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    ものみの塔 1963 | 11月1日
    • は力が得られるからです。この理由でペテロは次のように書いています,「今しばらくのあいだは,さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが,あなたがたは大いに喜んでいる。こうして,あなたがたの信仰はためされて,火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ,イエス・キリストの現れるとき,さんびと栄光とほまれとに変るであろう」。(ペテロ前 1:6,7,新口)昔の忠実な預言者,大預言者にして手本であるイエス,現代のエホバの証者の中で試練にうちかった勇気ある人たちにならって,すべての人が喜びつつ信仰のこの戦いをつづけて行きましょう。

      8 固い信仰を抱いて忍耐するための助けとして,何時でも大切にしなければならないのは,エホバ神の栄光のみ名を高く掲げる比類のない特権です。(詩篇 145篇)エホバの至上権に対するその悪しき挑戦のゆえに,サタンは今日に至るまで神の僕を試み,迫害することを許されてきました。(出エジプト 9:16)耐え忍んで忠実を守るならば,私たちはエホバの立証に与ることができます。私たちはエホバの聖なるみ名をこよなく愛しているではありませんか。そのみ名は全宇宙にある他のどんな名よりも,私たちにとって大事です。エホバの前に忠実であってのみ,神の創造されたものすべてに対する心からの感謝を表わし,生命の恵み,更にはみ子キリスト・イエスによって永遠の生命に至る道を備えられた神の比類のない愛とご親切に対して感謝を表わすことができます。こうして私たちは信仰と喜びとにみちて次の言葉に和するのです,「エホバに向ひて歌ひその御名をほめよ,日ごとにその救をのべ伝へよ」― 詩 96:2。

      9,10 (イ)エホバに対する愛と共に何が必要ですか。(ロ)勉強はなぜそれほど大切ですか。聖書からどんな例があげられますか。

      9 エホバとその正義を愛すると共に,エホバのみ名を汚し,その正義の原則を破る不義に対しては,強い憎しみを持たねばなりません。この点においても,キリスト・イエスと同じ心を持つべきです。イエスについて預言は次のことを述べていました,「あなたは義を愛し,悪を憎む。このゆえに神,あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまさって,あなたに注がれた」。(詩 45:7,新口)エホバの正義の原則に反する悪はことごとく憎んで,この喜びにあずかることができますように。私たちは人を憎みませんが,エホバにむかって「われわれはあなたの道を知ることを好まない」と言う者の友になることを決して望みません。(ヨブ 21:14,新口)むしろ同じ貴重な信仰を抱く人々と共に時を過し,エホバのお考えを学びましょう。「エホバよ汝のみわざは大なるかな汝のもろもろの思念はいとふかし無知者はしることなく愚なるものは元をさとらず」― 詩 92:5,6。

      10 そうです,勉強です! それは忍耐するための大きな力です。それは約束のものを得ることに心を向けさせるので,信仰を強めます! 毎号の「ものみの塔」にのせられている知識の泉を認識し,深くしらべてその全部を吸収していますか。今日たいていの国で宗教は単なるしきたりに終っており,命名式,結婚式,葬式の時だけ用のあるものになっています。儀式めいたことは多く行なわれていますが,教義や預言に対する関心はほとんどありません。生きた信仰は見られず,初期クリスチャン証者が聖書の真理を探究した熱意はどこにも見られません。初期クリスチャンは聖書を学ぶため「日々,心を一つにして弛みなく宮に居り」,こうして学んだ偉大な真理を他の人に宣べ伝えたとき,聞いた人もまた「心から教を受けいれ,果してそのとおりかどうかを知ろうとして,日々聖書を調べていた」のです。(使行 2:46; 17:11,新口)それは日常生活の中にとけ込んでおり,生活の一部になっていました。同じく今日でも信仰の報いを求める人は,古い世の宗教に見られる怠惰な習慣を捨て,信仰を抱いてエホバの新しい世に目を留め,毎日,自分で聖書を勉強すること,また真のクリスチャンと共に何時も集まり合うことに専念しなければなりません。

