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  • この不信の時代に信仰を持てるのはどんな人ですか
    ものみの塔 1984 | 11月1日
    • この不信の時代に信仰を持てるのはどんな人ですか

      今は不信の時代です。懐疑主義がはやっています。わたしたちは,慣習,思想,道徳,長年保たれてきた価値観,さらには神の存在や神のみ言葉聖書の真実性をも含め,あらゆるものを疑うよう勧められています。

      聖書についてはほとんど何も知らないのに,聖書に対して不信感を抱くという人は少なくありません。そのような人々の不信感は,聖書が本当に述べている事柄にではなく,聖書が述べているとある人々の言った事柄に基づいています。しかし,自分が一度も読んだことがなく,その内容を本当に知りもしない本について,どうしてはっきりとした意見を持てるでしょうか。それでは,この不信の時代に,信仰を持てるのはどんな人でしょうか。

      聖書研究をすることに関心を持つ婦人のご主人に,一人のエホバの証人はこう話しました。「これほど重要な事柄を,この1時間ほどの話し合いだけで信じていただけるとは決して思っていません。しかし,聖書が本当に述べている事柄をいったんお知りになれば,私と同じようにその真実性に対して確信を抱くようになると思います」。そのご主人は問題を探ってみることに同意し,聖書研究が始まりました。程なくして,この男性もほかの人を教えるようになっていました。この人はこの不信の時代に真の信仰を身に着けたのです。

      エホバの証人と聖書を研究するようになったフランスの一主婦は,「信じられません,信じられません。とても重大な疑問があるのです!」と言いました。それでも,この主婦は研究を続けました。知識が増えるにつれて不信感は消えてゆき,今では20年以上にわたって,自分の信仰を強めるものとなった事柄をほかの人々に教えています。

      信仰は,正しい決定を下す基盤になる諸事実を提供する正確な知識に由来します。例えば,イエス・キリストが地上におられた時,イエスの驚くべき業や教えについての知識によって,多くの誠実な人は『その名に信仰を持つ』ことができました。―ヨハネ 2:23; 8:30。

      今日でも同じことが言えます。聖書の真理は明快です。ただし,そう言えるためには,これまでに耳にしたかもしれない間違った事柄をわきに置いておき,この驚くべき書物が実際に教えている事柄を自分で学ばなければなりません。

      例えば,聖書の預言は,一個の人間や人間の一団の能力で考え出せるところをはるかに超えたものでした。それでも,これらの預言の中には,幾百年も,あるいは幾千年も前に書かれたものもあるのに,驚くほど詳細な点に至るまで成就を見ています。これは聖書が確かに神からのものであり,聖書に載せられている約束は必ず実現することを示す,納得のゆく証拠となっています。

      ずっと昔,神の道を長年歩んできた老齢のヨシュアは,イスラエル人にこう告げました。「あなた方は心をつくし魂をつくして知っているはずです。すなわち,あなた方の神エホバの話されたすべての良い言葉は,その一言といえ果たされなかったものはありません。それはあなた方にとってすべてそのとおりになりました。その一言といえ果たされなかったものはありません」― ヨシュア 23:14。

      さらに,聖書の価値はそれを実践するときに実証されます。聖書の助言を当てはめると,人々の生活は改善され,人格は変化します。その助言は,暴力的で口論を好む人々が温和になり,自制を培うのに役立ちます。この事実に不信感を抱く人がいるなら,聖書を研究してみるとよいでしょう。聖書の真理がそうした人々の生活に及ぼし得る影響に驚かされるかもしれません。―ガラテア 5:19-23。エフェソス 4:20-32。

      この不信の時代に,懐疑主義のえじきになるのではなく,真の信仰を身に着けることができます。聖書は確かに,命を与えるものとなる,堅い信仰を培うのに役立つでしょう。では,どのように役立つのでしょうか。

