ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 人の命を助けるほどの隣人愛を示す
    ものみの塔 1981 | 8月15日
    • 人の命を助けるほどの隣人愛を示す

      西暦1559年のことです。オランダのウィレム公とフランス王アンリは,パリ郊外で催された狩猟の会に参加していました。たまたま二人だけになったとき,アンリはウィレムに,スペイン王フェリペがオランダとフランスの新教徒を皆殺しにする計画を立てていることを打ち明けました。オランダでは同国に駐とんしているスペイン軍がその遂行に当たるというのです。

      オランダのウィレム公は,そのような計画があることなどつゆ知らなかったので,非常な衝撃を受けました。a ウィレム自身は(ルター派の影響の強い環境の中で)カトリック教徒として育てられましたが,殺されようとしていた新教徒たちに深い哀れみを感じました。しかし,賢明にも,その殺害計画を知った驚きなどの感情を表に出しませんでした。それで,ウィレムは「ウィレム沈黙公」と呼ばれるようになりました。

      オランダへ帰る前に,ウィレムはその恐ろしい計画を実行に移す際の自分の役割に関して明確な指令を受けました。しかし彼は,帰国後直ちに,スペイン軍の撤退を願うよう国民感情をあおりました。事実,その悪らつな計画を阻止するためにあらゆる手段を講じました。このことがきっかけで,ウィレムは「祖国の父」となる道を歩みはじめたとも言えます。

      ウィレムは特に,「新しい宗教を奉じている疑いのある優秀な人物」の名前を知らされ,それらの人物を絶対逃がさないようにという指示を受けていました。ところが,その指示を守るどころか,「優秀な人物」に警告を与えて彼らを逃がしました。本人が後に語ったところによると,「人間より神に従う方が大切だと思っていた」とのことです。このようにして,ウィレムは確かに人の命を助けるほどの隣人愛を示しました。b

      今日伝えられている警告

      今日,やはりそのような隣人愛に基づいて行動している人々の一団があります。エホバのクリスチャン証人と呼ばれるそれらの人は,間もなく臨むある恐ろしい滅びについてできるだけ多くの人に警告しています。もっとも,この時代の非常に大勢の人に臨もうとしている滅びは,盲目的な人間の宗教的不寛容によってもたらされるのではありません。それは,天と地の義なる神が,ご自分のみ名に非難をもたらし地を滅ぼしている者たちすべてに対して間もなく行動を起こされるためなのです。聖書預言の成就からすると,エホバ神が「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定めの時」は足早に近付いています。(啓示 11:18)これまで起きたことのないような大患難が始まる時は,確かに間近に迫っているのです。―マタイ 24:21。

      そのような災厄が近付いているので,エホバの証人は,「大いなるバビロン」すなわち偽りの宗教の世界帝国内にいる真理と正義を愛する人々すべてに,み使いの次の警告の言葉と同様の警告を発しています。「彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」。(啓示 18:2,4)偽りの組織宗教すべてから離れるだけでよいというわけではもちろんありません。それら誠実な人々は安全を求めて神の王国へ逃れることもしなければなりません。それでエホバの証人は,全世界で「王国のこの良いたより」を宣べ伝え続けているのです。―マタイ 24:14。

      エホバの証人があらゆる努力を傾けて,聖書のゼパニヤ書にある命令に従うよう真理を探し求める誠実な人々を援助するのも,そのためです。それはすなわち,「主の司法上の定めを行なってきた,地のすべての,温和な者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,温和を求めよ」という命令です。(ゼパニヤ 2:3,新)こうして,エホバの証人は,イエス・キリストが地を去るに当たってご自分の追随者たちにお与えになった次のような命令に従っています。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」― マタイ 28:19,20。

      家から家へ宣べ伝え,教える

      エホバの裁きの日が近いので,エホバの証人は真理を愛する人々に,神の王国が唯一の逃れ道であることを急いで知らせなければならないと感じています。命は非常に大切ですから,そのようにして人々を援助するのは,確かに愛を示すことです。

      クリスチャンにふさわしい立派な行状を見て命に導く道を歩むようになった人々がいることを示す報告が数多く寄せられています。例えば,ドイツで開かれたエホバの証人の大会に出席したロシア人の一ジャーナリストは,「皆さんの行状こそ最良の説教です」と語りました。エホバの証人は,街頭に立って通行人に聖書関係の雑誌を紹介することが,「良いたより」を宣べ伝える効果的な方法であることを知りました。さらに,目ざとく機会を見付けたり,機会を作ったりして,仕事で接した人や乗り物の中で会った人,あるいは職場の同僚に神の王国の良いたよりを宣べ伝えます。様々な事実はこれらの活動がいずれも良い結果を生んでいることを示しています。

