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あなたはどれほど固い信仰を持っていますかものみの塔 1963 | 3月1日
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ん。ハルマゲドンの戦いのあいだ,神はその人々すべてを安全な場所に守るでしょう。あなたは,神がその事をして下さるという信仰を持っていますか。ロトと二人の娘は信仰を持ち,ゾアルに達して生命を全うしました。
34 エホバの証者は信仰によって生きることを,どのように示していますか。
34 神の言葉は真実ではありませんか。「わが義人は,信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら,わたしのたましいはこれを喜ばない」。(ヘブル 10:38,新口)今日エホバの証者は信仰によって生きなければなりません。しかしそれは将来に確かな希望を抱き,確信して期待することです。書かれた神の言葉は将来のことを告げています。神の言葉に預言されていた通りの事態がすでに起き,発展しつつあります。ゆえに神の言葉を知る者にとって,今は退くときではなく,古い世の悪の制度に戻る時ではありません。神はそうする者を喜ばれないからです。パウロは不退転の決意を持ち,信仰の大きな人でした。それで他の人々の信仰を強めることができました。パウロは確信をこめてこう述べています,「しかしわたしたちは,信仰を捨てて滅びる者ではなく,信仰に立って,いのちを得る者である」。―ヘブル 10:39,新口。
私たちの信仰を分析する
35 信仰を分析するにあたって,どんな質問に答えなければなりませんか。
35 あなたはどんな信仰を持っていますか。試練あるいは困難にぶつかる度にひるんでしまいますか。あるいは神の言葉を基礎にした固い信仰ですか。それは「魂を得るに至る」固い信仰ですか。
36 ピリピ書 4章9節は,固い信仰を建ておこすのにどう役立ちますか。
36 パウロはピリピ人に書き送っています,「あなたがたが,わたしから学んだこと,受けたこと,聞いたこと,見たことは,これを実行しなさい。そうすれば平和の神が,あなたがたと共にいますであろう」。(ピリピ 4:9,新口)初期クリスチャンはパウロから何を学びましたか。何を聞き,何を見,何を受けましたか。間違いなく,彼らはパウロがエホバ神に献身して,キリスト・イエスの足跡に従う忠実なクリスチャンであるのを見ました。あらゆる苦しみ,迫害,試練にあい,死に直面しても退かなかった人をパウロに見出したのです。彼らはパウロの手紙を読み,キリストの福音のためにパウロの経たさまざまの経験を知りました。パウロは,キリスト・イエスが人類の救いのために御自分の生命を与えたことを信じ,キリストを王とする神の国を伝道して自分の信仰を表わしました。初期クリスチャンはパウロについて,その事を知っていました。これらはクリスチャンがパウロから学ぶ二,三の事に過ぎません。パウロは多くの手紙を書き,また親しく交わって他の人々の信仰を固くしました。パウロが伝道し,身をもって示したことを,エホバの初期クリスチャン証者は見聞し,受け入れたのです。さてキリスト・イエスの忠実な追随者であるあなたは,今日これらの事を行なっていますか。そうであれば,「平和の神が,あなたがたと共にいます」ことになるのです。
37 今日,人はどのように神からの平和を得ますか。正しい愛を実践するという点で,おもな手本はだれですか
37 人はいまどのようにして神からくる平和を得ますか。まず第一にこの悪の組織制度から離れることが必要です。そしてエホバ神の御心を行なうために献身しなければなりません。「あなたの神である私エホバは,専心の献身を求める神である」とモーセは書きました。(出エジプト 20:5,新世)ゆえにクリスチャンであるならば,心と思いと魂をこめ,力をつくして神に仕えなければなりません。これは天の父に対して真実の愛を表わすことです。これに第二の戒め,すなわち自分のように隣人を愛することを加えなさい。このような愛の手本として最もすぐれているのは,神の御子キリスト・イエスです。クリスチャンになりたいならば,できる限りキリストに似る者でなければなりません。万事につけてイエスの行なった通りにすることです。そのためにはイエスのことを知り,その生涯とわざについてできるだけ多くのことを学び知らねばなりません。それは書かれた神の言葉,聖書にしるされています。
