-
進化論には何が起きているか目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
進化論には何が起きているか
進化論が再び世の注目を集めています。しかしそれは,多くの人の予期しなかったかたちで起きています。
何が起きているのですか。次のことです。すなわち,進化論が,数年前にはとうてい考えられなかったような規模で挑戦を受けているのです。そして,科学界から加えられる攻撃の強さと質が,科学は人間の起源に関する問題にずっと以前に決着をつけたと考えてきた多くの人を驚かせています。
しかし,人間がどのようにして今日ここにあるのかという問題が,わたしたちにどのような変化をきたすのでしょうか。では,あなたは学校に通うかたですか。そうであれば,あなたの学校でも,ほかのほとんどすべてのところと同じように,進化論が教えられていることでしょう。この進化の教えは,文学・医学・歴史学・哲学,そして宗教にさえ,そうです,ほとんどすべての分野に非常に大きな影響を与えています。進化論が誤りであるとすれば,あなたが教えられている事の多くは誤った前提に基づいていることになります。
親の立場にいるかたでしたら,ご家族の将来が幸福なものであるようにと願っておられるでしょう。進化論はどのようなものを与えていますか。暴虐の世界での幾年かの命がすべてであるなら,うそをついたり,盗んだり,淫行をしたり,だましたりすることがどうしていけないのだろうか,とお子さんたちは考えることでしょう。“適者は生存し,弱者は淘汰される”というのはこうしたことではありませんか。あなたにとっても,進化の教えに関する事実を知ることは賢明です。
あなたは神への信仰を持つかたですか。しかし,進化論と聖書の両方を信じることはできません。聖書は,神が人間を他の生物とは別に創造したと述べているのに対し,進化論はそれを否定しているからです。いずれか一方は誤りです。
あなたが進化論に従いつづけるなら,それはあなた個人の将来に何を差し伸べますか。ただ,死にほかなりません。しかし聖書は,神がこの邪悪な事物の体制全体をこの時代のうちに終わらせ,平和な新秩序をもたらすことを約束しています。(詩 37:11,29)その新秩序においては,もはや悲しみも,病気も,苦痛も,死もない,と聖書は述べています。(啓示 21:4)十分に調べずに進化論に固執し,こうした見込みを全く退けてしまうのは分別のあることですか。
ここに述べたとおり,進化論の前に提出されている挑戦は,科学と道徳の両面からのものです。そして,神が存在され,まもなくその行動を起こされるとすれば,進化論とそれを信じる人々とは,神とまともに衝突することになります。
-
-
しだいに強まる挑戦目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
しだいに強まる挑戦
進化論に関することが最近とくに取り上げられているのはなぜですか。一つには,それに対する科学面からの挑戦がしだいに大きくなっているからです。
情報に通じていないほんの少数の“宗教的な熱狂者”がこの理念を退けているのではありません。進化論は今,情報に十分に通じた多くの知識人からの挑戦を受けているのです。科学者,教育者,また他の分野の有能な人々が,進化論に対して異論を唱えています。
また,最近の科学関係の文書の中では,進化論者自身で今日の進化理論に対するまじめで真剣な批判をする人の多いことが注目されます。そうした人たちのことばは多くの点を明らかにしています。
科学者たちの語ること
「人間と時間と化石」という本の中で,進化論者R・ムーアはこう述べています。「1950年以来の科学上の証拠は,一つの必然的な結論を提示する。つまり,人間は,ダーウインや現代の進化論者たちが想定したような方法や時間的過程で進化してきたのではない,という点である」。
他の進化論者たちもこれに同意しています。1971年,カリフォルニア大学の遺伝学の教授であり,進化論者のひとりであるG・L・ステビンズは,次のように述べて,それら進化論者たちの一般的な態度を反映しました。「人間の進化に関して1950年以前に書かれたものはみなすでに時代遅れとなっており,そうでないものもまもなくそうなるであろう」。
こうして,1972年までに,進化論者たちの間では,人間の起源に関するさらに新しい説明がなされるようになりました。進化論者たちは以前の理念のうちその多くの部分を放棄し,こうして得た新しい説明こそ“事実”であると確信しました。ところが,そうした新しい理念がまだ十分に浸透しないうちに,その新しい理念に対しても疑問が投げかけられるようになりました。1972年の後半に明るみに出た証拠のために,その理論の一つの面が特に激しくゆさぶられるようになりました。
同年11月に出た多くの新聞報道の数例に注目してください。「昨日の発表の結果として,人間進化に関する物語の大きな部分が書き改められねばならないことになろう」。(ロンドン・タイムズ)「人間の進化に関する現在の理論は混乱の中に投ぜられたことになる」。(英国のガーディアン紙)「わずか数個の古代の頭がいの上に立つ従来の人間進化の理論は容易に覆されるであろう」。(ニューヨーク・デーリー・ニューズ)そして,ロンドンのデーリー・メール紙は,最近の証拠によって「ダーウインが人間は類人猿の子孫であると言って以来最大の混乱が科学界に起きるかもしれない」と言明しました。
「アメリカ人の生物教師」と題する雑誌は,次のように伝えました。「著名な科学者で,この理論に対して,知識に基づく警戒から,疑念,さらにはあからさまな反対に至るまでの見解を表明する人たちが多くいる」。英国の科学雑誌「ニュー・サイエンティスト」はこう述べています。「人間の進化を理解することは特に難しくなっている……われわれの理論構成を空想の領域から引き出すには,進化のしくみやその時間的過程に関するわれわれの知識があまりに乏しく,化石証拠も十分ではない」。
また,英国の医学雑誌「オン・コール」は次のように報じました。「基礎生物学の学徒が持つ証拠は進化論を支持していない……そして,第一線の科学者たちはそれを退けていることが知られている以上,それを事実として提出する一般の風潮は弁護できない」。そして,米国ミシガン州立大学のジョン・ムーア教授は,「今日の知識から見る場合,従来の典型的な進化論的説明は意味をなさない」と語りました。
他の研究者たちはなんと述べているか
他の分野の人々も,現実の証拠を研究した結果として,同様の見解を言い表わしています。歴史家アーノルド・トインビーはこう語ります。「わたしは,ダーウイン流の進化説が,宇宙の生成に関する選択的な説明として明確なものを与えたとは考えない」。
ハーバード大学で学んだ法律家ノーマン・マクベスは,多年にわたる慎重で公正な調査ののち,自分の見いだした事がらを,「ダーウイン再考」(1971年)と題する書物にまとめました。同書の出版者はその本について次のように注解しています。「この本は,全く新たな態度で考え直すべきであるが,現状では,現在の理論とそれほど変わらないものしか考え出せないことを示している」。
マクベスは進化の証拠とされているものがきわめて薄弱なものであることを知り,指導的な進化論者の記した,進化論に関する代表的な本を読んだのちに,「仮にわたしがこの人と法廷で戦うとすれば,わたしは彼の訴えを打ち負かすことができよう」と語りました。他方,進化論に関する「目ざめよ!」誌の特集号を読んだ彼は,それが確かな根拠に基づいており,科学的に正確であることを知りました。そのため彼は,進化論を否定する者は「科学的な証拠に無知である」といった見方を押し通すことのないように,と進化論者たちに警告のことばを述べました。マクベスは創造論者ではありませんが,さらにこう述べています。
「古典的なダーウイン説の個々の部分を調べた結果,わたしは,それらがすべて悲しくも腐朽していると判断した。……腐朽した各部分を集めても健全な総体は決してできないから,その理論全体もまた腐朽しているに違いない……
「わたしとしても,しっかりした説明であるかぎり,それに異議を唱えるつもりはない。しかし,残念なことに,進化論の分野では,たいていの説明がそれほど確かなものではない。実際のところ,それらは説明としての資格をほとんど持たないものである。それらはむしろ,暗示,感,幻想的な夢などであり,学説と呼ばれる価値のほとんどないものである。……
「これは決してこじつけではない。この分野の当事者たちは,自らを当惑的な事態に立たせている。ジュリアン・ハックスリ卿がテレビの聴視者に向かって,『ダーウインの説に関してまず第一に述べるべきことは,それはもはや仮説ではなく事実である,という点だ』と述べている一方で,それとほとんど時を同じくして,メイル教授が,真剣な学生たちを前にして,『基礎となるべきこの説は多くの点でいまだに仮定の域を出ない』と語っているからである。
「ふたりの指導者の間のこうした大きな食い違いは……この学問の立場上マイナスである。一般の人々が,これは結局まやかしなのだと感じてもしかたがないからである」。
一辞書は「まやかし」ということばを,「それらしく見せかけたもの」と定義しています。そして,進化論の説明についてまさにそのように感じている人が多くなっています。
[5ページの図版]
強力な反論を呼ぶ進化論
1971年11月21日付 シアトル・タイムズ紙
染色体数からくる矛盾 ダーウィンは結局は誤っていたのか
1971年12月27日付 ワシントン・デーリー・ニューズ紙
進化ではなく神が人間を創造したと科学者たちは言う
1973年5月3日付,ペンシルバニア州イーストンのエキスプレス紙
これは,上記英文刊行物の記事を訳したものです
-
-
