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  • 神の新しい世に信仰をおく確かな理由
    ものみの塔 1963 | 2月15日
    • である。ところが,わたしたち信じている者は,安息にはいることができる。それは[不信仰のユダヤ人に関して]『わたしが怒って,彼らをわたしの安息に,はいらせることはしないと,誓ったように』と言われているとおりである」。それで今日に至るまでこれらユダヤ人の子孫は,たとえイスラエル共和国があっても,この世において安息を得ていません。しかし私たちは創造主なる神の安息にはいることを望みます。信仰そして信仰の与える確信を保つことによってのみ,そうすることができるのです。

  • 魂を得るために信仰を保ちなさい
    ものみの塔 1963 | 2月15日
    • 魂を得るために信仰を保ちなさい

      1 とくにヘブル書 11章1,2節によれば,信仰とは何ですか。

      「信仰」? 信仰とは何か,と「ものみの塔」の新しい読者は問うかも知れません。読者の手許に辞書があれば,「信仰」という言葉の意味をしらべてごらんなさい。しかしここにあげるのはヘブル書 11章1,2節(新世)に述べられた信仰の定義です。西暦紀元前の昔の神の人のわざは,このような信仰をあらわしたものとして,そこに列挙されています。「信仰は望む事柄を確信して期待することであり,見えない実体の明白な表明である。昔の人々はこれによって証された」。エホバ神は,この人々がわざによって示した信仰のゆえに御自分を喜ばせたことを証しました。

      2 これらの人,たとえばアベルはなぜ希望を持ちましたか。

      2 これらの人々は希望を抱きました。すなわち望みを心に抱きました。神の言われたこと,神の約束を知ったので,希望を抱いたのです。たとえばエデンの園の外でアダムとエバに生まれた二番目の息子アベルは,希望を抱きました。なぜですか。それはエホバ神がエデンの園において誘惑者の蛇に言われ,アベルの父母も聞いた言葉のゆえでした。創世記 3章14,15節は次のように述べています,「エホバ神蛇に言たまひけるは汝是をなしたるによりて……我汝と婦の間および汝の苗裔と婦の苗裔の間にうらみをおかん彼は汝の頭を砕き汝は彼の踵を砕かん」。ゆえにアベルは神の「婦」の約束のすえが来ること,またこのすえが誘惑者のかしらを砕くことを待ち望みました。

      3 アブラハムはどんな希望を抱きましたか。そしてなぜ?

      3 ほかにもヘブル人の族長アブラハムがいます。アブラハムは自分の国を出て親族に別れるようにと召されました。「ここにエホバ アブラハムに言たまひけるは……我汝を大なる国民となし汝をめぐみ汝の名を大ならしめん汝は福祉の基となるべし我は汝を祝する者を祝し汝をのろふ者をのろはん天下のもろもろの宗族汝によりてさひわひを獲んと」。(創世 12:1-3)それで子供のなかったこのヘブル人アブラハムは,子供をもうけて大いなる民となり,名を大きくする望みを持ちました。そしてアブラハムは他の人々に祝福となり,地のすべての家族がアブラハムによって祝福を得ます。

      4 アベルとアブラハムは何と一致して行動しましたか。その行いは何を意味しましたか。

      4 アベルとアブラハムは望みのかなえられることを期待しました。それで望むものを得たいという期待に応じて行動したのです。その行いをするには信仰が必要でした。信仰には希望と同じく基礎があります。希望は何かをほしいと願うだけでなく,その実現を期待することです。さて信仰は単なる期待ではありません。さもなければ信仰は希望と同じものになってしまうか,あるいは少なくとも希望の中に含まれてしまいます。しかし神の言葉の中で,信仰と希望は密接に関連してはいますが別々のものとして扱われています。

      5 (イ)ヘブル書 11章1節は,信仰のどんな定義をまず述べていますか。(ロ)そこに使われているギリシャ語hypóstasisによれば,信仰を物質的なものと理解すべきですか。