38 エホバの真の奉仕者となる資格は神学校教育から得るものではないことを,どうして確言できますか。
38 キリスト・イエスの足跡に従うのに,神学校や宗教大学の教育は必要ありません。このような高等教育が必須のものであったとすれば,ペテロとヨハネはキリスト・イエスの使徒になれなかったでしょう。この二人は健全な心を持つ普通の人でした。ただ真理に対する愛と認識を抱き,師イエス・キリストの言葉に耳を傾けて学びました。復活した師から,苦しみの杭の上で死んだ理由を説明されたとき,彼らは退く者とならず,むしろふるい立ち,五旬節の日になると,聞いたこと,信じたことを伝道しました。それでユダヤ人のサンヘドリンは「ペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見,また同時に,ふたりが無学な,ただの人たちであることを知って,不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め」たと,聖書に記録されています。(使行 4:13,新口)大切なのは人の持つ精神,熱意,献身,知識であって,壁にかけた卒業証書や学位ではありません。この人々はイエスと共にいて真理を学んだので,真の知識を得,恐れずに真理を言い表わしました。大学あるいは当時のラビの学校に学んで,神の奉仕者の資格を得たのではありません。彼らは学校にはいったことがないのです。神の奉仕者としての任命は,人間ではなくて神からのものでした。キリスト教国の牧師の「聖服」は,西暦325年以後,ニケア信条から出たもので,キリスト・イエスあるいは神の言葉から出たものではありません。
39 (イ)すべてのクリスチャンは,何でなければなりませんか。ウエルズの述べている通り,この事は初期クリスチャンの場合,どのように真実でしたか。(ロ)パウロの手本から見て,初期教会は伝道する組織でしたか。どのように?
39 この事は,全世界にいる,聖書を愛する人々にとって,大きな励みになるはずです。また宣教を勇敢に行なってゆく力となるでしょう。漁夫のペテロとヨハネがイエス・キリストの使徒となり,任命された奉仕者となって地上に神を代表する資格を得たとすれば,神の言葉の真理を愛し,神に献身して神への奉仕に自分をささげた人が同じことをできないわけはありません。初期クリスチャンは一人残らず奉仕者であり,また神の言葉を学びました。クリスチャンとなるすべての人が,良いたよりの伝道者でなければならないことは明らかです。今日のキリスト教国の難点は,牧師だけが奉仕者として認められ,会衆は聞くだけで伝道しない信徒になっていることです。キリスト教国には教職者と平信徒との区別が何時の間にか出来上っており,ウエルズもその著「歴史概説」の中で「成長を遂げたこのニケアのキリスト教とナザレのイエスの教えとの間には大きな相違のあること」を認め,初期キリスト教について「その唯一の組織は伝道者の組織であり,そのおもな務は説教であった」と書いています。今日でも真のクリスチャンは,組織がこのようなものでなければならない事を認めています。エホバの証者の組織は任命された奉仕者から成り立ち,彼らがおもな務と心得,また訓練に心を用いているのは聖書の話です。エホバの証者は戸別伝道のとき,また家庭で聖書を教えるとき,聖書の話を使います。使徒時代のエホバの証者は家々を訪れてどんな人にも聖書の話をし,また人々と一緒に聖書を学びました。パウロは「あなたがたの益になることは,公衆の前でも,また家々でもすべてあますところなく話して聞かせ,また教え」と語りました。(使行 20:20,新口)今日のクリスチャンも,同様でなければなりません。ウエルズの書いているように,キリスト教国の指導者は西暦325年以降,祭壇中心の大ぎょうな儀式,助祭,司祭,司教の制度を発達させ,ミサを確立し,また寺院の建築を始めました。真のクリスチャンが全能の神エホバを崇拝した仕方とは何と異なっているのでしょう!