  • あなたは本当に真の信仰を求めていますか
    ものみの塔 1984 | 11月1日
    • あなたは本当に真の信仰を求めていますか

      あなたは本当に真理を求め,それを探し求めていますか。きっと,「もちろんですとも」という答えが返ってくることでしょう。

      しかし,多くの人は本当に真理を求めてはいません。事実,信じることさえ望まないかもしれません。神が存在し,将来に対する際立った約束を収めた聖書が神のすばらしいみ言葉であると信じることを望まない人がいるのはなぜでしょうか。

      これらの事実を受け入れると,ある人々には生活様式を変えることが求められるかもしれません。そのような人々は自分の生活を神の道に合わせたくないので,疑いや異議を考え出しては聖書が真実ではないと自分に言い聞かせなければならないのです。

      クリスチャン会衆の中にもこのような人がいるかもしれません。真理はその人たちの耳に快く響きますが,神のみ言葉の中で禁じられていることを承知していながら人知れず行なっている何らかの習わしを依然として捨てないでいるかもしれません。そのため,しり込みしたり徐々に流されてしまったりするのです。聖書はこう述べています。「ある人々が信仰の破船に遭ったのは,良心をはねつけたためでした」― テモテ第一 1:19,新英訳聖書。

      イエス・キリストが,地上におられた時,大勢の人々は真理に対していら立ちを示しました。物事を自分のやり方で行ないたいと思ったために,確かな証拠があるのにその証拠を受け入れようとはしなかったのです。イエスは昔の預言の言葉を引用し,彼らの心は受け入れる力がなくなっている,と言われました。その民は自分たちの目と耳を閉じてしまっていました。「これは,彼らが自分の目で見,自分の耳で聞き,自分の心でその意味を悟って立ち返り」,霊的にいやされるということが「決してないため」です。―マタイ 13:14,15。

      その種の人々は,事がはっきりしていないと言ってすませてしまうかもしれません。イエスに反対した人々の中には,「いつまであなたは,わたしたちの魂をどっちつかずにしておくのですか。あなたがキリストなら,わたしたちにはっきり言ってください」と言いました。しかし,その人たちが理解し損なった責任はイエスにあるのではなく,その人たち自身にありました。イエスはこう答えておられます。「わたしはあなた方に言いましたが,あなた方は信じません。わたしが自分の父の名において行なっている業,これがわたしについて証しします。しかしあなた方は信じません。わたしの羊ではないからです」― ヨハネ 10:24-26。

      人が真理を聞き,その意味を悟って立ち返り,自らいやしを受けたいと思わないなら,悪魔サタンはその事実をうまく利用します。サタンは,「不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」。―コリント第二 4:4。マタイ 13:10-15もご覧ください。

      それでは,良いたよりを聞き,それを理解する見込みはないということになるでしょうか。もちろんそのようなことにはなりません。ここで言われているのは,かなりのことが聞き手であるあなたにかかっているということです。

      読者が本当に真の信仰を求めているなら,聖書の述べる事柄に真実の響きを感じるはずです。誇り高く高慢な宗教指導者たちは耳を傾けたいと思わず,イエスに反対しました。一方,群衆のほうはどうだったでしょうか。群衆は「その教え方に驚き入っていた」のです。イエスを捕縛するために遣わされた下役たちでさえ,帰って来て,「あのように話した人はいまだかつてありません」と報告しました。―マタイ 7:28。ヨハネ 7:46。

      真理を求めており,神の道を探し求め,神の言葉を進んで自分の生活に当てはめれば,真の信仰を見いだすでしょう。イエスはこう言われました。「義に飢え渇いている人たちは幸いです。その人たちは満たされるからです」。「わたしは……自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています」。「わたしの羊はわたしの声を聴き,わたしは彼らを知っており,彼らはわたしに付いて来ます」。「真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」。―マタイ 5:6。ヨハネ 10:14,27; 18:37。

      信仰は神の聖霊が生み出す実です。(ガラテア 5:22,23)正確な知識と信仰を祈り求め,それらのものを得るために,またそれに従って生きるために真剣な努力を払うなら,神が助けてくださいます。イエスはこう述べておられます。「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます」― マタイ 7:7。

      努力して克服していかなければならない問題がたとえあったとしても,神は助けてくださいます。霊感による聖書はこう述べています。「心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神を認めよ。そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」― 箴言 3:5,6。

