺伝子の青写真には,その受精卵の存在がまだ人に気付かれない前でさえ,体の各部のプログラムがすべて収められています。次の詩篇 139篇16節(新)と読み比べてください。「あなた[エホバ]の目は胎児のときのわたしをもご覧になりました。あなたの書にそのすべての部分が書き記されていました。それが形造られた日々について,しかも,そのうちの一つもまだなかったにもかかわらず」。
-
-
求められる選択: 何もない将来か,輝かしい将来か目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
求められる選択: 何もない将来か,輝かしい将来か
選択する前に,まず情報を得てください
多くの人が直視しようとしない現実: 神に希望を置くか,一切の希望を捨てるか
膨張を続ける宇宙はやがてエネルギーを使い果たし,暗やみに包まれ,すべての生命が死に絶える,と科学者たちは予告しています。宇宙は収縮してつぶれ,生命は全く存在しなくなる,と予告する科学者もいます。科学者のピーコックは次のように語っています。「このように,科学は『希望に関する究極の疑問』に答えを与えることができない。人間の命をやがて必ずぬぐい取ってしまうその宇宙における人間の生命の究極の意義に関して[科学]は疑問を生じさせる」。
わたしたちが今いるのは進化によるとして,神と聖書,及び道徳面の制約を捨て去るなら,人生で得られるはずの目的や意義もすべて捨て去ることになります。人間は,アリやゾウ,ミミズやヒメシバ,ゴキブリやネコの兄弟になります。アリや雑草のヒメシバがどれほど重要でしょうか。人間がどれほど重要だと言うのですか。
人間からその存在の意義を奪ってきた進化論者たちは,人々にそれを与えなければならないと感じています。彼らの本の多くは,人間の持つ栄光について確信に欠ける短い文を結びに載せ,我々は今,進化のはしごの一段階にいるという栄光に浴しており,幾百万年か後に人間の子孫はやがて威光の極みに達する,と論じています。
進化論者のむなしい哲学的思索
ミリカン教授は,進化の階段を上へ上へと進む人間が経験する「すばらしい感動」について大げさに語っています。遺伝学者マラーは,人類を脅かしている突然変異,つまり生物学上のハルマゲドンの前に弱気になってはいますが,そうした突然変異によって人間は「夢にみたこともない高み」へ進化するようになると考えています。論より証拠ということわざがありますが,マラー自身は自分の身に突然変異を引き起こしてそれを経験してみようとはしません。ドブジャンスキーは,進化を目ざす人間の努力は人生に希望と威厳と意義を付与すると語り,こう結んでいます。「それゆえ,もう一度述べることにしよう。進化は希望を与えてくれる」。
こうしたむなしい話はだれにも慰めを与えません。「科学の限界」の中で,サリバンはこう述べています。「我々の宗教的衝動は,人生には高尚な意義があるという信念なくしては決して満たされない」。(149,150ページ)人間の行き着くところが永遠の忘却であるなら,本当に重要なものは何もありません。わたしたちの栄光ある子孫とされる者が幾百万年後に迎える結末がそれと同じであるなら,その存在は無意味なものです。むなしい哲学的思索によって,進化論者は,人間に生来備わっている,神を必要とする気持ちをなんとか満たそうとしています。宗教的な支えを自ら捨て去り,それに代わる新たな松葉杖を作っています。進化論者は次の現実を直視するのを拒んでいます。つまり,神に希望を置くか,一切の希望を捨て去るかのどちらかしかないのです。
聖書の差し伸べる希望
一方,神からの希望とはどのようなものでしょうか。神は地球を永久に存続するもの,永久のパラダイス,従順な人間が永久に住まう所とされました。(伝道 1:4。イザヤ 45:18)人間は,立派な時計や美しい建物,見事な庭園を壊すためだけに作るようなことをしません。地球とその上のあらゆる生物を創造されたエホバ神の目的も決してついえることはありません。神はこう語っておられます。「わたしは意図した。それゆえわたしは行なう」― イザヤ 46:11,アメリカ訳。
神が地球に関心を抱いておられることは,地を汚している者たちに対する神の布告,すなわち「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」というその言葉に示されています。(啓示 11:18)キリスト・イエスの下にある神の王国は啓示 21章3,4節に描かれている次のような状態をもたらします。「見よ! 神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住(む)……また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。
