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  • あなたのお子さんはキリストの弟子となっていますか
    ものみの塔 1974 | 5月15日
    • あなたのお子さんはキリストの弟子となっていますか

      『わたしが命じているこれらのことば……あなたがたはそれを自分の子に教え込まなければならない』― 申命 6:6,7,新。

      1,2 (イ)子どもを育てることについてどのように感じている親がいますか。(ロ)どんなことのために,子どもをもっとよく訓練することに関心を持つべきであると言えますか。

      この記事の題にあるような問いについて,なぜ時間をかけて考えなければならないのですか。なぜただカエサルの法律が要求すること,つまり衣食住を与え,世俗の教育を受けさせるだけではいけないのですか。宗教や倫理上の問題については,子どもがそれなりの年齢に達してから自分で判断させればよいのではありませんか。あなたがこのように考えるとしても,それは決してあなたひとりではありません。

      2 しかし,こうした問いを発することにはそれなりの理由があります。暴力行為の増大があなたの生活から安心感を奪い取っているのではありませんか。不正直な行為の広がりがあなたを悲しい気持ちにならせているのではありませんか。麻薬類の乱用や不道徳行為の増大が少なくともなんらかの不安を生み出しているのではありませんか。こうしたことの結果としてくる税の増額があなたにも影響を与えているのではありませんか。もしそうであれば,こうした問題に若者が関係していることを考え,子どもの訓練がもっとよくなされていたなら事態はずっと改善されていたのではなかろうかという点を,あなたも一応考えてみるべきです。

      3 たいていの子供は親の望みどおりに訓練できるものであることを何が示していますか。

      3 この点で考え違いをすることのないようにしてください。子どもは普通,親の望みどおりに訓練することができるものです。子どもの成長を研究する人々は,子どもの性格の多くが就学以前に形成され,そうした性格上の特性がその後は容易には変わらないことを知っています。人間の創造者はそのみことばである聖書の中でこう述べておられます。「少年をそのゆくべき道にしたがって訓練しなさい。そうすれば,年老いても,それからそれることはない」。(箴 22:6,新)行動を律する基本的な原則が子ども時代に教え込まれるなら,不完全さのため一時的に悪行にそれることがあるとしても,その原則を忘れ去ってしまうことはまずありません。この点は,放とう息子に関するイエスの例えの中にも織り込まれています。その息子は自分を信じてくれる父親に自分の受ける相続財産を請い求め,そののち「遠い土地に旅に出,そこで放とうの生活をして自分の財産を浪費」しました。(ルカ 15:13)彼を立ち返らせたものはなんでしたか。一つには,父親を思い出したことがあります。単に父親が常に与えてくれた物質上の備えについて思い出したのではなく,霊的な事がらに対する父親の愛を思い出したのです。その息子はこう語りました。「立って父のところに旅をし,こう言おう。『父上,わたしは天に対しても,あなたに対しても罪をおかしました』」。(ルカ 15:18)そうです,子ども時代の正しい訓練は,子どもが生涯を形成するうえで大きな要素となります。

      4 (イ)子供の訓練についても計画性が必要なのはなぜですか。(ロ)どんなことが目標となるべきですか。

      4 言うまでもなく,成功を見るためには,そうした訓練は一定の計画のもとになされねばなりません。親は,自分たちが何を望んでいるか,それを達成するために何が必要かをはっきり知らなければなりません。望ましい最終的な結果を思いに描き,それについてともに話し合うのは良いことです。(箴 21:5; 15:22)ここでの目標は,自分で考えることができ,義の原則に堅く従い,神を知り,イエス・キリストに倣って神に仕えようとの意志と決意を持ち,他の人のために物事を行なうことの喜びを知るようなおとなを生み出すことであるべきです。一方,訓練が全く成り行きまかせになっているなら,その結果は箴言 29章15節に述べられるとおりになってしまいます。「任意になしおかれたる子はその母を辱しむ」。親が自分の持つ権威を,子どもの永続的な福祉を願う愛の配慮のもとに用いるなら,こうした結果を避けることができます。

      権威の杖

      5,6 (イ)親が取らなければならない懲らしめの処置について親はどんなことを銘記するべきですか。(ロ)親として懲らしめを与えることにおいてエホバはどのような手本を示しておられますか。

      5 だれでも権威を持つ人は,その権威をゆだねた者に対してやがて言い開きをしなければなりません。したがって,親には子どもの養育という面で重い責任があります。親は自分に託されたものに関して神に申し開きをしなければならないからです。詩篇 127篇3節は,『子らはエホバの与へたまふ嗣業』であることを親たちに銘記させています。したがって,使徒パウロはこう諭します。「父たちよ,あなたがたの子どもをいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」。(エフェソス 6:4)これを行なうためには,イエスがエホバの意志に従いつつ,『わたしたちがその歩みにしっかりついて行くよう手本を』残したことをも子どもに教えなければなりません。―ペテロ第一 2:21。