      5 新世界訳のヘブル書 11章1節にある通り,信仰は望むことを単に期待することではなく,望むことを「確信して」期待することです。ヘブル書 11章1節のギリシャ語原文はhypóstasis<ヒポタシス>という語を使っており,この言葉は文中にある他の語に応じていろいろな意味を伝えます。たとえば(イ)基礎,土台,確信,勇気,決意,確固さ,企て,約束あるいは(ロ)本質,本体,実体,現実,(考えの)表明を意味します。a 信仰は物質的なものではなく,従って重さを測ったり,五感で感知することのできないものです。ロマ章 10章10節(新口)に「人は心に信じて義とされ」とある通り,信仰は心に抱くものです。

      6 hypóstasisは,望む事柄に関して何を意味しますか。

      6 そこで信仰を意味するときのhypóstasis<ヒポタシス>は,希望の基礎となるものであり,同時にまた人を行動に動かす力のあるものです。ゆえに新世界訳のヘブル書 11章1節にある通り,信仰は,十分に根拠があり,従って人を行動に動かす期待であると言えます。それは確実な期待です。信仰のある人は確固としており,決意を持っています。それでhypóstasisは「確信して」期待することです。

      7,8 望む事柄に対するアベルの確信には,なぜ根拠がありましたか。

      7 ではアベルが「確信して期待」したのはなぜでしたか。神がエデンで誘惑者に言われた言葉から,アベルは希望を抱きました。しかし神が御自分の約束を成就させるという確信も確かなものとされ,その実現には十分の根拠がありました。どうしてですか。

      8 蛇がどうなったかを見たアベルは,神の言葉の真実を知りました。「おまえは,この事を,したので,すべての家畜,野のすべての獣のうち,最ものろわれる。おまえは腹で,這いあるき,一生,ちりを食べるであろう」。アベルはまた自分の両親の上に神の裁きが臨んだのを見ました。二人はエデンの園を追われ,アダムは家族を養うため,額に汗して労苦しました。エバは夫の支配に服しつつ,産みの苦しみを味わってアダムに息子,娘を生みました。(創世 3:14,16-19,新口)アベルはまた自分の両親が死に定められていること,その子である自分もやがて死ぬことを知っていました。それは神がアベルの父に言われた言葉の通りでした,「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると,きっと死ぬであろう」。(創世 2:16,17,新口)神の警告また神の約束が必ずその通りになるのを,アベルは見たのです。

      9 アベルは信仰によって何をしましたか。どんな結果になりましたか。

      9 そこでアベルは神の真実を証明する事実を知り,それに基づいて信仰を抱きました。アベルは神の「婦」のすえに関する約束の成就を信じました。誘惑者は死の原因を作りましたが,女のすえはこの誘惑者を滅ぼして,死を相続した人々を生命に回復させるでしょう。アベルは信仰をもって何をしましたか。自分の群れから羊をとってその血を流し,動物の犠牲を神にささげたのです。アベルは肉を食べるために羊を殺したのではなく,犠牲の羊の生命を模型的な意味において,自分の生命の代りにしました。その兄カインは土を耕して育てた生命のないものを神にささげました。神はカインの野菜のささげ物を顧みませんでしたが,アベルの犠牲を受け入れました。神はアベルが神の是認を受けたことを証しました。―創世 4:1-8。

      10 ヘブル書 11章4節に述べられているように,アベルは何によって神に是認されましたか。

      10 それはなぜでしたか。アベルはエホバ神に信仰を持ち,自分の信仰に従って犠牲をささげたからです。信仰とは何かを示す最初の例として,ヘブル書 11章4節(新口)はこう述べています,「信仰によって,アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ,信仰によって義なる者と認められた。神が,彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが,信仰によって今もなお語っている」。

