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常に将来を見,エホバと共に前進しなさいものみの塔 1975 | 5月1日
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復活してくる人々のうちにはいるでしょう。(詩 45:16)「大患難」を生き残るための,神の定められた条件を満たしたけれども大患難以前に死んだ人たち,あるいはこれから死ぬかもしれない人たちも,千年統治期間中の早い時期によみがえらされるでしょう。これは筋の通った話と言えます。そのような人々は,復活してくる大多数の不義者の教育に大いに助けになるからです。
13 死者はどんな性格をもって復活してきますか。
13 よみがえって地上で住む人々についてはどうでしょうか。彼らはどんな体を持っているでしょうか。どのように見えるでしょうか。過去の,特にラザロの復活から分かるように,彼らの外観は死ぬ以前とあまり変わらないにちがいありません。したがって彼ら自身も他の人たちもそれと認めることができるでしょう。(ヨハネ 11:39-44)背の高かった人が背の低い人になって戻ってくることはないでしょうし,非常に年を取っていた人がティーンエージャーのようになって戻ってくることもないでしょう。男は男であり,女は女でしょう。彼らは以前と全く同じ性格,同じ記憶を持っているでしょう。過去においてよみがえらされた人々が明らかにそうであったように,復活した人々は,五体そろった健全な身体をしているでしょう。彼らを死に至らせた病気の状態で戻ってくることはないでしょう。といってもそれは完全な体を持っているという意味ではありません。そのような体は不完全な性格とつり合いません。むしろ彼らは不完全な体で出てくるでしょう。そして王国の支配に従い,イエスの犠牲の贖いの益を受けることによって自分の弱点と不完全さを克服しながら霊的に進歩してゆくにつれ,彼らの体も絶えず完全に近づいてゆくでしょう。
14,15 (イ)死者の復活は神の側の何の現われですか。そのことはだれのことばから分かりますか。(ロ)イエスは死者を復活させることについてどのように感じられるでしょうか。
14 復活の取決めはエホバ神の愛の現われです。そのことは,忍耐強くて忠実であったヨブの次のことばからも分かります。「強健な体の人が死ねば,また生きるでしょうか。……あなたは呼び,わたしのほうはあなたに答えます。あなたはみ手の業を慕われるのです」。そうです。エホバ神はシェオールすなわちハデスにいる者,ことにヨブのようなきびしい試みのもとで忠誠を証明した者たちを慕われます。―ヨブ 14:14,15,新。
15 また,数えることができないほど多くの人々が復活してくることは,イエス・キリストにも確かに大きな喜びをもたらします。イエスが人類のために進んで,そして喜んでそれを行なってくださることは,ひとりのらい病人がある時イエスのところに来て,「主よ,あなたは,ただそうお望みになるだけで,わたしを清くなさることができます」と,信仰をもってイエスに言った時にイエスが示された反応に現われています。イエスは彼になんと言われたでしょうか。「『わたしはそう望むのです。清くなりなさい』と言われた。するとらい病はすぐに消えたのである」― ルカ 5:12,13。
16 復活に対する信仰を抱いて将来を見ることは,わたしたちにとって今でもどのように助けになりますか。
16 確かに復活もまた,わたしたちが熱心な期待と喜びとをもって待ち望むことができるものです。信仰をもってそれを待ち望むなら,それは今日においてもわたしたちや仲間の人間に本当に大きな励ましとなり祝福となります。愛する者に死なれても,希望を持たない人々のように極度の悲嘆にくれることはありません。(テサロニケ第一 4:13,14)わたしたちは悲しんでいる人々に真の慰めを与えることができます。(コリント第二 1:3,4)わたしたちは復活の希望を自分のものにしたので,たとえ人がわたしたちの命を取るとしても,神の記憶からわたしたちのことをぬぐい去って死からよみがえらされないようにすることはできない,ということを確信しています。(マタイ 10:28)この確信は,人がわたしたちにどんなことをしようと,エホバ神に忠節を保つようわたしたちを強めてくれます。―啓示 2:10; 12:11。
17 命の報いを得損う可能性は,わたしたちにどんな影響を及ぼすはずですか。