進化論の差し伸べる「希望」は希望ではありません。それは永遠の忘却に過ぎません。聖書の差し伸べる希望はパラダイスの地における永遠の生命という輝かしい将来です。わたしたち一人一人が自分でそのどちらかを選びます。選択する前に,十分な情報を得るようになさってください。
-
-
現在の問題: 科学の授業で創造説にも進化論と同程度の時間を割くべきか目ざめよ! 1981 | 12月22日
-
-
現在の問題: 科学の授業で創造説にも進化論と同程度の時間を割くべきか
聖書の見方
宗派の間にさえ意見の一致は見られない
米国の根本主義のクリスチャンたちは,公立学校の科学の授業で,進化論と共に“科学的創造説”を教えるべきであるという運動を展開しています。ある報告では,すでに40の州議会でこれを要求する法案の審議がなされたとされています。アーカンソー州では,こうした主旨の法律が制定されました。この問題は法廷でも審理されており,教科書が改訂されたところもあります。カナダでもこの問題は論議を呼んでいます。
クリスチャンの親の中には,自分たちの子供が攻撃にさらされていると感じている人が少なからずいます。攻撃の目標になっているのは子供たちの信仰であり,戦場は教室です。敵は進化論者で,攻撃の武器は科学ならぬ単なる主張です。脅しと洗脳がその戦術として用いられており,結果として価値感の崩壊といった事態が生じています。
進化論者はこうした主張に異議を唱えており,特に最後の点に強く反ぱつしています。しかし,歴史家H・G・ウェルズはそうした態度を取っていません。その著書,「歴史概説」の956,957ページの中で,ウェルズはダーウィンの著わした「種の起源」に言及し,次のように語りました。「その結果,本格的な風紀のびん乱が生じた。……1859年以降,信仰の喪失が大規模に見られた。すり切れた財布の中から,長い間その中に蓄えられていた宗教という価値ある金貨が多くの場合に捨て去られ,二度と戻ることはなかった」。
とどまる所を知らない道徳の崩壊
今日,道徳の崩壊は実にはなはだしく,しかもそれは日に日に深刻の度を深めています。婚前交渉,未婚女性の妊娠,堕胎による産児調節,同性愛など,あらゆるものが認められています。自分の目に正しいと思うことを何でも行なうがよいでしょう。しかし,「ある人が正しいと考える道で,その終わりが死に至るものがある」のです。―箴 16:25,エルサレム聖書。
教室で進化論を教える問題に関する各宗派の見解は同じではありません。教えるべきだと言う人もいれば,そうすべきではないと言う人もいます。同一の教会組織内で意見が分かれていることも少なくありません。反対する人は,それは政教分離の原則に反すると主張し,賛成する人は,不敬な進化論を教えることに自分たちの納めた税金が使われていると抗議します。これは政治問題になっています。
エホバの証人はこれについてどのような見方をしているでしょうか。証人たちは世の政治に関与せず,人類の前に現在立ちはだかっているおびただしい問題すべての解決策として,キリストの下に建てられるエホバの王国を望み見ています。(ヨハネ 18:36)証人たちは神の王国を唯一の希望として忙しく宣べ伝えており,宣べ伝えている音信には創世記の創造の記録も含まれています。
エホバの証人の代表者たちが教室に招かれ,その組織について説明するよう求められることがよくあります。その話には創造に関する事柄も含まれています。一部の教師は教室での討議に,「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」と題する出版物を用いることさえあります。
親が自分の子供に教える
教師が進化論について話をする際,エホバの証人の子供はしばしば創造について論じます。彼らがこのようにできるのは,家庭でこの問題について教えられているからにほかなりません。エホバの証人の親は,子供に生命の起源について教えることを,世俗の教師や日曜学校の教師に任せるのではなく,自分たちで行なっています。
このように,エホバの証人は,親に課せられている次のような聖書の要求を正しく果たしています。「父たちよ,あなたがたの子どもをいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」。「あなたはそれを自分の子に教え込み,家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときもそれについて話さねばならない」。―エフェソス 6:4。申命 6:6,7,新。
エホバの証人とその子供たちは,進化論という哲学を少しも信じてはおらず,エホバが『天と地の創造者,すべての民に命を与える方』であることを認めています。―イザヤ 42:5,新。
-