ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • この世界にあふれる,逆境にある人々
    ものみの塔 1985 | 9月15日
    • 希望であると教えたにすぎないあるクリスチャンたちを殺すことまでしました。

      イエスは確かに,「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」と言われました。(マルコ 13:13)しかし,わたしたちは力尽きてしまうことなく耐え忍べるでしょうか。最も大きな逆境にあっても,慰めの源となるものがあるでしょうか。実際に耐え忍んだ人々の実例がありますか。

  • 逆境を耐え忍ぶ方法
    ものみの塔 1985 | 9月15日
    • 逆境を耐え忍ぶ方法

      「あなた方は自らの忍耐によって自分の魂を獲得するのです」。これは,「終わりの時」に関して語った預言の中でイエス・キリストが言われた言葉です。(ルカ 21:19。ダニエル 12:4)この言葉から次の二つの点がはっきりと分かります。すなわち,(1)わたしたちの命を救うには忍耐がどうしても必要であり,(2)耐え忍ぶことは不可能ではない,という二つの点です。

      では,どうしたら耐え忍ぶことができるのでしょうか。この質問に答えるには,まずエホバがご自分の僕たちに苦しみや迫害が臨むことを許しておられる理由を知らなければなりません。

      苦しみと迫害 ― なぜ?

      その主な理由は,エホバの主権が正当で義にかなっているという点に対してサタンが挑戦したことにあります。(創世記 3:1-19)エホバはご自分のみ名のために,また他の者たちのために,この挑戦を受けて立つことにされました。

      神はまた,次のような目的のためにもご自分の民が苦しみに遭うことをお許しになりました。それは,もしわたしたちがそうした苦しみを正しい見地に立って見るならわたしたちに非常な益がもたらされる,ということです。例えば,試練に遭った時に自分たちの逆境について不平を言うことなく耐え忍ぶなら,わたしたちは自分の信仰が純粋なもの,つまり神に喜ばれるような信仰であることを実証しているのです。(ペテロ第一 1:6,7。ヘブライ 11:6)しかし,苦しみはまた,誇り,忍耐力のなさ,安楽を愛する傾向などの人格面の欠陥をあらわにすることもあります。神の霊の助けを得れば,そうした傾向を克服して,さらに『新しい人格を身に着ける』ために努力することができます。―コロサイ 3:9-14。

      詩編作者はこの点をわたしたちのために見事に言い表わして,こう述べています。「わたしが苦しみに遭ったのは,わたしにとって良いことです。それは,わたしがあなたの規定を学ぶためなのです」。(詩編 119:71)苦しみに対する何と優れた見方なのでしょう。不満やつぶやきは一かけらも見られません。その苦しみによって引き起こされたかもしれない何らかの個人的な損失に対する利己的な懸念も全く見られません。むしろ,詩編作者に臨むことをエホバが許された事柄により,エホバの規定をより十分に認識するよう助けられたという賢明な認識がここに見られます。わたしたちも苦しみから同じような影響を受けるようにしていますか。

      使徒パウロはアジア地区で自分が経験した患難から益を受けました。一つの点として,この逆境のおかげでパウロはより一層エホバに依り頼むようになりました。それはまた,復活に対するこの使徒の信仰を強めるものともなりました。この苦境にあっても,パウロは「死人をよみがえらせてくださる神」に全き信頼を置いて耐え忍んだからです。(コリント第二 1:8-10)そうです,パウロは苦しみのもとで耐え忍んだため様々な恩恵に浴したのです。

      今日,苦しみに対して正しい見方をしているクリスチャンたちにも同じことが言えます。かつてゲリラ戦に悩まされていた国ジンバブエで,エホバの民の一つの会衆がある保護村に移されました。戦時中であったために,会衆内の任命された3人の長老たちは各々子供を一人ずつ失っていました。その上,地元の人々は,いきり立っていると言われる種々の霊をなだめる行為にクリスチャンである親たちを加わらせてその信仰を妥協させようと,大きな圧力をかけました。このことについて長老たちはどのように感じたでしょうか。3人を代表して,そのうちの一人は次のように語りました。「国で戦いが行なわれていた間,私たちも邪悪な霊と戦っていました。私たちには希望,それも生きた希望があるという点で,敵[邪悪な霊の勢力]に対して有利な立場にあります。ですから,たとえ戦いで命を落としたとしても,エホバに忠実を保って死ぬ限り,私たちは復活を受けることになります。私たちは敵を征服していることでしょう」。これら3人の忠実な人々は救出をもたらすエホバの力を決して見失うことはありませんでした。これらの人々の確固とした立場に目を留め,わたしたちも耐え忍ぶことができるとの確信を抱けるはずです。

      迫害が残虐なものである場合

      『でも,迫害が残虐なもので,残忍な拷問の手段が用いられる場合はどうだろうか。そのような場合でも,自分たちの信仰の点で力尽きてしまうことなく耐え忍べるだろうか』とお尋ねになるかもしれません。初期クリスチャンたちは自分たちの信仰の点で妥協することなく,恐ろしい仕打ちに遭っても耐え忍ぶことができました。

