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  • 親にとって子供を“巣立たせる”のが非常に難しい理由
    目ざめよ! 1983 | 5月8日
    • 親にとって子供を“巣立たせる”のが非常に難しい理由

      「お母さんさようなら! お父さんさようなら!」 息子がこう言うのはこれで3度目です。さようならを言う度に,息子は考え得るありとあらゆる理由を見付け出しては,あとほんの少しだけとどまろうとしてきました。

      しかし,今度の「さようなら」にはもうこれが最後という響きがあります。もう一度涙ながらに抱き合い,固い握手を交わして,息子は出掛けて行きます。父親と母親は息子が戻って来ることはもう本当にないのだという厳粛な認識を抱いて見つめ合います。かつては息子の話し声や笑い声で満たされていた家が今では非常にひっそりしてしまったような気がします。

      非常に多くの時間と努力と感情が子供たちにつぎ込まれました。20年ほどの間,親の日常生活の中心は子供たちでした。赤ちゃんの泣き声に音を上げそうになったのも,6歳の子供が熱を出した時に医院の廊下を心配しながら行きつ戻りつしたのも,息を凝らして子供たちの通知表を開き及第点を取っているのにあんどの吐息をついたのも,十代の子供たちが大きな音で音楽をかけたときに反対しておきながら,家を出るという子供たちの話に泣き崩れたのも,何もかも“昨日”のことのようです。そして今,一人また一人と,子供たちは大人になって親元を離れてゆきました。

      “子供の巣立ったあとの家”に順応するのは本当に挑戦であると思う人が多いのも不思議ではありません。娘が家を離れてから,一人の男の人は「生まれて初めて涙がかれるまで泣きました」と本心を打ち明けました。

      一方,フィーランとエベリンは子供たちをやがて独立するものとして訓練しました。それでも,子供たちが家を離れた時は,「かなりの調整が必要でした」と二人は語っています。「それまでは忙しくて,あちこち走り回っていました。ところが,子供たちが家を離れると,自分と配偶者しかいません。一番いやなのは,家に帰って来ても子供たちがそこにいないということです」。成人した娘の母親であるノーマは次のように告白しています。「娘のリンが部屋にいないことに慣れるまでに少しの時間がかかりました。そこで,リンの部屋のドアを閉めたままにしておきました。開けておくと,娘がいつもそこにいるように思えて,娘と話をしたくなってしまうからです」。

      「子供たち」が家を離れると,親はほとんど例外なくそのような複雑な気持ちを味わいます。子供が成年に達したという誇りと,自分の時間を多く持てる見込みに対する喜びとがあります。それでも,疑念(「自分たちは娘を正しく育て上げたのだろうか」。)や恐れ(「うちの子は本当に独り立ちする備えができているのだろうか」。),失意(「どうしてうちの子はあの気持ちの良いジョンという青年と結婚しないで,こんな甲斐性なしと結婚するんだろう」。),さらには罪悪感にさえ付きまとわれることがあるかもしれません。最近の調査の示すところによると,特に男性は「子供たちが幼かったころに一緒に多くの時間を過ごさなかった」ことを後悔します。

      “子供の巣立ったあとの家”は親の結婚生活にさえ変化をもたらしかねません。前よりも仲が良くなる夫婦もいますが,そうでない夫婦もいます。「子供たちが家を離れると,別居や離婚に終わる結婚は今日少なくない」と,「我ら夫婦と子供たち」の著者は述べています。

      また,子供たちが巣立つのは大抵,親の人生の中でもただでさえ何度も危機に直面する時期です。女性は更年期の始まりを経験します。一著述家によると,それは「女性にとって,『お前はもう子供を産めない』という言葉をいたずらに強調することのように思えるかもしれない」ものです。男性は増し加わる仕事上の圧力や仕事上の不満に対処しなければならないかもしれません。定年退職が行く手に迫ってきているかもしれません。インフレのために家族の貯蓄が目減りするかもしれません。健康状態も衰え始めるでしょう。親という肩書きをはぎ取られたように思え,自分の存在価値をさえ疑うようになる人もいます。

      子供たちを巣立たせることを頑固に拒む親がいるのも無理のないことです。親元から離したくないという衝動は抗し難いもののように思えます。しかし,さようならを言うことは必ずしも自分の子供を失うことを意味しません。さようならを言うことは,子供との関係を新しい基礎の上に築き,子供たちが巣立ったために生活に生じた穴をうめることを意味するのです。

      でも,どのようにしてそうするのでしょうか。そして,成人した子供との健全な関係を持つために,子供たちを放してやるのはどうしてそれほど大切なのでしょうか。

  • 『男は……離れることになるのである』
    目ざめよ! 1983 | 5月8日
    • 『男は……離れることになるのである』

      「ある日息子が家に帰って来たとき,何か話そうと思っていることがあるのが分かりました。息子は私と家内と一緒に腰を下ろし,『お父さんお母さん,結婚したい人を見付けました』と言いました」と,トムは思い出を語っています。

      神はこうした情景を見越して,次のように言われました。「男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き,ふたりは一体となるのである」。(創世記 2:24)ですから,お子さんが離れてゆくのはある意味で必然的なことであるという点を認識しましょう。

      言うまでもなく,年端もいかない子供たちが家を離れてもよいというわけではありません。しかし,詩編作者の述べるように,「若い時の子らは,力ある者の手にある矢のよう」です。遅かれ早かれ矢は矢筒を離れ,人生の航路へと放たれます。―詩編 127:4。

      放たれた矢同様,成人した子供は家を離れると基本的にいって親の権限の範囲から取り去られます。結婚すると,男の子は自分の家の頭になり,女の子は自分の夫の権威のもとに置かれます。―エフェソス 5:21-28,33。

      しかし,この新たな独立に慣れるのは親にとって難しい場合のあることを聖書は示しています。例えば,イエスの母親は,イエスが成長し,メシアとして油そそがれた後でさえ自分はイエスに対してある程度の権威を保持していると思っていたようです。ある婚宴の席で,マリアはイエスに,「彼らにはぶどう酒がありません」(『何とかしてあげなさい』と,遠回しに言っている)と言いました。しかし,イエスは,き然とした中にも親切な言葉遣いで,自分がもう独立していることをマリアに思い起こさせ,それからご自分の最初の奇跡を行なわれました。―ヨハネ 2:2-11。

      族長ヤコブも自分の息子を手放すのに困難を覚えました。ヤコブの最愛の妻ラケルは息子を出産してすぐに死んでしまいました。ヤコブはその子をベニヤミンと名付けました。ヤコブがこの息子に愛着を抱いていたに違いないことは想像に難くありません。ですから,ベニヤミンをエジプトへの旅に出すよう求められると,ヤコブは「もしもの事がこれに起きるかもしれない」と言って異議を唱え,ベニヤミンを家に置いておきました。―創世記 35:16-18; 42:4。

      しかし,親元にとどめておきたいという気持ちが自然な感情であるとはいえ,子供が大人になり独立したことを認めるのが賢明な道です。

      「あなたのためにわたしがどんなに傷つけられたか見てご覧なさい」

      『でも,それほど遠くへ行かなければならないのかしら。独立しても,わたしたちのそばになぜいてくれないのかしら』と反論する親もいます。

      そのような移動が起きると,心に痛手を受けることがあります。例えば,聖書は,リベカが結婚するためにかなりの距離を旅行するよう求められたことについて述べています。リベカの母親と兄は,「この娘[リベカ]をわたしたちのもとにせめて十日とどまらせてください。その後でしたら行ってもよろしいです」と嘆願しました。リベカを手離すのは本当に難しいことでした! それでもリベカは,家族と二度と会えなくなることを意味するかもしれないのに,「参りたいと思います」と言いました。―創世記 24:55,58。

      成人したお子さんには,勤め口の見込みなど,遠くへ移転する必要を説明する筋道の通った理由があるかもしれません。過度に抵抗するなら,すべてをだめにしかねません。一例として,一人の若妻は次のように思い出を話しています。「新婚当時は,二人だけの時間をたくさん持ちたいと思いました。しかし,母は分かってくれませんでした。少しばかり親離れさせ,わたしたちのほうから母の所を訪ねるようにさせてくれるどころか,わたしたちに息の詰まるような思いをさせました」。この夫婦が引越しをする計画を立てたときに,事態はさらに悪化しました。その計画は母親と娘の間に全面的な敵対関係を生じさせました。「夫と誓い合ったら父母を敬う責務が解消されるなどと,どこに書いてあるというの? 母親としてのわたしのどこが気に入らないの?」と,母親は苦々しげに尋ねました。この争いの結果ですか。若い夫婦の結婚関係がひどく緊張しただけでなく,母娘の間にもくさびが打ち込まれました。以前の二人の間柄は非常に緊密だったというのに,幾月もの間音信不通になったのです!

      「つなぎ留める糸はない」という本はこう述べています。「子供が引き下がったときに苦痛を訴えるなら(あなたのためにわたしがどんなに傷つけられたか見てご覧なさい。あなたのことで,お父さん[お母さん]がどんなに傷ついているかご覧なさい。よくもわたしたちをこんな目に遭わせられるわね),自分の子供をさらに遠くに追いやってしまうことであろう」― 下線は本誌。

      イエスのたとえ話に出てくる放とう息子の父親はこの点を悟っていました。大人になった息子が独立を求めたとき,この父親は小言を言ったり失敗するぞと言って脅しをかけたりすることはありませんでした。むしろ,親切な仕方で息子を旅立たせました。この物分かりのよい態度は,息子をやがて家に帰って来させる大きな要素になったと思われます。したがって,自分の子供が大人になったら独力で“やらせてみる”のが子供との友好関係を保つかぎと言えるかもしれません。―ルカ 15:11-24。フィリピ 2:4もご覧ください。

      「息子はあの娘のどんなところを見ているのだろうか」

      「自分の子供たちには一番良い目を見て欲しいと本当に思います。そして,幸せな結婚をしたのを見ると親はうれしく思います」とノーマは述べています。ノーマの夫のトムは,「率直に言って,娘を育てるのにあれだけの時間をかけておいて,最初にやって来た人物に手もなく娘をやろうなどとは思ってもいませんでした」と付け加えています。それでも,子供たちは配偶者の選択で親をひどくがっかりさせることがあります。親はどのように反応したらよいでしょうか。―創世記 26:34,35と比較してください。

      自分の家族のこの新しい成員を受け入れるためにありとあらゆる努力を傾けるのが最善ではありませんか。結婚が長続きするかどうかのかぎとなる要素は,親がそれを認めるかどうかにあることを示す研究もあります。a なるほど,子供の選んだ配偶者に驚かされる,あるいは当惑させられることさえあるかもしれません。それでも,結婚は神の目に誉れあるべきものです。―ヘブライ 13:4。

      『ぶよを濾し取って』,婿や嫁の悪いところをいつまでも気にするよりは,客観的に物事を見るよう努めることです。自分の子供の目を通して婿や嫁を見るようにするのです。その人にも良い点はあるはずです! そして,あなたの息子や娘も決して完全とは言えないことを忘れてはなりません。自分の子供の配偶者の選択に疑念を抱いていた一人の親は,「助けになる一つのことは少しばかりの謙遜さです。ある日のこと,私は自分の親がわたしたちの結婚に心底から賛成してはいなかったことを思い出しました。私の親はこの点で全く誤っていました」と述べました。

      親が子供の配偶者を嫌うのは,現実よりも,ねたみ ― 子供の愛情を失うことに対する恐れ ― に根ざしていることがあります。しかし,ねたみは良い関係を損ないかねません。(箴言 14:30)ですから,この新しい息子や娘を孤立させるようなことをしてはなりません。相手のことを知るようにするのです。不公平な粗探しをして攻撃をしたり,問題を作り出したり,むやみに戦線を張ったりすることがないようにしましょう。少し親離れをさせてやり,『あなた方に関するかぎり,平和を求める』ようにするのです。―ローマ 12:18。

      [脚注]

      a ある資料によると,『恋愛が結婚してまもなく終わってしまうことは,母親と父親の双方が結婚に反対している場合のほうが,二人共結婚を認めている場合に比べて2倍も多い』ということです。

      [4ページの拡大文]

      しかし,子供が親元を離れるということは親がもはや親でなくなるという意味ですか

      [5ページの図版]

      『二人だけの時間をたくさん持ちたいと思いました。しかし,少しばかり親離れさせてくれるどころか,わたしたちに息の詰まるような思いをさせました』

      [6ページの図版]

      親は必ずしも子供の配偶者の選択に賛成するわけではない

  • 「親はいつまでたっても親」
    目ざめよ! 1983 | 5月8日
    • 「親はいつまでたっても親」

      作家のジョン・アップダイクはかつてこう書いたことがありました。「子供が七十代の身なりのきちんとした上院議員で,親が車いすに座った,体の曲がった役立たずであったとしても,老いぼれは親が持つどっしりとした権威をどうしても離そうとしないものだ」。3人の子供を持つ一人の父親は,「親はいつまでたっても親だ。いつまでも,子供たちのことで文句を言ったり,心配したりする」と言ってその言葉に同意しています。

      子供たちが成長したからというだけの理由で,親が脇に押しやられてもよいということはありません。聖書は,「あなたを誕生させた父に聴き従い,ただ年老いたからといって,あなたの母をさげすんではならない」と述べています。(箴言 23:22)この助言は幼い子供にだけ与えられているのではありません。「年老いた」母を持つ人は大人になっていると思われるからです。ですから,親には長年の経験と知恵があるので,助言や諭しという形で成人した自分たちの子供に与えられるものが多くあるのです。―箴言 16:31。

      『でも,大人に対してどうやって“親になって”やれるのでしょうか』とお尋ねになるでしょう。『細心の注意を払うことです』と多くの親たちは答えます。お子さんは大人になっても,最初のうちは不安定かもしれません。独立した生活を楽しんではいても,まだ幾らかの世話と支えを求めているかもしれません。このように相反する感情が共存していると,人はどんな助言に対しても過度に敏感になることがあります。一人の母親が説明しているように,このことで親はジレンマに陥りかねません。「子供たちには大人であると感じてほしいと思いますが,それでも私が子供たちのことを気遣っているというのも分かってほしいのです」。

      気遣いとおせっかいとの間にどこで線を引いたらよいのでしょうか。世話を焼こうとする自然の願望を,感情面のどんな巧みな方法で抑制され,制御された気遣いに変えられるのでしょうか。

      第一に,自分の役割が変わったことを受け入れなければなりません。赤ちゃんがよちよち歩きをするようになると,親は乳をやる子守り女の仕事をあとにします。同様に今度は,長年の間親しんだ世話係という役割を捨て,助言者の役割を果たさなければなりません。人生のこの段階でお子さんのために決定を下すのは,成人した子供の背中をさすってげっぷをさせたり母乳を与えたりするのと同じほど不適切なことと言えるでしょう。

      助言者であるので,親のできることには明確な限界があります。もはや親としての自分の権威に訴えて効を奏することはありません。(『親が言うのだからそのとおりにしなさい』。)お子さんの大人としての地位を尊重しなければなりません。しかし,これは容易なことではありません。一人の親はこう語りました。「子供たちにどんなことを言うか,細心の注意を払わなければなりません。子供たちの感情を傷つけていないか,子供たちの生活に立ち入ってはいないか確かめ,慎重な配慮を払わなければなりません」。しかし,自分の成人した子供たちが向こう見ずにも危ない橋を渡りかけているのに,一言も言わずに手をこまねいて見ていなければならないのでしょうか。

      一人の親はこう述べています。「個人的な問題には干渉しません。子供たちがお金を浪費したところでどうだというのでしょう。それは単にお金の問題です。しかし,私の子供たちの一人が霊的なあるいは道徳的な誤りを犯そうとしているなら,私はその子たちの父親なのですから,ためらうことなく助言を与えるでしょう」。「誤った歩み」を取ろうとしている人を「再調整」するのはすべてのクリスチャンの責任ではありませんか。―ガラテア 6:1。

      「助けてやろうと思っていただけなのに!」

      それでも,助けを差し伸べるというよりはおせっかいをやいている人もいます。(テモテ第一 5:13)愛や恐れ,寂しさ,道理にかなった気遣いなどの感情が入り乱れるために,破壊的な結果をもたらす策略を用いる人もいます。例えば,財政的な助けが,あからさまなわいろや子供を思いのままに操るための手になることがあります。(『どうして町の向こう側へ越さなければならないのか。うちのすぐ近くに小ぎれいなマンションを手に入れるくらいのお金は貸してやれるぞ』。)巧妙な中傷があるかもしれません。(『あなたたち二人のために今晩は私に夕食をこしらえさせてくださいな。何といってもうちの息子は私の料理になれていますからね』。)あるいはあからさまな干渉もあります。(『まだ子供をつくらないのか。お前の母親や私が孫の顔も見ないで死んでもよいというのか』。)

      そうした巧妙な手を使うことがないよう用心しなければなりません!「成人した子供とうまくやってゆく方法」という本はこう述べています。「成人して間もない自分の子供にお金を与え,それをどのように使うべきかについて厳しい条件を付ける親は,実際には無意識のうちに“子供”を操る取り引きの手段としてお金を使っているのである」。

      頼まれもしない提案を果てしなく与えたくなる気持ちを抑えなければなりません。そうした提案をすれば,婿や嫁を敵に回すことになります。ある著述家は,「はっきりと,明確に求められたのでない限り,嫁に自分の息子の好み,息子の食べるものを料理する方法,息子の家の装飾の仕方などについて決して意見を述べない」よう決意することを勧めてさえいます。子供たちが結婚後もう少し落ち着いて,ぴりぴりしなくなるまで,提案を差し控えるのはよいことです。

      二人の子供の父親であるトムは,「多くの親は逆のことを行なっているように思えます。子供たちの生活に親が口を出さなければいけないときには口を出さずに,子供が成長した今になって,口を出したがるのです」と述べています。これは新たな質問を引き起こします。お子さんがやがて親元を離れる時のためにどのようにして備えをしてやれるでしょうか。

      [8ページの拡大文]

      「子供たちには大人であると感じてほしいと思いますが,それでも私が子供たちのことを気遣っているというのも分かってほしいのです」

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      世話係という役割を捨て,助言者の役割を果たさなければならない

      [8ページの図版]

      婿や嫁に対して過度に批判的になるようなことは避ける

  • “飛び立つ”ための備えをお子さんにさせていますか
    目ざめよ! 1983 | 5月8日
    • “飛び立つ”ための備えをお子さんにさせていますか

      堂々とした鷲は良い親になります。母鳥はひなの世話をし,ひなを守り,ひなに餌を与えます。ひなが小さいときには,餌をその口の中に入れてやりますが,ひな鳥が成長するにつれて,母鳥は自分で餌を食べることを覚えさせます。

      しかし,子鷲が生きてゆくには飛び方を習得しなければなりません。そこで母鷲は,跳躍ごっこをさせて自分の子鷲に翼の運動をさせます。そして子鷲の準備が整うと,鷲は「その巣をかき立て」ます。鷲は羽が生えそろったばかりでちゅうちょしている巣立ちびなをおびき出したり軽く押したりして巣の端まで連れて来ます。子鷲の中には果敢に飛ぼうとするものもいます。勇気のない子鷲は容赦なく空中にほうり出されます! しかし,母鳥はいつでも子鷲の下に舞い降りて,「羽翼に乗せて運ぶ」ことさえできるよう用意をしています。そうするのは子鷲が飛び方を学ぶまで再度突き落とすためなのです。―申命記 32:11。

      悲惨なことに,成人したばかりの若者の多くは自分たちの人生に“飛び立つ”ための備えが全くできていません。リチャード・C・ロベルティエロ博士は,1950年代初期に一般に普及した放任主義的な育児理論についてこう語っています。「親は,愛情深く,子供に分かるように愛を示し,子供の必要に対しては寛大であるよう故意に心掛けたが,その子供の行動については非常に放任的であった」。

      この取り組み方にはある程度成果が見られましたが,こうした理論は,「職業を選ぶことも,人並の暮らしをして生計を立てていくことも,自分たちの……才能を何らかの有意義な一生の仕事に向けることもできないように見える」大人たちの世代という実を生み出しています。そのような人は,「途方に暮れ,まごついて我々臨床医の所へやって来る」と言われています。なぜでしょうか。「そうした人たちは……本質的にいって苦労や欠乏や挑戦のない……状況を差し伸べられた。……親たちはそうした人たちにばらの花園を約束したが,そこには草ぼうぼうのただの原野があったにすぎなかった」。

      人生は決して「ばらの花園」などではありません。備えのできていない子供たちは,ひどい物質主義的な世界の「おおかみのただ中にいる羊のよう」です。(マタイ 10:16)ですから,お子さんが生きてゆけるよう備えをしてやるのはどうしても必要なことです。では,いつそのような訓練を始めたらよいのでしょうか。

      子供を訓練する

      3人の子供の母親であるカルメンは幼いころからの訓練の必要性を認めており,次のように思い出を語っています。「息子がまだ生後数か月のころに,物事を自分で行なうよう息子を訓練したものです。例えば,ただ息子を起き上がらせるようなことはしませんでした。息子の小さな指を持ってやり,立ち上がらせてやる間息子はつかまっていなければなりませんでした」。

      ロベルティエロ博士によると,就学前の子供たちでさえ,『着替え,自分の髪にブラシをかけること,顔や手を洗うこと,おもちゃを片付けること』などの仕事を学ぶことができます。

      しかし,年長の子供たちはどうでしょうか。聖書によると,立派な大人になったヨセフとダビデは,若いころ様々な雑用を行なうことによって責任というものを学びました。(創世記 37:2。サムエル第一 16:11)そのような訓練は今でも実際に役に立つものでしょうか。

      3人の立派な青年を育て上げたボブとメアリーは,はい! と答えています。「私たちは息子たちがごく幼いころから人生の備えをさせるようにしました」と二人は述べています。そして,ボブは笑みを浮かべて,「3人共新聞配達をしていましたが,どんなことがあっても車に乗せて回ってやることはしませんでした! 私は,『それはお前たちの仕事なんだから,自分たちで責任を持ちなさい!』と言いました」。しかし,これは残酷で異例な刑罰だったでしょうか。ボブはこう説明しています。「息子たちには衣食住を備えてやっていました。しかし,“余分の物”が欲しければ,それを得るために自分で働かなければならないと私たちは考えていました」。そのような訓練は報われました。ボブはこう言葉を続けています。「つい先ごろ,成人した息子の一人がやって来て,『お父さん,きちんと育ててくださってありがとう』と言いました」。

      フランクとダウナは同様にこう語っています。「私たちは息子たちにありとあらゆることを教え込みました! 料理も,ペンキ塗りも,びん詰めも,庭仕事も,ブロック積みも,買い物もできます」。母親のダウナはさらに,「母親にとって,『子供たちに教えてやる時間などないわ。自分でやったほうが簡単ですから』と言うのは容易です。しかし,長い目で見れば,子供たちにこうした訓練を与えることには報いがあります」と述べています。

      一方ジェローム・シンガー博士によると,必要以上に親に対する依頼心の強い子供たちは,「やる気のない,自分の能力を出し切ろうとしない生徒や満足することのない気難しい従業員,要求が多くて手のつけられない配偶者などになってしまう」ことがあります。この点について聖書はいみじくも,「自分の僕を若い時から甘やかしていると,後になって感謝の念のない者となる」と述べています。―箴言 29:21。

      道徳的な価値規準

      成人したばかりの若者が今日の貪欲で,不道徳で,物質主義的な社会を無傷で“飛ぶ”には正邪の規準を備えていなければなりません。では,どのようにしてそうした訓練を与えることができるでしょうか。

      先に挙げたボブとメアリーはエホバの証人です。ですから,子供たちと定期的な聖書研究を行なうことの価値を悟っていました。これは容易なことだったでしょうか。ボブは率直にこう述べています。「腰を下ろして,この研究を行ない,それを興味深いものにするのは難しいことでした。それでも,私たちは定期的に行なうことを習慣としていました」。研究を補うものとして,健全な交わりや家族のための娯楽がありました。また,戸別に宣べ伝える業で息子たちと一緒に働くのは特に有益なことでした。「私たちの交わした一番優れた会話の幾つかは,戸口から戸口へ行く間に交わされたものでした」とメアリーは思い起こしています。

      この勤勉な努力の成果は心温まるものです。3人の息子はいずれも献身的に神に仕える僕たちです。ご家庭でも同様の計画を始めたいと思われるなら,エホバの証人は喜んでその方法をお知らせいたします。命を与えるものとなるこの教育を,子供たちが十代になるまで,あるいは大人になるまで待っていてはなりません。幼くて,親の影響力に応じるうちに子供たちを訓練するのです。

      人生に子供を備えさせるための時間を割く親は,子供を巣立たせることに喜びを感じることさえできるのです。

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      成人した息子の一人が,「お父さん,きちんと育ててくださってありがとう」と言った

      [10ページの拡大文]

      「私たちの交わした一番優れた会話の幾つかは,戸口から戸口へ行く間に交わされたものでした」

  • 快く“巣立たせて”やることができる!
    目ざめよ! 1983 | 5月8日
    • 快く“巣立たせて”やることができる!

      子供たちが成人した後もその世話を焼きたいという衝動は,簡単に抑えられるものではないことが分かりました。子供たちを手離すのが難しくなることもあります。子供たちが人生に飛び込んで行くとき,親としてはかたずをのむ(そして舌を制する)ことがあるでしょう。まだかわいい赤ん坊だというイメージを捨て,子供たちを大人として受け入れなければなりません。子供たちに自分で決定を下させ,好きなように失敗を犯させる一方,必要とあらばいつでも助けになれることを子供たちに分からせることが必要です。

      親はいつまでたっても親で,自分の子供たちのことをいつまでたっても気遣い,心配するものです。しかし,親としての関心に加え,子供たちが独立したことを受け入れ,自分たちが子供たちを訓練し,道徳的な価値規準を植え込んだということを悟っていなければなりません。子供たちが成功することに確信を抱けるのです。ですから子供が巣立って家が寂しくなるという予感にあわてふためくことはありません。子供たちを巣立たせるとは,新たな展望や新たな機会を開くことであり,さらには自分たちの結婚生活に新たな生気を吹き込む機会にさえなるのです。一時の間,家がひっそりしてしまったように思えるでしょう。長年の間子供たちの世話をしてきたのですから,やはり幾らかの調整はしなければなりません。

      しかし,人生が終わってしまったわけではありません。一周して出発点に戻ったにすぎないのです。最初は配偶者と二人きりでした。それから次から次へと子供たちが生まれ,歳月は瞬く間に過ぎ去りました。以前に想像していたよりもはるかに速く去ってしまったのです。そして今,子供たちは一人また一人と,成人して親元を離れて行きました。一生を共に暮らすと誓った人と二人だけになって,また出発点に戻ったのです。しかし,その配偶者は子供たちが胎内に宿されるより先に自分のそばにおり,今でもやはり自分の心に非常にいとしい人であるはずです。

      配偶者をもう一度知るようにするのです。「台所の流しのところにいる妻のところへ行って口づけをするぐらいいつでもできる」ではないか,と一人の父親は語っています。それは,「子供たちがいた時にはできなかったかもしれない」ことです。今では,話したり旅行したり互いに楽しい時を過ごしたりするための時間が以前よりもあります。神への奉仕を拡大することさえできるかもしれません。

      配偶者に先立たれたり独り身になったりした親でさえ,孤独感に打ちひしがれる必要はありません。「ほかの人のために働くことです!」とカルメンは勧めています。そして,「部屋の片すみに座って主人が死んでしまったことを嘆き悲しむこともできますが,いつも忙しくしていることを学びました。人々を招待し,他の人を励ますことを楽しみにしています」と話しています。

      『でも,子供たちに忘れられてしまうのではないかしら!』と言う人がいます。そのように考える必要はありません。独りになって生計を立てようと必死になっているお子さんたちは,しばしば生家のことを考え,そこで示された温かい愛について考えるものです。時々電話を入れて,元気でやっているかどうかを知らせてくるでしょう。親の思慮深い助言を求めてくることさえあるかもしれません。そして時々親に会いに来ることでしょう。親が望むほどひんぱんではないにせよ,今なお親を愛しているということを十分示せるように帰って来るでしょう。

      子供たちを親元から離すだけの愛を示したとしても,本当に子供たちを失ったわけではありません。子供たちの心の中に親が燃え上がらせた愛の炎は,親がそれを消してしまわない限り,消えることはありません。利他的な愛は壊れることがなく,どんなに離れていても大きくなってゆくものです。「愛は決して絶えません」― コリント第一 13:8。

      ですから,すでに家を離れ,間もなく結婚しようとしている感謝の念の厚い一人の息子は,次のように述べて自分の両親を安心させました。「私がお父さんとお母さんを深く愛しており,お二人と一緒にいられずに寂しく思っていることを知っていただきたいと思います。しかし聖書は,人はその父と母を離れることになると述べています。私はこの地で家名を汚さないよう,またその名が尊ばれるようにするため最善を尽くす所存です。ケリーと一緒になったら,度々顔を出すつもりでいます」。そして,それこそあるべき姿なのです。

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