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  • あなたは進化を信じますか,それとも創造を信じますか
    ものみの塔 1971 | 5月1日
    • 的に異なる生命形態が生じうる,しかも,そのような変化のうち真実に有益なものは,自然選択によって保存される,と推測されています。しかし,事実はどうですか。ガはワシに進化しませんでした。ミバエはノスリを生み出しませんでしたし,ブドウはスイカになりませんでした。色・大きさ・味を変化させることはできましたが,他の種類の植物やこん虫に変化するという事態は起こりませんでした。つまり,進化に対する証拠は皆無です。こうした点について,お子さんといっしょに判断を下してください。事実と推測との違いを見わけるよう援助してあげてください。真の科学は神のみわざの研究であって少しも悪いところはない,ということを教えてあげてください。しかし,偽って“科学”とか“知識”とか呼ばれるものが多く,それを受け入れたために,人生の中で真実に価値あるものを失った人たちがいるのです。―テモテ前 6:20,21,欽定訳。

      創造の証拠

      11 (イ)信仰を築くにあたり,進化の弱点を調べることよりもっと重要なのはなんですか。(ロ)進化論者を困惑させているどんな質問に聖書は答えていますか。その答えは,観察しうるどんな事実と一致していますか。

      11 進化の弱点を分析するよりも,聖書そのものの内容,および観察しうる証拠と聖書との一貫性を調べることのほうがさらに重要です。聖書の冒頭の節は,驚くような簡潔さをもってこう述べています。「元始に神天地を創造たまへり」。(創世 1:1)これからわかるように,進化論者を困惑させている疑問に,まっこうから取り組んでいるのです。万物の起源に関する根本的な間題に関して,不明りょうなままにわたしたちを放置するのではなく,聖書は簡潔に,しかも理解しやすい方法で答えを提供しています。それはわたしたちが自ら観察を通して得た結果,すなわち何物もひとりでに存在するようにはならないということを確証しています。草でできた小屋であろうと,木造家屋であろうと,レンガ造りのアパートであろうと,すべてだれかに設計され建設されたものです。個々の建物がたてられる際,そこに居合わせなかったにしても,それを建てた者がいることをわたしたちは知っています。これに一致して,聖書は次のように論じています。「家は凡てこれを造る者あり,万の物を造り給ひし者は神なり」― ヘブル 3:4。

      12 聖書が述べるように,地球を造るには確かに“能”が必要であったことを,何が明らかにしていますか。

      12 エレミヤ記 10章10-12節〔新〕には,この点がさらに詳しくしるされています。「エホバは真の神なり彼は活る神なり…エホバはその能をして〔産出的な〕地をつくり…その〔理解〕をもて天をのべたまへり」。この記述はわたしたちが観察できる事柄と一致しますか。地球を造るには,偉大な力が必要でしたか。地球を構成する物質のほんの微少な部分に含まれる原子を分裂させると何が起こるか,写真でごらんになったことがあるにちがいありません。同じ方法で膨大な力が放出され,それが建設的な用途にも,破壊的な用途にも供されることは,種々の核装置の爆発がくり返し証明しているところです。1ポンド(約454グラム)の物体中の原子が全部エネルギーに転換できるとするなら,その際に放出される力はTNT(強力爆薬)1,000万トンの爆発に相当するということです。そうであれば,わずか1ポンドどころか,重量6.6×1,000の7乗トンの地球を構成する物体を造るには,どれほど大きな力が費やされたことでしょう。

      13 聖書の述べていることと一致して,「産出的な地」はどのように「知恵」を証していますか。

      13 「産出的な地」についてはどうですか。地を据えられたことに,神の知恵が明らかに認められませんか。確かに認められます。地球は,人間の生命の維持に必要な化学要素と同じ要素で構成されていることが,研究の結果明らかにされました。しかし,それらの要素はまず,植物によって人体に吸収されうるような形態に変えられねばなりません。その中には,人体の1%の100分の1に満たないものすらありますが,それでも生命には欠かせません。植物と協力してそうした諸要素を供給してくれるのは,土中に住む,ありとあらゆる形態の何十億という微生物です。その各は,枯れ葉や草,また他の廃物を有用な形に還元したり,空気や水がはいり込めるよう土を柔らかくしたりします。正直にいって,生命を維持するためのこの備えが偉大な知恵を反映していないと,だれが否定しうるのでしょうか。―詩 24:1; 89:11。

      14 大気の存在する天のつくりは,どのように「理解」を反映していますか。

      14 次は「天」ですが,それは理知ある設計によるものであることを,わたしたちに理解させてくれますか。月には事実上大気というものがないのに,人間の住むこの地球には大気が存在しており,その気体の組成が人間の呼吸作用にちょうど適しているということは注目に値します。地上で生活するには,“宇宙服”など必要ありません。都合の良いことに,この大気の特殊な組成のため,引力によって地球にひきつけられるいん石は,地上に落下する前に燃えつきてしまいます。日々大気に突入する2億の岩石から,わたしたちが守られているのはそのためです。さらにこの大気のおかげで,地球をうるおす雨ができ,日中,過剰な太陽熱は吸収され,また夜間には,適量の熱が保存されます。大気の存在する「天」が巧みに設計されたものであり,わたしたちよりもはるかにすぐれた理解を持つかたのわざであることは,なんと明白でしょう。

      15 天体が正確に運行する事実は,どのようにして説明がつきますか。

      15 いうまでもなく「天」は,地球の大気のはるかかなたへと広がっています。大気はそのごくわずかな部分にすぎません。エホバは次のように勧めておられます。「なんぢら眼をあげて高をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ 主は数をしらべてその万象をひきいだしおのおのの名をよびたまふ 主のいきほひ大なり その力のつよきがゆえに一も欠ることなし」。(イザヤ 40:26)天体はともどもに,驚くような正確さをもって運行するゆえ,人間は長い年月,それをもとにして時間を計り,それをたよりに航海している状態です。それらの天体を各の場所に定め,また,天体の運行の法則を定めたのはだれですか。(ヨブ 38:33。アモス 5:8)進化論はなんら答えを提供していません。しかし聖書は,答えを与えているのです。「もろもろの天は神のえいくわうをあらはし穹蒼はその手のわざをしめす」。(詩 19:1)それは,「エホバ…活る神」のわざです。―エレミヤ 10:10。

      生命の起源

      16 生命の起源に関して,観察しうる事実と調和しているのは進化論ですか,それとも聖書ですか。説明しなさい。

      16 生物について,あなたはどんな事柄を観察してこられましたか。植物は生命を宿す種子から発育しませんか。こん虫・魚・陸生動物・人間は,生きた親から発生するのではありませんか。種子がその割れ目にでも運ばれるか,卵がそこに産み落とされるのでもないかぎり,岩から生物が発生することなど絶対にありません。つまり,生命を有するものが発生するには,生きた源が必要になります。生物学者はこの点について同意しますが,進化を主張する人たちは,今日その実例を指摘できるわけでも,同じことが見られるわけでもないのに,何百万年も前,生命が生命のない物体から何度も発生した,ということを信じさせようとします。彼らはその証拠をこの地上に見いだすことができないので,月探検に人間を送り,そこで証拠を捜させ,さらに火星で自分たちの理論を確かめることを期待しています。しかしながら聖書は,生命は生きた源からしか来ないという観察可能な事実と一致しており,詩篇 36篇9節は「活る神」であるエホバに向かって,「いのちの泉はなんぢに在り」と語りかけています。

      17 神は進化の過程を用いて,今日存在しているさまざまな種類の植物や動物を生み出されたとする考えが,聖書と相いれないのはなぜですか。

      17 聖書は,さらに,さまざまな種類の生物がどのようにして存在するにいたったかを説明しています。その冒頭の章は,神が植物・海生動物・鳥類・陸生動物を造ったことを告げています。(創世 1:10,11,21,24)聖書は,単細胞の生命形態が草・木・魚・鳥・陸生動物などに進化したとは述べていません。また,神はそうした原始的な生命形態を創造し,その後,進化の手段を用いて,今日存在しているさまざまな種類の植物や動物を生み出された,というような考えは聖書と相いれません。聖書は,神がなにかほかの種類からではなく,おのおの「その種類に従って」生じさせたと述べています。人間が造り出される時が来た際,人間は,アダム前とも言うべき類人猿的なものから発育させられたのではありません。聖書は次のように述べています。「エホバ神は土の塵から人を形造り,その鼻に命の息を吹き入れはじめられた。すると,人は生きた魂となった」。次いで,その最初の人間アダムが父親になった時,おのおの「その種類に従って」生み出すという法則に調和して,彼のむすこは『その像に循ひ 己に象たる』ものでした。―創世 2:7,新; 5:3。

      18 (イ)生物は「その種類に従って」繁殖するという聖書に一致するものとして,どんな証拠をあげることができますか。(ロ)進化とは対照的に,聖書が物事を深く考える人に訴えるのはなぜですか。

      18 このように,聖書に述べてある事柄は,あなたが自分でごらんになってきたことと全く調和しています。種を植えると,「その種類に従って」芽が出ます。この法則が当てになることを確信して,あなたは自分の庭園を設計なさるでしょう。ネコはネコを産みます。人間の親から生まれてくる子どもは人間です。色・大きさ・形には変化があっても,そうした変化は絶えず科・属の制限内で行なわれるのです。そうでない場合を自分で見たことがありますか。ないはずです。ほかのだれひとりとして見た人はいません。今日,地上には30億以上の人間と,加えて,無数の動植物が生存していますが,そのすべては聖書の記述の真実性に対する生きた証拠です。

      なぜ信じるのか

      19 あなたが創造を信じる理由はなんですか。

      19 1967年10月号,「科学教育」誌の次の見解は興味深いものです。「現代の生物学に詳しい人々の非常に多くが進化論を退ける基本的な理由は,それが聖書の創造の記述と矛盾するからである」。聖書が神の霊感を受けたことばであると真実に信じているなら,それこそ,創造を信じる最重要な理由であるはずです。進化論の欠陥に気づいた,という単なる理由で創造を信じるようになるのではなく,神とそのみことばを信じるがゆえに,創造を信じるのでなければなりません。あなたの場合はそうですか。

      20 進化を支持する新聞の報道を気にする必要がないのはなぜですか。

      20 そうであるなら,新聞などで進化論者の“発見”が報道され,それが進化の“証拠”として称揚されても,別に当惑しないでしょう。また,進化論者が自論の弱点を認めたとしても,驚くことはないでしょう。つまり,宇宙や生物の起源については,つい最近存在するにいたった人間よりも,神のほうがはるかによくご存じであることを,十分の根拠をもって確信しているからです。―ロマ 11:33,34。

      21 創造を信じるには,見えない創造者に対する信仰が必要ですが,そのほうが進化を信するよりも理性的であるといえるのはなぜですか。

      21 創造に関する聖書の記述を信じている人は,自分の立場について少しも弁解がましく感ずる必要はありません。自分は見えるものしか信じない,だから神を信じないのだと言って,あなたのことを非難する人がいるかもしれません。しかしながら,彼らが進化を信じると唱えるなら,すでに学んだように,自分はおろか,だれひとりとして見たことがないにもかかわらず信じている事柄は,実はたくさんあるのです。入手できるすべての証拠に反するばかりか,人間のあらゆる経験と矛盾する事柄が,見たこともないのに起こったと信じるのは,健全な思考の現われだと言えますか。進化のケースはそれと全く同じです。それに反し,全宇宙と全生物がおのずと明らかにしている事実,すなわち,理知ある設計と人間よりもはるかに強力なエネルギーの源を前にして,全能の創造者の存在を信じるのは,より理性にかなっていることではないでしょうか。―ヘブル 11:6。ロマ 1:20。

      22 神は聖書の中に,過去についての詳細な事柄を記録させられたほかに,何を備えられましたか。ゆえに,何をするのが賢明であると言えますか。

      22 答えは簡単です。創造を信ずることは事実に合致します。聖書はそうした事実と完全に調和しています。しかし,聖書は過去についての詳細を記録しているにとどまりません。エホバ神は,現在の諸間題に首尾よく対処するうえでわたしたちが必要とする導きを,その中に備えてくださいました。そして聖書は,将来に対するエホバの愛ある備えから益を得るため,わたしたちが何をしなければならないかを明らかにしています。したがって,聖書に述べられている事柄すべてを詳しく知ることは,知恵の道だと言えます。

  • 進化は信仰をそこなう
    ものみの塔 1971 | 5月1日
    • 進化は信仰をそこなう

      1 キリスト教世界の僧職者の多くが進化を肯定するのを知って驚く人がいます。なぜですか。

      進化の教えは,神に対する信仰を築くようにはできていません。それは聖書に対して深い尊敬の念をいだかせるわけでもありません。そのため,キリスト教世界の僧職者の大ぜいが進化論をはばからずに肯定したり,教会の後援する学校の教科書でその教えが支持されたりするのを知り,あらためて驚く人がいます。

      2 (イ)カトリックの代弁者たちは,進化を信ずることについてなんと述べてきましたか。(ロ)彼らの見解は聖書とどのように矛盾しますか。

      2 この傾向がローマ・カトリック教会内でどのように育ってきたかについて,「カトリック新百科事典」は次のように述べています。「1950年に〔教皇ピオ12世の発した〕回勅,人類の起源は,新しい傾向を生みだす出発点となった…進化は根拠確実な仮説として,はっきり認められた」。オランダの神学校の教師で,聖アウグスチヌス修道会の会士A・ヒュルスボスクは,これと同様な発言をしています。「生物学の見地から,人間の起源が動物界にあったことはもはや否定できない」。a さらに,カトリックのデューケイン大学の招聘教授,イエズス会のピーター・シューンバーグはこう述べています。「さて,人間という種の起源を考慮してみると,その親は最も下等なものであったことがわかる。最初の人間たちの『親』は人間ではなく,動物であったからである」。b しかしながら,こうした発言は聖書と直接矛盾するものです。聖書は,アダムが「神の子」であり,彼が神に「象て」造られたと明白に述べています。―ルカ 3:38。創世 1:26。

      3 あるカトリックの学校では,進化の教えがどの程度推し進められていますか。その結果,学生たちはどんな影響を受けていますか。

      3 それらカトリックの教師たちの進化に対する態度は,消極的なものではありません。むしろ,この教えを学生たちに徹底的に印象づけたいと考えています。これは,アイオーナ(カトリック系)大学で使われている生物学のある教科書から明らかなとおりです。その序文にはこう書かれています。「生物学における最も一般的な原則は進化である。この

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