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  • 霊的な分別 ― クリスチャン円熟の証拠
    ものみの塔 1959 | 11月1日
    • 9 ひとつのわざに献身することは,なぜ間ちがいですか。奉仕について釣合のない見方を取ることは,何にみちびきますか。

      9 伝道というような特定なわざをするために献身する人は,間ちがいです。そのわざがむずかしくなると,その人はすぐに失意落胆します。制度やその成員との交わりがいちばん重要なもので,守らねばならぬものと見なすなら,その人は霊的な分別に欠けています。良いたよりを伝道するわざ,新しい世の社会との交わりだけは十分でなく,救いを保証するものではありません。わざだけによることに,救いはありません。このような見方を持つ事はモーセの律法下にいた人々と同じ危険な状態に入ることです。彼らは『自分自身の「義」を設立しよう』と求めました。それは伝道奉仕の良い記録を持つことについて『互にいどみ合い,互いにねたみ合う』ことにみちびきます。―ロマ 10:1-3。ガラテヤ 5:26。新口。

      10 どんなことは,御国のわざについて正しい見地を保たせる助けとなりますか。

      10 神のわざは重要でない,という意味ですか。そうではありません! それとは反対に,円熟したクリスチャンは霊的に次のことを識別します,すなわちヱホバに献身している故にすべての心,魂,思い,そして力をつくしてヱホバを愛さねばならない,ということです。彼は,『信仰も,それと同様に,行いをともなわなければ,それだけでは死んだものである』というヤコブの言葉を記憶しています。彼はヱホバに献身した関係をつねに意識している故,自分のわざについて正しい見方を取り,正しい動機でもってそのわざをすることができます。それは天の御父にささげる愛の心から,御父の御名を高めたいと欲する気持から,そして自分の隣人を愛し隣人とともに同じ特権と祝福を分ち合いたいという気持からなされるのです。献身という最初の段階について円熟した理解を持つことは『霊と真理をもって』する円熟した崇拝にいたらせます。―マルコ 12:30。ヤコブ 2:17。ヨハネ 4:23,新口。

      11 結婚している人は,霊的な分別の欠如をどのように示し得ますか。

      11 それで,霊的な分別は奉仕についての円熟した見方を持つことになります。すると,ヱホバの献身した僕として持つ他の責任についても考えねばなりません。結婚していて子供を持っている人は,祝福された特権や責任を多く持っています。野外の奉仕ですばらしい記録をつくろうとするため,家族の責任を無視するならば,それは霊的な分別の欠如を示します。クリスチャンは自分の家族に必要な物質を供給しなければなりませんが,また霊的な面で『自分の家族をかえり見』なければなりません。そして,自分の家族と研究し,そして自分の家族を援助して神の奉仕に円熟させなければならないのです。『自分の家族』を正しくかえりみないことは,「信仰を捨てたこと」と同じです。―テモテ前 5:8。

      12 円熟しているクリスチャンは,自分の伝道活動について何を識別しますか。そして,必要な世俗の仕事について何を識別しますか。

      12 良いたよりの伝道奉仕の記録そのものは,円熟性を証明するものではありません。道徳についての聖書の原則に一致しない歩みをしたり,または別の面で会衆に害を及ぼすことを行うなら,そのような奉仕の記録は何の役に立つでしようか。これはヱホバにふさわしく歩いているのではありません。ヱホバを全くよろこばしているのでもありません。クリスチャンは,神への奉仕に熱心に働き,他の者たちに良いたよりを告げます。と同時に生活内のあらゆる面で忠実の道を歩まねばならぬ,という必要性を認めねばなりません。それは,ヱホバの御名を立証するために奉仕することです。円熟している人は,いつの時でも次のことを記憶しています,すなわち彼は神の御こころを行うために献身しており,つねに自分の仕える御方,ヱホバをよろこばせたいと欲するのです。彼は,会衆の活動をしている時でも又は世俗の仕事をしているときでも,人をよろこばすために事柄をしません。むしろ,あらゆる事柄を正直に行い,『誠実な心をもって』『人に対してではなく,ヱホバに対してするように,心から』働きます。―コロサイ 3:22-24,新口。

      13 (イ)円熟した伝道者は,平衡のとれた奉仕をどのように行いつづけますか。(ロ)奉仕に真実のよろこびを感するこつは何ですか。

      13 奉仕のわざそのものでも,分別心ある良いたよりの伝道者は正しい平衡を保ちます。そして,奉仕について更にいつそう重要な事柄をつねに心にとめます。文書を配布する家から家のわざだけに満足しません。伝道するだけでは十分でないと,知ります。いまこそ教える者となり,羊をやしなって羊を助け,永遠の生命の道を見出させるときであると知ります。それで,見出した興味ある人の記録をきちんとつけ,再訪問します。再訪問するとき,興味深い聖書の話を用意し,善意者と家庭聖書研究を取り極めるようにします。クリスチャン奉仕者は,神の御言葉の正確な知識にみたされ,また大いなる羊飼ヱホバに対する愛と,良い羊飼キリスト・イエスに対する愛,及び他の羊に対する愛にみたされ,羊を見出して養おうという燃えるごとき欲求をもって奉仕に出かけます ― 愛の気持から出かけるのであって,義務の観念で出かけるのではありません。それは奉仕において真実のよろこびを感ずるこつです。―ヘブル 5:12。ヨハネ 21:15-17。

      14,15 (イ)クリスチャン円熟からどんな祝福が得られますか。(ロ)何に対して警戒しなければなりませんか。どのように?