      11,12 (イ)エホバの備えるものに対して認識を示したどんな現代の例がありますか。(ロ)なぜとくにいま,勉強と交わりは肝要ですか

      11 聖書および聖書を学ぶことに対する真のクリスチャンの熱心は,ナチスの収容所で苦しみを受けた現代のエホバの証者に見られます。フランスの現大統領ドゴール将軍のめいジェニヴィーヴ・ドゴールは,収容所から釈放されたのち,レイベンスブルック婦人収容所にいたエホバの証者について次のことを述べました。「私はエホバの証者に対して深い敬意を払っています。その中にはドイツ人,ポーランド人,ロシア人,チェック人など,いろいろな人種がいましたが,いずれもその信仰のために受けた大きな苦しみに耐えました。……そのすべては大きな勇気を示し,その態度は遂に親衛隊の敬意をさえ得るに至りました。信仰を否定しさえすれば,彼らはすぐに釈放されたのです。しかしそれとは反対に彼らはレジスタンスをやめず,収容所内で本や冊子を手に入れることにさえ成功していました。このために数人の者は絞首刑にされています」。a

      12 考えてごらんなさい! 死の危険をおかしても「ものみの塔」の最新号を手に入れるほど,私たちは強い信仰を持っていますか。マゴグのゴグが最後の攻撃を加えるとき,どんな試練にあってもたじろがないという確信を持てるだけの固い信仰をつちかいましたか。集まり合うことの非常に難しい時がくるかも知れません。ナチスの収容所で兄弟たちはこのような試練に会い,現在ソ連の収容所にある兄弟たちはこの状態を経験しています。比較的に自由で,集まることにも妨げのない今こそ,毎週定期的に4回か5回集まり,クリスチャンの集まりに精進し,聖書の貴重な真理を学びとる絶好の機会です。それによって,正義の新しい世に生き残るための固い信仰をつちかうことができます。「見よ,今は恵みの時,見よ,今は救の日である」― コリント後 6:2,新口。

      13 なぜ「高ぶる目」に気をつけるべきですか。

      13 迫害という正面攻撃のほかにも,信仰の試練があります。それは間接的な攻撃,サタンの仕かける伏兵であって何時,不意打ちをかけてくるかも知れません。それに打ち勝つものはやはり強い信仰とエホバの義に対する深い認識です。箴言 6章16-19節は,エホバの憎み給うもの七つをあげています。最初にあげられているのは「高ぶる目」です。よく勉強して聖書の知識に進み,エホバの制度内で大きな奉仕の特権を与えられても,高慢になって,自分がなにか偉い者のように思うならば,なんの益もありません。誇りは滅びに先立つものです。自負心を持つことはサタンの攻撃を招き,悪しき者の火矢がその高慢をくじくとき,信仰の盾はすでに失われています。(エペソ 6:16)信仰の人モーセでさえもそれから立ち直って神の恵みの中に留ったとはいえ,一度はつまずいたことがありました。(民数 20:7-13)神の預言者として輝かしい特権を持っていたにもかかわらず,モーセは最も柔和な人でした。その手本にならうことは賢明です。

      14 他にどんな憎むべきものに気をつけるべきですか。なぜ?

      14 腐敗した世に住んでいるあいだ,信仰の人はその悪い影響から身を守るために警戒を怠りません。「エホバの憎み給ふもの」は他にもあります。私たちも神の憎むものを憎むべきです。すなわち「偽りを言う舌,罪なき人の血を流す手,悪しき計りごとをめぐらす心,すみやかに悪に走る足,偽りをのべる証人,また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである」。これらの憎むべきことはサタンの世のものであり,サタンの世と共に滅びます。真の信仰から生まれる熱意をもって,これらのことが各人の生活またクリスチャン会衆内に入り込まないように警戒しなければなりません。「エホバはただしき者にして義しきことを愛したまへばなり,直きものはその聖顔をあふぎみん」。この事を心に留めて下さい。―詩 11:7。

      15 生きた信仰には,どんなすばらしい特権が伴いますか。

      15 生きた信仰を持つ人は受けるだけで満足しません。生きた信仰は与える信仰です。信仰をわけ与える最善の方法は,同じ信仰を持つ人々と連れだって毎週エホバへの奉仕に出かけることです。目的をもって働き,善意者を再訪問し,一緒に研究しなさい。そうするときロマ書 10章13-15節にしるされた喜ばしい結果に十分与ることになります。「エホバのみ名を呼び求める者はみな救われるであろう」「しかし,信じたことのない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信ずることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては,どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては,どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ,麗しいかな,良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」。エホバから遣わされた者,信仰を他の人にわかつ大きな特権を受け入れた者は,エホバの目になんと麗しいことでしょう。

      16 どんな助言が今日の若い世代にもあてはまりますか。

      16 今日エホバの証者の新世社会には,新しい,若い世代が成長しつつあります。この人々にも信仰が必要です。いまエホバの民と交わり始めた大ぜいの人々は,第二次世界大戦中にあったような激しい迫害を経験していません。古い証者が経験した暴動,刑務所,弾圧,非難を知りません。しかし新しい世代の人々もまた,あらゆる時代のエホバの証者に共通な真の信仰をつちかうために研究しなければなりません。若い人テモテに与えられたパウロのさとしに従いつつ,勤勉に努めて信仰の武具を身に着けることが必要です。「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて,永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは,そのために召され,多くの証人の前で,りっぱなあかしをしたのである」― テモテ前 6:12,新口。

      17,18 なぜ今は「身を慎んで,努めて祈」るべき時ですか。

      17 エホバに信仰を持つ人は,エホバに近づきます。エホバに近づくとは,すなわち祈りによって近づくことです。この点に関連してペテロは次のようにさとしています,「万物の終りが近づいている。だから,心を確かにし,身を慎んで,努めて祈りなさい。何よりもまず,互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」。(ペテロ前 4:7,8,新口)祈りによって何時もエホバに近づきなさい。愛と共に信仰の祈りによって,人は神の新しい世における永遠の生命の報いを目ざして真直ぐに歩むことができます。

      18 たしかに「万物の終りが近づいてい」ます。諸国家が自らの作り出した核戦争の危機にあえいでいるのを見れば,その事はいっそう痛感されます。いまは心を確かにし,信仰を常よりも固く保つときです。このようにしてハルマゲドンに至る最高潮の日々のあいだ,エホバと御子の導きに始終従うことができます。その日は恐るべき日です! ハルマゲドンで「イエス・キリストの現れるとき」,私たちすべての信仰がためされた,すぐれた質のものであって,賛美と栄光とほまれになりますように ― ペテロ前 1:7,新口。

      19,20 (イ)詩篇には,保護に関してどんな栄光ある約束がしるされていますか。(ロ)エホバはなぜこのように保護を与えますか。

      19 預言者モーセに話を戻しますが,その詩篇は,熱心に神を求める信仰の人の報いが如何に大きいかを語っています。このような人は「至上者のもとなる隠れたるところ」「全能者の蔭」にやどるでしょう。そして「エホバはわが避所わが城わがよりたのむ神なり」と言います。このようにより頼む人々に,エホバは次のことを約束されました。「夜はおどろくべきことあり昼はとびきたる矢あり幽暗にはあゆむ疫癘あり日午にはそこなふ励しき病あり,されどなんぢ畏るゝことあらじ千人はなんぢの左にたふれ万人はなんぢの右にたふる,されどその災害はなんぢに近づくことなからん なんぢの眼はただこの事をみるのみ,なんぢ悪者のむくいを見んなんぢさきにいへりエホバはわが避所なりと,なんぢ至上者をその住居となしたれば災害なんぢにいたらず苦難なんぢの幕屋に近づかじ至上者なんぢのためにその使者たちにおほせて汝があゆむもろもろの道になんぢを守らせたまへばなり」。急速に近づくハルマゲドンの嵐のときに保護されるという,これは何とすばらしい約束ではありませんか。

      20 エホバはなぜこのように保護を約束されるのですか。同じ詩篇は答えています,「彼はわが名を知るゆえに,わたしは彼を守る」。それは神を熱心に求める者がエホバを知り,その栄光あるみ名の意義を知るようになったからです。そして神エホバの存在を信じ,エホバの約束された報いを得ることに固い信仰を抱いているからです。また信仰をもってエホバを呼ぶからです。「彼がわたしを呼ぶとき,わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに,共にいて,彼を救い,彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ,わが救を彼に示すであろう」― 詩 91:1,2,5-11,14-16,新口。

      21 (イ)ハルマゲドンに生き残る人は何に喜びますか。(ロ)世に勝つ勝利は何ですか。それはどんな報いをもたらしますか。

      21 よろこんで創造主エホバ神に何時までも奉仕する永遠の生命にまで「長寿」が全うされるとき,神の新しい世の祝福をうける人々は古い世の終りの時に信仰の人となったことを感謝するでしょう。またエホバ神を信じ,報いを与えるその力を信じたことを喜びとします。また信仰が生きた力強いものとなり,信仰の力によって,滅びに直面した核時代のサタンの世から加えられた攻撃にも立ちむかい得たことを喜ぶでしょう。この信仰の報いは最も大きく,永遠のものです。人間がエホバの栄光のみわざをますます探り,父なる神の恵みを更に味わうとき,その喜びにつきるところはありません。古い世のつかの間の「終りの時」に,真の宗教の信仰を固く持つ人は,来るべき新しい世に平和と喜び,永遠の生命を得て存分に報われることでしょう。「わたしたちの信仰こそ,世に勝たしめた勝利の力である」― ヨハネ第一 5:4,新口。

  • こらしめに対する正しい見方
    ものみの塔 1963 | 11月1日
    • こらしめに対する正しい見方

      「すべてのこらしめ,今は喜ばしと見えず,かへつて悲しと見ゆ,されど後これに由りて練習する者に,義の平安なる果を結ばしむ」。―ヘブル 12:11。

      全宇宙の最高至上者なるエホバからこらしめを受ける者は,熱心に努力し,エホバの御要求にかないつつ,矯正のためにとられた処置に従うことを望むでしょう。神から与えられるこうしたこらしめを決して軽視すべきではありません。クリスチャン使徒パウロは述べました,「わが子よエホバのこらしめを軽んじてはならない。またこらしめられるときうみ疲れてはならない。エホバはその愛する者をこらしめ,子として受け入れるすべての者をむち打たれるからである」。(ヘブル 12:5-7,新世)御自分の僕に対する深い愛のゆえに,また「一人の亡ぶるをも望み給は」ぬゆえに,神は正しいこらしめを与えられるのです。―ペテロ後 3:9。

      こらしめの中には,普通以上にきびしいかたちをとるものがあります。それに応じてその帰する結果もきびしいものです。その事は「ものみの塔」の1963年10月1日,15日号にのせられた「排斥の意味するもの」,および,「エホバへの崇拝を清く保つための家族の責任」の二つの記事の中で取り上げられました。

      正しい態度でこらしめを受け入れるなら,それから得る益と祝福は大きなものとなります。箴言 6章23節は次の通りです,「おしへのこらしめは生命の道なり」。そうです,永遠の生命はエホバからのこらしめを受け入れるかどうかにかかっています。

      こらしめに対するこのような正しい態度は,エホバの地上の組織から除名または排斥された場合に特に必要です。クリスチャン会衆から切り絶たねばならぬほどの罪を神と人とに対して犯した者は,すでに神の恵みを失っています。その者がなお神のもたらす正義の新しい世で生命を得ることを望むなら,どうしても神の恵みをとりもどさねばなりません。では一体どうしてひとたび排斥された者がエホバの組織内に復し,

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