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子どもにはどんな訓練が必要ですかものみの塔 1973 | 12月15日
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子どもにはどんな訓練が必要ですか
「少年をそのゆくべき道にしたがって訓練しなさい」― 箴 22:6,新。
1,2 (イ)子どもの養育について多くの親はどのように感じていますか。(ロ)聖書の助言があるにもかかわらず,今日の若者にはどんなことが起きていますか。
親であるみなさん,この時代に子どもを育ててゆくことを難しいことと考えておられますか。幼い人たちを訓練してこの危険な時代から保護するためにどうしたらよいかと戸惑うことがありますか。この点で現実に戸惑いを感じている親が非常に多くいます。「少年をそのゆくべき道にしたがって訓練しなさい。そうすれば,年老いてもそれからそれることはない」と聖書は述べています。(箴 22:6,新)それでも今日,幾百万という少年や少女が非行に進んでいます。
2 1966年に発表された米国上院の一調査は,2,900万人に上る同国の10歳から17歳の子どものうち,警察に記録のある子どもは250万人,つまり約11人にひとりの割合となっていることを明らかにしました。その時に比べ,今の状態はさらに悪化しています。ロサンゼルスのヘラルド・イグザミナー紙は,その1970年2月2日付紙上で次のように伝えました。「南部カリフォルニアにおける未成年者の犯罪は急速に増加しており,未成年の被逮捕者の数は,近いうちに成人のそれを上回るであろう。しかも,未成年者の数は人口全体のほんの一部を占めているにすぎない。拘置所はすでに超満員の状態であるが,この傾向が止まるきざしはない」。ニュージーランドの場合,同国の警察局長官の報告によると,子どもによる犯罪の件数は,1966年から70年までの間に二倍になりました!
3 未成年者の犯罪に関してどんな傾向が注目されますか。
3 未成年者の犯罪は単に数の面で急速に増えているだけでなく,その性質という面でもしだいに重大なものとなっています。そして,犯罪に関係する子どもの年齢がしだいに低下しているのです。最近の一年についてみると,米国メリーランド州ボルチモア市には,十歳以下で逮捕された子どもが526人もいました。その中には,夜盗を働いた者169人,強盗を働いた者22人のほかに,殺人,自動車どろぼう,麻薬法違犯などで逮捕された子どもたちもいました。オーストラリアのパース市の場合,自動車どろぼうの八割までは十代の少年による犯罪です。同市の一警察官によると,「13歳の子どもが盗んだ車を運転していることももはや珍しくない」のです。
4,5 (イ)今日非常に目だつようになった不道徳行為の結果としてどんな悲劇的な状態が見られますか。(ロ)こうした状態はわたしたちがどんな時代にいることの証拠ですか。
4 青少年の間の性の不道徳もとほうもない様相を帯びています。ニューヨーク市の16歳の一少女は次のように述べました。「わたしのクラスの約半数は[妊娠を妨ぐための]錠剤をのんでおり,あとの半数も大学に行くころにはそれを買うつもりでいます」。(1971年9月24日付ニューヨーク・タイムズ紙)不道徳な行為から来る悲劇的な結果として,性病や私生児の誕生が疫病的な規模で広がっています。カリフォルニアにおいては,十代の少年少女でりん病にかかる者が1960年から70年までの間に十倍近くになりました。そして,今では,高校生五人にひとりは卒業前に性病にかかると推定されており,生徒の半数までが性病にかかると見られている学校もあります。カリフォルニアでは,1970年ちゅうに4万3,100人の十代の少女が妊娠したと伝えられており,この中に,妊娠のゆえに結婚した者の数は入っていません。―1971年6月20日付サンフランシスコ・イグザミナー紙。
5 米国バージニア州リッチモンドの一診療所の所長は,十代の妊娠が「悲劇的な規模で」増えていることを指摘し,「恐るべき点は15歳未満で妊娠する少女の数である」と述べました。(1970年12月13日付ニューポート・ニューズ・デイリー・プレス紙)フィラデルフィアのイブニング・ブルテン紙は,「未婚の母親の中には小学校に通う11歳から12歳の少女が少なからずいる」と伝えました。こうして起きていることから見て,わたしたちが,聖書の予告した危機的な「終わりの日」にいることは明らかではありませんか。確かに今は,『親に対する不従順』を含め,極端な不法を特色とする時代です。―テモテ後 3:1-5,新。
6 (イ)非行が広範に広がっていることは子どもが受けている訓練についてどんなことを示していますか。(ロ)多くの親が子どもの養育に関して当惑していることにはどんな大きな理由がありますか。
6 非常に多くの若者が非行に進んでいるということは,子どもの受ける訓練に何か誤りのあることを示していないでしょうか。子どもたちが「そのゆくべき道にしたがって」訓練されていないことは明らかなようです。(箴 22:6,新)しかし,子どもにはどんな訓練が必要なのですか。この問題に関して当惑している親が多くいます。「はっきりしたことが何もわからないために全く無力な者となっていることをそのことばや行ないに表わす父親や母親が多い」と,ニューヨーク・タイムズ紙の一論説委員は語りました。そして彼は,「旧来の品行の規準はもはや当てはまらないようだ」と述べました。(ニューヨーク・タイムズ・マガジン,1972年1月16日号)子どもの養育に関する世の助言者たちの相矛盾する見解が親たちの当惑の大きな理由となっています。
7 (イ)子どもの養育に関する世の助言者たちの見解には一般に言ってどんな共通点がありますか。(ロ)エレミヤ記 8章9節にも示されるとおり,今日の大多数の子どもが受けている訓練にはどんな誤りがありますか。
7 そうした助言者たちの見解は大きく異なっているとはいえ,それらを調べてみると共通した点を認めることができます。それは,彼らが一般に,人を教えることにおける聖書の働きを無視していることです。ここに問題があるのではないでしょうか。近年における物事の経過はこの点に答えているようです。考えてください。「旧来の品行の規準」(それはおおむね聖書と合致するものであった)がわきに押しやられた近年において,非行が急激に増大しているのではありませんか。このことは,幼子たちに聖書の教えに基づく訓練や導きが必要なことを示しているのではありませんか。―エレミヤ 8:9。
子どもに神について教えるのはなぜか
8 (イ)子どもにはどんな目だった特徴がありますか。(ロ)子どもの質問に対する親の答えが重要な意味を持つのはなぜですか。
8 子どもが自分の親に導きを求めるのは自然です。幼子たちはたくさんの質問を持っています。子どもたちは,「このきれいな花はだれがつくったの?」「お星さまはなぜ空にのぼったの?」とよく尋ねます。あるいは,「ぼくはどこから来たの? だれがぼくをつくったの?」と尋ねるかもしれません。こうした疑問に対してどのような答えが与えられるかは大切な点であり,そのことを軽く考えてはなりません。幼子に与えられる教えは永続的な印象として残り,その内面の態度や物の見方を形成し,こうして子どもの将来の生き方を大きく左右するのです。
9 (イ)人間の起源について今日どんなことが一般に教えられていますか。(ロ)子どもに教えられている進化論的な見方が正しいものではないことを何が示していますか。
9 「だれもわたしたちやこれらの物を造ったのではない。すべてのものはただひとりでに存在するようになったのだ。それはいわば偶然の成行き,一種の偶発的なできごとであり,それによってすべてのものが存在するようになったのだ」と答える親がいるかもしれません。これは,今日の学校において広く子どもたちに教えられている進化論的な物の見方です。こうした見方が「科学的」と称され,すべてのものを造られた神がいると信じる人々は「非科学的」であるとされる場合が少なくありません。しかし,ほんとうにそうですか。今日広まっている進化論的な物の見方は真実に即しているのですか。考えてください。真理が教えられているのであれば,良い実が生み出されるはずではありませんか。ところが,進化論的な考えを推進する今日の教育体制から生まれ出た幾百万という非行の子どもたちを見てください。―詩 14:1。
10 (イ)創造者はいないと教えるのはなぜ子どもを当惑させることですか。(ロ)子ども自身,また草,月,星などについて,子どもにどんなことを教えるべきですか。なぜ?
10 実際のところ,天的な創造者はいないという教えこそ幼子を当惑させるものです。例えば,子どもは,男の人たちが家を建て,女の人たちが菓子を焼くのを見ます。これらのものには作り手がいます。では,子どもたちが,美しい花や輝く星にも作り手がいるのではないかと考えるのは当然ではありませんか。聖書は,「言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です」という,道理にかなった説明をしており,子どもたちはこうした教えを必要としています。(ヘブル 3:4,新)聖書は,だれもわたしたちを造ったのではないというような不合理な教えをしているのではなく,「知れエホバこそ神にますなれ われらを造りたまへるものはエホバにましませばわれらはそのものなり」と述べているのであり,この点を子どもたちに示すことが必要です。(詩 100:3)子どもたちには,神が『草を生えしめてけだものに与へ はたつものを生えしめて人の使用にそなへたまふ』ことを教えるべきです。(詩 104:14)また,「なんぢ[神]の設けたまへる月と星」について神のことばの述べている事がらも幼子たちに説明することが必要です。(詩 8:3)こうした聖書の真理が子どもの分別心を満足させ,わたしたちの偉大な創造者に対する敬意をはぐくむ助けとなります。こうした教えこそ,「少年をそのゆくべき道にしたがって訓練」するために必要なのです。―箴 22:6,新。
11 子どもに神について教えるために,親はどんな機会をとらえることができますか。
11 親は,幼子の心の中にエホバ神に対する愛と認識を築き上げる機会を賢明にとらえねばなりません。たとえば,子どもと親が輝く星空の下にともに出ている場合など,父親は,それら美しい天体を造り出してそれぞれの軌道上に配列したエホバの知恵と力について息子の心に銘記させることができるでしょう。(詩 19:1,2)またほかの場合,たとえば,美しい草花や壮麗な入り日,さらにはいろいろな種類の動植物を見ている場合などに,親は,それら驚嘆すべき良いものがわたしたち人類に対する天の父の愛の証拠であることを幼子たちに教えることができます。(使行 14:17。マタイ 5:45)しかし,神に関するこうした教えはある人々が言うように「非科学的」なのではありませんか。
12 (イ)わたしたちの周囲にある驚嘆すべきものが神によって創造されたと教えるのはなぜ非科学的なことではありませんか。(ロ)子どものことをも顧みてくださる全能の創造者がおられることを知るのは,子どもにとってどんな益になりますか。
12 決してそのようなことはありません! 霊感を受けた聖書の筆者は,遠い昔,「神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見える(の)であり,それゆえに彼らは言いわけができません」と述べましたが,このことは今日なお全く真実です。(ロマ 1:20,新)事実を言えば,真の科学は,近年になってはじめて,宇宙とあらゆる生物がいかに巧みに設計されているかを証しする膨大な知識の倉を明るみに出したのであり,こうして,理知のある強大な創造者が確かにおられるという証拠を提供したのです。そうした偉大な神が存在され,その神がわたしたちを顧みてくださるということは,子どもたちにとってなんと心強いことでしょう。(ペテロ前 5:7)こうした知識こそ,今日の世界から来る恐怖,疑い,不安などによって過度に動揺させられることのないよう子どもを助けるものとなります。またそれは,精神,感情的な混乱から子どもを守り,安心感と確信を得させるものとなります。それによって子どもは,暴力や憎しみをもって物事に応ずるのではなく,すべての人に対して神のような愛をもって接すべきことを学ぶようになります。―詩 23:1-6; 55:22。イザヤ 41:10。
子どもに神のことばを教えるのはなぜか
13 悪いことをしてはいけないと子どもに告げるだけでは十分でないことを何が示していますか。
13 しかし,子どもに対し,ただ神がおられることを教えるだけでは十分でありません。幼子には,神が人に何を求めておられるかという点を含めて,神のみことばをも教えることが必要です。これはなぜでしょうか。考えてください。今日の親の中にも,神がおられることを自分の子どもに教える人は多くいます。そして,ほとんどすべての親が,うそ,盗みその他の悪事を行なうのはいけないことだと自分の子どもに話します。また,結婚前に性関係を持つのはいけないと自分の娘に話す母親も決して少なくはありません。それなのに,幾百万という子どもがそうした非行に走り,しかも,それはいけないことだと言われたのを思い出しながらなおそれに携わる場合も多いのです。明らかに,ただ告げるだけでは十分でありません。しかし,なぜでしょうか。
14 子どもが年長の人から受ける教えに応じないことがあるのはなぜですか。
14 おもな理由は,子どもはやがて人のことばや手本があてにならないことを知るからです。子どもは,年上の人々がしばしば悪行を犯し,その品行の規準が変わりやすいのを見ます。また,年上の人々の言うことと行なうこととにしばしば違いのあることにも気づきます。それで,他の人々がうそをついたり,盗みをしたり,淫行を犯したりしているのに気づくと,見つかったり傷ついたりするのでなければこうしたことをしてもよいのだと考えるようになります。こうした今日の若者は,うまくやりおおせると思えることはどんなことでもやろうとします。
15 (イ)子どもが悪行を避けるためにはさらに重要などんな理由が必要ですか。(ロ)これらが全能の神の命令であるという点を知ることが,悪行を控えせる力となることを述べてください。
15 ここで明らかなように,子どもがあることに従うためには,単に自分の親や他の人がそう望んでいるということ以上のより重要な理由が必要です。すなわち,神の名において教えることが必要であり,うそ,盗み,淫行その他の悪行を行なってはならないというのは,ほかならぬ神の命令なのです。(箴 6:16-19。マルコ 10:17-19。ヘブル 13:4)神のことばに基づくこうした諭しは,悪行を行なうことの重大性を子どもの心に銘記させます。子どもは,そこで語られているのが単に人間のことばではなく,人間に命を与え,また故意に法を犯す者からは命を永久に取り去る力をも持たれる創造者ご自身のことばであることを知るようになります。(黙示 21:8)また,聖書が述べているとおり,『エホバの目はいずこにもありて 悪しき人と善き人とをかんがみる』ということをも悟るようになります。(箴 15:3)こうして子どもは,悪行を行なって神に見られないでいることはないということを知るようになります。―詩 11:4。ヘブル 4:13。
16 子どもに神のことばを教えることが悪行に対する最大の抑制力となることを述べてください。
16 しかし,神のことばが教え込まれるにつれ,子どもの心には,悪行を控えさせるより強力でより重要な力が働くようになります。聖書の勉強を通して,子どもは,エホバ神が偉大な創造者であるだけでなく,ほんとうに人類を愛してくださる現実の人格的存在であることをも理解するようになります。人類を罪と死の状態から引き戻すための根拠を設けるために神がみ子を地に遣わしてわたしたちに愛を示し,こうして人間が新しい事物の体制下のパラダイスで永遠の命を受ける道を開いてくださったことを学ぶのです。(ヨハネ 3:16。ペテロ後 3:13)また子どもは,聖書の勉強を通して,神がその新体制で,今日多くの人を悩ます痛み,苦しみ,涙はもとより,病気や死までも人類から取り除いてくださることを学びます。(黙示 21:3,4)その時,すべての人は友好的であり,平和を愛します。事実,動物さえも平和に生活し,幼子はなんの危険もなくそうした動物たちと遊ぶようになります。(イザヤ 11:6-9。詩 37:9-11,29)こうしたエホバの壮大な約束を知るにつれ,神に対する子どもの愛は非常に強いものとなります。結果として,すばらしい天の父に喜ばれないようなことは何も行ないたくないという気持ちをいだくようになります。こうして,エホバに対する子どもの愛と認識が最大の抑制力となり,神が悪とされることを何一つ行なわないようにさせる強い力となります。
17 (イ)神のことばを教えることが子どもの長じてからの生活にも益となることをなぜ確信できますか。(ロ)聖書のどんな例が幼いころの訓練の益を示していますか。
17 しかし,神のことばに基づくこうした幼いうちの教導が子どもの長じてからの生活にも益となることをほんとうに確信できますか。できます。聖書の箴言のことばを思い出してください。それは,子どもが「そのゆくべき道にしたがって訓練」されるなら,「年老いてもそれからそれることはない」と述べています。(箴 22:6,新)一例として年若いヘブライ人ヨセフの場合を考えてください。明らかにその父ヤコブは,エホバやその律法について幼い日のヨセフに教えました。やがて,長じたヨセフは,自分の家族や友人を離れて,異国の地エジプトに住むことになりました。その地において,ポテパルという富裕な人のもとで働いている間に,その人の妻がきりょうのよいヨセフに対して繰り返し誘惑をしかけるようになりました。彼女は,「我といねよ」とヨセフに言うのでした。しかしヨセフは,「我いかでこのおほいなる悪をなして神に罪ををかすをえんや」と説明してそれを拒みました。ポテパルの妻が彼をつかんで自分と寝させようとした時でさえ,ヨセフはそれに抵抗してその場から逃げました。彼をとどめて悪行を控えさせたのは,子どものころから彼のうちに教え込まれていたもの,神に対する愛と敬意でした。―創世 39:1-12。
18 (イ)子どもに神のことばを教えることにはどんな益がありますか。(ロ)今日の若者が非常に多くの問題を経験しているのはなぜですか。
18 今日の子どもには神のことばに基づくこうした教えが必要だ,ということにあなたも同意されませんか。幼子の心に神の道徳上の要求を銘記させることが,幸福で方正な生活を送るための確かな助けとなるのです。ところが今日,聖書の導きは,あまりに制約的であるとか欲求不満をいだかせるとかでわきに押しやられるのが普通です。例えば,結婚関係にない人々どうしの性関係を禁ずることに関して,ある人は,ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌の中で最近次のように書きました。「人の生活にはすでに,欲求不満をいだかせる面が多いから,ことさらに欲求不満を助長するようなものは必要でない……子どもに導きを与える(子ども自身の導きとなることを願うのであるが)という点でわたしたちのすべきことは,わたしたちが自分をも他の人をも同じように評価していること,そして,自己を十分に表現する方法はさまざまであるということを示すことだけである」。しかし,神の導きを退けるこうした態度がもたらしたものはなんでしょうか。うしおのような性病の広がり,私生児の誕生,堕胎などをはじめとするさまざまな問題,およびそれに伴う痛みと心労と悲惨にほかなりません。子どもたちが神のみことばの中に備えられた教えを必要としていることはいかにも明らかではありませんか。―エレミヤ 10:23。
懲らしめの必要性
19 (イ)子どもの生来の傾向は善を行なうことに向かっていますか。この点をどのように知ることができますか。(ロ)懲らしめを与えることにはどんなことが含まれていますか。
19 しかし,神のみことばに基づいて子どもを教え導くことが効果的に行なわれるためには,そこに愛の懲らしめが含まれねばなりません。それは,子どもの生来の傾向が善を行なうことに向かってはいないからです。霊感のもとに記された聖書の箴言が述べるとおりです。『おろかなること子の心のうちにつながる 懲らしめのむちこれをおひいだす』。(箴 22:15)ここで言う『懲らしめ』という語は,人を形造り矯正するための訓練という意味を含んでいます。それには,子どもが自然にそれに従うようになるまで,幾たびも繰り返し教え諭すことが伴っています。しかし,懲らしめにはさらにそれ以上のものが含まれます。たいていの親がよく知るとおり,子どもはただことばだけでは行ないを正さない場合が少なくありません。(箴 29:17,19)それゆえ,懲らしめを伴う訓練の課程の中には,ときに懲罰や処罰を与えることも含まれます。それは,子どもを正すことを目的として施されるものです。しかし,そうした懲らしめが子どものしりをたたくという形を取ることが許されるでしょうか。「むちを惜しめば子どもをそこなう」という昔からのことわざは真実なものでしょうか。
20 懲らしめや訓練のために身体的な処罰を加えることに対する世の権威者たちの一般的な見方はなんですか。