      神は,「心がどうかを見る」のです。(サムエル第一 16:7)神はあなたが真理と義を探し求めているかどうか,神の正しい道に従って物事を行なうつもりがあるかどうかをご存じです。人が神に近づくなら,神はその人に近づいてくださいます。―ヤコブ 4:8。

      あなたはそのような人ですか。本当に真の信仰を求めていますか。み父の教えを聞き,その教えに対して自分の思いが開きましたか。それを学び,それを受け入れましたか。そして,神の義の道に合わせるために,自分の生活の中で問題となっていたかもしれない事柄を正しましたか。

      そうであれば,イエスの次の言葉から励みを得ることができるでしょう。「預言者たちの中に,『そして彼らは皆エホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者は皆わたしのもとに来ます」― ヨハネ 6:45。

      天のみ父の教えは,類例を見ない1冊の本の中に収められています。では,その本の価値とその本がわたしたちの信仰に及ぼし得る影響とについてこれから考えてみることにしましょう。

      [25ページの囲み記事]

      自分を神の愛のうちに保ちなさい

      新しいクリスチャンや弱いクリスチャンは害を受けやすいものです。事実,わたしたちはみな害を受けやすいと言えます。ですから,わたしたちは自分自身の信仰を守り,霊的に自らを強めるよう他の人を助けることに精力的に携わらなければなりません。これはどのようにして行なえるでしょうか。弟子ユダはその一つの方法を示して次のように書きました。「愛する者たちよ,あなた方は,自分の抱く極めて聖なる信仰の上に自らを築き上げ,聖霊をもって祈ることにより,自分を神の愛のうちに保ちなさい。そして,永遠の命を目ざしつつわたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ちなさい」― ユダ 20,21。

  • 積極的な信仰に関する本
    ものみの塔 1984 | 11月1日
    • 積極的な信仰に関する本

      聖書は不信の本ではなく,信仰の本です。聖書は,神は存在するだろうか,とか,聖書は神の言葉だろうか,というような質問を提起してはいません。それどころか,「初めに神は……創造された」という言葉が冒頭に置かれています。また,聖書は,「預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったもの……です」と明確に述べています。―創世記 1:1。ペテロ第二 1:21。

      言うまでもなく,聖書の記述には簡潔なものが少なくありません。ですから,必ずしもわたしたちが知りたいと思うようなことすべてを聖書が述べているわけではないかもしれません。しかし,わたしたちが世界の混乱した情勢を理解し,自分の生活を神のご意志と調和させ,神の恵みと永遠の命という賜物とを受けるために必要になる,と神が考えておられた情報は,そこから得られます。それ以上に価値あるものがあるでしょうか。

      聖書の初めのほうでわたしたちは,反逆したひとりのみ使いがずっと昔に,神の宇宙支配権の正当性に疑問を投げかけたことを学びます。しかし聖書はまた,「胤」が最終的にその反逆を終わらせ,エホバ神が宇宙主権者であられるという事実を立証することを明らかにしています。(創世記 3:1-15。ヨブ 1:6-12)聖書は,その「胤」が出る家系をも示しています。それは,アブラハム,イサク,ヤコブおよびダビデなどの信仰の人々の家系です。―創世記 26:4,5。サムエル第二 7:12,13。マタイ 1:1-16。ルカ 3:23-38。

      この驚くべき本は,その「胤」の主要な成員であるイエス・キリストの誕生,生涯,死そして復活について述べています。また,イエスがご自分の天のみ父の名エホバを知らせ,従順な人類のための贖いを備えたことについて述べています。―ガラテア 3:16。ヨハネ 17:6-8,26。マタイ 20:28。

      聖書はまた,永遠の命について述べ,死者の復活について告げ,『義の宿る』すばらしい「新しい天と新しい地」をふれ告げています。(ペテロ第二 3:13。ヨハネ 3:36; 5:28,29)その上,聖書はこれらのすばらしい祝福が間近に迫っており,今生きている大勢の人々は現在の世界の災いを生き残り,それらの祝福を目にすることを指摘しています。―マタイ 24:3-14,32-34。

      一番りっぱな実!

