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神に喜ばれる信仰ものみの塔 1969 | 5月1日
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しました。「彼らは自ら破滅的にふるまった。彼らは神の子ではない。その欠陥は彼ら自身のものである。ゆがんだ世代よ」― 申命 32:4,5,新。
19 神が忍耐しておられることをわたしたちはなぜ喜ぶべきですか。
19 わたしたちにとって幸いなことに,神はサタンのもたらした挑戦に関する問題を永遠にわたって解決するための時間を許されました。そして,それは人間が神に対する信仰を表わし,神に仕える機会となりました。聖書はこう述べています。「さらばなにをか言はん,神には不義あるか,決して然らず」。そして次のように指摘しています。「もし神,怒をあらはし 権力を示さんと思しつつも,なほ大なる寛容をもて,滅亡に備れる怒の器を忍び…あはれみの器にむかひて,その栄光の富を示さんとし給ひしならばいかに」。ですからこうして真理を知り,神に仕える機会が与えられたことをほんとうに喜び,命の道をこれから学ぶ善良な人がまだ大勢いる現在の体制を神が滅ぼさないからといって心を悩ますべきではありません。―ロマ 9:14,22,23。
20 エホバの御国は神の御名をどのように高めますか。
20 ゆえに,聖書に基づいた信仰を持ち,聖書をよく知っている人は,神が悪の続くことを幾つかの理由で許してこられたと指摘して,前述の質問に答えられます。神は,ご自分の正しい目的に逆らう天と地のすべての堕落者を結集するに十分な時間を,悪魔に与えてこられました。しかし悪が地上から一掃されて御国支配への道が開かれるハルマゲドンの時,そして最終的にはキリストの千年統治の終わりに至って,神はご自身の力を表わされるでしょう。この時,エホバの偉大なお目的にしたがって,ついに悪は永遠に滅ぼされるのです。(黙示 20:7-10)神を汚す人々からあびせられた非難にもかかわらず,エホバはこうした寛容と忍耐の道をとることにより,また御国の働きを通して,ご自分の御名を高められるでしょう。―マラキ 3:14-18。
21 サタンのわなを避けるための正しい見方を,どのようにして聖書から得られますか。
21 人間は日々の時間の経過を遅く感じ,事態の急激な変化を性急に求めるかもしれませんが,始めも終わりもないわたしたちの神は決してそう感じられません。しかし地に対する神の正しいお目的を成就するために定められた時間は,この世代の今後数年のうちに終わろうとしています。ゆえにわたしたちは,人類史上のこの終わりの時の今,不信仰また信仰の欠如というサタンのわなに陥りたいとは思いません。―マタイ 24:34。詩 92:7。伝道 8:11-13。
神に喜ばれる信仰を強める
22 (イ)人は神を熱心に求めていることをどのように示せますか。(ロ)人はどのようにして,自分の信仰が現実のものであることを証明できますか。
22 もしあなたが「熱心に神を求める」人のひとりであれば,聖書を研究し,エホバの証人と交わって信仰を絶えず強めたいと願われるでしょう。彼らは神の国の良いたよりも他の人々に伝えて,今日確かに信仰を実践しています。自分自身あるいは自分の家族が,信仰に冷え,それに代わるべき何物もない不幸な人間にならないよう,自分の信仰を強める必要を感じておられるなら,知識を取り入れ,かつそれを他の人とわかち合うことに「心を用ひ」続けてください。そうすれば,「己と聴く者とを救ふ」ことになるからです。(テモ前 4:13-16; 6:12。テモテ後 2:15)まことの信仰は説明のできない不可解な感情のようなものではありません。ヘブル書 11章1節が示すとおり,信仰は,空想ではなく実体と結びついているものだからです。人が自分の信仰に関して行なう事柄は,自分の信仰が現実のものであることを他の人に証明し,神と神の目的に対する信仰が確実な期待であることを他の人に確信させるものです。
23 神に喜ばれる信仰を何にたとえることができますか。
23 一瞬にしてなくなってしまう資産,あるいは思いがけず早死にしたり,あてにならなかったりする友人,さらには思いがけない時にかわってしまう政府などにではなく,人の生死を左右でき,あなたを助けることのできるかたに信仰を置いてください。あなたの信仰は,エホバがダビデをその敵サウルの手から救い出された時,ダビデがいだいていたほどの堅い信仰でありますように。ダビデはサムエル後書 22章3節(新)でその信仰を次のように表現しています。「わたしの神はわたしの岩。わたしはそこにのがれよう」。あなたの信仰は,精錬された純金のように,試練を経たものであり,エホバの前に貴重なものでありますように。(ペテロ前 1:7)また,風に吹かれて定めなく動揺する海の波ではなく,嵐に備えて今やしっかりといかりをおろし,あるいは神の霊の推進力で航路を進む船のようでありますように。(ヤコブ 1:6,7)イエスが言われた「信仰」をしっかりと持ち,使徒たちが歩んだ「道」に従い,そして神に喜ばれる信仰をいだいてください。―ヨハネ第一 5:4。
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バプテスマを受けた証人の責任をになう用意がありますかものみの塔 1969 | 5月1日
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バプテスマを受けた証人の責任をになう用意がありますか
「さて,彼らが道を進んでいたところ,水のあるところに来た。それで宦官は言った。『ごらんなさい,水があります。わたしがバプテスマを受けるのに,なんのさまたげがありますか」― 使行 8:36,新。
1 クリスチャンのバプテスマは人にどんな変化をもたらしますか。
クリスチャンのバプテスマを受けるのは,人が新しい国に移住して,新しい国語を学び,新しい仕事につくようなものです。この段階を踏む人は,現在の古い体制をそのさまざまな結びつきや関係とともにあとにして,神の霊的な国民と交わり,全世界のエホバの民の新世社会の一部となります。彼らは依然としてこの世界に住んでいますが,今や神の天の政府である御国の支配と権威を自分の生活の中で認めていますから,もはや世の一部ではありません。そして国籍や国語のために分かれ分かれになるのでなく,エホバの民すべてが話す「清いことば」つまり聖書の真理を学んでいます。(ゼパニヤ 3:9,新)こうしてついに新しい仕事の割当てを受け,自分たちの創造者に対する奉仕を始め,この仕事を生活の中で第一の関心事にします。
2 人はどのようにしてキリストの弟子になれますか。
2 あなたはこうした段階を踏む用意ができましたか。それには,言うまでもなくそれ相当に考え,計画し,祈ることが必要です。まず第一にその意味を十分に学ばねばなりません。バプテスマを受けた証人の責任をわきまえないうちに,急いでバプテスマを受けることを,エホバの証人がだれにも勧めていないのはこのためです。しかし,成し遂げるようにとイエスから命ぜられて,全地のエホバの証人が携わっているのは,そうした段階を踏むよう誠実な人々に用意をさせる仕事です。それは「もろもろの国人を弟子となし……バプテスマを施し……教へ」ることです。(マタイ 28:19,20)これは単に名前を教会の会員名簿に載せるとか,会員の資格を得るために,ある教義に同意し,それ以後は当人の行動の如何を問わずその立場がいつまでも保持されるということではありません。
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