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神のことばは生きた信仰を保たせるものみの塔 1968 | 7月15日
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神のことばは生きた信仰を保たせる
「すべての人が信仰を持っているわけではない」― テサロニケ第二 3:2。
1,2 (イ)世界の図書館には何が貯えられていますか。(ロ)知恵の源としてそれは有用ですか。
人世のあらゆる分野にわたる情報が随時に得られる知識の宝庫は,世界には数多く存在しています。世界各地の図書館には万巻の書物が保管されています。個人の蔵書から国家の図書館に至るまで,これらの本は「人類の記憶」と呼ばれ,「科学者,歴史家,詩人,哲学者その他が考え,また研究したことのすべてを記憶する巨大な頭脳である」と言われています。(ワールドブック百科事典第12巻212頁)ヨーロッパ最大のものであるパリーの国民図書館,蔵書数1450万冊を越えるモスクワのレーニン図書館,蔵書数1180万冊のレニングラード図書館,蔵書数750万冊を越すニューヨーク市立図書館,1200万冊の本,パンフレットを保管するアメリカの議会図書館などを考えただけでも,世界にはどれほどぼう大な知識が貯えられているかを伺い知ることができます。議会図書館の床面積は36エーカー,書棚の長さは400キロ近くに及びます。
2 貯蔵された知識として,そこには人間のあやまち,失敗,成果の記録,資料,珍本,ソノラマ,盲人用点字,地図,スライド,フィルム,録音された音楽,メダル,貨幣,戯曲,新聞,美術資料,マイクロフィルムそれに何千か国語の本が何百万冊も保存されています。人間の思考の巨大な貯蔵庫を利用し,資料を集め,保存し,迅速に利用に供するため,複雑な電子計算機が使われています。将来,家庭の勉強部屋に電子計算機を備え,世界中の図書館から必要な資料を居ながらにして利用するという夢も描かれています。人間は,保存した知識を利用して将来いっそう大きなことを成し遂げようとしています。
3 (イ)人知のぼう大な貯えをどのように見るべきですか。(ロ)その最終的な価値はどのように決められますか。
3 このすべての知識はどこから得られたものですか。勤勉な研究,実験また経験によって人間が多くの貴重な事実を記録してきたことは事実です。またぼう大な理論,推論また人間の好悪に基づく根拠のない結論も図書館の本の頁を満たしています。マーチ教授が次のように語ったのも不思議ではありません。「本を作ることには際限がない。しかし海にいる無数の魚の場合と同じく,取るに値するものは比較的に少ない」。聖書の伝道の書の筆者も人間の知恵の多くを排し,真の知恵の源を指摘して12章9節から14節に次のように書いています。「伝道者は知恵があるゆえに,知識を民に教えた。彼はよく考え,尋ねきわめ,あまたの箴言をまとめた。伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。知者の言葉は突き棒のようであり,またよく打った釘のようなものであって,ひとりの牧者から出た言葉が集められたものである……心を用いよ。多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる………神はすべてのわざ,ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」。クリスチャン使徒パウロがエペソをおとずれて伝道した時,多くの人が信者となり,無益な本を人々の前で燃やしました。その価額は銀5万枚に上ったと言われます。(使行 19:19)ウェイマウスの現代語新約聖書323頁の註によれば,それは「おそらく英貨2000ポンドすなわち1万ドルに相当」する額です。
4 地球上に見られる創造物は,人の信仰にとってどんな価値がありますか。
4 しかし学ぶことのできる,もう一つの印象的な場所があります。それは世界中の図書館を合わせたよりも大きく,5億1010万平方キロの広さを持っています。そうです,地球は創造の驚異をはてしなく繰りひろげた,感銘を与える図書館です。ローマ人への手紙 1章20節に述べられているように,創造の驚異を明らかにすることは,神すなわち創造者に対する人間の理解を深めます。「神の見えない性質,すなわち,神の永遠の力と神性とは,天地創造このかた,被造物において知られていて,明らかに認められるからである」。地球を観測台として人間は天を仰ぎ見,神の創造物が語るのを聞くことができます。「もろもろの天は神の栄光をあらわし,大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ,この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく,語ることなく,その声も聞えない」。(詩 19:1-3)受けたこの感銘は一生忘れることがありません。それで賢明な人々は偉大な創造者に栄光を帰しました。
5 (イ)あらゆる本の中で聖書はなぜ最も重要な本ですか。(ロ)それは信仰とどんな関係がありますか。
5 そしてエホバ神は,これに加えて世界中で最も重要な本すなわち神のことば聖書を授けられました。この本は人間の作物と異なり,また人間の好悪に基づいた助言を与えていません。それは真理と事実に立脚しています。それは生きたことばであって,人間の頭から出たことをしるした本にはない強い力があります。使徒パウロは次のように書きました。「神の言は生きていて,力があり,もろ刃のつるぎよりも鋭くて,精神と霊魂と,関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして,心の思いと志とを見分けることができる」。(ヘブル 4:12)聖書が書きはじめられてから1500年以上たって,神の御子は地に来られました。御子はこの同じ真理のことばを学び,宣教にそれを使うことをされました。天の父への祈りの中で「あなたの御言は真理であります」とも言われました。(ヨハネ 17:17)それで神のことばは真理ですか。過去においてその真実は証明されましたか。それは部分的には正確でも,どの時代にもあてはまるように,あいまいな部分を残していますか。その教えは今でも実際的なものですか。信仰を築く知識の宝庫である以上,神のことばは真実でなければなりません。信仰を得たいと思う人はだれでもそれを調べ,その真実をみずから証明しなければなりません。信仰を持つには神の存在することと神のことばの真実であることを信じ,また心を養い,保護することによって生きた信仰を保つための努力をしなければなりません。「信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはずだからである」― ヘブル 11:6。
6 神のことばの益を証明する事実を聖書からあげなさい。
6 イスラエル国民は40年間,荒野を旅してモーセとともにいました。その年月のあいだ,神の律法,戒め,救いに関する約束,祝福の預言を聞きました。それらは信頼できるものでしたか。ヨシュアのことばを聞いてください。「あなたがたがみな,心のうちにまた,肝に銘じて知っているように,あなたがたの神〔エホバ〕が,あなたがたについて約束されたもろもろの良いことで,一つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで,一つも欠けたものはなかった」。(ヨシュア 23:14,〔文語〕)それまでヨシュアが公言しているとおり,神のことばは信頼に足るものです。神の御子は,地に来られた時にまで及んでこの同じことばを調べ,神のことばは真理であると宣言されました。
信仰をつちかう
7 (イ)すべての人が信仰を持っているわけではないのは,なぜですか。(ロ)しかしパウロは,テサロニケの兄弟たちのことをどのように述べていますか。
7 信仰をつちかうには知識を得なければなりません。生きた信仰を保つには,学びつづけることが必要です。生きた信仰を保たせる知識は,人間の知恵のぼう大な寄せ集めからは得られません。宗教とその教える生き方を研究し,ある教えを受け入れ,そのような人間の教えに従って生活するようになった人も大ぜいいます。そしてあとになっておそらくは半生を費やしてのちに,それらの教えが間違っており,聖書に教えられていることと反していることを知って落胆します。このような人は何百万を数え,世界のどこにでもいます。根拠のない教えと虚偽から生じた真空は,神に反対する,血の通わない政治組織,無気力な宗教組織と命のない商業組織を生みだしました。人間の知恵はぼう大であり,また即座に用いられるのに,人間同志の間柄が改善されていないことは明らかです。しかしテサロニケ人への第二の手紙 1章3節に述べられた使徒パウロのことばに注目してください。「兄弟たちよ。わたしたちは,いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは,あなたがたの信仰が大いに成長し,あなたがたひとりびとりの愛が,お互の間に増し加わっているからである」。
8 テサロニケ人はどのようにして生きた信仰を保ちましたか。そのためには促す以上のことがなぜ必要ですか。
8 ひとつ自問してごらんなさい。周囲を見回してみて,人間同志の関係は良くなっていますか。宗教の仲間の間ではどうですか。パウロは,テサロニケの兄弟たちの信仰と互いに対する愛が増し加わっていると述べています。それはなぜでしたか。彼らの働きをさらに調べることにして,テサロニケ人への第一の手紙 2章13節をごらんください。「わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは,あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に,それを人間の言葉としてではなく,神の言として,― 事実そのとおりであるが ― 受けいれてくれたことである。そして,この神の言は,信じるあなたがたのうちに働いているのである」。またパウロがテサロニケ人への第一の手紙 5章21節ですすめているとおり,彼らはそれ以外のこともしていました。「すべてのものを識別して,良いものを守りなさい」。すなわち神のことばを探究することです。生きた信仰を保つには,単なるすすめ以上のものが必要です。キリスト教国では「人を助けることが必要である」としじゅう言われていますが,言うほどに行なわれていますか。一例をあげれば,ニューヨーク市の地下鉄にひところ次のようなポスターが掲げられていました。「我々は神のわざをしなければならぬ ― 今日,信仰を実践せよ」。(輸送機関広告パブリック・サービス。アメリカ生活における宗教)それを読む何百万人のうち,答え応ずる人が何人いますか。信仰がまず必要であり,それは信頼できる神のことばを学ぶことから得られます。神のことばはローマ人への手紙 10章14節に次のことを述べています。「しかし,信じたことのない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては,どうして聞くことがあろうか」。
9 エレミヤ書 17章5節から8節は,信仰のある人と信仰のない人に及ぶそれぞれの結果をどのように対照していますか。
9 人間の本の中にも感銘を与える知恵が見いだされるかもしれません。しかし著者が近視眼的であったり,出版の動機が利己主義であったりすることがわかる時,初めの喜びも失望に変わります。いくら善意があっても能力や資料に限りがあり,進歩する科学の前にはどうしても近視眼的になります。人間の積み重ねた知恵のすべてがそのようなものであるとか,あるいは無益なものだと言うのではありません。有益な知識もたくさんあります。しかし信仰をつちかうには,それに加えて神のことばが必要です。昔エホバはユダヤ人に対して次のように言われました。「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし,その心が〔エホバ〕を離れている人は,のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように,何も良いことの来るのを見ない。荒野の干上がった所に住み,人の住まない塩地にいる。おおよそ〔エホバ〕にたより,〔エホバ〕を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで,その根を川にのばし,暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く,ひでりの年にも憂えることなく,絶えず実を結ぶ」― エレミヤ 17:5-8,〔文語〕。
10 (イ)聖書を書いたのはだれですか。(ロ)信仰をつちかう食物として,それを使うことができるのはなぜですか。
10 このことばにあるように,木はどこから力を得ていますか。それは水のある所まで延びている,しっかりした根からです。生きた信仰を保つことについても同じように言えます。信仰を強める食物が必要です。この種の食物の唯一の源は神のことばです。神のことばはクリスチャンのために特に備えられました。神のことば聖書は神の霊の産物であり,神の霊と密接に結びついているため,パウロはエペソ人への手紙 6章17節で「御霊の剣,すなわち,神の言」というふうに述べています。それを書いたのは確かに人間であり,40人ほどの人が聖書を書くために用いられたのは,まぎれもない事実です。しかし記録され,表現されているものは彼らの意志ではありません。「預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によって語ったものだからである」。(ペテロ第二 1:21)神の目的を示す事柄やことばは,人間が書いたものではあっても,神から出たものです。種が発芽して森林の大木に成長することを可能にした神にとって,良い人の心に考えや表現を植えつけることは可能です。
11 エホバが人間を用いてみことばを記録させ,したがってそれが霊感されたことばになることは,どうして可能かを説明しなさい。
11 むかしエホバ神が生物の営みの中に定められた境界は,今日でも変わりません。地球上のあらゆる生物は強い生殖の力を持っています。植物はふえつづけます。異なった要素が働き,また方法が異なるにしても,生殖には一定の型があり,生み出されたものは親と同じ形をそなえています。この営みはつづき,何百年たってもやはり動物,鳥,魚,人間,植物が存在しています。しかも各類の範囲内ではさまざまの変化があります。この営みを司っている法則と知恵は,なんとすばらしいのでしょう。植物の世界における生殖には天候,湿度,土壌の養分など多くの事柄が関係しています。特定の植物には,特定の型つまり化学成分の土壌が必要です。多くの植物は実を結び,種をもつために受粉しなければなりません。風,水,鳥,昆虫がこのために大切な役目をはたしています。ミツバチは受粉を助けるかわりに,蜂蜜の原料となるみつを得ます。花はその色彩と芳香によってみつの宝庫にミツバチをひきつけ,ミツバチはみつをとり出す際に花粉をからだにつけ,それを近くの花にこすりつけて受粉させます。このように復雑なからくりの背後にはなんという知恵があるのでしょう。互いに結びつきのある各部分がよく働いて,全体の営みが円滑に行なわれます。一つの類の範囲内では交配によって多くの品種が作られていますが,たとえばロバと馬を交配して得られるラバには生殖能力がありません。つまりそれは境界につきあたっており,それ以上は進めないのです。このような営みを支配しているのと同じ力によって,神が,信仰の人に聖書を書かせ,その保存をはかられたとしても不思議ではありません。
12 聖書はどれほど広く流布されていますか。
12 それでエホバは,重要な知識を与えるために,今日,聖書となっている66冊の本を備えられました。次のように報ぜられたのはそんなに昔のことではありません。「聖書は部分訳をも含めて1136の言語に訳されている。このうち聖書全体の訳が215か国語,クリスチャン聖書の訳が273か国語である……1958年にアメリカ聖書協会だけで1660万冊の聖書を配布しており,さらに3つの新しい言語の聖書が加えられて,聖書の訳された言語の数は1136に上った」。(1959年5月25日付タイム) 聖書は過去500年間に何十億冊も印刷され,今では部分訳を含めて1280の言語に訳されています。世界人口の90パーセントの人が自国語の聖書を入手できるのです。聖書は古くからあり,少なくともその一部は3480年以上のあいだ人間に良い教えを授けてきました。
容易に理解できる
13 聖書が理解しやすいわけを説明しなさい。しかし難しいとすれば,どこに問題がありますか。
13 用語や表現という点からみて,聖書は理解しやすい本です。「A・S・クックは英語欽定訳聖書の語いの数を6568語,名詞,代名詞,動詞の変化した型を加えて9884語と計算した」。(1912年9月12日付イン・ザ・ネイション)あまり教育のない人でも,努力すれば聖書の知識を得られ,ひとたび信仰を得たならば,生きた信仰を保ち,勉強の能力を改善するにつれて知識を少しずつ加えることができます。古いほん訳には昔のことばや表現が使われていますが,現代語訳をしらべることによって理解が得られます。聖書に出てくる考え,たとえや象徴は,農夫,漁師,羊飼い,支配者,取税人,主婦などに理解できる,実際的なものです。マタイの福音書 13章を読んでごらんなさい。用語や描写を理解するのに困難を覚えるならば,それは住んでいる場所やその環境のせいかもしれません。いちじく,からし種,いばら,魚をとる網,真珠などを日常見なれている人ならば,理解は容易です。マタイの福音書 13章のたとえをイエスから聞いた人々の周囲にはそのようなものがありました。