      11 アベルは死んでも,今なおどのように語っていますか。どんな「そそがれた血」は,アベルの血よりも力強く語っていますか。

      11 しっとにかられた兄カインの手にかかってアベルは殺されました。(創世 4:8-12)アベルはキリストの4000年前に死にましたが,その信仰は聖書に記録され,アベルは最初のエホバの証者として語っています。アベルの血はだれをも贖いませんでした。それはアベルの犠牲にした羊の血が何をも贖い得なかったのと同様です。アベルの血は暗殺者カインに対する報復を求めて神に叫んでいます。しかしアベルがその到来に信仰をおいた神の「婦」のすえの血は,アベルや,またアベルのような信仰を持つすべての人のために神に叫び,あわれみを求めています。この理由でヘブル書 12章24節(新口)は,「新しい契約の仲保者イエス,ならびに,アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」と述べています。このようにアベルは信仰を抱いて神に近づき,神を喜ばせました。いまアベルは新しい世において神から報われるのを待っています。―ヘブル 11:6。

      見えない実体の明白な表明

      12 ヘブル書 11章1節は,そのほかにも信仰を何と述べていますか。そこに使われているギリシャ語élengkhosは,見えない実体に関して言えば,なぜ適切な言葉ですか。

      12 しかし信仰は「望む事柄を確信して期待する」ことだけでなく,「見えない実体の明白な表明」と言われています。ヘブル書 11章1節はélengkhos<エレンホス>という言葉を使っていますが,前述の希英辞典によればこの言葉は,(イ)反論するための議論。(ロ)とくに反論の目的で行なう反対尋問,調べ,吟味,(ハ)目録を意味します。このギリシャ語の言葉は,あるもの,とくに外見と実際とが違う場合,その実体を示す証拠を提出することと関連しています。それは以前には明らかでなかったものを明白にし,外見上まちがって伝えられていた事柄を反論することです。このようにして見ることのできない,しかし考究しなければならない実体が理解の目に映じてくるのです。

      13 どのようにコロンブスはこの事を示すよい例ですか。

      13 たとえとしてクリストファー・コロンブスを考えてごらんなさい。もしコロンブスが当時,聖書を読むことを禁ぜられていたカトリック教徒ではなくて,多くの人の考えているようにユダヤ人であったとすれば,地球のまるいことを述べたイザヤ書 40章22節を読んだかも知れません。「主は地球のはるか上に座して,地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ,これを住むべき天幕のように帳り」。またヨブ記 26章7節(新口)にも,「彼は北の天を空間に張り,地を何もない所に掛けられる」とあります。さてコロンブスは今日の宇宙飛行士のように地球の回りを飛行して地球の円いことを実際に見たわけではありません。しかしコロンブスは(1)自然の道理,(2)地理学者の理論,(3)船乗りの見聞と言い伝えから推論した3つの考えに基づいて,地球はまるいに違いないと考えました。たとえば月のまるいこと,月食は円形に欠けること,船が遠い水平線上に見えてくるとき,まずマスト,そして最後に船体が見えてくることなどです。このようにしてコロンブスには,たとえ見なくても,地球に関する真の事実がはっきり示されたのです。この明白に示された事柄を実地に行なうためコロンブスは西にむかって航海し,西インド諸島と南アメリカを発見しました。コロンブスの信仰は勝利を得ました。

      14 コロンブスの信仰はどんな種類のものでしたか。しかしヘブル書 11章に述べられているのは,どんな信仰ですか。

      14 しかしコロンブスの信仰は,霊的な信仰ではありませんでした。それは科学的なものに過ぎません。それによりコロンブスはこの物質的な世とその神に仕えました。(コリント後 4:4)それと異なり,ヘブル書 11章に歴史的な例として述べられている人々は,聖書に基づく信仰により,新しい世の神エホバを喜ばせました。その人々はいわゆる新世界アメリカではなく,神の「婦」の約束のすえが治める新しい世の来ることに信仰を持っていました。ヘブル書 11章3節(新口)は,「信仰によって,わたしたちは,この世界が神の言葉で造られたのであり,したがって,見えるものは現れているものから出てきたのでないことを,悟るのである」と述べています。