      しかし,エホバの民がそれ以外の方法で証言を行なわないとしたら,真理と正義を愛し,王国の良いたよりと警告の音信を伝えられて然るべき大勢の人が見過ごされてしまうことでしょう。ですから,エホバの証人は家から家へ宣べ伝えるという方法を採っているのです。実際,この方法で宣べ伝えることを非常に精力的に行なっているので,家から家へ宣べ伝える業は,いわば,エホバの証人のトレードマークとなっているほどです。あるテレビ番組の中で,玄関をノックする音を聞いた一家族が『多分エホバの証人だろう』と言う場面が見られました。

      最近,中央アメリカのある国でエホバの証人のこの活動が禁じられました。証人がその解除を嘆願したところ,担当した政府の役人は,『ほかの宗教団体は,君たちエホバの証人のように家から家へ行くことはしない。この活動は君たちの崇拝の一部かね』と言いました。それが崇拝の一部どころか,非常に重要な部分を占めているという説明がなされた結果,禁令は解除されました。

      聖書には,家から家への活動を続ける根拠となる前例が出ています。イエスは,弟子を遣わすにあたり,音信を携えて人々の家に行くようお命じになりました。(マタイ 10:7,12,13,42。ルカ 10:5,6)さらに,使徒パウロはエフェソスの会衆の長老たちに次のように述べました。「アジア地区に足を踏み入れた最初の日からわたしがどのようにあなたがたと終始いっしょにいたか,あなたがたはよく知っています。……同時にわたしは,なんでも益になることをあなたがたに話し,また公にも家から家にもあなたがたを教えることを差し控えたりはしませんでした。むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです」― 使徒 20:18-21。

      パウロは『家から家へ』教えたのです。確かにパウロは,すでにクリスチャンとなっていた人々を訪問してその人たちを強め励ましたことでしょう。しかし,パウロのこの言葉を,そのような牧会,つまり牧羊の業だけに限定することは決してできません。なぜなら,パウロは,「神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について」ユダヤ人にもギリシャ人にも宣べ伝えていると語っているからです。このことから,それらのユダヤ人やギリシャ人がクリスチャンではなかったことがはっきり分かります。パウロはこれを命を救う業とみなしていました。その宣べ伝える業のゆえに自分は「すべての人の血について潔白」であるとさらに述べていることからも分かります。―使徒 20:25-27。

      預言的な型

      こうした事柄を確証しているのは,エゼキエル書 9章の預言です。それは,今日エホバの証人が行なっている家から家の活動を予表しており,2,500年ほど前に預言者エゼキエルに与えられた幻を伝えるものです。

      やはりエゼキエルの幻を記している一つ前の章では,エルサレムの神殿でユダヤ人が種々様々な偶像を崇拝し,背教行為を行なっている様が述べられています。そして9章では,殺戮用の武器を持った6人の者と,武具を付けず,亜麻布をまとって腰に書記官のインクつぼを帯びた者が登場します。その7番目の者には,エルサレムの中を通って,『その中で行なわれているすべての忌むべき事柄のために嘆息し,うめいている者たちの額に印を付ける』ようにという命令が与えられます。(4節)殺戮用の武器を持った6人は,インクつぼを帯びた者の後に従い,印の付いていない人々すなわち,エルサレムの中で行なわれている邪悪な事柄のためにうめきもせず嘆息もしない人々すべてを滅ぼすようにという命令を受けます。

      亜麻布をまとった人は,嘆息しうめいている人をどのようにして一人も見落とすことなく見付けるのでしょうか。1972年5月1日号の「ものみの塔」誌はこう述べています。「単に町の広場や市場に行くだけでなく,人々の家を戸別に訪ねることによってです。そうすれば,人々が心から述べることばを聞くことができ,額にしるしをつけるべきかどうかを決定できます。これは決して急いでする作業ではありません。むしろそれは,しんぼう強く,またきちょうめんに家々を戸別に訪ねて公正な調査をし,王の都の中で他の人たちが行なっているもろもろの憎むべき事を誠実な気持ちから嘆いている人々のみに,また偏ぱなくしるしをつける仕事でした。……友にも敵にも公に見られる額に顕著なしるしをつけたのです」。

      亜麻布をまとった者が,刑の執行を免れる資格のある人々に印を付けるという責任を完全に果たすには家から家へ訪問しなければなりませんでした。それと同様,今日でもエホバの証人には,真理と正義を愛する人々を一人残らず見いだし,その人々に神の王国へ逃れる機会を差し伸べるために家から家の活動にあずかることが求められます。

      今日,亜麻布をまとった者が救いに値する人々の額に付けた印に相当するものは何でしょうか。額に印を付けられるとは,キリストのような人格を培うことを指しているようです。そのような人格を身に着けていることが,来たるべき「大患難」でエホバの刑執行者の手を免れる唯一の道です。(マタイ 24:21)額の印がだれの目にもはっきり分かるように,キリストのような人格はだれの目にも見えるものです。聖書の中では,そうしたキリストのような人格を培うことが繰り返し勧められています。いうまでもなく,人をそのように変化させるには時間と体力と資力が求められます。それでも,エホバの証人は喜んでそうした犠牲を払います。そのようにして,人の命を助けるほどの隣人愛を示すのです。―エフェソス 4:20-24。コロサイ 3:9-11。

      広く見られる邪悪な状態に嘆息し,うめいている,真理と正義を愛する人々を見いだすため,家から家へ行くという最初の段階が重要であることはいうまでもありません。しかし,それは最初の段階に過ぎません。人の命を助けるほどの隣人愛を示すには,再訪問を行ない,聖書研究を司会することがエホバの僕に求められています。聖書のそうした研究生は祈りの仕方を学び,クリスチャン会衆と交わり,聖書の原則を生活に当てはめなければなりません。そして,今度はその人自身が,自分の学んでいる事柄をさらにほかの人々に知らせることに参加しなければなりません。このすべてを行なうなら,当然,神のご意志を行なうためにエホバ神に献身してバプテスマを受けるようになるはずです。さらに,このような歩みをたどることは,『印を付けられる』ために,すなわちキリストのような人格を身に着けるために肝要なことです。この活動を行ない続けることにより,エホバの証人は確かに,人の命を助けるほどの隣人愛を示していると言えます。

  • 挑戦となる家から家の業
    ものみの塔 1981 | 8月15日
    • 挑戦となる家から家の業

      ひとりのエホバの証人が家々の戸口を訪問しています。70代半ばのこの人の足取りはひどくぎこちなく見えます。それも不思議ではありません。このエホバの証人は両脚に義足をはめていたのです。ある家のドアをたたいたところ,ひとりの婦人が出て来ました。そして,その証人を指差し,怒りのこもった口調で,『あなたはエホバの証人ね』と言いました。

      訪問したエホバの証人は,しばらく間を置き,その婦人の目を見つめながらこう言いました。『奥さん,実を言うと私はエホバの証人であろうと努力しているところなのです。それは生易しいことではありません。一生懸命努力しているのですが,これは大変な務めです。至高者また宇宙の主権者であられるエホバについて語る証人であることが何を意味するかお分かりでしょうか。これは本当に大きな務めです。奥さん,私はエホバの証人であろうと真剣に努力しているところなのです』。

      その女の人は何と答えたでしょうか。ひと言も答えませんでした。実際,何と答えることができたでしょうか。

      次の事実を否定することはできません。つまり,エホバ神の王国の良いたよりを家から家に伝えることは真に挑戦となります。こうした形の福音宣明の業がエホバの証人独特のものである理由がそこにあるのは紛れもないことです。この種の活動に重点を置いたり,すべての成員にそれを期待したりしている宗教組織はほかにひとつもありません。また,実に興味深いことに,エホバの証人の教えを激しく批判する人も,証人たちの行なっている業に聖書的な前例がないと言って非難することはありません。エホバの証人の活動に聖書的な根拠がないとして非難するどころか,これらの批判者たちは印刷物の中で,この種の福音宣明の業には聖書的根拠があることを幾度となく認めています。自分の属する宗派が教会員に同様のことを求めていないのを嘆く人さえいます。

      とはいえ,たとえ神の言葉の中に,戸別に人々の家を訪ねる直接的もしくは明確な命令や先例がなかったとしても,エホバの証人にはそうする理由がないわけではありません。神と隣人に対する愛に動かされて,できるだけすべての人に証言を行ない,神の王国の良いたよりを人々に告げ,目前に迫っている「大患難」について警告を与えていきます。しかも,効果的であればどんな方法をも駆使してそれを行ないます。使徒たちの時代に,使徒パウロや他の人々は会堂に行き,そこに集まっていた人々に「良いたより」を宣べ伝えることができました。(マタイ 24:14,21。使徒 13:14-16; 14:1; 17:1,2,10,17; 18:4,19,26; 19:8)もちろん今日では,エホバの証人が会堂その他の宗教的な建造物の中で聴衆に向かって話をする機会はごくまれにしかありません。しかし,現代のエホバの証人がこうした活動に見倣えないからといって,使徒たちが行なった福音宣明の業の中で現在でも行なえる他の方法を見倣ってはならないということにはなりません。

      家から家の福音宣明の業がこれほど大きな反対に遭っている事実そのものも,この業が効果的であることを証ししています。政府が絶対主義的傾向を強める時に決まって行なう事柄のひとつに,家から家に宣べ伝えるエホバの証人の業に対する禁令があります。特に過去においては,民主的な政府の当局者をさえ動かしてこの種の福音宣明の業を妨害しようとする宗教指導者が多くいました。そのために,既存の法律をねじ曲げて適用したりエホバの証人の行なう家から家の業をやめさせることを目的にした法律を制定したりしたのです。戸別に宣べ伝える法的権利を確立すべく,エホバの証人は合衆国最高裁判所を含む上級裁判所で幾度となく法廷闘争を繰り広げてきました。裁判所は必ずといってよいほどエホバの証人に有利な裁定を下してきました。判決は,エホバの証人にこうした業を行なう法的権利があることだけでなく,それが効果的であることも明らかにしています。次の評決はその代表的な例です。

      「宗教上の小冊子を配ることは,古くからの福音伝道の方法であり,印刷機の歴史同様に古いものである。それは時代を通じて,様々な宗教活動における強い力となってきた。種々の教派は今日この種の福音伝道の方法を大規模に利用しており,それぞれの派の文書頒布者たちが幾千幾万もの家に福音を携えて行き,じかに訪問して,信者を得ることに努めている……この形態の宗教活動は,憲法修正第1条において,教会の礼拝や説教壇からの伝道同様高く評価されている」。

      挑戦

      事実は事実として認めましょう。家から家に宣べ伝える業に参加することは,老若男女を問わず,ごく普通の人にとって最も難しい事柄のひとつです。事実,何十年も全時間の宣べ伝える業に携わってきたエホバの証人が,長年その業に携わっているにもかかわらず,それは自分の自然の性向と相反するものであり,毎朝業を始めるのに大きな努力がいる,と語ることも時としてあります。戸口で人々がどんな態度を示すか分からないという要素が絶えず付いて回ります。聖書の音信を携えた人が自分の家の戸口に立つと感情を害する人が少なからずいます。人の感情を害して気持ちがよいという人はいないはずです。エホバの証人と聖書を研究している真理を愛する多くの人は最初,『家から家に行くことなど私にはとてもできません』という反応を示しました。これがどれほど難しく思えるかは,ニューヨーク市のある消防士の経験から分かります。自分の聖書研究の司会者に同行して初めて家から家に行った時,その人は思わず,「これは燃えているビルに入るより難しい」と叫びました。しかしほどなくして,この人も家から家に宣べ伝える業を楽しむようになりました。

      もちろん,一般の教会員には,家から家に出掛けて行くよう動機付けを与えてくれるものがほとんどありません。それらの教会員は家の人に何を話すというのでしょうか。きっと自分の教会の教えについてさえ十分な知識を持ってはいないでしょう。教会の信条に基づいた様々なばく然とした知識を持っているに過ぎないのです。それに加えて,一般に宗教そのものは概して利己的なものとみなされています。宗教の主要な関心は自己の魂の救済にあり,教会の礼拝は出席者が活発な福音宣明者になるよう訓練や動機付けを与えることを目的としていません。ですから,エホバの証人以外の人が家から家に宣べ伝える活動という挑戦にこたえ応じることが滅多にないのも不思議ではありません。

