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    ものみの塔 1955 | 3月15日
    • 1955年にヱホバを恐れる者の期待

      『悪しき音信を畏れず,その心ヱホバに依り頼みてかたし。』― 詩 112:7。ア標。

      1 私たちは何に基いて,1955年に対する一番良い期待を持つことができ,『ハレルヤ』と叫ぶことができますか?

      1955年および,その後の年に面する時,あなたは『ハレルヤ』と叫びたい気持を感じますか? 全地の最高者,その御名がヱホバという神だけを,あなたが恐れているならば,まつたく『ハレルヤ』を叫ぶ気持になるはずです。その方のみを恐れるならば,1955年およびその後のすべての年にたいして,あなたはいちばん良い期待を持つことができます。つまり,それは幸福をともなう繁栄の期待です。いま幸福を与え,また神がその基礎をすでに置かれた正義の新しい世における終りない幸福な生命に導くものは霊的な繁栄である故に,その繁栄とは,体と気持ちの上だけではなく,心の上でもあなたに利益を与えるものです。幸福をともなう真実の繁栄は,ヱホバ神から来るもので,それは彼を恐れる者たちに保証されているということを知り,深く悟るときに,感動して,『ハレルヤ!』と叫ばざるを得ません。『ハレルヤ!』という叫びは,『ヱホバを讃めよ!』という意味だからです。

      2 詩篇 112篇はどのように始まりますか? 何故,それは特別なものですか?

      2 『ハレルヤ,主を恐れて,そのいましめに深くよろこぶ者は幸いである。』前世紀の一ユダヤ人の学者aのした翻訳によると,霊感をうけた詩篇 112篇は,そのように始まつています。しかし,『ハレルヤ・永遠者を畏れて,そのいましめに豊かなよろこびを見出す者は幸いである。』これは,現世紀の翻訳者が,ヘブル語原文から言葉を翻訳している仕方です。b 冒頭にこの感動の叫びがあるために,詩篇 112篇は,聖書の中にある多くのハレルヤ詩篇の一つとなつています。この詩篇を特別なものとする別の事柄は,この詩篇は,いろは順の詩篇,つまり離合体の詩篇であつて,各行はヘブル語いろはの22文字の1字ずつの正しい順序にしたがつて始まつています。それですから,この詩篇には,22行あります。最初の8節の各節に対して,ヘブル語いろはの2字が,初まりの文字であり,最後の2節の各節に対しては,ヘブル語いろはの3字が初まりの文字となつています。この面から見るとき,この詩篇は一つ前の詩篇のようであり,その組み立てられ方において双児であります。

      3 何故詩篇 112篇は重要となり,私たちはいま考えねばなりませんか? それで,どのような個人的な質問が起りますか?

      3 さて,いま詩篇 112篇を深く考える時に,その重要なことというものは,詩篇112篇がただ地上での真実に幸福な人を記述しているだけではなく,それが予言的なものであるということです。それは,私たち現在の時における幸福な人,またはその人々の級を指し示し,表示しています。つまり,それは,ただ一個人ということではなく,集合体の意味においての人,すなわち共通の理由の故に同じく幸福な成員で構成される合成の人について予言しているということです。あなたは,この幸福な集合の『人』の一成員ですか? それとも,あなたはもつともたのしい交りのうちに,この『人』とを持つている者ですか? これを知るためには,その詩篇を深く考えて下さい。

      4 詩篇 112篇は,誰を予言的に指していますか? その質問に対する間違いない答えをどのように得ることができますか?

      4 霊感をうけてその詩篇を書いた人,つまりイスラエル人あるいはユダヤ人は,その書いたものについての予言的な価値を十分理解することなしに,自分の心の中にヱホバを恐れるイスラエル人あるいはユダヤ人を考えたかもしれません。(ダニエル 12:8。ペテロ前 1:10-12)それでは,詩篇 112篇は,パレスチナまたは今日地上の他の場所にいる生来のユダヤ人あるいはイスラエル人に適用するのですか? それでは,その詩篇は,どのように適用することができますか? 偏見を持たない人で,次のように主張する人はいますか? つまり,生来のユダヤ人あるいはイスラエル人のある者は,いろいろな国々で物質的な繁栄と顕著な地位とを楽しんでいる故に,彼らは幸福な民,まつたく特別非常に幸福な民であるというのです。彼らは宗教的にも幸福ですか? 事実に基く真実の答は『否!』に違いありません。彼らは詩篇 112篇の記述を成就していませんが,それについては,全く重大で根本的な理由があるのです。それは,彼らがヱホバを恐れず,またそのいましめをも守らず,人間の言い伝えに頼つて,ヱホバの御名を隠しつづけ,そして唯一つの生ける真の神の御言葉といましめの代りに人間のいましめに従うからです。(マタイ 15:1-9。イザヤ 29:13,14)それでは,詩篇 112篇が予言的に指し示している人々の級,つまり今日における集合の『人』とは誰ですか? 私たちはその答えをいたそうとしません。もしそうするならば,その答を聞いて,不公平,人種的偏見,または国家的な誇りの怒りの声が湧き上るかもしれません。霊感を与えてその詩篇を書かせられた神御自身が,間違いのない答をつくられています。神は聖書記者の一人をお用いになつて,この詩篇を引用させ,神御自身の考えられていた人々の級に適用させておられます。それは,霊的のイスラエル人,つまり内のユダヤ人であつて,その残れる者はいまでも幾万人か地上におります。(ロマ 2:28,29)彼らは,全世界の前に正しく識別されるため,1931年に,聖書の中に記されている名前を採り上げ,その名前は以来全地に亙つて著名となりました。つまりヱホバの証者という名前です。―コリント後 9:9。詩 112:9。イザヤ 43:10,12。

      5 この詩篇によると,1955年に必らずいちばん幸福な人々は誰ですか? 彼らはなぜいままでになく幸福ですか?

      5 仮りに詩篇記者が,神の御名を今日負つているこの民を,見るとするならば,彼は感動して再びこう叫ぶことでしよう。『汝よヤハを讃えよ! ヱホバを恐れ,そのいましめにいたくよろこぶ者は,なんと幸福なことか!』(詩 112:1,ヤング訳)この聖句によると,ヱホバの証者は,1955年,およびその後でも必らずや,地上で一番幸福な民であります。彼らの幸福は,実際に詩篇記者がそのような言葉を述べる程のものでしようか? そうです。この世は,その『終りの時』におり,その将来に来るべきものを心配して恐れているために,いままでになく不幸な状態におります。神の御言葉の予言を学ぶことにより,ヱホバの証者は,このよろこびのない世の『終りの時』に生活していると知つており,また長いあいだ祈つてきた神の御国は,天の神の右に坐しているイエス・キリストの御手によつていまや設立されたと知つているために,いままでになく幸福であります。―ルカ 21:28。

      6 彼らの幸福は,どんな属性と結びついていますか? なぜ?

      6 ヱホバの証者の幸福は,根拠のない幸福ではありません。その幸福は,かたい基礎を持つています。それは最高の智恵,上からの智恵と結びついています。彼らがこの天からの智恵を持つているのは,ヱホバを恐れているからです。いま研究している詩篇の一つ前の詩篇は,次の言葉で終つています。『ヱホバをおそるるは,智恵のはじめなり。これらを行うものは,皆あきらかなる聰ある人なり。ヱホバの頌美はとこしえに失することなし。』(詩 111:10)『智恵のはじめ』ということは,すべての真の智恵の中でも主要なもの,最高のものを意味すると,ある人は理解しています。ヱホバを恐れることは,真実の智恵を始めます。私たちは,一番はじめに創造者を恐れねばなりません。そしてその恐れをいつも最先に保つべきです。

      7 (イ)ヱホバを恐れるならば,人間を恐れることはどうなりますか?(ロ)ヱホバの御名にどのような態度をとるべきですか? 誰がそのような態度をとつていますか?