      同様に,ジンバブエの孤立した田舎の地域に住む,今日の一クリスチャンもエホバへの全き信仰を示しました。ある時,嫁いだ娘のところへ妻が出かけていたために,この人は独りきりで生活していました。すると突然,幾人かの武装した男が恐ろしい剣幕でこの人の所へやって来て,そのクリスチャンの立場について言い掛かりをつけました。男たちは,この人をひどく殴打してから,脚の間に真っ赤に焼けたレンガを縛りつけ,その上,焼けたレンガの上を歩かせました。次いでこの人は独り置き去りにされて死ぬに任されました。この地方の事態が急変した結果として旅行が不可能になったので,この人の妻は夫の窮状について何も知りませんでした。近所の人々は,この人を助けたら死の制裁を加えると言い渡されていました。こうしてこの人は丸3か月間もただ一人でこうした境遇の中で過ごし,いつ死んでもおかしくないと思っていました。

      苦しみに遭ったこのクリスチャンの男子は自宅に蓄えてあった水とコーンミール(ひき割りトウモロコシ)で命をつなぐことができました。しかし,受けた虐待のため,歩けませんでした。そのため,近くにあった薪が底をついてからは,自分の家具を壊して,それを使って煮炊きをするための火をおこさなければなりませんでした。水にはさびが混じるようになり,虫がうようよしていました。やけどを負ったところはうんでいきました。

      3か月後に妻がやっと家に戻って来た時,この兄弟はそのような状態にありました。夫を見た時に妻がどのように感じたか考えてみてください。妻は即座に夫を病院に入れる準備をしました。そのためには,夫を一輪の手押し車に乗せて最寄りのバス停まで連れて行き,そこから病院のある町まで夫を運ばなければなりませんでした。3週間後,この人は退院し,自分の娘の家へ行って,その地域のエホバの証人の会衆の成員から霊的な助けと励ましを受けました。

      神の王国のこの忠節な支持者が残虐な仕打ちを受けても耐え忍ぶのに役立ったのは何でしたか。3か月に渡ってこの人は全く独りきりで生活しました。そして,いつ死んでも少しもおかしくないと思っていました。しかし,この厳しい試練の間どのように感じたかという質問に対し,この兄弟は,「エホバがいつも一緒にいてくださるように感じました」と,答えました。迫害者たちに対する不満も,自分の身に起きた事柄について嘆き悲しむこともありませんでした。エホバはご自分の忠節な僕たちを決して見捨てられないという固い確信だけがありました。―詩編 37:28。

      確かに,クリスチャンは耐え忍ぶことができます。クリスチャンは,患難が生じるのをエホバがお許しになるのであれば,それは良い目的のためであり,忍耐するのは不可能ではないということを知っています。神の言葉と他の人たちの経験はこの事実をわたしたちに確信させてくれます。(マタイ 24:13)しかし,試練に遭っても耐え忍ぶために,わたしたちはしばしば慰めを必要とするのではないでしょうか。では,そのような慰めをどこに求めるべきですか。

  • 神の言葉から慰めを得る
    ものみの塔 1985 | 9月15日
    • 神の言葉から慰めを得る

      エホバは『優しい憐れみの父またすべての慰めの神で,すべての患難においてわたしたちを慰めてくださる方』です。(コリント第二 1:3,4)ですからわたしたちは,苦難の時にあって,エホバとそのみ言葉に真の慰めと安らぎを求めなければなりません。―ローマ 15:4。

      わたしたちが神に忠実であるなら,神は『決してわたしたちを離れず,わたしたちを見捨てない』のです。ですからわたしたちは確信を抱いて,「エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人がわたしに何をなしえよう」と言うことができます。(ヘブライ 13:5,6。詩編 37:39,40; 145:20)ですから,大きな苦しみに遭っている時でも,打ちひしがれたり失望したりする必要は決してありません。

      イエスはわたしたちの時代に成就している偉大な預言の一部として,次のように言われました。「あなた方は,親,兄弟,親族,友人たちによってさえ引き渡され,彼らはあなた方のうちのある者たちを死に渡すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう」。しかし,そのすぐ後で,イエスはこう言葉を加えておられます。「それでも,あなた方の髪の毛一本すら決して滅びることはありません」。(ルカ 21:16-18)どうしてそのようなことがあり得るのでしょうか。復活,すなわちパウロを支えたのと全く同じ希望によってそれが可能になるのです。(ヨハネ 5:28,29。コリント第二 1:9,10)死そのものも,将来に対するわたしたちのすばらしい希望を取り去ることはできないという点を知ると,慰められるのではありませんか。

      この希望と,神の助けがあるという保証とが,身体的な拷問を受けて耐え忍んでいる迫害されたクリスチャンたちに,また残忍な行為のために体が利かなくなったり手足が不自由になったりした人々に,婦女暴行の犠牲になった敬虔な婦人たちに,子供から力ずくで引き離された親たちに,どんなに大きな慰めになるかを考えてみてください。確かに,エホバの言葉の中には慰めと保証の言葉が数多く収められており,それらの言葉は,患難のもとにあっても歓びを生じさせることさえできるのです。―マタイ 5:10-12。

      報いを忘れてはならない

      逆境に面し,苦しみに遭っている時には,エホバの他の忠実な僕たちの身に起きたことのないような事柄はわたしたちの身にも起きないということを忘れてはなりません。使徒ペテロの次の勧めの通りに行なうなら,わたしたちがエホバに仕えるのをやめさせようとする悪魔のさまざまな企てに抵抗することができます。「堅い信仰をもって[悪魔]に立ち向かいなさい。苦しみを忍ぶ点での同じことが,世にいるあなた方の仲間の兄弟全体の中で成し遂げられているのを,あなた方は知っているからです」。(ペテロ第一 5:9)そうです,他のクリスチャンたちは良いたよりのために同様の試練に遭っても耐え忍んでおり,しかも妥協することなくそうしているのです。わたしたちも同じようにすることができます。

      堅く立った人々のことだけでなく,その人たちが受けた報いにも目を留めなければなりません。実例を挙げて考えてみることにしましょう。ヨブが利己的な理由によってのみエホバに仕えていることを何としても証明しようとしたサタンは,この神の人に災いを次から次へと臨ませました。最初にヨブの所有する動物が失われ,次いでヨブの僕たちが,そして最後には10人の子供たちまでが殺されました。サタンはそれでもまだ足りないとばかりに,「ヨブの足の裏から頭のてっぺんまで悪性のはれ物で」彼を打ちました。(ヨブ 1章と2章)ヨブはこうした災いのために神への忠誠を曲げましたか。

      いいえ,曲げませんでした。では,どんな報いがあったでしょうか。エホバはヨブの健康を回復させ,ヨブの持ち物すべてを「二倍にして」ヨブに与え,長寿と満ち足りた人生とを賜りました。(ヨブ 42:10-17)こうした報いに加えて,楽園の地における永遠の命の見込みを伴う復活というはるかに大きな報いがあります。(ヨブ 14:13-15)確かに,苦しみを忍ぶ今日のクリスチャンは,ヨブの経験により慰められ,力づけられます。

      「エホバは助けてくださいます」

      ここで,第二次世界大戦中ドイツの強制収容所で長年にわたって苦しみに遭いながら耐え忍んだ一人のクリスチャン婦人の例を考えてみましょう。恐ろしい状況や残虐な迫害,窮乏に加えて,5年間も夫や子供から無理やり引き離され,その消息も分からないままでした。幾年にもわたる忠実な忍耐の末,この婦人はとうとう夫や子供と再会し,それ以来3人は忠実にエホバに仕えています。自分の経験についてこの婦人が述べている事柄に注目してください。

      「ドイツの強制収容所で私が送った歳月を通して,私は優れた教訓を与えられました。それは,極度の試練のもとに置かれる時,エホバの霊がいかに大きな力になるかという教訓です。逮捕される前に読んだ一姉妹の手紙には,厳しい試練に遭うとき,エホバの霊により平静さが臨むということが書かれていました。その姉妹は幾らか誇張しているに違いないと私は考えていました。しかし,自分で試練を経てきてみると,確かにその姉妹の言っていたことは真実だということが分かります。本当にそのようになるのです。自分で経験しない限り,想像するのは困難です。それでも,確かに私の身にそうしたことが生じたのです。エホバは助けてくださいます」。

      こうした言葉から読者は慰めを受け,力づけられるのではないでしょうか。試練のもとにあって忠誠を堅く守ったために,このクリスチャンの婦人は家族共々,永遠の命というその希望の実現を待ち望んでいます。(ヘブライ 10:39)忠実さに対する何とすばらしい報いなのでしょう。

      幾年にもわたる試練を経験した後,わたしたちの愛する兄弟パウロはどのように感じていたでしょうか。失望していましたか。意気消沈していましたか。打ちひしがれていたでしょうか。そのようなことは全くありませんでした。パウロは確信に満ち,希望を抱き,自分が耐え忍んできたことを喜んでいました。パウロはこう述べています。「わたしは戦いをりっぱに戦い,走路を最後まで走り,信仰を守り通しました。今から後,義の冠がわたしのために定め置かれています。それは,義なる審判者である主が,かの日に報いとしてわたしに与えてくださるものです」。(テモテ第二 4:7,8)パウロは揺らぐことなくその走路を走り通し,天的な報いを受けました。(フィリピ 3:4-14)このようなりっぱな模範から慰めを受けない人がいるでしょうか。わたしたちも同様に逆境にあっても耐え忍び,聖書から慰めを得,わたしたちの愛ある神エホバに忠節であり続けたいものです。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする