ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 専心の献身
    ものみの塔 1956 | 3月1日
    • 専心の献身

      あなた方の神である私エホバは,専心の献身を求める神である。―出エジプト 20:5 新世

      1 人間のつくり主は,すべての人間から,なぜ専心の献身を求める権利を有していますか?

      生ける神であるヱホバは,専心の献身を求める権利を有しています。ヱホバは,人間と,人間の住んでいるこの地をつくられました。すべての人間は,ただ御一人の至上支配者であるこの御方に栄光と讃美を捧げるべきであります。この御方みずから『われはヱホバなり。是わが名なり。我はわが栄光をほかの者に与えず,わがほまれを偶像にあたえざるなり。』と言われました。(イザヤ 42:8)ヱホバは,最初この地をつくり,それから人類最初の両親であるアダムとエバを地の塵から創造して,楽園の住居,エデンの中に住まわせました。ヱホバ御自身がそのことを述べておられます。また地に充ちて,地を治め,そして子孫のために全地球を楽園<パラダイス>にするようにと,ヱホバは両人に告げました。この二人は,神に逆いて,神以外の他の者の言葉に従い,その者と共にヱホバに反逆しました。反逆をしたアダムは,死の宣告をうけました。(創世 3:19)『ひとりの人によつて,罪がこの世にはいり,また罪によつて死がはいつてきたように,こうして……死が全人類にはいり込んだのである。』(ロマ 5:12,新口)そのわけで,最初の両親から生れてきた人類は,『この世の神』である悪魔サタンに従属するようになりました。

      2 ヱホバの至上権に関する大論争は,どのようにそして何時解決されますか?

      2 今日の人類は,この地上に住む権利はありませんが,ただ真の神の過分の御親切によつて,生活しています。全能の神は,その御旨に適う時まで,この世の支配者である偽りの神サタンに干渉いたしません。エデンの反逆以来,すでに約6000年が経過した現在でも,ヱホバは最初の不忠実者(いまのサタン)の存在を許しておられます。しかし,ヱホバがサタンの不忠実を永遠に許すことは,ありません。ヱホバは,次のような予言の言葉を語られました,『私があなたをながらえさせたのは,あなたに私の力を見させるため,そして,私の名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない。』(出エジプト 9:16。ロマ 9:17,新口)誰が至上支配者であるか,というこの大論争を最終的に決定する時は,いまや来ました。偽りの神,サタンが,ハルマゲドンの『全能の神の大いなる日の戦争』で底無い坑に投げいれられるとき,自由な生きものはことごとくヱホバに専心の献身を捧げるでしょう。―黙示 16:13-16; 20:1-3。

      3,4 (イ)その大論争を解決するために,どんな事柄がすでに行われましたか?(ロ)現在の賢明な人々は,どのようにして,重大な間ちがいを避け得ますか?

      3 聖書を研究する者たちは,神の御目的についての知識を持つています。そして,人類を死から贖うために,神が御子イエス,キリストを地に遣して,その完全な犠牲としての生命を棄てさせたことについても知つています。このことは,今から1923年むかしに行われました。たしかに,イエスは,ヱホバの正しい立証者で1914年には支配者の地位に即かれました。父の御国を設立したときのイエスの最初の御業は,悪鬼共と,もろともに悪魔を,天からこの地に追い落すことでした。そのことが,すでに終了している現在,『全能の神の大いなる日の戦争』までの時は,きわめて僅かです。そのとき,ヱホバは,御自身の至上の力を示し,かつあらゆる献身はことごとくヱホバに捧げられるべきことを,示すでしよう。正義を愛する人々は至上支配者に専心の献身を捧げてきました。現在は,この組織制度の終りについての神の予言が成就している時代であつて,私たちは今そのすばらしい時代に生存しているのです。すべての人は,聖書を繙いて,聖書を読み,研究し,そして,聖書の正しい知識を得るべきです。『もし私たちが,真理の知識を受けたのちにもなお,ことさらに罪を犯しつづけるなら,罪のためのいけにえは,もはやあり得ない。ただ,さばきと,逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを,恐れつつ待つことだけがある。』(ヘブル 10:26,27,新口)正しい考え方,つまり神の教えたもう考え方をすることにより,私たちは宇宙の至上支配者に専心の献身を捧げ,しかして幸福であります。さばきを,恐れつつ待つということはありません。

      4 現在の人類が属しているこの世の組織制度は,人々の心を不健全なものにしています。多くの人は,将来の希望を持つていません。そして,『私たちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ。』と言いながら,ただ現在だけに生きています。(コリント前 15:32,新口。イザヤ 22:13)人々は,憎しみの心,情欲の心,利己的な心をいだいており,幸福はただ他の者を打ち負かすときに得られる,と信じています。そして,彼らは商業,政治,宗教の分野で,他の者を打ち負かすことにより,この偽りの幸福を得ようと,努めています。しばしば,国家が他の国家を打ち負かそうとします。この世と,その民は,利己主義に没頭しています。これは世界の亡びをもたらすでしよう。変化は是非とも必要です。そして,将来にその変化は来ます。

      5 過去および現在,人間の行つている崇拝の方法は,何を証明していますか?

      5 今日,人々は自分自身を崇拝するか,または高位に即いている他の人々を崇拝しています。人々は偶像をつくり,かつ偶像の所持を愛しています。偶像ということに関して言うならば,今日の人々は幾世紀もむかしの人々に,すこしも勝つていません。歴史の示すところによると,石でつくられた男神,女神,四足の動物・魚・鳥などに捧げる崇拝が行われていました。あらゆる種類の被造物は,木や石に刻まれてから台坐に乗せられ,人々はその前にひれ伏しました。神の選民であつたイスラエル人も,金属や,石や,木でつくられた偶像を拝みました。その結果はどんなでしたか? ヱホバは,モーセを通して次のように命ぜられていました,『あなた方は,それらを拝んでもならないし,仕えてもならない。あなた方の神である私ヱホバは専心の献身を求める神である。私を憎むものには,父の罪を子に報いて,三四代に及ぼす。』(出エジプト 20:5,新世)全世界みずから知るごとく,この世はヱホバ以外の他の神々を選んで崇拝しています。そして今日の人類は,意識しているにもせよ,又は無意識であるにもせよ,至上支配者に敵対しています。

      6 サタンの働きはヱホバと地の住民たちに,どのような影響を及ぼしましたか?

      6 聖書に『この世の組織制度の神』と云われている悪魔サタンは,ヱホバの大敵です。(コリント後 4:4,新世)その偽りの神は,すべての人の心と気持をヱホバ神から引き離し,サタンと悪鬼共がヱホバを憎むように,人々をしてヱホバを憎ませようと欲しています。悪魔は,不信者の心を暗ますために,ありとあらゆることを行つています。そして,信者たちを欺いて暗ますために,非常な努力を傾注しています。悪魔は,すべての人間がある物体の崇拝を行うようにと欲しています。その崇拝がどれ程堕落しているものでも,利己的なものでも,又は愛のないものでも,そんなことには一向痛痒を感じないのです。悪魔は,人類を堕落させるために,あらゆる手段に訴えます。しかし,悪魔の企てがどんなものであろうと,また人間を讃えて崇拝せよ,と吹聴する宣伝が,どれ程大きくても,またヱホバの即位したキリストに従う真のクリスチャンたちに対する迫害の圧迫がどれ程厳しかろうと,真の神は真実の崇拝者たちの専心の献身を求めていられます。まつたく,ヱホバの証者は,けつして妥協しません。ヱホバの証者は,他の神々を拝んでもならないし,仕えてもなりません。もし,そうするなら,彼らは死にます。ヱホバは,人間や偶像への崇拝をゆるしません。

      7,8 (イ)ヱホバへの従順は,なぜ一番大切ですか?(ロ)従順と不従順のどんな結果を比較するとき,私たちは益を受けますか?

      7 ヱホバが,最初の人間に与えた生命は賜物でした。人間は,創造主に従いつつ,この生命を用いてヱホバを讃美して崇拝し,そして自分の生命を保つことができたはずです。創造主に従順に従うことが,一番大切な事柄でした。地上に住むすべての人,および宇宙内のすべての被造物は,主権者の御意を行わねばなりません。神の子キリスト・イエスは,従順な行によつて永遠の生命を得られ,かくしてヱホバへの専心の献身を示しました。エジプトの地から導き出されたイスラエル人は,荒野の中の長い旅行中に,神の崇拝に関して,しばしば間ちがいました。しかし,この期間中,ヱホバ神は不忠実なイスラエルに対してまつたく隣み深い態度をとられました。ヱホバが,イスラエルの国民全部を当然に亡しても良い場合は,再三再四ありましたが,しかし,ヱホバは御自分の御名の為と,また彼らの先祖アブラハム,イサク,そしてヤコブと結ばれた御約束の故に,彼らを御自分の選民として保たれました。しかし,心のかたくななそれらのユダヤ人は,幾世紀ものあいだ,自分の我儘な道を歩み,かつ自分たちの毎日の生活必需品を与えられる御方に捧げる真の崇拝を忘れて,他の神々を拝みました。『すべて悪をなすものは,ヱホバの目に善と見え,かつ彼に悦ばる。』と言う振舞をしていました。(マラキ 2:17)エジプトから救い出されてから約1000年の後,イスラエル人は実際にこの言葉を語りました。彼らは全く堕落してしまつたのです。宇宙の唯一つ真の神が,そのような不忠実を永遠に許される,と考えられますか?

      8 後日のパウロの時代に,状態はさらに悪化しました。パウロは,人類について,こう評価しました,『彼らは自ら知者と称しながら,愚かになり,不朽の神の栄光を変えて,朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに,神は,彼らが心の欲情にかられ,自分のからだを互にはずかしめて,汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし,創造者の代りに被造物を拝み,これに仕えたのである。創造者こそ,永遠にほむべきものである,アアメン。』― ロマ 1:22-25,新口。

      今日の人間は勝れていますか?

      9,10 異教国といわれる国民のしている崇拝は,キリスト教国のしている崇拝と似ていますか?

      9 今日のある人々は,ローマ帝国時代の時以来,人類はずつと進歩しており,そして今の人類は,むかしのイスラエル人,ギリシヤ人,またエジプト人とはちがう,という風に考えています。しかし,今日の人々の考え方や,崇拝はむかしの人々よりも良いものでしようか? 異教国と言われる国民を見てごらんなさい。それらの人々は,いまでも木,石,金属の偶像を拝んでいます。果して,キリスト教の諸国家は,良いものでしようか? 全く良くありません。彼らも,十字架や,祭壇や偶像や,又は『処女』と他の『聖徒』と思われる像を拝んでいます。宗教的な行をする男,女,子供が,人の手でつくつた偶像や,独裁者たちの写真を拝むのは,もちろんのこと,多くの人々は,偉人や戦争英雄の像を崇拝し,そして『無名戦士』の『永遠』記念碑の前で祈りを捧げているのです! 無名戦士者は,犬死にをしたのではなく,『世界を民主化する』ために死んだのである,と彼らは主張していますが,しかし彼らは,死者を崇拝しているのではないでしようか?

      10 世界戦争で死んだそれら幾百万という人々は,民主主義と,人類の福利のために,世界を安全なものとしましたか? そのようなことはありません。丁度異教国の幾百万という人々が,死んだすべての祖先を幾世紀にも亘つて崇拝してきたように,今日のキリスト教国は戦死者たちを拝んだり,崇めたりしています。今日のキリスト教国では,人々はこの世の実際の武器や,目に見える指導者たちに信頼しており,全くのところ,そのような指導者を崇拝しています。それは,今日の世界の実情です。いつたい,彼らは真実の生ける神ヱホバを崇拝していますか? 先祖崇拝や,偶像崇拝を行うなら,その崇拝がどんな種類のものであつても,私たちは神に近づくのである,と多くの人々は主張します。しかし,その通りでしようか? どの神に近づきますか?『この世の神』である悪魔サタンに近づきますか? 又は,生ける神である,至上支配者ヱホバに近づきますか?

      11,12 今日,真の崇拝を行うことは,なぜ時機にかなつていますか?

      11 今日の人類は,むかしのイスラエル人や異教の人々と同じく,偶像を崇拝しています。ヱホバは,御自分の選民を棄てられましたが,それは彼らがヱホバに専心の献身を捧げなかつたからです。今日,20億以上の人々が住むこの全世界は,ことさらに至上支配者を認めないため,ヱホバ神により棄てられています。(エレミヤ 25:32,33)今こそ,すべての人は生ける神ヱホバに頼り,ヱホバの言葉を学び,そして永遠の生命の道を知るべき時です。この『全世界は悪しき者の配下にある。』とヨハネは言いました。(マタイ 13:19。ヨハネ 12:31。ヨハネ第一書 5:19)最初,サタンは首尾よくエバを欺いてしまい,それからエバを通してアダムを正路から踏み外づさせ,かくして両人を真の崇拝から引き離しました。過去および現在に,ヱホバの代弁者の告げる賢い忠告は,『サタンに欺かれることのないためである。私たちは,彼の策略を知らないわけではない。』― コリント後 2:11,新口。

      12 今日の世界は,人々の心と気持を暗ましている『この世の神』の影響と指導の下にあります。『この世の神』は,人々の心を暗まして,誰が宇宙の至上支配者であるか,を見させないようにしており,又ヱホバの御目的を理解させないようにしています。その悪しき者は,人間の生きることを欲しません。むしろ,ヱホバの「ハルマゲドンの戦争」で,人間が朽ちるようにと欲しています。人類は,肉の業,すなわち『不品行,汚れ,好色,偶像崇拝,まじない,敵意,争い,そねみ,怒り,党派心,分裂,分派,ねたみ,泥酔,宴楽,および,そのたぐいである』行いを続けているため,亡びの日に向つて進んでいます。それこそ,悪魔の願つている事柄です。『このようなことを行う者は,神の国をつぐことがない。』― ガラテヤ 5:19-21,新口。

      誰が専心の献身を捧げるか?