      7 創造者を恐れるならば,人間を恐れることはできません。両者を同時に恐れることは,あり得ないからです。創造者を恐れるならば,人は賢いものとなり,終りない新しい世で永遠の生命を得ることができます。人を恐れることは,愚かなことであり,その終りはゲヘナで愚か者のうける永遠の亡びであります。地上でいままで住んだ人のうちで,人間に対する恐れを全く持たなかつた人は,その弟子たちにこう言いました。『体を殺しても,魂を殺すことのできない者たちを恐れてはならない。しかし,魂と体両方をゲヘナで亡し得る方を恐れなさい。』(マタイ 10:28,新世)それで,ヱホバを恐れるならば,人間や悪魔を恐れること,あるいは神の許可のもとにこれらのものが私たちになすものを恐れるということがなくなり,除去されてしまいます。ヱホバの証者は,ヱホバを認めて畏敬しております。つまり,ヱホバを認めて恐れており,尊敬してその御名を担い,また述べています。いま学んでいる詩篇の一つ前の詩篇は,次のように示しています『ヱホバの御名は聖にして,崇むべきなり。』あるいは『聖にして,尊むべきはヱホバの御名なり。』(詩 111:9,ア標。ロザハム訳。ロブス訳)ヱホバの御名は『栄えあり,恐れある御名』であつて,ユダヤ人だけではなく自称の『キリスト教国』がいまのように苦しみを受けているのは,彼らがヱホバの御名を恐れず,またその律法を行わないためであります。(申命 28:58,59,新世)ヱホバは御自分の御名にかけて,大いなる業や恐れある事をなしとげられました。すべての人は,ヱホバの御名を讃めるべきです。しかし,全国民,全国家の中で,ただ善意者だけがヱホバの聖名を崇め,また恐るべきものと尊敬しています。―歴代志略上 17:21。詩 99:3。マラキ 1:14。

      8 そのような恐れと智恵は,どのように表わされますか? たとえ苦しみをうけようと,これはどんな結果を生じますか?

      8 ヱホバを恐れることと,上からの智恵は,ヱホバのいましめに従うということに表わされます。そして,この結果は取り除くことのできない幸福ということになります。この世の一般の人は,設立されている地的の全権威だけではなく,主として創造者である神に対して不法の行をしていますが,それにもかかわらず特に創造者である神に対して,ヱホバの証者は合法の行を好みます。神のいましめと神を冒瀆する人のいましめのあいだにたとえ衝突のある時でも,彼らは神のいましめを守り,辛くて苦しいこととは感じません。『私たちは人に従うよりは,神に従うべきである』という使途たちの原則を固く守るために,苦しみをうけるならば,自分たちは幸福な者であると彼らは考えます。(使行 5:29,新世)このことは,いつも一番良い結果,ひいては一番幸福な結果を生じています。

      9,10 ヱホバを恐れるこの『人』は何によろこびますか? 例えば,いまではどんなものによろこびを持ちますか?

      9 詩篇記者はヱホバを恐れる幸福な者について,『彼はそのいましめをいたくよろこぶ』と言つています。(詩 112:1,ヤング訳)その者は,ヱホバの予言の中のどのいましめが,この『終りの時』に適用するかを学び,また確めます。それから,よろこびの気持のうちに,それらのいましめをなしとげます。その理由により,今日の世界の全国民は,ヱホバの証者が御子キリスト・イエスを通して言われたヱホバのいましめに従つているのを見ているのです。『御国のこの良いたよりは,すべての国民に対して証しをするために,全世界に伝道されるであろう。それから,全き終りが来るのである。』(マタイ 24:14,新世)ヱホバを恐れる霊的イスラエル人の残れる者は,間もない中にキリストの天的『花嫁』の成員になることを知つています。それで,彼らはヱホバの予言の御霊をうけて,いまや黙示録の幻をよろこびつつなしとげています。『御霊も花嫁も「来なさい!」と言いつづける。聞いている者たちに「来なさい!」と言わせよう。そして,渇いている者たちを来させなさい。願う者たちには生命の水を無料で取らせなさい。』(黙示 22:17,新世)彼らは,御国の真理という生命を与う水を願い,そして渇けるすべての善意者を招き,また援助します。それから,それらの者をはげまし援助して,他の者たちに『来なさい!』と言わせます。

      10 ヱホバを恐れる霊的イスラエル人は,従順を守つて幸福ですが,彼らは見張りの者のように行い,そしてヱホバを憎む者,侮べつする者,無視する者たちすべてを亡すハルマゲドンの戦で,ヱホバの刑執行の剣が臨むということを全人類に警告しています。彼らは,自分たちに与えられた神の命令といましめを念頭から離しません。『人の子よ,我汝を立てて,イスラエルの家の守望者となす。汝わが口より言葉を聞き,我にかわりて彼らを警むべし。』(エゼキエル 33:1-7; 3:16-21)彼らは熱心に神の御意をたづね求め,その知識が増すようにと神の御言葉の頁をくまなく繰ります。彼らはまた,さだめられているすべての集会に集まるのを怠りません。彼らはお互いに励まし合うため,研究の群や会衆や,また大きな大会に共に参ります。ことに,神の勝利の戦の大いなる日が近づくのを見るにつれて,ますますそうしております。(ダニエル 12:4。ヘブル 10:25,新世)それで,愛の心から神のいましめを守ることにより,彼らはいつもよろこびを得ています。

      それより生れる者の永久性

      11 ヱホバを恐れる人の裔は,地上でどのようにつよくなりますか?

      11 ヱホバを憎む者たちは,ヱホバを恐れる人を亡しつくすことができません。それだけにとどまらず,彼の家はこの地上に存続するでしよう。『彼の裔は地にてつよし。直き者より生まれる者は,祝福を得ん。』(詩 112:2,アメリカ標準訳)詩篇に言われているヱホバを恐れる人を,キリストの霊的な会衆または『体』の全成員で成り立つている集合の人と見るならば,その人の裔または子孫は,羊のような善意者,すなわち『他の羊』であります。正しい牧者はこの集合の『人』を用いて,これらの者を一つの群に集めております。彼らの永遠の運命は,清められそしていたるところ『エデンの園』または『よろこびのパラダイス』になるこの地であります。彼らはこの地に永遠にとどまります。彼らはこの地でつよくなりますが,しかしそれは自動的になるのではありません。それは,ヱホバを恐れる霊的な残れる者が『良いたよりを通してその父親』になるからです。この残れる者は,御国についての良いたよりを彼らに伝道し,そしていまや彼らは,ヱホバの御言葉をその裔に良く教えよというヱホバの命令に従つています。(コリント前 4:15。申命記 6:4-6,新世)こんどは,その『裔』は,エペソ書 6章1-4節にある霊感の命令を子供のように守ります。その命令とは,『御国のこの良いより』の力により彼らの父親となつたヱホバを恐れる『人』にたいして,従順であり,協力をせよということです。

      12 『直き者の生まれる者』は,いまどのように祝福されていますか?

      12 詩篇 112篇2節の2行は,その考えにおいて同じであるところから,2行目にある『直き者より生まれる者』とは,1行目にある『彼の裔』と同じであります。それで,直き者たちとは,ヱホバを恐れる『人』を形づくる霊的なクリスチャンであります。この『人』の中で,まだ地上にいる残れる者たちは,地のすべての家族が祝福をうける『アブラハムの裔』の一部です。残れる者は,『他の羊』のこの新しい時代の者にたいしてすでに祝福の手段となりました。(詩 71:18; 145:4)彼らは『直き者』の級であるため,その子供となる裔または生まれる者は,祝福を必らずうけます。『ただしきものは終日めぐみありて貸し与う。その裔はさいわいなり。』(詩 37:26)しかし,次のことをも忘れてはなりません。つまり,直き者の裔または生まれる者は,『永遠の父』イエス・キリストの良い子供たちということです。そして彼こそは,主としてアブラハムの祝福の裔であります。(イザヤ 9:6)『他の羊』がすでにうけている祝福は彼らがその罪から離れさつて,ヱホバ神の真の崇拝と奉仕に加つていることであります。―使行 3:25,26。

      13 彼らが力強いことは,何によりますか? 彼らの力強さはどの位つづきますか?

      13 象徴的な意味から言つて,彼らは詩篇 112篇のヱホバを恐れる人の裔または生まれる者である故に,彼ら自身ヱホバを恐れる者となります。このことは,智恵と力にいたらすものです。幾万という数をなして群り入る新しい世の社会の中で,彼らはいまや大きな数になつているため,地上でもすでに強い地位を占めています。彼らは,キリストの体の霊的残れる者の下にいて,神の御国の証言の力強い業を行つており,また新しい世の社会を拡大しております。それを行うのは,人数の単なる力によるのではなく,ただヱホバの御霊の助けによるのです。(ゼカリヤ 4:6)彼らは『全能の神の大いなる日の戦』を生き残り,新しい世の『新しい地』で,引きつづき力ある者として残り,ハルマゲドン後の仕事をいたします。サタンとその悪鬼たちが,キリスト千年統治の終りに底無い坑より解き放たれる『しばらくの時』のあいだでも,その清められた地における彼らの地位は,けつして動きません。彼らは,試みをうける『しばらくの時』のあいだ,ヱホバを恐れるその忠実を保ち,地上のパラダイスで永遠の幸福をもつ権利をゆるされ,その権利をヱホバの御手からうけるという祝福が与えられるのです。―マタイ 25:40。黙示 20:1-3,7-15,新世。

      14 諸国民の富は,神の怒りの日になぜ彼らの益となりませんか? この点において,ヱホバを恐れる『人』は,どのような利益を得ていますか?

      14 特に1919年以来,神の御怒りは,サタンの制度に属する全国民にのぞんでおり,その御怒りは,神の大いなる日の戦の時に破れるでしよう。その戦の時には,諸国民は神の正義を持たない故に,物質的な富や財産は諸国民にとつて,なにの益にもなりません。ヱホバの刑執行の軍勢の行う死と亡びから救を得る唯一つのことは,その正義であります。(シンゲン 11:4)ヱホバを恐れる『人』は,「イエス・キリストを通して神に信仰を持つことにより義とされ」また「神の見るところで義しい行をする」故に,この義を持つております。(ロマ 5:1,9。黙示 19:8,新世)彼はそれ以上のものを持つております。詩篇 112:3はこう述べています。『富と財とは,その家にあり。その義しきはとこしえに失することなし。』

      15 彼は,その家でどのような種類の富と財を持つていますか?

      15 その家,あるいはヱホバの神権制度内で彼の住むところに,彼は財産と富を持つていますが,その財産は丁度わしのように,天にむかつて飛びさり手の届かなくなるような種類ではありません。彼は智恵の与える財産と富を持つているのであつて,神の智恵はこう言つています『富と栄とは我にあり。貴き宝と公義ともまたしかり。』(シンゲン 8:18)彼は,神の天的御国で,キリストと共に相続する権利を持つています。これ以上に貴重なものがあるでしようか? 彼は,神の御言葉を宣教する,又は奉仕する宝を持つています。地上でこれ以上の栄れあるものがあるでしようか? 彼は,神の是認と祝福をうけるため,そしてまた神の約束の成就をうけるのにふさわしいものになろうと生活し働くことにより,天に宝を貯えています。彼は,新しい世の富となるものにたいして,基礎を置いています。彼は『将来の正しい基礎を(自分自身)安全に貯えている。それは,(彼が)真実の生命をかたく得るためである。』― テモテ前 6:17-19,新世。マタイ 6:20,21。ロマ 8:15-17。コリント後 4:1-8。

      16 『その義しきは,とこしえに失することなし』とは,どういうことですか?

      16 家にある財や富よりも,もつと大切なものは,『その義しきは,とこしえに失することなし。』ということです。つまり,彼は1955年,および永久に亙つて保護をうけ,その義しい途を歩み続けることができるということです。つまり,ハルマゲドンのときに,この悪い世の業はその戦で燃え失せ,その影響は全く消え失せてしまいますが,彼の義しい行の結果は,ハルマゲドンで消滅することなく,永久のものであります。彼は正義にかたく従うことにより,彼の恐れるヱホバに対しての忠実を保ちます。そして,生きながらえて新しい世の生命をあたえられるために,正義は,神の御意が天で行われるように,この地でも行われるようにと私たちの祈つているこの地に保たれます。神の創造された地は,正義に全くふさわしい場所です。ヱホバを侮蔑する者たちの道は,消えさり,その悪は地から消えてなくなります。(シンゲン 2:21,22)ヱホバを恐れる直き『人』の裔または生まれる者は,彼のごとくに,この地で永遠に正義を行い続けます。

      17 『直き者のために暗き中にも光あらわる。』ということは,彼の場合に,どのように真実でしたか?

      17 今日,ヱホバを恐れる『人』の級は,むかし,啓発を必要とし,またその地的な状態について光を受けることを必要としました。多くの翻訳者たちは,詩篇 112篇の4節を翻訳し,その考えを示しております。例えば,アメリカ標準訳はこう翻訳しています。『直き者のために暗き中にも光あらわる。かれは恵ゆたかに憐憫にみつる義しきものなり。』歴史的に見て,このことは,1919年の時の霊的な残れる者に真実に起つたことでした。彼らはその時,暗やみの大きな制度,神秘のバビロンの下にいて,圧迫と束縛の暗やみの中に横たわつていました。彼らは第一次世界大戦の年のあいだ,この世の国家にとらわれ,神の御言葉にしたがつて自由にまた恐れなく神を崇拝するという彼らの権利は奪われていました。宗教的な誤解とこの捕われの状態は,1919年になくなりました。そのとき,ヱホバ神は起ちて彼らの光となり,御子イエス・キリストを遣わして,霊的に生命を殺すこのバビロンの束縛から彼らを解放し,そして御自身の恐れ無き証者として神の制度内での正しい地位と自由にふたたびもどしました。神は予言者ミカを用いて,このことを予言いたしました『わが敵人(バビロン)よ,我につきて喜ぶなかれ。我仆るれば,興あがる。くらきにおれば,ヱホバ我の光となり給う。ヱホバわが訴訟をただし,我ために審判をおこないたまうまで我は忍びてその忿怒をこうむらん。そは我これに罪を得たればなり。ヱホバついに我を光明に携えいだしたまわん。しかして我ヱホバの正義を見ん。』(ミカ 7:8,9)イザヤ書 60章1,2節。詩篇18篇8節。ヨブ記 33章28節。そして詩篇 107篇10-14節のような他の予言も,残れる者の地的な状態にこの光が与えられることを前もつて述べていました。

      18 他の翻訳者たちは,詩篇 112篇4節のこの部分をどのように翻訳していますか? これは,霊的な残れる者に課せられているどんな義務を示していますか?

      18 しかし,詩篇 112篇は,ヱホバを恐れる霊的な『人』の生命と行動を記して示しているために,この節はヘブル語から別の仕方で正しく翻訳され,いま霊的な残れる者に課せられている義務を示します。能力のある他の翻訳者たちは,この第4節をいろいろに翻訳していますが,それらは次のようです『彼はくらやみに起きて,直き者の光となる。』(ロブス訳)『直き者にとつて,彼はくらやみの中の光として輝く。』(ソシノ訳)『直き者のために,彼はくらやみの光と(して),起きる。』(シー・カウチ訳。ドイツ語)『くらやみの最中に,彼は直き心のために,光のごとくに起きる。』(マレドソウス訳。フランス語)『彼はくらやみの中の光として,善人のために輝く。』(ボバー ― カンテラ訳。スペイン語)『くらやみの中にいて,彼は直き者のために光として輝く。』(ナカー ― コロンガ訳。スペイン語)この叙述に合う『人』は,イエスの述べた次のことをする義務を持つています。『あなた方は世の光である。……おなじように,あなた方の光を人の前に輝かせなさい。それは,人々があなた方の正しい業を見て,天におられる御父に栄えを捧げるためである。』(マタイ 5:14-16,新世)彼は天的な御父によつて,啓発をうけている故に,その正しい業によつて,天的な輝きを他の者に反映させねばなりません。それは,くらやみで盲にされた者が見ることができ,ヱホバを知つて彼に栄えを捧げるためです。他の者を啓発し,そしてくらやみの力をおい払つてしまうとは,なんと祝福された特権なのでしよう!

      19 これは,残れる者がいまよろこんで従つている他のどんな神のいましめと結びつけますか? その従順から誰が利益を得ますか?

      19 このことは,ヱホバを恐れる級がいまよろこんで従つている別の命令に関連し結びつけます。それは,ヱホバの大いなる『僕』級に述べられているものです。『縛しめられたる者にいでよと言い,くらきにおるものに顕われよといわん。かれら途すがら食らうことをなし,もろもろの禿なる山にも牧草をうべし。』(イザヤ 49:9)いまや,この予言的な命令は,ヱホバの『僕』級,すなわち『忠実にして賢い奴隷』級によつて,なしとげられるべきです。そして,まだサタンの制度に縛られており,宗教的な無智と無希望に閉じこめられている『他の羊』に対してなされるべきです。黙示録 7章9-17節の示すところによると,それこそイザヤの予言がこの悪の深くなるくらやみの時代に適用する仕方です。『僕』級は,この行をすることにより,その天的な母,シオンに適用する命令,そしてひいてはその霊的な子らである彼ら自身に適用する命令に注意を払います。『起きよ,ひかりを発て。なんじの光きたり,ヱホバの栄光なんじの上に照り出でたればなり。視よ,くらきは地をおおい,闇はもろもろの民をおおわん。されど,なんじの上にはヱホバ照り出でたまいて,その栄光なんじのうえに顕わるべし。』(イザヤ 60:1,2)そうです,シオンの霊的な子らが光として暗やみの中に起ち上るならば,『なんじの上に顕わるべし。』ただそのようにしてのみすべての国の直き者たちは,この世のくらやみから出てきて,明るく輝く光の制度に来ることができます。くらやみの力は,光をにくみ,光を持つ者を抑圧して自分たちの曝露されることを避けようとします。しかし,御国の真理の光を愛する者は,光のところに来て,キリストの霊的な兄弟たちの一番小さな者にも善を行い,その羊のような性質を示しています。

      20 『恵みゆたかに憐憫にみつる義しき』ことにより,残れる者は誰に似ていますか? 彼らは,誰にむかつてこれらの性質を示さねばなりませんか?

      20 この世のくらやみの中で盲目となり,よろめき歩いている『他の羊』を啓発するこの勇気ある仕事は,詩篇 112篇4節の残りの部分と良く一致するものです。『かれは恵みゆたかに憐憫にみつる義しきものなり。』これによると,彼はなんとヱホバに似ていることでしよう! この一つ前の詩篇の第4節は『ヱホバはめぐみと憐憫とにて充ち給う。』と言つています。また,ヱホバ御自身も,アラビヤのシナイ山で御名をモーセに述べられた時に,次のように言われました。『ヱホバ,ヱホバ,憐憫ありめぐみ深き神』(出エジプト 34:6,新世)ヱホバを恐れる人は,それらの性質を他の者たちに行い,ヱホバのそれらの性質を模倣いたします。天の御父が私たちになされたように,私たちは他の者に対してこれらの性質を行う必要があります。『あなた方の天の御父が全きであるように,あなた方も全くなければならぬ。』『あなた方の御父があわれみを持つておられるように,あわれみを持ち続けなさい。』(マタイ 5:48。ルカ 6:36,新世)ヱホバを恐れる者は,ヱホバに模倣し,くらやみに閉じこめられた『他の羊』を努めて啓発し,彼らを光の神権制度に導くことにより,これらの性質を良く表します。しかし,また新しい世の社会にいる兄弟たちに対しても,恵み深く憐みを持たねばなりません。それは,新しい世の社会のすべての者が,平和,調和,潔白,そして互の援助のうちに行つてゆくためです。―エペソ 4:1-3。

      21 ヱホバを恐れる者は,どの程度まで『善』ですか? これは,どのようにその『裔』又は『生まれる者』に対して,祝福という意味になりますか?

      21 ヱホバ神は,善が擬人化されて,御自身が真実に善である唯一人のお方です。イエス・キリスト自身を含めて,ヱホバ神よりつくられたすべてのものの持つ善は,皆ヱホバ神から受けているに違いありません。『善い先生』という称号を拒絶して次のように言われた時に,イエス自身もそう言われました。『なぜ私を善いと呼ぶのか? 唯一人の方である神のほかに善い者はいない。』(ルカ 18:18,19,新世)ヱホバを恐れる者は,ヱホバの御親切と寛大を模倣いたしますが,それと同じ程度にヱホバのように善になります。『恵みありて,貸す者は善なり。』(詩 112:5,ヤング訳)『善き人は,温和にして与える。』(ヘントン訳)ヱホバ御自身の御行為は恵み深く温和であり,全く御親切であられます。それで,彼は悪しき人にも善き人にも,義しい人にもまた不義の人にも,地上に住むすべての人々に与えられます。ヱホバは,貧しい者や困つている者を支えられる御方であります。ヱホバを恐れる『人』は,これらの面でも,ヱホバに模倣することを目標にいたします。彼はその霊的な贈りものを惜しみなく与えますが,物質的な報いを当てにいたしません。彼は温和な態度で与え,誰かを困らせようなどとはいたさず,又無私の気持で伝道する御国の良いたよりを拒絶する者たちに対しても,脅かしたり,非難したり,口汚く罵ることはありません。彼は自分の持つているもので一番良いものを惜しみなく与え提供いたします。つまり,生命を救う御国の音信です。この行は,その裔またはその生まれる者にとつて,祝福を間違いなく意味いたします。この『良いたより』という手段によつてのみ,いわば,老年になつても,彼がこの裔の父になるからです。ずつと昔に,詩篇記者はそのことを述べました。『我むかし年わかくして今老いたれど,義者のすてられ,あるいはその裔の糧こいありくを見しことなし。ただしきものは,終日めぐみありて貸し与う。その裔はさいわいなり。』(詩 37:25,26)新しい世の社会の中にいる彼らはみな,なんと幸福な家族でありましよう!

      22 詩篇 112篇の5節によると,新しい世の社会はなぜ良い振舞をする制度でなければなりませんか?

      22 ヱホバを恐れる『人』とその裔またはその生まれる者でつくられる新しい世の社会は,良い振舞をする制度でなければなりません。詩篇 112篇5節は,その人について,次のように述べているのですから,私たちはそうであると期待すべきです。『彼は公正をもつて自分の事柄を導く。』(リーサー訳)『彼は賢明に自分の事柄を導く。』(カークパトリック訳)『その者は公正をもつて自分の業を行う。』(アメリカ訳,モハット訳)『彼は公正をもつて自分の事柄を支える。』(ロザハム訳)つまり,彼は事柄を行うのに良い判断を用いて,新しい世の社会の福祉を守るということです。彼は物事を選ぶときに分別を用います。そして,ヱホバの羊の会衆について,その監督や宣教の僕を任命する時には,神の御意を確かめようと努め,それから神の御霊を持つ人,すなわち聖書的に物事を見る人で,公正の考えを持ち,また進歩をつづけて,制度を繁栄,増加させて,ヱホバに栄光を捧げることに関心を払う人を選び,資格を与えます。彼は新しい世の社会の霊的な必要物に注意を払い,いつもいそがしくそれらのものの備え物をつくります。それは,新世社会の成員がみな,良い霊的な状態を保ち,』信仰の正しい戦で勝利を得ようと戦う』ために備えをうけ,強く,また,熱心にヱホバのいましめをよろこびつつ行い,そしてヱホバの制度の上に置く業を一致して行うことのできるためです。その『人』は,公平にすべての成員を努めて援助し,教育し,そして備えさせます。それは各成員が,同じくヱホバの活潑な証者となり,神の設立された御国の良いたよりを家から家に宣べ伝える者になるためです。―テモテ前 6:12,新世。

      23,24 (イ)誰がヱホバを恐れる『人』を動かそうとしますか?(ロ)しかし,彼を動かすことは可能ですか? 彼は動かされますか? なぜですか?

      23 このように導かれ,維持され,そして規定される社会の場合に,1955年およびその後の年にたいして私たちはなにを期待すべきですか? その答えは,詩篇 112篇6節から来ます『又とこしえまで動かさるることなからん。義しき者はながく忘れらるることなかるべし。』1955年でも,あるいはハルマゲドンの戦の終が来る以前のどんな時でも,ヱホバ神を恐れる義しき者は,この世の攻撃と迫害を逃れようとは期待できません。『実際に,キリスト・イエスにあつて敬虔な献身の生活をしようと思う人は,みな迫害をうけるであろう。』(テモテ後 3:12,新世)この世の悪しき者たちは,努めて彼をよろめかせ,政治的政府の争に巻きこんで法庭に引き出し,彼およびその裔の存在を不法にさせる法律を通過いたさせます。これはみな,彼を除去してしまい,その義しい慈愛の活動を制止し,そうして彼の霊的な死と亡びにいたらすためです。しかし,いまにいたるまで敵は彼を地上から除去することができず,また証言の区域から追い出すことはできなかつたのです。敵は1955年でも,またそれより後の時でも,彼を除去することはできないでしよう。この霊的なイスラエルの『人』は,ヱホバを恐れています。その理由により,彼はその忠実を守るのによろめくことは許されないのです。

      24 次の言葉は,イエス・キリストのために予言的に述べられていましたが,それは又彼の追随者のためにも述べられているものです。『われ常にヱホバをわが前におけり。ヱホバわが右にいませば,われ動かさるることなかるべし。』(詩 16:8)彼がその避けどころとするヱホバは,彼の高い楼であり,かたい櫓です。彼の希望と市民権は,王イエス・キリストの統治している,上にあるシオンの山にあります。ヱホバとそのシオンの山は,決して動かされることはありません。それであるならば,ヱホバを崇拝する者たちも疑いなく決して動かされないでしよう。ヱホバは悪魔のあやつる人間のつくつたすべてのもの,人間の王国や,腐敗した地や,また人類の悪しき海をふるわれ,それらのものを全く除去してしまいます。しかし,彼を恐れる者たちを地から除去することは決してありません。ヱホバのなされる仕方は,彼の憎む者たちには亡びですが,その愛する者たちには新しい世の生命を意味します。『ヱホバの途は直者の城となり,悪を行うものの亡びとなる。義者は何時までも動かされず,悪しき者は地に住むことを得じ。』― シンゲン 10:29,30。

      25 義しい者たちは,永遠に記憶されますが,それはどのような仕方ですか? これはなぜ重要ですか?

      25 義しき者および直き者にたいするヱホバの善いお考えを見てごらんなさい! ヱホバは彼らを念頭からはなすことは一時といえども決してないのです。彼は決して忘れないでしよう。彼らを死人の中からよみがえさねばならないということであつても,ヱホバにとつて彼らはいつも生きる者たちです。詩篇 112篇6節が,次のようにつけ加えているのは全く正しいことです。『義しき者はながく忘れらるることなかるべし。』あるいは,もつと字句通りに表現すると,『義しき者は,永遠に亙る記憶にならん。』(ロプス訳)ヱホバを恐れる義しい人は,この地上でいつも記憶されるものです。地上に住む者は,永遠果てしなくイエス・キリストを記憶します。イエスは,地上で住んだ人の中で最も義しい方であり,サタンの世の中にあつてもその地上における彼の義は,人類を救にみちびきました。同様に,人間はいまの残れる者をも含めて,イエスの義しい追随者たちをいつも記憶いたします。しかし,新しい世の人類で記憶されるということよりも,もつと大切なことは,ヱホバ神によつて記憶されるということです。そのことは,義しい者の級にとつて,永遠の生命を意味するからです。この世のさきの悪しきことがらは,亡ぼされて忘れられ,心に思いだすことはなく,私たちの気持を惹きつけません。しかし,正義は決して忘れられないでしよう。ヱホバは義しい者たちをいつも記憶され,彼らが生命を十分に,永遠に楽しむように取り計らわれます。これらは,なんと貴重な聖書の考えなのでしよう! それは,1955年およびその後の年のあいだ,ヱホバを恐れるすべての者に,一番明るい期待を得させる基礎となるものです。

  • 1955年に恐れからの自由
    ものみの塔 1955 | 3月15日
    • 1955年に恐れからの自由

      1 どのように,人類は1955年に入りますか? そしてなぜ?

      今日恐れは全人類を捉えていますが,その恐れからの自由という秘訣を知つていますか? この自由を欲しますか? そう古い昔のことではありませんが,広く一般に流行した言葉『我々が恐れるのは,恐れそのものである』をまだ憶えていることでしよう。アメリカ合衆国の故大統領は,a この言葉を用いましたが,しかし彼よりも200年以上も前,17世紀初期に出版された本の中にその言葉は表われました。b しかし,その言葉は解決を与えましたか? 恐れを恐れることによつて,誰が絶対的に恐れを持たなくなりましたか? いま恐れを感じないという人は,いつたいいるでしようか? 人類は恐ろしい万一の見込と直面して,恐れそのものをも恐れなくなりました。それで,人類は恐れと暗い前兆をもつて1955年に入ります。しかも,ルーズベルトの『四つの自由』の一つは,『恐れからの自由』であるということを認める定則を有していないのです。かえつて,無情な奴隷駆使者恐れへの大きな束縛は,彼らをますますきつくかたくしめます。―ルカ 21:25,26。

      2 1955年のあいだ,どんな級が恐れからの自由を楽しみますか? この世についての悪い音信にもかかわらず,なぜそうですか?

      2 恐れを恐れるのではなく,ヱホバを恐れることによつて,私たちは恐れからの自由の秘訣を学びます。その理由により,1955年のあいだ,およびその後のすべての年のあいだに,恐れからの自由を楽しむ一つの級が地上にあるのです。その級とは,詩篇 112篇に述べられている『人』であつて,その人は,この義しい,直き人の裔,あるいは生まれる者と共に,ヱホバを恐れそのいましめによろこびを持ちます。この詩篇の7節で,この集合の『人』または人々の級について言うことは,1955年のあいだ,およびたしかに,ハルマゲドンの戦の勝利の終りにいたるまで真であります。『悪しき音信を恐れず,その心ヱホバに依り頼みてかたし。』(アメリカ標準訳)彼は恐れの心を持たずに新年と面します。この世についての音信または知らせは,近ごろみな悪いものです。それから慰めを得るものは,何一つありません。さらにつけ加えて,神御自身の御言葉によると,この世には良い音信は一つもなく,ただ悪しき者に報復を加える神の刑執行という運命があるのみです。ヱホバを恐れる『人』は,すでにこのことを知つています。それで,世界の出来事の風潮や,この世界に対して形づくられる不吉な将来にも心を乱されることはありません。彼は,サタンの下にあるこの世は,この『終りの時』の最高潮で間もなく終り,その後に,すべてが善いものの輝かしい新しい世が続くということを神の予言から悟つて,知つています。

      3 彼はどのように,『悪い者たちの叫び』を恐れませんか? 彼は恐れに対するどんな道に従いますか?

      3 『悪しき音信』が,敵からの脅しという形で来ようとも,ヱホバを恐れる者たちを恐れさせることはありません。ある翻訳者は,この節を『彼は悪い者たちの叫びを恐れず』と翻訳しています。(フエントン訳)その保護者である全能の神は,見えるものも見えないものも合わせた,その敵の結集した勢力よりも,はるかに力ある者であると彼は知つています。彼はこれを知ることにより,力づけられ,恐れを感じません。彼は神のいましめに従つてクリスチャンの業を恐れなくなし続け,神の御名を述べまたイエス・キリストによる神の御国の証言をいたします。彼は,この世の支配者や人々の恐れるものを全く恐れず,神の次のいましめに従つております。『万一義のために苦しむのであるならば,あなた方は幸福である。しかし,彼らが恐れるものを恐れてはならず,また心を乱してもならない。ただキリストを心の中に主とあがめ,あなた方の希望について,その理由を求める人にはいつでも弁明できるようにしておきなさい。その時には,やさしい心と深い尊敬の気持ちでいたしなさい。』(ペテロ前 3:14,15,新世)『彼らのおそるるところを汝らおそるるなかれ,慴くなかれ。なんじらはただ万軍のヱホバを聖としてこれを畏みこれを恐るべし。』(イザヤ 8:12,13)それで,ヱホバを恐れる人は,おそれを感じることなく,この世がすすめ,また実際的と考える道に従うということはありません。最高者ヱホバを恐れることによつて,その人の勝れた智恵は示されます。この世的の恐れを持つて,その人が麻痺するということはありません。彼は,全力をつくして,平和と慰めの聖書の音信を善意者に与え,彼らからそのような恐れをなくし取ります。

      4 彼の心はどのようにかたく,ヱホバに依りたのむよう導かれていますか?

      4 『その心,ヱホバにより顧みてかたし。』(詩 112:7,ア標)ヱホバは,御自分を恐れる者に対して,聖書の予言から,この世の運命と,また彼にくる敵の攻撃について警告をしておられます。それで,その人はこれらのものの来ることに対して,心を整えております。それは,恐れに屈しないためであり,あるいはつまづいて狼狽しないためです。(ヨハネ 16:1-4)彼は時間をかけて神の御言葉を研究し,その教を実行に移します。かくして,ヱホバへの確信と信頼を築き上げています。彼の心は,ヱホバとこの世のあいだを動揺しません。それはヱホバとしつかり結ばれています。彼はヱホバにむかい全き心を保ち,その心はこの世の偶像にふり向きません。彼はヱホバの御約束を親しく知り,約束者は忠実を保ち彼を恐れる者に対し,どのようにそれらの御約束を成就されるかをよく見ています。彼は,この世を待つ運命を知つているため,この世の中には安全がなく,また全能の神に反対する戦に,この世は勝つことができないということを認識しています。彼は確実な勝者に依り頼みます。この世の恐れの苦しみから自由であるため,彼は幸福です。

      5 彼の心はどのようにかたく立ちますか? それで,何がとり除かれますか?

      5 『その心かたく立ち,その敵を見るにいたるまで,おそるることなし』(詩 112:8,ロプス訳)彼はいま多くの敵に面しています。しかし,彼は神の御国に立つその非妥協の立場を止めようとはしません。彼は,敗れたことのなく,また決して敗ることのできない神に,その心の支えを得ています。人々が自分の組織制度の運命や,その人類に意味するものについて述べる恐れや,また新しい世の社会に加える敵の脅威も,その人の心をふるえさせ,動揺させることはありません。ヱホバに対するその人の愛の故により,それはヱホバによつて支持されています。彼は強い心を持ち,神の約束された正義の新しい世を愛し,また強く望みます。人々は神よりも快楽を愛し,うわべは敬虔でありながらその心は偽りであるこの危急なむずかしい時にあつて,彼は霊的な心の病いを持つていません。それで,彼の模範を模倣しなさい。心配から離れ,恐れの専制を避けるために,あなたの心をヱホバへの愛と献身に強めなさい。そうすれば,愛は恐れをとり除くことになります。ヨハネ第一書 4:18。

      6 あなたは,敵から何を期待すべきですか? 敵を見ても,どのようにして恐れを感じませんか?

      6 もちろん,あなたがヱホバを愛し,彼を恐れるならば,ヱホバを憎む敵は,あなたをも憎むでしよう。といつて,特にあなたは誰を愛しているかを知つている時は,このことから驚きあわてることはありません。もしある人を愛するならば,あなたはその人のために何事をもいたします。まつたく,その人のために苦しみもし,堪え忍ぶこともいたします。もしあなたがヱホバを愛し,彼を知るならば,敵に対するヱホバの見方を取りなさい。敵に対するヱホバの評価を取りなさい。敵についてのヱホバの予言を信じなさい。その時,敵を恐れることはなくなります。いまでこそ,敵はその数が多く,また,ヱホバの証者と新しい世の社会を害する力が増し加わつて,まつたく恐ろしく見えます。しかし,敵とあなたにも及ぼすことのできる神の害を見てごらんなさい。それは敵があなたに及ぼす害よりも,もつとひどい害です。それですから,敵を恐れてはなりません。敵がいるからといつて,伝道を止めてはなりません。むしろ,伝道をし続け,ヱホバの御霊と御言葉にあなたの心をかたく立て,支持して行きなさい。

      7 私たちはいまなぜ,そして誰と共に敵にむかつて笑うことができますか? 私たちはどんな業をしつつ前進しますか?

      7 このことをして行くとき,あなたは遂にその敵を見るでしよう。その時に,敵はもはや恐ろしいようには見えず,彼ら自身の恐れは自分自身の上に実現されるでしよう。『悪しき者の怖るるところは自己にきたり,義しき者のねがうところは,与えらる。あらしのすぐるとき悪しき者は無に帰せん。義しき者は窮なくたもつ基のごとし。』(シンゲン 10:24,25)それで,ヱホバと共に彼らを笑いなさい。『悪しきものは義しきものにさからわんとて謀略をめぐらし,之に向いて切歯す。主はあしきものを笑いたまわん。かれが日の来るを見たまえばなり。そは悪しき者の臂は折らるれど,ヱホバは義しきものを扶け持えたまえばなり。』(詩 37:12,13,17)この見地から恐れなく笑うことは賢明なことです。神の智恵は,注意を払わないこの世の愚者について,次のように述べております。『われ汝らが禍災にあうとき之を笑い,汝らの恐懼きたらんとき嘲けるべし。これは,汝らのおそれ颶風の如くきたり,汝らのほろび颺風の如くきたり,艱難とかなしみと汝らにきたらん時なり。』(シンゲン 1:26,27)それで,いま敵が私たちに怒号しようと,私たちは恐れを感じません。むしろ,愛のある,強い,健康な心をもつてヱホバにかたく頼み,恐れることなく前進し,全世界にわたりヱホバの御国を証言いたします。間もなくして,私たちの敵を見るとき,それは私たちの目の饗宴となります。

      貧しい者に恐れなき配布

      8 なぜ詩篇 112篇9節は,証言の業が1955年に発展するという保証でありますか?

      8 1955年のあいだ,ヱホバの恐れなき証者たちのする全世界的な業は,ヱホバの御親切な恵みと御霊によつてますます発展いたします。このことについての強い保証は,詩篇 112篇9節に与えられています。『彼はちらして貧しき者にあたう。その正義は,とこしえにうすることなし。その角は,あがめをうけて挙げられん。』これらの言葉が誰に適用するということについては,疑いをさしはさむことはできません。使徒パウロは,その言葉を引用し,キリストにあつて貧困な兄弟たちに援助を与えていた仲間のクリスチャンたちにその言葉を適用しました。パウロはこう言いました『(聖書にこう書かれている通りである。「彼は配布し,困る者たちに与う。彼の正義は永遠に続く。」さて,種子を播く者に種子と食用のパンを豊かに供給する方は,あなた方の播く種子をも供給してあなた方の正義の実を増加するであろう)すべてのことにおいて,あなた方はあらゆる種類の寛大に富んでいる。』(コリント後 9:9-11,新世)ヱホバを恐れるクリスチャンの寛大は,困つている兄弟たちに物質的なものを与えるだけに制限されていません。それは,すべての『善意者』に御国のたよりを配布するということに大きく関係するものです。つまり,その心が良く,実を結ぶ土地のような人々に,御国の真理の種子をひろくちらすということです。

      9 ヱホバを恐れる者の与える『貧しい』者とは誰ですか? そしてなぜ?

      9 今日の地は,物質的に貧しい人々で充ちています。しかし,ヱホバを恐れる賢い人の与える貧しい人々とは,『霊において貧しい』者たち,つまり『霊的な必要物を意識していて』満足をもたらす御国の音信を心からうけいれようとする人々のことです。イエスが『あなた方は無料でいただいたのであるから無料で与えよ。』と言つて,その弟子たちを遣し,探し求めて養わせられた者たちとは,このような種類の貧しい者たちです。(マタイ 10:8; 5:3,新世)彼らが『無料で与える』ことのできるものは,神が無料で彼らにあたえた霊的の富に違いありません。物質的な富については,神は『信仰に富むようにと,この世から見て貧しい者たち』を選ばれたからです。(ヤコブ 2:5,新世)彼らは,たんにお金とか,物質的なものの代りに,御国の音信を与えることにより,ヱホバに属することを願わずに,自己の利益を追求するこの世の貧しい者たちに接せず,真実に『霊に貧しい』者たち,つまり『その霊的な必要物を意識して』いる者たちに接します。それで,正しい認識の心を持たず,『この世の組織制度の神』サタンに属するのを好むこの世の貧しい者たちは,ふるい分けられます。

      10 彼らはそのような貧しい者に与えることにより,実際には誰に貸していますか?

      10 貧しくて困つている者たちは,私たちが無料で与える霊的な贈物に対して,物質的な仕方で十分に返済することはできません。しかし,このことで私たちが貧困になるのではありません。私たちには必らず補償が与えられるのであつて,しかもそれは返済の分よりも多いものなのです。なぜ? それに答えるのに,詩篇 112篇5節を再び繰り返してみます『恵みありて,貸す者は善なり。』(ヤング訳108頁21節)その『人』が貸すのは貧亡で困つている人々です。しかも,うけた貧しい者からその貸しについての利息を全く望まないばかりか,物質的なお返しをも全然望まないのです。それでは,どこから彼の補償は来ますか? 聞きなさい。『貧しき者をあわれむ者は,ヱホバに貸すなり。その施済はヱホバ償いたまわん。』(シンゲン 19:17)霊的に貧しい者たちを憐わみ,そして物質的なお返しをうけずに与える時,人は実際にヱホバに貸していますか? そうです。そのわけは,貧しい者,特に霊の貧しい者,つまりその霊的な必要物を意識し,霊的な慰めを強く求める者たちが実際にはヱホバに属しているからです。それで,ヱホバはこう言われました『貧しき者を虐ぐる者は,その造り主を侮るなり。彼をうやまう者は貧しき者をあわれむ。』(シンゲン 14:31)貧しい者たちを圧迫したり,無視することは罪であるとヱホバは申されています。(申命 24:14,15)彼らはヱホバにのみ依存しています。『謙る者はヱホバによりてその歓楽をまし,人の中の貧しきものはイスラエルの聖者によりて快楽をうべし。』(イザヤ 29:19)ヱホバに属する貧しくて困つている者たちは,物質的には返済することができません。それで,ヱホバは御自分に属する者たちの負債をひきうけられます。

      11 そして貧しい者に与える者たちに対し,ヱホバ御自身はどのように考えられていますか? ヱホバは,この状態をどのように処理されますか?

      11 それで,ヱホバを恐れるクリスチャンは,御国の良いたよりを貧しい者たちに無料で与える時,実際には,ヱホバがその善い行に対して返済をするときまで,ヱホバ神に貸しているのです。次のことを考えると,全く驚きます。すなわち,御国宣明者は,霊的な必要物を意識している貧しい者たちに無料で与えていますが,永遠の字宙の王,あらゆるものの所有者は,その御国宣明者に負債を持つと考えられていることです。ヱホバは御自分を恐れ,そのいましめを守る者たちに注意を払い,そして支えるというすべての約束を成就いたします。そして,このようにして受けるすべての負債および債務を済します。

      12 義しい与え手にたいして,ヱホバはどんな約束をなされていますか? ヱホバはこの約束をいまどのようになしとげていますか?

      12 それで,ヱホバの音信を貧しい者と困つている者に無料で与える人について,ヱホバはこう約束されています。『その正義は,とこしえにうすることなし。』(詩 112:9)これは詩篇 112篇3節の御約束を繰りかえして述べているものです。マタイ伝 6章1-4節のイエス御自身の言葉によると,ヱホバを恐れる人の正義は,主として御国の音信を宣べ伝え,良いたよりを貧しい者に無料で与えることによります。御国とその良いたよりに反対する者たちは,この種の正義を抹殺することはできません。ヱホバは御国伝道者をいつも支持して,支え,良いたよりのこの伝道を行う手段を供給されます。それは彼らが『あらゆる種類の寛大に富む』ことのできるためです。ヱホバは,『種子をも供給し,あなた方の正義の実を増加するであろう。』(コリント後 9:10,11,新世)神は,正義で寛大な良きたよりの配布者に断えず補充しているため,ヱホバを恐れるクリスチャンは,自由に与えるからといつて,物乞いする必要は決してありません。彼は困つている者たちに霊的な種類の利益をちらすという良い業をいつも行い続けます。彼自身は,物質的に貧しくても,霊的には多くの富をつくることができます。(コリント後 6:10)彼の正義の実,つまり富んで新しい世の社会に集められる善意者は着実に増加しています。無料で与えることと良いたよりを散らすことの結果は,与える者を貧しくするどころか,増し殖えて返済されています。『ほどこし散らして反りて増すものあり。与うべきを吝みて反りて貧しきに至る者あり。施与を好むものは肥え,人を潤す者はまた利潤をうく。』― シンゲン 11:24,25。

      13 そのような義しい人が生きており,そしてこの地上で保護されるのには,どんな理由がありますか?

      13 ヱホバは,そのような義しい種類の人が地上にいるのを願われます。ヱホバは一つの機関として,その者をよろこんで用いられ,その霊的な恩恵を遠くひろく散らしております。物吝みしない,寛大な与え手は,この理由の故に神の御業の目的をなしとげており,地の人々の中で正しい有益な地位をしめています。神の力によつて生き残り,保護されるのには,当然の理由があるのです。彼は神とまた感謝の心を持つ人々より正しく認められ,その業の故に愛せられています。(テサロニケ前 5:12)『ものみの塔』聖書冊子協会が今日いたるまで存在していること自体,この真理をたしかに証明しています。

      14,15 (イ)協会が今日にいたるまで存在していることは,この真理をどのように証明していますか?(ロ)ヱホバの証者は,1955年に何をしようとしますか? 彼らは,どのようにして,それをすることができますか?

      14 協会は,1884年に法人化されたその時から,自発的な寄附によつて,協会を維持する定則に従いました。協会は文書を印刷し,無料か,又はその印刷と配布の費用を埋め合わすだけの寄附とひきかえに配布いたします。集会に出席しようと願うすべての人にたいしては,ヱホバの証者の集会と大会は開放されており,『坐席無料 ― 寄附の徴収なし』と公表されています。宗教牧師たちは,入場するときや,坐席に対しては金銭を徴収し,また宗教儀式のあいだ一度かそれ以上寄附盆を廻しますが,ヱホバの証者が,宗教儀式に対して『坐席無料 ― 寄附の徴収なし』の規則を述べ伝えることに対して,彼らは悲憤を表しています。(1914年1月1日号『ものみの塔』(英文)5頁を見なさい)聖書の知識をより多く伝えるために,無料かまたはほんの僅かな費用だけで与え,そして金銭を徴収せずに集会を開くというこの原則は,ヱホバにより祝福されています。一つの制度としては,協会の大きさや,聖書および聖書文書の毎年の発行はひじように大きなものです。また,配布の業のためにヱホバの証者が無料で与える時間数,および興味ある人々の家庭で彼らが無料で司会する聖書研究の数は,毎年ひじように多いものです。

      15 ヱホバの証者は,1955年の1年のうちにいままでになく文書を一番多く配布しようと欲しています。ハルマゲドンの戦で,この世の亡びがますます近づいているため,生命を救う音信を述べる時は短くなつているからです。私たちはできるだけ僅かな出費でまかなうとするため,経済的に働くことにより他のものよりも多くのことをすることができます。特別に,御国の音信を広く無料で配布し,また散らすのに費す時間と労力という面で,ヱホバを愛する者たちが,物吝しみなく与えることにより,私たちは最大の結果を達成することができます。神の定めによると,より多く与え,しかも無料で与えることにより,私たちはより幸福になれると信ずることができます。

      16 ヱホバを恐れる『人』の角は,どのように崇めをうけますか? いまであつても,それはどのように崇めをうけてあげられていますか?

      16 屈辱の敗北をうけて,私たちが屈服することは決してありません。貧しい者たちに与えて配布する義しい者に対する神の約束は『その角はあがめをうけて挙げられん。』であります。(詩 112:9)角は,強さと力,および攻撃をしようとするすべての者に対する警告の象徴であります。角が名誉をうけて挙げられるということは,私たちの勝利を示し,私たちを支持するヱホバの力を立証するものです。ヱホバに依り頼み,その信頼を確証するヱホバへの忠実を保つことにより,私たちは次のように言うことができます。『汝わが角をたかくあげて野の牛の角のごとくならしめたまえり。……わが目はわが仇につきて願えることを見,わが耳はわれにさからいて起りたつ悪をなすものにつきて願えることを聞きたり,義しきものは棕梠の樹のごとく栄え,レバノンの香柏のごとくそだつべし。』(詩 92:10-12)角が挙げられる名誉は,神からくるのであつて,人から来るのではありません。しかし,人々はその名誉の源は神であると,否応なく認めざるを得ません。永続する勝利の名誉は,結局に私たちのものです。しかしいまであつても,私たちはヱホバの証者として,ヱホバの奉仕に参加する名誉を味い楽しんでいます。ヱホバに奉仕し,崇拝しようとヱホバの家にすでにむらがり集まつている大いなる群の善意者は,この地的な裔または生まれる者の父になろうと働いたヱホバを恐れる霊的級の者にとつて,栄光でもありまた名誉でもあります。それは使途パウロがテサロニケの兄弟たちに,次のように言つた通りです。彼は,その伝道した良いたよりによつて,彼らを生み出したのでした。『主イエスの臨在される前に,私たちの希望,よろこび,誇りの冠は何であるか? 全く,実際に,それはあなた方ではないか? あなた方はたしかに私たちの栄光であり,よろこびである。』(テサロニケ前 2:19,20,新世)貧しい者や困つている者に,御国の良いたよりを無料でまた物吝しみなく与え続けることにより,神の宮における新しい世の社会の成員は増加し,ハルマゲドンでヱホバが私たちの勝利の角をあげられるときまで,その増加する成員という名誉は必らずつけ加えられます。

      17 悪しき者は,これを見てなぜ悲しみ歎きますか?

      17 ヱホバを憎む悪しき者たちは,私たちが圧迫,不正な裁き,禁止,そして処罰の下にいるのを見てアザ笑つていました。しかし,彼らのよろこびのアザ笑いは,慣満と失望に変つています。ヱホバは,彼を恐れて彼に仕え,そして彼の御名をあがめる御自身の民に,名誉をますます与えられているのを,彼らは見るからです。たしかに,このことはみな詩篇 112篇10節に良く予言されていました。『悪しき者はこれを見てうれえもだえ,切歯しつつ消さらん。また悪しき者の願望はほろぶべし。』悪しき者は,自分の亡びる以前に,ヱホバの証者のこの最高の勝利と名誉を必らず見るでありましよう。彼は悪しき意をもつていて,正義を愛しません。それで,ヱホバを恐れる義しい者たちの角が挙げられるのによろこびを感じません。その理由のために,彼は努めて,回復された霊的イスラエル人とその同伴者である善意者の持つ霊的な繁栄を亡ぼそうとします。ヱホバが,御自身の民に善をなされることに対して,彼は憤怒しています。彼はこの世的な恩恵と成功だけでなく,神の恩恵と霊的な繁栄をも欲していますが,しかし両方のものを同時に持つことはできません。(ヤコブ 4:4)彼は,貧しい者に御国の音信をひろめず,また与えておりません。それで彼は不満を感じています。この世的な品物や恩恵で富んでいると意識していても,満足しません。敬虔の形だけを装つていますが,心をいれ変え,人を真に幸福にさせる敬虔の力に対しては偽りであるからです。彼は証者たちの霊的な繁栄を強くうらみ,悲しみ歎きます。

      18 悪しき者は,なぜ歯がみしますか? 悪しき者は,何時そしてどのように消えさりますか?

      18 悪しき者たちは,ヱホバを恐れる者たちの霊的な繁栄を亡し覆すことはできません。彼は余儀なく見なければならぬ光景を見て,切歯しますが,どんなに怒つてもそれだけしかできないのです。義しい者たちを全く害することもできなければ,新しい世の社会を亡ぼすこともできません。彼はいまくるしみをうけていますが,それは神の設立された御国の良いたよりが伝道されているためだけではなく,ヱホバの証者の繁栄のためによるのです。1955年に,彼は怒り狂い,切歯して準備を整え,マゴグの大いなるゴグに参加して,ハルマゲドン前の世界的な攻撃を新しい世の社会に加えようとします。ヱホバが,『全能の神の大いなる日の戦』により,その猛烈な悪い攻撃を止められるとき,悪しき者の群は自分たちの目の願うものを見ず,かえつて自分の目に悲しくうつる光景を見て最後となります。すなわち,ヱホバの証者の永続する繁栄と,地上における新しい世の社会の勝利です。そのとき,悪しき者たちは「消えさり」ます。そうです,うすい跡を残す蛞蝓のように消えさります。彼らは,動くときに,『泥に融けてゆく』蛞蝓のように,とけて行きます。(詩 58:8,ロザハム訳。モハット訳)蛞蝓が動くところに,塩をふりかけると,それは止まりますが,それと丁度同じく,ヱホバを恐れる『地の塩』のような者に対して,ベトベトした悪しき者たちは何をすることができますか? 何もすることはできません。ただ,ハルマゲドンでヱホバの戦の力が堂々と示される時に,不名誉な終りをとげて,消えさるのみです。

      19 悪しき者の願望には,何が起りますか? 1955年であつても,誰が幸福になりますか?

      19 『悪しき者の願望はほろぶべし。』義しい者にたいする悪しき者の計画は栄えず,自分自身の亡びをもたらすのみです。また,この世で願わしいものと彼らが目をつけていたすべてものは,彼らとともにほろび,彼らは永遠の失望を感じます。義しい御国伝道者たちは,これとは全然反対に,その敵どもを見るときに,自分たちの願が成就されるのを見ます。彼らは,ヱホバの勝利の側におり,ヱホバの立証が永遠に祝われる勝利の新しい世に生き残るからです。ああ,ヱホバを恐れず,そのいましめに喜びを持たない人は,なんと不幸なことでしよう。しかし,おお,1955年にあなたがヱホバを恐れる者で,その誡を守り神の与える恐れからの自由を持つならば,あなたは全くなんと幸福なことでしよう。

      [脚注]

      a 1933-1945年のアメリカ合衆国大統領フランクリン,デラノ,ルーヅベルト

      b フランシス・ベーコン著『デ・アーグメンティス・サイエンテイアリム』第6巻第3章(1605年)

  • 不潔な言葉
    ものみの塔 1955 | 3月15日
    • 不潔な言葉

      今日の世界で,人はきたない心と不潔な言葉につねに曝されています。人によつては,会話をする時かならずきたない物語りを考えています。また話をする時必らず下卑な言葉を使います。しかし,卑猥な話に興ずれば,間ちがいなく汚れてしまいます。それでエペソ書 5章3,4節にあるパウロの諭しの言葉は,いつも心に留めて置くのに価値のあるものです。『淫行,あらゆる不潔なもの,貪欲を,聖徒にふさわしくあなた方の口にさえ出してはならない。また卑しい行動や愚かな話,またみだらな冗談,ふさわしくない悪いものを避けなさい。むしろ感謝を捧げなさい。』あなたはこの諭しに従つていますか?

  • 主の夕食を記念する
    ものみの塔 1955 | 3月15日
    • 主の夕食を記念する

      1955年度のヱホバの証者のカレンダーで,赤字の日がただ一度だけ現われています。その日は,4月7日です。その日,太陽が西の水平線に没するとき,すべてのヱホバの証者はできるならば全員のこらず,地方毎の会衆の集会所で他の証者たちと共に集まります。50万人以上の証者たちは,今年数十万人の善意者といつしよに,このように集まるものと見込まれています。

      ヱホバのすべての証者は,なぜ4月7日に互いに集まるのですか? その日は,またニサン14日だからです。ニサン14日? そうです。

      ニサン14日について,なにか著るしいことかとお尋ねですか? その日はキリスト前1513年に著しく際立ちました。ヱホバはそのとき,御自分の民に課せられたエジプト人の束縛を破り,彼らを自由に解放することにより,御自身の御名を立証されました。イスラエル人は,その夜に,炙いた羔羊または山羊,酵いれぬパン,苦菜で成り立つ『夕食』を食べました。それは『過越しの夕食』と名づけられましたが,神の死の御使が,彼らの長子を助けた,または「過越し」たかたわら,エジプトのすべての長子を殺したからです。つまり,羔羊の血を戸口のはしらと,彼らがその中で,夕食を食べてとどまつていた家の鴨屋に塗るということを含めて,イスラエル人がすべての指示に従つたために,御使は彼らを助けたということです。―出エジプト 12:3-13。

      ヱホバが御自分の最高至上権を立証し,パロの誇りを卑しめ御自分の民をつらいエジプト人の束縛から自由に解放されたその記念の日を,彼らがまさかにも忘れないために,神はこの過越しの夕食を毎年ニサン14日に記念するよう命ぜられました。後日になつて,それは神が御自分の御名を置かれた都エルサレムで記念されました。そのときから約15世紀たつた西暦33年ニサン14日,13人のイスラエル人がエルサレムの都の中にある2階の部屋で過越しを祝つていました。その13人とは誰ですか? キリスト・イエスと彼の12人の使徒です。

      しかし,ヱホバの証者が今年のニサン14日に共に集まるのは,ユダヤ人の過越しを記念するためではなく,むしろ,西暦33年のそのニサン14日に起ろうとしていた大きな出来事を記念するためです。その出来事は,重要さから見るとき,それより1545年前にエジプトで起つた出来事よりもはるかに大切なものです。まつたく,西暦33年のニサン14日に,ヱホバの御名は次の点で立証されました。それは,悪魔があらゆるものをもたらそうと,完全な人は忠実を保つことができるとキリスト・イエスはその日に証明をし,またその日に贖いの犠牲が備えられ,それにより正義を愛するすべての人は究極の救助をうけ,大いなるパロ,つまり悪魔サタンの束縛,および実体的なエジプトである悪魔の制度から救われるからです。すべてのことがその日に? そうです,神の暦によると,一日は日没に始まり,次の日の日没まで続いたからです。

      表象の意味

      イスラエル人がエジプトから救助されたことについて,モーセはその年々定期の記念を,救助の行われたその夜に始めました。それと丁度同じく,キリスト・イエスは,彼の与えようとする救助についての年々定期の記念を西暦33年,ニサン14日のその夜に始めました。キリスト教国のいろいろな宗教制度は,『主の夕食』を半年に一度,三月に一度,月に一度,週に一度,また殆ど毎日のように記念いたしますが,しかしエジプトからの救助を記念した過越しが,ただ1年に一度だけ,ニサンの14日に記念されたという事実を考えるときに,次のように結論するのは,合理的なことです。反対を示す指示がない故に,主の夕食も1年に一度だけ,ニサン14日に記念されるべきであつて,実体的な羔羊,キリスト,イエスの死によつて備えられた救助を記念すべきです。

      過越しの夕食が終り,イエスがユダを退場させて後になつて,彼は『パンを一片取り,祝福を述べた後に,そのパンをさいて弟子たちにあたえ,「取つて喰べなさい。これは私の体を意味する。」と言われた。』(マタイ 26:26。ヨハネ 13:21-30,新世)イエスは,ここで何の体を指していましたか? 御自分の肉の体でしたか? そのようなことはまずありません。イエスの肉の体については,その骨の一つも折れず,さかれなかつたと聖書に書かれています。しかし,イエスはパンをさかれました。(ヨハネ 19:36)肉の体ではなくし

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