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魂を得るために信仰を保ちなさいものみの塔 1963 | 2月15日
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10節(新口)は,アブラハムについてこう述べています,「彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」。
23 各人は外国にいるようにして,どれだけのあいだ天幕生活を送りましたか。そのように長い間,天幕生活を送ってのち,神から約束のものを受けましたか。
23 アブラハムはカナンの地に寄留者として100年間の天幕生活を送り,イサクは180年間,ヤコブはエジプトの総理大臣となった息子ヨセフに呼ばれてエジプトに下るまで110年のあいだ天幕に住みました。アブラハムのかつて住んだ町,カルデヤのウルは当時,文明の栄えた都で,落着いた,快適な生活のできるところでした。アブラハムは,天幕に住んでここかしこと移動する遊牧生活を外国で送る必要はなかったのです。なぜヤコブはシリアの町ハランを去り,異教の土地カナンで天幕生活を送るため,父ヤコブのもとに戻って行ったのですか。なぜアブラハム,イサク,ヤコブは物質的な生活観を持たず,カルデヤの文明都市ウルにあった慰安と機会を考えなかったのですか。なぜ外国における苦しい天幕生活をやめて,ウルに戻らなかったのですか。アブラハムに対する神の召しを守り通して,遂にみな外国で死んだのはいったいなぜでしたか。ヘブル書 11章13-16節(新口)はその理由を述べています,
24 ヘブル書 11章13-16節は,彼らがカナンを去ってウルに帰らなかった理由を何と述べていますか。
24 「これらの人はみな,信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが,はるかにそれを望み見て喜び,そして,地上では旅人であり寄留者であることを,自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって,彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら,帰る機会はあったであろう。しかし実際,彼らが望んでいたのは,もっと良い,天にある[天に属する,新世]ふるさとであった。だから神は,彼らの神と呼ばれても,それを恥とはされなかった。事実,神は彼らのために,都を用意されていたのである」。
25 (イ)ウルに戻ったとすれば,どういう事になりましたか。(ロ)彼らが求めていた「都」は何ですか。近い将来彼らはどのようにしてその下に生きますか。
25 彼らがカルデヤの都市ウルに帰って,再びその一部になったとすればどうでしょうか。エホバから与えられた約束を失ったに違いありません。それはエホバとの関係を断つことになり,魂を滅ぼすことになったでしょう。その信仰のゆえに彼らはウルの町から離れて二度と戻らず,エホバの召しと導きに従順に従いました。彼らは振り返ることをせず,前途を望み見ました。地上の町ウルよりもまさったところ,天に属する都すなわち神の「婦」のすえ,メシヤによる神の国を待ち望んでいたのです。今日,カルデヤのウルはどうなっていますか。最近,考古学者がその遺跡を発掘したばかりです。しかしアブラハム,イサク,ヤコブのために用意された神の国は,1914年以来,天で支配しています。神の国が間もなくこの古い世の組織制度を滅ぼして全地を完全に治めるとき,アブラハム,イサク,ヤコブは死人の中からよみがえされて,天の御国の下で生きるでしょう。神は彼らを恥とされなかったからです。―ルカ 20:37,38。
私たちはどんな者ですか
26 前述の昔の人とくらべて,私たちは何を自問しますか。またなぜヘブル書 10章38,39節の言葉を私たちの答えにすることを望みますか。
26 私たちは今日どんな種類の者ですか。エホバのクリスチャン証者ならば,神聖を汚したエサウ(エドム)に似る者ですか。そうであってはなりません! ではヘブル人アブラハム,イサク,ヤコブのような不退転のエホバの証者ですか。そうであれば,はじめ信じてからここまで進んだいま,たとえそれがどんなに前のことであっても,物質主義の古い世と偽りの宗教に後戻りしてはなりません。ヘブル書 10章38,39節(新口)の確信の言葉が私たちについても言えるようにしましょう,「『わが義人は,信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら,わたしのたましいはこれを喜ばない』。しかしわたしたちは,信仰を捨てて滅びる者ではなく,信仰に立って,いのちを得る者である」。
27 ゆえに私たちは何に関心を持ちますか。退くことは意味しますか。
27 私たちの願いは神に喜ばれることであり,神の前に正しい立場を保ち,信仰によって生きるにふさわしい者となることです。信仰があれば退くことはできません。人が退くのは,苦痛を与えるもの,不快なものを見てそれを避けるため,本能的に後ずさりすることです。退くのは恐れのためです。ヘブル書 10章38,39節にある,退くという言葉は,昔のギリシャ語の書物の中で恐れる,ひきさがる,恐れのためにかくれるという意味にも使われています。b 私たちにとって退くことは魂の永遠の滅びとなります。―マタイ 10:28。
28,29 (イ)退くことの危険はどこにありますか。それはどのように始まりますか。(ロ)そうする者に対して,ヘブル書 5章11節から6章3節までは何と述べていますか。
28 退くことは,しわを生じさせる僅かの縮みかも知れません。この事に実は危険があります。魂の永遠の滅びに向かって足を踏み出したことに殆んど気づかないからです。努力をいとうために進歩しようとしないのは,退くことの表われかも知れません。それは成長して責任をになうことを望まず,他の人の責任におぶさって何時までも苦労のない子供のままでいたいと言うのと同じです。たとえば,ヘブル書の筆者は,罪の悔改め,神に対する信仰,バプテスマ,選ばれた者に手をおくこと,復活,神の永遠の裁きなどの聖書の初歩の教えよりも,進んだ事柄を教えるのに,なぜ多大の説明を要したのですか。それはこれらヘルブ人のクリスチャンが霊的な赤ん坊のままでいることを望んだからです。彼らは教えの点で乳を用いる者で,聞くに鈍く,聞いたこと,教えられたことを理解しませんでした。それでヘルブ書 5章11節から6章3節(新口)はこう語っています,
29 「このことについては,言いたいことがたくさんあるが,あなたがたの耳が鈍くなっているので,それを説き明かすことはむずかしい。あなたがたは,久しい以前からすでに教師となっているはずなのに,もう一度神の言の初歩を,人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく,乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は,幼な子なのだから,義の言葉を味わうことができない。しかし,堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから,わたしたちは,キリストの教の初歩をあとにして,完成を目ざして進もうではないか。今さら,死んだ行いの悔改めと神への信仰,洗いごとについてのその教と按手,死人の復活と永遠のさばき,などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て,そうすることにしよう」。
30 私たちがそうすることを,神はどのように許されていますか。従って霊的な幼な子は何をすべきですか。
30 私たちを生きながらえさせ,この古い世を滅ぼすのをさしひかえている神は,たしかにこの事をする許しを与えています。神のあわれみある許しを得た以上,私たちは「完成を目ざして進」みますか。この時を利用して霊的に成長し,「キリストの教の初歩」すなわち「基本の教」のみならず,難しい事柄をも説き明かせるようになりますか。真理を知って以来の時を考えるならば,聖書の教えの「乳」以上のことを知らず,理解していないのを恥ずかしく思いますか。あるいは今なお「感覚を…訓練され」ておらず,会衆内で,あるいは会衆にまだ属していない善意者の家で他の人々を教える者となっていないのを恥じていますか。今なお霊的に成長していないことを正直に恥じるならば,神の許し給うかぎり,是非ともなんとかしなければなりません。積極的な行動が必要です。そうすることは生命につながっています。
31,32 (イ)霊的な幼な子にとって,積極的に行動するとは何をすることですか。(ロ)ヘブル書 10章23-27節は,悪い習慣を警告して何を告げていますか。
31 霊的な進歩をこれ以上おそくしたり,前途にある困難を克服するのにたゆまない努力と働きが必要なのを見てひきさがるのは,積極的に行動することではありません。積極的に行動する人は,個人的な聖書の勉強に励むばかりでなく,集会に出席してエホバの証者の新世社会と共に学び,他の人のことも考えます。エホバの現代クリスチャン証者と共に集まることをあえて怠るのは,退く第一歩になります。つづけるうちに,それは遂に習慣となるでしょう。ヘブル書 10章23-27節(新口)は,そのことをいましめ,集まりを怠ってはならない理由を述べています,
32 「愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。もしわたしたちが,真理の知識を受けたのちにもなお,ことさらに罪を犯しつづけるなら,罪のためのいけにえは,もはやあり得ない。ただ,さばきと,逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを,恐れつつ待つことだけがある」。
33 ことさらに集会を休むならば,ヘブル書 2章1節に関して何をしていることになりますか。どのようにすれば押し流されるのを防ぐことができますか。
33 愛と善行を励ますための集まりをことさらに休むならば,それは何をすることですか。それはヘブル書 2章1節の命ずること即ち神の御子から聞いた事柄に普通以上の注意を払うことですか。あるいはそれ以下の注意しか払わないことになりますか。たとえ家でどれほど聖書を勉強しても,それでは普通以上の注意を払っていることにはなりません。滅びにむかって押し流されないため,神の御子に聞き従うことが必要です。御子はすぐれて重要な方だからです。
34 信仰を全きものにするため,だれを仰ぎ見なければなりませんか。したがって昔のヘブル人はなぜ信仰を完成することができませんでしたか。
34 永遠の生命を得るに至る信仰を保ち,かつ全うすることを望むならば,神の御子イエスに全く聞き従わなければなりません。「信仰の完成者」であるイエスを仰ぎ見ることが必要です。イエスは19世紀前に来ましたが,その時まで昔のヘブル人はメシヤの来ることに信仰を持ち,それを待ち望んでいました。しかしメシヤに対するその信仰は多くの面で不完全でした。当時まだ成就していなかったメシヤにかかわる預言を理解できなかったためです。メシヤすなわちキリストに関する預言がどのように成就するかについては,天使でさえもうかがい見たいと願っていました。(ペテロ前 1:10-12)従って彼らの信仰はいまだ全うされていませんでした。
35,36 だれが来たとき,真の信仰が表われましたか。なぜそうでしたか。
35 しかしイエス・キリストが来て伝道し,死ののち天の生命に復活して,御父である神のもとに戻り,天において神の右に坐したとき,当時まで理解できなかったキリストに関する預言が成就しました。そのとき,メシヤすなわちキリストに関する信仰は歴史的な事実で満たされるようになりました。このようにしてキリストと共に真の信仰があらわれたのです。つまりキリストおよびキリストと神との関係を正しく理解したうえでの信仰です。そこで以前はモーセの律法の下にあり,いまはクリスチャンとなったヘブル人に対して,ガラテヤ書 3章23-25節(新口)は次のように述べています,
36 「しかし,信仰が現れる前には,わたしたちは律法の下で監視されており,やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は,信仰によって義とされるために,わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし,いったん信仰が現われた以上,わたしたちは,もはや養育掛[モーセの律法]のもとにはいない」。
37 ゆえに私たちの信仰に関して言えば,イエスはどんなかたですか。本当の意味においてイエスと共に何が始まりましたか。
37 この事実のゆえに,イエスは真に私たちの信仰の指導者にして先駆者,君となったかたです。このイエスは神の御心を行なって,メシヤに関する預言の成就をもたらしました。それを知って,私たちはこれら聖書の預言に信仰をおくことができるのです。正しい信仰は,19世紀前にイエス・キリストと共にあらわれました。
38 その当時以来,イエスはどのように弟子たちの信仰を完成に導いてきましたか。
38 復活して50日後,西暦33年の五旬節にイエスは天にあって神の右の座から,エルサレムにいたヘブル人の弟子たちの上に聖霊をそそぎました。その時に至るまで,イエスは御自分に対する弟子たちの信仰を完全にすることを目ざして働いてこられました。西暦36年,無割礼で非ヘブル人の信者にはじめて聖霊をそそいだとき,イエスは御自分に対する弟子たちの信仰を,更に完成の域に高めました。(ヘブル 2:4)使徒ヨハネがその福音書,手紙とヨハネへの黙示録を書くまで,イエスは天から地上の弟子たちとかかわりを持たれ,その間に弟子たちの信仰を,救われるために十分なものとなるまで完全にしました。さて過去90年ほどの間に,地上の弟子たちに対して預言の成就となる事柄を行なってきたイエスは,この時代の必要に対処するため,私たちの信仰を完全なものにしてきました。それは私たちの永遠の救いのためです。
馳場を走りなさい!
39 では私たちの為すべき肝要なことは何ですか。それと一致してヘブル書 12章1-4節は,何をすることを私たちに告げていますか。
39 ゆえに,なすべき肝要なことは,退いたり,振り返ることではありません。魂を得るためになすべきことは,前途を望み,馳場を走ることです! 「こういうわけで」とヘブル書 12章1-4節(新口)は述べています,「わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競争を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか。彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで十字架[苦しみの杭,新世]を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは,弱り果てて意気そそうしないために,罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを,思いみるべきである。あなたがたは,罪と取り組んで戦う時,まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」。そうです,エホバの忠実な証者として生命の血を流したことはありません。
40 これらクリスチャン以前の昔のヘブル人の証者のなかで,だれを心に留めるべきですか。そしてなぜ?
40 信仰のゆえに神を喜ばせたクリスチャン以前の「多くの証人」の中でも,忠実な族長アブラハムのことを心に留めて下さい。アブラハムは町に定住せず,この古い組織制度に永遠の住みかを求めて町を建設することをしませんでした。それは永遠の基を持つ都,当時から見れば将来において神の建て,創造する都を待ち望んだからです。それゆえにアブラハムは地上のどの都の住人ともならず,ここかしこで天幕生活を送りました。―ヘブル 11:9,10,15,16。
41 この点でイエスについては何が言えますか。ヘブル書 13章12-15節に従い,私たちは何をすることを決意しますか。
41 神の御子もまた,永遠の都とする町を持たず,宮の祭壇のあった地上のエルサレムをさえ,そのような都とはしませんでした。イエスを仰ぎ見る私たちは,ヘブル書 13章12-15節(新口)に述べられた事柄を私たち自身の行いとすることを決意しましょう,「だから,イエスもまた,ご自分の血で民をきよめるために,門の外で苦難を受けられたのである。したがって,わたしたちも,彼のはずかしめを身に負い,営所の外に出て,みもとに行こうではないか。この地上には,永遠の都はない。きたらんとする都こそ,わたしたちの求めているものである。だから,わたしたちはイエスによって,さんびのいけにえ,すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげようではないか」。
42 私たちは何に近づいたゆえに,今ますますこの事に努めるべきですか。
42 私たちはいま,この事をますますしようではありませんか。この「きたらんとする都」,「永遠の都」は近づいたのです! それは異邦人の時の終りにあたる1914年に設立された天のエルサレム,神の御国です。ゆえに19世紀前の次の言葉は,なおのこと私たちにとって真実です,「しかしあなたがたが近づいているのは,シオンの山,生ける神の都,天にあるエルサレム,無数の天使の祝会,天に登録されている長子たちの教会,万民の審判者なる神……新しい契約の仲保者イエス,ならびに,アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」。(ヘブル 12:22-24,新口)私たちの近づいた,この天の御国は「震われない国」です。エホバ神がこの古い無信仰の秩序を取り除くために天と地を震うあいだ,すなわちこの世の「終りの時」を経て,それは存続します。―ヘブル 12:26-28,新口。
43 マタイ伝 24章14節に関し,私たちはどのようにいま神の御子の言葉をいっそう固く心に留めることができますか。
43 設立されたこの御国の良いたよりは,諸国家がこなごなに震われ,永遠に取り除かれる前,全国民への証となるため,全地に伝道されています。これはイエス御自身の預言の成就です。(マタイ 24:4。マルコ 13:10)神の御子の語ったこの預言を,しっかり心に留めましょう。そのためには,あるだけの力をつくしてその成就に直接に与ることが必要です。信仰を抱いてそのことをしなさい。伝道しなさい!
44 とくに今は何を持つべき時ですか。それは永続するどんな益をもたらしますか。
44 どの時にもまして今こそ信仰を持ち,知識と理解を増し加えてその信仰を円熟させる時です。またそれを他の人々に教えて,自分の信仰を証明するときです。完成されつつある信仰を持つゆえに,私たちが退いて永遠の滅び,魂の滅びに至ることは決してありません。全うされた私たちの信仰のゆえに,神は私たちの魂を保ち,永遠に生きながらえさせるでしょう。その場所はどこですか。それは単なる天使にではなく,神の子たちの中でもすぐれてまさった御子,私たちの信仰の君にして完成者であるイエス・キリストの支配下におかれた,「きたるべき世界」と「新しい天」をともなう万物の新しい秩序です。
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学校で証言ものみの塔 1963 | 2月15日
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学校で証言
国語の時間に
小学校4年の女の子を持つニューヨークの両親から次の経験がよせられました。「学校では世界中の色々な言葉とその起源について勉強していました。先生から宿題を出され,色んな言葉はどのようにして始まったかという題で生徒はめいめい調べてくることになりました。他の生徒たちはみな百科事典に出ていることを材料にして答を書きましたが,以前から聖書を勉強していた私どもの娘は,どうすれば正しい答が得られるかを知っていました。娘は作文を書き,その中でバベルの塔建設の時に起きた出来事について説明しました。そして娘は,会衆の文書の僕にたのんで,『御国のこのよいたより』の小冊子を50ヵ国の言葉で手に入れ,学校に持って行きました。集められた各国の言葉の見本と作文に先生はすっかり感心し,50の小冊子は一枚の大きな板にとりつけられ教室に展示されることになりました。それで数週間にわたって組中の生徒が,色んな言葉で印刷された『御国のよいたより』の小冊子を良く見ました。自分が勉強したことを他の子供にも知らせようとした努力を認めて,先生は娘の作文に最高点を付けました。そしてこれが機会になって,娘は新世界訳聖書1冊を先生に配布しました」。
将来の仕事について論文を書く
ミルウォーキー市で開催された大会に出席した14歳のエホバの証者は自分の経験を次のように発表しました。「私の週末の宿題は,『高等学校を卒業した後一生の職として何を選ぶか』という題で論文を書くことでした。私は証言する良い機会になるとすぐ思いました。論文の中で私はエホバの証者とはだれか,そしてどんな仕事をしているのかについて説明し,自分がニューヨーク,ブルックリンにある,ものみの塔聖書冊子協会本部族家一員として働きたいと思っている事,そのために卒業後はこの奉仕に対する申込書を出すのが最初の段階になる事を書きました。提出した宿題がもどってきたのを見ると,成積の下に先生の講評が書いてありました,『あなたの論文はとてもおもしろいと思いました。おかげで,エホバの証者の仕事について良く理解できました。誠実に,そして,熱意をこめて書いてありました。私のクラスにも,あなたのように,神への奉仕を一生の職と考えている若者がいるのを知ってうれしく思います』」。
先生の疑問に答える
アラバマ州のある学校には約20名の若いエホバの証者がいます。そのうちの一人はその学校の様子について話しています。「一人の先生はエホバの証者について関心を抱き始めました。特別号の『ものみの塔』誌1部が先生に配布されました。その先生は自分のクラスでその号の主要記事全体を読んで聞かせました。この先生はなにか聖書に関する疑問がある時にはエホバの証者の一人にたずねます。『エホバの証者は聖書を良く理解している』と先生はいつも言います。校長先生も多少の興味を感じているようでた。校長は私を校長室に呼んで,聖書を学校に持って来て自分の疑問に答えてくれないかと言われました。その後,私と私のいとこが大学へ進学する希望を持っていないのを知って,校長先生はその理由をたずねました。私たちは,エホバ神とその御国について教えるために働くという私たちの計画について話しました。すると,決してその目標をすてないようにと校長は励ましました」。
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