-
神の御国 人類の唯一の希望ものみの塔 1962 | 8月1日
-
-
の苦しみから解放されるでしょう。死でさえも,御国の不敵の力に屈しなければなりません。なぜなら,神は次のことを約束しています。「(神は)人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである」。―詩 67:6。黙示 21:4,新口。
もしあなたが生き残って,平和,繁栄,健康,および安全のすばらしい祝福を受けたいなら,御国をあなたの希望にしなさい。なぜなら,その希望は必ず実現するからです。神の御言葉なる聖書を定期的に研究し,ご自分の民を救い出すエホバの力に確信を持って下さい。御国の祝福と同じ祝福をもたらそうとする人間の弱い努力に希望を置き,その努力を信頼してはなりません。むしろ,次のように語った忠実な預言者の態度を取りなさい,「これはわれらの神なり,われら俟望めり,彼われらを救いたまはん是ヱホバなり,われらまちのぞめりわれらそのすくひをよろこびたのしむべしと」。―イザヤ 25:9。
-
-
終りの時における家族ものみの塔 1962 | 8月1日
-
-
終りの時における家族
「地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう」― 創世 28:14,新口。
1 (イ)古い世の社会の危機は,どの程度の深さに達していますか。そしてなぜ?(ロ)聖書は今の終りの時代に住む家族に希望をさしのべていますか。
いま地上に住む30億の人々は,いろいろな社会的秩序の下に生活しています。どの形態の社会でも,その成長と力は人間の家族に依存しています。いまの古い世の社会はとるべき道を知らず,沢山の問題をかかえて途方に暮れている有様です。従ってどんな構造を持つ社会も危機を経験しており,社会の基礎である家族も問題に悩まされています。国々はこのような危機の暗雲の中にとざされています。ヘブル人の預言者イザヤは,この暗黒と終りの時に地をおおう暗やみについて的確に預言しました。「見よ,暗きは地をおおい,やみはもろもろの民をおおう」。(イザヤ 60:2,新口)これは,偉大な社会学者であり,家族というものを存在させて,それに目的と名を与えたエホバ神を無視したために刈り取っている,悪い報いと考えられます。(エペソ 3:14,15)しかしこの同じ預言者は,同一の預言の中で,希望を与える言葉を述べました。すなわち終りの時に,正義の新しい世の社会の種あるいは中核が現われます。かつその真理の光と黙示,神の恵みは著しい対照をなして,目を見はらせるため,あらゆる国民の中の家族が成功に導くその道を受け入れて,自らの祝福を図るということです。―イザヤ 60:3-5。創世 28:14。ミカ 4:1-4。
家族に対する聖書のはじめの見解
2 聖書から見た家族の起源と目的を説明しなさい。
2 時を経てつづけられる家族のとりきめに対して,聖書ははじめどんな見方をしていましたか。家族という単位を設立されたのは,ほかならぬ人間の創造主ご自身です。(マタイ 19:4-6)家族という単位を用い,完全な,円熟した個人から成る人間社会で全地を満たすことが,社会学者である創造主の御目的でした。(創世 1:28。使行 17:26)このような家族のサークルは必然的に父親と母親と子供から成り立つことが,愛をもって定められました。家族は結婚によって成り立ち,また維持されて行きます。従って家族の成員は家庭,つまり父親をかしら,神に対して責任を持つ律法の与え主とし,母親が世話を見る者となり,父親に従いつつ子供を治める小さな政府を作り上げるのです。(コリント前 11:3。ロマ 7:2。テモテ前 2:11-15。箴言 6:20)そこでエホバ神が最初の男女を合わせられた時より,結婚は人類の間の定めとなってきました。これにより,単位としての家族のおもな目的すなわち子供を生むことが果たされてきたのです。こうして生まれ出た子供たちは,拡大する人間社会の成員として正しく訓練されるはずでした。
3,4 (イ)青少年は何を与えられましたか。またどんな生活をしましたか。(ロ)どんな質問の答えが望まれますか。
3 このようにして,成熟したおとなになるまでのほとんど20年のあいだ,子供は家庭にあって両親の愛の導きを愛けながら,行き届いた訓練,しつけ,保護,教育を受けることになっていました。(箴言 4:1-9。コリント後 12:14)また人間のなし遂げたこと,獲得した知識と知恵は,これによって次の世代にひきつがれ,常にふえる子孫の手に渡ってゆくのです。幼少期から思春期に至るまで,未成年者は家族の一員として固く結ばれ,家族の生活,崇拝,仕事,喜びと団らんを共にするのが本来のあり方でした。(ルカ 2:51,52)集団生活に隔離したり,子供たちを親からひき離して他人の世話と感化にゆだねてしまうことではありません。こうして成年に達するとき,人は新しい家庭を築く備えができていることになります。それで賢明な両親の監督下におかれ,「僕」にもたとえられる,かつての子供たちはいま自由となって,自分の家庭を「管理」する者となるのです。―ガラテヤ 4:1,2,新口。
4 人間がむかしエデンにおいて,創造主に反逆したため,今日の家族は,人間家族の本来の理想的なあり方からどれほど離れていますか。いま聖書から得られる知識に照らしてみるとき,本来の聖書の標準にかなう家族生活を送り,その目的を果たそうと誠実に努力している人々がいますか。新世社会のこの中核とは何ですか。今日,地上にあるさまざまな社会における家族の姿をしらべてみましょう。
ソ連の社会における家族
5 ソ連の社会における家族を説明しなさい。両親は尊敬されていますか。
5 ソ連の社会において,家族は「集団の一部をなすもの」,共産主義者の細胞と考えられ,子供に対する両親の権威は国家から委任されたものです。子供に対する親の義務は,実際には社会に対する義務となっています。母親の手を離れて集団の組織に飛びこんでゆく子供は,えらいとさえ言われます。ソ連の著名な教育家マカレンコは,その著「両親のための本」の中で次のように述べてこの事を確証しています。「我々〔ソ連〕の家族は…自然の集団の組織体である。家族は社会を構成する主要な自然の細胞である。両親は権威を持たないわけではない。しかしこの権威は社会の権威の反映に過ぎぬ。我が国における父親の子供に対する義務は,社会に対する義務の特定な形態である」。この著者は,母親との間に不和を起こして家を飛び出した少年のことを述べて,次のように評しています,「私は楽観主義を大いに賛美する。ソ連邦に大きな信仰を抱いて,国家のために身を挺し,自分の母親にさえも従わない少年たちは頼もしい限りだ」。a このすべては,子供を治める権威を両親に与えた神の定めにもとるものです。―出エジプト 20:12。エペソ 6:1-4。
6 (イ)ソ連の訓練は,どのように集団的な人を作りあげますか。(ロ)これらの方法は,聖書とどのようにくらべられますか。
6 ソ連型の社会においては,聖書に従う,一致した家族生活というものが,すでに幼少の時から余り行なわれません。ソ連の子供たちは幼少のときから,両親のもとを離れて集団生活にはいるように仕向けられています。多くの場合,生後3ヵ月の赤ん坊が隔離され,やや大きくなった幼児は日中,幼児院におかれて国家の統制による画一的な養育を受け,一方で母親は外に出て働くのが普通です。青少年は青少年団体にいれられて,政府の息のかかった特別な訓練を与えられます。学校にはいったその日から,子供たちは仲間の行動を監視することを教えられます。聖書の強くいましめている人間に対する恐れが,こうしてはぐくまれます。(箴言 29:25)学校ではグループ,チーム,集団単位で競争することを教えます。教室では図表を用いて「だれがいちばん優秀か」を強調します。優秀なグループや集団は報いとして特権を与えられにます。これは競争を禁ずる聖書に反する行いです。(ガラテヤ 5:26)自分の属する集団の他の者を助けることが,絶えず強調されます。このようにして自分の集団に対する責任感と忠誠心が常に男女の心の中に養われます。これらの方法のため,神から与えられた尊厳と天分を持つ個人も集団の中に埋もれてしまいます。名誉は何時でもグループのものであり,グループの名誉はソ連の国家に帰せられます。b それとは全く反対に,聖書の道は集団の人ではなく,成長をとげて円熟した個人,神の栄光となる人を作り出すものです。―詩 8:4-9。コリント前 11:7。
7 中共の集団農場のとりきめを聖書のそれとくらべなさい。
7 中共では,古来の家族制を廃するための努力を更に一歩進めています。この目的で中共は「集団農場」を組織してきました。この仕組に従えば,一家族としての個人の生活は事実上なくなってしまい,集団がその内に住むすべての人の生活,養育,活動を統制します。大勢の男女は群れとなって一定の仕事をします。女に対する男の権威はなくなり,神がはじめに定めた妻の夫に対する服従は忘れられて,婦人は独立した自由の生活を送ることができます。(創世 2:24)子供を治める両親の権力も砕かれてしまいました。卵を親どりからとってふ化させるように,生まれた子供は国立の乳児院に入れられそこで育てられます。このようにして国家または社会が養育者となっているのです。これは神が父親と母親に与えた地位と役目を奪うものです。そのうえ,これは自然にも反しています。子供の健全な発育に欠くことのできない真実の愛情をそそぎ,行き届いた世話をすることは,両親でなければできません。神の定めた自然の法則を破るならば,悲さんな結果を刈り取ることになります。―ガラテヤ 6:7,8。c
欧米民主主義社会の家族
8 欧米民主主義国において,家族はどうなっていますか。
8 欧米民主主義の社会においても,家族のあるべき姿はすでに長年にわたって見失われてきました。その結果,家庭は破壊されています。この型の社会では,父親は勤め先から戻ると,急いで食事をして服を着かえ,仲間と連れだって晩の娯楽を楽しむためにどこかへ出かけます。そのほか,夫はクラブの会合の晩,ボーリングの晩,猟,教会の親ぼく会などのため,家庭から離れた人となってしまい,家族と過ごす時間がありません。母親もトランプのクラブ,教会の婦人扶助クラブ,友だちとの社交的なつきあいで晩に家をあけることも多く,やはり自分だけの道を行きます。10歳代の子供たちも,スカウト,グループ,日曜学校の青少年の会,学校のパーティー,近所の「遊び仲間」と語らって出かけることなどに時を過ごしています。こうして聖書の原則とは反対に,家族はばらばらになっています。家族を向上させるような掟や秩序は,少しも守られていません。家族が一緒になって働き,何かをするということがありません。同じ年齢,同じ性の仲間だけに通用する考え方に従って,めいめいが自分の道を行くという風で,家族そろってレクリェーションを楽しみません。―コロサイ 3:18-21。
9 機械的な人が多くなるのはどうしてですか。
9 学校でも,世の中に出てからでも,常に競争があります。学生でも社会人でも,その考え方は群衆心理に影響されています。新聞,ラジオ,テレビ,映画を通して,家族の全員は物質主義の目標を見せつけられています。個人の利益ばかりが強調されていますが,これは原則の上に立って他の人に愛と無私の関心を示すという聖書の教えと反対です。男女とも働きに出て組織のひとつの歯車のようになっています。金銭で成功がはかられ,生活の中でもっと価値のあるものは見捨てられています。欧米の社会でも,神のもくろまれた個人の尊厳が軽視され,人はますます機械のようになりつつあります。―コリント前 13:5。ピリピ 2:4,21。
身近にある新しい世の社会
10,11 (イ)新しい世の社会によって何が達成されていますか。(ロ)この新しい社会の中核の歴史を簡単に述べなさい。
10 聖書の預言を成就して,今日,地上には注目すべき新しい世の社会が発展しつつあります。すでに設立を見た,アブラハムの裔の御国の下にいて油そそがれた者を中核にして,185の国に住む家族がアブラハムの裔による祝福を求めています。(創世 22:17,18)これはすなわち,聖書の水準に従う家族生活とその目的を回復することにもなるのです。身近にある新しい世の社会とはどんな社会ですか。
11 1919年の春以来,エホバの油そそがれた証者の,多くの残れる者は,最高の神にささげる清い崇拝と奉仕を再び始めました。何年にもわたった迫害,反対に耐え,火のような試練を経てきた残れる者は,いまや試みを経て清められ,忠節な献身をするエホバの僕となりました。すでに1914年,エホバの御国が天に設立されたことは,多くの事実に照らして明らかでした。従ってそれに続くものとして,「新しい地」を成す社会の設立される時が来るはずです。(イザヤ 51:16; 65:17)そのことはまさしく1919年に起きました。このようにしてこの油そそがれた者の残れる者は,聖書の教えに従い,クリスチャンの生活を送るために心をかえて新たにした人々の社会の中核また中心となりました。―ロマ 12:2。
12,13 (イ)どんな人々が,この清い中核につき従いましたか。(ロ)この新しい社会の名前は何ですか。その名前は何時受け入れられましたか。(ハ)その社会は何を導きとしていますか。(ニ)1953年の決議の中で何が宣言されましたか。
12 この社会の発展につれて残れる者と交わるようになったすべての人は,その考え方を変え聖書の原則に従う新しい人格を身に着けることが必要でした。また「つるぎを打ちかえて,すきとし」,平和を求めることも必要でした。(コロサイ 3:9,10。イザヤ 2:4,新口)雪だるまの固い芯のように,この清い中核のまわりには正義を愛する他の人々が集められて,その人々も発展するこの制度に固くつき従っています。(ゼカリヤ 8:23)このようにして1931年以来,心の清い男女すなわち「大ぜいの群衆」が,この拡大した社会と交わり始めました。この中核すなわち油そそがれた者は神に恵まれた者であり,その正義のパン種はふくらんで,この目ざましく生まれた新しい社会の隅々に及んでいます。この社会は,いま185の国々にひろがっています。(マタイ 13:33)1950年7月30日から8月6日までニューヨーク市のヤンキー・スタジアムで開かれたエホバの証者の神権政府拡大大会において,神のこの見える制度をエホバの証者の新世社会と呼ぶことが決定されました。3年後にヤンキー・スタジアムで開かれた2回目の国際大会のおり,聖書を導きとする旨を述べた次の決議(一部を引用)が満場一致で可決されました。
13 「それで,ヱホバの証者であり,また彼の新しい世の社会の成員であるわれわれは何十という国から何万という群をなして,1953年7月20日,ここニューヨーク市のヤンキースタジアムでの国際大会に集まり,これを次の決議を可決する最も良い機会といたします。……約束された正義の新しい世に関して,エホバの与えられる幻と希望にわれわれはエホバに恩を受けているということをはっきりと認める。……エホバは…その尊い約束に従ってわれわれを導いて新しい世の社会とされた。この新しい世の社会の起源は人間のものからではなく,また群れとして法人に登記することや,またその存在と活動を登記することに対して,地上の政治的な国家に頼まず,依存しない。……新しい世の社会として,われわれを結びつける永久の絆をわれわれはしっかりと保ち続ける。われわれは一つの国民であって,人種,皮膚の色,言語,種族,または国家の区別はない。われわれは唯一の生ける真の神,エホバを持っている。われわれは神の下にいる唯一の共通の君主,すなわち神の子でありわれわれのあがない主であるイエス・キリストを持っている。われわれが何処に住んで居ようと,われわれすべてに共通な一つの律法をわれわれは持っている。その律法とは聖書に書かれているヱホバの神権的な律法である。われわれは国国から取り出され,破滅に運命づけられた世から選び分けられた。われわれが一致結合し前進して行く一つの国,すなわち神の造られる新しい世を,われわれは持っている ―」。1953年「ものみの塔」392,393頁。
14,15 (イ)家族は何にたとえられますか。説明しなさい。(ロ)家族がひとつに結ばれていることには,どんな益がありますか。
14 この新しい社会内の一致した家族を,つり合いのとれた車輪にたとえて考えることができます。車輪は物を運び,前進するように作られています。家族のめいめいが正しい場所を占めている時,すなわち両親が車輪の中心に,子供がスポークの位置にあって,各人がその地位に応じた務をはたすとき,家族という組織は円滑に動きます。家族の輪は,けわしい道も平らな道もころがって行きます。車軸を中心にして車輪のわくが正しい位置に保たれる限り,それは坂を上り下りするにもコントロールを失うことはありません。しかしスポークが1本でも長過ぎたり,短か過ぎるなら,あるいは車の中心部分が割れていたり,あるいは中心をはずれているならば,がたぴしし始め,円滑に動きません。前進ははばまれてしまい,一緒に進んでいる者たちも満足を覚えないでしょう。
15 新世社会内の家族はまとまりのある一体であって一緒に働きます。「スポーク」が分離していたり,「車の中心部分」が半分欠けていたりすることはありません。車輪のような家族の全員は一諸に働き,崇拝し,学び,遊び,物事をします。これによって家族は満ち足りた健全な気持ちと平和を得,生命に至る道に進みます。家族のだれかが,家事のために無理な働きを強いられることはありません。「男は夜明けから日暮れまで働くことがあっても,女の仕事は終ることがない」といった非聖書的な言葉は,神権的に物事を行なうクリスチャンの家庭では通用しません。家族の全員が手分けして家事をするので,仕事は手早く片づけられ,他の有益な活動の時間が得られます。―コロサイ 4:5。
16 新世社会における家族の一致した崇拝を述べなさい。
16 神権的な古代のイスラエルにおけると同じく,今日の新世社会の家族にとっても,一致した家族の崇拝は欠くべからざるものです。かしらである父親は,家族の霊的な必要物を意識しています。毎週1回あるいはそれ以上,家族の聖書研究が定期的に開かれます。子供も大人も家族全員がそろって参加するのです。多くの家庭では朝食の食卓で,協会の年鑑を用いて家族全部が日々の聖句を討議しています。食事の度に,日毎の糧をエホバに感謝する祈りがささげられ,1日の終りには多くの家庭で家族の全員が祈ります。その時,父親が声を出して祈り,多くの場合,家族の者はかたわらでひざまずいて父親の祈りに和するのです。週のあいだ,家族の各人は自分の都合の良い時,個人的に聖書を学ぶことをすすめられます。週に5時間,新世社会の最寄の会衆で開かれる三つの集会には,家族そろって出席します。このような家族の者は神を恐れる心を持つ,献身した奉仕者であり,家から家に伝道し,善意者と聖書研究を司会する奉仕のわざにも,毎週,時間をついやします。このようにして,今日のクリスチャンは,神の設けられたとりきめ,いわば祭壇の上に賛美の犠牲を捧げるのです。子供でさえも両親について家から家の伝道に行き,公に賛美がささげられるのを聞きます。やがて小さなダビデ,小さなダイナも,世の人々に証言するわざを助けたいと望むようになるでしょう。―マタイ 5:3。出エジプト 12:26,27。エペソ 6:18。ヘブル 10:25; 13:10,15。マタイ 21:15,16。
17 家庭の円満な運営には,何が必要ですか。
17 円満な家庭の運営には,愛,協力としつけが必要です。父親は万事を治めるかしらであって,何事にも率先し,家族の方針を定め,妻は夫に従います。助け手また協力者である母親は父親を助けて家を治め,夫のいない間,秩序を保ちます。子供は幼い時から両親に対する尊敬と従順を教えられ,いいつけを守るようにしつけられます。両親は互いに,また子供に対して愛を示します。必要な時には,子供の愚かさをためるため,こらしめのむちが使われるでしょう。クリスチャンの両親は,子供の霊的な福祉に責任を持つことを十分に認識しています。行いと奉仕において忠実なクリスチャンの手本を示す両親のゆえに,未成年の子供は間接に清い者となって,エホバの恵みと祝福を受けます。―テモテ前 3:4,5。エペソ 5:22。箴言 22:6。コリント前 7:14。
18 ひとつに結ばれた神権的な家族の受ける益をあげなさい。
18 ひとつに結ばれた神権的な家族には,多くの益があります。家庭には理解と調和があり,何事をするにも一致して働き,互いの間にまさつはありません。それぞれの人格が溶け合い,関係が調和し合って,愛,喜び,平和,忍耐がかもし出されます。金銭のことでいさかいが起きることはありません。物質主義は押えられて,霊的なことが重んじられるからです。家族そろって娯楽を楽しむことから,深い喜び,上品な笑い,落着きが生まれます。子供は霊的なものの価値を知るようになり,10歳代の時にさえ,円熟,落着き,自信を身に着け,将来に対して賢明な志を抱くようになるでしょう。聖書の原則を話し合って理解し,毎日の生活に応用することが行なわれます。このすべては家族全員の霊的な健康を守るものとなり,悪い欲望は打ち捨てられてしまいます。ひとつに結ばれた家族の生活は,あらゆる面において報いをもたらすものです。―ガラテヤ 5:22,23。
19,20 (イ)青少年の関心をどの方向に賢明に導きますか。だれが導きますか。(ロ)新世社会の青少年が古い世の青少年にくらべて,著しく異なるのはなぜですか。(ハ)どんな状態について,まだしらべることが必要ですか。何時しらべますか。
19 子供を日曜学校にやったり,あるいは子供の望むままに近所の「遊び仲間」や,色々な青少年団体に入れたりすることは行なわれません。10歳代の子供たちは,放課後の時間を新世社会の他の青少年と共に過ごします。そして有益な事に時を使うのです。神のお造りになった,興味深い「自然の本」から,広い分野にわたって自然の驚異と美を探ることができます。あるいは特別に宣教活動に従事することもあるでしょう。それは心をおどらせる活動です。目ざといクリスチャンの両親は,子供の熱意と関心を正しい方向に導き,例えばハイキングに連れて行って自然を観察するとか,神権的な大会への行き帰りに見学旅行をするなどのことをします。また有益ならば,10歳代の子供たちを自分の職場に連れてゆくこともあるでしょう。社交的なパーティーに出席するよりも,両親に連れられて,価値ある分野に関心を向け,また探求するほうが,子供にとっても楽しいのです。
20 古い世の社会の青少年は,放任され,欲求不満に悩み,性のことで頭をいっぱいにし,射幸心を持ち,捨てばちで,平衡と落着きを失っています。実際のところ,これでは将来円熟したおとなとなることはできません。新しい世の社会の青少年は,これらの者よりもはるかに先んじています。神権的な青少年は勇気があり,活発で,自分たちが有用であり愛されていることを知っています。また熱意を持ち,尊敬を示し,人もうらやむほどの徳と節制を保っています。このすべては,ひとつに結ばれた家族の結ぶ実のひとつに過ぎません。離婚は見られず,円満な結婚生活が行なわれています。家庭生活全般が,徳と名誉のあるもの,喜びのあるもので,その神エホバに名誉を帰するものです。しかし,家族全部がエホバの証者ならば,その通りに行なうこともでき,それは本当にすばらしいと,ある人は言うことでしょう。クリスチャンは分裂した家庭内でどのようにふるまうか,そして新世社会の成員としての立場をどのように保つかという質問が出ます。次の記事でこの問題を考慮しましょう。
[脚注]
a 1961年8月27日付ニューヨーク・タイムス・マガジン,21頁。
b 1961年8月27日付ニューヨーク・タイムス・マガジン,78頁
c 1961年10月22日付ニューヨーク・タイムス・マガジン,81頁。
-
-
分裂した家庭内でのクリスチャンの行いものみの塔 1962 | 8月1日
-
-
分裂した家庭内でのクリスチャンの行い
「妻よ,あなたが夫を救いうるかどうか,どうしてわかるか。また,夫よ,あなたも妻を救いうるかどうか,どうしてわかるか」― コリント前 7:16,新口。
1,2 (イ)振舞に関するどんな出来事が,カナダで起きましたか。(ロ)公に謝罪したことは,どのように精神的な勇気を表わしていましたか。そのことはどのような祝福になりましたか。
1 「編集者への手紙: この事に関係のある奉仕者におわび致ましす。ラルフ〔の町〕を自動車で通行中,卵をぶっつけられた奉仕者のかたは,ガソリン・スタンドで車を洗い,勘定書を私共に送って下さい。そのようにして私共の謙遜な謝罪を受け入れていただきたいと思います。またラルフに再びお出での節は,宅にお立ち寄りいただき,親しくお目にかかった上でおわびしたく存じます。私共がこのいわゆる悪ふざけをさせた訳ではありませんが,一緒にいた三人の友人のためにも謝罪の意を表したく存じます。その時のいたずらは冗談事ではありませんでした。このかたと通行の皆さまに対し,このような悪ふざけはもうないことをお知らせいたします。マークとマービン・カグネット」。
2 カナダ,サスカッチワンの不良少年の一団からこの悪ふざけをされたのは,エホバの証者の地域の奉仕者でした卵をぶつけられた奉仕者は車をとめ,少年たちが隠れていると思われる家に行って両親に事の次第を話し,通行人を侮辱しかつ危害を与えるいたずらをやめさせるように強く抗議しました。母親の謝罪の言葉を聞いて,奉仕者は名前を告げずに立ち去り,1週間後に右の公開謝罪状が土地の新聞に出たのです。地域の奉仕者は土地の奉仕者と連れだって,謝罪の意を表わしたこの両親を訪問しました。この両親は落胆しており,自分の宗教に対する信仰を失った人でしたその家族のために,さっそく聖書研究がとりきめられ,両親はこの「ものみの塔」のほかに「目ざめよ!」誌をも予約しました。なお奉仕者は,自分で車を洗ったので費用はかからなかったことを告げました。二人の奉仕者がいとまを告げた時,この婦人は,このようないきさつでお会いするようになったのは悲しいことでしたが,結果としては家族そろって聖書を勉強できるようになったので大変喜んでいますと語りました。正しいことをしようとして心をわずらわせたこの両親のとった公の謝罪の行いは,立派なものです。その勇気のある行いは祝福となりました。―コリント後 7:10。
3 (イ)献身したクリスチャンでなくても,ある人々は強い道義的観念を持っていることを,どのように示しますか。(ロ)そのことは,何を励ますものですか。
3 この経験から分かる通り,エホバの証者でない多くの人も,強い道義心を持ち,何かのはずみで現実に目ざめれば,けいけんな悔改めに導かれて真理と将来の希望を学び祝福を得ます。そのことを知るとき,分裂した家庭に住むクリスチャンは新世社会と共に正しい行いを忍耐強くつづけるように励まされます。著名な実業家で,エホバの証者の妻を持つ不信者の夫は仲間の実業家に向かって,自分は家に帰るとき,妻が「酒のことよりも聖書のことに一生懸命」なのを見て嬉しいと語っています。目的もなく,快楽を求めて,酒に酔うことも多い実業家連中の妻は感心できないと,この人は言っているのです。では,良い評判を得,おそらくは不信者の家族を救うために,分裂した家庭のクリスチャンにはどんな行いがすすめられていますか。―コリント前 7:16。
4 不信者とおり合ってゆくことは,何時でも神の律法に対する従順と関係しますか。
4 エホバへの従順という点において,妥協することは絶対に許されません。エホバの御子イエスは,分裂した家庭について話されたとき,次のように前置きしました。「人の前でわたしを拒む者を,わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」。(マタイ 10:32,37,新口)しかし分裂した家庭において他の者と折り合ってゆくことが,何時でもエホバの律法に対する従順という問題につながっているわけではありません。ある場合に,それはクリスチャンの信仰と行動,つまりなぜそう考えるか,なぜ集会に出席することを望むか,なぜ家から家に行って公の証言のわざをするかを,家族の他の者に正しく理解してもらうことに依存しています。あるいは実際には神の要求していない事柄,別の時に別の方法で行なえば,献身していない家族の者の利害や行動と衝突せずにすむ事柄を,争いの種にしているかも知れません。時に,献身している者が,個人的な問題つまり神の要求されていない,ある意向,見解,意図あるいは行いを固執しているかも知れません。この事を正しく理解するため,これらの事情の下でクリスチャンがどう行なうべきかを考慮しましょう。
妻が不信者
5 分裂した家庭を持つクリスチャンの夫は,どんな責任を受け入れますか。
5 反対しているか無関心な,妻を持つ献身したクリスチャンの夫の立場はそれとは,逆の立場とくらべてはるかに恵まれています。その夫は聖書に従ってかしらの地位を行使でき,しかもそうしなければなりません。妻は次のことをすすめられています,「妻たる者よ,主に仕えるように自分の夫に仕えなさい……夫は妻のかしらである」。この従属のゆえに,夫は妻と子供のために必要なものを備えなければなりません。使徒はテモテ前書 5章8節(新口)にそのことを述べています,「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになる……」。これは法律上の義務でもあります。たいていの場合,クリスチャンに反対する妻は,服従することを拒絶しても,法律をたてに夫に義務の遂行を迫ります。そのうえ夫は妻を愛し,その伴侶でなければなりません。これには性的な満足という結婚の分をつくすことも含まれます。それを与えなければ,他にそのような満足を求めさせ妻の不貞をすすめることになります。従って,たとえ妻が反対したり,きわめて無関心であっても,クリスチャンの夫はその義務をはたさなければなりません。―エペソ 5:22,23。コリント前 7:3。
6,7 (イ)クリスチャンの夫は不信者の妻を喜ばせるために,どんな聖書の要求をまげてはなりませんか。そのいくつかをあげなさい。(ロ)また反対する妻をどのように遇するべきですか。
6 このような境遇の夫が,妻を喜ばせるため,あるいはその反対をやわらげるために,自分に課せられている聖書の要求をまげることはできません。研究すること,他のクリスチャンと集まること,宣教奉仕を定期的に行なうことは,献身した人全部に対する要求です。真理にはいっていない妻の福祉を,それらの事のためにおろそかにする必要はありません。夫は妻にすすめて,自分の崇拝に妻を伴うことができます。しかし妻がそれを拒絶しても,夫は崇拝に参加しなければなりません。どんなことがあっても自分はそれをするというのでなければ,なぜその行いを一緒にすることを妻にすすめるのですか。またクリスチャンの研究,集まり,宣教奉仕をつづけることを夫があきらめてしまうなら,妻のわがままと反対を助長することになるでしょう。反対する妻を持つクリスチャンの夫に子供があれば,その肉体の必要とするものだけでなく霊的な福祉にも気を配らねばなりません。子供を集会に出席させ,個人的な勉強をさせるのも,そのひとつです。夫はかしらの権を持つゆえに,子供たちにこれらのことをさせることができます。「あなたがた,父たちよ。……エホバのこらしめと,権威ある助言とに従って子供を育てなさい。」(エペソ 6:4,新世)このことをしない父親は,家族の霊的な必要物を備える者としての務をはたしていません。
7 家族のために霊的な事柄をおもんばかる父親は妻を助けて真理を悟らせるため,できるかぎりの巧みさと親切を示すでしょう。怒ったり,どなりつける必要はありません。家族以外のクリスチャンでない人に対する時と同じく,巧みにまた聞く人が最も受け入れやすいように真理を語ることが必要です。そのことを忘れてはなりません。反対する妻を持つ夫は,同じく柔和に,また真理に対して最大の尊敬と理解を得るような方法で真理をすすめねばなりません。
夫が不信者
8 不信者の夫を持つ妻には,どうしてもっと大きな問題がありますか。
8 しかしこれとは逆の場合,すなわち崇拝の点で自分と一致していない不信者の夫を持つ妻の立場はどうですか。他の事は同じとしても,この場合に妻の立場は余計に難しいものになるかも知れません。夫が真理にはいっていないからと言って,妻がかしらの地位を行使することはできないからです。むしろ妻は妻として服従しなければならず,職業,居住する場所,生活水準などに関して,夫の決定に従わなければなりません。このような立場の婦人は,夫がクリスチャンの献身を受け入れなくても,夫を本当に愛することができますか。夫が愛情を示し,道徳的に清い人ならば,たしかに愛することができます。彼女は献身する前から夫を愛していました。献身したからと言って,愛をなくしたわけではありません。彼女は結婚の分を夫に与えるべきですか。そうです。二人は今でも結婚しているからです。献身は結婚の絆を破りません。たとえ夫の反対が時に激しくなり,献身した妻の神権的な交わりや奉仕をやめさせるように仕向けても,夫に対する妻の通常の務をはたさなければなりません。家事をはたし,食事をととのえ,できるかぎり夫のために尽くさなければなりません。夫が暴力をふるって危害を加えるほどになれば,妻は身の安全を図るため,はじめて別居を考えることができます。―コリント前 7:15。
9 夫が日曜日の証言の活動に反対するとき,妻はどうすべきですか。
9 夫が家から家の宣教奉仕に反対するとき,どうすべきですか。たとえば日曜日には夫が家にいて,妻の野外奉仕を禁ずる場合,あるいは二人一緒にどこかで過ごすことをきめる場合,どうしますか。妻は奉仕の計画を変えて,家族の意向と衝突しない時に奉仕をするのが賢明でしょう。それは洗濯その他のために,奉仕の予定をやりくりするのと変わりません。良いたよりの伝道を命じたイエスの言葉は,それをするのが日曜日の朝だけであるとは述べていません。それは望ましいことかも知れませんが,それでもかしらである夫の意向をいれるため,他の時に証言することは,エホバに対して不忠実になることではありません。
10 妻は子供の霊的な事柄にどう気を配りますか。それはなぜですか。
10 不信者の夫を持つクリスチャンの妻は,たとえ夫がそれに強く反対しても,霊的な面で子供たちに多くの良い感化を与えることができます。この事をするにあたっては,父親が真理を悟らないからといって,子供たちを父親から離反させないように注意しなければなりません。しかし子供が幼くて,昼間,家にいるあいだ,毎日努めて子供に聖書のことを話して聞かせるべきです。父親が子供を教えない場合母親が全くその代りをすることはできませんが,それでもできるだけの事をして子供を教えるのは母親の義務です。箴言は(6章20節において)「あなたの母の教を捨てるな」と述べ,(10章1節)において愚かな子は母の悲しみとなると述べています。それで子供を教える責任は母親にもあることが分かります。それは母の教えを受けなかった子供が後に愚かな行いをして,母の恥とならないためです。なぜ妻はこれらの障害物に忍耐し,巧みに頭を働かせ,一見遠回りとも見える方法で忠実を守る道を切り開いてゆかねばなりませんか。それは妻に服従を命ずる原則に従うためです。それはエホバの御言葉と律法に忠実を示す道です。これによって子供たちは,父親が責任をはたさなくても,クリスチャンの道を教えられて成長することになるでしょう。
11 不信者ではあっても,物を見る目のある夫にとって,大きな価値のあるものは何ですか。
11 しかし,真理に好意を示さない夫をも含めて,妻が家族に聖書を語ってはいけないという事ではありません。夫に聖書のことを話すには,いらだたせるような方法でなく,最も良い時期を見はからってしとやかに賢明に行なうべきです。夫のくつろいでいる時,きげんの良い時を選びなさい。クリスチャンの妻の正しい行いは,不信者の夫に深い感銘を与えます。時にそれは外見の魅力以上のものです。使徒は述べました,「あなたがたは,髪を編み,金の飾りをつけ,服装をととのえるような外面の飾りではなく……柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである」。(ペテロ前 3:1-6,新口)たとえ不信者であっても物を見る目のある夫にとって,これは本当に大きな価値があります。
子供たちが不信者
12,13 (イ)不信者の子供に対するどんな態度は間違っていますか。(ロ)聖書に興味がないように見える子供の扱い方に関して,どんな経験がありますか。
12 両親と子供たちの間に分裂の見られる家庭があります。小さな子供たちでさえ,集会の出席や奉仕に出ることを妨害するかも知れません。10歳代の子供は時に反抗的となり,聖書を毛嫌いします。クリスチャンの両親は次のように感ずるかも知れません。「うちの子供は真理に興味がない。縁を切ってやるつもりだ。法律の要求以外には何もしてやらぬ。家において食べさせ着させるが,成年に達したら勝手にさせる。そして私は妻と開拓奉仕をしよう」。これはキリスト教の原則にかなう正しい態度ですか。
13 そうではありません。クリスチャンの両親には,衣食住を与える以上のことが要求されています。「エホバのこらしめと,権威ある助言とに従って子供を育て」るには,聖書を教えなければなりません。(エペソ 6:4,新世)クリスチャンの会話を何時もすること,聖書の討議される集会に子供を連れてゆくのはそのひとつです。集会の価値を低く評価してはなりません。集会は子供にとって映画やテレビほど面白くないかも知れませんが,それでも子供を集会に出席させることが後になって報われることは経験からも明らかです。両親に連れられて集会に来た少年は二人とも退屈しました。一人は両親が集会に出席しているあいだ近くの映画館に行くことを許され,一人は父親が無理にでも集会に連れてきて集会の終わるまで聞くようにさせました。最初の少年はこの世の人と結婚して真理を離れましたが,他の少年は献身した少女と結婚して後に二人ともベテルの家族のメンバーとなりました。従って両親は子供を監督し権威を持つ者として,この世の事に心を向けている子供を何時でも集会に連れてこなければなりません。法律的また聖書的に両親の監督下にある間,このような子供はなおのことキリスト教と密接に交わらせることが必要です。事情はさまざまです。大きくなってますます道を離れ,言うことをきかず,聖書への反対が根強くなればそれだけ矯正は困難となり,厳しい手段が必要になるでしょう。―箴言 23:13。
14 問題のある子供に必要なものは何ですか。両親はどのようにその子供を扱いますか。
14 子供たちにキリスト教をたたき込む必要はありません。生来の気質が聖書に向いていない子供の場合,小言や文句をやたらに言うなら,子供を真理に導き入れるよりは,それから遠ざけてしまうでしょう。そこでクリスチャンの両親は,教える能力を強化し,高度に向上させて,真理を好まない子供の問題に対処できるようにすべきです。このような子供に必要なのは,理解のある巧みな扱いであって,何時も叱りつけたり,あるいは真理を受け入れている子供に劣ると口に出して言うことではありません。ひとつの役に立つことは,クリスチャンの家庭にいて幸運であると感じさせることです。彼らは高い標準に従う社会の者であり,聖書の理解を与えられているので,すぐれた見識と理解を持つ者と他の人から見られていることを感じさせなさい。真理に対する子供の無関心を最少限におさえなさい。勉強について言えば,たいていの子供は,多少なりとも言いきかせて手助けすることが必要です
両親が不信者
15 (イ)不信者の親を持つ信者の子供は,どんな問題に面しますか。(ロ)信者の子供のとるべき正しい道は何ですか。
15 子供たちが真理の知識を学んでも,両親が異なる宗教を持っているか,あるいは無宗教の場合をこんどは考えて下さい。集会に出席したり,家から家に伝道する野外奉仕の特権を,親が子供に許さない場合どうしますか。子供は親のとめるのを振りきって,その意向を真向うから無視し,家を飛び出しても神権的な活動に参加しますか。それはクリスチャンの行いではありません。子供は父と母を敬えと定められているからです。交わりを全く禁ぜられたならば,霊的に生きつづけ,他の人に伝道して神の御心を行なうために,やや極端な手段をとることが必要かも知れません。エホバの命じていることをやめること,あるいはクリスチャンの原則を破ることを命令されるならば,クリスチャンは人間よりも神に従わなければなりません。しかし,たいていの場合,証者でない両親の反対は,献身した子供たちがエホバの御心を行なうのを直接に禁ずるほど極端なものではありません。従ってこのような親から拘束を受けても,それは健康,世俗の仕事,身体障害などが妨げになっている場合と同様です。人の才能に応じて何らかの合法的な手段で妨げを除くことができるのでなければ,それに耐えるのがクリスチャンの行いです。クリスチャンの行いをする未成年の子供は,証者でない両親にも従順と尊敬,思いやりを示し,協力しなければなりません。この点につき,ルカ伝 2章51,52節にあるイエスの手本に注目して下さい。従って献身した子供たちは,たとえ限られてはいても,証者でない両親が許すだけの交わりと奉仕,また個人研究によって真理の中に進歩しつづけ,「よい時機を待つ」ことができます。その間に改善した自分の能力は,成長してもっと自由な生活にはいったときに用いることができます。出エジプト 20:12。使行 5:29。
16 このような子供は落胆すべきですか。またどのようにしてエホバに誉をもたらすことができますか。
16 真理にはいっている子供の両親が真理を受けいれない場合,子供たちが従順で,親の監督権をよく認めることは,その事自体でエホバにほまれをもたらします。それはエホバの律法に従うことであり,エホバの御心にかなっているからです。子供はエホバの御命令を破って妥協することのないように十分に注意しますが,それ以外の事において親の権威に従うことは,エホバへの従順を示すことです。このような境遇の子供たちは真理にはいっている他の子供の親が課さないような拘束を加えられていても,落胆すべきではありません。むしろ,どれだけの神権的活動が許されているかを考えて,それだけを行ない,次のことを心に留めて下さい。問題はどれだけするかではなくて,できるかぎりをするという決意が大切なのです。このようにして自分の清いことと正しいことを証明し,生活によって証言することができます。「幼な子でさえも,その行いによって自らを示し,そのすることの清いか正しいかを現す」。(箴言 20:11,新口)若い人には導きが必要です。献身していない両親を持つ献身した子供は,そのことを理解しなければなりません。導きを祈り求めるのは,いちばん賢いことです。
17-19 (イ)このような子供は,どのように両親に聖書のことを話しますか。(ロ)この事柄には,隣人愛がどのように関係していますか。(ハ)「家族」に真理をすすめるには,何を使わねばなりませんか。それは報いのあることですか。
17 献身している子供は,両親に証言すべきであり,努めて聖書を説明すべきです。その場合,頭を働かさなければなりません。どんな時にも,子供は家族に対して侮りの態度をとったり,尊大であってはなりません。「欠点を数えたてる」とか,反対に対して「仕返し」をしてはならず,やり込めるために聖書を用いてはなりません。むしろ,両親に聖書を理解してもらいたいという願いを表わすべきです。両親を見下した話し方をしてはいけません。話し合いなさい。両親が聖書に賛成の返事をするように助言を求めなさい。「お父さん,他の子供と一緒になって何か悪いことをするよりも,集会に行くほうがいいと思われるでしょう」。「この馬鹿げた宗教をやめなさい」と親が言うとき,正直にこう答えることができます。「本当に馬鹿げているならやめます。でもお母さん,もしこれが馬鹿げているとしたら,どうして牧師さんはその間違っているところを指摘できないのかしら」。こうして両親の心に真理の種をまくことができるでしょう。ほどなくして,親は子供の言っている事を牧師も反論できないことを悟り,ひとつ自分で調べてみようと思うでしょう。
18 「でも私の場合は極端です」と言う人があるかも知れません。「このような事をみなやって見ました。他に何ができますか」。第一のいましめは『すべてをつくしてエホバに愛と従順をささげることである』と,イエスは述べました。(マタイ 22:37,新世)従ってどんな場合でも,宣教すなわちエホバにささげる私たちの崇拝は,他の人の命令に先んじて第一にすべきです。イエスの与えたいましめは,本質的に御父のいましめであり,イエスはそれについてこう言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである」。(ヨハネ 14:15,新口)エホバのいましめと矛盾するか,それを拒絶することになるとすれば,家族の願いに従うことはできません。イエスは第二のいましめを次のように言われました。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。(マタイ 22:39,新口)隣り人の中でも,自分の家族は,たとえ聖書に反対していても最も近い,最も親愛な者です。ゆえに自分の家族に最大の関心を寄せるのは当然です。私たちは家族を助けて真理に導きいれたいと望んでいます。私たちと同じように早く真理を悟らないからと言って,家族から離れ去るべきではありません。真理を受け入れず,無関心で,時には悪い態度を示す世間の人に対しても,私たちは何時もその人々の家を訪れて証言し,愛の心から関心を表わしています。自分の家族に対してそれだけの関心を表わすのは当然ではありませんか。では,家族を遠ざけるためではなく,その心をうるために物事をしなければなりません。偏見を抱かせるのではなくて,説得しなさい。家族に敬遠されるのでなく愛される者になりなさい。
19 真のキリスト教に家族を導き入れるため,常に計画を立て,家庭において策略を使わなければなりません。自分の家族ことに夫婦の間柄なら,よく知り合っているため,どの方法がいちばん良く,効果をあげるかが分かるはずです。反対する家族の者に対して,愛の心から忍耐を示すなら,その報いはきわめて大きなものです。
20,21 (イ)新世社会の人々を特徴づけているものは何ですか。(ロ)どうすればこのような特質を身につけることができますか。(ハ)その幾つかを説明しなさい。
20 新世社会の成員について言えば,分裂した家族の者であっても,ひとつに結ばれた家族であっても,今日,地上にすばらしいことが起きています。国家的な背景にかかわらず,新しい人格を着けた独自な人々がひときわ目立って生まれています。社会の秩序が衰えてゆく中にあって,恐れを持たない人,神のもくろまれた威厳を備えた個人が,全世界で生まれています。それは,集団的な人を生み出すソ連の社会また機械の人を作り出す民主的な社会の達成できない事です。聖書の原則を人間生活に応用することによって,以下の基本的な特質が,新世社会の人々を特色づけるものとなっています。
愛: 聖書の原則に基づき,他の人に示す無私の関心。
喜び: 心の底から感ずる喜び,楽しみ,満足,心の安らかな気持ち。
平和: 落ち着いた,静かな心の状態。思いわずらわず,和のあること。
忍耐: 忍ぶ心,寛容,我慢すること,他の人や環境に我慢する能力。
親切: 温和で同情心あり,いんぎん,礼儀正しく思いやりのあること。
善: 寛大,おうようで,もてなしの行いをすること。
信仰: 固い信念,確信,安心感をもっていること。
柔和: 気持ち,感情,怒りをおさえること。教えを受け入れる心。
節制: 肉体と情緒の力を制し,平静でつりあいのとれていること。
徳と貞節: 正直,公正で正しいことを行い,性道徳に関して廉直なこと。
合理的: 率直で近づきやすく,自分の考えを固執せず,とらわれない。
あわれみ: 情け深いこと。悔改めた人に対しては,当然のとがめをもさしひかえる。
公平: 同等の尊厳を認める。偏見を持たず,えこひいきしないこと。
偽善的でない: いつわりや見せかけのないこと。何時でも純粋で真実。―ガラテヤ 5:22,23。エペソ 4:23,24。
21 このすべてを身につけることは,これらすべての性質にひいでるエホバ神とイエス・キトストのかたちに成長することです。心を変えて新たにするため,いまエホバの証者の新世社会と活発な交わりを求めて下さい。それによって,あなたはやがて楽園となる地上で永遠の生命をうけるにふさわしい人となります。―エペソ 5:1,2。
-