14 文語訳とバルバロ訳のテサロニケ人への第二の手紙 2章6,7節を比較しなさい。この聖句を理解するために何をしますか。
14 聖書の研究をどのように有益なものにできるか,テサロニケ人への第二の手紙 2章6,7節にもどって考えてみましょう。この句は難しいようにみえます。しかしそれぞれのことばあるいは考えをしらべ,全体としてどういう意味になるのかを考えてみましょう。文語聖書によってこの句を見ると,「彼をして己が時に至りて顕れしめんために,彼を阻めをる者を汝らは知る。不法の秘密は既に働けり,然れど此はただ阻めをる者の除かるるまでなり」とあります。カトリックのバルバロ訳では次のようになっています。「かの者が,時いたってあらわれ出るまでとどめているのはなにかを,もうあなたたちは知っている。罪悪の奥義はすでに内にはたらいている。ただ,それを止めているものが〔いつか〕除かれるときまでのことである」。これは何を意味していますか。それぞれのことばは理解できても,その意味をつかむことは別問題です。ことばの意味する事柄を一つ一つ分析してみましょう。
15 パウロがテサロニケ人への第二の手紙を書いたのはなぜですか。
15 まず文脈を考慮します。パウロは,テサロニケ人を助けて生きた信仰を保たせるためにこの手紙を書きました。それで次のように告げています。「すべての人が信仰を持っているわけではない。しかし,主は真実なかたであるから,あなたがたを強めて下さるであろう……聞くところによると,あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り,働かないで,ただいたずらに動きまわっているとのことである」。(テサロニケ第二 3:2,3,11)パウロは彼らが信仰に成長したことをほめていますが,(テサロニケ第二 1:3)それでも何物あるいは何者かがその信仰を奪い去ることを心配していました。そして事実,それが「すでに働いている」と述べています。―テサロニケ第二 2:7。
16-20 (イ)最初に出てくる「汝ら」また「あなたたち」はだれをさしていますか。(ロ)「阻めをる者」の句を説明しなさい。(ハ)最初に出てくる「彼」とはだれですか。(ニ)その者はいつ,そしてどのように「顕れ」ました か。
16 テサロニケ人への第一と第二の手紙は,マケドニア,テサロニケのクリスチャン会衆にあてて書かれました。(西暦50-51年ごろ)(テサロニケ第一 1:1。テサロニケ第二 1:1)それで「汝ら」また「あなたたち」は,当時その地にいたクリスチャンをさしています。そして言うまでもなく,それは今日のクリスチャンにも等しくあてはまります。(ローマ 15:4)「阻めをる者」とは何を意味するのですか。ウェブスターのニュー・カレジエイト辞典によれば,「とどめる」は「おさえる,制止する,ひかえる,たとえば同意することをさしひかえる」ことを意味します。クリスチャンの使徒たちは,阻止する者としての役をはたす権威をイエス・キリストから与えられました。(マタイ 10:1)「キリストの12使徒が生存し,クリスチャン会衆を監督していた間は,バビロン的な宗教への背教は12使徒によって阻止され,あるいはおさえられていました。キリスト教ととなえても実際には非キリスト教でバビロン的な宗教組織の発展を阻止したのは,12使徒でした」―「『大いなるバビロンは倒れた!』神の国は支配する!」474頁。
17 使徒たちは,会衆をキリストに従わせる権威を持っていました。しかし会衆内において不法の行ないを阻止していた使徒たちがやがて死ぬと,会衆は不法と偽りの教えに移って行くことでしょう。(コリント第二 10:2-6。テサロニケ第二 2:3-12。テモテ第二 4:3,4。使行 20:29,30)マタイの福音書 18章18節にある,イエスのことばも,エホバの霊の下に働くこれらの円熟した人々が阻止する力となることを明らかに示しています。なおエペソ人への手紙 4章11節から13節また使徒行伝 20章28節をごらんください。このような人のひとりである使徒パウロが阻止する者となったことは,テサロニケ人への第二の手紙 3章6節に示されています。「兄弟たちよ。主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。怠惰な生活をして,わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから,遠ざかりなさい」― またテサロニケ第二 3:10-15。テサロニケ第一 4:1-8。コロサイ 2:8。使行 20:31。エペソ 4:17–6:9。コリント第一 5:1-5。コリント第二 10:2-6を見てください。
18 「彼」すなわち現われることになっているこの者は,3節に述べられている「不法の人」「滅亡の子」です。使徒行伝 20章29,30節にこの者を描写したパウロのことばに注目してください。「わたしが去った後,狂暴なおおかみが,あなたがたの中にはいり込んできて,容赦なく群れを荒すようになることを,わたしは知っている。また,あなたがた自身の中からも,いろいろ曲ったことを言って,弟子たちを自分の方に,ひっぱり込もうとする者らが起るであろう」。クリスチャンととなえる者たちの背教の指導者は力と勢力を増し加え,阻止する者がいなくなると同時に我がもの顔に横行します。