証拠を調べる目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
証拠を調べる
仮にあなたが法廷に立って審理を受けるとする場合,証拠の提出がただあなたの相手方だけに許されるとすれば,それは公正なことですか。そうではありません。おそらくあなたは,法廷があなたの側の言い分をも聞くことを願うでしょう。
これまで幾年もの間,大学,高等学校,そして小中学校においてさえ,また世界のたいていのところで発行されているおおかたの科学関係の書物の中でも,ただ進化論の側からだけ説明がなされてきました。しかし今,他の側の見解を聞こうという要望がしだいに広がっています。
道理にかなった判断
道理をわきまえた人ならだれでも認める点ですが,唯一の公正な方法は,物事の両面を見ること,つまり,問題とされる説に肯定的な証拠と否定的な証拠の両方を調べることです。こうしてはじめて,人は真理に到達することができます。
多くの科学者は今,進化論についてもこれを行なうべきことを認めています。そのことは,ダーウインの著名な書「種の起源」の特別版の前書きの中でさえ述べられました。「アメリカ人の生物教師」と題する雑誌はその点について次のような一文を載せました。
「ダーウインの『種の起源』の百年記念版の前書きを書くように選任されたW・H・トンプソンは次のように述べた。『われわれの知るとおり,生物学者の間には,進化の要因だけでなく,その現実の過程についてさえ,見解上の大きな相違がある。
「『そうした相違が存在するのは,提出されている証拠が不満足なものであり,なんら明確な結論の根拠とならないからである。したがって,直接科学に携わっていない一般公衆に対しても,進化論に伴う意見の不一致に注意を促すことが,適正かつ妥当なことと考える』」。
生物学関係の上記刊行物は,広く尊敬される科学者であるこのトンプソンのことばをさらに紹介しています。彼はこう語りました。
「しかし,進化論者たちの最近の幾つかの発言は,彼らがこれを無分別なことのように感じていることを示している。こうした事態,すなわち,[科学に携わる]人々が,科学的な厳密さをもって論証することはおろか,科学的に明示することさえできない教理の弁護のために大挙し,批判の抑圧と異論の排除という手段によって公衆に対する体面を保とうとしている事態は,異常であり,科学の見地から見ても好ましいことではない」。
批判を抑えておこうとする傾向に対しては,これを退けようとする人たちが多くなっています。そのことは,対立する見解に対しても学校において同等の扱いがなされるべきだという,多くの科学者・教育者・親たちの最近の要望の中に示されています。そうした人たちの考えは,ワシントン特別市のイブニング・スター・アンド・デーリー・ニューズ紙に載った一記事の中の,W・ウィルビーのことばに代表されています。
「聖書およびかなりの数の有能な科学者は,すべてのことが一つの方法[創造]によって起きたことをわたしに示している。ところが,可能なかぎり最良の教育を受けさせようとしてわたしがバージニア州に税金を払って学校に行かせているわたしの子どもたちは,それが別の方法[進化]によって起きたと教えられている……
「世界に公正な処置のあるべきところが存在するとすれば,それは科学の世界であるはずである。ところが,[一般の学校で広く用いられている生物関係の教科書]は,宇宙の起源における設計性を支持する論議を故意に排除している……
「ここでわたしが望むのは,人間の起源に関し,それぞれの側が提出できる最良の学識と研究に基づく説明を,なんら冷笑を加えることなく平衡の取れたかたちで児童や学生の前に提出することである」。
「知性上の不正」
こうした要望は,進化論以外の理念が学校用教科書に登場することを望まない多くの進化論者たちから強烈な反対を受けるのが普通です。しかし,物理学者L・ドルフィンはサンフランシスコのクロニクル紙にこう書きました。「教科書の中でこうした問題分野のあるものに答えず,科学的に根拠のある他の考え方を,それが基本的には宗教上の信念であるというだけの理由で排除してしまうのは,知性上の不正である」。
このように論議の多い問題に関して自分と対立する見解が表面に出ないようにと願うのは,確かに「知性上の不正」です。分別のある人は,これはなぜだろうか,と考えます。
分別のある人はまた,専断的な態度や一種の脅し,また著名なアメリカの科学者アイザック・アシモフが取ったような態度で進化論に対するいっさいの批判を抑えようとすることが,まじめな学問にそぐわない,という点も考えます。アイザック・アシモフは,進化論を疑問に思うのは「引力の法則を攻撃する」ようなものである,と述べ,さらに,「それは推測ではなく,事実である」と付け加えました。
しかし,引力の法則については,研究室その他の所で,それを実験し,実証し,論証することができますが,進化論についてはこれができません。非常に多くの人がこれに挑戦するのはそのためです。引力の概念については,だれもこれに挑む人はいません。
進化論者自身の中にさえ,この理論がまだ証明されていないことを認める人が多いのですから,進化論に対する批判を沈黙させようとして,その批判に含まれる知性をさえ見下す態度を取ることは,とりわけ「知性上の不正」であると言わねばなりません。現に,アシモフのことばを借りれば,進化論の多くの部分が「分別に基づく推測」から成り立っていることを,彼自身が認めています。
問題の真の姿は,進化を論じたある本に対する「ニュー・サイエンティスト」誌の書評の中によく述べられています。その本は「やむをえないことであるが……人間の進化に関する最近の書物に見られる『ぼやけた面』を随所にのぞかせている。率直に言って,われわれは,人間がどのように,またどのような要因で進化したかを知らないのである。……しかし,このような[本]がその記述をただ事実だけに限定するとすれば,それは全く薄っぺらな本となってしまうであろう」,と同誌は述べました。
そうです,進化論に挑む人々を威圧したり見下したりすること,またそうした人々は知識が足りないのであるとほのめかしたりすることはもはやできません。問題の核心をつかむために,わたしたちは「推測」を排し,入手しうる事実を正直な態度で分析しなければなりません。
ある科学者が言うとおり,進化は「事実」ですか。それとも,別の科学者が言うとおり,進化論は「科学の名をかたって登場した最大のおとぎ話」にすぎないでしょうか。
-
-
どのような証拠があるはずか目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
どのような証拠があるはずか
進化論者は,人間は海洋中の無生の化学物質を出発点とする長い過程の最終的な産物である,と唱えます。そうした信念をごく普通に言い表わしたものとして,「サイエンス・ワールド」誌に載った次の一文があります。
「ある科学者たちは,人間はおよそ二百万年から一千万年前に類人猿のような生物から進化した,と信じている。そして,その類人猿的な生物はそれより幾百万年か前にサルの一種から進化したものであろう。そのサルは,今日のトリーシュルー(リスに似た小獣)のような原始的な霊長類から進化したと考えられる。他のすべての哺乳類と同じように,そのトリーシュルーも両生類の一種から進化し,その両生類は魚類の一種から進化した。……生命の最初の形態 ― 単細胞の生物 ― は海の中で生じた」。
聖書はなんと述べていますか。創世記の第一章をお読みになれば,神が地上のいろいろな種類の生物を,一定の期間をかけて個別的に創造した,と記されていることに気づかれるでしょう。最初に植物,次に魚類と鳥類,ついで陸生動物,最後に人間が創造されました。
しかし,聖書は,個々の動植物すべてが神によって直接に創造された,と述べているのですか。そうではありません。直接に創造されたのは,基本的な種類です。そして,それぞれの種類の範囲内では,幾千年という歳月をかけて多彩な変種を生み出すことができました。例えば,ネコ科の範囲内でいろいろと異なった形態のネコ類が発展することができ,イヌ科の中でいろいろなイヌ類,同じ人間の家族の中でさまざまな人種が生じることができました。
しかしながら,創世記第一章は,個々の基本的な種類はただ『その種類にしたがって』子孫を生み出すことができた,と述べています。それで,同一種類内の変種どうしは交合して子孫を生み出すことができましたが,その種類の範囲の外に出てこれを行なうことはできませんでした。一つの種類の動植物が別の種類の動植物と交配してその子孫を生み出すことはできませんでした。また,一つの種類の生物が変化して別の種類の生物になることもできませんでした。このことはどれだけの時間が経過しても変わりませんでした。つまり,魚は永久に魚であり,鳥は永久に鳥であり,陸上動物は永久に陸上動物であり,人間は永久に人間です。
どのような証拠があるはずか
もし進化論が真実であるとするなら,実際の証拠は,一つの種類の生物が別の種類の生物へと徐々に変わってゆく過程を裏づけているはずです。そのことを示すなんらかの証拠が,今生きている生物,化石,あるいは研究室や野外での実験を通して見いだされなければなりません。
一方,もし聖書が真実であるなら,創世記の述べる一つの種類から別の種類への移行ということは見いだされないはずです。基本的な種類内では多彩な変種があるはずですが,基本的な種類相互の間にはつなぐことのできない隔たりがあるはずです。このことは今生きている生物についても化石についても言えるはずです。また,基本的な種類相互の間の隔たりは実験的にも埋めることができないはずです。
進化論が真実であるとするなら,今生きている生物の中に,新しい器官の始まってゆく証拠があるはずです。発達過程にある腕,足,翼,目などの器官や骨が数かぎりなく存在するはずです。そのことが,化石の記録や今日生きている何かの生物にさえ見られるはずです。せめて,部分的に発達したなんらかの器官がどこかに存在するはずです。
さらに,もし進化論が真実であるとするなら,生命がひとりでに,自動的に,外からの助けなしに存在できるようになるという証拠があるはずです。事実,理知のある人間が入り組んだ装備を用いて行なう実験の場合など,外部からの助けがあるときには,ずっと容易にそれが起きるはずです。しかし,もし聖書が真実であるなら,創造もしくは神の設けた生殖の過程によらないでは,たとえ偶然的な作用や人間の働きかけがある場合でも,生命,すなわち生殖能力を備えた生物が生まれ出ることは不可能でしょう。聖書は,ただ神のみが生命の源であることを述べています。―詩 36:9。
進化は無生の化学物質が単細胞生物に変わることから始まった,と言われていますから,証拠をまずこの面から調べるのが妥当でしょう。
[8ページの図版]
聖書が真実であるとすれば,創世記が述べる各「種類」内に多彩な変種があるはずです。例えば,同じ犬の仲間にもいろいろな変種ができ,それらは互いに交配することができます。しかしそれらは,猫の仲間など,他の「種類」の動物とは交配できません。
-
-
細胞がわたしたちに告げること目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
細胞がわたしたちに告げること
進化が起きたとすれば,無生の化学物質が寄り集まって生きた細胞が形成されねばなりません。科学者アイザック・アシモフは,「生命の源泉」という本の中で,それがこのようにして起きたと述べています。
「非常に遠い昔,おそらくは今から25億年ほど前,強烈な太陽のもと,アンモニア分を含んだ大洋の中,それに,むかつくような大気も加わって,有機分子を多く含んだスープの中に,なんらかのしくみで自らと同様のものを生み出すことのできる核酸分子が偶然に発生した ― その後に他のすべてのことが続いたのである!」
しかし,そのようなことの「偶然に」起きた例がかつて観察されたことがありますか。さらに,最も有能な科学者たちによってそのようなことの起こされたことがかつてありますか。
実際の証拠が示すもの
「地質学入門」という本はこう述べています。「自然発生の現実に起きた例が観察されたことはいまだない」。これはきわめて簡明な事実です。歴史上だれも,生きた細胞が無生の化学物質から「偶然に」形成されるのを観察した人はいません。
科学者たちさえ,そのきわめて複雑な実験施設を用いても,これを起こさせることができません。なるほど,科学者たちは,炭素を含んだ化合物をいくつか作り出しました。しかし,それらは繁殖能力を持つ生きた細胞には全く及びもつかない物質です。「細胞」と題する書物は,そうした実験が「無生の物質から生命が実際どのように発生したかを説明するものではない」ことを認めています。
こうした事実を前にして,化学者M・S・ケリングサンは,トロントのグローブ・アンド・メイル紙にこう書きました。
「わたしの推計で言えば,一個のアメーバ[単細胞生物の一種]は,1,000兆を100倍した数の原子かできている。それはおもに,炭素・水素・酸素・窒素,それに微量のりん・カルシウム・いおうなどである。しかも,これらすべては容易には分解しえない化合物のかたちで存在しているはずである。
「ところが,進化論者は事実上,これだけの数の原子が偶然に正しい比率で配合した,つまり,すでに存在した化合物から分離したのち再び互いに結合して生きたアメーバになった,と論じている。……
「わたしたちは,アメーバがこのようにして生じるのを見ているだろうか。化学物質を試験管の中に入れてアメーバを生み出すことができるだろうか。答えは否である。したがって,それが過去には起きた,というのは正当ではない。……進化の仮説は,生命の起源という点で崩れ去ってしまう。生命の創成に関しては,何かほかの説明が必要である」。
また,生物の細胞がいかに複雑なものであるかということがわかるにつれ,科学者はその驚嘆を大きくしています。ユタ州立大学の進化論者F・サリスベリーはこう述べています。「今われわれは,細胞が,以前に想像していたよりはるかに複雑なものであることを知るようになった」。彼の推定によると,人間の体の一個の細胞の核の中には「十億片もの遺伝的な情報が含まれており,これを普通の活字で組めば,普通の大きさの本1,000冊にも」なります。
細胞に関する知識が進むにつれ,細胞の中の数多くの部分すべてが複雑な相互作用を営んでいることが明らかになりました。そうした相互作用すべてが同時に起きなければ,その細胞が生きつづけてゆくことは不可能です。そのため,サリスベリーはこう述べます。「すべての事が同時に起きなければならないように思える。つまり,その体系全体が一つの単位として出現しなければならず,そうでなければ,それはなんの価値も持たない」。そうしたことが偶然に起こらないことは明らかであり,人間によってもなしえないのですから,彼は次のような嘆きのことばを語っています。「このジレンマを脱け出る道が存在するかもしれないが,今のところはそれを見いだせない」。
自然研究家ジョセフ・ウッド・クラッチはこの問題について次の興味深いことばを述べました。
「[類人猿]と[人間]とをつなぐ“欠けた鎖の環”の部分にはたくさんのインクが流されているが,アメーバとかろうじて生物質と称されるあの最初の粒子との間に欠けているすべての鎖環 ― そうしたものが現実に存在したのであればの話であるが ― に比べれば,これも無に等しい……
「生物と無生の物質との差,生きている物と生きていない物との隔たりが,依然絶対的なものとして残る」。
「細胞」と題する本もこう述べています。「原始の細胞が恐竜や霊長類に発達することよりも,その細胞そのものが不毛で生物学的に敵対する世界に出現することのほうが,多くの点で可能性がはるかに少ない。……生命がどのようにして始まったかという科学上の基本的な疑問は,依然未解決のままである」。
このように,無生の化学物質が,生きた,繁殖力を持つ細胞を「偶然に」生み出すことはありません。理知を持つ人間がやってみてもそれはできないのです。わたしたちが今日観察できることですが,単細胞動物であるアメーバは,すでに存在していたアメーバからのみ,そうです,ただ『その種類にしたがって』のみ生じます。これ以外のことが観察されたことはありません。
それで,生きた細胞の出現に関して「推測」をいっさい排除して考える場合,証拠は実際にはどちらを支持していると考えますか。聖書ですか,それとも進化論ですか。
さらに上の段階を見る
進化論者は,次の段階は,アメーバなどの“単純な”単細胞生物が多細胞生物に発達することである,と言います。しかし,そうした形態の生物がしだいにその複雑さを増してゆくというような証拠がありますか。「地球の最も挑戦的ななぞ」と題する本はこう述べています。
「原生動物[単細胞動物]から後生動物[多細胞動物]への移行を示すような,二細胞や三細胞の生物は存在しない。しかし,この隔たりを埋める重要な鎖環が存在しないなら,進化論の観念構成全体が崩れてしまうのである」。
この隔たりは埋められていません。単細胞の動物が二細胞や三細胞の動物に変わったという記録は存在しません。それどころか,単細胞の原生動物から,多細胞後生動物の最も単純なものまでは,非常に大きな飛躍となっています。原生動物が後生動物に変わるという証拠は全くありません。
もう一つ興味深いのは,そうした形態の生物が今日そのままの状態にとどまっていることです。そうした“単純な”形態の生物で,自分の状態を“進歩向上”させようというような意図を示すものは一つも存在しません。さらに複雑な形態を取ろうとして奮闘することもありません。それで,過去にそうしたことが起きたと唱えることには,どんな正当な根拠があるでしょうか。
信頼される科学雑誌「サイエンス」は,単細胞生物から多細胞生物への初期の進化に関する理論を提出した一冊の本について注解し,その本の説明は一種の「空想科学小説」である,と述べました。「サイエンス」誌を一部引用すれば次のとおりです。「多細胞動物がどのように発生したか,そのことが一度だけ起きたのかそれとも何度も起きたのか,その過程は一通りなのか幾通りもあるのかという点は,依然論議を呼ぶ難問のままであり,それはジョン・コーリスも述べるとおり,『結局のところ全く答ええない問題』なのであろう」。
確かに,進化論の観点からすれば,それは「全く答ええない」問題であり,「空想科学小説」のかたちを取らざるをえないでしょう。しかし,あるがままの証拠を,全く「推測」から離れて検討するとどうなりますか。事実は,聖書の記述に基づいてわたしたちが当然に期待する事がらと全く一致します。つまり,事実は,単細胞の生物と多細胞の生物がそれぞれ別個に創造され,それ以後『その種類にしたがって』繁殖してきたことを裏付けています。
増し加わる複雑さが示すべきこと
さらに,進化論に従う場合,こうして形態上の複雑さが増し加わってゆくことは,別の面,つまり細胞の構成そのものにも示されるはずです。細胞が進歩の段階を徐々に進んでゆくにつれ,そのことを反映する一定の型が何かあるはずです。
生物の細胞の核の中には,遺伝的な特性の媒体となるものがあります。それは染色体と呼ばれます。進化が真実であるとすれば,より複雑な生物へと進むにつれ,染色体の数もしだいに増えてゆくと考えるのが自然です。
この点について,ミシガン州立大学のムーア教授はこう語っています。
「教壇に立って,自主的に物事を考えるそう明な学生たちに進化の概念を講ずるわたしは,さまざまな教科書の中で,染色体の数を示すいろいろな表に接してきた。……
「自主的に物事を考えようとするわたしの学生たちは,次のような疑問もしくは問題を提出した。すなわち,もし動物が,一般に言われるように,単細胞の形態から複雑な多細胞の形態に変わったのであれば(学生たちは植物についても同様の疑問を提出した),染色体数の増加という面で何か一定の型があるのではなかろうか,という点である」。
そのようなものがありますか。人間の場合,その体細胞の染色体数は46です。では,人間ほど複雑でない植物や動物の場合,その染色体の数はそれより少ないであろうと考えられます。ところが,実際はそうではありません。幾つのか例を挙げると,ハツカネズミは48,シマスカンクは50,オナガザルは54,牛は60,そしてロバは62の染色体を有しています。じゃがいもでさえ48,綿は52の染色体を持っています。そして,オーラカンサと呼ばれる単細胞の原生動物には1,600もの染色体があります。
このように,進化論を真実と見る場合に当然期待されるような,染色体数の定型的な増加は見いだされません。むしろ,見いだされるのは,それぞれのグループの生物が固有の染色体構成を持ち,常にその状態にとどまっていることです。それこそ,それぞれの種類が固有の特性を持つものとして個別的に創造され,他の種類と関連を持たないものであれば,当然に期待されることです。
[10ページの図版]
一個のアメーバは,1,000兆を100倍した数の原子からできていると考えられる。これだけの数の原子が偶然に正しい比率で配合し,それらが整然と結合して生きたアメーバとなることが考えられるだろうか
-
-
それはどのように起きるか目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
それはどのように起きるか
もう一つ直面しなければならない問題があります。つまり,進化が事実であるとすれば,それはどのようにして起きるのか,という点です。単細胞の動植物を変様させ,より高等な形態の生物へと変化させてゆくものがあるとすれば,それはなんですか。
進化論者は,細胞の核の中に起きる変化がこれと関係を持っている,と言います。そして,遺伝子が進化の主要なしくみを支配している,と信じています。遺伝子とは染色体の主要構成分であり,遺伝の担い手です。
そうした遺伝子に起きる変化は突然変異と呼ばれます。そして,この突然変異が,新しい特性の出現や,単細胞の生物が人間にまでも進化した理由を説明するものである,と言われています。英国の遺伝学者P・カーラーはこう述べます。「突然変異が生物変異の道を与える。それゆえ,突然変異は進化の過程に欠くことのできない要因である」。
突然変異によって新しいものが作られるか
しかし,そうした変化,つまり突然変異によって,新しい特性がほんとうに作り出されるのですか。いいえ,そうではありません。ムーア教授はこう指摘します。「遺伝子に起きる突然変異はすべて,すでに存在し,あるいは知られている形質を変化させたかたちで現われるにすぎない」。したがって,遺伝子に起きる突然変異はすべて,すでにそこにある形質の変異にすぎません。それによって生物の変種は作られますが,全く新しいものが作り出されることはありません。
例えば,遺伝子に起きる突然変異によって,人の髪の毛の色・堅さ・長さなどの変わることがあるかもしれません。しかし,髪の毛は常に髪の毛です。それが羽に変わるようなことはありません。また,突然変異によってある人の手に何か変化の起きることがあるかもしれません。しかし,それは常に手であり,鳥の翼になるようなことはありません。さらに,そうした変化は,平均的な状態を中心として,その周辺の一定の範囲内で起きているにすぎません。例を挙げれば,身長が2㍍に達する民族(アフリカの一種族)と,120㌢ほどの民族(ピグミー族)とがあり,2㍍を超える人(聖書は2㍍80㌢を超えたゴリアテのことを述べている)や,120㌢に達しない人もいます。しかし,突然変異によって,身長が6㍍を超えたり,あるいは20㌢に満たなかったりする人が生まれ出ることはありません。身長差はおおむね,中心的な平均である150㌢から180㌢の間,あるいはその前後で起きています。
また,突然変異による変化は普通はごくわずかなものであり,それによって全く別の特性が現われ出ることはありません。「ダーウイン再考」の著者が,信頼される遺伝学者であった故リチャード・ゴールドシュミットについて次のように述べたのはそのためです。「ミバエの突然変異を幾年にもわたって観察したのち,ゴールドシュミットは絶望感をいだくようになった。変化はどれも全く微細であり,同一標本に一千の突然変異が重なっても,依然として新しい種は生じないであろう,というのが彼の嘆きであった」。
さらに大きな問題
しかし,ここにはさらに大きな別の問題があります。それは,正常なかたちから離れたそうした変化の性質と関係しています。染色体に起きるものであれ遺伝子に起きるものであれ,それらの変化は概して好ましくない変化なのです。
例えば,「染色体と遺伝子」という本は,染色体に生じる変化について,「身体的にも知能的にも欠損を生み出す場合が多い」と述べています。人が46ではなく47の染色体を持って生まれると,その人はモウコ症その他の知能および身体的な欠損を持ちがちです。そして,染色体数が48になると,その人は知能的に不全,身体的に奇型になります。
遺伝子性の突然変異についても同じことが言えます。進化論者カーラーは次のことを認めています。「遺伝子に起きる突然変異の多くは退行的なもの,また有害なものであり,致命的な作用を持つ場合が多い」。彼はさらにこう語ります。「広範囲な研究の結果として証明できることであるが……突然変異の大部分はその変異の起きた遺伝子を持つ個体に対してマイナスの影響を持つ。実験から言えば,好結果のもしくは有用な突然変異は数千の突然変異につき一つであり,他はすべて有害なものである」。
したがって,一般にも認められていることですが,突然変異は,それの起きた個体を,変異の起きていない正常な個体よりも弱く,繁殖力に乏しく,短命なものとするのが普通です。ステビンズは,突然変異の起きた昆虫を正常種といっしょにして競争させると結果はいつも同じになったことを述べています。つまり,「何世代かかるかは場合によって異なるとしても,突然変異体はやがて除去されてしまう」のです。それらは退歩したものでしたから,十分に成育することができませんでした。
突然変異が進化のためにそれほど重要なものであるなら,当然わたしたちはそれを歓迎し,それをできるだけ多く起こそうとします。しかし,アシモフの述べることに注意してください。「放射線にさらされる度合が大きくなると,突然変異の発生率は高まる。これはやっかいな事実である。たいていの突然変異は悪い方向への変異だからである」。それでも,この点を自認したあとで,彼はこう結んでいます。「しかし,結局のところ,突然変異が進化の過程を前へ上へと押し進めることはまちがいない」。これは分別のある言い方ですか。
複雑で驚嘆すべき機能を備えた細胞・組織・器官また生体作用などのすべてが,実際には打ち壊す働きをするものによって作り上げられたというのは,筋の通った考え方ですか。進化論者自身が認めるとおり,「好結果のもしくは有用な突然変異は数千の突然変異につき一つである」ことを忘れないでください。
あなたが家を建てようとする場合,数千の仕事をしてやっと一つだけ正しい仕事のできるような建築士にそれを依頼したいと思いますか。数千回の判断のうちやっと一度だけ正しい判断のできるような人の運転する車に乗りたいと思いますか。手術のさいに数千回の手違いをしてやっと一度だけメスを正しく操れるような外科医がいる場合,あなたはその人に自分の手術を担当して欲しいと思いますか。
突然変異によって目ができるか
さらに例を挙げましょう。人間の目はそのようなまちがいだらけの過程を経て作り上げられたのでしょうか。視覚が作用するためには,目を構成する多くの部分がすべて整い,完全に作動しなければなりません。ごく微小の部分が働かず,あるいは何かが欠けているだけでも,目はその機能を果たせません。それは役にたたないのです。
進化論者は,“自然”はその生体に当面役だつ変化あるいは利点となる変化だけを受け入れる,と論じます。その理論にしたがえば,目は決して形成されなかったでしょう。
人間の目,動物の目,昆虫の目,鳥の目,魚の目など,目にはいろいろな形状のものがあることも考えてください。こうした多様な目があることは,目の進化がいろいろなしかたで何度も繰り返し起きなければならなかったことを意味しています。あなたは,いろいろな形式のカメラがそのようにして「偶然に」でき上がったという話を聞いたことがありますか。もとよりないはずです。カメラにはその設計者と製作者が必要です。しかも,カメラは,目に比べればずっと単純なのです。
したがって,進化論者サリスベリーが目に関して語った次のことばも理解できます。「一度でもそのようなものが生じたことに関してそれはきわめて下手な説明であるが,現代の[進化]理論にしたがってそうしたことが幾度も起きたと考えなければならないことを思うと,わたしは頭のくらくらするものを感じる」。
加えて,突然変異はどれほどのひん度で起きるのですか。「ワールド・ブック百科事典」は,「自然の突然変異はきわめてまれにしか起きないために,研究者たちはこの分野の研究にそれほどの成果を上げることができなかった」と述べています。そして,突然変異の研究をするためには,それをX線や化学薬品によって誘発しなければなりませんでした。進化論者ステビンズはこう述べます。「突然変異の発生率にはかなりの幅があるが……それは常に低度のものである。『自然性の』突然変異の原因を突きとめる直接の実験は,その発生ひん度が低いためにほとんど不可能である」。また,カーラーはこう述べます。「そうした過ちが遺伝子内に起きる確率は一億分の一である」。
進化,それとも退歩?
ここにあるように,突然変異は一種の「過ち」と呼ばれています。そうした過ちの起きる可能性は「一億分の一」です。しかも,そうして起きるもののうち,「好結果のもしくは有用な突然変異は数千の突然変異につき一つ」です。
こうした証拠を見て,あなたはどのように結論されますか。突然変異は進化論の核心をなしていますが,その核心は確固たるものですか。あるいは,生物の基本種類内の各個体は突然変異によってむしろマイナスの影響を受けることのほうがずっと多いのではありませんか。そして,なんらかの良い変化が起きる場合でも,それは基本種類内の変種を生み出すにすぎないことを,事実は示しているのではありませんか。
進化論の主要な支柱であるこの突然変異に関する問題の要約として,ミシガン州立大学のムーア教授のことばに注意してください。
「DNA(デオキシリボ核酸)の突然変異的な変化は一種の過誤であり,基本的には,既知の身体的特性の退歩・衰退という結果になる遺伝子の突然変異が,多くの場合,生育力の喪失,生殖力の喪失,さらにはその個体の致死的な状態をさえ招くことは容易に証明できる。……
「遺伝子の“好ましい”突然変異についてとかく口にする人々がいる。ガの色の変化,バクテリアの食性の変化などは遺伝子の“好ましい”突然変異の例としてよく挙げられる。しかしながら,ガやバクテリアなどのそうした変化は,生物のその種類内のものにすぎず,種類の限界を越えたものではない。……
「厳密な調査と分析をする場合,……遺伝子の突然変異がいっさいの進化過程の原材料であるという独断的な主張は……神話的な言説にすぎない」。
[13ページの図版]
一回の正しい判断をするためにいつも数千回の誤った判断をするような人の運転する車に乗ることを,あなたは望むだろうか。ところが,有用な突然変異は,有害な突然変異数千回に対して一回しか起きない
[14ページの図版]
突然変異のようなまちがいだらけの過程によって人間の目が作られたのだろうか
-
-
生物が証言する事がら目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
生物が証言する事がら
大きな生物の世界に目を向ける場合,一つの種類の生物が別の種類の生物に変わってゆくという証拠がどこかに存在しますか。“下等な”形態の動植物と“高等な”形態の動植物との間に,その両者をつなぐ漸進的な変化のあとがありますか。
進化論が真実であるとすれば,そうしたものが存在するはずです。一方,聖書が真実であるとすれば,それは存在しないはずです。
今日生存している動物の世界を見る場合,それはわたしたちに何を告げますか。一つの種類の生物が別の種類の生物に徐々に変わってゆく過程を観察することができますか。
進化論を支持する「生物進化の過程」という本の中に次のことが記されています。「確かに,生物の主要な種族が進化によって発生するのを実際に見た生物学者はいない」。
なぜですか。生物の主要な種族の進化を見た人がいないのはなぜですか。
進化論者は,進化が幾百万年という歳月をかけて起こるのに対して,人間はそれを観察できるほど長く生きないからである,と答えます。しかし,そのような結論を証拠づけるものはありません。これも「推測」です。実際の証拠だけに基づいて考える場合,それから得られる答えは異なったものとなります。
過渡的な段階のものはない
今日生きている生物の間にそうした進化を見ることができないのは,どのような形態の生物もそれぞれ完全に整った状態にあるからです。別の種類の生物に移行しつつある過渡的な段階のものは一つも観察されません。別のものへの進化の過程にある,部分的に発達した器官や体の部分などはどこにも見いだされません。目・耳・翼・手・足・その他の器官は,どのような動物に備わっている場合でも,“中間的な”段階にはありません。それは全く整っており,それを持つ生物体の有用な器官となっています。
人間の体にある虫垂や扁挑などの器官を指摘して,それらが進化の“なごり”である,と唱えた人もいます。しかし,知識が進むにしたがって,そうした器官が決して遺物などではなく,明確な用途のあるものであることが明らかにされました。
現存している生物の中に過渡的な形態のものがないということは,現代進化論の“父”とされるチャールズ・ダーウインの時代にも注目された点でした。今から一世紀以上前,ダーウインはこう記しました。
「現存の種がごくわずかな変化を重ねて他の種から徐々に変わってきたというのであるなら,過渡的な形態のものがいたるところに無数に見られないのはなぜか。今日見るとおり,それぞれの種がはっきり区別され,自然界が混乱状態にないのはなぜか」。
ダーウインは,過渡的な形態のものはみなすでに死に絶えたのである,という答えを提出しました。しかし,それは事の道理にかなった考え方であると言えますか。進化はまだ継続していると言われるのですから,なんらかの過渡的な段階のものが今日なお多少でも見られるはずではありませんか。
過渡的なものがないのはなぜか
今日生きているものの中に過渡的な形態のものがないのはなぜですか。それらが過渡状態にはないからにほかなりません! それらは一つの種類から別の種類へと移行しつつあるのではなく,自分の種類内にずっととどまっているのです。
それぞれの種類内では多くの変種があり,いろいろな変化が起きてはいますが,個々の種類は他との区別をずっと保っています。その区別がずっと保たれているのは,いかなる科学者もいまだ踏み越えることのできない障壁のためです。その障壁とはなんですか。基本種類相互の間にある不妊の壁です。
例を挙げて説明しましょう。わたしたち人間はみな,背たけや体つき,目や皮膚の色,能力などの点でさまざまに異なっています。全く同じに見える人はほとんどいません。今日地上には38億人の人がいますが,指紋の全く一致する人さえまずいないのです。それでも,どれだけ異なっているとしても,どこにいる人も人間家族に属するものとして容易に判別されます。
民族相互の間にどれだけ相違があろうとも,異民族間の結婚によって子孫を生み出すことができます。しかし,人間が他の動物と交合して子孫を生み出すことはできません。人間は,人類という種類内においてのみ繁殖できるのです。その境界を踏み越えようとしても,その種類の外に出ては,他のいかなる生物を相手とする場合でも,決して子孫を生み出すことはできません。この法則に例外はありません。
育種実験が示すもの
科学者たちは,育種実験によって種々の動植物をどこまでも変えてゆこうと試みてきました。やがて新しい形態の生物を作り出せるかどうかを確かめようとしたのです。どのような結果が得られましたか。英国の医学雑誌「オン・コール」はこう伝えています。
「育種の作業においては,幾世代かするとその生物の最適条件に達してしまい,そこから先の進歩はできなくなる。そして,自分と同種のものとの間に繁殖力を持ち,自分の先祖種との間には繁殖力を持たないような新しい種は一つも作られていない。したがって,育種実験の結果は,進化論を裏付けるのではなく,それを論ばくしているように思える」。
この問題に関する自分の徹底的な調査の結果として,前述の法律家ノーマン・マクベスも同じ結論に達しました。彼はこう述べます。
「この問題が[進化論者によって]論じられることはまれであるが,わたしの見解は,名のある科学者たちと同じである。例えば,[ローレン・]アイズレーはこう述べている。『慎重な人工育種によって競走馬やキャベツの品種がどれほど改良されようとも,それ自体は生物学上の無限の分岐つまり進化の道ではない,ということになろう。この事実には大きな皮肉がある。人工育種は,他のいかなる要素にもまさって,進化の現実性を論ずるために用いられてきたからである』。……
「[エドワード・]デービー教授は,『種の障壁』というような簡明な言いまわしを作り……理論上の破たんをこう告白している。『種の障壁内での交配や選別,また近似の関係にある種どうしの間での同様の手順によって,小麦などの改良に目ざましい成果が見られた。しかし,小麦は依然小麦であり,例えばグレープフルーツなどになったわけではない。わたしたちは豚に翼を生えさせるようなことはできないが,それは鶏が円筒形の卵を産めないのと同じことである』」。
このように,生物の基本的な種類そのものは驚くほど安定しています。どんなに徹底的な育種実験でも,一定の限界を越えてそれを押し進めてゆくことはできません。一定の線を越えると,不妊性という障壁に突き当たってしまいます。その一例は,ロバとウマの交配によってできるラバの場合です。ラバは明らかにウマの種類の外限に達した動物です。ラバは普通すべて不妊だからです。
こうした実験や,自然状態で起きる事がらの観察からもわかるとおり,基本種類の範囲内ではいろいろな変種もでき,環境への適応による変化も生じますが,一つの動植物が大きく変化して何か別のものになってゆくというようなことは決してありません。
進化論が真実であるとすれば,これとは別のことが期待されるはずです。しかし,聖書が真実であれば,つまり,生物が『その種類にしたがって』創造され繁殖してきたものであるならば,これこそ当然に予想されることです。
進化論者アイザック・アシモフも,これが事実に基づく結論であることを認めて,こう述べています。
「人間の飼育するどんな動物,人間の栽培するどな植物についても言えることであるが,生命はすでに生命の存在するところからのみ生じる……
「さらに厳密には,生命は常にそれと同様の生命からのみ生じる,と言うべきである。……おのおの自分と同様の子を産み,おのおの自分と同様の親から産まれる。おのおの自分と全く同様の生物の(果てしない過去から続く)長い系統から来ているのである」。
人類についてはどうですか。記録に残る全歴史が証言するとおり,人類についても同じことが言えます。「人種に関する報告」の中で,アシュレー・モンターギュはこう述べています。
「人類は一つである,つまり,すべての人は同一の種に属するという点で,科学者たちは全般的な一致を見た……さらに,すべての人はおそらく共通の先祖から出ているのであろうという点でも,科学者たちの間に全般的な一致がある。……
「『神がひとつの血筋からもろもろの国人を造り,それを地の全面に住ませた』という聖パウロの明言は,科学上の発見と全く一致していることになる」。
ムーア教授もこう述べています。「ある形態の動物が別の形態の動物に変わってゆくという実験上の証拠は皆無である。また,この点で言えば,一つの形態の植物が別の形態の植物に変化することについても同様である……健全な科学的手法の結果とみなしうるような変化の証拠について言えば,それはすべて,動物のその種類の限界内,もしくは植物のその種類の限界内の変化である」。
化石の記録が明らかにする事がら
もう一つ興味深いのは,過去に生息し,今は死に絶えた動植物に関するムーアの所見です。彼はこう語ります。
「主要な歴史的資料である化石の記録の中に,これらの種類の間を連続的に結びつける証拠は……全く存在しない。化石の記録の中に過渡的な形態のものは一つも見いだされていないが,それはおそらく化石層の中にも過渡的形態のものが全く存在しないためであろう。動物の個々の種類の間の過渡的な段階や植物の個々の種類の間の過渡的な段階は一度も存在したことがないのであろうとも十分に考えられる」。
これが,一世紀以上にもわたって発掘を続けた結果です。記録は,ダーウインが「この[進化の]理論からすれば,過渡的な形態のものが無数に存在したはずであるが,地殻の中にそうしたものが数多く埋まっていないのはなぜか」と語った百年以上前と全く同じ状態でとどまっています。
ダーウインは,化石の記録が不備なのであろうと述べて,問題を後代に残しました。しかし,一世紀以上もの大々的な発掘が続いた今,もはやその説明は通用しません。化石の記録は十分にそろっており,現存の生物と同じこと,つまり,生物はただ『その種類にしたがって』のみ繁殖する,ということを示しています。一つの種類から別の種類への変化の跡は見いだされません。
さらに,ダーウインは,生物のいろいろな種族が「ほんとうに同時に生じた」ことが示されるとすれば,「それは進化の理論にとって致命的なことであろう」と語りました。では,実際の証拠は何を示していますか。ムーア教授はこう報告します。
「ロンドン地質学協会と英国古生物学協会の共同支援によって1967年に出版された『化石の記録』は,……専門科学者120人が30の章をまとめ,全巻800ページを超える記念碑的な作品であるが,動植物の化石を約2,500種ほどに類別して提出している。……
「そこに表示されているものから得られる総合的な結論は以下のとおりである。つまり,動植物のそれぞれの主要な形態もしくは種類は,他のすべての形態もしくは種類からは独立した別個の歴史を有していることである!!!
「動植物双方のいろいろな種族が化石の記録の中に突然に出現している。……くじら,こうもり,馬,霊長類,象,うさぎ,りすなどのすべてが,その最初の出現の時点から,今日と同じように他と明確に異なっているのである。共通の祖先がいたという形跡は全く存在せず,ましてその先の祖先であったと想定されているは虫類との結び付きを示すものは一つも見あたらない。……
「そして,一般進化の理論の支持者たちも,古生物学上の事実に通じている人々は,すべての高等な部類相互の間にはっきりした隔たりがあることを認めている。彼らは,これが化石の記録に見られる,否定しえない事実であることを認めているのである」。
この点を,進化論者たちは確かに認めています。例えば,「生物進化の過程」の中で,G・L・ステビンズは生物の主要種族の発生と進化に関する化石上の証拠を問題にし,「進化論者たちは,この面から見た化石の記録の不完全さという点を特に強く銘記している」と述べました。彼はさらに,「非常に大きな隔たり」とか,「化石の記録の不備また偏り[これこそ偏った先入観によるもの]」について述べています。
こうしてわたしたちは,ステビンズが次のような嘆きのことばを述べた理由を理解できます。「生物の主要種族がどのように生じてきたかを学ぼうとする進化論者にとって,化石の記録は実際には見当違いの分野である」。
そして,米国オハイオ州アンティオク大学の生物学准教授であり,進化論者であるエドムンド・サミュエルも次の点を自認しました。「時間的にも空間的にも多様な形態の生物が存在することについて,進化の概念は強力な科学上の説明であるとはみなせない。……これは調査資料は推断的に用いるしかなく,化石の記録についてなされる……厳密な分析は,どれも進化論を直接には支持していないからである」―「生物界の秩序」(1972年),120ページ。
それで,今日生きているものの記録,また化石の記録から判断して,あなたご自身は正直に言ってどのような結論を下しますか。事実は,一つの種類の生物が徐々に別の種類の生物に変わってゆくという進化の理念を支持していますか。それとも,神がいろいろな種類の生物を創造し,それらはただ『その種類にしたがって』のみ繁殖するという聖書の記述を裏付けていますか。
-
-
“猿人”についてはどうか目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
“猿人”についてはどうか
しかし,猿人の化石が発見されたという報告が何年にもわたってなされているのはどうしたわけでしょうか。そうした化石は,人間が類人猿から進化したことを証拠立てるものでしょうか。
もしそうであれば,“下等”な類人猿が今日でも依然として存在しているのに,より優れた“猿人”がただの一種類も生存していないのはなぜでしょうか。より高等なこうした猿人の少なくとも一種類ぐらいは,より劣った類人猿の間で生き残ることができたはずではないでしょうか。しかし今日,チンパンジーやヒヒ,オランウータンやゴリラや猿の類をたくさん目にしますが,それより高等なはずの“猿人”はどこにもいません。
進化論の観点からすると,下等な類人猿ではなく,類人猿と現生人の間を埋める“鎖の環”のすべてが一様に消し去られなければならなかったということは,きわめて奇妙です。しかし,聖書の観点からその記録を見るなら,それは少しも奇妙ではありません。聖書は,こうした鎖の環に相当する動物が今日存在していない理由を端的に示しています。つまり,初めから存在していなかったのです。
巨大な隔たり
現在生きている人類といかなる動物との間にもきわめて大きな隔たりがあることは,だれにも否定できません。「人口,種と進化」という本の中で,ハーバード大学の教授で進化論者でもあるエルンスト・メイルはこう語っています。
「人間は『単なる動物である』と考えることほど悲劇的な誤りはない。人間は非常に特異であり,話す能力を持っていること,伝統や文化を有していること,成長に非常に長い期間を要すること,また親が子どもの世話をすることなどの多くの点で他の動物とは異なった特質を備えている」。
人間の持つこうした特異性を進化によって説明することはできません。というのは,人間が進化の所産によるとするなら,人間に備わっている種々の特質が少なくとも他の2,3の生物の間に明白に認められなければならないからです。しかし,実際にはそうではありません。地上のあらゆる生物の中で人間だけが,物事を論理的に推理し,複雑なことばを話し,知識を蓄積し,かつそうした知識に基づいて計画を立て,子孫にそれまでの進歩した文明を伝える能力を有しています。人間だけが道具を発明したり,改良したりします。美を鑑賞し,音楽を創作し,絵を描くのは人間だけです。
さらに,動物とは対照的に,人間だけに生まれながら道徳感覚が備わっています。確かに人間は,そうした道徳感覚をゆがめたり,それに反した行動を取ったりすることさえありますが,それでも依然として,良心という機能が働きを保っています。神を認めない人々の社会をさえ含めたあらゆる人間社会に,道徳や人命,また所有財産やその他の権利を保護する法律が制定されているのはそのためです。しかし,動物の社会のどこにも,このような良心の働きを目にすることはありません。
このように,人類と動物の間に今日,非常に大きな間隙が存在することは広く認められています。しかし,いつの時代でもそうだったのでしょうか。過去に生存していたと想像されている“猿人”についてはどうでしょうか。
化石“猿人”
新聞,雑誌,本などに書かれている進化に関する記事を読んだり,博物館の展示物を見たりした人は,現生人が類人猿のような動物から進化したことを示す証拠は十分ある,と考えるかもしれません。事実こうした考えは,深く考えることなしに,人々の間に広く受け入れられています。しかし,そうした証拠は十分ある,とほんとうに言えるのでしょうか。
ケニア国立博物館の館長で,人類学の分野でも良く知られているリチャード・リーキーは,最近こう語りました。「この分野の研究者は,ごくわずかな証拠に基づいてなんらかの結論を導き出しているため,自分の立てた説を変えることがしばしば必要となる。このようなわけで,解釈は全く一定していないように思える」。
進化を裏づける化石がこのように欠けているにもかかわらず,進化論者たちは近年,人間は類人猿から進化したという点で一般に意見の一致をみています。両者を結ぶ鎖の重要なひとつの環はオーストラロピテクスと呼ばれる生物の化石です。これらの化石はアフリカで発見されました。比較的小さな脳頭骨と重い顎骨を持つこのオーストラロピテクスは,前かがみになった類人猿のような姿で描かれています。
進化論者ルース・モーアはオーストラロピテクスについてこう語りました。「あらゆる証拠からして,人類はついに,長い間わからなかった初期の先祖を発見した」。モーアは語調を強めてさらにこうも語りました。「その証拠は圧倒的なものであり……長い間失われていた鎖の環はついに見い出された」。1971年のことですが,ニューヨーク・タイムズ紙は,「オーストラロピテクスが……進化して,遂にホモ・サピエンスつまり現生人になった」と報じました。
進化論者ステビンスも,「人類の直系の先祖はオーストラロピテクス類であった」と語りました。1972年にロサンゼルス・タイムズ紙が報じたように,進化の問題を扱っているおおかたの科学者はこれに同意しました。同紙にはこう書かれていました。「現在の進化論によれば,ホモ・サピエンスつまり現生人類は,類人猿と人間の身体的特徴を備えた化石人類オーストラロピテクスから過去100万年以内のうちに進化したものと考えられている」。
しかし,類人猿類と現生人の骨格が互いに類似しているからといって,両者が類縁関係にあるということになるでしょうか。そのような結論を下す人は,最近死んだチンパンジーと人間の骨を持ってきて,まずチンパンジーの骨を調べ,次に人間の骨を調べて,どちらか一方が他方から直接派生した,と結論する人に似ています。そう主張することは可能ですが,明らかにそれは真実ではありません。
揺らいだ理論
しかし,いいかげんな証拠や現実に存在しないものを根拠にしていたり,浅薄な推論に基づいていたりする理論はどんなものであれ,いずれは崩れ去ってしまいます。過去に発見された“猿人”とおぼしき幾多の化石について,このことはすでに真実となりました。そして,失われた鎖の環の中で最も重要なものであると独断的に言明されてからわずか数年後に,今またオーストラロピテクスについても同じことが起きようとしているのです。
1972年の暮に,アフリカにいたリチャード・リーキーとその一行は,オーストラロピテクスと同時代に生きていたと言われる生物の頭がい骨と足の骨を発見しました。しかし,報じられるところによると,それらの骨は人間の特徴を備えていたのです!