人はおのおの信仰を働かせることが必要
40 (イ)キリスト教国の指導者は,人々のために何をしましたか。(ロ)ある宗教指導者は,今日の宗教組織に必要なものをどのように述べていますか。
40 キリスト教国の指導者は,自ら今日の状態に落ち込みました。彼らは何百万人を数える教会員すなわち平信徒を,キリスト教の伝道に関する限り無用な者にしてしまいました。牧師に教えられた人々は,ただ聞くだけであり,毎週,寺院でおきまりの礼拝をくり返し行なっているに過ぎません。牧師は,キリストに代って伝道し,神の御国のよいたよりを他の人々に告げる責任を教会員に課していません。なかには自らの怠慢を認めている牧師もあります。たとえばニューヨーク市トリニテー教会の理事ジョン・ヒューズ牧師は,「教会の意義」と題する講演の中で次のように述べました。
「如何なる教区といえども,静かに情熱を燃やした,真にクリスチャンになりきった人々を指導層として持たなければ,その正常な機能をはたし得ない。たいていの教区の場合,牧師をも含めて真に信仰に徹した人のいないのが難点である。しかしたとえ献身的牧師が中心になっている場合でも,信仰に生きる男女が集まらなければ,多くは,期待できない」― 1962年6月号リーダース・ダイジェスト。
41 (イ)教区民が弱いのは,だれのせいですか。(ロ)キリスト教のどんな基本的は資質が欠けていますか。
41 これはだれの責任ですか。教職者の責任にほかなりません。彼らは「苦しい大きな戦いによく耐え」るクリスチャンとなるように,教区民を教えていません。キリストのために「そしられ苦しめられて見せ物にされ」ることはまっぴらごめんであると,教区民は考えています。神の御国を伝道したというだけの理由で,必要ならば獄に下ることも辞さなかった初期クリスチャンとは大変な相違です。キリスト教国はなぜ失敗したのですか。その人々は「魂を得るに至る信仰を保」っていません。またクリスチャンのわざがどんなものかを知らず,教えられてもいません。正しい事のために確固として立つように訓練されていないのです。どうしてそのような事を期待できますか。イエスは言われました,「もし盲人が盲人を手引きするなら,ふたりとも穴に落ち込むであろう」。(マタイ 15:14,新口)キリスト教国の信徒はキリスト教の何たるかを知らず,真理とは何かを知りません。「もし私が平信徒であれば,たとえそれが道の向う側にあっても,はいって行きたいと思うような教会は思い当たらない」と牧師が公言してはばからないとすれば,それも不思議ではないでしょう。(137頁17節をごらん下さい)自分の属する教会に行かない人々はかなりあります。教会に行かない人々は,おそらくこの牧師よりも目ざとく,教会の現状に気がついたのでしょう。
42 全キリスト教会議がいろいろな宗派を統一できないのは,なぜですか。
42 各宗派の首長を集め,法王ヨハネス23世を交えて全キリスト教会議をあらたに開き,新教とカトリックを含む色々な宗派を合同してひとつの強力な組織を作る試みをしたと考えてごらんなさい。それでも信徒をクリスチャンにすることはできないでしょう。それは寄せ集めるだけのことではありません。クリスチャンとなるには,神の祝福,神の御霊,神の言葉そして各人の信仰が必要です。キリスト教国は神の言葉,真理から遠く離れてしまったので,戻ることはもはや不可能です。聖書の一部分だけを勝手に選んで信ずるが,あとは神話として捨ててしまったキリスト教国の牧師は,余りにも多すぎます。彼らは聖書の代りに自分の考えを教え,パウロの言葉通り「作り話やはてしのない系図などに気をとられ」ています。「そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく,むしろ論議を引き起させるだけのもの」です。―テモテ前 1:4,新口。
43 真のクリスチャンにとって,聖書はどんな本ですか。
43 真のクリスチャンは聖書を学んで,聖書全体が行動,奉仕,信仰,真理の本であり,まことに全能の神エホバの言葉であることを知っています。わずか1900年前のこと,キリスト・イエスはヘブル語聖書に書かれた真実の物語を信じ,聖書からそれを引用しました。あなたは,イエスが当時教えたと同じ事を他の人に教えますか。神の言葉に信仰を持ちなさい。神の言葉を学びなさい! クリスチャンの務をはたし,「御言を宣べ伝えなさい」! 「時が良くても悪くても,それを励み……なさい」。―テモテ後 4:2,新口。
