-
忠実さによって生き続けなさいものみの塔 1974 | 12月1日
-
-
としてすべての事を決定するように努めているのです。
24 (イ)世の人々は証人たちに対して時にどんな見方をしますか。(ロ)しかし,どのようにしてのみ,証人たちは神の前で全く汚れない良心を保てますか。
24 それら,エホバに献身した証人たちは,自分が,偉大な立法者また審判者である,宇宙の最高のかたに対して責任を持っていることを知っています。そのゆえに,彼らはこの世代の邪悪な人々の間できわめて注意深く行動しなければなりません。(ヤコブ 4:12)聖書の原則に対する彼らの確固たる態度を見て多少の当惑を表わす人もいますが,そのゆえに義の道から離れたり,ただ便宜のために神の律法を破り,もしくはそれを曲げたりする必要があるでしょうか。(ペテロ第一 4:3-5)すべての物を創造したかたが,その民となる人々の生活の中で第一の地位を占めるべきことは当然です。また,そのかたが崇拝と絶対の従順を受けるべきことも当然です。自分のすべての道またすべての考えにおいて主権者なる主に目を向けることは,神の前で全く汚れない良心をもって行動するための助けとなります。―箴 3:5。使徒 23:1。
25,26 (イ)わたしたちは時の流れの中でどんな所にいますか。これは何を求めますか。(ロ)それに答え,ヨハネ第一 5章3節にしたがってどんな事がなされていますか。
25 今日,正しい心で神の支配権を認識する人々は,奉仕を促す神の呼び声に答え応じるはずです。宣べ伝え,教えることを目的とする神の組織は絶えず拡大しており,そこでは,自ら進んで働く人々がさらに多く求められています。全歴史上最大の出来事がこれほど近づいている今,義を愛するすべての人は勇気をもって行動すべきです。どのような歩みをするかは,永遠の命の見込みを左右するからです。―ペテロ第二 3:11-14。
26 あらゆる身分,またあらゆる経験や背景を持つ幾万もの人々が,毎年新たに真理の正確な知識を得,自分の生活を神の律法や定めに合わせています。もとよりこれは大きな変化を意味しています。古い習慣を捨てて,新たな習慣を身に着けるのです。それは,指示と訓練と教育を受け入れることでもあります。それはまた,エホバを愛し,エホバに従うことを学ぶことでもあります。それは難しいことですか。使徒ヨハネはこう語りました。『そのおきてを守ること,これがすなわち神への愛です。でも,そのおきては重荷ではありません』― ヨハネ第一 5:3。
忠実を守って生き続けなさい
27 エホバの是認を受けるに必要なものは信仰だけですか。
27 「わたしの義人は信仰のゆえに生きる」。これはヘブライ 10章38節にあるきっぱりとしたことばです。ついでその信仰の上に,他のものを,つまり,徳,知識,自制,忍耐,敬神の専念,兄弟の愛情,愛などを加えてゆかねばならないことを聖書は示しています。(ペテロ第二 1:5-7)そして,生きることを本当に楽しもうと思うなら,なんであれ自分の持つ生来の能力を神への神聖な奉仕に活用することも大切です。
28 会衆内でなされている任命を見て,各自は何を自問すべきですか。
28 こうした事に励んだ忠実な人々の幾人かは会衆の中で教える者として任命され,また,『神の羊の群れを牧する者』として重い責任を持っています。これら資格ある教え手の働きは,他の人々が信仰および正確な知識における一致に達するように助ける上で必要です。(ペテロ第一 5:2。テモテ第二 2:2。エフェソス 4:11-13)会衆内の円熟した男子が,監督として仕えるというこの付け加えられた特権をとらえようと努めるのは,聖書から見て正しいことです。それは「りっぱな仕事」です。自分が進歩しているかどうかを自ら吟味するのは良いことです。『会衆の中でいっそう有用な者となり,こうしてよりいっそう神の栄光となるような生き方をするために,自分の能力や隠れた力をさらに伸ばすことができるだろうか』と自問してください。―テモテ第一 3:1-13。
29 わたしたちは自分がそれぞれに持つ命を大切にしていることをどのように示せますか。それはどんな結果をもたらしますか。
29 自分が忠実な者と見なされたことを知るのは満足なことでしょう。それゆえわたしたちは,自分の持つ命を大切にしてそれを賢明に用い,神の誉れまた賛美となる義の実を日ごとに結んでゆきましょう。命の道に古くても新しくても,わたしたちは皆,自分とエホバ神との関係をいかなるものにも阻ませないことを決意しましょう。そうすれば,神の破れることのない愛が,厳しい試練のもとでも忠実の道を歩み続けるようわたしたちを支えます。(ローマ 8:38,39)一切の事を神の栄光のためにするなら,境界を踏み越えたり,永遠の命に至る明確な道からそれたりするようなことを避けられます。
30 どうすればわたしたちもエホバの心を喜ばせることに加われますか。
30 わたしたちの忠実な神に対する忠誠を守り,神の敵対者である悪魔を含め,いかなる者もこの道からわたしたちを離しえないことを実証すること,これが常にわたしたちの主要な願いでありますように。こうしてわたしたちは,エホバの心を喜ばせることができます。―箴 27:11。
-
-
真のクリスチャンの一致した集合体がありますかものみの塔 1974 | 12月1日
-
-
真のクリスチャンの一致した集合体がありますか
真のクリスチャンというとだれもが,品性のすぐれた,善良な性格の人であることを期待します。それはまちがいではありません。しかしクリスチャンというのは,ただそれだけのものではありません。
クリスチャンだと言わない人々の中にも,りっぱな品性の,好感のもてる性格の人はいます。ではどこが違うのでしょうか。
クリスチャンには,そうしたことに加えて,イエス・キリストと同じく,聖書の神の真の崇拝を促進したいという強い願いがなければなりません。その方面に熱意を持ち,活動的であることが必要です。
しかし,仮にこの事実を理解しているとしても,今の時代の真のクリスチャンは実際にだれなのか確認しようとすると,混乱してくるかもしれません。それどころか,真のクリスチャンなんているのだろうか,と思うかもしれません。というのは,キリスト教世界の信心深い人々の間には,考えや行動の一致がほとんど見られないからです。道徳上の問題や社会問題についてもそうですし,神の崇拝となると,とくにそうです。神と神の目的について,また真の崇拝を行なって神を喜ばすなら天と地のいずれかにおいて永遠の命を得る機会があるということについて説明する努力はほとんど払われていません。
一致した考えと努力は不可欠
聖書に記されているとおりに神の崇拝に献身し,しかも全員一致してそれを行ない,他の人々にもそれをさせるように積極的に努力する人たちの集団は,当然存在すべきものなのでしょうか。そして現実に存在するのでしょうか。
使徒パウロが1世紀のコリント人に与えた訓戒によると,それは存在してしかるべきです。彼は高い道徳やクリスチャンの人格について多くのことを書きましたが,こういうことも言いました。「ただ,キリストについての良いたよりにふさわしく行動しなさい。わたしが行ってあなたがたに会うにしても,あるいは離れているにしても,あなたがたについてこのことを聞けるようにです。すなわち,あなたがたが一つの霊のうちにしっかり
-