      14 霊的な円熟は,いまだ告げられたことのないよろこびと祝福をもたらします。正確な知識と霊的な分別で満たされることにより,クリスチャンは強い者となり,敵サタンの攻撃をしりぞけ,物質主義と人間の恐れの巧妙な罠を見分け,それらに反抗することができます。その人は心配動揺を感ぜず,また無価値で有害な欲望に従わず,自ら身を刺す痛みなどを持ちません。そして,自分自身を責めさいなんだり,重い有罪の気持を感じさせるような愚かな行いを避けます。―テモテ前 6:9,10。

      15 私たちは,そのような円熟によつて得られる祝福をよろこびますが,同時に過信に対して気をつけねばなりません。そして,クリスチャン円熟と霊的な分別は私たち自身の努力によつて得られるのではなく,私たちに対するヱホバの恵みを表わすヱホバの御霊の働きによってなされる,ということをつねに記憶しなければなりません。それで,私たちは祈りの中にヱホバに願い求め,円熟した仕方でヱホバに奉仕しつづけることができるよう,そして私たちが僭越な行いをするのを抑えるようヱホバに願い求めます。それは,つねに「私たちの口の言葉,私たちの心の思いが,ヱホバの前によろこばれる」ためです。―詩 19:13,14。

      16,17 各人は,新しい世の社会のよろこびにみちる楽観主義の精神に,どのように参加することができますか。

      16 ヱホバの忠実な僕は,確信をもつて前進します。そして,統治している王キリスト,イエスのみちびきを受け,また神が地上に設立した目に見える神権制度の下に働くとき幸福と満足を感じます。クリスチャンとして円熟している彼は,自分の兄弟たちや善意者たちを強めて建ておこすことができます。それで彼らもクリスチャンとして全き成人になり,同じよろこびと祝福を分つことができるのです。

      17 ヱホバの証者の新しい世の社会が示す幸福で満足した見方は,その円熟さを証明します。各人はクリスチャン円熟の目標に向って努力し,霊的な分別に満たされるとき,そのよろこびにみちる楽観主義の精神にあずかることができます。私たちがそうするとき,現在およびごく間近い新しい世において数え切れぬよろこびと特権は私たちのものになります。『ただし,あなたがたは,ゆるぐことがなく,しつかりと信仰にふみとどまり,すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は,天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものである。』― コロサイ 1:23,新口。

  • ハワイから興味深い経験
    ものみの塔 1959 | 11月1日
    • ハワイから興味深い経験

      伝道者になるだけでなく,教える者になるということは,ハワイ諸島にいるすべての僕たちにより昨年度中強調されました。そしてすばらしい結果が得られたのです。正しい監督の必要も強調され,伝道者を熱心に教える者たちや,正しい手本を示す者たちは,深く感謝されています。監督は,次の言葉を述べたペテロの助言に従います。「あなた方にゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従つて自ら進んでなし」(ペテロ前 5:2,新口)。それで,監督はすばらしい結果を得ます。次の記事は,ハワイにおける教えるわざの経験です。

      『ある日曜日の朝,私はかなり年配の仏教徒の日本人の婦人に1冊の本を配布しました。この婦人は,私を追いはらう為に本を取つたのではないかと私は感じました。しかし,配布した日と同じ日に再訪問するか,又はほんの二,三日してから再訪問するようにという「御国奉仕」の提案については考えをめぐらしていました。しかし,そんなことはここの区域では適用しないのだと,私は自分に言い聞かせていたのです。それから三月の後,私は定期的な訪問をしていた巡回の僕といつしよに働きましたが,そのとき共々にその婦人のところを訪問しました。この方は,私共を見ていやな顔をするだろうと私は感じていました,が驚いたことに私たちを内に招じ入れて,しかも非常な興味をもつて聖書の話を聞いたのです。そして,聖書研究をすすめたところ,即座に承知しました。1週間後に訪問したときも,あのときの承知はただ協会の特別な代表者である巡回の僕に感銘を与えるためではなかつたか,と私は考えていました。これは間ちがつた結論だつたのです。その婦人は,研究するところを下調べして私を待つていました。

      『最近に私はもつとすばらしい報いを受けたように感じました。それは,私が聖書研究に行つたとき,亡夫の写真といつしよにテーブルの上に置いてあつた大きな仏壇が無いのに気づきました。研究しているとき,彼女はこう告げてくれました,彼女は「偶像」の章を読んでからヱホバの怒りを受けたいと思わず,その仏壇を譲つてしまつたとの由です。研究が終つてから,彼女は研究の本と聖書をとりあげて夫の写真といつしよにテーブルの上に置き,微笑をうかべながら,「この方がいまはずつと良く見えます」と言いました。』(1959年度のヱホバの証者の年鑑から)

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