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忠実さ ― 人の生きる道ものみの塔 1974 | 12月1日
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忠実さ ― 人の生きる道
「家令に求められるのは,忠実であることです」― コリント第一 4:2。
1,2 (イ)「オールド・フェイスフル」とはなんですか。その名の起こりはなんですか。(ロ)間欠泉の規則性以上に称賛されるものはなんですか。
「オールド・フェイスフル」(古くから忠実)というのは,米国のイエローストーン国立公園に数多くある間欠泉のうちの一つの名前です。この名は,1920年代と30年代に,おおよそ65分ごとに規則的に噴出したことから来ました。その規則性のために,それは観光客を引き寄せる呼び物となりました。
2 人々は,四万㍑ほどの蒸気と熱湯を規則的に30から45㍍の高さに噴き上げる間欠泉の忠実さを嘆賞します。しかしそれだけでなく,他の人から信頼され信用されるような生き方をする人の忠実さに対しても特に賞賛の気持ちを抱きます。商業界においてさえ,責任を委ねられた人に求められるものは忠実さです。米国の海兵隊が,そのモットーとして,「セムパー ファイディーリス」,「常に忠実」ということばを選んでいるのもそうした理由からでしょう。―コリント第一 4:2と比較。
3,4 忠実さの最大の手本はだれですか。そのかたの目的の不変性を表わす象徴としては何を挙げるのが適切ですか。
3 しかし,最高度の忠実性となると,あなたが特に思い浮かべるのはだれでしょうか。それは当然,天と地の「忠実な創造者」なるエホバ神であるはずです。(ペテロ第一 4:19)人間にとっては,間欠泉が忠実さの良い象徴となることがあるかもしれませんが,それは,エホバの示される不変の忠実さを表わすためには貧弱な代物です。間欠泉はみな時の経過とともに不規則になり,やがて無活動になります。エホバにそのようなことはありません。したがって,永続的に運行する太陽や月のほうが,エホバの目的の不変性,またその不動の信頼性と完ぺきな忠信性をより適切に表わすものとなります。―詩 89:36,37; 104:19。
4 人間は,野菜畑を作るにしても,あるいは月に行って戻って来るための計算機を設計するにしても,創造者のみ業に示される安定性を信頼し,確信を抱いて計画や仕事を進めることができます。当然のことながら,人間は,ただそのことばだけでなく,その行なわれる事がらにおいてもこれほどの信頼性を示しておられる忠実な神から,無限に多くの事を学んでゆくこともできます。この忠実な神についてこう記されています。『我らの神に汝ら栄光を帰せよ エホバは磐にましましてそのみわざはまったく その道はみな正し また真実ある[忠実な,新]神にましまして悪しきところ無し ただ正しくして直くいます』― 申命 32:3,4。
5 神の崇拝者たちの間には当然どんな特質が見られるはずですか。神は何を見ておられますか。
5 この「忠実な神」が,ご自分を真に崇拝する人々にその同じ特質を求められるのはもっともなことです。事実,神は,「あらゆる人,特に,忠実な者の」神また救い主であられます。(テモテ第一 4:10)生ける神エホバは,その完全な観察力によって,神に仕えようとする人々の真剣な努力を正確に見分けます。その目は人の子らのすべての道を見ており,人はこの神に対して自分の言い開きをしなければなりません。(エレミヤ 32:19。ヘブライ 4:13)箴言はこう述べます。『エホバの目はいずくにもありて悪しき人と善き人とをかんがみる』― 箴 15:3。
6 したがって,わたしたちはどんなことを自問すべきですか。
6 エホバがご自分の民の福祉を常に見守り,愛のこもった配慮を施されることは明瞭です。この点,つまり,愛ある創造者が善良な者にも善良でない者にも十分に意を留めておられ,それぞれの行なう事を見ておられるという点を認識したなら,人は次のことを自問するのがよいでしょう。『ご自分の民に忠実さを求めておられるエホバは,わたしをそのような崇拝者と見なしてくださるだろうか。わたしの生き方は忠実だろうか。エホバがわたしを是認してくださるとすれば,そのことはどうしたら分かるだろうか』。
忠実で変わることのない規準
7 エホバは人類一般のためにどんな法典もしくは規準を備えておられますか。
7 忠実な神はご自分の崇拝者たちのために善悪,正邪,真偽を定める法典もしくは規準を持っておられると考えるのは,道理にかなったことではありませんか。そうです。それだけでなく,秩序と平和の神は,全人類の教えと導きのために,まさにそうした規準となるもの,聖書を与えてくださいました。人を教え導く本で,聖書ほど世界中に広く頒布され,人類の大多数が読めるようになっている本はほかにありません。―コリント第一 14:33。
8,9 神のことばに忠実に従うことが必ずしも易しくないのはなぜですか。
8 では,聖書の中で是認されているものと比べる場合,あなたの生き方はどうでしょうか。神のことばに示される完全な規準を前にして自分の不完全さに気付くとしても,落胆する必要はありません。詩篇 103篇14節の保証のことばはこう述べています。『エホバは我らのつくられしさまをしり われらの塵なることをおもひ給へばなり』。エホバはわたしたちの受け継いだ不完全性を認めてくださるのです。エホバの要求がわたしたちのなしうる限度を超えることは決してありません。
9 しかし,そうではあっても,忠実な歩みをしっかり保つのは必ずしも易しいことではありません。特に今日では,なんでも自分の目に見て良い事を行ない,世の道に従ってゆくことが普通になっているからです。しかし,試練がどの程度のものであるにせよ,専心的な態度でひたすら忠実の道を追い求めることが勧められます。
10,11 (イ)わたしたちは自分の忠実さを実証するために大きな試練や苦難を必ず経験することが必要ですか。例を挙げて説明しなさい。(ロ)忠実さに関してイエスの述べた原則をわたしたちの日常の生活にどのように当てはめることができますか。それはどのように有益な結果になりますか。
10 一方,自分の忠実さを実証してエホバの祝福と是認を得るために,何か特別に大きな業をすることが常に求められているわけではありません。エデンの園でエホバがアダムとエバに課したのは大きな試みではありませんでした。最初の人間夫婦に関するその試みはしごく単純なものでしたが,それは,それから四千年以上後に神の子によって述べられた次の原則の優れた例証となっています。「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」― ルカ 16:10。
11 今日,このことばが語られてからおよそ1,900年が経過していますが,それには依然として真実の響きがあり,その同じ原則が,エホバ神の真の崇拝者の生活のあらゆる面に当てはまります。あなたも,人が日常行なう小さな事がらの中にこの原則をしばしば観察しておられるはずであり,そうした事がらの中に,エホバに対して忠節で真実な心の持つ善良さが反映されているのを見ておられます。あなた自身としては,見守っている人々が際だった忠実さと呼ぶようなものを示す機会に立たされることはないかもしれません。それでも,いつも変わらぬ態度で正しい事を行ない,小さな事にも規律の正しさと信頼性とを示すなら,それは,あなたが真実さまた忠実さに関する神の規準に対して深い認識を抱いていることのりっぱな証しまた証拠となります。『エホバがまもられる』のは,小さな事がらにおいても忠実な人たちです。―詩 31:23。
12 この忠実さの問題に時間と状況がどのように関係しているかを述べなさい。
12 したがって,忠実な人にエホバの注がれる祝福を受けるために,クリスチャン会衆内で目だった地位に就く必要はありません。仕事の場合でも娯楽の場合でも,また他の人と一緒にいる時でも独りでいる時でも,あなたが自分の日常の活動の中で忠実と忠誠を守るなら,それは,義かつ忠実なる神を反映するものとなります。忍耐を実証する場合と同じように,忠実さを実証するにも時間がかかります。それは一日一日真理を実践し,聖書の律法や原則に従うことを自分の生き方とすることです。一方エホバはそのように生きるあなたを祝福されます。「忠実な人は多くの祝福を得る」と書かれています。―箴 28:20,口。
13,14 (イ)忠実さの程度を何によって判断すべきですか。(ロ)エホバに対する自分の忠実さを評価できる分野としてどんなものがありますか。
13 以前のことを少し振り返ってみてください。あなたのこれまでの生涯に特別に大きな事はまだ起きていないかもしれません。成功や業績に関する世の標準で見る場合,あなたは特別に大きな事をまだ成し遂げていないかもしれません。しかし,あなたはだれの道を見倣おうとしていますか。あなたはだれの定めた規準に達しようとしてきましたか。エホバを喜ばす生涯の記録を築き上げてきたのであれば,忠実な神によってそれがすぐに忘れられることはありません。
14 少し考えてください。他の人々はあなたをどのように見ていますか。同年代の人々や仲間の間であなたはどのような信望を得ていますか。人々は,あなたが自分のことばを堅く守る人であることを見ていますか。あなたは,自分の負っているものを返し,どんな事でも敏速に行動しようとする人としての信望を得ていますか。それは,王国奉仕や崇拝のための集会に定期的であるということかもしれません。これは小さな事に思えるかもしれません。しかし,それによって人々はあなたを忠実な人と見なすようになります。あなたの生活の仕方に他の人々が気付いているのであれば,天におられるあなたの父もそれを見,それに注目しておられないでしょうか。
生来の能力が大きな意味を持つか
15,16 (イ)能力をどのように定義できますか。会衆内の長老を選ぶにあたってそれが多少とも関係しますか。(ロ)長老として任命される人は生来の能力に加えてさらにどんな重要な資格を満たさなければなりませんか。
15 能力とは,物事を成し遂げる力であるとされます。生来の才能が大きな祝福となることは疑いありません。しかし,生来の能力は,神がご自分の民に求めておられる重要なものでしょうか。
16 会衆内の長老を選ぶにあたって,能力が考慮されることは確かです。何かの点で特に能力を持っている人もいます。長老であるために,その人は『教える資格のある』人でなければなりません。(テモテ第一 3:2)しかし,これには生来の能力以上のものが含まれています。資格を備えた会衆内の教え手は正確な知識を持つことが必要です。ある事についてなぜかどうしてかということを理解し,聖書に対する深い見識が求められます。そして,効果的に教える人となるためには,知識があるだけでなく,巧みで,辛抱強く,他の人たちのことに関心を抱いていなければなりません。使徒パウロは,年長者を任命するようにとテトスに指示しましたが,監督となる人は,「自分の教えの術に関して信ずべきことばを堅く守る人でなければならない……それは,健全な教えによって説き勧めることも,また,言い逆らう者を戒めることもできるため」であると述べました。(テトス 1:9)こうした点を十分に認められた人は,自分の生来の能力に頼ろうとせず,むしろ,偉大な教授者である神に,会衆内の他の人々を助けるための導きを仰ぎ求めます。
17 生来の能力や特別な才能を持つ人はどんなことに対して注意しなければなりませんか。
17 会衆内のある種の仕事をするためある程度の能力が求められる場合もあります。しかし,得られた結果は,個人の能力や才能だけに帰せられるものではありません。事実,生来の能力に恵まれている人は,自分の理解に頼らないように注意することが必要です。むしろ,エホバに頼ることを学び,自分の歩みを導いてくださるようにエホバに願い求めるべきです。(箴 3:5,6)観察してみれば大抵分かるとおり,わたしたちの間で長老として奉仕している人,また熱心に働いている他の人は,勤勉な研究と,学んだ事がらを自分に当てはめることによって資格を身に着けています。そうした人たちは,かなりの期間にわたり,自分と自分の教えに細かな注意を払い,自分の耳を神の教えに傾けてきました。そして,神のみ業を神の望まれるとおりに果たすことを自分の願いとしてきました。彼らが自分の時間と能力をエホバに委ね,エホバの崇拝を推し進めるためにさまざまな仕方でそれを用いているさまは称賛に価します。
18 神は長老や奉仕のしもべを会衆内の他の人以上に忠実な人と見なされますか。説明しなさい。
18 では,任命を受けた監督として奉仕している人たちをエホバはどのようにご覧になりますか。その人たちを他の人以上に貴重なものと見なされますか。他の人々以上に忠実であるとされますか。そうではありません。この点でつりあいの取れた見方をするのは良いことです。監督するように選ばれた人は,実際には,奴隷もしくはしもべとして仕えるためそこにいるのです。その人々は,そうした立場にある者として自分の能力や才能を専心的また存分に用い,こうして自分の忠実さを実証しなければなりません。そうした人々がその特権を持っているのは,主としてその人々がだれでどういう人かによるのではありません。むしろ,王国宣布者たちの働きによって生じた必要のゆえにそのそれぞれの地位にあるのです。イエスの忠告どおり,その人たちは会衆内の人々のために仕え,その人々の奴隷となります。(ルカ 22:26。ガラテア 5:13)忠実な監督は,自分たちの働きが,良いたよりを広める仲間の人々と関連を持っていることを認めます。忠実さを示すとき,すべての人が神の目に貴重なのです。
19 では,クリスチャン会衆内の任命された監督に求められるものはなんですか。
19 家令が持つ責任と管理の務めは,クリスチャンの監督が持つ奉仕の務めを例示するものとなっています。厳しく求められるものは忠実さです。使徒パウロはコリントの人々に書き送った際その点を強調しました。こう述べました。「家令に求められるのは,忠実であることです」。(コリント第一 4:2)この同じ使徒はテトスにあててこう書きました。「監督は,神の家令としてとがめのない人であり……人をよくもてなし,善良さを愛し,健全な思いを持ち,義にかない,忠節であり,自制心(のある人でなければならない)」。(テトス 1:7,8)したがって,生来のものにせよ修得したものにせよ,家令として何かの能力を持っているなら,それが神にとって本当に価値あるものとなるためには,堅実な資質としての忠実さが伴っていなければなりません。キリスト・イエスを予表したダビデもこう語りました。「わたしの目は忠実な者たちの上にある。こうして彼らはわたしと共に住むようになる。とがめなく歩んでいる者,その者はわたしに仕える」― 詩 101:6,新。
20 ご自分の是認を与える人々に,エホバが能力ではなく忠実さを求めるのはなぜですか。
20 能力は,賜物としてエホバから受けることのできるものです。例えば,出エジプト記の中には,荒野において美しい幕屋を建設するために働いたある人々にエホバがいかに知恵と理解力と知識を与えたかが記されています。(出エジプト 35:30–36:1参照)しかし,忠実さという問題になると,これは神が人に与えるものではありません。親から相続したり,バプテスマの際に自動的に身に着いたりするものでもありません。それは努力し,培うべきものです。自分の生き方の証しとなるような記録を築き上げるためには時間と努力と忍耐が必要です。自分の仕事を果たしながらそれを発揮し,家令としての務めを忠実に遂行してゆくことは崇拝者自身にかかっています。―ペテロ第一 4:10。
慎みの果たす役割
21 誇ることについて,聖書はどんな助言を与えていますか。
21 自分を正しく評価することに関連して,エホバは次の優れた助言を与えています。「知恵は慎み深い者と共にある」。(箴 11:2)神に対して慎み深い態度で歩んでいる人は,自分の能力や業績がどうあろうと,自分自身のうちにはなんら自慢すべきところのないことを悟っています。何か誇るとすれば,自分の仕える偉大な神について誇るべきです。これは,自分の強さや富について自慢すべきではないと述べて,聖書が人に促している点です。そうです,もし誇るとすれば,愛ある親切と正義とあわれみの神であるエホバを知っているということについて誇るべきです。―エレミヤ 9:23,24。
22,23 (イ)物質上の所有物があるなら,それをどのように見なすべきですか。(ロ)できるすべての事を果たした後でも自分についてどのような見方をすべきですか。(ハ)退屈感やざせつ感を持たないようにするために何が助けになりますか。
22 この世の物資を他の人より多少よけいに持つ人がいるかもしれません。また,他の人に比べて身分が高いように思える人がいるかもしれません。しかし,与えられている教訓はきわめて率直です。すなわち,クリスチャンは自分の所有するものに頼って過度の自信を抱いてはならず,むしろ,恐れとおののきとをもって自分の救いを達成しなければなりません。(ルカ 12:15。フィリピ 2:12)ここに勧められている生き方は,清い崇拝に専心的に携わり,りっぱな業に富むことを意味しています。―テモテ第一 6:17-19。
23 なんらかの才知や能力があるなら,それは自分に託された宝と見なして,神の誉れと栄光のために用いるべきです。それによって人は,エホバへの奉仕における自分の業績のために思い上がるような事から守られます。自分の割り当てられた事を果たした後にすべての人が示すべきりっぱな態度は次のことばの中に示されています。「わたしたちはなんの役にもたたない奴隷です。わたしたちのしたことは,当然すべきことでした」。(ルカ 17:10)目だった立場にいてもいなくても,神の指示のままに仕え,しかも,自らすすんで喜びつつ,また神により頼みつつ仕えることこそ神のみ旨にかなうのです。しかし,たとえ自分のする仕事が単調で変化がないように見えても,ざせつ感を抱いたり,自分は役に立たないなどと思ったりしてはなりません。いつの時でもエホバがご自分のしもべに求めておられるのは,どのような務めを受けようとそのもとで忠実であることです。この点を忘れてはなりません。
24 ローマ 12章16節の助言はエホバに忠実な人々にとってどんな益がありますか。
24 神の道について正確な知識を持つことは,謙遜さを保ち,高ぶった事がらを考えないようにするための助けになります。(ローマ 12:16)それは,自分の行なった事について誇りの気持ちを持たないように人を保護し,優良さや偉大さの源である神に忠実な態度で注意を向けるように人を助けます。もしだれかが目だっているとすれば,それは,真の神に対する忠節な奉仕と,私心のない態度で自分を他の人たちのために与えていることのゆえであるべきです。エホバから恵みを受けるような名を持つこと,忠実であるがゆえの信望を持つこと,それがわたしたちの願うべきところであり,神が是認されるのはそうした生き方です。―伝道 7:1。
エホバのみ前で良い名を得る
25 十二使徒全員が西暦33年のペンテコステ以後,死に至るまでも忠実であったことについてどんな裏付けがありますか。
25 西暦33年ペンテコステ以後の十二使徒の多くについて聖書は特別に述べておらず,ヤコブ,またペテロに関する預言的な陳述を別にすれば,彼らがどのように死んだかについても聖書は記録していません。しかし,いろいろな証拠は,彼らがみな,死に至るまで忠実を保ったことを示しています。わたしたちは,彼らが自分たちの「すべて」を生ける神への神聖な奉仕に用い尽くしたことを確信できます。また,エホバがその一人をも忘れなかったことも確信できます。彼らの忠実さに関する永続的な証しとして,彼らの名は新しいエルサレムの土台に書き込まれています。―啓示 21:14。
26 “古参”の人々は年若い兄弟姉妹たちにどんな励みを与えることができますか。
26 今日のクリスチャン会衆には“古参”とも呼べる人が大ぜいいます。そうした人たちは,多くの障害にもかかわらず,確固とした態度で永年エホバへの忠実を保ってきました。今そうした人々は年老いて体も弱くなり,会衆内での重い責任を受け入れることのできない人も多くいます。しかし,そうした人々が共にいるということ自体なんという祝福ではありませんか。そうした人々の愛と熱心さは,仲間の伝道者にとって,主の業にさらに進んでゆこうという励みになっています。本当に限られた体力しかない人たちもいますが,そうした人たちが自分の体力を蓄えてクリスチャンの集会や野外奉仕に参加しているのを見るのは大きな励みではありませんか。
27,28 (イ)会衆内の姉妹たちはどんな貴重な奉仕をしていますか。(ロ)人体がクリスチャン会衆の良い例えとなることを述べなさい。
27 さらに,会衆内には大ぜいの婦人たちもいます。婦人は長老や奉仕のしもべになりません。しかし,彼女たちも大いに必要とされる存在であり,終わりが来る前に王国の「良いたより」を全世界に宣べ伝える上で大きな働きをしています。詩篇 68篇11,12節が思い出されるでしょう。『主[エホバ,新]みことばを賜ふ そのおとづれ[良いたより,新]をのぶる婦女はおほくして群をなせり……家なる婦女はそのえものをわかつ』。
28 人体のさまざまな器官が果たす機能は多くあります。クリスチャン会衆においても同様であり,さまざまな人が果たすいろいろな務めがあります。だれも,自分は必要でないと考えるべきではなく,また,「あなたは必要でない」などと他の人に言ってはなりません。会衆の取決め全体が,円熟したクリスチャンを生み出して神の栄光を表わすことに役だっています。―コリント第一 12:4-7,21,22。
29 会衆全体が平和と一致のうちに共に働くときどんな事が成し遂げられますか。説明しなさい。
29 みことばを宣べ伝えるという使命を,老若にかかわらずすべての人が共に勤勉に果たすことによって大きな結果が生み出されています。聖書研究の手引きを読むように勧めることによって,あなたはだれかの関心を呼び覚ますかもしれません。しばらくしてだれかほかの人がその関心の種に水を注ぎます。さらに別の人が時おりその世話をし,神がそれを成長させてゆかれます。(コリント第一 3:6)後に,時には幾年もしてから,あなたは大会でその人に紹介されるかもしれません。今その人は,あなたの霊的な兄弟もしくは姉妹となっているのです。それゆえ,わたしたちの伝道の結果を見るのに時間がかかるとしても,そのゆえに語ることをやめてはなりません。会う人ごとに,エホバへの愛にあふれた心で語るべきです。(ローマ 10:10)また,純粋なクリスチャンとしての行状を示すことによっても,友人や隣人を,わたしたちの神エホバについての音信に引き寄せることができます。―ペテロ第二 3:11,12。
30 ハルマゲドンの門口に立つ私たちはどんな決意をすべきですか。
30 この「終わりの日」に,非常に多くの人が義の道と神への奉仕に身を転じ,自分の命を神に献げて神のご意志を行なおうとしていることには驚嘆すべきものがあります。やがてそうした人たちも,エホバへの愛を培うようさらに他の人々を助けるのです。地のあらゆる場所で進められているこの取入れの業の一端にあずかり,ごく小さな部分にせよその業に加わることには大きな喜びがあります。ハルマゲドンの門口に立ち,その後に続く比類のない祝福を望み見る今は,何かを惜しむかのごとくに後ろを振り返る時ではありません。今は,忠実な者としての信望をしっかりと築く時です。専心的に神を崇拝することを決意した人々に求められているのはそのことだからです。
31 物質上の富より慕わしいものはなんですか。それをどうしたら得ることができますか。
31 人がどれほどの富を蓄積しようとも,命の授与者である創造者のみ前で得る名声と信望には比較になりません。「良い名は大きな富よりも慕わしい」。(箴 22:1,新英語聖書)聖書の示す規準を助けとして正邪を判断しつつ,わたしたちは,神の是認される生き方,すなわち忠実を追い求める生き方を,勤勉な態度で続けてゆくことができますように。
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忠実さによって生き続けなさいものみの塔 1974 | 12月1日
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忠実さによって生き続けなさい
「しかし,義なる者は,その忠実さによって生き続ける」― ハバクク 2:4,新。
1 神の組織内にいる人には何が期待されますか。神はその人々に何を備えますか。
忠実な神エホバは,義を愛するすべての人に対して,ご自分の組織内での場所を与えておられます。言うまでもなく,エホバのこうした慈しみ深い招きを受け入れる人々は,それに伴って多くの仕事をなすべきことをも見いだしています。さまざまな割当てを果たさねばなりません。しかし,だれにせよ,そうした割当てを受け入れる際には,その責任とそれに伴う仕事を果たそうとする人を助ける神の力を軽く見てはなりません。そして,必要に応じて,神は指示や懲らしめや訓練をも与えてくださるのです。―フィリピ 4:13。コリント第一 12:18。
2 忠実さは何と密接に結び付いていますか。そのことから,エホバに仕える人には何が求められますか。
2 これは何を示していますか。エホバご自身の忠実さ,および,是認を与えるすべての者にエホバがあくまでも忠実を求められることを示しています。忠実さは,神の王国の魅力的な特色の一つである神の義と密接に結び付いています。(マタイ 6:33)したがって,その王国を求め,それを自分の生活で第一にする人は,エホバの義の規準と一致した生活をすることが必要です。そうした人々は,義にそわない自分の過去の人格を捨て,「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造され(る)」新しい人格を着けなければなりません。ついで,その行状によって,自分たちの聖なる神エホバの義を反映してゆくのです。―エフェソス 4:23,24。コロサイ 3:5-14。
3 忠実で信頼できる人と忠実でない人とはどのような点で対照的ですか。
3 神の取決めのもとで生きる人の生活においては,ある程度の期間をかけて必要な変化がなされてゆきます。その人は正確な知識の点で成長し続け,やがて,「人間のたばかりや誤らせようとたくらむ巧妙さによって,波によるように振りまわされたり,あらゆる教えの風にあちこちと運ばれたりすること」のない状態にならなければなりません。つまり,古い歌の文句で言えば,「風や波のように定まりない」状態から離れねばなりません。そして,「堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ち」,どんな割当てのもとでも信頼できる忠実な人とならなければなりません。―エフェソス 4:14。コリント第一 15:58。
4 忠実さはどのような形で示されますか。
4 そうした,確固としたエホバの崇拝者は,自分たちの神が定めた安全な境界の中で生きることの大切さを認識しています。それは単に,正しい生き方を知っているかどうかの問題ではなく,神の善良にして受け入れられる完全なご意志を実際に行ない,神の律法またその義の規準に従って忠実に生きるかどうかの問題です。―ヤコブ 4:17。
神はご自分の民を忠実に見守って世話される
5 エホバがご自分の民を見守っておられるというどんな保証が聖書の中にありますか。
5 忠実な神エホバは,ご自分に献身している人々を顧み,その人々の世話をされます。これはわたしたちが信頼すべき点です。エホバは,『人の子ら』を,『悪しき人も善き人も』すべて見ておられますが,『エホバの目は[特に]ただしき者をかへりみ その耳はかれらのさけびに傾いて』います。(詩 11:4。箴 15:3。詩 34:15)この点の確証として,ダビデ王はさらにこう書きました。『われむかし年わかくして今おいたれど 義しき者のすてられ あるはそのすえの糧こひありくを見しことなし』― 詩 37:25。
6,7 (イ)エホバが昔の人々の忠実さを見ておられた証拠をどこに見いだせますか。(ロ)これら昔の忠実な人々の際だった特質としてどんな点がありますか。
6 エホバはご自分に忠実な人々に目を留めておられますが,そのことの過去の証拠として,そうした人々の名を挙げておられます。一例として,ヘブライ 11章には,そうした人々の名が幾つか列挙されています。それは要約された記述ながら,それら義人が忠実を実証するために経験した幾つかの事を生き生きと描いています。彼らはエホバが自分の助け主であることを知っていました。他の者が何を言い何を行なおうと,それは彼らをおじ恐れさせたり,エホバに忠実に仕えるのをやめさせたりするものとはなりませんでした。彼らはあらゆる試練や迫害に耐え,「世は彼らに値し(ません)」でした。しかし,彼らは神の目から見て,また神の記憶の中で極めて貴重な存在であり,彼らが望みを置いた復活によって余すところなく報いを受けます。―ヘブライ 11:38。
7 彼らは,神のみ前での義なる立場を得,良い記録を築くことを目ざして励みました。これら昔の証人たちが発揮した際だった特質の一つは,その精力的な活力,正しい事がらに対するその熱心さです。また,これら昔の人々が神への奉仕に示した信仰と忠節と愛も人の心をとらえます。彼らは,神の定めた生き方として自分たちの知るものを堅く守りました。これら昔の信仰の人々に関する記録が今日まで保存されたのはわたしたちの励みのためです。―ローマ 15:4。コリント第一 10:11。
8 信仰によって生きた昔の人々の例としてさらにだれを挙げることができますか。
8 エホバを喜ばせるような生き方をした昔の別の手本として,ゼカリヤとその妻エリサベツがいます。使徒パウロの仲間であったルカはこの二人についてこう記しています。「ふたりはともに,エホバのすべてのおきてと法的な要求に従ってとがめなく歩んでおり,そのゆえに,神のみまえにあって義なる者であった」。そのために,やがて彼らは祈りを聞かれ,ゼカリヤとその妻は,メシアの先駆者であるバプテストのヨハネの親となりました。―ルカ 1:5-13。
9 (イ)聖書の中に名を挙げられている忠実なやもめとしてどんな人々がいますか。(ロ)マルコ 12章41-44節の記述から,忠実に関するどんな教訓を学べますか。
9 注目すべき信仰を示した人として聖書の中に名を挙げられているやもめたちもいます。ナオミ,ルツ,アビガイル,女預言者アンナなどはその例です。さらに,崇拝者たちが神殿の納金箱にお金を入れる様を見ていたイエスは,名の明かされていない一人のやもめに弟子たちの注意を促しました。こう言われました。「あなたがたに真実に言いますが,この貧しいやもめは,納金箱にお金を入れているあの人たち全部よりたくさん入れたのです。彼らはみな自分の余っている中から入れましたが,彼女は,その乏しい中から,自分の持つもの全部,その暮らしのもとをそっくり入れたからです」。(マルコ 12:41-44)わたしたちはこのやもめの名を知りません。しかし,彼女のことは好意的な態度で記され,そのわずかな寄付は,真の崇拝を忠実に擁護するという点でわたしたちの教訓となっています。寄付額の多少は,与える人の寛大さを必ずしも的確に表わすものではありません。このやもめはエホバに対する自分の愛を示そうとし,それを彼女なりの慎み深い仕方で行ないました。
10 (イ)聖書は昔の神の忠実なしもべたちすべての名を記録し,その行ないを列挙していますか。(ロ)このことから何を学べますか。
10 エホバへの忠実を実証したすべての人についてその名や行ないが聖書の記録の中に保存されているわけではありません。これは,エホバがそうした人々の生涯の歩みを見落としたとか,その忠実な行ないが神に忘れられたという意味ですか。決してそのようなことはありません。エホバは,そうした人々が語り,行なったすべての事を知っておられます。至高の神に対するその崇拝において忠誠を実証した忠実な人々は,一人としてとこしえの神に忘れられてはいません。そうした人々もまた「大ぜいの,雲のような証人たち」の一部であり,その忠実さのゆえに新秩序での命をもって報われます。(ヘブライ 12:1)彼らもわたしたちの見倣うべき優れた手本です。どのような点でですか。わたしたちの行なう事は『人を喜ばせようとする目先だけの奉仕』であってはならず,人間のほめことばやほうびを目ざすものであってはならない,という点です。―エフェソス 6:6。コロサイ 3:22。マタイ 6:1-4と比較。
11,12 エホバが,エリヤの時代に,ご自分に忠実なすべての人について十分に知っておられたことを示すどんな証拠がありますか。
11 こうした無名の証人たちは西暦前十世紀にもいました。それは,イスラエルの国の中でエホバの崇拝を追い求めている人々を,エホバの目がつぶさに見きわめている時代でした。当時,邪悪なアハブとその妻イゼベルがその国の中でバアル崇拝を推し進めており,預言者エリヤは身の安全のために彼らのもとから逃げねばなりませんでした。ほら穴に身を隠した彼は,全イスラエルで自分だけがエホバの崇拝者であり,エホバへの奉仕にただ独り今なお熱心な者であると感じていることを言い表わしました。しかし,エホバはこの点で彼の考えを正し,その国民の間で何が起きているかを知っておられることを示されました。偽りの崇拝を容認しなかった忠実な人々は,この預言者のほかにも大ぜいいたのです。―列王上 19:1-10,18。
12 善良な者とそうでない者とを見きわめておられたエホバは,バアルに対してひざを屈めず,その忌むべき神に口づけしない者が,預言者エリヤのほかにも多く,事実7,000人もいることを彼に告げました。崇敬の行為として偶像の前にひざまずき,それに口づけすることは,エホバによって厳重に禁じられていました。(列王上 19:14。出エジプト 20:4,5)ここにも示されるとおり,長々と名が挙げられていなくても,神はそうした人々を皆知っておられたのです。これら幾千もの人々,それは邪悪なイゼベルに殺される危険に遭いながらも真の崇拝を堅く守り,偽りのバアル崇拝によって汚されることを避けて義にかなった者であることを実証した人々です。
13 名を記されていないイスラエル人の一少女はエホバに対する忠実さをどのように実証しましたか。
13 こうした出来事から幾年もたたないころに,シリア人の略奪隊の手でとりこにされた『ひとりの少女』がいました。わたしたちはその少女の名を知りません。しかしエホバは知っておられ,その忠実な行ないのゆえに彼女に対して必ず報いをお与えになります。異国の地に捕われとなり,奴隷となっていたにもかかわらず,彼女は,シリアの軍隊の長ナアマンの妻に,自分の神エホバが預言者を通して示した偉大な力について証しするのをためらいませんでした。―列王下 5:1-4。
14 使徒パウロのおいは忠実さの点でどのように試みられましたか。
14 使徒パウロの姉妹の息子も名を記されてはいません。しかし,その若者は,40人以上の男によって自分のおじパウロを殺す陰謀が組まれていることを,パウロに,ついで軍司令官に伝えました。忠実な若者のこの機敏な行動によって待ち伏せは失敗に終わりました。確かにエホバは,自分個人の益よりも神の民の益を先にするこうした若者たちを愛しておられます。自分に委ねられた王国の事がらを忠実に守るという点で,今日の若者に対する優れた手本ではありませんか。―使徒 23:12-22。
15 これら聖書の記述は今日のわたしたちに特にどんな益を与えますか。
15 聖書を読んで,忠実に生きた古代の人々の例を知ることはわたしたちの励みになります。そうした記録を調べると,エホバがご自分のしもべを見守り,愛と必要な世話とを与えておられたことが分かるからです。ついでこれは,常に生きておられるこの同じ神に忠実に仕えたいとの願いを,現代の証人たちの心に抱かせます。
自分の力を忠実に用いる
16,17 (イ)古代の「大ぜいの,雲のような証人たち」に対応するものとして,今日の地上にはどんな人々がいますか。(ロ)それらの人は忠実さによって「生き続け」ていることをどのように示していますか。
16 今日,あらゆる国から来た人々の「大群衆」が,主の兄弟たちの『残れる者』に加わって,イエス・キリストの予告した,王国の「良いたより」を宣べ伝える業に携わっています。(啓示 7:9。マタイ 24:14)彼らは,自分が今知る良い事がらを他の人々に分かつ業に大きな幸福があることを学び知っています。(使徒 20:35)この「群衆」は今では幾十万を数えますが,自分たちが何か奇跡的な能力を持っているとは唱えません。ただ,自分の心と思いと魂をこめてエホバに仕えたいとの誠実な願いを抱いているのです。こうして,たとえわずかでも自分の持つ力をもって王国の関心事を推し進めることを決意しています。
17 ハルマゲドンのぼっ発と,その後に続く比類のない祝福を間近にしたこれら現代のエホバの証人は,今が抵抗の少ない道を追い求めるべき時でないことを悟っています。むしろ,今は全時代中最も重大な時であり,自分の時間,限られたものであるにせよ自分の力,また自分の生来の能力を,神への奉仕に存分に用いるべき時代です。彼らは,霊の奇跡的な賜物が第一世紀の使徒たちと共に過ぎ去ったことを知っています。したがって,これら新しい人々が急速な進歩を遂げ,自分の前に置かれた仕事に対する十分な備えを身に着けるのは,ただ勤勉な研究と学んだ事の適用,またエホバが備えてくださる教育のためのすべての取決めを活用することによります。彼らはこのことをも熱心に行なっています。―テモテ第二 3:16,17。
18,19 (イ)古代のヒゼキヤ王と同じような精神を持つ人々をどこに見いだせますか。(ロ)例を挙げなさい。
18 3万2,000を超えるエホバの証人の会衆のどれを訪ねても,古代のヒゼキヤ王と同じ精神を持つ人々の,今日の生きた例を見いだせます。ヒゼキヤ王について,歴代志略下 31章21節はこう記しています。『その神を求めしわざはことごとく心をつくして行ひてこれを成しとげたり』。一例として,ある会衆には,90歳になる開拓者の兄弟の忠実な忍耐を見る喜びがありました。その兄弟は野外の監督としても奉仕し,集会にいつも出席していました。王国の良いたよりを他の人に告げる業に58年を献げてきたこの兄弟は,自分の働きの結果を見てどんなにか幸福に感じたことでしょう。彼自身の「推薦の手紙」となる人々の幾人かが,彼と共に同じ会衆で奉仕していたのです。―コリント第二 3:1-3。
19 王国会館での集まりに定期的に出席するなら,やがてあなたも,命の糸すじにしっかりつかまり,自分の生涯のたそがれ時を,偉大な創造者を賛美し,人々を助けて創造者の名と目的を知らせることのために用いているそうした人たちの幾人かをじかに知るようになるでしょう。それは,一日一日を忠実に生き抜き,死に至るまでも自分のわずかな体力を他の人のために与え続けている人たちです。(啓示 2:10)あるエホバの証人は,自分が年老いて病気がちになっていることに対する自分の気持ちを述べ,少し忘れ易くなって,年若い証人たちに付いてゆくのが難しいという嘆きをもらしました。しかし,そうした人たちは,自分が,若い人たちに対して,依然信仰と忍耐の手本となっていることを知って慰めを受けるでしょう。使徒パウロと同じように,そうした人たちも,「わたしがキリストに見ならう者であるように,わたしに見ならう者となりなさい」と言うことができます。―コリント第一 11:1。
20 エホバへの忠実さを実証するにあたって証人たちが打ち勝たねばならない問題としてほかにどんなものがありますか。
20 エホバへの忠実の道を追い求めつつ,老齢による体力の衰え以外の他のさまざまな障害を克服しなければならない証人たちも多くいます。ある人々は視力を失いました。聴力に問題の生じた人もいます。また,ある人々は手足に大きな障害があります。しかし,そうした人たちも,自分の力をエホバへの奉仕に忠実に用い,「賛美の犠牲」,すなわち,「そのみ名を公に宣明するくちびるの実」を神にささげています。―ヘブライ 13:15。
21 昔と同じどんな旅行方法がエホバの忠実な証人たちによって今なお広く用いられていますか。
21 忘れてならないのは,幾年もの間戸口から戸口の証しの業に携わり,しかもそれを,特別の輸送手段の助けなしで行なっている多くの証人たちのことです。年取った忠実な伝道者の中には,そうした野外奉仕のために自分がどれほど歩いたかを推計できる人もいます。地球の一周あるいはそれ以上の距離を歩いた人もいるのです。そうした人たちの場合,聖書の次のことばはいかにも適切です。「良い事がらについての良いたよりを宣明する者の足はなんと麗しいのだろう」― ローマ 10:15。
神の支配権を正しく認識して生き続けなさい
22 こうした記録について考えると,どんなことに心を打たれますか。
22 エホバの忠実なしもべたちの生涯の記録を振り返るとき,昔も今も,そうした忠実な男女が神の主権について深い認識を持ち,それを擁護するためには自分の命をさえ惜しまなかった,という点に心を打たれます。これは次のことを示しています。つまり,生き続けることをエホバが望まれるのは,エホバとその義の資質に対する愛のゆえにエホバに仕える人々です。そうした人々は何よりもまずエホバを愛します。(マタイ 22:37,38)多くの事を耐え忍んできた人々は,他の何にも勝って神の支配を望んでいることを正直に証しできます。ある証人はそのことをこう言い表わしました。「わたしは,これまでの年月自分がエホバに奉仕できたことを感謝しています。苦しい時も多くあったとはいえ,その一瞬といえども後悔することはありません」。
23 エホバの主権を正しく認識するエホバの証人たちはこの世の政治支配者に対してどんな態度を取りますか。
23 正しくて真実で善良な事がらのために闘う人々は,至高の立法者を常に仰ぎ見,自分の日ごとの生活に当てはめるべきものとして,その律法や原則を常にはっきりと見定めます。ご自分の崇拝者たちのためにエホバが設けておられる取決めの中以外に,彼らがとどまることを願う場所はありません。(詩 84:10)彼らは,家から家に人々を訪ねて,神の王国が来ることと,義に基づく神のご意志が地上でなされることを祈り求め,その完全な政府のもとで永久に生きることを願う人々を探し出す業にいつもさわやかなものを見いだしています。(マタイ 6:9,10。ヨハネ 17:3)彼らが,地上の政治家たちの約束に満足したり,人間の王を立てようとしたりすることはありません。(サムエル前 8:1-9と比較)これらの人々は,その献身の時に,エホバの主権を擁護することを決意しました。それ以後は,その優先する選択を中心としてすべての事を決定するように努めているのです。
24 (イ)世の人々は証人たちに対して時にどんな見方をしますか。(ロ)しかし,どのようにしてのみ,証人たちは神の前で全く汚れない良心を保てますか。
24 それら,エホバに献身した証人たちは,自分が,偉大な立法者また審判者である,宇宙の最高のかたに対して責任を持っていることを知っています。そのゆえに,彼らはこの世代の邪悪な人々の間できわめて注意深く行動しなければなりません。(ヤコブ 4:12)聖書の原則に対する彼らの確固たる態度を見て多少の当惑を表わす人もいますが,そのゆえに義の道から離れたり,ただ便宜のために神の律法を破り,もしくはそれを曲げたりする必要があるでしょうか。(ペテロ第一 4:3-5)すべての物を創造したかたが,その民となる人々の生活の中で第一の地位を占めるべきことは当然です。また,そのかたが崇拝と絶対の従順を受けるべきことも当然です。自分のすべての道またすべての考えにおいて主権者なる主に目を向けることは,神の前で全く汚れない良心をもって行動するための助けとなります。―箴 3:5。使徒 23:1。
25,26 (イ)わたしたちは時の流れの中でどんな所にいますか。これは何を求めますか。(ロ)それに答え,ヨハネ第一 5章3節にしたがってどんな事がなされていますか。
25 今日,正しい心で神の支配権を認識する人々は,奉仕を促す神の呼び声に答え応じるはずです。宣べ伝え,教えることを目的とする神の組織は絶えず拡大しており,そこでは,自ら進んで働く人々がさらに多く求められています。全歴史上最大の出来事がこれほど近づいている今,義を愛するすべての人は勇気をもって行動すべきです。どのような歩みをするかは,永遠の命の見込みを左右するからです。―ペテロ第二 3:11-14。
26 あらゆる身分,またあらゆる経験や背景を持つ幾万もの人々が,毎年新たに真理の正確な知識を得,自分の生活を神の律法や定めに合わせています。もとよりこれは大きな変化を意味しています。古い習慣を捨てて,新たな習慣を身に着けるのです。それは,指示と訓練と教育を受け入れることでもあります。それはまた,エホバを愛し,エホバに従うことを学ぶことでもあります。それは難しいことですか。使徒ヨハネはこう語りました。『そのおきてを守ること,これがすなわち神への愛です。でも,そのおきては重荷ではありません』― ヨハネ第一 5:3。
忠実を守って生き続けなさい
27 エホバの是認を受けるに必要なものは信仰だけですか。
27 「わたしの義人は信仰のゆえに生きる」。これはヘブライ 10章38節にあるきっぱりとしたことばです。ついでその信仰の上に,他のものを,つまり,徳,知識,自制,忍耐,敬神の専念,兄弟の愛情,愛などを加えてゆかねばならないことを聖書は示しています。(ペテロ第二 1:5-7)そして,生きることを本当に楽しもうと思うなら,なんであれ自分の持つ生来の能力を神への神聖な奉仕に活用することも大切です。
28 会衆内でなされている任命を見て,各自は何を自問すべきですか。
28 こうした事に励んだ忠実な人々の幾人かは会衆の中で教える者として任命され,また,『神の羊の群れを牧する者』として重い責任を持っています。これら資格ある教え手の働きは,他の人々が信仰および正確な知識における一致に達するように助ける上で必要です。(ペテロ第一 5:2。テモテ第二 2:2。エフェソス 4:11-13)会衆内の円熟した男子が,監督として仕えるというこの付け加えられた特権をとらえようと努めるのは,聖書から見て正しいことです。それは「りっぱな仕事」です。自分が進歩しているかどうかを自ら吟味するのは良いことです。『会衆の中でいっそう有用な者となり,こうしてよりいっそう神の栄光となるような生き方をするために,自分の能力や隠れた力をさらに伸ばすことができるだろうか』と自問してください。―テモテ第一 3:1-13。
29 わたしたちは自分がそれぞれに持つ命を大切にしていることをどのように示せますか。それはどんな結果をもたらしますか。
29 自分が忠実な者と見なされたことを知るのは満足なことでしょう。それゆえわたしたちは,自分の持つ命を大切にしてそれを賢明に用い,神の誉れまた賛美となる義の実を日ごとに結んでゆきましょう。命の道に古くても新しくても,わたしたちは皆,自分とエホバ神との関係をいかなるものにも阻ませないことを決意しましょう。そうすれば,神の破れることのない愛が,厳しい試練のもとでも忠実の道を歩み続けるようわたしたちを支えます。(ローマ 8:38,39)一切の事を神の栄光のためにするなら,境界を踏み越えたり,永遠の命に至る明確な道からそれたりするようなことを避けられます。
30 どうすればわたしたちもエホバの心を喜ばせることに加われますか。
30 わたしたちの忠実な神に対する忠誠を守り,神の敵対者である悪魔を含め,いかなる者もこの道からわたしたちを離しえないことを実証すること,これが常にわたしたちの主要な願いでありますように。こうしてわたしたちは,エホバの心を喜ばせることができます。―箴 27:11。
[728ページの図版]
捕われ人となったイスラエル人の一少女は,真の神の預言者エリシャについてナアマンの妻に話すことによって,エホバに対する忠実さを示した
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真のクリスチャンの一致した集合体がありますかものみの塔 1974 | 12月1日
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真のクリスチャンの一致した集合体がありますか
真のクリスチャンというとだれもが,品性のすぐれた,善良な性格の人であることを期待します。それはまちがいではありません。しかしクリスチャンというのは,ただそれだけのものではありません。
クリスチャンだと言わない人々の中にも,りっぱな品性の,好感のもてる性格の人はいます。ではどこが違うのでしょうか。
クリスチャンには,そうしたことに加えて,イエス・キリストと同じく,聖書の神の真の崇拝を促進したいという強い願いがなければなりません。その方面に熱意を持ち,活動的であることが必要です。
しかし,仮にこの事実を理解しているとしても,今の時代の真のクリスチャンは実際にだれなのか確認しようとすると,混乱してくるかもしれません。それどころか,真のクリスチャンなんているのだろうか,と思うかもしれません。というのは,キリスト教世界の信心深い人々の間には,考えや行動の一致がほとんど見られないからです。道徳上の問題や社会問題についてもそうですし,神の崇拝となると,とくにそうです。神と神の目的について,また真の崇拝を行なって神を喜ばすなら天と地のいずれかにおいて永遠の命を得る機会があるということについて説明する努力はほとんど払われていません。
一致した考えと努力は不可欠
聖書に記されているとおりに神の崇拝に献身し,しかも全員一致してそれを行ない,他の人々にもそれをさせるように積極的に努力する人たちの集団は,当然存在すべきものなのでしょうか。そして現実に存在するのでしょうか。
使徒パウロが1世紀のコリント人に与えた訓戒によると,それは存在してしかるべきです。彼は高い道徳やクリスチャンの人格について多くのことを書きましたが,こういうことも言いました。「ただ,キリストについての良いたよりにふさわしく行動しなさい。わたしが行ってあなたがたに会うにしても,あるいは離れているにしても,あなたがたについてこのことを聞けるようにです。すなわち,あなたがたが一つの霊のうちにしっかり
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