      15 この世の物質主義的な人は,信仰のないことをどのように示していますか。しかしなぜ私たちは信仰を持っていますか。

      15 物質主義の考えを持つこの世の人は,神が常に存在していたこと,神が無から宇宙を創造したことを信じるのは不可能であると論じます。それで望遠鏡または電子顕微鏡を通して見るものが「現われているものから出てきたのでない」,すなわち無から創造されたことを信じません。しかし聖書を学ぶ私たちは実際に即した信仰を持つゆえに,「事物」つまり肉眼で「見えるもの」が,測り知れないエネルギーと知恵を持つ,理知ある全能の神によらないで,どうして無から生じ得るのかを理解できません。私たちは盲目ではありません。それで全能の神エホバが存在し,また常に存在してきたことを示す「明白な表明」を見ます。従って「この世界が神の言葉で造られた」ことを悟るのです。―ロマ 1:20-23。

      16,17 (イ)ペテロ後書 3章13節によれば,私たちは何を待ち望んでいますか。そしてなぜ?(ロ)これに関連して,ヘブル書 11章8-10節は,ヘブル人アブラハムのことを何と述べていますか。

      16 私たちの信仰は,不十分な弱い証拠だけを知って,盲目に信ずることではありません。私たちの信仰は理知的なものであり,間違うことのない,書かれた神の言葉に基づいています。信仰によって私たちは,新しい組織制度の創造を神に俟ちます。これは栄光を受けた御子イエス・キリストの下にある「きたるべき世界」をともなうものです。神はこの「御子によって,もろもろの世界を造られ」ました。(ヘブル 2:5-9; 1:2,新口)ペテロ後書 3章13節(新口)は,「義の住む新しい天と新しい地」があると述べています。義の住むこの新しい組織制度の来ることを待ち望んでいた昔の人々の中に,ヘブル人の族長アブラハムがいたと,ヘブル書 11章は述べています。アブラハムのことをしるしたヘブル書 11章8-10節の言葉はこうです。

      17 「信仰によって,アブラハムは,受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時,それに従い,行く先を知らないで出て行った。信仰によって,他国にいるようにして約束の地に宿り,同じ約束を継ぐイサク,ヤコブと共に,幕屋に住んだ。彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」。

      18 アブラハムはどこを去りましたか。どこに宿り,誰と一緒に暮らしましたか。なぜエサウはアブラハムと共に述べられていないのですか。

      18 創世記 11章31節および使徒行伝 7章2-5節によれば,はじめアブラムと呼ばれたアブラハムは,カルデヤ人の地すなわちそれより約200年前にバベルの塔の建てられたシナルの平野にあったウルの町を出立ちました。エホバ神がアブラハムを導いた「約束の地」は「カナンの地」でした。(創世 12:1-9)ここで息子と孫が生まれ,その中にイサクとヤコブもいたのです。ヘブル書 11章9節によれば,アブラハムは息子のイサク,孫のヤコブと天幕に住み,このようにしてヤコブとは15年を共に過しました。ヤコブにはエサウと呼ばれた双子の兄弟がありましたが,注意すべきことにアブラハムがイサク,ヤコブおよびエサウと共に,あるいはイサクおよび双子の兄エサウと共に天幕に住んだとはしるされていません。信仰の人のわざを短かくしるしたヘブル書 11章に長子のエサウが出てこないのは,明らかにエサウが信仰の人でなかったためです。事実はその事を示しています。

      19,20 (イ)エサウはだれをめとり,また何処に行きましたか。(ロ)エサウ(すなわちエドム)の子孫は,曽祖父アブラハムの信仰を持っていないことを,どのように示しましたか。

      19 エホバを恐れた,祖父アブラハムの親族の内で婚姻関係を結ぶかわりに,エサウは40歳のとき,二人の異教徒の女,カナンの土地の二人のヘテ人を妻にめとりました。(創世 26:34)しかしそれより何年ものち,双子の兄弟ヤコブはアブラハムの親族の中から妻をめとるため,父イサクの指図で北方のシリアに行きました。(創世 28:1-8)ヤコブの留守中

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