17 また,命の報いを得損う可能性があるという事実も,わたしたちに忠実を保たせる刺激となります。(テモテ第二 4:8と比べてください)聖書の示すところによると,意識して罪を常習的に犯す人 ― 神の霊に対して罪を犯す人々 ― は復活させられません。(マタイ 12:31,32。ヘブライ 10:26,27)このことは確かに,忠実を保つことに努力した使徒パウロの模範に見倣うようわたしたちを励ますはずです。パウロは自分自身について,「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされることにならないためです」と言いました。(コリント第一 9:27)そうです,わたしたちも命の報いを見失ったり,エホバ神に忠節につき従う努力を怠ったりすることが決してないようにしたいものです。
見つづけ,前進しつづけましょう
18 わたしたちは競争をしているのですから,どのようにふるまうべきですか。
18 確かにわたしたちには期待できることがたくさんあります。前途はなんと輝かしいものでしょう。近い将来ばかりではありません。向こう千年間もそうなのです。わたしたちの歩む道は競走になぞらえられていて,わたしたちは今いわば最後の直線コースを走っているのです。競走は何を暗示しますか。真剣な努力とゴールに入ること,つまり競争に勝つことに注意を集中することを暗示しないでしょうか。事実,わたしたちが勧められているのはまさにそのことです。「わたしたちも[物質主義にせよ,肉の罪深い傾向にせよ]あらゆる重荷と容易に絡みつく罪[信仰の喪失]とを捨て,自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか。……イエスをいっしんに見つめながら」― ヘブライ 12:1,2。
19 追随者たちがわなに陥って報いを得損うようなことがないよう助けるために,イエスはどんな助言を与えられましたか。
19 そうです,イエスはわたしたちに模範を示し,「王国と神の義をいつも第一に求めなさい」と助言してくださいました。(マタイ 6:33)イエスはまたその偉大な預言の中で,この終わりの時についても警告されました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう……いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。
20 世に対するわたしたちの態度はどんなものでなければなりませんか。
20 確かにわたしたちにとって賢明な道は,わたしたちが生きる目標としているものに注意を注ぐことです。わたしたちは今が「終わりの日」であることを知っています。したがってパウロの次の助言はわたしたちにとって,彼がそれを最初に与えた時よりもより適切なものとなっています。「残された時は少なくなってい(ます)……今後……世を利用している者はそれを十分使っていない者のようになりなさい。この世のありさまは変わりつつあるからです」。(コリント第一 7:29-31)世が提供するものを一つでも逃したら損とばかりに,すべての注意をそれに集注し,自分の霊性を犠牲にしてまで世を用いつくすようなことをしてよいでしょうか。むしろわたしたちは,「世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」ということばを常に念頭に置いていましょう。それはなんとすばらしい約束ではありませんか。わたしたちは,神との関係を自分の全生活の中心とし,他の関係または快楽を不当に重視することなく,その約束にしっかりと従うことによってそれを本当に信じていることを示すでしょうか。―ヨハネ第一 2:17。
21 今物質を楽しむことについてわたしたちはどんな態度を取るべきですか。そしてなぜ。
21 わたしたちは物質を追い求めることに没頭してよいでしょうか。イエスはある例え話の中で,そのような精神的態度を持たないよう忠告し,「自分のために宝をたくわえても,神に対して富んでいない者はこうなるのです」と言われました。(ルカ 12:16-21)それに加えてイエスは,もしわたしたちがまず神の王国とその義を求めつづけるなら,神はわたしたちの物質的必要を顧みてくださると約束されなかったでしょうか。(マタイ 6:33)また新しい事物の体制の中で,どんな物資を持つかについても不当に心配する必要はありません。もしそのようなものが重要であるならば,エホバはそのみことばの中にそれらのことを記録させておかれたでしょう。今日人々を幸福にしているのは物でも,またたくさんのぜいたく品でさえもないことをわたしたちは知っています。地球上で一番幸福な人々はエホバの民です。彼らはおもに,この世が高く評価する物に関するかぎりでは貧しい人々です。新しい体制においては物に事欠くことはないことをわたしたちは確信しています。そしてわたしたちは何よりも大切な霊的な祝福を豊かに与えられ,また唯一の真の神エホバを共に崇拝する友だちや仲間にたくさん恵まれるでしょう。その人々はみな,神の霊の実を示しているでしょう。―詩 133:1。ガラテア 5:22,23。テモテ第一 6:17。
22 どのように,そしてどんな分野で,わたしたちは個人的にエホバと共に前進できますか。
22 その時までわたしたちには,エホバとの関係を深め,信仰において結ばれている人たちへの愛を深め,自分の生活をますます神のご意志に一致させる非常によい機会があります。個人的に行なう勉強,祈り,集会に出席すること,学んだことを適用することなどは,わたしたちの霊的な進歩に大きな役割を果たします。エホバが備えてくださったものを活用して霊的に成長をつづけるときに,わたしたちは自分が希望を強く保つだけでなく,他の人々も神が与えてくださった希望を自分のものとし,またそれに従って生きるよう,機会をよく利用して助けずにはいられなくなるでしょう。いま進歩するなら,キリストとその花嫁の千年統治期間中に完全になるのに必要な態度を養うことにおいて,一歩先んじることになるでしょう。ですからわたしたちは前進しつづけましょう。
23 どんな事実があるので,パウロはヘブライ 6章10,11節でどんなことを保証していますか。
23 エホバは,意図されたことや約束されたことは必ず成し遂げられます。エホバのことばが,むなしくエホバにかえることはありません。そのことに疑問の余地は全くありません。使徒パウロがわたしたちに保証しているように,神は不公平なかたではありませんから,わたしたちが「そのみ名を愛するがゆえに行なった」事柄すべてをお忘れになることはありません。それでわたしたちは,「[わたしたちの]希望が最後に実現するまで,同じ熱意ある関心」を示しつづけましょう。―ヘブライ 6:10,11,新英語聖書。
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裁くべき時がありますかものみの塔 1975 | 5月1日
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裁くべき時がありますか
イエス・キリストは一群の聴衆に向かって,「自分が裁かれないために,人を裁くのをやめなさい」と言われました。(マタイ 7:1)それによってイエスは,裁くことを一切禁じようとしておられたのでしょうか。それとも,裁断を下すのがまさにふさわしく,しかもそうしたからといって神からの不利な裁きを受けないような場合がありますか。
聖書は確かに,神の献身した民の会衆内で裁断を下さなければならないような事態が持ち上がることを示しています。例えば長老たちは,重大な悪行に関係するようになった仲間の信者を裁くよう求められるかもしれません。(コリント第一 6:1-6)長老たちは,そのような悪行者が真に悔い改めて,聖書の原則と調和した生活を送りたいと願っているかどうかを判断しなければなりません。悔い改めない人の場合,長老たちは,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という聖書の命令にあくまでも従わねばなりません。―コリント第一 5:13。
しかし,ある人を悔い改めない悪行者として裁く際に,長老たちは神のことば聖書の中ですでに明らかにされている裁きと一致した行動を取っている点に注目できるでしょう。長老たちは,自分自身の見解に基づく私的な裁きを行なっているわけではありません。私的な裁きを行なうとすれば,その決定が私的偏見の影響を受ける道を開くことになるので危険です。
長老たちが評価を行なわなければならないもう一つの領域となるのは,クリスチャンの兄弟たちが会衆内で奉仕のしもべもしくは長老として奉仕する資格を持っているかどうかを考慮する場合です。その場合でもやはり,個人的な見解ではなく神のことばに基づいて評価しなければなりませ
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