      13 新しい世の生活に対するどんな重要な要求を,いま認めることができますか? 誰が認めますか?

      13 今日の地上には,新しい世の社会があります。それは,真の神ヱホバに専心の献身を捧げようと固く決意している男,女,子供たちで成り立つ社会です。彼らは,ヱホバの忠実な子,私たちの主イエス,キリストの血によつて,その汚れが清められたため,肉の業はありません。(エペソ 1:5-7),彼らは,今『愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,信仰,柔和,自制である御霊の実』を結ばねばなりません。(ガラテヤ 5:22,23,新口)生き残つて至上支配者の御旨に適おうと欲する人は,みな正しい生活についてのこの良い原則に従わねばなりません。心を入れ変える,つまりヱホバの望まれるような考えをなし,また正しい有益な考えをすることによつて,新しい世の生活に今から備えて準備することができます。『全能の神の大いなる日の戦争』を生き残るすべての人は,他の人や,自分自身,また真の神に対して次のことをはつきり証明するでしよう。すなわち,自分はヱホバに従順であることを真実に欲しており,かつヱホバに専心の献身を捧げると共に,正義が永遠に宿る新しい世でよろこびつつ,ヱホバに崇拝するということを示します。

      14,15 (イ)全能の神は,なぜ特定な人々を選んで,御子と共に天における共同相続者にならせましたか?(ロ)ヱホバのひとりの羊飼の下に,誰が『ひとつの群』になりますか?

      14 誰が至上者か,という主権の大論争は,解決されねばなりません。しかし,ヱホバは御自分の予定の時を選ばれます。今からずつと以前のむかしに,忠実を保つ人々は,どんなひどい逆境の下でも忠実を持ちつづけると,ヱホバは立証されました。ヱホバは,あらゆる国,種族,そして言語から来たすべての種類の人間によつて,このことを立証されました。今から1900年前,イエス・キリストが地上に居られたとき,彼は従順な人々のために道を開き,全能の神と和解せしめるようにいたしました。ヱホバ神に真実の栄光と名誉を捧げる新しい国民が創造されました。『小さな群』と言われている,14万4000人で成り立つその国民は,キリスト・イエスと共に,天的な御国の共同相続者になり,キリストと共に千年のあいだ支配するよう,ヱホバによつて定められました。パウロは,それらの者たちに手紙を書き送つて,こう述べました,『さて,あなたがたは,先には自分の罪過と罪とによつて死んでいた者であつて,かつてはそれらの中で,この世のならわしに従い,空中の権をもつ君,すなわち,不従順の子らの中に今も働いている霊に従つて,歩いていたのである。また,私たちもみな,かつては彼らの中にいて,肉の欲に従つて日を過ごし,肉とその思いとの欲するままを行い,ほかの人々と同じく,生れながらの怒りの子であつた。しかるに,あわれみに富む神は,私たちを愛して下さつたその大きな愛をもつて,罪過によつて死んでいた私たちを,キリストと共に生かし ― あなたがたの救われたのは,恵みによるのである ― キリスト・イエスにあつて,共によみがえらせ,共に天上で座につかせて下さつたのである。それは,キリスト・イエスにあつて,私たちに賜わつた慈愛による神の恵みの絶大な富を,きたるべき世々に示すためであつた。あなた方の救われたのは,実に,恵みにより,信仰によるのである。それはあなた方自身から出たものではなく,神の賜物である。』― エペソ 2:1-8,新口。

      15 この人々は,すべてヱホバ神に専心の献身を捧げています。彼らは,『共に建てられて,霊なる神のすまいとなるのである。』(エペソ 2:22,新口)しかし,現在では,あらゆる国,種族,そして言語からの多くの人々が,ヱホバ崇拝に来ています。まつたく『大いなる群衆』は,いま『小さな群』の残れる者とともに存在しています。彼らはみな,ヱホバのひとりの羊飼であるキリスト・イエスの下のひとつの群にみちびかれています。聖書に『他の羊』と呼ばれている(ヨハネ 10:16)これらの人々も,彼らの神ヱホバが専心の献身を求むる神であり,そしていかなる敵対者をも許し給わない,ということを知つています。その故に,彼らはこの世から離れました。『ひとつの群れ』にいるすべての人は,イエスの次の言葉に注意を払つています。すなわち,イエスは世にいたが,世の一部ではなかつたこと,(ヨハネ 17:14-16)そして『まず神の国と神(ヱホバ)の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう。』― マタイ 6:33,新口。

      16 いま,すべての人間がヱホバの至上権を認めることは,なぜ必要ですか?

      16 神の御国を求めるときに,神への専心の献身を捧げることが是非とも必要です。現在設立されている神の御国は,ヱホバの御名と御言葉を立証いたします。今から約40年むかしに,御国の行つた最初の事柄は悪魔を,天の競争者という地位から追い落すことでした。(イザヤ 14:2。黙示 12:9)いまでは,サタンと,その見えざる手下共は,地の近くの場所で働くことしかできません。しかし,彼らがこの地から追い出されるのは,必至です。そのとき,いま設立されているヱホバの御国は,敵対者のない支配権,つまり至上権の大論争を解決します。(イザヤ 9:7。ダニエル 2:44)『あなた方の神である私ヱホバは,敵対を許さぬ神である。』(出エジプト 20:5,新世,欄外)ヱホバは,他のものに御自分の栄光を与えません。真理と正義に関するヱホバの原則は,遂行されます。これから先の将来,全宇宙に住むあらゆる生物は,ヱホバが最高主権者であられることと,またその御名がヱホバであること,とを考えねばなりません!(イザヤ 2:11。ハバクク 2:20)『ヱホバは御自分の御名を全く尊ばれておられる故に,あなた方は他の神を拝んではならない。ヱホバは専心の献身を求める神である。』― 出エジプト 34:14,新世,フェントン訳。

      『御名があがめられますように』

      17,18 今日,すべての人間はヱホバのどんな権利を認めねばなりませんか?

