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  • 家庭生活における諸問題
    目ざめよ! 1974 | 10月22日
    • れる ― も広まっています。米国には,時おり“スインガー”となる者がおよそ800万人もいると信じられています。

      結婚のきずなに対するこうした敬意の不足は,特に年若い人々に対して悲劇的な影響を与えています。

      問題をかかえる若者

      年長の人々が結婚の関係を軽視していることは,それを見る多くの若者が道徳上の規準を全く捨て去る結果になっています。“自分のしたい事をしろ”また“できる間にそれをやれ”というのが彼らのモットーです。ニューヨーク・デイリー・ニューズ紙はこう説明します。

      「結婚によらない性関係は,今では,親,大学,一般社会などによって広く認められている。抑え難い新たな風潮に逆らうのはむだであるというかのように,不道徳行為に対するある種の暗黙の容認がある」。

      不道徳の容認という風潮が高まっていることの反映として,堕胎をする若い女性が幾百万人となくいます。また,別の表われは,私生児の増加です。1970年,カリフォルニア州は,4万6,600人という私生児誕生の記録を作りました。米国全体について見ると,18歳未満で母親になる少女は1969年に20万人以上いました。

      スウェーデンでは,赤子五人に一人は結婚関係外で生まれています。ニュージーランドでは,赤子八人に一人は私生児です。カナダでは生まれ出る子十人に一人は私生児であり,オーストラリアでは12人に一人が私生児です。ロンドンのデイリー・メイル紙はこう伝えました。「十代の花嫁の三分の一は結婚式の日にすでに妊娠していた」。

      離婚の起きていない家庭ではどのような事が生じていますか。一つの点として,自分の子どもをほとんどあるいは全く制御できない親が多くいます。品行について言い合いの絶えない家庭も多くあります。あるいは逆に,すでに暗黙のあきらめがあり,親と子どもがそれぞれ別の道を行く場合もあります。本当に助けを必要としている家庭が幾百万となくあります。あなたも,家庭生活の問題について何かの助けを得ることは喜ばれるかもしれません。家庭の状態を改善するために,妻,夫,また親の行なえることはたくさんあります。本誌のこの先の記事ではそうした点を扱います。

  • 妻は何を行なえるか
    目ざめよ! 1974 | 10月22日
    • 妻は何を行なえるか

      絶望した調子でこのように尋ねる妻が多くいます。結婚生活の問題が自分の手ではとても解決し難いように見えるのです。

      不幸なことに,そうした妻は決して例外ではありません。むしろ,そうした妻のほうが多いように見えます。これは,心理学者イズラエル・チャーニーが,「大部分の結婚の惨めとも言える状態」と呼ぶものの結果です。

      したがって,家庭生活の問題がどれほど深刻でもそれを首尾よく扱う方法があるということは,それを聞く多くの人にとって喜ばしい知らせであるはずです。結婚の起源について考えるなら,問題とその解決の両面に多くの光を投ずることになります。

      結婚はどこで始まったか

      結婚は人間が始めたもの,遠い昔になんらかの過程で人間が考え出したものと信じている人が多くいます。こうした考えが,今日の惨めな家庭崩壊の根本原因となっています。なぜそう言えますか。

      なぜなら,そうした考えは,結婚生活上の問題に関する適切で最も優れた助言を軽く見るからです。結婚の起源は,それより高いところにあります。全能の神自ら最初の人間男女を創造して,これに生殖の力を与え,その二人を結婚関係にある男女として結び合わせました。神はまた,結婚関係を成功させるための指示をも聖書の中に記録させました。そうした指示にしっかり従うとき,結婚生活を成功させることができます。

      聖書は本当に助けとなるか

      人々は永年聖書を所有してきたのにその結婚生活はうまくいっていない,と反論する人たちがいます。離婚率が高くなっているのは,結婚生活が不幸でそれに耐えられない人が多くなっているためだ,とそうした人々は言います。

      こうした論議にはある程度の真実があります。聖書を持っていながら幸福でない夫婦が幾百万となくいます。しかし,そうした夫婦はその聖書を読みましたか。さらに大切な点として,そこに含まれる原則を自分の生活に当てはめましたか。簡明な事実として,聖書に含まれる忠告はすでに多くの夫婦を助けて家庭の問題を成功裏に処理させているのです。

      結婚の幸福を願うなら,家庭の諸問題を,聖書の述べる事がらに照らして少なくとも調べてみるのが賢明です。

      性が問題となっている場合

      結婚生活上の大きな問題として性に関する事がよく指摘されます。これは,広報手段によって広められる非現実的な見方に起因している場合が少なくありません。一般の読み物,雑誌,映画などは,“恋に落ち入って,その後いつまでも幸福に”生活する男女について扱います。文学書も性の快楽を強調し,現実を離れた夢をいだかせる場合が少なくありません。

      一例として,ある若い妻はこう語りました。「わたしは,性が自分の想像できない何か深い陶酔感を与えてくれ,遊技の機械にぱっと明りがつくように,それによって世の中が急にすばらしい所となるようにと願っていたと思います。それは差し支えないのですが,わたしは常に,『これがすべてだろうか,これが本当にすべてだろうか』と考えるようになっていました」。

      この妻の優先する関心は,自分が性的な楽しみを得ることでした。彼女は満足していませんでした。夫が性的な面で自分を満足させてくれないということ,これが多くの女性の不満となっています。そのような場合,妻は何を行なえるでしょうか。妻がより大きな満足を持つことは可能ですか。聖書は何か役だつ助言を述べていますか。

      聖書の差し伸べる率直な勧めのことばに注意してください。「夫は妻に対してその当然受けるべきものを与えなさい。また妻も夫に対して同じようにしなさい。互いにそれを奪うことがないようにしなさい。ただし,定めた時のあいだ相互に同意し(た)……場合は別です」― コリント第一 7:3,5。

      聖書のこの助言に従う場合,結婚している人はだれを喜ばせることに主に関心を持つべきですか。前述の妻の場合のように,自分自身ですか。いいえ,そうではなく,自分の配偶者です。聖書におけるここでの基本的な原則は,与えることです。自分自身ではなく,配偶者の福祉と喜びが優先されるべきものです。これは聖書の別の原則とも一致します。「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」。「愛は……自分の利を求め(ない)」。―コリント第一 10:24; 13:4,5。

      しかし,夫を喜ばせようとすることが,どうして妻の満足を増し加える結果になるのですか。性交の喜びは,どんな心と思いをいだいているかに大きく依存します。妻が,性関係を,夫に対する自分の深い愛を表示する機会と見なすなら,その結果として,妻自身もその関係にいっそうの喜びを見いだすものです。妻は,自分の知覚にばかり思いが集中しなくなると,それによってさらにゆったりした気持ちになります。何か快くないものを胸にいだいていた場合でも,それは解け去り,夫婦間の行為に自分が求めていた喜びは自然な結果として満たされます。

      かつて地上に存在した最も偉大な教師であるイエス・キリストは,自分を与えることが,自分自身の満足にもなることを示しました。イエスは,「受けるより与えるほうが幸福である」と語りました。この原則の真実さは,親密な夫婦の関係において繰り返し実証されてきました。―使徒 20:35。

      さらに,聖書の助言に従うことは,それが夫に与える影響のためにも,妻の満足に役だちます。それは,他のどんな事にも勝って夫の気持ちを動かし,妻に対して利己心のない態度で行動させ,妻の願いや必要をいっそう思いやる気持ちをいだかせます。多くの結婚関係においてそのとおりのことが起きました。与える点で自分からすすんで行動する人は,結果として自分も同様のものを受けるのです。―ルカ 6:38。

      こうして聖書は,結婚関係における当然のものを与えるという点で愛を働かせ,利己心のない態度で行動することを勧めています。これを実行してください。それによって結婚関係の満足がやがてどのように増し加わるかを見てください。

      夫が物事を率先しない場合

      結婚生活の助言者として20年以上の経験を持つレベカ・リスウッド博士は,結婚生活上の別の大きな問題に注目してこう説明しています。「わたしの所に来る相談者の中には,自分の夫の軟弱さや決断力の不足について苦情を言う人が多い」。

      あなたもそうした苦情を持つ人ですか。あなたの夫は,あなたが当然期待するとおりには家庭の務めを果たさないことがあるかもしれません。あなたはこの点で何を行なえますか。

      ここでも聖書が助けを差し伸べます。聖書は,男と女がそれぞれ多少異なった特質と責任を持つものとして創造されたことを示しています。そうした違いは,それが結び合うことによって互いの幸福に資することを目的としています。男を創造した後,創造者はこう言われました。「わたしは彼のために,彼を補うものとして助け手を造る」― 創世 2:18,新。

      こうして男女は共になるように創造されました。それぞれの特質はつりあいが取れ,互いに補い合う関係にありました。それぞれは他方によって満たされる必要を持つものとして創造されました。女は自分の夫の助け手として造られたのであり,そうした役割のゆえに聖書はこう述べます。「妻は……自分の夫に服しなさい。夫は妻の頭だからです」。(エフェソス 5:22,23)これは実際に即しています。家庭の中に頭となる者がいなければ,たいていは不一致と混乱が生じるからです。

      『でも,その点こそ問題となっている。わたしの夫は頭としての務めを果たさない。物事を率先してくれない』と言われるかもしれません。とはいえ,夫が率先して物事を行なわないからやむなく自分が代わってしなければならない,と感じる人がいるかもしれません。しかし,家庭での本来の役割を果たせるように夫を励ます点で,あなたはさらに多くのことを行なえないでしょうか。あなたは夫の提案や導きを求めますか。あなたは,自分が夫の指導を仰いでいることを示しますか。夫のする事を軽く見るような態度をすべて避けていますか。小さな点でも夫がすすんで物事を決め,家庭内の事がらを率先して行なう場合,あなたはそれに対する感謝を表わしますか。それとも,夫の決定に逆らって議論しますか。

      あなたが結婚関係において神から受けた自分の役目を真に果たすなら,夫も自分の役目をしっかり果たすようになるでしょう。そしてこれは家庭の平和と幸福に本当に資するものとなります。

      意志が通わなくなった場合

      別の苦情,妻たちの間で最も共通していると思えるのはおおむね次のようなものです。『わたしの夫は求愛時代には思いやりがあったが,今はそうではない。ほとんど家に居ないし,居る時でもあまり話しかけてくれない』。

      意思が通わないという問題があなたのご家庭の幸福を危うくしていますか。しかし,そうであるべき理由はありません。聖書は,結婚している人が物事を現実的に見るように助けます。

      例えば,聖書は,わたしたちが皆不完全であるという点を強調しています。「わたしたちはみな何度もつまずくのです。ことばの点でつまずかない人がいれば,それは完全な人で(す)」。(ヤコブ 3:2)それで,ことばや行動の面で夫婦間の完全な調和を期待するのは現実的なことですか。以前のことを考えてください。結婚する前,あなたは自分の兄弟や姉妹,また学友や部屋仲間との間に完全に友好的な関係を持ち,厳しいことばを交わすようなことは一度もありませんでしたか。もしそうでないなら,配偶者との間にどうして全くきずのない関係を期待すべきでしょうか。

      意見や感情の違いのために問題の起きることがあっても驚かないでください。言い合いや衝突があると,『夫はもう自分を愛してくれていない』と思う妻もいるようですが,そのような考え方はしないでください。問題を客観的な目で見てください。感情的な深い傷を感ずることがあっても,傷つけられた自分の感情だけに目を留めるのではなく,また仕返しのことを考えたりしないでください。それは問題を大きくするだけです。むしろ,その事態を直すためにどんな事ができるかという点を考えてください。それをすぐに実行してください。聖書の助言を忘れないでください。「愛は……刺激されてもいらだちません。傷つけられてもそれを根に(持ちません)」― コリント第一 13:4,5。

      自分の行状を分析してください。あなたの側にもある程度の落ち度がありませんか。例えば,「妻は夫に対して深い敬意を持つべきです」という聖書の諭しにどこか従っていない点がありませんか。(エフェソス 5:33)「深い敬意」をいだく妻は,夫の不興となるような事をすべて避けます。そうした敬意が欠けているために,夫が冷淡な態度を取っている場合もあります。

      多くの夫は,争い好きな妻の口うるさい小言からは離れていたいと思います。(箴 25:24; 27:15)離婚した一男子はある時こう語りました。「わたしとエステルの間をおしまいにしたものがなんだか分かりますか。何がなんでも自分が正しくなければ気が済まないという彼女の態度でした。……何かまちがいがあると,『ほらわたしが言ったじゃない』というのが彼女の決まり文句でした」。あなたは,夫に対する敬意の欠けた言い方をしないように注意していますか。

      「深い敬意」は妻の装いによっても示されます。あなたは夫に対して魅力的であるように努めていますか。結婚前,身の装いや清潔さに対するあなたの注意が今と同じほどであったなら,彼はあなたの所に引き続き訪ねて来たでしょうか。家の中についてはどうですか。それは清潔できちんとしていますか。食事はおいしく整えられていますか。ご主人が帰宅する時,あなたは本当に愛情を込めて迎えますか。夫に対する敬意の中にはこうした点に対する細かな配慮も含まれます。

      『夫はもうわたしに話してくれない』という,しばしば聞かれる苦情について,ある婦人はこう語りました。「男性が妻に話しかけないことの一番の理由は,わたしたちがあまりにも下手な聞き手である,という点にあります」。あなたの場合はいかがですか。ご主人が話す時,あなたは差し出口をしたり,雑誌のページをめくったり,何かほかの事に聞き耳を立てたりしていますか。ご主人の意見や感情に対して関心を持たないのは,確かに「深い敬意」を示すことではありません。

      聖書の助言に照らして自分の行状を吟味することによって,あなたは,家庭の問題をより巧みに扱うためにどうしたら良いかが分かるでしょう。神の教えを当てはめることによって,問題のあった幾万もの家庭が満足と幸福を得るようになりました。

      夫が答え応じてくれない場合

      しかし,妻の努力にもかかわらず,夫が依然として生活を難しくしている場合はどうですか。クリスチャンの妻にとっては,そうした状況のもとでも相当の満足があります。聖書はこう述べているからです。「善を行なって苦しみに遭っている時,あなたがたがそれを耐え忍ぶなら,それは神にとって喜ばしいことなのです」― ペテロ第一 2:20。

      そうした苦しみを忍ぶ点ではイエス・キリスト自身が手本を示しました。聖書はさらにこう述べています。「彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました。……同じように,妻たちよ,自分の夫に服しなさい」― ペテロ第一 2:23–3:1。

      もとより,これはそれほど易しくはないかもしれません。イエスにとっても,柔順な態度で迫害に耐えるのは容易なことではありませんでした。しかし,「信者でない夫」がいても,それは離婚を許す根拠とはなりません。(コリント第一 7:13)しかし,キリストの場合と同じように,妻は,自分が全能の神の喜ばれる事を行なっているという自覚から来る満足また充足感に支えられて正しい道を歩み続けることができます。そして妻は,自分の忠実な歩みが神に覚えられ,義の新秩序で報いられることを確信できます。―ペテロ第二 3:13。啓示 21:3,4。

      家庭の問題を首尾よく扱う点で妻はこの程度までの事を行なえます。問題のさらに完全な解決のためには,夫からの協力が必要です。

  • 夫の行なえる事がら
    目ざめよ! 1974 | 10月22日
    • 夫の行なえる事がら

      結婚生活の成功のためには夫婦双方の努力が必要です。しかし,家族内の状態に対してより大きな責任を持つのは夫です。これは夫が占める立場のためです。神のことばである聖書はこう述べます。「夫は妻の頭(です)」― エフェソス 5:23。

      夫は,問題の主な原因は妻の側にあると感じるかもしれません。しかし,たとえ事実そうであっても,自分の監督下にいる人々の問題を首尾よく扱うことが良い頭のしるしではありませんか。

      『わたしの妻の場合は別だ。わたしの妻と平和に過ごすことは,会社の百人の男を扱うことより難しい』と反論する人がいるかもしれません。

      こうしたことばにはある程度の真実があるでしょう。男子が扱う最も難しい問題は往々にして家庭の問題であるからです。家族の取決めを創造したかたが,妻をどのように扱うべきかに関する助言を夫に多く与えているのはそうした理由によるに違いありません。人を創造した神は,夫が妻をどのように扱うべきかを最もよく知っておられます。

      親密で暖かな夫婦関係のかぎ

      創造者は,結婚関係にある人が暖かく親密な関係を楽しむことを意図されました。それゆえに,女を,男を「補うもの」として設計されました。したがって,夫婦は単に住まいを共にする知り合いどうしではなく,「一体」となるものでした。(創世 2:18,24)夫婦それぞれが持つ特質はつりあい,互いに補い合い,そのゆえに本当に喜びある関係が生まれうるものでした。しかしながら,夫婦の間のそのように親密で暖かな関係はむしろまれなものとなっています。

      一つの点として,自分の妻が性の相手としてはあまりに冷たすぎると苦情を述べる夫が多くいます。しかし,それはなぜですか。問題はどこにありますか。家族の頭として,夫はその問題を賢明に扱うべきです。

      聖書はこう述べます。「夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する者は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,またたいせつにします」。(エフェソス 5:28,29)この忠告はどれほど大切ですか。女性は自分の夫に愛されることが本当に必要ですか。

      もとよりそうです。結婚問題の助言者は多くの場合この点を強調します。例えば,デイビッド・ルベン博士はこう述べました。「妻は,優しさ,思いやり,愛の保証を含む特別な意味での配慮を特に必要とする」。

      次の点は基本的な真理です。つまり,自分は愛されているという意識がなければ妻は真に幸福には感じないという点です。したがって,夫婦の間に親密で暖かな関係があるためのかぎは,夫がこうした必要を常に満たすことです。聖書は夫に対して,「あなたがたひとりひとりも,それぞれ自分を愛するように妻を愛しなさい」と勧めています。―エフェソス 5:33。

      愛はなぜ表現されることが必要か

      しかしながら,夫は,妻に愛を表現することはことさらに必要ではないと感じている場合が多くあります。物質面で扶養しているから,愛の証拠はそれで十分であると考えるためです。しかし,愛情の表現がなされない場合,それは妻にどのように作用するでしょうか。一人の妻からの次の手紙はある程度のことを伝えるでしょう。彼女はこう書きました。

      「わたしの問題はこの点です。わたしは……ちょっとした愛情のことば,優しいほめことば,台所で働くわたしに軽く手をかけてくれるようなことにとても飢えています。夫のひざに抱かれるような折を求めていますが,一度でも愛情深く抱き締めてくれるなら,自分の持つすべての物質上のものと取り換えてもよいと感じています」。

      そうです,妻は愛を示されることが必要です。それを受けると,妻は輝き,満ち足りた気持ちを深くし,身体的な美しさの増し加わることさえ少なくありません。婦人はこうした愛の必要なものとして創造されました。妻を愛することを神が夫に求めておられるのはこのためです。この助言に従わないことが多くの人に悲劇的な結果をもたらしてきました。事実,今日の多くの結婚に見られる不幸の主な原因はこの点にあります。なぜそうなのですか。

      夫の愛情と優しさに飢え渇いた妻は自分について不安に感じ,女性としての自分に自信を失い易いからです。夫に対して腹だたしい気持ちさえふくらみ,自分を顧みてくれない夫に仕返しをしようとする無意識の感情さえ起きます。こうした感情を持つ妻に,暖かく親密な性関係の相手となることをどうして求められるでしょうか。

      愛を表現する

      実際には妻を愛していながらそれを上手に表現できない夫もいます。ここでも聖書が助けになります。聖書は他の人をどのように扱ったらよいかを示しているからです。こう記されています。「優しい同情心,親切,へりくだった思い,柔和,そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなくゆるし合いなさい」― コロサイ 3:12,13。

      しかし,男子の中には,妻をそのように扱うのは男らしさのないことと感じる人もいます。しかし,妻はまさにそのように扱われるべきなのです。事実,女性は,厳しくて要求的な男子にではなく,親切で思いやりのある男子に答え応じるように神によって設計されています。夫がこの点を認識しないなら,妻にとって,性関係は不満足なものであり,不快でさえあります。

      多くの誤った考えに接している夫には,妻をどのように愛するべきかについて教えが必要です。創造者はその点を認め,そのゆえに,優しく思いやり深くあることを夫に勧め,こう述べておられます。「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻とともに住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい」― ペテロ第一 3:7。

      性関係の面になると,夫がこうした教えに注意を払うことは特に必要です。夫は,神が女性をどのように造ったかという点で知識にしたがって行動すべきです。女性は普通肉体的に男性ほど強くなく,感情的にも概してより繊細で感傷的です。それゆえ神は,弱い器としての妻をいたわり,その作りや限界や体の変化に配慮を払うことを,夫である人々に命じています。

      例えば,妻が非常に疲れていて,性関係を持つだけの体力がないと感じる場合もあります。夫は要求的な態度を取り,妻に対してのしかかることもできます。夫はこれを,男としての頭の権威の表明と見なし,別の時まで待ちたいという妻の意向に応じるのは弱いことであると感じるかもしれません。しかし,こうした点で妻の感情を尊重するのは弱さの表われではなく,むしろ強さの表われです。自制力を働かせて妻の意向を踏みにじらないことにこそ男らしさが求められます。

      また,性交に備え,実際にそれに携わるさいにも夫は知識にしたがって行動することが大切です。妻は,夫を性的に受け入れるという点ですぐに用意ができないのであり,夫はその点を理解すべきです。妻は性的な面での反応が夫より遅いのです。

      したがって,妻に誉れを配するようにとの神の指示に従う夫は,この点も考慮に入れます。彼は,自分を受け入れるように妻を優しく辛抱強く助け,夫婦間の行為が双方にとって等しく喜びと満足を与えるものとなるようにします。妻が夫の側からのそうした利己心のない愛を経験する時しばしばどのような事が起きますか。妻の側では夫に対して暖かな愛情を感じ,それが結婚生活の他の分野で起きる摩擦をも自然に解きほぐします。

      実際のところ,性に関する事は,神の教えを当てはめるべき結婚生活の小さな一面にすぎません。夫は,知識にしたがって妻を扱い,これに誉れを配することを他の時にも忘れてはなりません。一つの点として,妻はその生理的な循環のために身体的,精神的,感情的な影響を受けることがあり,夫はその点を理解することが必要です。妻はそうした時に普通とは違う事を言ったりしたりするものです。夫はこうした点も考慮に入れ,妻のことばや行動が時に性急でとげとげしていても過度に神経質にならず,むしろ引き続き親切に扱うことに努めます。

      しかし,さらに多くの事が関係しています。結婚生活の成功のためには協力と意思の交流が求められます。夫は家族の頭ではありますが,物事の決定にあたってはまず妻の意見や好みを考慮に入れ,特に大きな問題のない場合には,妻に選択の機会を与えることもすべきです。こうして夫は妻を尊重していることを示します。

      こうして神の助言に注意を払うなら,夫婦の間には平和と幸福が生まれます。しかし,夫婦が結婚生活のいろいろな面で協力しない場合,その性関係にはどんな事が起きるでしょうか。ある妻はこの点できわめて率直に書いています。

      「男性は自分の妻が“冷淡”であると苦情を言います。わたしの結婚についてお話ししてもよいでしょうか。……わたしは,わたしの仕事について夫を会話に入れようと努めてきました……二人の間の多少の会話を始めたいと思っていろいろと尋ねても,夫は自分の仕事について一言も言いません。……

      「日曜の夜は夫が“くつろぐ”夜ですから,わたしたちはどこへも出かけません。わたしは料理と掃除に一日を過ごしたあとなので九時半には床に入ります。夫は遅くまで映画を見てから床に就きます。そして,にわかに熱っぽい性の相手を求め始めます。

      「結婚している婦人で,一週間一言も話しかけてくれなかったようなよそよそしい人にすすんで愛を表示する人がどれほどいるでしょうか」。

      確かに,これは夫が考えるべき点です。あなたの結婚生活に親密な暖かさが欠けているのであれば,それは夫としてのあなたに相当程度の責任があるのではありませんか。自分の不足の点を認め,それを正す処置を取るには謙遜さが求められます。しかし,そのようにするなら,あなたとあなたの配偶者にはより大きな満足と充足感がもたらされます。

      しかし,あなたのご家庭の問題は全く性質の異なるものであるかもしれません。夫は,自分の妻が,満足のゆく性の相手以上のものとなることを求めます。

      他の問題を扱う

      家の中を整え,おいしくて栄養のある食事を作ることも,結婚生活の必須の部分をなしています。ある夫は自分の苦情をはっきりと言いました。「他の夫たちはわたしと意見が違うかもしれないが,わたしとしては,横になってただ休む時間を取るためになんでも放り出しにしておく妻よりは,きちんと掃除された家や十分な食物をあてがわれた子どもたちを見るほうがうれしい」。

      あなたの配偶者は,聖書に描写される「有能な妻」には多くの面で及ばないかもしれません。(箴 31:10-31,新)どうしたらよいですか。

      他の家庭のよく整えられた様子や行き届いた料理などと比較して小うるさく不平を言う夫がいるかもしれません。しかし,これは妻にいらだちを起こさせるにすぎません。家の中をもっとよく整え,料理もさらに上手になろうという願いをいだかせるような方法で妻に訴えることができれば,そのほうがずっと優れています。

      家の中が乱雑で,家族が十分な食事を与えられていないなら,他の人によくない印象を与えます。そうした点に巧みに注意を促すことができます。そして,子どもがいるなら,親の不十分な手本が子どもの後の生涯にマイナスの影響を与えるという点にも注目すべきです。こうした点を愛のある優しい態度で示すなら,なんとか改善しようという気持ちを妻に与えることになるでしょう。

      妻が家事の仕方を全く学んでいないなら,それを学ぶように彼女を励まし,助けてください。彼女の努力に自分がどのように感謝しているかを知らせてください。進歩がわずかでも,誠実な態度でそれをほめてください。そして,自分の休みの日や晩などには,皿洗いや床そうじをして彼女を助けることはどうですか。これこそ,『妻を愛しなさい』という聖書の助言を実践することであり,その結果は報いのあるものとなります。

      夫自身としても道理にかなった考え方をし,過度に口やかましく言うことを避けるべきです。ある夫は,きちんと片付けることについて口うるさく妻に小言を言っていましたが,妻がしばらく入院した時,休暇を取って家にいました。数日間家事と子どもの世話をしてそこにどれほどの仕事が含まれているかを知った夫は,口やかましく言ったことについて妻に謝りました。

      ですから,思いやりを働かせ,批判や要求をするよりも,むしろ良い点をほめることに目ざとくあってください。そうすれば,改善のためのあなたの提案は喜んで受け入れられるでしょう。

      夫婦の間にどのような問題が起きようとも,『夫は妻を愛すべきです』という点を忘れない限り,あなたはその事態を首尾よく扱えます。―エフェソス 5:28。

      しかし,今日の多くの家庭で最も大きな問題となっているのは子どもです。それを首尾よく扱うために何を行なえますか。

  • 子どもに対して何を行なえるか
    目ざめよ! 1974 | 10月22日
    • 子どもに対して何を行なえるか

      これこそ幾百万の親たちが尋ねている点です。親たちは自分の子どもの行状について心配しています。一つの点として,マッコール誌が掲げた統計によると,「米国の十代の青年男女の52%までは結婚前に性交を行なって」います。

      妊娠を防ぐため,娘に避妊具を持たせる親さえいます。あなたはそうしたやり方には同意されないでしょう。しかし,どうしたらよいのですか。

      「はっきりしたことが何も分からないために全く無力な者となっていることをそのことばや行ないに表わす父親や母親が多い」。ニューヨーク・タイムズ紙の一論説委員はこのように述べました。

      はっきりしたことが分からないのはなぜか

      この点で大いに責任があるのは,世の多くの権威者が与える忠告です。近年,それらの人々はこのように述べてきました。「子どもは,自分自身の判断である事がらをなすべきだと考えるまではどんな事もするべきでない」。「効果的なしつけの計画の中に体罰が入る余地はない」。こうして,従来のしつけや懲らしめの方法に代わって新たなものが採用されています。

      道徳に対する見方も変化しています。一例として,「ピアレンツ・マガジン」1973年12月号は,青年男女の婚前性交の問題を取り上げました。同誌は,マウント・ホリオーク大学の付属会堂付き牧師ディーン・ウイリアム・フェルムが自分の娘にあてた手紙を親たちに紹介しています。同牧師は娘にこう忠告しました。

      「わたしは,性交を,結婚式以後ではなく,婚約以後に限ることを提案します。結婚の夜が,愛し合う二人にとって,肉体的な親密さの面でも急激な変化の時となるべきだという考えはうぶです。……

      「いわゆる“新しい道徳”の価値は,自分で責任を取る行動について自分自身で決定しなければならない,という点にあります。……

      「わたしたちが提案した限界の外でも,性関係を持って全く差し支えないとあなたの判断する状況があるかもしれません。あなたがもしそのように判断するなら……その点であなたが罪の意識を持つことをわたしたちは望まないでしょう。……社会が(時には偽善的に)命ずる事がらに,あるいは,あなたの教会や親が勧めた事がらに反して行動することがあったとしても,そのゆえに恥ずかしく思う必要はありません」。

      著名な牧師によるこうした忠告が与えられると,それはどんな影響を及ぼしますか。多くの親はそれに従い,自分の息子や娘の淫行を助けるような取決めを設ける親さえ現われます。

      そうした傾向の悪い結実はあまりにも明らかです。性病,恐れの伴う妊娠,私生児の誕生,未婚の母親,心痛,秘密の堕胎,良心の苦痛などがその結果です。若者の自殺は急増し,精神,感情的な障害も増えています。

      では,子どもを持つ人は,自分の子どもに関する問題をどうしたら首尾よく扱えますか。

      成功のための忠告はどこから得られるか

      それは,聖書の助言を当てはめることによります。聖書は婚前性交に対して確固たる立場を明示しています。「淫行を避け(なさい)」,また,「あなたがたの間では,淫行……が口に上ることさえあってはなりません」と述べています。―テサロニケ第一 4:3。エフェソス 5:3。

      これに異議を唱えて,『婚前性交は今の大多数の若者の生き方だ』と言う親がいます。しかし,これは,それを許す正当な理由ですか。もし大多数の人が盗んだり,だましたり,殺人をしたりするようになれば,そうした行為も許されるようになるのですか。道理をわきまえた人でこれを肯定する人はいないはずです。子どもを誤った慣行から守るために,親は確固とした態度を取ることが必要です。

      子どもと一緒に筋道を立てて話し合う

      しかし,『いけない事だから淫行などはしないように』と子どもに言うだけでは足りません。わたしたちの創造者である全能の神が婚前性交を悪としておられる,という点を示すことが必要です。しかし,これだけでも足りない場合が少なくありません。婚前性交を禁ずる神のことばになぜ従うべきか,それに従うことがどのような益になるかをも子どもに悟らせなければなりません。

      一例として,受精した一つの細胞が分裂して殖え,あらかじめ定められた計画のもとにやがてひとりの赤子となる,まさに奇跡とも言うべき生殖の過程に注目させ,その後次のように尋ねることもできます。『この本当に驚嘆すべき生殖の過程を設計されたかたこそ,賜物であるこうした生殖の力の正しい用い方を知っておられるのではないでしょうか』。(詩 139:13-17)あるいは次のように尋ねることもできます。『わたしたちの偉大な創造者が,わたしたちの生活から喜びを奪い去るような律法を作られると思いますか。むしろ,神の律法に従うことによって,わたしたちの幸福は増し加わるはずではありませんか』。

      こうした質問は,生殖器をいかに用いるべきかに関する神の律法に添って考えるように若い人々を助けるものとなります。子どもの考えに喜んで耳を傾けてください。それが必ずしもあなたの思いどおりのものでなくても,怒らないでください。親に何か言うごとに厳しく批判されると思うと,子どもは何も言わなくなります。そうなったら,子どもの考えを知って子どもを助けるということがどうしてできるでしょうか。

      ですから,率直であり,正直であってください。あなたもかって同じような見方を持ち,同じような事をしたかもしれません。それを率直に認めることも時には助けになります。今の子どもの世代が聖書の正しい原則から遠く離れていることを努めて理解し,同時に,その世代の不道徳な慣行がなぜ愚かなものであるかを示すことに努めてください。

      おそらくあなたは,性の不道徳が,私生児の誕生,性病,その他の問題に至った具体的な例(痛ましい例は周囲に多くある)に子どもの注意を引くことができるでしょう。また,神の律法に従う人が受ける益についても指摘できます。こうして子どもは,聖書の述べる事がらが正しく道理にかなったものであることを知り,それに従おうとするようになります。

      導きとなる原則と懲らしめ

      しかし,子どもにはことばで話す以上のことが必要です。つまり,聖書の要求に従って歩んで行くため,導きとなる一定の原則が必要です。また,そうした原則を踏み越えた場合には愛のうちに懲らしめを与えることも必要です。

      一般の意見とは逆に,子どもは,自分の行動について親から道理にかなった規則を与えられると,それにむしろ感謝するものです。自分がとどまるべき一定の限界について知ることは,子どもにある種の安心感を与えます。

      不満を示す子どももいますが,そうした子どもも,自分の福祉に本当の関心を示してくれる親にやがて愛と敬意をいだくようになります。

      一方,子どもになんでもしたいことをさせておく親は,失意と衝撃の結果に至る場合が少なくありません。そのようにされる子どもは,やがて逆に親を責めることもあります。一少女は自分が妊娠していることをようやく告白した後,怒りを込めてこう語りました。「なぜわたしを止めてくれなかったの? どういう事が起きているかお父さんたちは知っていたはずなのに。ジミーの両親が家に居ないことを承知でわたしをジミーの所にいさせたのだわ。わたしが何をしても少しも構ってくれなかったのね」。

      それゆえ親は,子どもが一定の限度を踏み越えた場合には必要な懲らしめを与えて,子どもに対する配慮を示すことが必要です。霊感を受けた聖書の箴言はこう述べます。『おろかなること子の心の中につながる 懲らしめのむちこれをおひいだす』― 箴 22:15。

      懲らしめはことばで正す以上の形を取ることが時に必要です。それは,聖書も述べるとおり,人は『ことばで戒められても改めず 知っていながら従わない』場合があるからです。(箴 29:19)したがって,神のことばはさらにこう勧めます。『子を懲らすことをせざるなかれ むちをもて彼を打つとも死ぬることあらじ もしむちをもて彼をうたばその魂を陰府[墓]より救ふことをえん』― 箴 23:13,14。

      子どもの命そのものがかかっているのです。誤った道を追い求めるままに放任されるなら,それは子どもの不幸,また神の恵みの外での死という結果にもなります。それゆえ聖書はこう述べます。『むちを加へざる者はその子を憎むなり 子を愛する者はしきりにこれをいましむ』― 箴 13:24。

      そうです,しりをぴしぴしとたたくことを含め,自分の子どもを正すために親がなんでも手を尽くすことは,子どもに対する本当の愛の表われです。世の権威者たちは,懲らしめに関するこうした神の助言を退けていますが,そのことがただ家庭の問題を増し加える結果になっています。―箴 29:15。

      しかし,子どもに神の律法について話し,導きとなる原則を定め,必要に応じて懲らしめを与えても,別の重要な面で親がしっかり行動しないなら,そのすべては効果がありません。

      正しい手本が大切

      親は良い手本を示すことが必要です。子どもは往々にして,親のことばより行動に従うからです。そして,親のことばと行動に食い違いがあると,子どもはすぐにそれに気付きます。事実,若者が性道徳を公然と軽視することの背後には,偽善に対する反抗があると言われます。一精神病医はこう指摘しました。「自分では姦淫をしていながらもったいぶった説教をする大人の多いことを若者は知っている」。

      性道徳以外の問題でも同じことが言えます。例えば,薬剤の使用に関連した親の偽善に反抗する若者もいます。ニューヨーク市ベルブ病院の精神病科医長ロバート・E・ゴウルド博士はこう説明します。「若者たちは親のまねをしている。わたしの知るどこの家庭でも,親はアルコールを飲み,たばこを吸い,眠るためにバルビタール剤を使い,一日を送るために精神安定剤など,アスピリン以外の精神薬を服用している」。

      ですから,子どもが誉れある方正な生活をすることを願うなら,親自身がそのように生活しなければなりません。あなたの手本が良くないなら,口で言うすべての良いことばはむだになります。

      子どもを愛していることを示す

      子どもに関する問題を首尾よく扱うために最も大切な要素は,自分が子どもを愛しているという点を子どもに示すことでしょう。そして,これをする主な方法は,一緒に時を過ごすことです。子どもの振舞いについて話したり懲らしめを与えたりする時だけでなく,互いをほんとうによく知り合うために時を過ごすことです。食事をする時間,神への崇拝に携わる時間,遊ぶ時間,夜就寝の準備をする時間など,子どもと共に過ごすこうした時間すべてが大切です。

      これこそ多くの親が怠っている点です。著名な芸能人として,自分の子どもの幼い時期に多くの旅行をしたアラン・キングは,それが自分の失敗であることを認めてこう語りました。

      「わたしとは違った生活をしている普通の父親にとっても問題は同じことです。父親は仕事に行き,晩に帰宅しても,一日の仕事で疲れたから家庭の小さな問題は聞きたくないと言い,テレビを見て,あとはそのまま寝ます。結局のところ,そうした父親も旅に出ているのと同じです。

      「わたしは成功した人が幾百人もの人を使う会社を経営しているのを見ます。そうした人たちは,職場では問題の扱い方を知り,懲戒や報賞の与え方を知っています。しかし,自分のしている最大の仕事は家庭なのに,そこではうまくいっていません」。

      その理由は,そうした人たちが神の助言を無視している,という点にあります。神のことばはこう述べます。『わが汝に命ずるこれらのことばは汝これを……つとめて汝の子どもに教へ 家に座する時も道を歩む時も寝る時もこれを語るべし』。(申命 6:6,7)これを行なうために親は子どもと一緒に時を過ごさねばなりません。また,子どもに教えるために,親自身がまず,神からのそうした教えの「ことば」を学ばねばなりません。

      確かに,神のことばに含まれる助言を当てはめることこそ,健全な家族生活のためのかぎです。しかし,幸福な家庭生活を築き上げるための聖書の教えをどうしたら学べますか。

      キリスト教世界の指導者たちを含め,世の権威者がその答えを持っていないことは明らかです。キリスト教世界の指導者は明らかに神の助言を捨て去り,人類の大多数にも影響を与えて同様のことを行なわせています。そうした人々の教えは今日の家庭生活に見られる恐るべき崩壊を助長してきました。しかし,助けを求める人々に対しては助けの手が差し伸べられています。

      エホバの証人は,人々が神のことばの教えを学ぶのを助けることに身をささげています。彼らは,それを望む人に対して,そうした教えを無償で提供します。幸福な家庭生活を築くことに関して聖書が細かな点をさらにどのように述べているかについてお話しするため,エホバの証人の資格のある奉仕者が喜んでお宅をお訪ねします。そうした取決めを求められるかたは,本誌の発行者あてに手紙を書くか,あるいはお近くのエホバの証人と連絡を取ってください。

  • 再び結ばれた家族
    目ざめよ! 1974 | 10月22日
    • 再び結ばれた家族

      聖書は,人の生き方に健全な影響を与えます。ノルウェーのある婦人が経験したとおりです。その婦人はエホバの証人との聖書の勉強を通して,正式に結婚していないある男性との同棲を続けることはできないことを認めるようになりました。彼女が新たに学んだ,道徳に関する聖書に基づいた見方を捨てなかったために,彼は彼女と別れて船乗りになりました。数週間後,彼女の前夫が子どもたちを見にやって来ました。彼女は,彼を家に招き入れ,何が起きたかを話し,今エホバの証人と聖書を勉強していることを告げました。

      その晩,エホバの証人の王国会館で集会がありました。彼女は車を持っていなかったので,前夫に自分と子どもたちを乗せて行ってもらえないでしょうかと尋ねました。彼はその頼みをいれてみんなを集会に連れてゆき,そこで聞いたことに非常に感銘しました。そのために,引き続き家族を連れて集会に出席するようになりました。彼は,先妻が聖書に一致した生活をするために良い変化を行なったことを喜びました。彼女はタバコを止め,性格も前より穏やかになり,また平衡を保つようになりました。子どもとの間にも良い関係が見られました。そうした点が見られたことから,彼は先妻と再婚することに決めました。今では家族全体が一致して聖書の原則に従って生活するよう努力しています。

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