      6 イスラエルにおいて,杖は懲罰の道具でした。サムエル後書 7章14節の中で,エホバはダビデ王の後継者に関してこう語りました。『彼もし迷はばわれ人の杖と人の子のむちをもてこれを懲らさん』。また,霊的イスラエルの成員に対して,使徒パウロはコリント第一 4章15-21節でこう書いています。「あなたがたには……決して多くの父親はいないのです。キリスト・イエスにあって,わたしが,良いたよりを通してあなたがたの父親となったからです。……あなたがたは何を望みますか。わたしは杖をもってあなたがたのところに行きましょうか。それとも,愛と霊の柔和さとをもってですか」。箴言はこう述べます。『子を懲らすことをせざるなかれ むち[もしくは,杖]をもて彼を打つとも死ぬることあらじ もしむちをもて彼をうたばそのたましひをよみより救ふことをえん』。(箴 23:13,14; 22:15)権威を与えられた親による懲罰というこの杖をどのように用いるかは大切な問題です。親は神に対して言い開きをするべき立場にあり,神は懲罰を加える権威,「杖」を正しく用いる権威を親に与えています。箴言が述べるとおり,この点で親が怠ることは,子どもの死,また親に対する神の不興を招きかねません。懲らしめを加える父親の権威を正しく行使するという面では,エホバご自身が手本を示しておられます。ヘブライ 12章7,9,10節がその点をこう述べます。「神は子に対するようにしてあなたがたを扱っておられるのです。父親が懲らしめを与えない子はいったいどんな子でしょうか。さらに,わたしたちには自分と同じ肉身の父親がいて,わたしたちに懲らしめを与えても,わたしたちはこれをつねに敬いました。霊的な命の父にはなおのこと服従して生きるべきではないでしょうか。父親は自分に良いと思えるところにしたがって数日の間わたしたちを懲らしめるのが常でしたが,彼は,ご自分の神聖さにわたしたちがあずかれるようにと,わたしたちの益のためにそうしてくださるのです」。エホバがご自分の民を懲らすのは,いらだった気持ちなどのためではなく,「わたしたちの益のため」,わたしたちがエホバの是認を得て生きるためです。エホバは,クリスチャンの父親が自分の子どもに対して同じように行ない,子どもがみ子の真の弟子となることを目ざすように期待しておられます。

      父のいない子

      7,8 (イ)父のいない子に対するエホバの配慮について述べなさい。(ロ)家族にとって父親のいないことはなぜ痛ましいことでしたか。

      7 エホバはイスラエル人に対して,父のいない子に対する配慮を命じましたが,そのことは,敬虔な父親が家庭で行なえる良い事がらをわたしたちに銘記させます。親を亡くしたそうした子どもたちに対するエホバの愛の配慮に注目してください。『なんぢよそ国の人またはみなしご[父のいない子,新]のさばきを曲ぐべからず またやもめの衣服を質に取るべからず なんぢおぼゆべし なんぢはエジプトに奴隷たりしがなんぢの神エホバなんぢをそこより贖ひいだしたまへり ここをもてわれこの事をなせとなんぢに命ずるなり』。(申命 24:17,18)父親を失ったそうした家庭におけるすきまを神が認めておられたことはまちがいありません。

      8 父親のいない家庭は多くの点で痛ましいものでした。父親は物質上の必要物を備える者でした。父親は,盗んだり,だましたり,あるいは他のかたちで虐げようとしたりする者から家族を守ることができました。そして,父親としての指導や諭し,また交わりや愛情を子どもに与えることができました。それゆえに律法は,父親のいない場合に特別な配慮の必要なことを銘記させていました。―出エジプト 22:22-24。

      9 (イ)「父のいない子」に対する態度が国民の霊的な状態を示すものとなったことを述べなさい。(ロ)そうした苦しい状態にある人々に対する人の見方とクリスチャンの信仰とにはどんな関係がありますか。

      9 「父のいない子」という表現は,神がイスラエル国民全体の忠実さについて述べたさいにも用いられました。その国民が霊的に疲弊して正義を曲げるようになった時,その悪い影響を最初に受ける者の中に父のいない子がいました。そのため,エホバは預言者エレミヤに次のように書き記させました。『なんぢらもし全くその途と行なひを改め 人と人との間を正しくさばき 異邦人とみなしご[父のいない子,新]とやもめを虐げず つみなき者の血をこのところに流さず ほかの神に従ひて害をまねかずば われなんぢらを わがなんぢらの先祖にあたへしこの地に永遠より永遠にいたるまで住ましむべし」。(エレミヤ 7:5-7)この点に関する神の見方は今日でも同じです。今日,真のクリスチャンを見分ける一つの方法は,家族に先立たれた人々に対する配慮を見ることです。ヤコブ 1章27節にこう記されています。「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」。

      10 (イ)今日,父親を持ちながらある意味で父のいない状態になる子供がいることについて述べなさい。(ロ)したがって,子どもがキリストの弟子となることに関して親はどんな役割を担っていますか。

      10 今日,父親がいながら,ある意味で父親のいない状態になる子どもが存在するでしょうか。残念ながら,そうした場合があります。父親が実際にはいっしょに行けるのに,子どもが自分だけでクリスチャンの集会に行かなければならないなら,その点に関するかぎり,その子どもは父親のいない状態にあります。クリスチャンとしての野外宣教の面でなんらかの訓練を受けるのに子どもがだれかほかの人に頼らなければならないなら,その子どもは,生活のその面では父親のいない状態にあります。他の点でも同じことが言えます。一方,クリスチャンの父親が自分の責任をしっかり果たすなら,つまり,聖書の研究の面で家族をよく導き,必要なレクリエーションを準備し,問題の起きたさいには時間をかけて相談に応じ,将来の責任を担うための土台を据えるべく家庭内外の務めを果たす点で親しく子どもを訓練するなら,それはほんとうに良いことではありませんか。クリスチャンとしての生活の全分野にわたって実際的な教えと導きが必要です。親がキリストの弟子を自任していても,それによって子どもが自動的にキリストの弟子となるわけではありません。子どもには個人的な援助が必要です。子どもの生活のすべての段階で助け手となれる父親は,子どもにとってほんとうに祝福です。

      あなたの日常の活動

      11,12 申命記 6章6,7節は崇拝についてどんなことを述べていますか。その諭しに従うことは家族にどのような影響を与えますか。

      11 キリスト教世界において今なお教会に通う人々は普通日曜日ごとに短い説教を聴き,子どもも日曜学校で毎週短い授業を受けます。これで家族の宗教上の必要がまかなわれるものとされています。これはエホバが個々の家族のために定めた事がらとどのように比較できるでしょうか。申命記 6章6,7節はこう述べています。「わたしがきょう命じているこれらのことばはあなたがたの心に置かれねばならず,あなたがたはそれを自分の子に教え込み,家に座している時も,道を歩く時も,寝る時も,起きる時も,それについて話さねばならない」。(新)このことばから明らかなとおり,エホバに対する崇拝は人の生き方となるべきものであり,エホバのお目的について話すことは日常の活動全体を通じていつでもふさわしい時になされるべきでした。

      12 人が目を覚まして最初に考えることがエホバとみ子に関する事がらであるなら,それはなんと良いことではありませんか。一日の活動を始めるのにまず神のみ業について語るよりよいことがあるでしょうか。エホバに対する崇拝は人の日常の活動から切り離すことができません。親のことばと行動がほんとうにそうであるという親の確信を反映するなら,人の行なう事がらを神がことごとく見ておられて,それがどのようになされるかに関心をいだいておられること,また自分の行なうすべての事において神のみ子に倣うことの大切さを,子どもは深く認識するようになります。こうして子どもは,崇拝のために特別に定めた時間だけでなく,常に神とみ子について考えるようになります。そして,自分の果たす一つ一つの仕事にエホバの祝福を仰ぎ求め,聖書を通して神が与えてくださる導きを尋ね求めるようになります。子どもがこうした訓練を受けるなら,「年老いても,それからそれることはない」ということばが,まさに真実になるでしょう。―箴 22:6,新。

      13 神のことを常に考えていることはなぜ大切ですか。

      13 しかし,多くの人は,神についてなんら留意せずにただ日常の活動だけを追い求めることのほうを容易とみなしているではありませんか。情勢に押されてそのようになっているなら,やがてイエスが述べた人々のようになってしまうでしょう。「洪水のまえのそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人びとは食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです」。(マタイ 24:37-39)しかし,使徒パウロは,何を行なっていようと一日じゅう神のことを思いに留めているようにとの賢明な勧めのことばを述べています。彼はこう語りました。「ですから,あなたがたは,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい」。(コリント第一 10:31)パウロはコロサイの人たちに対しても同様の勧めをしました。「何をしていても,人にではなくエホバに対するように魂をこめてそれに携わりなさい」。(コロサイ 3:23)これこそキリストの弟子である人が行なうことです。あなたはお子さんにそのことを教えていますか。

      14 父親と息子が何か日常の活動をいっしょに行なうさいどのように神について話し合えるかその例を挙げなさい。

      14 あなたは息子さんとともに家族の車に関係した仕事をすることがありますか。日常活動のこうした面は聖書とどんな関係を持っているでしょうか。車は創造者の定めた法則に従って設計され,製作されねばなりません。また,それを効果的に作動させてゆくためにも,やはりそうした自然の法則を認識してゆかなければなりません。定期的な整備や調整,また注油やオイル交換が必要になるのも神の定めた法則にしたがってのことです。いっしょに働きながら息子さんにそうした点を銘記させますか。別の点もあります。あなたの土地では,カエサルである政府が自動車の管理に関するなんらかの安全規則を定めていますか。事故を防ぎ,人命を守るために,タイヤ,ライト,ブレーキなどについて一定の基準に従わなければなりませんか。そうした要求に従うことはどれほど大切ですか。ローマ 13章1節にこう記されています。「すべての魂は上にある権威に服しなさい。神によらない権威は存在しないからです。現存する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです」。あなたは,いっしょに仕事をしつつこうした考えを息子さんに銘記させていますか。

      15 母親と娘が何か建設的な仕事をともに行なうさいどのように神について話し合えるかその例を挙げなさい。

      15 母親と娘がいっしょに洋服を縫うことがありますか。そのことは聖書とどんな関係がありますか。では,それをどんなスタイルにするでしょうか。それはテモテ第一 2章9,10節の勧めに従うものですか。『女は,よく整えられた服装をし,慎みと健全な思いとをもって……身を飾るように望みます』。それにどんな飾りを施しますか。娘さんはどんなアクセサリーをつけてその洋服を着ますか。同じ聖句の残りの部分は,神をあがめる女が「髪のいろいろな編み方や金,また真珠や非常に高価な衣装などではなく……良い業によって」身を飾るべきことを述べています。常に最も高価な衣服を身に着けるようなことをしない人は,道理にかなった経済性を知るようになり,「窮乏している人に分け与えることができる」ようにもなります。(エフェソス 4:28)家庭における日常の仕事をあなたといっしょに行ないつつ,「すべての事を神の栄光のために」するなら,娘さんは聖書の原則をほかにも多く学ぶでしょう。

      16 (イ)親も子どももどのような話し方をすべきですか。なぜ?(ロ)いつも聖書や聖書関係の文書を読んでいることはできないとしても,どんなことはできますか。

      16 平素お子さんと接するさいあなたはどのようなことばを使いますか。イエスの弟子たちは,ことばを正しく使うことの大切さを知っていました。(マタイ 12:36)聖書はこう訓戒しています。「腐ったことばをあなたがたの口から出してはなりません。むしろ,必要に応じ,どんなことにせよ築き上げるのに良いことばを出して,聞く人たちに恵みとなるようにしなさい」。(エフェソス 4:29。テトス 2:6-8)どんなことを話題とするにせよ,そこで表わされる考えは,使徒パウロが霊感のもとに記した次の指針と一致したものであるべきです。「なんであれ真実なこと,なんであれまじめなこと,なんであれ義にかなっていること,なんであれ貞潔なこと,なんであれ愛すべきこと,なんであれよく言われること,またなんであれ徳とされることや賞賛すべきことがあれば,そうしたことを考えつづけなさい」。(フィリピ 4:8)聖書や聖書関係の文書を一日中読んでいられるわけではありません。しかし,キリストに倣い,常に聖書にしたがって物事を考え,話し,仕事をすることはできます。詩篇 119篇97節も同様の見方を言い表わして,「われなんぢの法をいつくしむこといかばかりぞや われひねもすこれを深くおもふ」と述べています。

      特別の時間を設ける

      17 定期的な家族の勉強は子どもの訓練のためになぜ大切ですか。

      17 日常の活動を通じて子どもを教え訓練することに加えて,ほんとうの成功のためには,一定の時間を特別に設けて家族で勉強することも必要です。これを定期的に行なうのは,飲食を定期的に取ることと同じように大切です。わたしたちが聖書の真理を霊の食物と呼ぶのはしごく当然なことです。それがわたしたちに与える力,それを取り入れるさいの楽しみ,その不断の必要性を知っているからです。―マタイ 4:4; 5:3。

      18 家族が何を勉強するかを決めるのはだれですか。なぜ?

      18 どんな事がらを勉強するかは家族の頭が選ぶべきです。自分の家族が物質面で何を持つかを決めるのと同じように,家族が何を勉強するかを決めるのも頭の責任です。頭は自分の家族に何が必要であるかを知るのにいちばん良い立場にあります。さらに頭は,他の者たちがどんなことを有益と考えているかをも尋ねその点も考慮に入れます。どの家族でも時おり特別の必要の生じることがあります。生じている状態に応じて,麻薬類の乱用,異性に対する振舞い,正直さ,交わり,親切さなどに関する記事がそれぞれに適切でしょう。

      19 たいていの家族はどんなことを勉強していますか。

      19 一般に言って,会衆のために取り決められている研究の課程に従い,集会に参加する準備をすることがどの家族にとっても有益です。何か特別の必要がある場合でないかぎり,会衆内の他のすべての人が考えたり語り合ったりしている研究の資料に,あなたの家族も注意を集中するのがよいでしょう。それぞれの家族が会衆の予定にしたがって家庭で準備をするなら,それは一致の力となり,各自は集会での討議に大きく寄与できるではありませんか。言うまでもなく,勉強の時間に恵まれた人は余分の研究を行なえます。

      20 集会の準備ということをたいくつで興味のないことのように思う人がいれば,どこに問題があるかもしれませんか。どんなことがその解決となりますか。

      20 集会のための準備をそれほど興味のないことのように思う子どもがいるかもしれません。それはその事に対する見方のためです。そうした子どもが思いに置いている目標は,研究のさいに出される質問に対してただ注解を準備することでしょう。初めのうちはこれが適当な目標であるかもしれませんが,ほんとうの目標は,聖書に基づくその主題をつかみ,自分の注解で他の人たちを助けることです。こうした目的をいだくなら,真理を愛する人にとって勉強はすぐに深い喜びのときとなります。―詩 1:1,2。

      21 家族の勉強を喜ばしく興味あるものとするために親はほかにどんなことをできますか。

      21 家族の勉強を喜ばしく興味深いものとするために親のできることがほかにもあります。くつろいだ親しみ深い雰囲気にするのがよいでしょう。緊張していたり不安な気持ちがあったりするとだれもよく学べません。親があまり厳しかったり要求的であったりすると,幼子は学ぶ事がらをそれほど受け入れません。秩序を保ち,その場の真剣さを示すために十分に確固とした態度で臨むことは必要ですが,それでも,家族の人々を結びつけるような暖かさと互いに対する愛の関心を働かせる余地は大いにあります。

      22,23 (イ)親は,世俗の教育に差があるような場合でも,そのために自分は劣っていると感じる必要がないのはなぜですか。(ロ)子どもを助けてどんな点を認識させることが子どもの益になりますか。

      22 未成年の子どもが今受けているような世俗の教育を親が受けていないという場合もあります。また,別の国から移って来て,子どもは学校に行って新しい国語を修得したのに,親はまだそれを十分に学んでいないという場合もあります。そうした場合,世の家庭では,子どもが親に対して高ぶった態度を取ることも珍らしくありません。しかし,クリスチャンの家庭においては,親が子どもに関して神からゆだねられた責任を果たし,「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆ」くために,この種の障害をどうしたら乗り越えることができますか。―エフェソス 6:4。

      23 ここで述べたような状態が多少生じたとしても,親は,自分の子どもより劣っているかのように感じる必要は決してありません。家族内における親としての権威の地位は神から与えられたものです。さらに,生活上の多年の経験や背景のゆえに,家族を経済的に扶養し,家族内の事がらを治め,家族の勉強や崇拝を指導する面で親のほうが適していることは明白です。似たような場合として,十代の終わりか二十代初めの若い兄弟が会衆内の幾人かの年長の兄弟より洗練された研究生の話をできるという場合も少なからずあるでしょう。しかし,それによってその人に長老としての資格があるわけではありません。長老の仕事にははるかに多くのことが関係しています。各家庭における,親に対する子どもの立場についても同じことが言えます。自分の受けた教育や背景がどのようなものであっても,親は家族の勉強の時間を計画し,各人に他の人の益のため自分にできることを行なわせるべきです。ある面で勝った能力を持つ子どもがいる場合,エホバの前で重要なのは単なるそう明さではなく謙遜さと献身の深さであるという点を,その子どもが認識するように助けることができるでしょう。イエスは,「だれでも自分を高める者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められる」と言われました。(マタイ 23:12)親は何かの点で自分が欠けているように感じることがあるとしても,エホバの霊がそれを補います。家族内に知力の差があっても,それにはかかわりなく,家族の勉強という聖書の取決めに,自信をもって従ってください。

      24 親は自分の子どもがほんとうにキリストの弟子となっているかどうかをどうしたら知ることができますか。

      24 あなたのお子さんはキリストの弟子となっていますか。もしお子さんが,単にクリスチャンとしてのバプテスマを受けているだけでなく,常にイエスの言ったり行なったりした事に基づいて物事を判断しているなら,世の不義の道を愛することなく,常に王国の事に仕えるという目標に終始目を留めているなら,あなたの権威にすすんで服し,エホバの道について話し合うことを喜びとしているなら,そして,こうしたことを実際に示してあなたの心を暖かい愛で満たしているなら,あなたはこの点で憶測する必要はありません。むしろ,お子さんがほんとうにキリストの弟子となっていることがわかるはずです。

  • 子供の訓練に喜びを見いだす
    ものみの塔 1974 | 5月15日
    • 子供の訓練に喜びを見いだす

      1,2 (イ)ソロモン王はふたりの母親の間を裁くことでどんな経験をしましたか。正しい裁きをするための助けとなったものはなんですか。(ロ)血のつながりは人の行なうことにどのように影響しますか。

      賢い王ソロモンは,その治世中に,ふたりの女の間を裁くことを求められました。それらの女は同じ家に住み,ふたりとも男の子を産みました。夜の間に一方の子どもは死に,その母親はその子どもを,生きているほうの子どもとひそかに取り換えました。次の朝,他方の母親は,死んでいる子どもが自分の子ではないことに気づき,不正直な母親を盗みの罪で訴え,その事件がソロモンの前に出されたのです。問題の真相をきわめかねたソロモンは,生きているほうの子どもを二つに切り裂いてふたりの請求者が分け合えるようにせよ,と命じました。次のように記述されています。「すると生きている子の母である女は,その子のために心がやけるようになって,王に言った,『ああ,わが主よ,生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください』。……すると王は答えていった,『生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ』」。(列王上 3:26,27,口)ソロモンは子どもに対する親の愛を理解していました。ソロモンは父親としての自分の経験からそれを学んだだけでなく,聖書の中に示された,家族の取決めに対する神の見方によく通じてもいました。

      2 緊密な家族の関係は祝福です。ベツサイダのアンデレは,メシアをはっきり見きわめた時,その良いたよりを携えて最初にだれのところに行きましたか。「この者はまず自分の兄弟シモンを見つけて,『わたしたちはメシアを見つけた』と言った([メシア]とは,訳せば,キリストという意味である)」。(ヨハネ 1:41)血のつながりはだれも否定のできないきずなとなります。アンデレの行動はこの点で自然な反応でした。

      3 クリスチャンの兄弟関係がさらに強力なきずなとなるのはなぜですか。

      3 しかし,さらに緊密な結合のきずながあります。それはクリスチャン兄弟の関係です。ローマ 12章10節で,聖書はこう述べています。「兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情をいだきなさい。互いを敬う点で率先しなさい」。ペテロ第一 5章9節は,「世にいるあなたがたの仲間の兄弟全体」という言い方をしています。マルコ 10章29,30節で,イエスは,肉的な関係と真理がもたらす関係とを比較してこう述べています。「あなたがたに真実に言いますが,わたしのため,また良いたよりのために,家,兄弟,姉妹,母,父,子ども,あるいは畑をあとにして,今この時期に百倍を,すなわち家と兄弟と姉妹と母と子どもと畑を迫害とともに得,きたらんとする事物の体制で永遠の命を得ない者はいません」。そうです,クリスチャンは,真理にある兄弟たちの間に,生来の肉のうえでの兄弟どうしも持たないようなものがあることを知っています。―ヨハネ 13:34,35。

      4 クリスチャンの家族が他の家族にはないような一致を持てるのはなぜですか。

      4 しかし,あなたのご家族がこれら二つの関係をかね持つなら,あなたはほんとうに恵まれた立場に立つことになります。献身してバプテスマを受け,神のしもべとなった親は,自分の子どもに対する自然の愛情を持っています。それは神が人間に植え込まれたものです。しかしそうした親は,他の方法では得られないような幸福と満足をもたらす,家族の一致を作り出す機会をも有しています。そうした親は,自分の子どもを助けて神の忠実なしもべとすることができます。これは家族の結びつきをいっそう緊密にするだけでなく,親が子どもに与えうる最良の相続財産となります。しかし今日,これはそれほど易しいことではありません。

      問題に対して事前の処置を取る

      5,6 (イ)配慮が必要となるかもしれない問題に対して事前の処置を取るうえでどんなことが親の助けになりますか。(ロ)親と子どもの間の意思の交流の道を閉ざしてしまわないためにどうしたらよいですか。

      5 家族を扶養していくさいにはいろいろな問題が起きるものです。問題は起きないだろうと想像することは益になりません。現実に起きるからです。それで,目や耳をしっかり開いて問題の兆候に注意するようにしてください。お子さんが何か小さな問題をかかえてあなたのところに来るとき,手速く答えて子どもをそらせてしまおうとするのは賢明ではありません。その時こそ,子どもの思いの中にあるものに深い関心を示し,いろいろと尋ねて子どもの気持ちを引き出す時です。子どもに話させ,その気持ちを語らせるのは難しいと言う親が多くいます。それは,かつて子どもが話そうとし,助けを必要としていた時に,親自身が会話の糸口を押えつけてしまったためではないでしょうか。親の気持ちがそのときよく整っていなかったというだけで子どもとの会話の機会をつぶしてしまうのは愚かなことではありませんか。

      6 子どもと話し合う機会を待ちかまえ,どんなことでも喜んでいっしょに話し合おうとする親にとって,子どもとの意思の交流の道が閉されてしまうことはありません。それはいつも開かれており,親の知るべき事がらを常に伝えるものとなります。これが家族どうしの間の暖かさや理解に役だちます。なんでもすすんで話そうとする子どもには,なんでも喜んで聴こうとする親がいるものです。しかし,親が小さな問題に耳を傾けようとせず,理解と優しさを反映するような態度でその解決を助けないのであれば,子どもは大きな問題の生じたときに親のところに行くでしょうか。あなたには今,自分が信頼する友人がありますか。あなたが全く信頼し,深刻な問題を携えて訪ねても,あなたの言うことすべてを時間をかけて聴いてくれ,そうした問題をかかえているというだけであなたを見下げたりはしないと思える友人がありますか。子どもはみな,自分の親に対してそのように感じているべきです。あなたのお子さんはあなたに対してそのように感じていますか。箴言 17章17節はこう述べています。『朋友はいずれの時にも愛す 兄弟は危難の時のために生まる』。子どもがその種の関係を家族の外に求めなければならないとしたら,それは悲しいことです。

      7 家族をりっぱに治めることにはどんなことが含まれていますか。

      7 監督は「自分の家をりっぱに治め,まじめさをつくして子どもを従わせている人であるべきです。(実際,自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか)」と使徒パウロは書いています。(テモテ第一 3:4,5)これは,父親が他の事がらにどれだけ時間を割こうとも,子どもが何かめんどうな問題に落ち込んだ場合に,父親が必ずそこに介入して事態を処理するならばそれでよい,と言っているのではありません。そうではなく,父親はりっぱなしかたで自分の家族を治め,注意深く見守り,予想される問題に対して事前の処置を取り,自分にゆだねられている人たちの前途にあるものを前もって見ることが必要です。矯正のための助言より,予防のための助言のほうがはるかに勝っています。問題を未然に防ぐことにもっぱら意を用いる父親は,持ち上がった問題の解決に努めて満足する父親より賢明です。弁護士が法廷での戦いによって名を上げることは確かですが,クリスチャンの父親は,問題を未然に防ぐようなしかたで家を治めることによって信望を得るのです。

      「無経験な者」に対する導き

      8 経験ということに対して正しい見方ができるよう親は子どもをどのように助けることができますか。

      8 子どもは人生について限られた経験しか持っていません。しかし,親がそのことを子どもに終始銘記させようとすることはあまり益がありません。一方,子どもを助けて,聖書が経験の価値を重んじていることをほんとうに理解させ,一つ一つの経験から学び取ろうとする態度がいかに大切であるかを悟らせるなら,子どもは,親が与えようとしている助けに対して正しい態度を持ち,年の経過につれて自分の生活に起きるいろいろなできごとから真に益を得るようになります。実際のところ,わたしたちはみな自分の個々の経験から学ぶべき立場にあります。そして,さまざまな情況から親自身もいろいろな教訓を学び取るのであり,親もそのことを認めているという点を知るなら,子どもは自分の経験の不足を言われて憤慨するよりも,むしろこうして学んでゆく過程にいっそう応ずるようになるでしょう。

      9 経験から学ぼうとしない人について聖書はなんと述べていますか。

      9 聖書は経験についてなんと述べていますか。聖書は次のように述べて,経験から学んでそれに従おうとしないがん迷な人々を正しく評価しています。『なんぢらつたなき者[無経験な者,新]のつたなき[無経験,新]を愛し あざける者のあざけりを楽しみ 愚かなる者の知識をにくむはいつまでぞや わがいましめにしたがひて心を改めよ』。(箴 1:22,23)『賢き者は災ひを見てみづから避け つたなき者[無経験な者,新]はすすみて罰をうく』― 箴 22:3。

      10 年若い人々は経験が不足しているとはいえ,それを補うためにどんな方法がありますか。

      10 年若さゆえの無経験さを補うために親にできることがいくつかあります。思慮ある親は,難しい状況下で経験の浅い子どもを優しく助け,他の人の前で子どもにきまりの悪い思いをさせないようにします。また,子どもに聖書を教えることによって,全生涯の経験にもまして人を賢くすることのできる知識を子どもに得させることができます。詩篇 19篇7節はこう述べています。『エホバのあかしはかたくして愚かなるもの[無経験な者,新]をさとからしむ』。また詩篇 119篇130節はこう付け加えています。「みことばうちひらくれば光をはなちて愚かなるもの[無経験な者,新]をさとからしむ」。

      11 年若くて経験が不足しているのは恥ずべきことですか。

      11 年若くて無経験であるということそれ自体はべつに恥ずべきことではありません。それは成長の過程として当然なことであり,人はただそれをしんぼうしなければなりません。しかし,子どもが自分の無経験さを認めず,ただ気の向くままに行動して愚かなことや不法な行為に進み,家族やクリスチャン会衆にそしりをもたらすなら,それは全く恥ずべきことです。この点をよくわきまえ,そのことを認識するよう子どもを巧みに助ける親は,子どもが円熟性に向かって成長してゆくのを見て豊かに報われるでしょう。

      12 親は敬意の大切さをどうしたら子どもに学ばせることができますか。

      12 エホバの道にそって経験を積むつれ,人は敬意の大切さについても深く認識するようになります。この点で親は子どものために良い手本を示すべきです。父親は,「過分の恵みとしての命」をともに受け継ぐ者であることを認めて母親に対して敬意を示すべきです。(ペテロ第一 3:7)一方母親も,「夫に対して深い敬意を持つべきです」。(エフェソス 5:33)ふたりはともに会衆内の長老たちに対して敬意を持ち,次の聖書の助言にしたがって生活すべきです。「あなたがたの間で指導の任に当たっている人たちに従い,また服しなさい。彼らは言い開きをする者として,あなたがたの魂のために見張りをしているのです」。(ヘブライ 13:17)こうしてエホバの道につき従うことによって,親はエホバとその神権的な取決めとに敬意を示すことになります。―コリント第一 11:3。

      13 (イ)友だちどうしのような感情は親子の関係でどのように働かされるべきですか。(ロ)テレビの広告はこの関係についてときにどんなゆがんだ見方を提出しますか。

      13 親によるこうしたりっぱな手本が示されるとき,子どもが敬意の原則を理解することは難しくありません。子どもは親を大いに尊敬し,多くの面で敬意を示すようになるでしょう。すでに述べたとおり,親と子どもが友だちどうしのような親しい関係にあるのはよいことです。しかし,これは互いの関係における暖かさとか親密さについてのみ言うのであり,家庭内の他の物事における対等性などについて述べているのではありません。聖書の原則に従うとき,だれが父でだれが子であるかについてはっきりした理解のあるべきことは明らかです。しかし,それとは対照的に,子どもが親を教え,親は考えが古いとか時代に合わせて考えを正す必要があるとかいうことを子どもが示す場面を,テレビの広告などで見たことがないでしょうか。そうした広告は,息子が父親に圧力をかけて息子の望む自動車を買わせるようにしむけています。あるいはそれは,娘が母親に圧力をかけて,実際には少しも新しくないのに“新しい”とか“変わった”とか称される衣服・香水・防臭剤・シャンプーなどを買う許しを得させるようにしむけるものです。これは,家庭に与える悪影響を顧みずただ自分の営利だけを図る商業界の策略にすぎません。しかし,聖書は,子どもは経験の足りない者であり,自分よりも長く生き人生をより広く見ている人々に敬意を示すよう諭されねばならない者であることをはっきり述べています。

      14,15 (イ)子どもにも自分で考えることを学ばせるべきなのはなぜですか。(ロ)子どもの思考力の成長を助けるために親が行なえることについて幾つか提案を述べなさい。

      14 言うまでもなく,子どもに対しては,ある程度自分で考えることも教えなければなりません。いつか子どもも自分で決定をしなければならず,幼いうちからの訓練はこの点で助けになります。聖書は思考力を養うことを強く勧めており,これは親が子どもを助けることのできる最も大切な点の一つです。子どもは思考の面で一定の型を発展させるようになります。それゆえ,エホバとその道とについて聖書の述べる事がらに基づいて物事を考えぬくことを学ばせるのがよいでしょう。箴言 5章1,2節はこう述べています。「わたしの子よ,わたしの知恵にどうか注意を払いなさい。わたしの悟りに耳を傾け,こうして思考力を守りなさい。そして,あなたのくちびるが知識を守るように」。(新)人が思考力を養うのを助けようと思う場合,その学び手が自分でできる事がらを代わってしてしまうことのないようにすることが大切です。クリスチャンは,他の人に真理を伝えるさいに聴き手を会話に導き入れることの大切さを知っています。こうして聴き手に問題との関係を持たせ,聴き手の考えている事がらを知り,推論させて正しい結論に至らせることができます。子どもが思考力を養うのを助けるさいに親もこうした工夫を頭に入れておくべきです。

      15 この能力は,子どもの成長に応じて徐々に発展させることができます。小さな点であれば,子ども自身に決定させてよい事がらがたくさんあります。「ここではどうするのがいちばん良いと思う?」と尋ねてください。子どもの答えはいま少し援助の必要なことを示すかもしれません。子どもといっしょに筋を立てて考え,正しい方向に向かわせてください。子どもに対していらだったり,かんしゃくを起こしたりしてはなりません。使徒パウロは一例として自分の子ども時代のことを振り返り,こう述べました。「わたしがみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていました。しかし,おとなとなった今,みどりごの時のことを捨てたのです」。(コリント第一 13:11)パウロは年齢的な成長に応じて思考力を発展させました。

      16 世の人々でさえ子どもを将来のために備えさせようと努力することについて述べなさい。

      16 クリスチャン会衆に入っていない親たちの中にも,自分の子どもを将来のために備えさせることの価値に気づいている人々がいます。そうした人々は子どもの将来を成り行きまかせにはせず,また,子どもがのちにそうできるようになってから行ないたいと思う事がある場合でも必ずしも子どもの好むままには選ばせません。例えば,子どもの幼いうちから家業の経営や家族の資産の管理を学ばせ,あるいは新しい仕事のために備えさせます。子どもにあとで決定させると言う場合があるとしても,それは子どもの金銭面の将来に関することではなく,そうした人々がほとんどあるいは全く軽視している宗教に関する事がらです。したがって,この世が子どもの訓練や準備の原則を認めていないとは考えないでください。現にそして大いに認めているのですが,ただそれは物質面の追求についてであり,霊的な事がらについてではありません。

      築き上げるための助言を与える

      17 正しい助言を与えるだけで十分ですか。それとも,さらに何かが求められますか。

      17 助言を受けたのちに,「あの人の言ったことがいやなのではない。現にそれはほんとだしもっともだ。ただその言い方が気に入らない」と言う人がときにいます。もちろん,クリスチャンの家庭の中では,たとえいちばん受け入れ易いかたちで助言が与えられた場合でなくても,やはりそれを受け入れるべきです。しかし,助言を子どもの従い易いものとするために親が留意できることがありますか。確かにあります。これは,何がまちがっているか,それを改善するために何が必要かをただ知っているかどうかではなく,その事に関する近づき方と言い方を知っているかどうかの問題です。

      18,19 (イ)助言を与えることについて時と場所がどのように関係していますか。(ロ)ほかにどんなことが,助言に従いやすくするうえで役にたちますか。

      18 考えるべきひとつのことは,いつ助言を与えるかという点です。事件や悪行のあった直後が適当である場合も少なくありませんが,いつでもそうであるとはかぎりません。親と子どもがともに落ち着いた気持ちになるまで待ったほうがよいこともあります。また,場所も考えなければなりません。会衆の集会場所や人の家,あるいは買物をしている時などに何かよくない事があった場合,助言,あるいは少なくとも細かな助言を与えるのは,家に帰り着いてからにするのがよいでしょう。

      19 その言い方には,優しさ,巧みさ,冷静さ,そして道理にかなった考え方が伴っているべきです。あなたは,自分が事の全体をつかんでいないかもしれないことを認めて,子ども自身に幾つかの点について話させるでしょう。また,子どもが大切な点を理解したかどうかを知るために幾つか尋ねてみることもできます。問題がそれほど重大なものではなく,助言をすすんで受け入れようとする態度が見られるなら,ほほえみを浮かべて話すのがよいでしょう。しかし,さらに重大で,確固たる助言が必要な場合,微笑を浮かべて話すことは誤った印象を与えるでしょう。どんな場合でも,その助言がはっきりと理解されるようにすべきです。

      20,21 (イ)脅すことが子どもの訓練の面で普通最善の結果にならないのはなぜですか。(ロ)さらに良いのはどんな方法ですか。

      20 おどしや警告は必ずしも最善の結果を生みません。なぜですか。それは,悪行への憎しみではなく,予告された処罰への恐れの気持ちだけを生み出しがちだからです。(詩 97:10)エフェソス 6章9節で,主人である人たちは,「脅しつけるようなことはやめなさい。あなたがたの知るように,彼らにもあなたがたにも主人であるかたが天におられるからであり,そのかたに不公平はないのです」と助言されています。

      21 それより良い方法は,物事をエホバの道に従って行なうことの益を示し,できるところでは,なぜある事がらはいけないのかその理由を示すことです。楽観的な態度で正しい道を勧め,同時に,それに従わないことがどのような結果になるかを愛のこもった態度ではっきり示してください。脅すことと,ある歩み方が必ずどのような結果になるかを述べることには違いがあります。エホバが正しい道を勧める,人を引きつけるようなしかたに注意してください。『わが子よ なんぢもしわがことばをうけ わがいましめをなんぢの心にをさめ かくてなんぢの耳を知恵に傾け なんぢの心をさとりにむけ(なば)……なんぢエホバをおそるることをさとり 神を知ることを得べし』。(箴 2:1-5)しかし,その章ののちのところで,それぞれの結果が,親切な,しかし毅然とした態度で述べられています。『さとりなんぢをたもちてよき途に行ませ 義しき人の途を守らしめん そは義しき人は地にながらへをり全き者は地にとどまらん されど悪しき者は地よりほろぼされ もとる者は地より抜きさらるべし』― 箴 2:20-22。

      交わり

      22,23 交わる仲間は子どもにどんな影響を与えますか。それで,この点に関して親はどんな態度を取るべきですか。

      22 クリスチャンの親は,子どもが近所のほかの子どもや学校友だちと交わりはじめるときにしばしば問題が起きることに気づきます。言うまでもなく,子どもは外部の人々となんらかの交わりを持たねばなりません。全くかけ離れて生活することは今日ほとんど不可能であり,勧められることでもありません。世の仲間といっても,その与える非クリスチャン的影響の程度はさまざまです。しかし,親は自分の子どもがどんな仲間と話したり遊んだりしているかを知る必要があります。今日の世の人々の中にはほめるべき特質を持つ人たちもいますが,エホバの崇拝者でない人は良い友とは言えない,という点を覚えていなければなりません。―コリント第一 15:33。

      23 一般的に見て,実際にはただ二種類の交わりがあると言えるでしょう。箴言 13章20節(新)は,「賢い人々と歩んでいる者は賢くなり,愚かな者たちと関係を持っている者はうまくゆかない」と述べています。もちろん,だれが賢い者であるかはここで述べられていません。しかし,聖書はほかのところで,どんな知恵がここに関係しているかを明らかにしています。詩篇 111篇10節はこう述べています。「エホバをおそるるは知恵のはじめなり」。したがって,エホバを崇拝する人々が,あなたのお子さんの交わるべき賢い人々です。これは子どもたちがほんとうに賢い者となるのを助けます。理想的なのは,親が子どものために良い計画を作り,外の交わりのために時間があまり,あるいは少しも残らないようにすることです。そうすれば,家族やほかのクリスチャンといっしょにいることがたいへん興味深く楽しくなり,ほかの交わりが誘惑にはなりません。しかし,もしそうなるなら,そのとき親は,問題に対する聖書の見方を時間をかけて子どもに説明すべきです。同時に親は,必要な監督権をしっかりと働かせるべきです。

      24 悪い交わりについて聖書が述べることを子ども自身が理解すべきなのはなぜですか。

      24 クリスチャンの親は,世の交わりについて子どもに教える点でほんとうにこれほど端的また率直であるべきですか。では,そうであってはならない理由があるでしょうか。子どもは一般に,誤解のないよう問題に関する真理を告げられることに感謝します。少なくとも,かなりの数の子どもは,今日,年長の人たちが「あるがまま」を告げてくれるようにと主張しています。もちろん,子どもたちには,愛のある態度で他の人と接することができるよう,親切さと巧みさをも教えるべきです。しかし,よくない交わりの危険について親が知っているだけでは十分でありません。子どもたちが守られるためには,子ども自身も危険について知らなければならず,その点をはっきり知らせることは親の責任です。

      25 子どもの訓練にあたって親はだれに導きを仰ぐべきですか。なぜ?

      25 真のクリスチャンすべての前途にまだ存在する試練を切り抜けるために必要な,強固な資質を子どもの中に築き上げるために,親は力と導きをエホバに求めるべきです。(コリント第一 3:10-15)親にとって喜びの源となり,神に対して誉れとなるように子どもを訓練し,育てるのは易しいことではありません。それには不断の注意が求められます。しかし,それは,ときに不安な瞬間をもたらす責任であるとはいえ,主として喜びをもたらすものであり,愛の神からわたしたちに与えられた特権でもあります。子どもを訓練してゆくことにはほんとうに喜びと満足があるのです。

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