19 クリスチャンととなえるこのグループは西暦33年の五旬節以後そして特にイエス・キリストの忠実な12使徒の死後に現われました。彼らは組織されてキリスト教国の僧職者階級となり,大いなるバビロンの主要な部分を成しています。大いなるバビロンは今なお運営されており,したがって「不法の人」もいま存在しています。
20 「顕れしめ」。ウェブスターのニュー・カレジエイト辞典に次のように出ています。「超自然の手段あるいは媒介によって伝達また告げること。(隠された,また秘密のものを)あばくこと。暴露すること。絵が画家をあらわすように,目に明らかにすること。人間の目に明らかに見えないか,人の理解を越えたあるものを明らかにすることを意味する」。それで自称クリスチャンのこのグループは使徒たちが死ぬと姿を現わしました。「彼」は自分の時が来た時にあらわれたのです。―ペテロ第二 2:1-3。
21 「不法の秘密は既に働けり」とパウロが述べているのはなぜですか
21 「不法の秘密は既に働けり」。パウロがテサロニケ人への第二の手紙を書いた西暦51年ごろ,この「秘密」すなわち聖書の真の教えからひそかに離反することはすでに起こっていました。会衆内の有力な人々が,バビロン的な崇拝に屈しつつありました。
22 「阻めをる者の除かるるまでなり」の意味を説明しなさい。
22 「阻めをる者の除かるるまでなり」。1611年に出た英語の欽定訳聖書の場合,ここには「阻止する」という意味の古語(let)が使われています。ウェブスターのニュー・カレジエイト辞典には,「妨げる,阻止する,防ぐ」という古語レットの語義があげられてます。欽定訳の場合にはこの意味に解さなければなりません。使徒行伝 20章29節においてパウロは,「わたしが去った後,狂暴なおおかみが,あなたがたの中にはいり込んで(くる)」と述べています。ペテロの第二の手紙 1章12節から2章3節もごらんください。阻止する力であった使徒たちが死んで赤信号がとりおろされると,おおかみは大手を振ってはいり込んできました。
23 テサロニケ人への第二の手紙 2章6,7節は現在わたしたちにとって何を意味しますか。
23 以上しらべた事柄をまとめると次のようになります。あなたがたクリスチャンの知るように,忠実な使徒たちは自称クリスチャンの背教の指導者がバビロン的な崇拝を持ち込むのを阻止しました。しかしこの阻止する力は使徒たちの死とともになくなり,おおかみが姿を現わして会衆をバビロン的な崇拝にひき入れます。
24 信仰はあなたと他の人のためにどんな働きをしますか。
24 それであなたの信仰は,他の人に与えることのできる真理の貯えを持っているしるしです。この貯水池の水位が危険なまでに低下するならば,エホバの祝福をまっさきに失うのはその人自身であり,信仰をつちかう知識を求めてそのもとに来る人も満たされることがありません。神のことばが常に促しているのは,神のことば,すなわち「キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を,あなたに与えうる書物」で心を養い,信仰を常につちかうことです。(テモテ第二 3:15)イエスご自身,信仰の働きを述べられました。それはヨハネの福音書 7章38節に記録されています。「わたしを信じる者は,聖書に書いてあるとおり,その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。神のことばにおさめられた知恵はわたしたちの宝です。そのとき信仰は生きたものとなります。
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あなたの信仰をひきつづき大いに成長させなさいものみの塔 1968 | 7月15日
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あなたの信仰をひきつづき大いに成長させなさい
「兄弟たちよ。わたしたちは,いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは,あなたがたの信仰が大いに成長し,あなたがたひとりびとりの愛が,お互の間に増し加わっているからである」― テサロニケ第二 1:3。
1 聖書にしるされているどんな事柄は,自分の信仰をしらべる必要を示していますか。
テサロニケ人に手紙を書いて10年後に,パウロは(西暦60-61年ごろ)コロサイの会衆に手紙を送りました。それはエルサレム滅亡の10年前です。それは緊急な時であり,確かに神に対する自分の信仰を吟味すべき時でした。コロサイ人への手紙 4章14節において,パウロはコロサイの会衆にあいさつを送った同労者としてデマスの名をあげています。しかしそれから5年たたないうちにテモテに送った手紙の中に,パウロは次のように書きました。「デマスはこの世を愛し,わたしを捨ててテロサニケに行ってしまった」。(テモテ第二 4:10)これはデマスが最初ではありません。「あなたの知っているように,アジアにいる者たちは,皆わたしから離れて行った」と,パウロは書いているからです。(テモテ第二 1:15)なぜですか。何が原因で離れて行ったのですか。何が原因で彼らの信仰はくじけてしまったのですか。イエス・キリストは将来つまり今の時代を見とおして,「多くの人の愛が冷えるであろう」と言われました。(マタイ 24:12)テモテへの第一の手紙 4章1節にも,「後の時になると,ある人々は,惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて,信仰から離れ去るであろう」と述べられています。
2 (イ)冷淡になり神への奉仕をやめる人がいるのはなぜですか。(ロ)信仰はどこから得られますか。
2 人が聖書をしらべ,研究あるいは聞くことによって神の存在と力また神のことばの真実を疑問の余地なく得心していながら,神への奉仕をやめることがあるのはなぜですか。離れる原因が物質主義にあるという人は大ぜいいます。しかし安楽な生活をしていても,クリスチャンであることは可能です。ある人は,快楽を求めることが信仰を弱めると言います。それでもクリスチャンは幸福であるのが当然であり,徳を高める楽しい時を一緒にすごすことができます。恐れのために神への奉仕をやめる人があるという説もあります。これらや他のことが過度になって離れ去ったように見える場合もあるに違いありませんが,もう少しよく検討してみましょう。信仰は確かな基礎である神のことばの上に建てられます。「信仰は聞くことによるのであり,聞くことはキリストの言葉から来るのである」。(ローマ 10:17)それは栄養のある,からだを作る食物をとって健康を保つのと同様です。食べることをやめるならば,力と元気は次第になくなります。問題は,病気にかかるほど弱ったからだの状態であるにしても,原因は食物の不足です。信仰は神のことばから得られる食物を欠くとき弱くなり,つきてしまいます。その人はあらゆる種類の敵の手中に陥ります。パウロは,テモテが「信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて,キリスト・イエスのよい奉仕者」であったと述べています。(テモテ第一 4:6)信仰を強める必要についてへブル人に書き送ったパウロは「あなたがたの耳が鈍くなっている」と述べました。(ヘブル 5:11)彼らは食物の供給を絶っていたのです。2章1節でパウロは警告しています,「こういうわけだから,わたしたちは聞かされていることを,いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと,おし流されてしまう」。
3 個人的な研究の益をたとえで示しなさい。
3 それでクリスチャンにとって大切なのは,会衆の集会で他の人々と一緒に学ぶだけでなく,個人的に深い研究をして定期的に心を養うプログラムです。人は研究によって神の是認を得ます。(テモテ第二 2:15)賢人は箴言 4章7節の次のことばを述べました。「知恵の初めはこれである,知恵を得よ。あなたが何を得るにしても,悟りを得よ」。研究は旅行のようなものです。旅行の経験談を聞くのは楽しいかもしれませんが,自分が旅をして見聞きするようなわけにはいきません。ごちそうの話をどんなにされても,自分で味わなければその味はわかりません。
4 (イ)信仰を育てるうえに障害となるものを述べなさい。(ロ)エホバの証人はどう対処しますか。
4 多くの人の場合,良い奉仕者になるまでの信仰がつちかわれないかもしれません。教える人が,印刷された特定の資料の勉強を終わらせることだけを急いで聖書からじゅうぶんに調べることをせず,したがってまちがった考えや行ないにかえて,全面的に聖書に基づいた真理や資質を身につけるまでになっていないかもしれません。福音を伝道する意欲がつちかわれないうちに,宣教に参加したということはありませんか。別にも大きな障害があります。それを乗り越えるには,さびしさを克服しなければなりません。大いなるバビロンから出なければならないことを自覚しはじめる時(黙示 18:4),昔からの友人や知己とも別れるようになります。エホバの民の中に新しい友人がすぐに見つかりますか。彼らは理解のある,そしてあまりに大きな進歩を期待せずに忍耐を示す人々ですか。援助の手をさしのべますか。それとも見ているだけで,「自分でどうにかするだろう。まずためしてやれ」と言いますか。援助の手がさしのべられ,真実の暖かい関心が払われ,忍耐強く援助することが行なわれ,神のことばの高い標準が維持され,しかも「これをするな」「あれをするな」といちいちとがめることをしない暖かい,安心感を与えるふんい気の中で,信仰は成長します。しかしそれには時間がかかります。
信仰を建ておこす
5 家族も会衆内の責任ある監督も,家族の研究のプログラムに対してどんな見方をすることが必要ですか。
5 信ずるためには,聞くことがなければなりません。それで建ておこすわざに関係しているすべての人は,聞くことの重要さを認識する必要があります。神のしもべ各人は霊的な食物を重要なものと考え,心を養う定期的なプログラムを設けます。他の事をあれこれする余裕を生み出すために,霊的な食物のことをおろそかにしてはなりません。家族も,その研究を予定に従って行なうため,同様に考えることが必要です。教育を行なうこの組織のどんな部門における監督も家族の研究の重要さを認め,父親がその聖書的な責務をはたすのに妨げとなるような割当を与えてはなりません。父親の責任は,信仰をつちかう霊的な食物で家族を養うことです。いま述べたような問題は,割当をする人が,それをはたすに必要な時間を考えに入れるならば避けられます。神の組織内における奉仕の割当は特権ですが,時間的に余裕のない時,家族を霊的に養う家族のかしらの計画を狂わせてしまうことがあります。定期的に霊的な食物をとることの重要さをじゅうぶんに認識しているならば,監督は相手の兄弟とまず相談してから割当をするでしょう。―箴言 15:22。
6,7 (イ)多くの人が助言をする中で,安全な道はどこにありますか。(ロ)円熟した人は,他の人の信仰の成長を妨げることをどのように避けますか。
6 助言を与え,また受けるという問題があります。エホバへの奉仕において,なすべき正しい事を知ることには多くの益があります。だれにでも意見があり,たいてい人はすぐにそれを口にします。誠実な助言であっても,その人の好ききらいに基づいている場合は決して少なくありません。人は一生の間に,好ききらいという感情に動かされて決定を下したり,忠告を与えたりして片寄ることがよくあります。正しい事を知り,それをするならば,エホバに奉仕して満足を得,エホバの祝福を得ます。それこそ求めなければならない大切なことです。真理を知っているから,また皆同じ組織の一部だからといって,独断的な態度をとる必要はありません。中庸の範囲内において,さまざまの変化のある行動ができます。(テトス 2:2。テモテ第一 3:2,11)だれも異議をとなえる必要はありません。聖書の原則にもとるならともかく,そうでなければスタイル,洋服の色,家,食物,娯楽あるいは仕事などのことで,なぜ気をもむのですか。変化に富むのは良いことではありませんか。すべての者が同じであるべきだとお考えかもしれませんが,地上の千変万化の有様を見てごらんなさい。それは興味をおこさせ,生気を与えるではありませんか。他の人の目から見て,もっと別の方法がありそうなものだと思えても,職業,住む家,子供のしつけ,友人など,他人が世話をやく必要のないことはたくさんあります。余計なおせっかいをして他の人をうるさがらせ,自分もそのようなことで心を乱すならば,人の生活を乱し,信仰をたておこす働きを妨げることになります。パウロは大切なこと,つまり御国を第一にするようにすすめました。―ローマ 14:17-23。
7 正しいことを見いだし,恐れずにそれを実行し,あるいは真理を守るならば,信仰をさまたげる多くの危機を免れます。不決断やためらいの時に疑いが生じ,足もともおぼつかなく,耳にはいることがいちいち迷いの原因となります。賢明にふるまい,聖書の健全な助言によって問題を考えぬいてください。―ピリピ 4:5。
8 指図することと霊的な食物を与えることとの相違,およびその結果を明らかにしなさい。
8 信仰を建て直すように他の人を助ける際に必要なのは,食物を供給することであって,指図を与えることではありません。兄弟たちを助ける会衆内の円熟した兄弟が,指図よりも霊的な食物を与えるならば,確かに信仰を強めるでしょう。強くない人が集会に来ることは確かに必要であり,しきりに誘えばその週には出席するかもしれませんが,他の週はどうですか。霊的な食物は力を与え,その供給が続くならば力は増し加わります。そうするうちに心からの応答が得られ,空腹な“羊”はいっそうの食物を求めてすすんで集会に来るようになります。円熟した奉仕者は,戸別訪問の宣教において会う人のための食物として聖書の話を準備します。兄弟たちを助けるときにも,聖書の話を準備できます。もちろん融通性は必要ですが,神のことばからよく考えた一つの点は,人がすでに持つ信仰を大きなものにします。欠点や弱さのある兄弟を圧迫したり,神のことばの強い光にあてて兄弟の弱さをさらけ出す必要はありません。
9 イエスはどんな方法を用いて信仰を建ておこされましたか。
9 次のことを心にとめてください。エルサレムからエマオにむかう途中,イエスから語りかけられた弟子たちは,「道々お話しになったとき……お互の心が内に燃えたではないか」と述懐しています。(ルカ 24:32)イエスの語られたことはなんでしたか。聖書の同じところに次のように出ています。「[イエスは]モーセやすべての預言者からはじめて,聖書全体にわたり,ご自身についてしるしてある事どもを説きあかされた」。(ルカ 24:27)イエスの説きあかされた聖句は,申命記 18:15,民数記 21:9,創世記 49:10; 22:18; 3:15,イザヤ書 7:14; 9:6,エレミヤ書 23:5,エゼキエル書 34:23; 37:25,ダニエル書 9:24,マラキ書 3:1などであったかもしれません。ピリポはナタナエルにこう語っています,「わたしたちは,モーセが律法の中にしるしており,預言者たちがしるしていた人,ヨセフの子,ナザレのイエスにいま出会った」― ヨハネ 1:45。
10 イエスが接したのはどんな人々でしたか。それと信仰を建ておこすこととの関係を述べなさい。
10 信仰を建ておこした最善の手本はキリスト・イエスです。そこでわたしたちはイエスのされたことを行ない,イエスが説明されたように説明し,人々と接するのにイエスと同じ方法をとらなければなりません。イエスがどんな人々を助けることをされたか,しらべてごらんなさい。中風で身動きできない人(マタイ 9:2),手さぐりする盲人(マタイ 9:27),もどかしいおし(マタイ 9:32),恐れられていたらい病人(マタイ 8:2),悪霊につかれた狂暴な人(マタイ 8:28),さげすまれた取税人(ルカ 5:30),つまはじきされた,いかがわしい女(ルカ 7:37-50)などでした。イエスは来る日も来る日も,そして敵意と憎しみに満ちた宗教指導者たちが見守る中でこのような人々に語りました。(マタイ 22:15; 27:1; 26:3,4)イエスは,このような罪人と交わる人として知られるようになり(マタイ 8:16,17),この点でイザヤ書 53章3,4節の預言を成就されました。イエスの歩まれた道は常に建ておこす道でした。しかもイエスは理解と忍耐をもってそのことをされたのです。
11 その過ぎ越しの晩,イエスは信仰に成長するように弟子たちをどのように助けましたか。イエスの建ておこし方からどんな教訓を学びますか。
11 信仰の問題は,イエスが使徒たちとすごされた最後の過ぎ越しの晩にもとりあげられました。イエスは使徒たちにむかって「あなたがたは,心を騒がせないがよい。神を信じ,またわたしを信じなさい」と言われました。(ヨハネ 14:1)イエスは,忠実な使徒たちの場所を備えるため(ペテロ第一 1:3,4。黙示 20:6),天に行くと言われ(ペテロ第一 3:22),また彼らを迎えるためにもどってくると言われました。(マタイ 24:31)そして父エホバとご自分との密接な関係また使徒たちがイエスの戒めを守り,エホバとキリスト・イエスまた兄弟たちに対する愛を深めることによって享受する同じ密接な関係を指摘されました。イエスはいっそうの助け,「真理の御霊」を約束されました。それは彼らが忠実を守る助けとなるでしょう。(ヨハネ 14:17)イエスは肝心な点を指摘してこう言われました,「わたしがあなたがたに話している言葉は,自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて,みわざをなさっているのである」。(ヨハネ 14:10。ヨハネ 7:16; 8:28)人の信仰を建ておこすためにイエスが神のことばを使うことを常とされた以上,今日においてもそれにまさる方法はありません。イエスの知恵はわたしたちの知恵よりもはるかにまさっています。しかしイエスはご自分の知恵にたよって間口を広げるようなことをせず,信仰を建ておこすのに霊的な食物で養うことをされました。
12 信仰を強めるのに役だつ山上の垂訓,イエスのたとえ話,預言に何が盛られているかを説明しなさい。
12 イエスの山上の垂訓(マタイ 5:1–7:29)をしらべると,信仰を芽ばえさせ,また円熟した人の信仰を強める霊的な食物がそこに盛られていることに気づきます。マタイの福音書 13章,21章,22章にあるイエスの多くのたとえ話には,豊かな霊的食物が注意深く盛られています。イエスは,信仰を建ておこす預言をされました。マタイの福音書 24章1節から25章46節に記録されている預言を読む多くの人は,信仰を強めます。これらすべての場合にイエスは簡潔で要を得ており,力強く語られました。
13 ヘブル人への手紙 11章1節に名前をあげられている人々が表わした信仰を定義しなさい。
13 ヘブル人の信仰を強めるために書かれた使徒パウロの手紙には,一つの共通のもの,すなわち,信仰を持っていた男女16人の名があげられています。それらは時代を異にし,境遇も直面した問題もさまざまの人たちですが,エホバの祝福をもたらしたのは彼らの信仰でした。ヘブル人への手紙 11章1節はこのような信仰を定義しています。「信仰とは,望んでいる事柄を確信[論理と事実に基づき,証明ずみの事柄に対して期待]し,[実際の目では]見ていない[が正真正銘,真実の]事実を確認[明白に理解し,表明]することである」。1962年8月1日号「ものみの塔」は信仰を「固い信念,確信,安心感をもっていること」であると定義しています。
信仰を保ち,成長させる
14 信仰を建ておこすことは,建築となぜ似ていますか。
14 それで信仰の状態は建物の状態にくらべられます。質が貧弱であったり,材料が悪かったりすると,家は早くいたみ,修理を必要とするようになります。土台を補強することが必要かもしれません。これは新築よりも大変な仕事になることがあります。解決策を考えだし,修理をするまでには,多くの時間をかけて調べることが必要です。
15 信仰を保つことはいつから始まりますか。なぜですか。
15 家の維持は,家を引き渡された時から始まります。すべてが新しく,耐久力のある設備がととのっていても,手入れはさっそく必要です。風雨,寒暑による収縮,土台の沈下,全体的ないたみによって,ひびや割れが生じたり,窓ガラスがこわれたり,設備のあちこちがいたんだりします。信仰もそれと同じです。信仰を保つためにどれだけの時間をかけていますか。神のことばはこうすすめています,「あなたがたは,はたして信仰があるかどうか,自分を反省し,自分を吟味するがよい」― コリント第二 13:5。
16 信仰の弱さをどのようにしらべ,また強める手段をとりますか。
16 信仰は成長と結びついています。成長がとまり,あるいはおさえられたところに,信仰の欠如がみられます。ヘブル人への手紙 10章38節にあるエホバのことばはこう述べています,「我に属ける義人は信仰によりて活くべし。もし退かば,わが心これを喜ばじ」。(文語)補強が必要かどうかを見きわめる非常に良い助けは,退く徴候に気をつけることです。あなたとご家族は家族の勉強を休みがちで,前ほど勉強しなくなりましたか。聖書の事柄について説明しようとすると,理解の不足を感じますか。急いで宣教をすませてしまいますか。聞くことににぶくなり,忘れっぽくなったと言ってこぼしますか。容易に手に入れることができるために,真理はあたりまえのものになっていますか。短期間,所有するにすぎないので手入れをせず,あとはどうなっても問題を買い手におしつけてしまう家主のような考え方はできません。永遠の生命の希望を抱くわたしたちは,生きた信仰を保ち,それを成長させなければなりません。
17 (イ)忠実であることには報いがありますか。(ロ)忠実な人はたいていどのように見分けられますか。
17 成長することには大きなさいわいがあります。生きた信仰を持つ人は,生き生きしています。信仰を保つ確かなプログラムを持つ人は,はかりしれない満足を覚えます。信仰の喪失を避けるならば,心に平和を得ます。また着実な歩調で忠実にエホバに奉仕するならば,それを見て新しい人や弱い人がどんなに励まされるかを考えてごらんなさい。忠実なしもべをとおしてエホバは励みを与える次のことばをテサロニケ人に与えられました。「わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え,あなたがた一同のことを,いつも神に感謝し,あなたがたの信仰の働きと,愛の労苦と,わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを,わたしたちの父なる神のみまえに,絶えず思い起している」。(テサロニケ第一 1:2,3)わたしたちも同じかたに助けを求めることができます。そして「信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見」るとき,すばらしい将来があることは確かです。―ヘブル 12:2。
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