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わたしたちはどのようにして逃れるかものみの塔 1981 | 3月1日
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逃れるか,という質問の答えとしてさらに付け加えることがありますか。確かにあります。そしてこの点に関して,わたしたちの必要をご存じであり,謙そんにその導きを求める時にわたしたちを顧みてくださる神,エホバのみ言葉をさらに調べましょう。―ペテロ第一 5:6,7。
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神の王国へ逃れなさいものみの塔 1981 | 3月1日
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神の王国へ逃れなさい
1 ヘブライ人にあてたパウロの手紙の中で,逃れることに関連したどんな点に注目できますか。
使徒パウロはヘブライ人への手紙の中で,逃れることに関連してある重要な事柄を述べています。パウロは二つの面,つまり守るべき事柄と避けるべき事柄を取り上げています。自分の論議を裏付ける際に,パウロはしばしばヘブライ語聖書から引用しています。当時その手紙を読んだ人たち ― クリスチャンになっていたユダヤ人たち ― はそのヘブライ語聖書によく通じていました。
2 パウロは神のみ子をみ使いたちとどのように比較し,その結果どんな結論に達しましたか。
2 ヘブライ 1章の中で,パウロは神のみ子がみ使いたちよりも優れた立場にあることを強調しています。それから同使徒は次のように述べています。「それゆえわたしたち[クリスチャン]は,自分が聞いたことに普通以上の注意を払い,決して流されないようにすることが必要です。み使いたちを通して語られたことばがゆるがぬもの……であれば,わたしたちの主[イエス・キリスト]を通して語りはじめられ……たという点で,これほど偉大な救いをおろそかにした場合,わたしたちはどうして逃れられるでしょうか」― ヘブライ 2:1-4。
3 (イ)キリスト・イエスを通して得られる救いの希望は,他のどんな希望より勝っていますか。そしてどんな面で勝っていますか。(ロ)この「勝った希望」には何が伴いますか。(ハ)わたしたちの希望が天的なものであっても地的なものであっても,何をすることが必要ですか。
3 イエス・キリストを通して与えられた救いの希望は,シナイ山で「み使いたちを通し……伝えられ(た)」律法によって捧げられた物よりはるかに勝っており,偉大です。(ガラテア 3:19)それが勝っているのは,それが『勝った約束に基づいて法的に確立された勝った契約』,(「一度かぎり」捧げられ,「勝った希望を与える」)はるかに勝った犠牲,およびメルキゼデクの祭司職に似た,より優れた祭司職に基盤を置いているからです。(ヘブライ 7:15-25; 8:6; 9:23-28)しかしながら,この「勝った希望」にはより大きな責任が伴います。それで,『わたしたちが決して流されないようにする』ため,またどんな怠惰をも避けるため細心の注意を払い,注意深くあらねばなりません。そして,ここでは天的な救いのことが述べられていますが,神の王国の下での地的な救いの希望を持つ人々にも同様な責任がゆだねられます。
4 流されるということにはどういう意味がありますか。そしてこのことはクリスチャンにどのように当てはまりますか。
4 流され始めるにはどれ程の努力が求められますか。少しも必要ではありません。わたしたちが川でボートに乗っているか水中にいるとしましょう。そうすると川の流れで自然に川下に押し流されて行きます。実生活の面でも同じことが言えます。もしクリスチャンとして流され始めるならば,外部から,あるいは受け継いだ内面的な傾向から生じ得るどんな影響力にも同調するようになります。わたしたちは霊的な価値に対する認識を失うようになります。これは徐々に生じるものですから用心しなければなりません。さもないと,わたしたちはもはや「真の命をしっかりとらえ」続けていることにはなりませんし,命を全く失う危険にさらされます。(テモテ第一 6:19)パウロが指摘しているように,もしこの怠惰な態度や歩みをそのままにしておくなら,どうして最後の悲惨な結果を逃れることができるでしょうか。
5 パウロがヘブライ人のクリスチャンたちにさらに語った言葉により,わたしたちは心のどんな危険な状態に注意するよう促されていますか。
5 使徒パウロがヘブライ人のクリスチャンたちにさらに語った言葉によると,わたしたちは一層危険な歩みに注意するよう促されています。パウロは次のように書いています。「兄弟たち,あなたがたのうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないよう気をつけなさい。むしろ,『きょう』ととなえられるかぎり日ごとに勧め合い,あなたがたのだれも,人を欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい」― ヘブライ 3:12,13。
6 (イ)だれかから「離れる」とはどういう意味ですか。(ロ)何が原因で「生ける神から離れ」ますか。(ハ)どのようにしてそれは避けられますか。
6 流され始めるには何の努力もいりませんが,だれかから「離れ」始めるにははっきりした行動をとることが関係しています。わたしたちはある人の好意を得ようとしてその人の方を向いているかもしれませんが,それでも後ずさりすることによってその人から退く,つまり後退し始めるかもしれません。人が「生ける神から離れ」始めるのはなぜでしょうか。信仰の欠如がその答えです。文脈が示すように,パウロは知識が不十分なために,あるいは誤った理解のために生じる弱い信仰について語っているのではありません。むしろパウロは,「心をかたくなにしてはならない」という警告を引用しています。肉のイスラエル人は,エホバの「業を40年の間」見,神の奇跡的な備えと保護を絶えず受けていたにもかかわらず,荒野においてそうしたのです。(ヘブライ 3:7-11)それゆえに,今日真のクリスチャンすべては,「人を欺く罪の力のためにかたくなに」なって後ずさりしないようにするため,引き続き互いに助け,励まし合うことが必要です。わたしたちの信仰を生きたものとするために互いに勧め合うべきです。どのようにですか。信仰の業によってです。アブラハムが厳しい試練の下でも信仰のうちに従順に行動し,そうすることによって「『エホバの友』と呼ばれるようにな(っ)た」ことを思い起こしてください。今日,エホバの証人としてわたしたちは「初めにいだいた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて」勝利を収めるのです。―ヘブライ 3:13,14。ヤコブ 2:21-26。
7 パウロはヘブライ人への手紙の終わりの方でクリスチャンに課せられている責任が,肉のイスラエル人に課せられている責任よりも大きいことをどのように示していますか。
7 パウロはヘブライ人への手紙の終わりの方で,ヘブライ 2章1節から4節で行なったのと同じような論議を進めています。パウロは古代の肉のイスラエル人と比べて,クリスチャンにはより大きな責任が課せられていることを示しています。しかしパウロは,一層力強い表現を用い,こう述べています。「地上で神の警告を伝えていた者を言いわけをして拒んだ人たちが逃れられなかったのであれば,天から語るかたに背を向ける場合,わたしたちはなおのこと逃れられないからです」― ヘブライ 12:25。
8,9 (イ)だれかに背を向けることには何が関係していますか。そして,霊的な事柄において,それはどんな結果を招きかねませんか。(ロ)わたしたちはどのように,またなぜこれらの警告をしっかり心に留めるべきですか。(ハ)わたしたちが神の懲らしめを受け入れるならどんな結果になりますか。
8 だれかに背を向けるということは故意に相手を避けることであり,しばしば拒絶することを意味します。これは肉のイスラエル人が一国民としてマラキの時代に至るまで取っていた態度であり,歩んで来た道でした。そのマラキの時代にエホバは「父祖たちの日以来,あなた方はわたしの規定から離れ,これを守って来なかった」と彼らに言われました。(マラキ 3:7,新)それで,もし霊的イスラエル人である油そそがれたクリスチャンがこうした悪い道を徐々に進んで行くなら,どんな結果になるでしょうか。パウロが記した次のような人々の範ちゅうに入る重大な危険があります。「一度かぎりの啓発を受け……ながら,なお離れ落ちた者たちについては,そうした者たちを再び悔い改めに戻すことは不可能なのです」。(ヘブライ 6:4-6)もとより,再び悔い改めに戻ることが不可能な点に達したかどうかを見極めることができるのはエホバ神とキリスト・イエスだけです。
9 わたしたちはこれらの警告をしっかり心に留めるべきです。信仰の欠如は,わたしたちが物事をあたりまえと考え,無関心の霊を示し,ほとんど気付かないうちに流されて行くことから始まるかもしれません。誤った一つの歩みや態度は,容易に次のものへと発展し,ついには遠くへ行き過ぎ,回復できない所にまで離れ落ちてしまっている自分に気付くのです。そのようなことが起こらないうちに,エホバはきっと何らかの懲らしめを与えてくださるでしょう。パウロはこの同じ手紙の中でそのことについて語っており,わたしたちは思慮深くその助言を受け入れるべきです。パウロはそれらヘブライ人のクリスチャンたちに次のように書きました。「あなたがたを子と呼びかけているこの勧めをすっかり忘れてしまっています。『わたしの子よ,エホバからの懲らしめを軽く見てはならず,また彼に正されるとき,弱り果ててもならない。エホバは自分の愛する者を懲らしめるからである。事実,自分が子として迎える者をすべてむち打たれるのである』。……たしかに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに見えず,むしろつらいことに思えます。しかしのちには,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」― ヘブライ 12:5-11。
10 霊的な兄弟たち,あるいは自分についてさえ消極的で悲観的な見方をすべきでないのはなぜですか。
10 前述のことから,パウロは自分の霊的兄弟に関して消極的で悲観的な見方をしていたと結論すべきではありません。今日わたしたちは,自分自身や会衆内の他の人たちをそのように見るべきでもありません。使徒パウロは,ヘブライ人のクリスチャンたちに,彼らは『聞く力が鈍くなっており』,『固い食物ではなく,乳を必要としている』と告げた後でさえ ― そして悔い改めが不可能なほどに離れ落ちて行く人々について警告を発した後でさえ ― こう語っています。「しかし,愛される者たちよ,わたしたちはこのように語りながらも,あなたがたに関して,より良い事がら,また救いを伴う事がらを確信しています」。それからパウロは「信仰としんぼうとによって約束を受け継ぐ人びとに見倣う者となる」よう優れた励ましを与えています。―ヘブライ 5:11,12; 6:4-6,9-12。
バビロンから逃れる
11 霊感を受けたダニエルはどの預言の中で神の民が逃れることを予告しましたか。
11 どんな場合でも逃れる際の重要な要素は,危険をはらんだ場所または状況から逃れることであり,しかも緊迫感をもってそうすることです。今日そのような行動を取る必要がありますか。確かにあります。現在クリスチャンが置かれている危機的な状況と直接関係があるのは,預言者ダニエルが霊感を受けて書いた次の言葉です。「その時,あなたの民の子らのために立っている大いなる君,ミカエルが立ち上がる。そして,国民が生じてからその時までに臨んだことのないような苦難の時が必ず臨む。そして,その時,あなたの民,書に記されている者はみな逃れる」。(ダニエル 12:1,新)そうです,ダニエルの民 ― 実際には神の民 ― は逃れるのです。何とすばらしい保証なのでしょう。
12 (イ)イエスはダニエルのその預言にいつ言及されましたか。(ロ)ミカエルはいつ,そしてだれのために立ち上がってその力を示されましたか。
12 イエスはマタイ 24章に記録されているご自分
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