この新しい発見について,ケニアのナイロビの新聞イースト・アフリカン・スタンダードはこう報じました。
「新しく発見されたこの生物の脳の大きさと形だけでなく,現在専門家の手によって調査が行なわれているイースト・ルドルフの遺跡で発掘された肢骨も現代人のものと驚くほどよく似ている。
「これらの発見は,人類進化の理論に新たな光を投げかけた。それにより,これまで知られてきた初期の人類に関する説を徹底的に再評価し,修正を加えることが必要になろう」。
この発見の結果,リーキーは,オーストラロピテクスは「われわれの先祖の系列から除外できよう」と新聞記者に語りました。また,ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙はこう報じました。「この発見により,現在広く受け入れられている人類進化の理論を捨て去ることが必要になるであろう,と[リーキー]は語った」。同紙は最後に次のようにことばを結びました。「ホモ・サピエンス[人間]はオーストラロピテクスから進化したものではない」。
どれほどどう猛だったか
しかし,太古のどんな化石人類が人間の先祖とされるにしても,こうした化石人類はどう猛で知能が低く,類人猿のような格好をしていたのではありませんか。このことは,類人猿に似た先祖からわたしたちが進化したことを示していないでしょうか。
確かに,そうした姿に描かれています。しかし,どんな根拠に基づいてそうしているのでしょうか。「人種の生物学」という本にはこう書かれています。「一風変わった民族はどう猛で道徳的にも低いという仮説は,明らかに,化石人類を復元しようとする古生物学者が作り出したものである」。また,次のようにも書かれています。「こうした復元図の肉付けや毛のはえぐあいは,想像に基づいて書き加えられていく」。
このように,初期の人類がどう猛な姿に描かれているのは,事実を基にしているのではなく,類人猿から進化してきたからにはこのように見えるはずだという仮定に基づいているのです。類人猿のような復元図は,明らかに科学者の想像つまり空想だけをたよりに作られています。しかもこうした科学者たちは,たとえ世論をあざむく結果になるとしても,進化論を擁護しようと決意しているのです。
実際のところ,頭がい骨その他の骨に基づいて人間の容貌を定めることは不可能です。このことは,わずか4年前の人骨であれ,4,000年前の人骨であれ同じです。目,耳,鼻,唇,皮膚,頭髪など,実際どんな外的特徴も化石の中に留められていないのです。
前述の著作が,こうした外的特徴に関して,「われわれはいかなる先史人についても全く何も知らない」と書いているのはそうした理由によります。こうした点から考えると,どう猛な姿をした復元図はどれほど真実であると言えるでしょうか。
初期の人類が多くの場合比較的高い文明を有していたことを示す証拠が最近発見されているため,幾つかの点で見解に変化が生じつつあります。「人種の生物学」はその点をこう指摘しています。「ごく最近になって,復元家たちは初期の人類の姿を高等なものにする傾向を示しはじめた」。また,ニューヨーク・タイムズ紙はこう報じました。
「紀元前3万2,000年から約1万年の昔まで,ヨーロッパの全域で石灰岩の洞穴の中に居住していた人類が,本質的にわれわれと非常によく似ていたことは今や明らかである。事実,人類学者の中には,現代人よりも背が高く,大きな脳を持っていたと主張する者もいる」。
このように,真実に基づいて記録を調べると,人間と獣の間に今日見られる大きな隔たりは,過去のいつの時にも存在していたとの結論に達します。類人猿のような動物を人類の系列に入れようとする試みは,作り事にすぎません。ニュー・サイエンティスト誌が,「化石からは,われわれの理論を想像の領域から抜け出させるほど十分の証拠」は見い出されていない,と述べているとおりです。
これまでに調べたことから分かるように,最近の科学上の発見は,明らかに進化の教えを支持していません。進化論は,現代の科学上の発見によって提起された挑戦を克服することができませんでした。なぜなら,それは真理ではないからです。
-
-
あなたはどちらを信じますか 進化論ですかそれとも聖書ですか目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
あなたはどちらを信じますか 進化論ですかそれとも聖書ですか
「あなたはどちらを信じますか。進化論ですかそれとも聖書ですか」という質問は,単なる学術的な質問ではありません。
もし進化が正しいなら,聖書はまちがっていることになります。『偽りを語ってはならない』と教えている聖書自体が人間の起源を偽り伝えているのであれば,他の問題について聖書が述べている事がらに敬意を払うべき理由がどこにあるでしょうか。『盗んではならない』『姦淫を犯してはならない』という教えをどうして信じることができるでしょうか。義の新秩序のもとでの命に関する約束を信じる理由がいったいあるでしょうか。人類社会の現状に関する聖書の説明についてはどうですか。どうしてそれを信じることができますか。
一方,人間の起源に関する聖書の説明が正しいとするなら,進化論は誤りであることになります。このように,聖書の記述の信頼性を考慮すべき理由があるのです。
両方が正しいということはありえるか
進化論と聖書の両方が正しいということはありえるでしょうか。聖書は,神が人間を造ったが,それには進化という手段を用いた,と単に教えているのではないでしょうか。
時々,僧職者はそのように教えます。1969年4月の,アメリカ,アラバマ州,モビール発のAP特電はこう報じました。「アメリカ長老派教会第109回総会は,聖書と進化論は互いに矛盾しない,との結論に達した」。カトリック百科事典(1967年版)にはこう書かれています。「科学上の起源と創世記の宗教上の教えとの和解は可能[である]」。
しかし,進化論と創造に関する聖書の記録の両者を自由に入れ換えること,つまり一方が他方を正しく説明することはほんとうに可能でしょうか。いいえ,それは不可能です! なぜそう言えますか。
前の記事から明らかなように,聖書は,人間を神の別個の創造物であるとして教えています。動物や植物などの創造物と同じように,人間は「その種類に従って」のみ子孫を産み出します。進化論は,人間は低い“種類”のもの,つまり動物という種類から進化した,と主張します。両方の見解がともに正しいということはありえません。―創世 1:11,12,21,24,25,新。
また,聖書は,最初の人間アダムが今から約6,000年前に神によって創造されたと教えていることも知りました。アダムからイエス・キリストに至るまでの系図は聖書の中にはっきりと説明されています。(創世 5:1-32。歴代上 1:1-27。マタイ 1:1-17。ルカ 3:23-38)しかし進化論によれば,人間は100万年以上も昔に出現しました。しかも,それまでに何百万年もかけて進化してきたのです。どちらかの教えがまちがっていなければなりません。
さらに,キリスト教世界の僧職者自らが支持すると主張する聖書は,完全な人間アダムがその罪によって失ったものに「対応する贖い」として,完全な人間イエス・キリストがこの地上に来たことをはっきり教えています。(ローマ 5:12。テモテ第一 2:5,6)もし人間がアダムから罪を受け継いでいないとすれば,聖書が教えているとおり,イエスの犠牲は無価値なものになってしまい,クリスチャンは「あらゆる人の中で最も哀れむべき者となります」。(コリント第一 15:19)人は,両方をともに受け入れることはできません。進化か聖書のどちらか一方が正しいのであり,他方はまちがっているのです。
あなたの前に置かれた挑戦を受け入れる
そのわけで,真理を愛するすべての人の前に一つの挑戦が置かれています。証拠を調べて,進化論か,それとも聖書か,そのどちらを受け入れるかを自分で決めなければならないのです。他の人のためにこの決定を下すということは,だれにも許されるべきではありません。
たとえば中には,現在多くの教会が公式にあるいは非公式に進化論を信じているという理由で,進化論を受け入れている人がいます。しかし,先に引用したような僧職者たちはなぜ進化論を受け入れているのだろうか,と考えてみることができるでしょう。
その理由は,進化論が広く一般に教えられている点にあります。これは単に,諸教会が世と親しい関係を築こうと腐心している一つの例にすぎません。(カナダ,ブリティッシュコロンビア州の)ビクトリア・デーリー・ニューズ紙の次の報道に注目してください。「教会は世の一部であり……非常に長い期間にわたって,あまりにしばしば,人間に操られた人間製の組織であるとの感を与えてきた」。
容易に理解できることですが,「人間に操られた人間製の組織」は,世の有力人の間で広く受け入れられている事がらを進んで受け入れようとするのではないでしょうか。しかし,まさに自らが代表すると主張している聖典,聖書の教えを曲げて妥協を計る人々に従うべき理由がどこにあるでしょうか。
『科学者が真実だと言っている』ために,進化を信じ込んでいる人もいます。しかし,大きな尊敬を集めている科学者の中には,進化論の教えを受け入れていない人も少なくないのです。この問題に関しては,科学者の中でも他の人々の場合と同様に意見が分かれています。それでは,科学者にあなたの決定を下してもらいたいとすれば,どちらの科学者の意見を聞くべきなのでしょうか。
実際,自分に代わって他の人にこうした選択をしてもらうことは子どもじみています。『成人は善悪を見分ける』という聖書のことばは永遠の真理です。(ヘブライ 5:14,口語)確かに,円熟した人は敢然とした態度でこうした決定を下し,それに基づいて行動します。しかし,どのようにしたらそうした決定を下すことができるでしょうか。
この雑誌の中にあげられている証拠を注意深く考察なさってください。そしてそのさいに,あなたご自身の経験を判断の助けとしてください。聖書を信じている人々のことば,また進化論を信じている人々のことばを,あなたが現実の生活で経験した事がらと比較してみてください。信じられないことを信じるようにと求められているのでは決してありません。
-
-
進化論は現代の挑戦に答えることができるか目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
進化論は現代の挑戦に答えることができるか
人間が今ほど大きな挑戦に直面したことはありません。「全西洋文明は滅びつつある。……全西洋文明は死にかけている。その崩壊は目に見えている。それは今起こりつつある」と,イギリス人の元編集者マルコルム・ムゲリッジは言っています。
犯罪,病気,貧困などの挑戦的な諸問題は,「西洋文明」のみならず全人類を無気味に凝視しています。進化論に対する信仰は,人間がこれらの挑戦に打ち勝つ助けになるでしょうか。それはあなたの私生活に役だちますか。
そのことは期待されていたでしょうか。なぜなら,進化論は人間のほとんどすべての努力の不可欠な部分となっているからです。したがってその影響はきわめて広範に及びます。「地上の生物の驚異」という本は次のように指摘しています。
「ダーウインの働きの中で最も大きな影響を与えたのは進化論であった。進化論は,植物学,生物学,医学に革命をもたらした。宗教,天文,歴史,心理などの研究に新思想をもたらした。……ダーウインがいだいていた[思想]は,科学のあらゆる分野に影響を与えた」。
しかし進化論は,挑戦的な問題の多い,苦しい境遇から人間を導き出しているでしょうか。それとも進化論を背景にしたいろいろな学問は人間の努力をまちがった方向に向けさせましたか。ひとつの例を考えてみましょう。
近年,科学の注意は多くどこに向けられていますか。それは宇宙計画に向けられています。なぜですか。しばしばいくつかの理由があげられます。しかしサイエンス誌は率直に述べています。
「月面における炭素含有物質の探索は,月の起源と歴史の研究の一環であるばかりでなく,生命の起源をなすに至る化学上の進化の初期の段階を知る重要な一歩である」。
そうです,幾十億㌦という費用が費やされてきた主要な理由のひとつは,間接的に認められていますが,進化論を証明することです。しかし地球の外でも,生命の進化を示す証拠は発見されていません。
この多額のお金がどのように使えたかを考えてみましょう。フロリダ州立大学のハンス・ガフロン教授はこう言っています。
「これだけの金を全部他の事がらに使っていたなら,わが国の貧困はほとんど解決したであろう。……住民平均化計画も強力に推進することができたであろうし,非情な力の政治と,考えられない愚かしい戦争の時代もそれによって終わりに近づき,すべての人びとの益となったであろう」。
また,もし人びとが,「考えられない愚かしい戦争」でなく,保健や病気の問題に注意を集中していたなら,それらの問題は少なくとも減少していたのではないでしょうか。米疾病抑制センターの元所長は,「国際関係が2年か3年適度に安定するなら,地球上の天然痘を根絶することは可能である」と断言しています。たとえ誇張であるにしても,この予測は,宇宙空間で進化の証拠を探すために費やされた人間の資力が,もっと賢明に用いられたことを強調しています。
今日の世界が面しているもうひとつの大きな挑戦は,科学にかんするものではなく,道徳的性質を持つものです。イギリスの歴史家,アーノルド・トインビーは,「科学技術の分野で非常な成功を収めながら,道徳の面ではかり知れぬ退廃を招いたことは悲劇である」と述べています。進化論はこの問題の原因のひとつと言えます。
その一例は,子どものしつけという分野に見られます。この分野の専門家の多くは,子どもを懲らしめてはいけない,と助言してきました。彼らの理論の背後には進化論があります。「今日における就学前の教育」という本は,一般化しているこの考え方の是非を問うにさいし,次のように述べています。
「そういうわけで,小さなジョニーが何か『悪い』ことをするとき,その行為はいつでも,この子は今そういう時期を通過しているのだ,ということで説明される。さらに,[一進化論者の言った]オタマジャクシの尾のたとえ ― 尾を切断すると後足が生えないというもの ― に従うと,ジョニーの望ましくない行為は妨げられてはならないのである。さもないと将来望ましい性格が現われないというわけである」。
しかし,「ジョニーの望ましくない行為」を,単に彼が通過しつつあるひとつの「時期」として消極的に受け入れた結果はどうでしたか。アメリカにおける1971年の青少年逮捕者の数は,1966年のそれを50%上回りました。オーストラリアは,ビクトリア州に住む青少年の暴力犯罪が,1960年以来187%以上増加したことを報告しています。青少年人口のほうは同期間に29.6%増加したにすぎません。進化論で汚れた育児理論は,良い道徳の実を結びませんでした。
もとより進化論は他の方法でも,この道徳の低下に力を貸しました。進化論は,神と聖書に対する信仰を妨害しました。その結果,多くの人が,姦淫や盗みを禁ずる聖書の道徳律を捨てました。しかしそれは予期されることではなかったでしょうか。進化論の教えによれば,人間は実際に動物ではありませんか。動物なら動物のようにふるまっても不思議ではないはずです。
これは道理にかなった結論と言えます。しかし進化論者はこれに異議を唱え,『人間は動物以上のものである』と言います。著名な進化論者ジョージ・ゲイロード・シンプソンは,「人間は,動物の持たない本質的な属性を備えている。……その独自の性質の真髄は,他のどの動物にもない特性の中に明確に見られる。……人間は道徳的な動物である」とみています。
人間の道徳的性質は,進化論者になんとやっかいなジレンマを提供するのでしょう。進化論者は,人間は動物から進化したと言います。しかしまた,人間は動物にない道徳的性質を有すると言います。人間はこれらの「本質的な属性」をどこから得たのでしょうか。それはどこからか来たにちがいありません。ある有名な進化論者は,「人間は『家系のない』道徳上のメルキゼデクではありえない」と告白しています。
進化論者のサー・ジョン・アーサー・トムソンは数年前,この問題の処理を試みていたとき,次のことを認めました。「進化論者は,人間にかかわる事がらにおいては,何もないところからさまざまな能力を引き出そうとして創造説に逆もどりすることがあまりにも多い」。進化論者たちは,人間に道徳的性質があることの説明として神を持ち出さないよう,異常な努力をします。「アフリカ人の起源」の著者が行なっている「種類の別を保つもの」についての説明はそのよい例です。
「彼はだれか。われわれは知らない。将来も知ることはないだろう。彼は存在である。ただそれだけである。……彼の存在は,かつて存在したすべてのものの中に,そして今後も常に存在するすべてのものの中に見られる。そして彼の命令が応ずることができないものであるのと同じく,彼の正体も知ることのできないものである。しかし彼が非常に昔からいだいている関心は秩序に対するものである」。
「種の保護者」とか,これに似たあいまいな表現は,「神」という語の代用にすぎないものではありませんか。進化論者は,人間の身体の構造や道徳的性質に全能者のみ手を認めようとせず,彼ら自身の理論をまつりあげてきました。しかしこの進化論の神は,すでに調べたように,人を失望させる神です。
進化論は,今日存在する大きな社会的,技術的,道徳的挑戦に答えることに成功してはいません。いくつかの場合には進化論そのものが問題を引き起こしたり,すでにある問題を悪化させたりしました。しかし聖書はどうですか。今日の大きな挑戦に応ずるようあなたを援助できるでしょうか。
-
-
聖書は問題に答えているか目ざめよ! 1974 | 4月22日
-
-
聖書は問題に答えているか
確かに聖書は命にかんする疑問に答え,その挑戦に応ずるよう援助します。ではどのようにその援助を与えますか。
まず第一に命の源を説明します。『エホバよ……いのちの泉はなんじにあり』と詩篇作者は述べています。(詩 36:5,9)エホバ神は命を与えます。聖書を信ずる人は進化論者のジレンマに落ち入ることはありません。また,生命は常に生きた源から生ずると論じ,すぐそのあとで,生命は最初無から生じた,などと言う必要もありません。
聖書を信ずる人は,宇宙とこの地上に調和と豊かな美とが見られるのはだれのせいかをよく知っており,恵みと愛の神エホバがそのようにお造りになったことを知っています。
動物はなぜ捕食するか
しかしなかにはそれに異議を唱え,その調和と美は単なる想像であって現実ではない,と言う人もあるかもしれません。たとえばバートランド・ラッセルはこう言ったことがあります。
「わたしはこの『美』と『調和』とがどこにあるかわからない。動物の世界ではどこでも,動物どうしがむざんな捕食を行なっている」。
一部の動物が他の動物を食べるのは事実です。しかし人間と違って動物は,スポーツのために殺したり,大規模な戦争をして殺すようなことはしません。動物はたいていの場合食べるために殺します。空腹のライオンでさえ,家畜の群れの中に乱入して「むざんに」殺すようなことはせず,当面必要としているものを取るにすぎません。
また,動物の攻撃的な行動と考えられているものは,一般に言われているほど広範囲に渡るものではない,ということもおぼえておくべきです。サイエンティフィック・アメリカン誌(1973年7月号)には,「ジオグラフィカル・エコロジー」という本の書評がのっています。
「変化に富む自然環境の中では,生物の種類が豊富に混じり合っている。攻撃的な競争の前には資源利用のための競争がなければならない。共通に有用なある資源を得るためでなければ,戦うことには確かに意味がない。こうした大きな理由があって,攻撃
-