      17 ヱホバは,御自分の御名と同等の立場に立つ他の名前を許されません。ヱホバは,あらゆるものに秀でておられます。全宇宙内のすべての力と権威を持つヱホバは,ある時期のときに只一人でおられました。ヱホバはこの至上権を他のものに与えたことは一度もなく,これからも与えられないでしよう。すべてのものは,このヱホバによつてつくられ,創造され,産み出され,生命が与えられました。創造は,ヱホバの御業です。ヱホバは,あらゆる生命の根源者です。ヱホバは,御旨のままに,創造したり,また亡すことができます。ヱホバは,永遠から永遠に存在する永遠者であると共に,創造の神であられます。そして,他の者も生命を楽しむようにと望まれ,賜物として生命を与えておられます。(詩 90:1-17)ヱホバは,そうなされると共に,被造物が彼を至上支配者と認め,彼に専心の献身を捧げるよう,求めておられます。ヱホバと争つて競争する,ということは,決して許されません。ヱホバは,男と女を創造しましたが,それは両人を崇拝の対象にするためではありません。両人は崇拝者になるべきでした。ヱホバは陶器師のようです。陶器師は,地の粘土から形あるものをつくり上げて,よろこびを感じます。陶器師の廻転具の上にのせられる粘土は,陶器師の指先通りになります。どんな形の器をつくろうか,どんな光沢をつけようか,格別美しいものにしようか,又は日用品向きのものにしようか,そのできる器の種類を決定するのは,陶器師であります。陶器師が美しい器をたくさんつくつて,それを棚の上に置いて展示するなら,人はその芸術家の作品を見て,器を崇拝するようなことをせず,讃美することもしません。つくられているものに名誉や誉を捧げません。賞讃の言葉,賞揚の言葉は,器をつくつた人に捧げられます。陶器を見ながら,その陶器を賞揚したり,又は尊崇したりする人がいるなら,その人の頭はすこし変だと思います。しかし,その人が陶器の作り主を讃めるなら,その人の讃め言葉は妥当なものです。

      18 ヱホバは陶器師です。ヱホバはつくり主です。ヱホバは,美しい生物を地上につくられました。ヱホバは,生物のかたちをつくられ,それに形態を与えられました。また,生物を愛らしいものになし,美しいものにいたしました。ヱホバは,それ以上のことをいたしました。ヱホバは,それらのものに生命を与えました。それで,賞讃をうける御方は,ヱホバであられます。尊崇と専心の献身を,ヱホバに捧げるべきであります。私たちは,つくられたものです。私たちは,陶器師の器がそのつくり主に名誉を帰すると同じ様に,私たちのつくり主を崇めます。私たちの生きているのも,みなヱホバ神のおかげによります。誉はヱホバ神に帰さねばなりません。ヱホバは,いかなる敵対者をもゆるしません。将来でも,ゆるさないでしよう。

      『他の神々に従うべからず』

      19,20 (イ)人間が賞讃を受けようと欲していることから,何が分りますか?(ロ)ヱホバに対する侮蔑についてのどんな例は,私たちへの見せしめですか?

      19 現在のように,諸国民のあいだで非常な利己主義と競争が行われている時,多くの人々は,賞讃を与えることよりも,むしろ賞讃を受けることを欲しています。賞讃を求める彼らは,神の敵対者になります。悪魔はエバにむかつて,「もしあなたが,善悪を知るこの木から食べるなら,あなたは神のようになるであろう。」と言いました。この考えは,今でも人間の頭に附着しており,人間は,無価値なものであるにもかかわらず,他から崇拝されることを欲しています。人間は,要するに地の塵であつて,宇宙の至上支配者によつて美しく形づくられ,創造者によつて生命が与えられている粘土にすぎません。しかし,生ける人間は,創造者を賞讃しようとは思いません。人間は高慢,傲慢,自己中心の気持をいだき,程なくして神の間ちがいを指摘し始めます。新聞によく記載されているキリスト教国の牧師の話を読むと,牧師たちが神の言葉である聖書をどのように批評しているかを知ります。多くの牧師は『高等批評』の本を書き,キリスト,イエスの贖の犠牲を否定することすらしております。彼らはクリスチャンと主張していますが,キリストが神の子であることを否定しています。そのような人が,どうしてクリスチャンであり得ましようか?

      20 キリスト教国の他の牧師は,ヱホバを『弱いものイヂメ』と呼ぶことすらしています。かくして,宇宙の至上支配者をけなしそして,この御方によつて創造された人々は,ヱホバを侮蔑し,あなどるような気持を持つようになつています。これはみな,至上支配者を侮辱して,つくられた人間に賞讃をもたらしています。キリスト教国とその代表者たちは,ヱホバに専心の献身を捧げていません。彼らは自分自身の目的,自分自身の国家,自分たちの国家的な戦争に関心を持つており,ある国にいるカトリック信徒や新教徒は,他の国にいるカトリック信徒や新教徒よりも,多くの祝福をうけており,豊かな恵みを頂いている,とさえ信じています。彼らに,一致や,兄弟愛がありますか? それは,実のない言葉に過ぎませんか?

      21 現在,他のどんな理由のために,ヱホバに専心の献身を捧げることは是非とも大切ですか?

      21 ただ御一人の真の神がおられ,又ただ一つの民がこの地上に住んでいます。その民はみな,神が最初に創造した人より出て来たものです。神の御予定の時に,すべての者は一つの国民となり,一人の神を持つでしよう。その神は敵対を許さず,またその御国は永遠に存続します。真の崇拝を行おうとしないすべての人類は,絶滅され,亡ぼされてしまいます。神の宇宙内に,反逆者のいることは許されません。『あなた方は,他の神々すなわち,あなた方の四周にいる民の神々に従つてはならない。(あなた方の中におられるあなた方の神ヱホバは,専心の献身を求める神であられる)恐らくは,あなた方の神ヱホバはあなた方にむかつて怒を発し,あなた方を必らず地の面から滅しさるであろう。』(申命 6:14,15,新世)次の言葉は,実に明確ではつきりしています,『あなた方は,私のほかに他の神々を持つてはならない。』または欄外で言われているように,『あなた方は他の神々を持つて,私を侮蔑してはならない。』(申命 5:7,新世)しかし,今日の多くの人々は,彼の正義の御国に敵対しているこの世とこの世の組織制度を崇拝しています。彼らは,『御国の来らんことを,御意の天のごとく,地にも行われん事を。』(マタイ 6:10)と祈りながら,その反面では,神が位に即けられ給うた王キリスト・イエスに正面きつて反対している国際連合を強く支持しています。宗教家たちは,今日現存している国際連合や,かつて存在していた国際連盟を支持しています。実際のところ,この『連盟』は神の御国の政治的な表現である,とまで彼らは言いました。彼らが,自分たち自身で,ヱホバを侮蔑するあるものを設立していることは,明白でないでしようか?

  • 『あなた方の仕える者を選べ』
    ものみの塔 1956 | 3月1日
    • 『あなた方の仕える者を選べ』

      1,2 今日の世界の指導者たちと,ヱホバの証者の考え方は,それぞれどのように違つていますか?

      今日の世界指導者たちが,ヨシュアの言葉に注意を払わないということは全く奇妙なことです。ヨシュアは,キリスト教国の指導者たちが仕えていると主張している同じ神に仕えました。ヨシュアは,次のように語りました,『汝らヱホバを畏れ,真心と真実とをもて之に事え,汝らの先祖が河の彼辺およびエジプトにて事えたる神を除きてヱホバに事えよ。なんぢらもしヱホバに事うることを悪しとせば,汝らの先祖が河の彼辺にて事えし神々にもあれ,又は汝らが今おる地のアモリ人の神々にもあれ,汝らの事うべき者を今日選べ。ただし,我と我家とは共にヱホバに事えん。民こたえて言いけるは,ヱホバを棄てて他神に事うることは我らきわめて為じ。』(ヨシュア 24:14-16)世界の指導者たちは,そのように考えません。しかし,ヱホバの証者は,そのように考えています。ヱホバの証者の新しい世の社会にいる各人は,その生涯のある期間のとき,古い世に属していました。しかし,彼らは,もはやユウフラテス河の東にいる神々,すなわち軍事力に依存したバビロンの神々や,エジプトの神々に仕えません。ヱホバの証者は,次の言葉に注意を払いました,『私の民よ,彼女から離れ去つて,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ。』― 黙示 18:4,新口。

      2 『他の羊』は,自分たちをバビロンから救い出し給うた彼らの神ヱホバを認めます。彼らは,よろこびつつ来り,『ヱホバを棄てて,他神に事うること』はけつしてしません。彼らは,ヱホバ神の勝利の御国がすでに天で設立されており,また『この世の神』であるサタンが地に追い落されているのを,悟つています。そして,今地上の諸国民のあいだに艱難がふりかかつているのは,悪魔が人々のところに来たためであると悟つています。間もなくして,宇宙の至上支配者ヱホバに専心の献身を捧げていない悪魔とその悪鬼的な制度は,底の無い坑に投げ入れられるでしよう。

      3-5 (イ)ヱホバに献身することを選ぶ人は,どんな正しい従順の行をいたしますか?(ロ)人は,水による浸礼の必要性を疑問し得ますか? なぜ,あなたはそう答えますか?

      3 死を欲せず,生きることを欲する人々は,みな専心の献身をヱホバに捧げねばなりません。そして,各人はよろこびの中に,自分の生命をヱホバの奉仕に捧げ,かつヱホバのいましめに従わねばなりません。神のいましめに従うことにより,神を愛していることを示します。その人は,神の御意に従順に従います。『もし私のいましめを守るならば,あなた方は私の愛のうちにおるのである。それは私が私の父のいましめを守つたので,その愛のうちにおるのと同じである。』(ヨハネ 15:10,新口)それは,ヱホバのいましめ全部のことです。人によつては,自分の守るいましめを選ぼうとしています。たとえば,洗礼<バプテスマ>をうけて,ヱホバ神への献身を象徴するのは,必要でない,とある人は言うかもしれません。ヱホバの証者と交つてさえいるならば,ヱホバの祝福をいただいて,正義の新しい世に入れて頂ける,と感じています。そしてこんな風に思います,「制度というものにきつくしばられたくない。だから,バプテスマをうけない。証言はするが,でも自由でいたい。」それは,制度にしばりつけられる,という問題ではありません。むしろ,もしあなたが生きることを欲するなら,ヱホバ神に専心の献身を捧げねばならないのです。バプテスマを拒絶する人は,バプテスマをうけると,責務が負わせられ,大きな責任が課せられると考えます。しかし,その人は,知識を持つ時に,すでに責任を持つているということを忘れてはなりません。神を欺くことはできません。もし,生命を欲するなら,その人はヱホバ神に専心の献身を捧げ,神のいましめを守り,キリスト・イエスの足跡に従つて歩み,そしてよろこびつつバプテスマをうけ,自分の献身を公やけに告白いたします。

      4 巡回の僕が,ある会衆を訪問します。その会衆には,55人の伝道者がいて,毎月みな定期的に伝道しており,御国の良いたよりを宣べ伝えつつ,よろこびの奉仕をしています。しかし,伝道者の記録を調べてみると,55人の中,20人はまだバプテスマをうけていません。巡回の僕は,疑問に思つて,そのことを調査してみます。バプテスマをうけていない人々は,もしヱホバ神への献身を象徴するなら,自分にも負うことのできないような大きな責任が課せられる,と考えています。それらの人々は,本当にヱホバを愛しているでしようか?と自問して下さい。それらの人々は,ヱホバ神に専心の献身を捧げていますか? それとも,古い世に片足を置いて,そして他方の足を新しい世に置きたい,と欲しているのでしようか? ヱホバは,水によるバプテスマ,という行を御子のために定められました。それで,神の新しい世で,永遠に生きることを欲するすべての人は,その行に従わねばなりません。バプテスマが,正しいかどうかを,人間で決定することはできません。ヱホバ神に献身して,新しい世の生命を欲する人は,バプテスマをうけることが絶対に必要である,と知らねばなりません。人によつては,バプテスマなんかは馬鹿げた形式的な儀式だ,とこつそり考えている人もいます。しかし,実際には,その人たちは,自分は神よりも賢いと言つているのです。そして,バプテスマをうけるということは,古臭いことなんだ!と烏滸がましくも結論づけてしまいます。ある人は,『まつたく,ここのところだけがどうも意見に合わない。これを除けば,神の言葉をうけ入れるのだが』と言います。ところが,良く調べてみると,その人は他の多くの事柄にも意見が合わず,批評家のようになつて,創造主を批評します。だが,その批評をする人は,ただの器にすぎないのです。至上支配者が御自分の創造物に要求されていることについて,創造されたものは,質問したり,批評したり,又はその欠点を探す,などという権利を持つているでしようか?(ロマ 9:20)水のバプテスマは私たちの献身の象徴であると,ヱホバが示されるとき,すべてのクリスチャンはその水のバプテスマをうけるべきであります。

      5 イエスは次のように言われませんでしたか?『それ故に,あなた方は行つて,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あな方に命じておいたいつさいのことを守るように教えよ。見よ,私は世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである。』(マタイ 28:19,20,新口)生きることを欲し,かつヱホバの恵みを得たいと欲する人は,みなヱホバ神の前に謙遜となり,そして御子によつて,自分の贖いのために設けられた御準備を認め,同時にヱホバ神のいましめを守り行わねばなりません。ペテロが,次のように語つたのも,そのわけなのです『だから,自分の罪をぬぐい去つていただくために,悔い改めて本心に立ち帰りなさい。それは,ヱホバの御前から慰めの時がきて,あなたがたのためにあらかじめ定めてあつたキリストなるイエスを,神がつかわして下さるためである。このイエスは,神が聖なる予言者たちの口をとおして,昔から予言しておられた万物更新の時まで,天にとどめておかねばならなかつた。モーセは言つた,「ヱホバ神は,私をお立てになつたように,あなた方の兄弟の中から,ひとりの予言者をお立てになるであろう。その予言者が,あなたがたに語ることには,ことごとく聞きしたがいなさい。彼に聞きしたがわない者は,みな民の中から亡ぼし去られるであろう。」』(使行 3:19-23,新世)それで,彼に聞きしたがいなさい。これらのいましめは,人間に到底できない程むずかしいものではありません。

      6 理解は,どのように得られますか?

      6 どうも理解できない事柄とか,いまのところ,はつきり納得できないような事柄があるかもしれません。しかし,光はますます輝いて,完き日にいたります。(シンゲン 4:18)神の御言葉を研究して,神のいましめに従つて生活すればする程,それが如何に合理的であるかが分ります。そして,永遠の生命を得ることができます。神の言葉は,常識とは比べものにならないほど,貴いものです。それは上からの叡智です。それに従いなさい。

      「この世に属さず」

      7,8 ヱホバに献身している人は,『この世』に対して,どんな正しい態度を取りますか?

      7 ヱホバの証者は,平和を愛し,ただヱホバの御国の業に専心したいと欲しています。ヱホバの証者は,地上における自分の立場は,ただ神を代表することである,と知つています。選挙権を持つ人が,この世に関して中立を保つならば,この世の政府はそれを好みません。しかし,ヱホバ神に専心の献身を捧げる人は,この世の政治,宗教または経済運動に参加しません。その人は,この世にいますが,この世には属しません。その心を持つ人々は,先づ天の御国とヱホバの正義を求めます。そのとき,他のすべてのものは添えて与えられるでしよう。―マタイ 6:33。

      8 古い世の道徳は,姦淫と淫行を認め,泥酔を立派なことと考えています。しかし,今日のクリスチャン奉仕者は,そのような道徳に従つて生活しません。ますます多くの人は,御言葉の中に述べられているヱホバのすばらしい助言を忘れて棄ててしまい,ふしだらになつています。この道徳腐敗に関して,各国の指導者たちは全く心配しています。しかし,神の言葉を破ることは,至上支配者と,御座に即いているキリストを,ないがしろにするものです。ユダの述べているようなこの世の悪は,神の会衆に入りこむかもしれません。私たちは,それに注意すべきです。キリストの真の追随者たちを腐敗しようとする人々について,ユダは次のように述べました,『彼らは不平をならべ,不満を鳴らす者であり,自分の欲のままに生活し,その口は大言を吐き,利のために人にへつらう者である。』(ユダ 16,新口)もちろんそのような人は,ヱホバ神に専心の献身を捧げていません。また,聖書のいましめによると,私たちはこの種類の人々と交ることはできず,また彼らの神々を崇拝したり,仕えたりすることもできません,『恐らくは,あなた方の神ヱホバはあなた方にむかつて怒りを発し,あなた方を必らず地の面から滅しさるであろう。』― 申命 6:15,新世。

      奴隷か? 主人か?

      9,10 (イ)ヱホバが他のものを排除して御一人だけである,ということを,どのように説明しますか?(ロ)私たちのために,キリスト・イエスは,ヱホバに対するどんな正しい態度を示しましたか? サタンは,どんな悪い態度を示しましたか?

      9 ヱホバ神に専心の献身を捧げる,ということは,非常に大切な要求です。いま,ヱホバの見地からそのことを考えてみましよう。『専心』ということは,他のものを排除することです。そして,ひたすらひとつのものに没頭することです。何人といえども,神の地位に入り得ることはできません。神は他のものを排除して,只御一人だけです。神以外の他のものは,神のみお持ちになる最も栄光に輝くこの神の地位に入ることができません。神御一人のみが,宇宙内の高められた地位におります。神は,他のものを御自分の地位に入れさせません。又御自分の栄光を他のものに分ち与えません。キリスト・イエスは,御父が宇宙内で持つておられるその独自の地位を良く悟つていました。そして,この点についてパウロは,次のように書いています,『キリスト・イエスは神の像であられたが,神と等しくなるとの考えを固執しないで,かえつて自らを空しくし,僕の形をとられ,人間の様をなして生まれ給うた。そして,自らを卑くして,人の像をもつて現われ,死に至るまで,苦難の刑柱の死にいたるまで従順であられた。』(ピリピ 2:5-8,新世)イエス御自身も,『私は父のもとに行く。父は私より大きいからである。』と言われました。ヨハネ 14:28,新世。

      10 悪魔サタンは,ヱホバ神を,その独自な地位から取り除こうと努めました。もちろん,サタンは,ヱホバに専心の献身を捧げていません。サタン自身,最高者のようになろうと本気に考えています。そして,すべての被造物も善と悪を知つて,神のようになるであろう,― 別の言葉で言えば,宇宙内で何が善であり,何が悪であるかを決定して,裁き主のようになるであろう,という考えを人々の心の中に植えつけています。それで,牧師たちは神の言葉に異論を申し立てて,反論し,そして聖書の或る部分はお伽話に過ぎない,などと言つて,あたかも自分たちは神と同等であるかのように考え,全能の神と論じ合つたり,議論する資格があると思つています。なんという高慢さでしよう!

      11,12 (イ)ヱホバの真実な崇拝の中には,何が含まれていますか?(ロ)神の愛と隣人愛は,どのように比較されますか?

      11 ヱホバに献身している謙遜な人は,熱心と敬虔で充ちます。『献身』とは,あるものに対する心からの愛好,または強い愛着,熱烈な愛,という意味です。献身は,人の宗教心と関係を持つています。今日,真の宗教を理解する人は,真実の礼拝を行つています。イエスの予言された通りです,『まことの礼拝する者たちが,霊とまことをもつて父を礼拝する時がくる。そうだ,今きている。父は,このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。』(ヨハネ 4:23,新口)ヱホバ神に専心の献身を捧げる人は,他のものによつて,その献身が破られたり汚されたりしてはなりません。ヱホバは,それを許さないのです。それで,他のものに妨害されてはなりません。ヱホバ神に捧げる私たちの献身は,愛に充ち,そしてそれは,ヱホバ神に捧げる熱烈な愛,一筋の愛であつて,他の者もそれにあづかれるような愛ではありません。

      12 フランス人の訳した出エジプト記 34章14節の翻訳(1884年,アベ・ドロイ訳)は,次のようです,『神は無比に愛されることを欲する。』― つまり,神は,御自分だけに捧げられる一筋の愛を欲しておられる,ということです。地上におられたキリスト・イエスは,二つのいましめを言われました。第一に,すべての心,精神,魂,力をこめて父を愛さねばならない。第二に,自分自身のように隣人を愛さねばならない,とイエスは言われました。ここでも,ヱホバ神は独自の地位,ただ御一人の地位につかれており,他の愛からは全く区別されておられます。主権者であられるヱホバ神は,特別高く在す御方であつて,御一人の地位に即かれています。愛はヱホバ神に一筋に捧げられます。そして,他のものとその愛を分ち合う,ということはありません。それは専心の献身です。それに類似している第2番目のいましめは,自分自身のように隣人を愛する,ということです。この愛は,大きな範囲にわたり,人類というものを包含しています。私たちの愛に答えて,人類は私たちを愛するようになるでしよう。しかし,無私の気持を持つ私たちが,人を愛するといつてもひとりの人に専心の愛を捧げません。私たちの隣人愛には,すべての人類が含まれます。しかし,創造者は専心の献身を求めておられますが,それは全く正しいことであります。自分たちのように隣人を愛することは,正しいことではあつても,専心の愛を捧げることではありません。私たちは,隣人を崇拝しませんが,ただ隣人に愛を示すだけです。だが,ヱホバへの私たちの愛には,崇拝,奉仕,従順が含まれています。そして,ヱホバはこのことについての敵対者を許しません。

      13,14 この比較は,イエスによつてどのように明らかとなりましたか? 今それを理解することにより,私たちはどのような益を受けますか?

      13 イエスは,各人の持つこの愛の原則を示しました。彼は自分の父を良く知つておられたため,もし人が御子を知るなら御父をも知るであろう,とまで言うことができました。『イエスは言われた……「もしあなたが私を知つていたならば,私の父をも知つたであろう。」』イエスは,ヱホバ神と神の御国に対する専心の献身という原則を示すとともに,御国に対する大きな愛と,ヱホバの御名の立証こそ,隣人愛よりもはるかに重要である,ということをも指摘しました。人は今,御子を通してのみ,天的な御父に達することができます。故に,イエスは次のように言われました,『人の前で私を受けいれる者を,私もまた天にいます私の父の前で受けいれるであろう。』そして,御子イエスを通して示す御父に対する愛が,どれ程大きくなければならないかを示すために,イエスは次のようにいわれています,『だから人の前で私を受けいれる者を,私もまた,天にいます私の父の前で受けいれるであろう。』さらに,御子を通して示される御父への愛は,大きなものでなければならないことを示すために,イエスはこう言われています,『私よりも父または母を愛する者は,私にふさわしくない。私よりもむすこや娘を愛する者は,私にふさわしくない。また自分の刑柱をとつて,私に従つてこない者は,私にふさわしくない。』― ヨハネ 14:6,7。マタイ 10:32,37,38,新世。

      14 ヱホバの「ハルマゲドンの戦争」の後,生存者はことごとくヱホバを知り,又ヱホバに専心の愛を捧げます。今日でも,ヱホバの証者は,御子キリスト・イエスを通してヱホバに専心の愛を捧げねばなりません。かくして,私たちは創造者と特別な関係を持つようになります。なぜなら,「彼は無比に愛されるのを好む神である」『父は,このような礼拝をする者たちを求めておられる。』その崇拝は,霊と真をもつてなされ,全く専心のものであります。この愛と崇拝の中に,他のものが入りこむ,ということはなく,まつたく独自のものです。

      15 どのように,奴隷の地位を聖書的に正しく見るべきですか?

      15 このような専心の献身を捧げるとき,両者のあいだには,別の特別な関係が考えられます。つまり,主人と奴隷という関係です。ヱホバは,創造者であると共に所有者であられる故に,主人であります。そして,つくられた者或いは買われた者は,その主人の御意を行わねばなりません。ヱホバは,まつたくそのつくられた者の所有者です。ヱホバが人間をつくられました。ヱホバ神は,御子によつて人間家族を買うよう取り極められました。それで,聖書に,『あなた方は,代価を払つて買いとられたのだ。人の奴隷となつてはいけない。』と書かれています。(コリント前 7:23,新口)コリント人に宛てて書いた手紙の中で,パウロは奴隷についての極めて興味深い論を述べました,『各自は,召されたままの状態にとどまつているべきである。召されたとき奴隷であつても,それを気にしないがよい。しかし,もし自由の身になりうるなら,むしろ自由になりなさい。主にあつて召された奴隷は,主によって自由人とされた者であり,また,召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなた方は,代価を払つて買いとられたのだ。人の奴隷となつてはいけない。兄弟たちよ,各自は,その召されたままの状態で,神のみまえにいるべきである。』― コリント前 7:20-24,新口。

      16 今日ヱホバの奴隷になろうと選ぶことは,何を示しますか?

      16 初期キリスト教時代の人々が,自由人であつたか,あるいは奴隷であつたか,ということは,神とキリスト・イエスの御前で,なんらの分け隔てもなかつたのです。天的な栄光をうける彼らは,キリスト・イエスと共に,共同相続者の高い地位に召されました。奴隷であろうと,自由人であろうと,彼らはキリストの奴隷になり,そして,キリストの奴隷になることによつて,彼らは神と交ることができるようになりました。現在ヱホバのみもとに来て,それからキリスト・イエスを通してヱホバの奉仕に献身する人は,神の奴隷になります。このことをなすクリスチャンは,偽善者ではありません。丁度,御子が御父のいましめに従つたと同じく,そのクリスチャンはよろこびつつ至上支配者に専心の献身を捧げ,そして御父の御意を行います。この奴隷のような関係は,心の中の愛により生じます。それは,献身した人の最奥の欲求です。その人の心の中には,神を愛する気持が存在しています。その人は,真の神に従いたいと欲します。そして,よくよく考えてから,自ら奴隷になることを選びます。献身した人は,至上支配者,ヱホバの奴隷になることを自ら好んで,選びました。

      『いつまでも仕える』

      17,18 (イ)むかしのイスラエルで,人はなぜ『いつまでも仕える』ことができましたか?(ロ)むかしのこの行から,今日のクリスチャン奉仕者は,どんな良い教訓を得ますか?

      17 むかしのイスラエル時代のヘブル人は,時折り,自分の体を売って奴隷になることが必要でした。神の御言葉は,次のように述べています,『あなたがヘブル人である奴隷を買う時は,六年のあいだ仕えさせ,七年目には,無償で自由の身として去らせなければならない。彼がもし独身できたならば,独身で去らなければならない。もし妻を持つていたならば,その妻は彼と共に去らなければならない。奴隷がもし「私は,私の主人と,私の妻と子供を愛します。私は自由の身となつて去ることを好みません」と明言するならば,その主人は彼を神のもとに連れて行き,戸あるいは柱のところに連れて行って,主人は,きりで彼の耳を刺し通さなければならない。そうすれば彼はいつまでもこれに仕えるであろう。』― 出エジプト 21:2-6,新口。

      18 自分の主人に全く献身している奴隷は,「私の主人を愛します」と明言します。クリスチャンも,そのような正しい心持を持つべきです。クリスチャンは,いつも奴隷のような状態におり,生命とあらゆる祝福を与え給うた主人であるヱホバに熱心に仕えねばなりません。自由の身になつてヱホバ神から離れ,自分勝手な道を歩みたいなどと欲してはなりません。先ず悪魔がこの悪い考えを抱きましたが,彼の終りは亡びであります。

      19,20 ここの研究で,人に選択の自由があることは,どのように分りますか?

      19 ヱホバ神は,専心の献身を求めておられますが,それは正しいことです。しかし,人は自分自ら決定してから,宇宙の至上支配者にこの専心の献身を捧げます。人に,強制すべきものではありません。よろこびつつ,自ら進んで捧げたいと欲すべきです。無理やりに捧げさせるとか,強制してまでもヱホバ神の奉仕を行わせてはなりません。しかし,神の御言葉を研究して,ヱホバの御意を行おうと欲する故に,神と神の御目的に全く一致し,かつ神の奴隷になろうとその人は願い,欲しております。丁度ヱホバの御子キリスト・イエスがよろこんで御父のいましめを行つたと同じようであります。

      20 ヱホバの奉仕に献身している人は,さながら,いつまでも主人に仕えようとするヘブル人の奴隷のようです。新しい世の社会に属する人々は,永遠にわたつて仕えるでしよう。ヱホバはその世を愛されたために,独り子をこの地に遣しました。それは,独り子を信ずる地上の人たちが永遠の生命を得るためです。ヱホバは,御子によつて人間家族を買うように取り極められました。多くの人々は,奴隷になることを拒絶し,この代価の恩恵を受けようとしません。むしろ,自分勝手な道を歩もうとしています。しかし,彼らの道は,『この世』の道であつて,彼らの死を意味します。―ヨハネ 3:16。ヨハネ第一書 2:17。

      21 ヱホバに奉仕することを選ぶとき,どんな責務がともないますか?

      21 『正しい者の名はほめられ,悪しき者の名は朽ちる。』(シンゲン 10:7,新口)贖を拒絶する人々は,永遠に死んで絶滅し,二度と生きることはないでしよう。丁度,ヱホバ神が,予言者エレミヤを通して述べた通りです,『彼らは永き寝にいりて目を醒すことあらじ。万軍のヱホバと名くる王これを言いたもう。』(エレミヤ 51:57)自分の生命をヱホバ神の奉仕に献身する人々は,クリスチャンであることがいい加減なことではないと悟るべきです。モーセも次のように語りました,『あなた方は,あなた方の神であるヱホバの御名を妄りに取つてはならない。ヱホバは,その御名を妄りに取る者を必らず罰するであろう。』(出エジプト 20:7,新世)自分はヱホバ神に献身しており,水によるバプテスマをうけたのであるから,神はすべてのことを自分のために為すべきである,などと考えてはなりません。神は人に祝福を注いだり,又注意を払われたりして,契約内の御自分の責任を必らず守ります。しかし,ヱホバ神に専心の献身を捧げると言う奴隷も,取り極め内の自分の責任を果さねばなりません。その者は,自分が奴隷であつて,至上支配者に従順に従う者であることを示さねばなりません。人の生命は,その人が真にして正しい崇拝を行つているか否かに依存しています。御父は,「専心の献身を求める神」である故に,「そのような種類の崇拝を求めておられる。」

      [94ページの囲み記事]

      イエスは彼に言われた,「すべての心,すべての魂,そしてすべての精神をこめて,あなた方の神であるヱホバを愛さればならない。これは一番大きな第一のいましめである。」― マタイ 22:37,38,新世。

  • 『私の荷は軽い』
    ものみの塔 1956 | 3月1日
    • 『私の荷は軽い』

      1 キリスト教国を支持する人々は,イエスの足跡に従う者になることを,どう考えますか?

      この世の多くの人は,事勿れ主義の道を取り,大多数の人の歩んでいる道に従います。しかし,その道は,罪にみちびき,ついには死と亡びにみちびきます。人によつては,クリスチャンになることは,大変むずかしいことであり,この悪しき世で自分にはとうてい背負うことのできないものである,と考えています。人は,キリスト教国の通称『クリスチャン』になることには,気にかけません。キリスト教国内では,あらゆる我儘をすることができ,天下御免で肉慾の満足を果せるからです。そして,自分たちは正しいことをしているのだ,と感じています。しかし,キリスト・イエスの足跡に従つて歩む真実のクリスチャンになることは,たいへん難しいことだと,多くの人は考えています。だが,キリスト・イエスは,『私の荷は軽い』と言われました。それでは,クリスチャンになるのは難しい仕事であると考えられていることと,キリストのこの言葉とは一致しないではありませんか? イエスの言葉に注意しましよう,『すべて重荷を負うて苦労している者は,私のもとにきなさい。あなた方を休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだつた者であるから,私のくびきを負うて,私に学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。私のくびきは負いやすく,私の荷は軽いからである。』― マタイ 11:28-30,新口。

      2,3 (イ)ヱホバは献身した僕たちに,何を要求していますか?(ロ)イエス御自身その要求に,どう沿いましたか? また他の者がそうする取極めを,どうつくられましたか?

      2 ヱホバ神は,私たちクリスチャンに何をするよう

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする