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  • 「言葉」はヨハネによるとだれですか
    ものみの塔 1962 | 11月1日
    • つかわしました。イエスはこの比較をされて弟子たちにこう言われました,「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように,わたしもまたあなたがたをつかわす」。(ヨハネ 20:21,新口)それで大きな者は小さなものをつかわします。

      31 それで,身体的に空腹でも,イエスの食物は何でしたか。

      31 イエスは使命を果たすためにつかわされました。したがって,彼は自分の意志を行なうため,また肉に従って自分自身をよろこばすために,来たのではありません。彼は,彼をつかわされた偉大な御方の御心を行なうために来ました。彼は肉体的に空腹であっても,神の御心を行ないました。彼は次のように言われています,「わたしの食物というのは,わたしをつかわされたかたのみこころを行い,そのみわざをなし遂げることである」。―ヨハネ 4:34,新口。

      32 イエスはどこからつかわされましたか。それでどこでイエスは神より低い者でしたか。

      32 イエスが地上に人間として居られたときに初めてつかわされたのでなく,彼は天からつかわされたのです。彼はそれを証する次の言葉を述べました,「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは,わたしに与えて下さった者を,わたしがひとりも失わず………」。(ヨハネ 6:38,39,新口)それで,イエスは天にいる時でも御父よりも低い者でした。イエスは行なえる時間があるときはいつでも彼をつかわした方,御父の仕事を行ないつづけました。彼は次のように言われています,「私は,わたしをつかわされたかたのわざを,昼の間にしなければならない。夜が来ると,だれも働けなくなる」。(ヨハネ 9:4,欽定訳)このすべてのことから,イエスは,その御心がなされねばならぬ神でなく,むしろ神よりも低い者であって,神の御心を行なう者であることが,付加的に証明されます。

  • 彼の生命のみなもと
    ものみの塔 1962 | 11月1日
    • その4

      彼の生命のみなもと

      33 (イ)子としてイエスは,み父であられたかたに対し,何を表わしましたか。(ロ)すべての人間が,子をどの程度敬うべきだとイエスは言われましたか。

      ヨハネの書いたものから,イエス・キリストが神の子であることを示す証拠は絶対的なものであります。この事実そのものからも,御子であるイエスが神に依存していて,神とひとしくないことが証明されます。子は父より偉大ではなく,神のいましめにしたがい,父を重んじなければなりません。神の子なるイエスは,「〔私は〕わたしの父を重んじている」と言われました。(ヨハネ 8:49,新口)イエスの次の言葉から,イエスが神になろうとしている,あるいは神と等しくなろうとしているなどと,どうして言えますか,「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて,子にゆだねられたからである。それは,すべての人が父を敬うと同様に,子を敬うためである。子を敬わない者は,子をつかわされた父をも敬わない」。(ヨハネ 5:22,23,新口)その言葉を告げられたイエスは,イエスを父として敬え,あるいは神として敬えと告げていません。彼は,私たちが父を敬うのと同じくらいに子を敬えとも告げていません。

      34 この点について,なぜ子は敬われねばなりませんか。そしてどの程度?

      34 イエスの言葉をふたたび読んで,なぜ父が敬われるように彼も敬われねばならないと言われたかをたしかめて下さい。父は彼をさばき主に任命し,最高のさばき主なる神の代理者あるいは代表者として行なうように任命しました。したがって,神によって任命されたさばき主として,子は敬われるに価しました。私たちは子を敬うことにより,子がさばき主として神から任命されたことに尊敬を示します。もし私たちがさばき主なる子を敬わないなら,私たちは「子をつかわされた父」を敬いません。しかし,御子を神ご自身として敬うとか,あるいは御子をつかわされた神を敬うのと同じくらい御子を敬うという意味にはなりません。

      35 (イ)イエスを敬ったのはだれですか。どの程度? (ロ)偉大さについてイエスはどのように神と比較されますか。アラブハムとは?

      35 父なる神でさえも,御子を御自分と平等な者として敬わず,あがめませんでした。しかし,神は御子イエス・キリストを他のすべての子以上に敬って,あがめました。それで,私たちも,神が敬ってあがめる者を敬わなければなりません。全くのところ,神は私たちがそうすることを要求しておられます。イエス自身も次のように言われました,「わたしがもし自分を敬うなら,わたしのほまれは,むなしいものである。私を敬うかたは,わたしの父であって,あなたがたが自分の神だと言っているのは,そのかたである」。(ヨハネ 8:54,欽定訳)イエスの父はユダヤ人の神でした。ユダヤ人はイエスを神人,すなわち神が人間になられた者と考えませんでした。イエスは,自分が神である振をしませんでした。ユダヤ人が自分たちの神であると言う御方がイエスに栄光を与える方であるとイエスは言われたのです。それからイエスは神と同じくらい偉大であると言わず,ただ人間になる前に天界で存在していたゆえにアブラハムよりも偉大であると言いました。

      36 「父」という名称は何を意味しますか。天のみ父は,適切にも,神のみ子に何をお与えになりましたか。

      36 「父」という名称は,男親を意味します。男親は祖先,つまり発頭者,みなもと,子孫を産み出す者という意味です。神はイエスの父でした。すると,イエスの生命も神に依存していましたか。イエス自身の言葉のみが,この質問に対する絶対的な答えになります。イエスの次の言葉に気をつけてください,「死んだ人たちが,神の子の声を聞くだろう。そして聞く人は生きるであろう。それは,父ががご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に,子にもまた,自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」。(ヨハネ 5:25,26,欽定訳)父なる神は,生命のみなもとです。そして,神は御子に生命を持つ特権を与えます。したがって私たちは言葉すなわちロゴスについて述べているヨハネ伝 1章4,5節(欽定訳)の意味が良く分かります,「彼の中に生命があった。その生命は人の光であった。光はやみの中で輝く。やみは光を理解しなかった」。

      37 だれから,そしてだれをとおして,人々を啓発する生命が来ますか。

      37 死のやみに行く人々を啓発する生命は,みなもとなる父から,経路なる御子を通して来ます。御子は御父から生命をいただきました。それで,使徒ペテロは主イエス・キリストに次のことを正しく言えました,「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましよう。なんぢは永遠の生命の言葉を持っています。そして,汝があのキリスト,すなわち生ける神の子であると,私たちはかたく信じています」。―ヨハネ 6:68,69,欽定訳。

      38 イエスは,ご自分の生命の起源と,信仰によってイエスを食べる者たちが得る生命とをどのように比較されましたか。

      38 イエスは,信ずる人々の生命のために,自分自身を人間の犠牲として捨てると語られたとき彼の生命の起源を示しました,「わたしの肉を食べ,わたしの血を飲む者はわたしにおり,わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ,また,わたしが父によって生きているように,わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」。(ヨハネ 6:56,57,新口)イエスによって,食べる者たちは,彼によって生き始めます。同じくイエスも神によって生き始めました。それで,御子イエスが御父とともに永遠に存在しておられて,生命の始まりを持たれていなかったなら,「わたしが父によって生きている」と,どうして正しく言えましたか。したがって,イエスは生命を神からいただいた神の御子でした。彼は,ちょうど信仰によってイエスの人間の犠牲を食べる者たちが,イエスを通して生命を受け,イエスによって生きるごとく,彼の天の父から生命をいただきました。人間の犠牲になられたイエスがおられないなら,人間は神の新しい世で永久に生きることはできないでしょう。同じく,神がおられないなら,御子は決して生きなかったでしょう。

      39,40 (イ)イエスの生命の存続は何に依存していましたか。(ロ)イエスが神に依存して生命を保っておられたことは,どのように別の方法で奇跡的に示されましたか。

      39 イエスが生命を保ちつづけることは,御父なる神への従順に依存しました。40日間の断食を終えるにあたって,石をパンに変えよと悪魔はイエスを誘惑しました。そのときイエスは預言者モーセの言葉をご自分にあてはめました,「人はパンだけで生きるものではなく,神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。(マタイ 4:4,新口)イエスが御父なる神に生命を依存したことは,別の面でも示されています。どのように? 彼が犠牲として人間の生命を捨てられて3日の後,神は御子イエスを死人の中からよみがえしたことからも分かります。

      40 ヨハネ伝 5章21節(新口)で,イエスは死人を復活させて,生命を与える神の力について語り,次のように述べました,「父が死人を起して命をお与えになるように,子もまた,そのこころにかなう人々に命を与えるであろう」。イエスは彼自身を死の中からよみがえしませんでした。彼は天におられる不滅の父が,彼を死からよみがえすことによりたのみました。彼が犠牲の死をとげて3日目に,神は御子をよみがえして,ふたたび生命を与えました。御子はその生命をいただき,受取りました。つまりふたたび取りました。イエスは次のように言われています,「父は,わたしが自分の命を捨てるから,わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは,それを再び得るためである。だれかが,わたしからそれを取り去るのではない。わたしが,自分からそれを捨てるのである。わたしには,それを捨てる力があり,またそらを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。―ヨハネ 10:17,18,新口。

      41 どのように,またなぜイエスはご自分の生命を捨てましたか。またどのようにそれを取り戻しましたか。

      41 イエスは,彼の生命(ギリシャ語でプシケ,魂)を捨てました。もちろん,ローマの兵士は彼をカルバリで殺しました。しかし,イエスが彼らにそうすることを許されたのであって,これは彼の御父の御心,あるのいイエスに対する御父のいましめと一致するものでした。イエスは彼の生命を取りもどしました。といっても,彼の人間としての犠牲を祭壇から取りのぞいたということでなく,また自分自身を生命によみがえしたわけではありません。3日目に神はイエスが死人の中からよみがえるように命じました。イエスは,神の権威により,御父の御手から生命を受け入れることによりそうされました。イエスは次のように言われています,「私はそれをふたたび受けもどす権利を持っている。私は父からこのいましめを受けた」。―新しい英訳聖書。

      42 ヨハネに言われたとおり,イエスはどのように「初めであり,終り」ですか。

      42 イエスはいまふたたび天に生きておられます。イエスは天の御父のところに戻って後,まぼろしの中に使徒ヨハネに現われて,こう語りました,「わたしは初めであり,終りであり,また生きている者である。わたしは死んだことはあるが,見よ,世々限りなく生きている者である。そして,死と黄泉とのかぎを持っている」。復活に関しては,彼は初めであり,終りあでりました。なぜなら,ヨハネは彼のことを「忠実な証人,死人の中から最初に生れた者,……私たちを愛して,その血によって私たちを罪から解放した方……」と語っています。(黙示 1:17,18,5,ア標)神が死人の中からよみがえして「世々に限りなく生きている」地上の人の中で彼は最初でした。彼はまた,神が直接によみがえされる最後の者でもあります。今では神は復活されたイエスにかぎを

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