      イエスは,「良い木はみなりっぱな実を生み出(す)」と言われました。(マタイ 7:15-20)そうです,廉直な人はその人たちの生み出す実によって見分けられます。教えやすい人々は,聖書の教えにより,最善の実を生み出すことができます。この本は知識を与え,信仰を築き,知恵を授けます。(ヨハネ 17:3。箴言 1:1-4)さらに,わたしたちの生活に影響を及ぼす決定を下す基盤となる,より良い基準を与えます。―ローマ 12:2。コロサイ 3:9,10。

      その上,聖書は心を動かします。それは,自分たちの生活を神の道に合わせ,神に仕えようという気持ちを起こさせます。その中に収められている教えは,満足,より幸福な生活,より良い健康,より高い道徳水準,より優れた配偶者や親や子供を生み出します。聖書の示す道を学び,それに従う人々は皆,イエスの次の言葉と調和して,愛ある世界的な兄弟関係を形造っています。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:35。

      聖書の価値は,そこに収められている原則を本当に当てはめる人々の日常生活にはっきりと認められます。そこに収められている約束をどうして疑わなければならないのでしょうか。続く記事からも分かるとおり,全く不信感を抱くことなく,信仰において堅くあることは可能です。

  • 堅い信仰を保ちなさい
    ものみの塔 1984 | 11月1日
    • 堅い信仰を保ちなさい

      「あなた方はいつまで日和見をしているのですか」― 列王第一 18:21,新英訳聖書。

      1 ある人々は真理に対しどのような反応を示しますか。

      今日広く行き渡っている,物事を疑う傾向は,神と聖書に対するあなた自身の態度にさえ影響を与えかねません。ある人々は真理を聞いてそれを好ましく思い,しばらく聖書を研究します。クリスチャンの集会にも幾度か出席しますが,神に仕えることを人生の目的とすべきことを十分には理解しません。―マタイ 13:3-9。

      2 (イ)ほかにもどんな反応を示す人がいますか。(ロ)ヘブライ 10章36-39節にはどんな優れた諭しがありますか。

      2 真理を受け入れ,イエス・キリストを通してエホバ神に命を献げ,その献身の象徴として水のバプテスマを受けた人々もいます。しかし,進歩を遂げません。時折,野外宣教に一,二時間を費やしますが,本当の意味で献身にふさわしい生き方をしているわけではありません。神への無条件の献身とは,全面的に,また真剣な態度で身をささげている状態を意味するからです。―マタイ 16:24。ヘブライ 10:36-39。

      3 エリヤは,幾分類似した状況について何と述べましたか。

      3 煮え切らない人々は,真理を好ましく思うかもしれませんが,世をも好ましく思っています。いまだに古い道のあるものをなつかしがっているかもしれません。そのような人たちの忠節はぐらつきます。ずっと昔エリヤはイスラエル人にこう問いかけました。「あなた方はいつまで,二つの異なった意見の間でふらついているのですか。もし,エホバがまことの神であれば,これに従って行きなさい。しかし,もしバアルがそうであれば,それに従って行きなさい」。ある翻訳はこの部分を,「あなた方はいつまで日和見をしているのですか」と訳出しています。―列王第一 18:21,新英訳聖書。

      4 熱心な奉仕にはどんな価値がありますか。

      4 エホバの民は熱心な奉仕に喜びとさわやかさを見いだします。(テトス 2:13,14)それは霊的に生き生きした状態を保つ助けになります。多くの人,ことに神の奉仕において長い経験を持つ人々は注目に値する熱意を示します。しかし多くの場所からの報告は,若い人,あるいは新しい人の中に,心をつくしてエホバへの奉仕に身を費やさず,今なお世の誘惑を受けている人がいることを示唆しています。もし彼らが真理をしっかりとらえ,全時間の開拓者になるなどして,熱心な態度で他の人に時の緊急性を印象づけ,神聖な奉仕に精力的に前進するなら,どれほどの喜びと祝福が得られるかを考えてみてください。

      5 どんなことを自問するのはよいことかもしれませんか。

      5 次のように自問してみるのはよいことでしょう。自分は堅い信仰を本当に抱いているだろうか,それともふたまたをかけているだろうか。楽しくてもほとんど価値のないものに時間を奪われているだろうか。神への奉仕よりも,テレビを見たり,スポーツを追い求めたり,愉快でも時間が奪われる他のことを行なったりするほうに多くの時間を費やしているだろうか。それとも,謙遜に神に従い,仕えることが自分の人生の真の目的となっているだろうか。神のご意志を行なうことがあなたの人生の目的であれば,神はあなたを支えてくださり,あなたは永遠にわたって神の祝福を歓ぶことができます。

      6 堅い信仰を保つために,ヤコブの手紙のどんな諭しが助けになりますか。

      6 神の新秩序での永遠の命を待ち望み,堅い信仰を保つために積極的な措置を講ずるのは大切なことです。エリヤは,正しい事柄を擁護する大胆な立場を取るよう他の人々に勧めました。ヤコブは次のように書いています。「したがって,神に服しなさい。しかし,悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば,神はあなた方に近づいてくださいます。あなた方の手を清くしなさい,罪人たちよ。また,あなた方の心を浄めなさい,優柔不断の者たちよ」。ヤコブは,優柔不断な心のゆえに神の不興を招く活動に携わっていたという理由で悔い改めを必要としていた人々にこの手紙を書いていました。あなたが世の道の誘惑を受けてきたなら,ヤコブの諭しは有益なものとなり得ます。ヤコブはこのように書きました。「惨めさに浸り,嘆き,泣きなさい。あなた方の笑いを嘆きに,喜びを失意に変えなさい。エホバのみ前にあって謙遜になりなさい。そうすれば,あなた方を高めてくださるでしょう」― ヤコブ 4:7-10。

      知識は信仰を築く

      7 (イ)知識はどのように信仰と関係していますか。(ロ)信仰を培うために聖書を用いるべきなのはなぜですか。

      7 信仰とは信頼の行為です。それは正確な知識と経験に基づいています。神について知れば知るほど,また神の言葉と神の道について経験を深めれば深めるほど,あなたの信仰は強くなります。「信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であ(る)」と,聖書は述べています。(ヘブライ 11:1)エホバが行なわれたことに関する浅薄な知識しかないのであれば,どうしてその信仰が保証されたものとなり得るでしょうか。神は知力,知能,理解力を人にお与えになりました。これらは賜物であり,神はあなたが神について学ぶときにそれらを用いるよう期待しておられます。だれかに手紙を書いたら,相手がそれを読むことを期待します。ただ棚の上に置いたり,飾りとしてテーブルの上に出しておくようなことは望みません。あなたはわたしたちに対する神の手紙,つまり書かれた神のみ言葉を読み,また研究してきましたか。それを研究して理解することにより,ほかの方法では知りようのなかった事柄を学びます。聖書が与える情報の価値を覚えておくことは大切です。一人のクリスチャンの長老はこう語りました。「疑いを言い表わす人々は,大抵の場合,余り研究しません。聖書について多くを知らず,真理を決して本当の意味で自分自身のものとしてはいません」。

      8 だれかから,答えることのできない質問をされた場合には,どうすることが勧められていますか。

      8 だれかから,答えることのできない質問をされた場合,そのことで自分の信仰を動揺させるべきですか。もちろん動揺させるべきではありません。すべてを知っている人は一人もいません。ですから徹底的に調べてみることです。聖句を検討し,前後の節を読み,問題を確かめます。「新世界訳聖書総合語句索引」(英文),「聖書理解の助け」(英文),「ものみの塔出版物索引」は,関係した聖句,背景となる情報,問題についての説明を見いだす助けとなります。深い経験を積んだクリスチャンも助けになります。長年の経験を持つ一人の証人は,「満足のいく答えが得られなかったということは一度もありません」と述べました。

      9 ベレアの人々の例から何を学べますか。

      9 わたしたちは,使徒パウロの教えたことが真実かどうか確かめるため,「日ごとに聖書を注意深く調べた」として聖書の中で高く評価されているベレアの人々のようであるべきです。ベレアの人々は自分たちの調べた結果に失望させられることはありませんでした。ですから,『彼らのうちの多くの者が信者となりました』。そのうちの一人,ソパテロという名の人は,パウロの第3回宣教旅行のときにこの使徒と共にマケドニアを旅行する特権を得ました。―使徒 17:10-12; 20:4。

      謙遜さが肝要

      10 (イ)知識はどのように誤用されることがありますか。(ロ)箴言 16章5節はわたしたちの態度にどのような影響を与えるはずだと思いますか。

      10 知識そのものは目的ではありません。むしろ,それはエホバ神とその言葉に対する認識を深めるようわたしたちを助けるはずの道具です。愛と結びついた正確な知識があれば,自分自身の重要性を過大視する意見ではなく,謙遜さを鼓舞されるはずです。中には,神によりよく仕える方法を学ぶためではなく,自分自身と自分自身の意見を高めるために研究する人々がいます。彼らは思い上がり,年長の兄弟たち,それにクリスチャン会衆やクリスチャン会衆で教えられている聖書の真理の全体にさえ批判を加えるようになるかもしれません。―箴言 16:5。コリント第一 8:1。

      11 わたしたちの知識と知能はどこから来たものですか。これは,謙遜さについて何をわたしたちに教えるはずですか。

      11 しかし,わたしたちの持っているもので,他の何らかの源から得たのではないものは一つもありません。わたしたちは両親から知能を受け継ぎましたが,それは元々創造者であるエホバ神から人類に与えられたものでした。わたしたちの知識は,わたしたちを援助してくれた人々から,わたしたちが読んだものから,真理の源であられる神から来たのです。実際,わたしたちが得ているものはすべて,元をただせば神から来ているのです。使徒パウロはこう書いています。「というのは,だれが人を他と異ならせるのですか。実際,自分にあるもので,もらったのではないものがあるのですか。では,確かにもらったのであれば,どうしてもらったのではないかのように誇るのですか」― コリント第一 4:7。

      12 詩編 25編9節とヤコブ 4章6節には,どんな強力な考えが述べられていますか。

      12 エホバは,わたしたちが受け継いだ知能によってではなく,謙遜さによって,また神の道を進んで学び,それに進んで従う態度によってわたしたちを裁かれます。謙遜さと信仰は相伴うものです。聖書は,神がご自分の道を「柔和な者たち」に教えられると述べ,さらに,「神はごう慢な者に敵し,謙遜な者に過分のご親切を施される」とも述べています。―詩編 25:9。ヤコブ 4:6。

      13 教えやすさという特質を示した人の例を幾つか挙げてください。

      13 謙遜さには矯正を進んで受け入れる態度が含まれます。使徒ペテロと使徒トマスはこの点で際立った模範です。ペテロは語ることにおいて主要な地位を占めていましたが,非常に頻繁に矯正され,戒められ,叱責されさえしたことにおいても他の人にひけを取りませんでした。それでもペテロは熱心で積極的に行動する人であり,その信仰と進取の気象と勇気はわたしたちすべてにとって顕著な模範です。トマスは,イエスが復活させられたことを信じませんでしたが,証拠を目の当たりに見せられて,直ちにそれを受け入れました。わたしたちも,自分の誤りや誤った理解が聖書によって矯正されるとき,同様の謙遜さを示すでしょうか。―ヨハネ 20:24-29。

      自分の信仰を試しなさい

      14 クリスチャンの一長老は,堅い信仰を保つための助けとなるどんなことを行なっていますか。

      14 長い間真理にいるクリスチャンの一長老は,かつての知人たちが真理から流されてしまったにもかかわらず,自分が今なお強い信仰を保てる理由をしばしば自問します。その長老は,「自分が信仰にあるかどうかを絶えず試しなさい。自分自身がどんなものであるかを絶えず吟味しなさい」というパウロの諭しを常に思いに留めてきた,と述べています。(コリント第二 13:5)この長老は車で職場へ向かう途中,思いの中で聖書の真理を復習し,自分自身を試します。それらの真理の討議される場面を想像し,頭の中であらゆる種類の人々を前にして真理を説明し,擁護してみます。この兄弟は,王国会館での公開講演により,聖書は確かに神の言葉であるという事実を幾度も思いの中で再確認させられる,と指摘しています。しかし同兄弟は,「これらの事柄が討議されている集会にもし出席していなかったなら,どうしてこうした事柄を知ることができただろうか」と自問します。神の善良さと神の組織について定期的に自問します。このクリスチャンの監督は,これらのことに対する感謝を祈りの中に含め,「神の民と共にいることをお許しくださったことに対し,エホバに感謝しています」と述べています。自分が本当に「信仰にある」かどうかを調べるための同じような試し方をすることから,あなたも益を得ることができますか。

      祈りは肝要

      15,16 堅い信仰を保つために祈りが非常に肝要なのはなぜですか。

      15 この実例から,堅い信仰を保つために肝要な二つの点が引き出されます。それは祈りとクリスチャンの集会です。概して信仰の弱い人々はごくたまにしか祈りません。クリスチャンのある父親は,祈りを禁ずる法律が発布された後でさえダニエルが日に数度祈ったことを思いにとどめています。(ダニエル 6:6-10)この父親は一日に数回,知恵と導きをエホバに求めます。

      16 あなたは祈ろうか祈るまいかとためらうことがありますか。詩編作者は,「エホバは,ご自分を呼び求めるすべての者,ご自分を真実に呼び求めるすべての者の近くにおられます」と述べています。イエスは,「あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供たちに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天におられるあなた方の父は,ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです」と言われました。(詩編 145:18。マタイ 7:11)信仰をもって謙遜に求める人々に対し,エホバは「良いもの」を本当に与えてくださいます。

      集会の役割

      17 聖書のどんな実例が仲間の信者と集うことの重要性を示していますか。

      17 祈りのほかに,仲間の信者と定期的に集うことも信仰にとって必要な事柄です。イスラエル人の男子はすべて年に3回,エルサレムにおいて「まことの主であるエホバの顔の前に出る」ことになっていました。こうした機会の霊的な高い価値を悟っていた多くの男子は,自分の家族全員を連れて行きました。(出エジプト記 23:14-17。ルカ 2:41-45)さらに,パウロはローマの会衆からの,信仰を築き上げる励ましを待ち望んでいました。『相互に励まし合い』,互いの信仰を通して霊的に築き上げるため,ローマの仲間の信者と共にいることを切望していたのです。―ローマ 1:11,12。

      18 信仰の強い人々はクリスチャンの集会をどのようにみなしますか。

      18 信仰の強い人々はすべてのクリスチャンの集会を活用します。集会の前半が終わった後に帰ったり,後半だけに出席したりすることはありません。これらの集会が,学び,励まされ,祝福を受ける機会となること,およびこのような集会において愛ある兄弟たちからの助けを得,互いに「愛とりっぱな業」を鼓舞できるということを理解しているので,彼らはこれらの集会を高く評価しています。(ヘブライ 10:24,25)こうした励ましを与えることができる人々と交わらなければ,どうしてそのような励ましを得られるでしょうか。

      証しの業とわたしたちの信仰

      19 クリスチャンの証しの業はどのように信仰を強化しますか。

      19 クリスチャンの証しの業は,信仰を築くための別の助けです。ヤコブはこう書きました。「業を別にしたあなたの信仰をわたしに見せてください。そうすれば,わたしは自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう。実際に,霊のない体が死んだものであるように,業のない信仰も死んだものなのです」。(ヤコブ 2:18,26)クリスチャンの主要な業は他の人々を教えることであり,エホバの証人であればだれしも,『証しの業は確かに信仰を築き上げます!』と言うでしょう。その業は,教えを受ける人だけではなく,教え手にも益をもたらします。それは人を築き上げ,信仰を強化する活動です。証しの業を行なえば,自分の信仰を擁護できるようになり,思考力が鋭くなります。そうです,王国を証しする業により,神の霊の導きを含め,神からの祝福がもたらされます。―マルコ 13:11。ローマ 10:14,15。

      「奴隷」に対する信頼

      20,21 (イ)「忠実で思慮深い奴隷」についてどんなことを思い起こすのは大切ですか。(ロ)一人のクリスチャンは,この点をどのように言い表わしましたか。

      20 最初にどこでわたしたちが真理を学んだかを思い起こすのも大切なことです。聖書とその約束に対する信仰を築くようわたしたちを助けたのはだれでしたか。今日のわたしたちにとって聖書が何を意味するかをどのようにして理解するようになりましたか。イエスは,ご自分の戻って来られる時に,霊的な食物を備える「忠実で思慮深い奴隷」を見いだすこと,およびそうしているところを見られる「奴隷」は主人のすべての持ち物をつかさどるよう任命されることについて語られました。―マタイ 24:45-47。

      21 クリスチャンである一人の夫はこう述べました。「エホバの,見える組織は実に信頼の置ける情報源です。どんな点であれ,私がこの組織に誤導されたことはただの一度もありませんでした。この組織が述べてきたことはみな神の言葉に基づいており,私にとって,私の家族にとって,また私が知っているすべての人にとって最善の事柄でした。私に関する限り,この組織は非常に強い信仰を築き上げてくれます」。

      22 自分自身の信仰を顧みているかどうかを分析するのにどんな質問が助けになりますか。

      22 あなたはエホバの言葉を研究し,それを受け入れ,信じていますか。神に命を献げ,その献身を象徴するために水のバプテスマを受けましたか。今その献身に調和した生活を送っていますか。導きと知識と信仰を神に願い求めますか。定期的に,勤勉に,個人研究を続けますか。いつもクリスチャンの集会に出席していますか。神の神聖な奉仕に対して積極的で熱心ですか。弟子を作る活動の質を改善していますか,それともその活動は単なる型にはまった仕事となっていますか。―マタイ 28:19,20。

      23 問題や試練や障害に直面した時はどのようにすべきですか。

      23 もとより,わたしたちは皆問題を抱えており,自分自身の欠点を持っています。しかし,試練や障害に直面した時,煮え切らない態度を取ったり,動揺したり,日和見主義的な態度を取ったりしてはなりません。むしろわたしたちはひたむきな態度を示し,真理を確信している必要があります。ヤコブは,「わたしの兄弟たち,さまざまな試練に遭うとき,それをすべて喜びとしなさい。あなた方が知っているように,こうして試されるあなた方の信仰の質は忍耐を生み出すからです」と書きました。パウロは,「目ざめていなさい。信仰のうちにしっかりと立ちなさい。雄々しくあり,力強い者となりなさい」と諭しました。(ヤコブ 1:2,3。コリント第一 16:13)エホバの証人として真の信仰のうちにとどまるために,わたしたちは神の聖霊の実である信仰という特質を培わなければなりません。―ガラテア 5:22,23。

      24 堅い信仰を抱くことが非常に大切なのはなぜですか。

      24 そうすべきなのはなぜでしょうか。信仰は,「ほえるライオンのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしてい(る)」サタンから身を守る盾だからです。「何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなた方はそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます」。(ペテロ第一 5:8-10。エフェソス 6:16)堅い信仰を保つなら,物事を神の道に従って行なうことを望むようになります。あなたの心は正しくされます。あなたの行なう業は神の指示と調和するようになり,あなたは命に至る狭い道を絶えず進み続け,前進するようになります。―マタイ 7:14。

      この問題に関する他の目立った点は,次号の「今は熱心に奉仕すべき時」と題する記事の中で考慮されます。

      復習として

      □ ある人々が疑いを抱くのはなぜですか。そのような人々はその疑いに関し,どうすることができますか

      □ 知識と謙遜さについてあなたは何を学びましたか

      □ どのように自分の信仰を強化できますか

      □ 堅い信仰を保つことが非常に大切なのはなぜですか

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