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どのようにして開拓奉仕に成功を収められますかものみの塔 1971 | 9月1日
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20 エホバのしもべとしてレースを続けるわたしたちにはどんな励ましがありますか。
20 開拓者であれ宣教者であれ,あるいは巡回,地域,ベテルの奉仕者であれ,その奉仕の特権がなんであろうと,全時間奉仕に携わっている人たち,レースを中途で放棄しないでください。この事物の体制の終わりは近づいているからです。途中で止めさせようとするおとし穴や障害を乗り越えるのを助けてくださるよう,エホバにより頼んでください。あなたは1マイルを4分で走るレースに参加しているのではなく,永遠の命というゴールを目ざすレースに加わっているのです。ですから,何物にもまただれにも失望させられてはなりませんし,またこのすばらしい奉仕の特権からそらされてもなりません。だれもが開拓奉仕を行なえるわけではありません。しかし,それを行なえるかたは歩速を保ってレースを続けてください。会衆の伝道者であれ開拓者であれ,宣教におけるレースは速い者,若い者,強い者のためのものではなく,エホバに信頼を置く者すべてのためのものであることを忘れないでください。(イザヤ 40:28-31)このレースで重要なのはスピードではなく,忍耐です。できるかたすべてが,スタートするばかりでなく,さらに重要なことに,わたしたちの神エホバに対するすばらしい奉仕にとどまるようお勧めします。
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神からの報いを待ち望みなさいものみの塔 1971 | 9月1日
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神からの報いを待ち望みなさい
報いを待ち望んで正しいことを行なう,また神に仕えるのは,決して利己的なことではありません。それは,神あるいは仲間の人間のだれかに当然帰せられるべきものを奪うことではありません。事実,エホバ神は公正および愛の神として,ご自分に仕える人たちに報いを与える義務をみずからに課しておられるのです。―ヘブル 6:10。
エホバからの報いを期待してエホバ神に仕えるには信仰がいります。今日,神に仕えていると公言する人さえほとんどいないのはそのためです。そうした信仰はそれ自体美徳と言えます。利己的であるどころか,それはまさに,従順および正しいことを行なうという条件で神が差し伸べる祝福を感謝もしくは正しく評価するかどうかの問題です。―ルカ 18:8。テサロニケ後 3:2。
エホバからの報いを待ち望んで正しいことを行なうよう,神のみことばが多くの励ましを与えているのはそのためです。ある若いモアブ人のやもめ,ルツについてしるされているのはその典型的な例です。彼女の義理の母ナオミの神エホバの側に立ち,ナオミをよく世話したゆえに,ルツは自分の義理の母のひとりの親族からこう言われました。「ねがはくはエホバ汝の行為に報いたまへ ねがはくはイスラエルの神エホバ即ち汝がその翼の下に身を寄せんとて来れる者汝に十分の報施をたまはんことを」― ルツ 2:12。
この祈り(事実,祈りであった)がルツの場合にふさわしいものであったことは,ルツが義理の母に次のように語って表明した愛情と決意のほどからもわかります。「汝を棄て汝をはなれて帰ることを我に催すなかれ我は汝のゆくところに往き汝の宿るところにやどらん汝の民はわが民汝の神はわが神なり 汝の死るところに我は死て其処に葬らるべし若死別にあらずして我なんぢとわかれなばエホバわれにかくなし又かさねてかくなしたまへ」。そしてルツはその気高い行動のゆえに豊かに祝福され,神を恐れる裕福なボアズの幸福な妻となり,同時に,ダビデ王またイエス・キリストの女子祖先になりました。さらに,聖書の本の一つにさえその名前が付されたのです。―ルツ 1:16,17。
『エホバなんじに報いたまわん』。なんと喜ばしい,なんと信仰を強める考えでしょう。では,だれがそうした報いを待ち望めますか。不正を行なう者たちではありません。神はご自分を自分たちの神と認め,かつ神を喜ばせようと努める人たちだけに報いを与えられます。ナオミに対するそのことばからもよくわかるように,ルツはそうした思いを持っていました。エホバ神を喜ばせるには,エホバが存在することだけでなく,エホバは『彼を熱心に求める者に報いてくださる』ことも信じなければならないと神のみことばが述べている以上,どうしてそれは利己的なことでしょうか。―ヘブル 11:6,新。
親や子ども,夫や妻,雇用者や従業員,クリスチャン会衆の監督また補佐のしもべたち,それに個々の成員などすべては果たすべき責務を持っています。それらの人たちの中には,自分のしていることは感謝されていない,自分は食い物にされている,もしくは利用されていると,時には感ずる人がいるかもしれません。また,自分たちの仕事は単調でつまらないむなしいもの,改善の見込みなどほとんど,あるいは全くないものと思える場合があるかもしれません。神に対する信仰のない人たちは,しばしば挫折感や憤りを感ずるあまり,暴動その他の暴力行為に携わりますが,クリスチャンにはそうすべき理由がありません。むしろ,たとえ事態を変えることができなくとも,たとえ,理性に訴えたり穏やかな手段を講じたりして誉れある仕方で,自分たちの立場を改善することができなくとも,とにかく依然として慰めを得ることができるのです。何をもって慰めるのですか。正しいことを行なっているゆえに,自分たちはエホバ神を喜ばせており,今もまた将来もエホバから報いを受けられるという考えによってです。
今でさえ報いを受けられるのですか。どのようにしてですか,とある人は問うかもしれません。正しい行ないに対して神が今報われる方法の一つは,神の天使たちによるものです。エホバ神に仕えている人たちは,自分たちの祈りに対する答えとして直接エホバ神からその天使たちを通してもたらされたものとしか考えられないような祝福に何度もあずかってきました。それにまた,エホバ神の聖霊はご自分の忠実なしもべたちに報いるためエホバが用いられる手段です。そしてしばしば神は地上の忠実なしもべたちの中のだれかの思いや心に,仲間のしもべたちに親切を示す気持ちをいだかせ,こうしていわば彼らに報われるのです。ルツに対するエホバからの報いは,ひとりの人間の代理者,つまり彼女の義理の母ナオミの親族すなわちボアズを通してもたらされました。―ルツ 4:9-17。
エホバのしもべたちが自分たちの神からのそうした祝福を確かに期待できるということは,次の箴言 10章22節(新)にある約束からもわかります。「エホバの祝福 ― それこそ富ませるものであり,彼はそれとともに苦しみを加えない」。それにイエスは,もしイエスの追随者が神の王国と神の義を第一に求めつづけるなら,他の必要なものはすべて彼らに加えられるであろうと言われませんでしたか。確かにそう言われました。―マタイ 6:33,新。
エホバを喜ばせることをほんとうに求めるしもべたちにエホバ神が現在お与えになるともいえる報いがまだほかにもあります。それは満足と幸福を伴う思いの平安であり,それは決してささいな“報酬”ではありません。そうです,「足ることを知りて敬虔を守る」のは大きな利得です。(テモテ前 6:6)使徒パウロのように,「我は如何なる状に居るとも,足ることを学びた(り)」と言えるのは,思いに真の喜びが宿っている状態といえます。したがって,175歳になるまでエホバ神に仕えた族長アブラハムについて,彼は「老人となり年満て」死んだとしるされています。―ピリピ 4:11。創世 25:8。
今日でもエホバ神は確かにご自分の忠実なしもべたちに報いをお与えになります。事実,幾十万人もの忠実なエホバのクリスチャン証人はそのことを立証できますし,この「ものみの塔」誌に掲載されてきた彼らの生涯の物語はその証拠となっています。また,大ぜいの証人が出席するので,彼らの幸福な状態がたいへん顕著に見られる,証人たちの大規模な大会にもそうした証拠を見いだせます。
それにもちろん,聖書が繰り返し差し伸べている将来の報いに関する希望もあります。イエスはご自分の追随者が「正しき者の復活の時に報い」られることを保証されました。また使徒パウロは復活に関する力強い説明の結論でこのことを保証し,こう述べました。「然れば我が愛する兄弟よ,確くして揺くことなく,常に励みて主の事を務めよ,汝等その労の,主にありて空しからぬを知ればなり」。同様にパウロは当時のクリスチャンの奴隷たちに語りました。「汝ら何事をなすにも人に事ふる如くせず,〔エホバ〕に事ふる如く心より行へ。汝らは〔エホバ〕より報として嗣業を受くることを知ればなり」。―ルカ 14:14。コリント前 15:58。コロサイ 3:23,24,〔新〕。
エホバの原則を堅く守り,エホバに喜ばれることを行なう人にエホバ神は確かに報いをお与えになります。そのような人たちは今報いにあずかるとともに,将来の神のご予定の時に受ける報いを待ち望めます。これは利己的であるどころか,ヨシュアがイスラエル民族に思い起こさせた次のことばどおり,エホバの言われるとおりを信ずることにほかなりません。「汝らの神エホバの汝らにつきて宣まひし諸々の善事は一も欠る所なかりき皆なんぢらに臨みてその中一も欠たる者なきなり」。(ヨシュア 23:14)ですから,エホバ神からの報いを信仰をいだいて待ち望んでください。
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聖書に出てくる名前の背後にある意味ものみの塔 1971 | 9月1日
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聖書に出てくる名前の背後にある意味
今日たいていの国でそうですが,それ自体特別の意味をもつという名前はあまりありません。赤ん坊が生まれると,友だちや親族の者の名前をもらってつけるかもしれませんが,その名前のほんとうの意味を考えることはまれです。
しかし昔はそうではありませんでした。聖書の原語(ヘブル語,アラム語,ギリシア語)では,人や場所また物の名前に意味がありました。
人の名前
子どもにつけられた名前は,多くの場合,その誕生の時の状態,または父親あるいは母親の感情を反映しました。たとえばエバは,最初に生まれたむすこにカイン(ヘブル語では「生み出されたもの」を意味する)という名前をつけました。「我エホバによりて一個の人を得たり」と彼女は言っています。(創世 4:1)アベルが殺されたのちに生まれたむすこに,エバはアベルの代わりと考えて,セツ(「定められた,代わりの」)という名をつけました。(創世 4:25)イサクは,ふた子のむすこの弟のほうにヤコブ(「押しのける者,くびすをつかむ者」)という名前をつけました。なぜかというとこの男の子は,
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