      家から家に宣べ伝える活動は挑戦であるとはいえ,どんなに身分の低いクリスチャンにとってもその能力の及ばない業ではありません。例えば,メキシコの農村に住むあるエホバの証人が農村の人々の着るごく簡素な服を着て,豪華な大邸宅を訪ねたことがあります。絹の浴衣<バスローブ>をまとった男の人が応対に出て来て,用件を尋ねました。訪問したエホバの証人は,「もしも金の入った袋を二つ積んだ1頭のラバがお宅にやって来たら,その金をお受け取りになりますか」と言いました。家の人はいら立ちを覚え,「何を言いたいのかよく分かりません。私は名の知られた技術者ですが」と言いました。そこで証人は,「預言についてどのようなことをご存じですか」と質問しました。家の人は,自分が預言について何も知らないことを認めました。そこで証人は次のように言いました。「そのことについてお話ししたかったのです。……あなたの家にやって来たラバとは私のことで,金の詰まった二つの袋とはこの『ものみの塔』誌と『目ざめよ!』誌のことなのです」。家の人はこの謙虚なエホバの証人の話に感銘を受け,2冊の雑誌を受け取りました。この経験は使徒 4章8節から13節に記録されている出来事を思い起こさせます。

      ねばり強さの求められる挑戦

      エホバの僕たちには,ねばり強さと忍耐をもって挑戦にこたえ応じていくことが幾度となく求められてきました。その顕著な例はエレミヤです。エレミヤは40年以上の永きにわたって,実に困難な状況の下でエホバ神の音信を宣明し続けました。エレミヤがある時やめてしまいたいと感じたのも不思議ではありません。しかし,エレミヤは黙っていることができませんでした。自分の神エホバについて証言し,当時の頑迷なユダヤ人に警告の言葉を語らずにはいられなかったのです。―エレミヤ 20:9。

      今日でも同様に,神から与えられた務めを行なう上で,エホバの僕たちにはねばり強さが,そして時には執ようさが求められます。また,そうあるべき様々な理由があります。エホバの僕たちは人々を訪問するごとに,口頭で,あるいは印刷された文書を通して,いわば真理の種を少しでもまき,霊的な水をわずかでも注ごうと努めます。これが積み重なって,やがて実の結ばれることが一再ならず示されてきました。「わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神がそれをずっと成長させてくださったのです」と語った使徒パウロは,正にこのことに言及していたのです。―コリント第一 3:6。

      エホバの証人がねばり強く,また執ように家から家の奉仕の務めを行なうべき理由はほかにもあります。以前の「ものみの塔」誌にはその事が極めて適切にこう示されていました。

      「命が関係しています。(テモテ第二 4:5)それは繰り返し訪問することを意味しています。一つの点として,人の置かれている状況は絶えず変化します。今日は家にいないかもしれませんが,次の時には家にいるかもしれません。ある時には忙しすぎて耳を傾ける余裕がないかもしれませんが,次の時にはそれほど忙しくないかもしれません。今回は家族のある人が応対に出ますが,次の時には別の人が応対に出ることもあります。……宗教については家族の中でも意見の分かれていることがよくあります。……それに加えて,人々は絶えず移動しています。……

      「状況が変化するだけでなく,人々そのものも変化します。……ささいな事で気分がすぐれず,だれが家にやって来ようと宗教その他の事柄について話し合う気は毛頭なくても,だからといってその人が次の時にも同じ考えでいるとは限りません。あるいは,先月宗教について話し合うことに全く関心がなかったからと言って,今月もそうであるとは限りません。前回のエホバの証人の訪問の後,心を悩める経験などによって,高慢になるのではなく謙虚になるべきことを知り,自己満足に陥るのではなく霊的な飢えを感じて自分の霊的必要を自覚するようになることもあります」。

      人々を繰り返し訪問し,ねばり強く羊のような人たちを探すべき理由は確かに数多くあります。―マタイ 25:31-33。

      個人に及ぶ益

      証人たちが家から家に行って宣べ伝えることにより成し遂げられている最も重要な事柄は,エホバのみ名が広く知らされることです。証人たちが創造者のこの固有のみ名を人々に知らせていることは,ニューヨーク市で発行されている人気の高いある雑誌に載ったある漫画からも分かります。その漫画にはベッドのわきで祈りをささげているある男が描かれており,ベッドの反対側の端にはゲルマン神話の神ウォータンが描かれていました。その漫画には,男の次のような祈りが書かれていました。「ウォータン,ご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません。“神様”と言えばいつもエホバが出て来られるものとばかり思っていたものですから」。

      さらに,前の記事からも分かるように,家から家に宣べ伝えることにより,エホバの証人は真理と義を愛する人々に命に至る道を歩むよう助けを差し伸べる結果になります。また,エホバの復しゅうの日をふれ告げることにより,真理と義ではなく快楽を愛する者たちすべてに対して十分警告を与えることができます。(テモテ第二 3:1-5)さらに,エホバの証人自身がその業の結果として味わう益も確かに数多くあります。聖書の箴言の次の言葉は正に至言です。「寛大な人は栄え,人をさわやかにする者は自らもさわやかにされる」― 箴 11:25,新国際訳。

      例えば,ドイツの強制収容所に9年間入れられていたことのあるエホバの証人の一長老は,家から家の福音宣明の方法以上に神の聖霊の実を培うのに役立つものはない,とかつて語りました。正にそのとおりです。この活動にねばり強くあずかるなら,利他的な愛を働かせ,喜びに満ち,平和な態度を持ち,忍耐と辛抱強さを示し,信仰を業に表わし,柔和,親切,善良,自制といった特質を表わすことを学べます。―ガラテア 5:22,23。

      王国の音信を携えて家から家に出掛けて行くことは,謙遜という優れた特質を培うのにも役立ちます。誇る人はすぐに感情を害し,勝手な行動をとり,他の人を喜ばせることに関心がありません。しかし,エホバの証人として良い働きをしたいなら,使徒パウロ同様幾人かでも勝ち得るために,『あらゆる人に対してあらゆるものとなる』必要があります。―コリント第一 9:19-23。

      家から家に宣べ伝えるという挑戦にいつもこたえ応じている人には,一層同情心に富み,感情移入ができるようになるという別の益もあります。一方では,偽りの羊飼いによって霊的な盲目状態に置かれている人々に思いやりを示すことを学び,他方では,貧困・失業・病気・家庭の不和・少年非行などの悩みを語る人々に同情を示すことを学びます。イエスの時代と同様,今日の人々は「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されて」います。それらの人々はエホバの王国を必要としています。1世紀にイエスが弟子たちに語られた,「収穫は大きいですが,働き人は少ないのです」という言葉は,この「終わりの日」に一層大きな意味を持っています。わたしたちは,収穫の業にもっと働き人を遣わしてくださるよう祈る一方,自分自身も王国の業に熱心にあずかり,家から家に宣べ伝えるという挑戦に首尾よくこたえ応じているでしょうか。―マタイ 9:36-38。

      身の守り

      家から家の活動は世から自分の身を守るのにも役立ちます。使徒ヨハネは世について次のような警告を与えています。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです」。世のこうした事柄はエホバのクリスチャン証人にとって誘惑となる場合がありますが,宣べ伝える業にいつも活発に携わっているなら,そうした誘惑にさらされる機会を最小限にとどめることになります。―ヨハネ第一 2:15,16。

      このことをよく示しているのはユダヤ人の古い伝説もしくは寓話です。その話は次のようなものです。ある義人が邪悪な都市ソドムにやって来て,人々に宣べ伝え続けますが,だれひとりとしてその話に耳を傾けようとはしません。ある日,ソドムの一住民がそのことに気付き,だれひとりとして注意を払おうとしないのにどうして宣べ伝え続けるのか尋ねました。その人の答えはどのようなものでしたか。『ソドムの人々がわたしを変えないためです』という答えが返ってきました。『攻撃は最大の防御』とはよく言ったものです。世の人々を変えようと真剣に努力している限り,世はその証人を変えることはできないでしょう。

      それだけではありません。ご自分のお名前と王国を証しするようにという神のご命令に従うことによって,その人は他の人に善を行なっており,イエスが山上の垂訓の中で説かれたように,実際には天に宝を積んでいることになります。(マタイ 6:19-21)時間とエネルギーと資力をこのように利他的な方法で用いて,エホバ神とイエス・キリストを自分の友としているのです。ノアとその家族が大洪水を生き残って新しい事物の体制に入ったように,彼らも,現在の邪悪な事物の体制が終わりを迎えるとき,生き残ってハルマゲドン後の新しい事物の体制に入る希望を抱けます。―ルカ 16:9。

      疑問の余地はありません。至高の神エホバを代表するのは大きな誉れであり,同時に真の挑戦ともなります。それには確かな聖書的前例があり,その務めを担うことは世俗の教育の程度を問わず献身したクリスチャンすべてにとって決してその能力の及ばないところではありません。家から家の証言の業という挑戦に首尾よくこたえ応じる人は,仲間の人間に多くの善を行なうことができ,エホバ神からその報いとして数々の祝福をいただけます。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする