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自分が忠実であることを証明しなさいものみの塔 1979 | 2月15日
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自分が忠実であることを証明しなさい
「この場合,家令に求められるのは,忠実であることである」― コリント第一 4:2。
1 なぜ神のしもべたちは仲間の人間を助ける努力をすべきですか。
イエス・キリストの忠節な弟子としてエホバ神に仕えている人々はみな,貴重な宝を持っています。(コリント第二 4:1-7と比較してください)彼らは極めて重要な知識を有しています。その知識は,それに一致して行動するようになる人々に命をもたらしうるほどのものです。(ヨハネ 17:3)ですから当然彼らは,仲間の人間を霊的に援助するために努力しているはずです。また困っている人々を物質面で援助することをいとわないはずです。そういう物質的援助は霊的援助と相伴うものです。というのは,衣食住は命に不可欠のものであり,命がなければ,人はエホバ神を賛美することができないからです。―詩 30:9; 88:10-12。
2 ルカ 12章33,34節のイエスの諭しを考えるなら,イエスの弟子たちは進んで何を行なうべきですか。
2 イエス・キリストは弟子たちに言われました。「自分の持ち物を売って,あわれみの施しをしなさい。自分のために,古びることのない財布,天にあるいつまでも尽きない宝を作りなさい。そこでは,盗人が近づくことも,蛾が食い尽くすこともありません。あなたがたの宝のある所,そこにあなたがたの心もあるのです」。(ルカ 12:33,34)ですから,イエスの弟子たちは他の人々のためになるように進んで自分の時間と財産を用いる気持ちがなければなりません。イエスが言われた言葉の意味は明らかに,弟子たちは自分が無一文になるまで施し,その後は他人の情けに頼ればよいということではありませんでした。しかしその弟子たちは,身体的に霊的に本当に困っている人々を援助するために,進んで財産を手放す気持ちがなければなりませんでした。
3,4 (イ)テモテは裕福なクリスチャンに何をすることを勧めるように言われましたか。(ロ)この諭しに一致して彼らはどんな態度を避けるべきですか。
3 イエスのこの助言の精神は,裕福なクリスチャンに告げるよう使徒パウロがテモテに指示したことによく表われています。その内容は次の通りです。「今の事物の体制で富んでいる人たちに命じなさい。高慢になることなく,また,不確かな富にではなく,わたしたちの楽しみのためにすべてのものを豊かに与えてくださる神に希望を置くように。そして善を行ない,りっぱな業に富み,惜しみなく施し,すすんで分け合い,自分のため,将来に対するりっぱな土台を安全に蓄え,こうして真の命をしっかりとらえるようにと」。(テモテ第一 6:17-19)この諭しは何を意味するでしょうか。
4 富んでいるクリスチャンは,財産があるからといって,自分は他より優れた人間であると考えてはいけないということです。また富に頼ってもなりません。財産は盗まれたり,なくなったり,破壊されたりすることがあるゆえに,人が希望を築く土台としては極めて弱い土台です。しかし,とこしえの神エホバは,わたしたちが絶対の信頼を置くに値する方です。エホバは地上の命を支えるための備えを十分にしてくださいましたが,もしこれがなかったなら,だれひとり生き続けることはできません。(使徒 14:16,17; 17:25)ですから,創造者を無視して,物を生活の中心にすることは,なんと愚かなことでしょう。
5 わたしたちは財産をどのように用いるべきですか。なぜですか。(ルカ 16:1-13)
5 エホバは創造者であるために,すべてのものの所有者です。ですからわたしたちがエホバを崇拝し,何であれ自分の持っている財産を,エホバに喜ばれる方法で用いるのは全く正しいことです。(詩 95:3-6)これは,他の人々を霊的な面や物質面で援助するのにその財産を用いることを意味します。裕福なクリスチャンの場合は,記録に残る立派な業をその財産と同じほど豊富にすることを勧められています。他の人の苦しみを軽くすることに自分が持っているものを用いることによって,天に宝を蓄えるのです。事実,献身したクリスチャンはすべて,霊的また肉体的要求を抱えている人々を積極的に援助しつづけることによって,天に宝を蓄えます。その宝は,エホバ神から与えられる報いという形の配当を,豊かに生み出すのです。
6 天に宝を蓄えることを何ものにも妨げられないように注意しなければならないのはなぜですか。
6 盗まれる危険のある物質の財産や,虫に食われる恐れのある衣服などと違って,神のみ前における立派な業の記録は破壊できないものです。そうであればクリスチャンは,生きている限りは,物質の財産や日々行なう事柄,快楽などに妨害されずに,エホバ神のみ前に立派な記録を作るよう,最善の努力をしたいと思うはずです。とりわけ生存期間が不確実である以上,主な目標からそれないようにすることが急務です。その目標とは,エホバ神の是認されたしもべ,また師なるイエス・キリストの忠節な弟子としての状態を常に保つことです。天に宝を蓄える機会を十分用いないうちに急死する人は,どんなに悲しいことでしょう!
7 天に宝を蓄えることに心を集中するのに役立つのは何ですか。
7 ですから,天に宝を蓄える努力に心を集中するのはとても重要なことです。この点で助けになるのはまず,エホバ神とイエス・キリストがわたしたちのためにしてくださったことを,時間をかけてよく考え,感謝することです。エホバ神には命そのものをいただいた恩義があります。(啓示 4:11)人類の大半が感謝の念のない態度を取るにもかかわらず,至高者は,すべての人が命を支えるための豊かな備えにあずかることを,引き続き許しておられます。(マタイ 5:45)そしてご自分の最高の愛の表現として,最愛のみ子イエス・キリストに,刑柱上で恥ずべき死を遂げることさえ,おさせになりました。そのために,わたしたちが罪と死から解放されてついには永久に神の完全な子となることが可能になりました。(ローマ 5:8; 8:32)そしてイエス・キリストは,わたしたちのために進んで命を捨てることにより,その大いなる愛を実証されました。(ヨハネ第一 2:2)こうして示された愛を考えるとき,わたしたちは当然あらゆる機会を捕らえ,仲間の人間を物心両面で助けることによって,感謝を示さずにはいられないのではないでしょうか。
時間を有効に使う
8 楽しみ事に時間を使いすぎているなら,それはどんなことからわかりますか。
8 実際,エホバとイエス・キリストに対するわたしたちの愛は,自分の時間を十分活用するようにわたしたちを動かすはずです。しかし,もし娯楽がなければ生きて行けないような気がする,と言うほどに娯楽が重要な存在になるとすれば,時間を十分活用することになるでしょうか。もちろんそうでないことは明白です。幾世紀もの間,何億という人々が,ラジオも,テレビも,映画や車やスポーツ,あちこちへの慰安旅行などもなしで生活していた事実を,わたしたちは見失わないようにしなければなりません。では,道理からいって,そういう事柄を生活の中で二の次にするのは,賢明ではないでしょうか。すると,もしある人が真の崇拝に直接関係のある事柄よりも,楽しみを追い求めることにより多くの時間を費やしているとすれば,その人は「快楽を愛する者」となっているのではないでしょうか。(テモテ第二 3:4)そして,神のみ名に誉れをもたらす点で全く実を結ばなくなる危険にさらされてはいないでしょうか。―ルカ 8:14。
9,10 (イ)イエス・キリストの手本に基づいて考えるなら,健全な休養についての平衡の取れた見方とはどんなものですか。(ロ)「わたしの食物とは,わたしを遣わしたかたのご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです」とおっしゃいましたが,それは何を意味しますか。
9 もちろん,エホバ神の献身したしもべたちが,様々な形の健全な休養や娯楽を楽しむのは正しいことでしょう。イエス・キリストでさえ食事や宴会への招待に応じ,奇跡によって水を上等のぶどう酒に変えて婚宴の喜びに寄与されたこともありました。(ルカ 5:29; 7:36; 14:1; 19:5,6。ヨハネ 2:1-11)しかしイエスは,飲食物をも含め,快楽を生活の中で第一にするようなことはなさいませんでした。あるときイエスは弟子たちに,「わたしの食物とは,わたしを遣わしたかたのご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです」と言われました。(ヨハネ 4:34)わたしたちも神のご意志を行なうことを,同じように最大の喜びとしているでしょうか。
10 上記のことを言われた時,イエスは疲労と空腹を覚えておられました。しかし,証言する機会が訪れたためそれに熱中されたので,身体的な不快感はどこかへ消えてしまいました。神のご意志を行なうことから生まれる喜びと満足は,イエス・キリストにとっては食物のようなものだったのです。わたしたちの場合も,ぜひそうでありたいものです。それには娯楽を制御しなければなりません。そうすれば,同胞を物心両面で助けることから生まれるはるかに大きな幸せを,娯楽に妨げられて経験しそこなうことはありません。
11 クリスチャンは自分の楽しみだけのために時間を使う権利がありますか。この点に関しイザヤ 58章13,14節からどんな原則が引き出せますか。
11 自分の時間を使うことで利己的にならないようにするためには,時間そのものもエホバの賜物であり,神のご意志に調和して用いるべきものであるという考えを,常に忘れないようにすることが必要です。自分の楽しみのためだけに時間を用いる権利は,わたしたちにはありません。このことは,エホバ神が安息日の間イスラエル人に期待された事柄によく示されています。預言者イザヤを通してエホバは言われました。「あなたが安息日を考慮し,わたしの聖なる日に自分自身の喜びとなる事柄を行なうことに関し自分の足を引き戻すなら,また安息日をこの上ない喜び,エホバの聖日,栄光を与えられる日と実際に呼び,自分を喜ばせるものを見いだして言葉を話すよりもそれに実際に栄光を与えるなら,そうすればあなたはエホバにこの上ない喜びを見いだすであろう」。(イザヤ 58:13,14,新)ですからイスラエル人は,仕事を休むだけでなく,安息日を特別にエホバにささげられた日とみなすべきでした。安息日は単に自分の楽しみを追い求めるだけの日ではなく,霊的な事柄を第一にして神のご意志を行なうことに喜びを見いだすための時でした。この安息日のおきての精神に従って,真のクリスチャンは日々を,エホバ神への賛美となるように用いなければなりません。
主人の帰りを迎える準備をしていなさい
12 (イ)ルカ 12章35-40節に示されている通り,エホバの業に熱心でなければならない他のどんな重要な理由がありますか。(ロ)わたしたちは毎日どんな状態でいるように努力すべきですか。なぜですか。
12 主人イエス・キリストの献身したしもべたちが,エホバの業をだらだら行なっていてはいけない理由がもう一つあります。それは,神のみ子イエスが語られた次の例えの中で強調されています。「あなたがたの腰に帯を締め,ともしびをたいていなさい。こうしてあなたがた自身は,自分たちの主人が婚礼から帰って来るのを待ち,主人が到着して戸をたたいたらすぐに開けられるようにしている人たちのようでありなさい。主人が到着したときに,見張っているところを見られる奴隷は幸いです! あなたがたに真実に言いますが,主人は帯を締め,彼らを食卓の前に横にならせ,そばに来て奉仕してくれるでしょう。そして,主人が第二夜警時に,あるいはたとえ第三夜警時に到着したとしても,こうしているところを見られるなら,彼らは幸いです! しかしこのことを知っておきなさい,家あるじは,どの時刻に盗人が来るかを知っていたなら,ずっと見張っていて,自分の家に押し入られるようなことは許さなかったでしょう。あなたがたも用意をしていなさい。あなたがたの思わぬ時刻に人の子は来るからです」。(ルカ 12:35-40)自分の命の終わる時を知らないのと同じように,イエス・キリストが裁きを執行するために来られる正確な時を,わたしたちは知りません。しかしその時がますます近づいていることは,確かに知っています。これはわたしたちが毎日,準備を整えて主人の帰りを待っている状態でなければならないことを意味しています。
13 (イ)イエスの例えに出てくる奴隷たちは,主人のるすの間何をしていましたか。(ロ)主人は,待ちもうけている奴隷たちにどのように報いますか。
13 例えの中では,しもべたちはその通りのことをしています。長い衣のすそをたらしたままにしないで両足の間からからげ上げて,帯の下にしっかりはさんでいます。こういう身仕度で彼らは,ともしびの光を頼りに自分の務めを行ないつづけます。待つ時間は第二夜警時(午後9時から真夜中ごろまで)に,そして第三夜警時(真夜中から午前三時ごろまで)にまで延びますが,忠実な奴隷たちは活動を中止せずに油断なく目覚めています。ついに主人は帰着し,しもべたちの献身的な働きを見て,非常に変わった方法で彼らに報います。しもべたちを食卓の前に横にならせ,給仕をし始めるのです。主人は彼らを,奴隷としてではなく忠節な友として扱います。主人の帰りを待ちながら夜通し主人のために働きつづけた彼らは,そのためになんと立派な報いを受けるのでしょう!
14 ルカ 12章35-40節に記録されている言葉をイエスが言われてから長い年月がたっていることを考えるなら,どんな問いが生じますか。
14 イエス・キリストがこの例えを話されてから1,900年以上たちました。ですからイエスの追随者たちは,不敬虔な世に裁きを執行するためイエスが戻って来られるのを,本当に長い間待っています。多くの人にとって時刻は,第二夜警時をすでに過ぎ,第三夜警時もかなり過ぎているように思えるかもしれません。しかし,わたしたちの中に疲れはじめている人がいるでしょうか。それともわたしたちは相変わらずしっかり帯を締めて活動しているでしょうか。神の霊の働きに服して燃料の補給を受けながら,立派な行ないと熱心な証言を通して光を輝かせているでしょうか。―マタイ 5:14-16。ゼカリヤ 4:2-6と比較してください。
15 裁きを執行するために戻るとき,イエス・キリストは,イエスの弟子と称する者たちのどんな点を観察されますか。
15 裁きを執行するために戻るとき,わたしたちの主人はどんな点を観察するのでしょうか。しもべと称する者たちが,果たして実際にしもべであるかどうかに主人は注目します。「すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうよう教えなさい」という命令に,彼らは忠実に従ってきたでしょうか。(マタイ 28:19,20)キリストの兄弟の「最も小さな者」に積極的な関心を示して働いた立派な記録を所持しているでしょうか。キリストの兄弟たちが困っているのを見たとき,飢えている人には食べさせ,渇いている人には飲ませ,よそから来た知らない人は温かく迎え,着る物のない人には着せ,病人は助け慰め,不当に投獄されている人は獄に訪ねるといったことをしたでしょうか。(マタイ 25:35-40)そして人を堕落させる肉の業に汚されることなく,いつも霊的に目覚めていたでしょうか。―マタイ 7:21-23。ルカ 21:34-36。ペテロ第二 3:14。
16 神のみ前に立派な業の記録を作り上げる点で自分がしていることをなぜ真剣に考えるべきですか。
16 わたしたちはみな,神とキリストのみ前における今の自分の立場を真剣に考えてみなければなりません。わたしたちには立派な業の記録を作り上げる時間が際限なくあるわけではありません。いま何歳であろうと年齢にはかかわりなく,わたしたちは自分のほうが死ぬか,あるいは不意に主人が戻ってくるかのどちらかです。もしクリスチャンの責任を怠っているなら,そのどちらかが盗人のように,用意のできていないわたしたちを不意に襲うでしょう。ですからわたしたちは,一日一日を最後の日であるかのように生きることに最善を尽くし,エホバ神およびわたしたちの主人イエス・キリストに忠実に仕えることを,自分の欲望または快楽に妨害されないようにしたいものです。そうするときわたしたちは,自分の時間,エネルギー,また財産の用い方を後悔することは決してないでしょう。そしてキリストがみ父に代わって判決を下されるとき,その裁きの座の前に,何の恐れもなく立つことができるでしょう。(コリント第二 5:10)そのとき,わたしたちは天に宝を豊かに蓄えた者として見ていただくことができますように。
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成功は神に忠実であることにかかっているものみの塔 1979 | 2月15日
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成功は神に忠実であることにかかっている
歴代志略下はソロモン王の統治から筆を起こし,イスラエル十部族の王国については付随的に言及するにとどめて,ユダの王たちの治世の跡をたどり,エルサレムの滅亡と,その地にエホバの神殿の再建を許すクロス王の勅令発布までエルサレムが荒廃したことを述べる記述で終わっています。その記述が繰り返し明白にしているのは,支配者と国民がエホバ神を頼りにした時,彼らの企ては輝かしい成功を見たという事です。しかし彼らの不忠実は神の祝福と保護を失う結果となりました。
王位を確立した後,ソロモンは人々の指令者たち,長たる者,裁き司,父方のかしらを集めてギベオンにある幕屋に行き,犠牲をささげました。こうして若い王はその統治の上にエホバの祝福を願い求めたのです。夜の間に至高の神はソロモンに現われ,望むものを何でも求める機会をソロモンに与えることをされました。王は国民を裁くために必要な知恵と知識を謙そんに求めたのです。このように高潔な願いを表わしたために,ソロモンは知恵に加えて,ダビデやサウルが得たよりも大きな,事実,後の支配者も持つことがないような「富貴と財宝と尊貴」を与えられるであろうと約束されました。(歴代下 1:1-12)これは確かに成就しました。それは次の記述からもうかがい知ることができます。「王 銀と金とを石のごとくエルサレムに多からしめ…たり」― 1:15。
ソロモンの治世の最大の業績に数えられるのは,モリア山上にエホバの神殿を建てたことです。2章から7章までのほとんどにわたって,建立の準備,建物と備品の建設,神殿の献堂がとりあげられています。
再び夜の幻の中でソロモンは献堂の祈りに対するエホバからの答えを与えられました。この答えは次のことを明らかにしています。すなわち王としての彼の支配が引き続き成功を収めるかどうかは,イスラエルが神の律法に忠実に従うことに依存しているという事実です。他方,イスラエルが不忠実ならば,国は滅びることになるでしょう。壮麗な神殿さえもがれきの山に帰するのです。―7:11-22。
8章と9章までで,ソロモンの治世に関する記録は完結します。諸都市を建て,また再建したこと,生き残りのカナン人を強制労働に従事させたこと,神殿における奉仕の取決めを定めたこと,海に関連した彼の事業,注目に値するシバの女王の訪問,ソロモンの富,彼の死,その子レハベアムが王位を継いだことが述べられています。
分裂した王国
老人たちの分別ある助言よりも,世間知らずの若者たちのへつらいの言葉を重んじたレハベアムは,国民の代表者たちに対し,父が課したよりも重いくびきを人々に課することを告げました。ソロモンが治世の晩年にエホバの律法から離れた後,人々はすでに圧制をいやというほど経験していたので,十部族が反逆し,アヒヤを通して語られたエホバの言葉を成就しました。―10:1-19。
反逆した部族を支配下にひき戻そうと,レハベアムは兵を集めますが,預言者シマヤを通して命ぜられたエホバの言葉に従ってその企てを放棄します。離反した諸部族はヤラベアムの支配下に独立の王国を作ります。このヤラベアムは子牛崇拝を制定しました。その結果,ヤラベアムの支配下の町々に住む忠実なレビ人はユダとエルサレムに去りました。―11:1-17。
レハベアムとその国民は神の律法から離れ去り,それゆえにエホバは加護を差し控えられました。シシャク(シションク一世)がユダの地に侵入し,堅固な町を次々と攻略します。しかし不忠実の報いとしてシシャクの手に渡されるであろうとの神の宣告を聞いてレハベアムとつかさたちが身を低くしたので,エホバはエジプトの王がエルサレムを荒廃させることを許しませんでした。とはいえ,町の財宝は奪われました。―12:1-12。
アビヤとアサに対するエホバの助け
レハベアムの死後,その子アビヤが治め始めます。ヤラベアムとアビヤの間に戦いが始まり,ある時,ヤラベアムの伏兵のためにユダ王国の兵士は非常に危うくなりました。しかし彼らがエホバに助けを叫び求めたので,至高者は彼らに勝利を与えることをされました。―12:16–13:20。
同様に,およそ百万を数えるエチオピアとリビアの軍勢に直面した時,アビヤの後継者アサはエホバに助けを求めました。彼は次のように祈ったのです。「ああエホバよ,助けることについては,多くいようが,力のない者たちがいようが,あなたにとっては変わりありません。ああわたしたちの神エホバよ,わたしたちを助けてください。確かにわたしたちはあなたに頼りますし,あなたのみ名によってこの群衆に向かって来たからです。ああエホバよ,あなたはわたしたちの神です。死すべき人間があなたに逆らって力を保つことがありませんように」。エホバはご自身の民に勝利を得させられました。―14:9-15,新; 16:8。
ほめるべきことにアサはエホバの預言者オデデの言葉に従って偶像崇拝の場所を破壊するため,徹底的な行動を起こしました。しかし神の助けを体験したにもかかわらず,アサはその後,イスラエルの王バアシャが自分と戦うのを阻止するため,シリアの王ベネハダデと同盟を結びました。不信仰なこの行為のゆえ,先見者ハナニに叱責されると,アサは怒りました。そしてハナニを獄につなぎ,また国民を虐げ始めました。これはエホバの祝福が王から取り去られる結果になりました。痛風に似た足の病気になったアサはエホバの助けを求めることをせず,いやしを行なう者の助けを求めました。―15:1–16:13。
立派な記録も悪い同盟によって汚点がつく
アサの子エホシャファトは良い王として目立った人であり,したがってエホバの助けと保護を経験します。彼は偶像崇拝を一掃することに努め,エホバの律法を人々に教えることを取り決め,司法制度を改善しました。エホバに依り頼んだゆえに彼はアンモン,モアブ,セイル山の連合軍が同士討ちをするという,エホバの大いなる救いを経験します。しかし愚かにもエホシャファトは偶像崇拝者であるイスラエルのアハブ王との政略結婚を取り決めました。アハブと,バアル崇拝者である王妃イゼベルの娘アタリヤが,エホシャファトの子エホラムの妻となります。これはエホシャファトがアハブ王と共に災厄となった軍事的冒険に巻き込まれる結果となりました。エルサレムに帰るや,エホシャファトには「汝悪き者を助けエホバを悪む者を愛して可らんや」という叱責が待ち受けていました。しかしその後もエホシャファトはアハブの後継者アハジアと組んで造船業を企て,またもやこの点で失敗します。預言どおり,船は難破しました。―17:1–20:37。
ユダの次の王エホラムは妃アタリヤの感化を受け,アハブの家の悪い道に従います。王の地位を堅固にするため,彼は自分の兄弟全部と,一部の君たちを殺害しました。エホバの祝福を得ることなく,彼の統治は失敗に終わり,彼はエドム人とリブナの町の反乱に悩まされます。死ぬ前の二年間,彼は腸の悪疾にとりつかれました。―21:1-20。
エホラムのいちばん下の息子アハジアが王となり,悪政が続きます。彼もまたアタリヤの影響に支配されていたからです。負傷したイスラエルのエホラム王を訪れていた時,アハジアはアハブの家を誅するために行動したエヒウに遭遇して殺されました。アタリヤはその事を知ると王子たちを殺して王位を奪います。しかしアハジアの子ヨアシは祭司エホヤダの妻の手でかくまわれ,後にエホヤダはヨアシを王と宣言させ,アタリヤの処刑を命じました。
エホヤダの指導の下でヨアシは正しく治め,神殿の修繕を取り決めます。しかしエホヤダの死後,ヨアシは真の崇拝から離れ,また自分の不忠実を責めたエホヤダの子ゼカリヤを石打ちにすることさえ命じました。それでエホバは,ユダの王国がシリア人の手にかかって屈辱的な敗北を被るままにさせました。ヨアシは病気になり,遂にはみずからの家来に暗殺されました。―22:1–24:27。
アマジヤの統治からユダの荒廃まで
ヨアシの子アマジヤは順調な出発をしますが,あとで不忠実になります。長年続いた平和的共存は終わり,イスラエル人の二つの王国の間には戦争が始まりました。アマジヤの軍勢は敗北をこうむります。アマジヤが神の律法に従うのをやめた時から,アマジヤに対して謀反が企てられ,やむなくラキシに逃れたところで彼は反逆者の手にかかって最後を遂げました。―25:1-28。
ユダの次の王ウジヤは正しく治め,ユダ王国の敵に対して数多くの勝利を与えられました。しかしその後,彼は不遜な行動に走り,神殿に侵入して祭司のように香をたくことをしました。このせん越な行為のゆえに彼はらい病にとりつかれます。その子ヨタムが代わって王となり,彼はエホバの律法に従ったゆえに栄え,アンモン人に対する勝利を得ます。―26:1–27:9。
しかしヨタムの後継者アハズは悪名高い偶像崇拝者となり,自分の息子(たち)をいけにえにすることさえしました。その結果,エホバはアハズと偶像崇拝者の国民から祝福を取り去ることをされ,ユダ王国には,エドム人,ペリシテ人,イスラエル人,シリア人が侵入します。王の地位を失うことを恐れてアハズはアッシリヤ人に軍事援助を求めますが,この愚かな行為は助けとならず,かえって外敵の圧力を加えただけでした。―28:1-27。
アハズの子ヒゼキヤはその領土から偶像崇拝を除くことを決意して努力を傾け,またアッシリヤ人に背きます。アッシリヤ王セナケリブはユダの地に侵入しますが,エルサレムを攻略することには失敗します。エホバに依り頼んだヒゼキヤは報われました。一人のみ使いが一晩のうちにアッシリヤ軍の精鋭を滅ぼしてしまったからです。―29:1–32:22。
ヒゼキヤの子マナセは偶像崇拝を再興し,恥ずべき圧制の罪を犯しました。しかしバビロンに捕われの身となるに及んで我にかえり,悔い改めます。エホバ神はあわれみを示して,マナセがエルサレムに戻る道を開かれました。それから王は宗教改革に手をそめますが,人々は偶像崇拝に深入りし過ぎており,マナセの努力も真の変化をもたらすには至りませんでした。彼自身の息子アモンでさえ,王位につくと偶像崇拝に逆戻りしました。彼は陰謀者の手にかかって最後を遂げます。―33:1-25。
ユダの最後の良い王であるヨシヤは,偶像崇拝を一掃する運動を始めます。しかし国民を真に悔い改めさせるには,時はすでに遅かったのです。それに重い流血の罪がユダにのしかかっていました。(列王下 24:3,4)悲しむべきことにヨシヤ自身,カルケミシでカルデヤ人と戦うために上って来たエジプト軍をメギドにおいて阻止しようと戦って死にました。最後の四人の王 ― エホアハズ,エホヤキム,エホヤキン,ゼデキヤは悪い王でした。エホバはユダ王国を全く見捨て,ネブカデネザル王の率いるバビロニア人がエルサレムとその壮麗な神殿を破壊するままにされました。生き残った人々も多くは流刑の身となりました。預言者エレミヤによって告げられたエホバの言葉が遂に成就して,クロスは流刑の人々が荒廃した故国に帰る道を開く勅令を発布します。―歴代下 34:1–36:23。
エホバ神への忠実をほかにして真の成功はあり得ないことを,この歴史の記録はなんと力強く示しているのでしょう。預言者ハナニが反逆者のアサ王に告げたように,神への信仰を欠いていることを示す愚かな行為は災いを招くに過ぎません。他方,『エホバは全世界をあまねく見そなはし己にむかひて心を全うする者のために力をあらはしたまう」のです。―歴代下 16:9。
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山上の垂訓 ―「狭い門を通ってはいりなさい」ものみの塔 1979 | 2月15日
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山上の垂訓 ―「狭い門を通ってはいりなさい」
イエスは,ご自分の話を聞いていた人々に,神のご意志を行なう上での助けを熱心に祈り求めるよう励まされた後,次のように言明されました。「狭い門を通ってはいりなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通ってはいって行く者は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道はせばめられており,それを見いだす者は少ないのです」― マタイ 7:13,14。
古代において,門を通り抜ける道は,都市に入るための手段となっていました。聖書では,しばしば個人の送る人生が道や小道になぞらえられています。(箴 4:18,19)神のみ子によれば,「滅び」,つまり神の恵みを失って死に至る道は,『広くて大きなものです』。それは,人々が聖書的な行動の基準に従うよう変化することもなく,望むままに生きることを許します。“安楽な生活を送る”そうした大きな道を選んできた人は『多く』います。
一方,聖書はメシアによる神の王国を,「狭い」門や『せばめられた』道を通って入る都市に
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