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信仰は時代遅れですかものみの塔 1979 | 5月1日
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記者が,『信仰を堅持』することと,「立派な市民」であること,慎み深さ,行儀の良い子供たちとを結び付けている点に注目するとよいでしょう。そのような優れた実を生み出す信仰を本当に時代遅れなどと言えるでしょうか。それどころか,そのような信仰は,この危機的な時代の必要に応じる時宜にかなったものです。それは確かに,勝利の信仰です。
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信仰はあなたの益になりますかものみの塔 1979 | 5月1日
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信仰はあなたの益になりますか
この質問に正しく答えるには,まずもう一つの質問,すなわち,真の信仰とは何か,という質問を吟味してみなければなりません。奇妙に思えるかもしれませんが,「信仰」に関する一般的な概念は,聖書の教えるところとずいぶん異なっています。ある有名な辞書は,信仰を「ある宗教の伝統的な教理を信じること」,また「証拠のないものに対する堅い信念」と定義していますが,それは全くの見当違いというものです。どうしてそう言えますか。
まず第一に,ある宗教の伝統的な教理は必ずしも正しい教理であるとは限りません。イエスは,書士やパリサイ人の伝統について次のように語った際,その点を示されました。「あなたがたも自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。……偽善者よ,イザヤはあなたがたについて適切に預言して言いました,『この民は口びるでわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを崇拝しつづけるのはむだなことである。人間の命令を教理として教えるからである』」。(マタイ 15:3-9)彼らは神の約束されたメシア,その「命の主要な代理者」を殺すことによって自らの信仰の欠如を明らかにした,「不信仰でねじけた世代」の指導者でした。―マタイ 17:17。使徒 2:40; 3:15。
さらに,「証拠のないものに対する堅い信念」というのは,真の信仰とはまさに正反対の定義です。もちろん,その辞書は,目に見える証拠について述べているのかもしれません。しかし,証拠が全くない場合,そのような信念は軽信と呼ぶのが当を得ています。それはヘブライ 11章1節で聖書の述べる信仰の定義とは全く相入れないものです。「信仰とは,望んでいる事がらに対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」。ここで信仰が,事実,すなわち保証される事柄や,実体が明白にされる事柄と結び付けられている点に注目してください。信仰には極めて堅固な土台があり,それは豊富な証拠に基づくものです。
わたしたちの信仰の土台
使徒パウロは,別の手紙の中で,信仰を働かせる強力な理由を示しています。ローマ 1章20節で,パウロは,「神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見える」と述べています。これらは,星をちりばめた天空,地上の驚くほど平衡の取れた創造物,そしてその中に優れた建築者の愛と知恵がはっきりと見られるいわゆる“自然”の美しさなど,わたしたちが自分の目で見る驚異なのです。これらの創造物について熟考すれば,詩篇 104篇24節(新)に言い表わされているような信仰を築き上げるのに役立つはずです。「あなたのみ業はなんと多いのでしょう,ああエホバよ! そのすべてをあなたは知恵をもって造られました」。これは,「証拠のない」信仰などではありません。
しかし,神に対するわたしたちの信仰は,その方の存在を認め,その創造物の栄光を認識するだけにとどまりません。それは,この神また創造者であられる方との極めて祝福された個人的関係に入る特権へと広がってゆきます。わたしたちが神を求めるなら,神を見いだすでしょう。「実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」。(使徒 17:24-27)神を見いだし,神を知ることによって,人生における他のいかなる経験にもまさる満足と喜びが得られるでしょう。神を喜ばせることには,最もすぐれた報いが伴います。そして,それは信仰によって可能になるのです。前述の使徒がこう述べているとおりです。「そして,信仰がなければ,神をじゅうぶんに喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分をせつに求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」― ヘブライ 11:6。
気遣ってくださる父
わたしたちの神,また創造者は,どんな父親よりも親切な方です。預言者モーセに対して,神はご自身を次のように描写しておられます。「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛の親切と真実とに満ちあふれる神,愛の親切を幾千代にも保ち,咎と違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決して(しない)」。(出エジプト 34:6,7,新)そのような高遠な原則を具現化しておられる神が,この地上の人間という被造物に対する約束を果たさないままでおくなどと考えられますか。決してそのようなことは考えられません。不完全な人間の父親でさえ子供に何か贈り物を約束するなら,きっとその約束を実現させようとするでしょう。人類の,天的な父であればなおさらのことです。イエスは山上の垂訓の中で聴衆にこう語られました。「あなたがたが,邪悪な者でありながら,自分の子どもに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天におられるあなたがたの父は,ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです」。(マタイ 7:11)神の約束すべては,神が良しとされる時期に,良しとされる方法で実現されるという絶対の信仰を抱くことができます。―ヨシュア 23:14。
しかし,それらはいったいどんな約束ですか。それは単なる一時的な約束ではありません。むしろ,神が全人類のためにしてくださる良い事柄に関する約束は,4,000年以上の期間にわたって,幾度も,幾度も繰り返されてきました。それらの約束は,ある事をすると言っておきながら,結局,別の事をするようになる政治家たちの約束とは比べ物になりません。神の約束は信頼の置けるものです。エホバというその比類のないお名前によって与えられているのですから,そうした約束は必ずや実行されます。そして,ご自分の壮大な約束の一つについては,誓いをもってそれを保証することさえされました。「神も,約束の相続者たちにみ旨の変わらないことをいよいよ豊かに示そうとした時,誓いをもって踏み込まれました」― ヘブライ 6:17。
神の約束に対する信仰
聖書のヘブライ書の11章の中で,神の約束は信仰という主題と切り離せないものとして織り込まれています。聖書の歴史上,最初の信仰の人であるアベルは,創世記 3章15節に記録されている,「胤」に関する神の約束を知っていたと思われます。その「胤」とは,神のみ使いたちから成る天的な組織の中から産み出される子孫で,「初めから
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