44,45 固い信仰はどのように示されますか。
44 「人は心に信じて義とされ,口で告白して救われる」ことを,あなたは信じています。(ロマ 10:9,10,新口)ではクリスチャンとして公に語り,人類の唯一の希望,御国に関する神の約束の真理を伝えるだけの固い信仰を持っていますか。あるいはヤコブの述べているような一部の自称キリストの追随者と同類の者になりますか。「おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は,ちょうど,自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると,そのとたんに,自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう」。―ヤコブ 1:22-24,新口。
45 ヤコブの論理は明白です。「霊魂〔息,新世〕のないからだが死んだものであると同様に,行いのない信仰も死んだものなのである」と,ヤコブは述べています。(ヤコブ 2:26,新口)信仰は行いに表われるものです。信仰は公に言い表わします。それは死んだものではなく,行動をともなうものです。信仰を持つ人は,自分の信じていることを他の人に語り告げます。家から家を訪れてそれを語ります。信仰を持つ神の奉仕者は活発でなければなりません。神の言葉を知る者は伝道します。信仰のある人は証しを立てることを恐れません。ペテロは述べました,「ただ,心の中でキリストを主とあがめなさい。また,あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし,やさしく,慎み深く……弁明しなさい」。(ペテロ前 3:15,16,新口)神と聖書に信仰を持つ人は,すべての人の前で弁明します。
46 イエスはだれを選んで光をかかげる者にならせましたか。イエスはどんな手本を残しましたか。
46 メシヤを待ち望んでいたユダヤ人に語ったイエスは,世の光として学者やパリサイ人を選びませんでした。イエスが選んだのは普通の人,信仰の人でした。イエスの次の言葉を覚えていますか。「あなたがたは,世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また,あかりをつけて,それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において,家の中のすべてのものを照させるのである。そのように,あなたがたの光を人々の前に輝かし,そして,人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。(マタイ 5:14-16,新口)山上の垂訓にあるこの教えは,男女の別なくすべての人に与えられたものです。これは奉仕を教えるすぐれた垂訓ではありませんか! イエスは耳を傾けて聞いたすべての人に宣教を始めることをすすめ,神の国を代表する者となって神の国を求め,そのために働くことを励ましたのです。それで「まず神の国と神の義とを求めなさい」と,イエスは言われました。(マタイ 6:33,新口)また正義を愛する人々には,どう祈るべきかを教え,父エホバの御名の崇められることと御国を祈り求めよと教えました。御国によって御心が天の通り地にも行なわれるからです。(マタイ 6:9-15)この宣教に励みつづけるには,エホバ神,御子イエス・キリスト,神の言葉に固い信仰を持たねばなりません。
47 魂を得ることを目ざして,いま各人は何をすべきですか。
47 このような信仰があれば,「魂を得るに至る」でしょう。ですからソドムと同じく滅びに向かっている古い世から逃れ,ロトと二人の娘にならいなさい。立って行き,良いたよりの奉仕者となりなさい! 「苦しい大きな戦いによく耐え……そしられ苦しめられて見世物にされ」ることをいとってはなりません。(ヘブル 10:32,33,新口)真のクリスチャンとして神に仕え,信仰を固くしなさい。神の言葉を信じ,正義の新しい世で永遠の生命を獲得しなさい。
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信仰の戦いをりっぱに戦いなさいものみの塔 1963 | 3月1日
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信仰の戦いをりっぱに戦いなさい
1 信仰の戦いをすることにつき,パウロはどうして権威を以て語ることができましたか。
信仰の戦いをりっぱに戦い……なさい」テモテに対する使徒パウロのこの言葉は,パウロにとって真実に実感のこもった言葉でした。パウロはその時までに自分の民族ユダヤ人から迫害され,鞭うたれ,石で打たれ,獄にいれられました。また破船にあい,盗賊の難,偽兄弟の難にあい,眠らぬ夜を過し,飢え渇き,あらゆる試練と困難を経験したのです。その上この試練のさなかにあっても,パウロには「日々……迫って来る諸教会の心配ごと」がありました。(コリント後 11:23-28,新口)ゆえに「信仰の戦いをりっぱに戦い……なさい」と述べたパウロの言葉は,実感に乏しい言葉ではありません。あなたは良いたよりのために,パウロと同じことをしますか。パウロとテモテの持っていた信仰があれば,そのような労苦もいとわないでしょう。そして『そのために召され,多くの証人の前で,りっぱなあかしをした通りに,永遠のいのちを獲得』することになります。―テモテ前 6:12。
2 他の人々を教えるには,なぜ忍耐が必要ですか。パウロはどんな言葉により,とくにこの事を示しましたか。
2 パウロはテモテに宛てた手紙の中で,この献身した若いクリスチャンに対し,キリストの真の追随者としてその務を遂行せよと教えています。監督としてまた兄弟として,テモテは自分が神の言葉から学んだ健全な教えだけを,自分の交わる人々に教えなければなりません。空論や自分自身の考えに左右されてはなりません。テモテは真理を知っていました。教えなければならないのは真理であって,他のものではありません。これを教えるには時間と忍耐が必要です。神の民はこの世で賢い,知性の高い人々ではなくて謙遜な人々だからです。パウロはコリント人にそう書き送っています,「人間的には,知恵のある者が多くはなく,権力のある者も多くはなく,身分の高い者も多くはない。それだのに神は,知者をはずかしめるために,この世の愚かな者を選び,強い者をはずかしめるために,この世の弱い者を選び,有力な者を無力な者にするために,この世で身分の低い者や軽んじられている者,すなわち,無きに等しい者を,あえて選ばれたのである。それは,どんな人間でも,神のみまえに誇ることがないためである」。(コリント前 1:26-29,新口)教育や権力を持たない,貧しい人々に信仰を与え,「多くの証人の前で,りっぱなあかしを」できるまでに育てるのが,テモテの務でした。あなたはクリスチャンのこのわざを行なっていますか。そうでなければなりません!
3 エホバのわざを行なうために選ばれた人々について,聖書は何を示していますか。
3 神の言葉は,この世の高い教育を受け,権勢ある者が召されなかったことを示しています。神の御子が選んだ人々を見てごらんなさい。漁師,取税人など,学者,パリサイ人から見下げられた人々でした。祭司長,パリサイ人につかわされてイエスを捕えに行った下役は空し手でもどってきました。そしてこう報告しています,「この人の語るように語った者は,これまでありませんでした」。パリサイ人は答えました,「あなたがたまでが,だまされているのではないか。役人たちやパリサイ人たちの中で,ひとりでも彼を信じた者があっただろうか」。(ヨハネ 7:45-48,新口)ヘブル語聖書を持ち,知恵と高い教育があって神の代表者と見られたこれらの人々でさえ,神の御子を全く信じようとせず,役人やパリサイ人の中でイエスを信じた者がいないと論じました。今日,事態は変りましたか。だれが真のクリスチャンとなっていますか。
4 従って今日エホバのわざのため,おもにだれが選ばれていますか。
4 世界を見てごらんなさい。西暦1914年に第一次世界大戦が始まって以来の世界指導者を考えてごらんなさい。ドイツのカイザル・ウィルヘルム,世界支配を目ざした,いわゆるクリスチャン。アドルフ・ヒットラー,1933年に法王と協定を結んだカトリック教徒の独裁者。カトリック教会の祝福を受けてエチオピアを侵略したムツソリーニ。これらの独裁者は真のクリスチャンの道を踏み行ないましたか。この人々はみな教会の礼拝に出席したではありませんか。しかしキリスト・イエスと共に相続者となるように神から召されましたか。これらの支配者は「神権」によって地位を得,主なる救い主イエス・キリストの足跡に従いましたか。全体として見れば,イエスは「役人たちやパリサイ人たち」を弟子に選びませんでした。今日においても彼らが選ばれているとは思われません。ペテロ,ヨハネ,マタイその他,イエスの忠実な追随者は支配階級の出ではありません。パウロはたしかにパリサイ人から改宗した人ですが,それでも召された人の中に「権力のある者も多くはない」と述べたその言葉は,何と真実なのでしょう。それをおいても,ヤコブは次のことを述べています,「神は,この世の貧し人たちを選んで信仰に富ませ,神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか」。(ヤコブ 2:5,新口)クリスチャンとして歩もうとする人はこれらの聖句を心に留め,へりくだって歩むと共に他の人々に愛を示さなければなりません。
5 この世の富んだ人は,どのように信仰のために厳しい戦いをしますか。
5 政界,実業界宗教界,の人が信仰の戦いをっぱに戦うとすれば何をしなければなりませんか。富と権力を持つ人が真理を悟り,真のクリスチャンであると宣言するならば,テモテに宛てたパウロの厳しい言葉に耳を傾けさせなさい。「この世で富んでいる者たちに,命じなさい。高慢にならず,たよりにならない富に望みをおかず,むしろ,わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さるかたに,望みをおくように,また,良い行いをし,良いわざに富み,惜しみなく施し,人に分け与えることを喜び,こうして真のいのちを得るために,未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように,命じなさい」。(テモテ前 6:17-19,新口)現在の悪しき世の生活は過ぎ去るものであり,どんな人であっても,エホバ神への奉仕に自分をささげ,神の御国の良いたよりを伝道してキリスト・イエスの足跡に従うのでなければ,「真のいのちを得る」ことはできません。富を持つ人はこれを悟ることが必要です。またイエスは言われました,「自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのため,また福音のために,自分の命を失う者は,それを救うであろう」。(マルコ 8:35,新口)忠実なクリスチャンであるという事は,立派な建物を持つ教会のメンバーになることではありません。クリスチャンであるからには,神の言葉に従って生活し,「多くの証人の前で,りっぱなあかしをし」なければなりません。あなたはその事をしていますか。そうしていなければ,これからすることができます! そうするには信仰と勇気がいります。しかしそれは可能であり,エホバ神と御国を深く愛する人々はその事をしています。
責任を受け入れなさい
6 1世紀のエホバの僕は,どのように証者としての責任をはたしましたか。
6 全世界のエホバの証者には,「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて,永遠のいのちを獲得」するために真理と義を求めるすべてのクリスチャンと善意者を助ける責任があります。(テモテ前 6:12,新口)そのために戦わなければならない,このような信仰を見出すのを助けるため,エホバの証者は何をしますか。まず人はそれぞれ良いたよりを聞かなければなりません。しかし聞くためには,宣べ伝える者が必要です。(ロマ 10:13-15)キリストの時代,弟子たちは師から教えを受け,それから家々に行くことを教えられました。「『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とイエスは命じました。(ルカ 10:9,新口)わずか70人のイエスの忠実な追随者は,全く見知らない人々に神の国のことを語るため,多くの時間をついやしたに違いありません。しかしそれは神の御心でした。2階の部屋にいた120人に聖霊の下ったあの五旬節の日,ペテロは何千人の人々に語り,「彼の勧めの言葉を受けいれた者たち」は御子イエス・キリストを通してエホバへの奉仕に献身し,バプテスマを受けました。その数は3000人に上ったのです。その人々は真のクリスチャンとなり,「ひたすら,使徒たちの教を守り」ました。(使行 2:41,42,新口)その人々は短期間にエルサレムのすべての家を訪れたに違いありません。そして五旬節の後,それぞれの家に帰り,国中に散って行きました。その先々で更に何千人の人々が良いたよりを聞いてクリスチャン会衆に加えられました。キリストの真の宣教が始まったのです!
7 エホバの証者が神の国のことを語るのに費やした時間を記録するのは,なぜですか。この大切な音信を語り告げるため,1962奉仕年度中,どれだけの時間が費されましたか。
7 キリストの弟子たちが良いたよりを伝道した当時,伝道に費やした時間を記録することは行なわれませんでした。しかし今日,ものみの塔協会は,どこで伝道のわざが達成されたかを知るため,エホバの証者が人々に神の国のことを語るのに費やした時間を記録します。1961年9月1日から1962年8月31日までの12ヵ月間,エホバの証者は神の御国の良いたよりを伝道するのに1億4204万6679時間をついやしました。これは前年の野外奉仕時間にくらべて,935万1139時間の増加です。どこでこれだけの時間が伝道に費やされましたか。150頁から153頁にある表をごらん下さい。そこに189の国々,保護領,島々,植民地がしるされています。これらの場所においてエホバの証者は,町でも村でも,小村落,田舎でも,事務所や会社でも,あらゆるところで,人々に語る機会があれば良いたよりを伝道しました。
8,9 (イ)(1)特別開拓者,(2)正規開拓者,(3)会衆の伝道者のわざを大略しなさい。(ロ)1962年のあいだ,宣教のこれらの分野にそれぞれ何人が働きましたか。奉仕年度中の毎月の奉仕者の人数は,平均何名でしたか。
8 だれがこの伝道のわざをしましたか。真のクリスチャンであるエホバの証者すなわちエホバ神の御心を行なうために献身した老若男女です。これらの奉仕者は戸別訪問を行ない,また家庭で学ぶとりきめを設けることのできる場合にはそうしました。伝道のわざに毎月150時間あるいはそれ以上を費やす人々は,特別開拓者と呼ばれ,その中にはものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業した宣教者もいます。過ぐる年のあいだ,毎月このわざに携わった特別開拓者は平均6934名でした。また救いの音信の宣明に毎月およそ100時間を費やした2万6626名の開拓者がいます。これらの開拓者は自分の属する会衆の区域で伝道したり,あるいは特別開拓者のように,良いたよりを語り告げる必要の大きな土地へ自費で出かけて行きました。また扶養家族があり,世俗の仕事を持つクリスチャンもいます。その中には大工,農夫,会社員,工員などがいるかも知れません。この人々は宣教に月100時間あるいは150時間をささげることはできませんが,それでもいま全地に行なわれている伝道活動に毎月少なくとも10時間を費やすように努めます。全世界で勤勉に働くこれらのエホバの証者は,88万7360人を数えました。これらの人々は会衆の伝道者と呼ばれています。
9 これから分かる通り,年間を通して毎月平均92万920人が神の言葉を伝道し,また教えたことになります。そのすべてはエホバの証者であり,神の御国を喜んで他の人々に語り告げました。彼らは平和と正義を愛し,人々に神の国のことを告げたいと望んでいます。
10-12 (イ)伝道者数の最高は何人でしたか。(ロ)それは何パーセントの増加ですか。(ハ)鉄のカーテンの背後おいて,わざが縮小したように見えるのはなぜですか。(ニ)なしとげられたわざをなぜ喜ぶべきですか。
10 このほかにも年のあいだエホバの証者と交わり,神の言葉から学んだ事,自分の知るようになったすばらしい希望を他の人に語って,毎月ではないにしても伝道にいくらかの時間をささげた人々がいます。それである月には良いたよりの宣明者の最高数が報告され,野外奉仕に出た異なった人の数は98万9192人に達しました。この人々が王と御国を宣明する大きなわざを続けてゆく事を希望しています。
11 これが奉仕者の人数ですが,指摘すべき事柄は,1962奉仕年度の奉仕者の人数を毎月の平均でみると,前年にくらべて3万6333人だけ増加していることです。これは4.1パーセントの増加にあたります。しかし表を見て注意していただきたいのは,伝道者の人数
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