20 子どもの養育に関する世の権威者は,『いや,決して子どもをたたいてはならない。そのような強い処置を取って子どもの自然な性向を変え,それによって子どもに欲求不満をいだかせるようなことは避けなければならない』という趣旨の発言をよくします。1972年4月5日付ニューヨーク・タイムズ紙の論説記事は次のように述べました。「『むちを惜しめば子どもをそこなう』ということわざは『古来の美徳』の擁護者を自負する人々に今なお受け入れられているが,これは実際には誤った考えである。体の大きな強い者によって加えられる,痛みを伴う故意の処罰が,力こそ勝利という哲学以外の何かを教え込むとは考え難い」。しかし,このような見方は正しいですか。子どもの誤った行為を正す目的で身体的な処罰を用いることは誤りですか。
21 (イ)子どものわがままな態度を正すために身体的な処罰を用いることについて神のことばはなんと述べていますか。(ロ)そのような懲らしめを施すことが神の定めた道であることを述べてください。
21 神は人間の創造者です。神に勝る権威はありません。神のことばはこの点できわめて明瞭です。それはこう述べています。『子を懲らすことをせざるなかれ むちをもて彼を打つとも死ぬることあらじ もしむちをもて彼を打たばその魂を〔シェオール〕[墓]より救ふことをえん』。(箴 23:13,14,〔新〕)子どもの命がかかっています。子どもが誤った道を進むままに放任されるなら,それは子どもの不幸を,そしてやがては神の恵みからはずれた死を導く結果になるでしょう。それゆえ,聖書はこう述べます。『むちを加へざる者はその子を憎むなり 子を愛する者はしきりにこれをいましむ』。(箴 13:24)子どもの歩みを正すために,しりをたたくことを含めて親ができるだけのことを行なうのは,子どもに対する真の愛の表われとなります。これは神の定めておられる道です。「エホバは自分の愛する者を懲らしめる……事実,自分が子として迎える者をすべてむち打たれるのである」と聖書は述べています。―ヘブル 12:5,6,新。
22 (イ)神の手本に示されるとおり,親はどんな動機で懲らしめを与えるべきですか。(ロ)今日の青少年非行のはなはだしい増加の背後にはどんな大きな理由がありますか。
22 神はご自分の子どもとなる人々に対してなぜこのようにされるのですか。使徒パウロはこう述べました。「彼は,ご自分の神聖さにわたしたちがあずかれるようにと,わたしたちの益のためにそうしてくださるのです。たしかに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに見えず,むしろつらいことに思えます。しかしのちには,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」。(ヘブル 12:7-11,新)子どもは,子ども自身の益のためにこうした懲らしめを必要としています。これは『そのゆくべき道にしたがった』訓練の一環です。(箴 22:6,新)世がこうした懲らしめを伴う訓練を退けていることこそ,青少年非行のはなはだしい増加の大きな原因であり,それに伴う恥辱と苦悩を親にもたらしているのです。―箴 29:15。
23 子どもは,懲らしめを受けたこと,あるいは受けなかったことに対してどのように応じますか。
23 一般に論じられていることとは逆に,子どもは,親が子どもの行動について道理にかなった指導原則や制限を定めてほんとうの関心を示してくれると,そのことに感謝するものです。懲らしめを受けてそのことを不満に思う子どももいますが,それでも子どもは,自分たちの福祉のためにほんとうの関心を示してくれる親に愛と敬意をいだくべきことを学び知るようになります。他方,子どもがほんとうに必要とする懲らしめを親が与えない場合,子どもはそのことで親を恨むようになることが少なくありません。一大衆雑誌は,しばらく前,悪い道に落ち込んで自らにも家族にも恥辱をもたらした15歳の少女について扱いました。自分の行ないについて悲嘆した彼女は父親にこう言いました。「お父さん,お父さんは,わたしが正しいふるまいをすべきことについて何年も前にはっきり言ってくれるべきでした。そして,わたしが正しいふるまいをしなかった時,ただわたしに話しかけるのではなく,わたしのおしりをたたいて痛いめにあわせてくれるべきでした。わたしがしっかりした行動を取れなかった時,どうしてそうできるようにしてくれなかったのでしょうか。わたしがあまりにばかで,少しも進歩できないと思ったのでしょうか」― マッコールズ,1969年7月号,114ページ。
24 (イ)親は自分の子どもをほんとうに愛していることをどのように示せますか。(ロ)こうした愛を示すならどんな結果がありますか。
24 親であるみなさん,子どもにとってほんとうに必要な懲らしめを与えることによって,お子さんに対する真の愛を示してください。神のことばの賢明な助言に注意を払ってください。そこに含まれる知恵をお子さんたちに教えてください。お子さんたちの心の中に,創造者エホバ神に対する愛と敬意を育ててください。それによってあなたは,『そのゆくべき道にしたがって子どもを訓練している』こと,また,『子どもがそれから離れない』ことを確信できます。(箴 22:6,新)これはやがて,お子さんにとって,エホバ神の設ける,栄光ある新しい事物の体制での限りない命を意味するようになります。それを享受できるよう必要な備えを受けられたことについて,お子さんはあなたにどんなにか感謝することでしょう。
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あなたはお子さんを教えていますかものみの塔 1973 | 12月15日
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あなたはお子さんを教えていますか
『わたしが命じているこれらのことば……あなたはそれを自分の子に教え込まねばならない』― 申命 6:6,7,新。
1 親が子どもを教えることが非常に大切なのはなぜですか。
あなたは,お子さんが,神と仲間の人間を愛する,正直で方正な人になるようにと誠実に願っていますか。疑いなく,これはあなたの強い願いの一つであるに違いありません。しかし,こうした願いが実現するかどうかは,あなたがお子さんをどのように教えるかに大きく依存しています。その点に気づいておられますか。これは真実です。そして,性の不道徳,麻薬類の使用,その他の形の非行に誘う強い力が若者に及んでいる今日,このことは特に真実です。そして,お子さんを教えることが,親であるみなさんの行なうべき,生活上の最も重要な活動の一つとなっているのはそのためです。あなたはそれを,これほど重要なことと見ておられますか。親が子どもといつも,そして自由に意志を通わせることをしなかった家庭にどのようなことが起きるか,そして現に起きているかをご存じですか。
2,3 親と子の間の意志の交流が断たれるとどのようなことが起きるかを,どんな実際の経験が示していますか。
2 最近,ある大衆雑誌は,ニューヨーク市ロングアイランドの一家族のことについて伝えました。その家族では話し合って意志を通わせるということが,いわば壊滅状態にありました。息子はむっつりとして口をきかず,何かと反抗的な態度を取るようになりました。やがて彼は麻薬をのむようになりました。親はそのことを知りましたが,それについて子どもとほんとうに話し合うということはできませんでした。ただ怒りのこもったことばをはくだけであり,息子は,麻薬の使用をやめるようにという親の命令を鼻であしらうようになりました。親どうしの友人仲間でも,子どもが麻薬類をのんでいる家庭はほかにもたくさんありました。事実,一地方検事の推定によると,その郡の若者の四分の三までは,マリファナその他の麻薬類を試みたことがありました。
3 ここで取り上げている家族の場合,状態はさらに悪くなり,父親は息子をどなり,息子は父親にどなり返して親を脅すようにさえなりました。やがて,1972年2月27日,日曜日の午後,少年は麻薬の作用のもとに,ステーキ用のナイフを手にして父親に向かってきました。父親は護身用に携待していたピストルを抜き,息子の心臓めがけて発射しました。のちに,なぜ殺すことをねらったのかと問われたとき,父親はこう語りました。「息子を手負いにさせれば,また襲ってきてキャロル[少年の母親]とわたしを殺すとしか考えられなかった。それまで繰り返しそうした脅しがあった」。なんと痛ましいことではありませんか。―ライフ誌1972年5月5日号。
4 (イ)テモテ後書 3章14,15節に示されているとおり,子どもを教えることをいつから始めるべきですか。(ロ)幼子がだんだん成長してゆく間も意志の交流の道を失わないようにするためにどうしたらよいですか。
4 自分の子どもを教え,なんの妨げもなく自由に意志を通わせる道を失わないようにするために,親は愛のこもった関心をどうしても払わねばなりません。そのことはあまりにも明らかです。聖書は,子どもがごく幼い時から,ほんの幼児のころからこれを始めるべきことを示しています。(テモテ後 3:14,15)ついで,こうした努力は,幼児期から十代の終わりに至るまで,明けても暮れても,そして来る年も来る年も続けられねばなりません。こうした教育の課程に中休みというものはありません。子どもがその大いに必要とする導きを受けるためには,子どもが親に自由に語りかけ,どんなことでも打ち明けるような関係を保つために,親が絶えず努力しなければなりません。
子どもに必要な神からの導き
5,6 (イ)子どもを正しく養育しようと努めながらときに悲劇的な結果を見る場合があるのはなぜですか。(ロ)神は子どもの養育に関してご自分の民イスラエルにどんな貴重な指示をお与えになりましたか。
5 しかし,子どもを正しく養育しようと懸命な努力を払いながら,なお悲惨な結果を刈り取る親がいます。例えば,前述の家族の場合,父親は図書館から動物やその飼育に関する本を借りて来ては子どもを助けようとしていました。息子はそうしたことに関心を示していたのです。そして,二親とも,その少年がスポーツに関心を持つようにしむけていました。しかし,こうした努力にもかかわらず,今日の非常に多くの家庭と同じように,明らかに何かが欠けていました。その欠けていたものとはなんでしたか。親は,子どもの養育に関する神の教えに深い注意を払わなかったのです。遠い昔,エホバ神は,ご自分の民イスラエルに,子どもの養育に関する助言を与えました。そして,幸いなことにも,その導きはそのみことば聖書の中に書きとどめられています。今日の親たちもそれから益を受けるためです。
6 エホバ神はご自分の代弁者モーセを用いて,次の指示をご自分の民にお与えになりました。「さて,これらは,あなたがたの神エホバがあなたがたに教えるようにとお命じになったおきてと規定と司法上の決定です。……イスラエルよ,聴きなさい。わたしたちの神エホバはただひとりのエホバです。そして,あなたがたは,心と魂と活力をつくしてあなたがたの神エホバを愛さなければなりません。そして,わたしがきょう命じているこれらのことばはあなたがたの心に置かれねばならず,あなたがたはそれを自分の子に教え込み,家に座しているときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときもそれについて話さねばなりません。また,あなたがたはそれをしるしとして自分の手に結んでおかねばならず,またそれはあなたがたの目の間の額帯とならねばなりません。そしてあなたがたはそれを自分の家の戸口の柱と門とに書き付けなければなりません」― 申命 6:1,4-9,新。
7 (イ)この神の指示の中で,子どもの養育に成功するためにまず肝要な点としてどんなことが述べられていますか。(ロ)そのために計画の調整が必要であるとしても子どもとともに時を過ごすことはなぜ大切ですか。
7 この神の助言を読み過ごしてしまうのではなく,注意深く検討してみることにしましょう。それは親にどんなことを強調していますか。まず初めに,親が子どもとともに時を過ごすことの大切さを示していませんか。親と子どもが「家に座しているときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときも」ともにいると述べている点に注目してください。子どもとともに時を過ごすことの必要性はどれほど強調しても強調のしすぎということはまずありません。子どものための時間をほとんど持たない親の子どもは悪行に巻き込まれる場合が決して少なくないからです。子どもとともにいるようにするためにはそれなりの計画が必要であり,なんらかの個人的な楽しみや他の活動を控えねばならない場合もあります。しかし,自分の幼子が法に従う慎しみにあふれたおとなに成長するという報いを考えれば,こうした努力には十分な価値があります。
8 (イ)神は親のすべきこととしてさらに何を示しておられますか。一般に言って,今日の年長の人々はこの点で勤勉ですか。(ロ)子どもが話しかけようとする時にほんとうに忙しい場合,どのようにすることができますか。なぜ?
8 しかし,単に子どもとともに過ごすことだけが求められているのではありません。神の指示が,子どもと『話しなさい』とも述べている点に注目してください。親は自分の子どもと語り合うことの価値を決して小さく見てはなりません。そして,相互的な話し合いにおいて,聴くことの果たす大切な役割りを忘れないでください。「アメリカの若者の根本的な不満は,おとなと語り合うことができないという点にある……われわれと意志を通わせようとする彼らの努力はいつも,そして完全に押しつぶされてしまう」と,ある著名な作家は語りました。不幸にも,こうしたことばのとおりになっている場合が多くあります。何かを尋ねようとして近づいて来る子どもに対し,「あっちへ行きなさい。忙しくしているのがわからないの」とつっけんどんなことばを浴びせる親が少なくないのです。あなたの家庭では決してこうしたことがありませんように。もしほんとうに忙しいのであれば,そのことをあとでいっしょに話しましょうと告げ,そして実際にそのようにするのがよいでしょう。そうすれば,お子さんはあなたが自分のことにほんとうに関心を払っていてくれることを感じ取り,いよいよすすんでどんなことでも打ち明けるようになるでしょう。それゆえ,聖書にある神の助言に注意を払ってください。お子さんと話し合い,それをいつも,神が言われるとおり,「家に座しているときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときも」行なってください。
「これらのことば」を教えなければならない
9 (イ)神が子どもに教えるべきであるとしておられる「これらのことば」に関してどんな疑問が起きますか。(ロ)それは大切であるとはいえ,どんな教えだけでは不十分であることが示されていますか。
9 しかし,子どもとともに過ごしていっしょに話し合うだけでもまだ十分ではありません。神の指示をもう一度読み返せば,親が何を子どもに話すべきかをも神が説明しておられることに気づかれるでしょう。「これらのことば……それを自分の子に教え込み……それについて話さねば」ならないと述べられています。「これらのことば」とはなんですか。それは,一般的な教養,つまり,子どもに,優れた音楽,良い文学作品,生命の驚異,その他わたしたちを取り巻く驚嘆すべき物事に対する鑑賞力を持たせることと関係がありますか。またそれは,きちんとした身だしなみ,物事の整とん,時間をしっかり守ることなど,礼儀作法や習慣に関することですか。もとよりこれらは,子どもに教えるべき良い事がらです。しかし,子どもにこうした事がらを教えていながら,自分の子どもが麻薬類の不法な使用その他の犯罪行為に関係し,あるいは自分の娘が不義の性関係の結果として妊娠したというような衝撃的な事実に直面する親が多いのではありませんか。親が自分の子どもに教えるべきさらに重要な事がらがあることは明らかです。
10 (イ)親が子どもに教えるべき「これらのことば」とはおもに何をさしていますか。(ロ)「教え込む」ということばにはどのような意味が含まれていますか。それで,神は事実上ここで親に何を命じておられますか。
10 神の指示をさらに細かく調べてみると,神は霊的な事がらを子どもに教えることについて述べておられることがわかります。「わたしたちの神エホバはただひとりのエホバです。そして,あなたがたは,心と魂と活力をつくしてあなたがたの神エホバを愛さなければなりません。そして……これらのことば……それを自分の子に教え込(まねばなりません)」と親たちに対して語られています。そうです,親たちが自分の幼子におもに教えなければならいのは,エホバ神に関する事がら,つまりエホバ神が唯一の創造者また命の授与者であられること,そして,エホバこそわたしたちが専心的な愛と献身をささげるべきかたであるということです。そして,神は,これらのことをただ子どもに告げよと言っておられるのではありません。「それを自分の子に教え込(む)」ようにと言っておられるのです。この点に注意してください。ウエブスター国際辞典第三版によると,ここで「教え込む」と訳されていることばには,「何度も繰り返したり訓戒したりして教えかつ銘記させること,説きつけてしっかり覚えさせること」という意味があります。a したがって,神はここで,事実上,子どもの思いに霊的な事がらを銘記させるという明確な目的のもとに,子どもに対する組織的な聖書教育を始めるよう親たちに勧めておられるのです。
11 「これらのことば」の中には,親が子どもに教え込むべき他のどんな事がらが含まれていますか。なぜそう言えますか。
11 しかし,子どもに教え込むべき「これらのことば」の中には,神の道徳上の規準や要求も含まれています。そのことは,イスラエル国民に対するこうした指示の前後のことばに示されています。預言者モーセはそのすぐ前のところで,偽りの証しをしてはならない,盗んではならない,殺人をしてはならない,姦淫を犯してはならないなど,イスラエルに対する神の律法の中の主要なおきてを復唱しました。(申命 5:6-21)そして,その少しのちに,モーセはことばを続けて,「これらのことば……あなたがたはそれを自分の子に教え込(まねばならない)」と述べましたから,明らかに親たちは,道徳上の教えを子どもに授けるべきことを銘記したはずです。今日のクリスチャンの親たちも,子どもの前途を幸福で堅実なものとするためには,同様の教えを授けなければなりません。―マタイ 22:37-40。コリント前 6:9,10。黙示 21:8。
12,13 (イ)子どもを教える面でおもに責任があるのはだれですか。(ロ)子どもを『エホバの精神の規整」をもって育てるとはどういう意味ですか。
12 こうした教えを与えることにおいて父親と母親の双方が特権と責任を分け合っていることは,子どもに対する聖書の次の命令の中に示されています。「わが子よ,なんぢの父のいましめを守り なんぢの母のおきてをすつるなかれ」。(箴 6:20)しかし,子どもを教えることに対する主要な責任を持つのはだれかという点を示して,神のことばはこう述べています。「父たちよ,あなたがたの子どもをいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」。(エペソ 6:4,新)そうです,子どもを教えるという面で主要な責任を託されているのはクリスチャンの父親です。
13 しかし,父親が「エホバの……精神の規整」をもって子どもを育ててゆくとはどういう意味ですか。ここで「精神の規整」と訳されているギリシャ語の原語には「思いを入れる」という概念があります。したがって,クリスチャンの父親は,事実上,エホバ神の思いを自分の子どもの中に入れることをここで勧められているのです。それは幼子たちにとって強力な保護となるではありませんか。子どもが自分の思いの中に神の考えを,物事に対する神の考え方を教え込まれているなら,それは悪行を控えさせるすばらしい保護力となるのです。
神の思いを子どもの中に入れる
14 子どもの中に神の思いを入れるためには,神の律法について単に話す以外にさらにどんなことの求められるのが普通ですか。
14 しかし,子どもをエホバの精神の規整をもって育ててゆくのが易しいことではないのは確かです。それぞれの問題に対する神の思いがなんであるかをただ告げるだけでは十分ではなく,それだけでは神の言われることを子どもに受け入れさせることのできない場合が多くあります。たとえば,親は淫行を禁ずる神の律法を息子や娘に聖書から読んで聞かせ,しかもそのことを何度も行なうでしょう。(ガラテヤ 5:19,21。エペソ 5:5)そのように繰り返し読み聞かせれば,神の律法が何を定めているかを子どもに銘記させることはできます。しかし,神の思いを子どもの中に入れるためには,さらにそれ以上の求められる場合が少なくありません。子どもを助けて,神の律法の価値について十分に考えさせることが必要です。神のことばがほんとうに正しく健全なものであり,かつ自分たちの益になるものであることを,子どもたちが十分に納得するようになるためです。あなたが,聖書の正しさについてお子さんといっしょに筋を立てて考えるなら,お子さんたちは神の物の見方と全面的に一致するようになるでしょう。その時はじめて,自分の子どもの中に神の思いを入れたと言うことができます。
15 (イ)子どもの中に神の思いを入れるにあたってどんな点を知っておくのはよいことですか。親はどのようにすればそれを知ることができますか。(ロ)子どもの言い表わす考え方が正しくない場合でも親はどのようにして賢明な態度を取ることができますか。
15 お子さんの中に神の思いを入れるために努力すべきことを納得したなら,それを行なうために予備的な段階を踏むことができます。それは,お子さんが何を考えているかをまず知ることです。適当な質問をすることによって,お子さんのほんとうの感情を引き出せるものです。例えば,淫行を禁ずる神の律法について話すにあたり,次のように尋ねることもできます。「神のこの律法に従うことはわたしたちの益になるのではありませんか。それとも,それはわたしたちの幸福を奪うものだと思うの?」 あるいは次のように尋ねることもできます。「わたしたちが神の律法に従って生活するかしないかによってどんな違った結果になるでしょうか」。こうした質問をしたのち,お子さんが自分の考えを言い表わすのを歓迎してください。お子さんの言い表わす考え方が正しくない場合でも,それをしかったり厳しく批判したりするならば,その後の意志の交流を押しつぶしてしまうことになるでしょう。むしろ,子どもが自分の考えを率直に述べたことに感謝し,いつでもこだわりなく物事を打ち明けるように励ますほうがよいでしょう。お子さんが自分のほんとうの感情を言い表わしたなら,あなたは多くのことを成し遂げたことになります。それによってあなたはお子さんと話し合うのにいっそう良い立場に立ったことになります。
16 親は淫行を禁ずる神の律法の正しさを子どもにどのように認識させることができますか。
16 お子さんの述べる考えが正しくないというような場合,その点についてお子さんと話し合う用意をしてください。たとえば,受精した一つの細胞が分裂して殖え,あらかじめ定められた計画のもとにやがてひとりの赤子となる,まさに奇跡とも言うべき生殖の過程に注目させ,そののち次のように尋ねることができます。「このほんとに驚嘆すべき生殖の過程を設計されたかたこそ,神の賜物であるこうした生殖の力の正しい用い方を知っておられるのではないでしょうか」。(詩 139:13-17)あるいは,次のように尋ねることもできます。「わたしたちの愛のある創造者が,わたしたちの生活から喜びを奪い去るような律法を作られると思いますか。神の律法はわたしたちの幸福を深めるためであると思いませんか」。(詩 145:16)こうした質問はお子さんたちをしてこの問題についてまじめに考えさせるものとなります。そののち,性の不道徳行為が失意,性病,その他の災いに至った例にお子さんの注意を向けることができるでしょう。(サムエル後 13:1-33)こうして子どもは,神の律法の正しさを,またそれがいかに道理にかなっているかを理解するようになります。結果として,子どもは物事に対する神の見方を受け入れ,あなたはお子さんの中に神の思いを入れることになります。
17 『エホバの精神の規整』をもって子どもを育ててゆくうえで祈りはどんな助けになりますか。
17 他のいろいろな問題についても同じようにして神の思いをお子さんの中に入れ,正直であること,親切にすること,平和を求めること,人を愛することなどについても,神の律法を子どもに教え込みたいと思われることでしょう。しかし,子どもを教える面で何か難しい問題がある場合,どうしたらよいでしょうか。サムソンの父マノアは,自分の息子の訓練に関する導きをエホバに祈り求めました。(士師 13:8-14)こうした例を手本にすることはどうでしょうか。エホバへの祈りは多くのことを成し遂げることができます。ある父親は,息子がむっつりしていたり消沈したりしていてことば数が少なくなっていることに気づく場合,夜に息子の部屋に行き,戸をたたいてから中に入ってこのように言うとのことです。「お父さんは,おまえがこのごろ何日かの間いつものおまえでないように思えてならないのだが。何か考えていることがあるなら,いっしょに話し合いたいと思うのだが」。たいていはともに話し合うことができ,父親はエホバの助けを求めることを提案して,「お父さんが祈ってもよいだろうか」と言うのです。そうした祈りののち,そして,問題をいっしょに十分に話し合ったのちは,息子の状態は大いに良くなっているのが常でした。何か問題が起きた場合,お父さんといっしょに祈りをしてエホバの導きを求めることが,『エホバの精神の規整』をもって育ててゆくための助けとなるのです。
18 『エホバの精神の規整』をもって子どもを育ててゆくためには教える能力のほかに何が必要ですか。
18 お子さんの中に神の思いを入れることには多くのことが関係しており,たくさんの時間と努力を投じ,教える能力を活用しなければなりません。しかし,子どもを『エホバの精神の規整』をもって育ててゆくために特に力があるのは,何か学問的な教授法を完全に実行することではなく,むしろ,お子さんに対するあなたの愛であり,その愛は,お子さんを教えることに対するあなたの真剣さと確信と熱意との中に示されます。(箴 3:1-7)また,あなた自身も神の律法に従うべき立場にあり,そうした律法が自分の生活をより幸福なものにしたゆえにそれに感謝しているという点を説明するなら,それもお子さんを助けるものとなるでしょう。あなたは,お子さんを教えるための定期的な計画を設けていますか。それは,子どものごく小さなうち,まさに幼児期から始めるべきものです。
子どもを教えるための貴重な助け
19 (イ)親が子どもを教えるのを助けるため,ものみの塔協会はどんなものを備えましたか。(ロ)この教えるための助けの中に取り上げられている教訓の中にはどんな点がありますか。
19 この邪悪な事物の体制下にあって子どもを養育していくことが親にとっていかに難しい仕事であるかを認めた,ものみの塔協会は,親が自分の子どもを教えるさいの助けとなるものを備えることを取り決めました。1970年7月15日号「ものみの塔」を第一回として,「親が子どもとともに読む」ための一連の特別記事が掲載されました。これは1971年11月1日号にいたるまでほとんど毎号の「ものみの塔」誌に掲載されました。ついで1972年の夏,「偉大な教え手に聞き従う」と題する小本が一般頒布用に発表されました。この小本には,「ものみの塔」誌に載せられた記事が改訂されて含められただけでなく,他の多くの記事が取り入れられました。どの記事も,神のことばに基づく何かの教えや原則を子どもの思いに銘記させるように工夫されています。全部で46の記事があり,それらはみな,偉大な教え手イエス・キリストの行なった例えや教え,また奇跡やその生活上の経験に基づいています。たとえば,「良いとなり人」と題する記事は,わたしたちがすべての人に親切にすべきことを銘記させるものであり,「ひとりのらい病人が神を賛美した」という記事は,『ありがとう』ということばを忘れてはならないことを示しています。「人を許さなかったどれい」という記事は,すすんで人の過ちをゆるすことの大切さを強調しており,「平和を好む人は幸福です」という記事は,なぜわたしたちが争いごとに加わるべきでないかを説明しています。さらに,「ほんとうのことを言わなかったふたりの人」という記事は,わたしたちがいつも正直であるべきことを教えており,そのほかにも数多くの貴重な教訓が教えられています。
20,21 子どもを教えるためのこの助けを使うことの益はどのように認められていますか。
20 この記事が掲載されるようになった時,子どもを教えるためのこの助けに対する感謝の手紙がたくさん寄せられるようになりました。ある親はこのように書いていました。「結果には驚くべきものがあります。わたしたちの娘は反抗的なところがなくなっただけでなく,新しい『ものみの塔』誌が来て次の記事が読めるのを待ち遠しがるようになりました」。ある母親はこう述べました。「わたしは,子どもたちにわたしと聖書を勉強させる点で非常に苦労していました。子どもたちは勉強から脱け出そうとしてあれやこれや試みたものです。しかし今では,子どもたちの熱意を見て,不信者であったわたしの夫までが聖書の勉強を始めるようになりました」。ある父親はこう書きました。「わたしはエホバの真理を子どもたちに伝えることを難しく感じていました。子どもたちが理解できるような形で説明することがなかなかできなかったからです。しかし,これら一連の記事は,子どもたちにもっと興味深く,もっとおもしろく話して聞かせるための助けになりました。一つの記事を読み終えると,五人いる子どものすべてが『それでおしまい?』と聞くのです」。
21 エホバの証人となっていない人々でさえ,これが子どもを教えるうえで貴重な助けとなることを認めています。「偉大な教え手に聞き従う」の本を贈られた一教師はこう語りました。「ほんとうにありがとう。これこそわたしが探し求めていたものです。これらの子どもたちの中には家庭でほとんど訓練を受けていない子どもが多くいますから,わたしたちが,うそや盗みに関することなど,ごく基本的な事がらを教えなければなりません。わたしはきょう第一章を読んで聞かせました。だれが偉大な教え手であるかを,子どもたちが知るべきであると思ったからです」。アメリカ,インディアナ州のある七歳の学童は,自分の教室でこの本を朗読することを申し出ました。1972年の3月までに,この少年は級友たちの前で全部で30章を読み,この学校では,この本を自分用に持っている生徒が大ぜいいます。
22 親が子どもに与えることのできる最も優れた贈り物はなんですか。
22 あなたは,お子さんを教えるさいに,この貴重な助けを活用しておられますか。子どもに教えるようにとエホバの命じておられる霊的な助言や道徳上の教えをお子さんたちにしっかり教え込むために,あなたはあらゆる助けを必要としておられるはずです。「偉大な教え手に聞き従う」の本こそその目的にかなったものであることを認めている親は多くいます。ですからあなたも,その本をいつも用いるようにしてください。子どもの中に神の思いを入れる霊的な教えを授けること,子どもにとって,これに勝る贈り物はないのです。
[脚注]
a 原語のヘブライ語における意味もこれと同じです。そこでは,「繰り返す」「何度も言う」「はっきり印象づける」という意味を持つ「シャナン」の強調形が用いられています。
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生活を改めた名うての大酒飲みものみの塔 1973 | 12月15日
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生活を改めた名うての大酒飲み
● 聖書の真理の力によって人が「新しい人格」をつけるにつれ,真理は人の生活を変化させてゆきます。(エペソ 4:20-24)太平洋のパラオ諸島に,たいへんな力持ちの乱暴者として知れわたっていた大酒飲みの人がいました。この男が酒場に入ってくると,他の人は恐れのあまり酒場から出て行き,店はすぐ空になるほどでした。ある時など,7人の男を相手にけんかをし,全員を海に投げ込んだこともあります。この男の反対にもかかわらず,その妻は聖書を勉強しました。彼女は聖書の原則を実際に適用するようになりました。そのことは夫に深い感銘を与えるものとなり,彼も聖書を勉強し始めました。妻がバプテスマを受けた後,彼は週に2度以上聖書を勉強することを望み,生活に真の変化を示すようになりました。今では神権宣教学校にも参加しています。この男の人は生活を義の原則に一致させた後,戸別訪問の奉仕にも携わり始めました。彼はこう語っています。「私は真理を知って今とても幸福です。もう酒も飲みませんし,物質的には貧しくても非常に幸福な生活を送っています。私は今年バプテスマを受けたいと思っています」。―エホバの証人の1973年 年鑑から
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