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  • 「真理は汝らに自由を得さすべし」
    ものみの塔 1971 | 4月15日
    • ありません。「ラテンアメリカにおける祝祭の時節」と題する本は,そうしたものが人々をとりこにしていることについて説明し,次のように述べています。「インド人は聖像を愛し,それに祈り,聖像が奇跡を行なうことを信じて,供物をささげる……アンデス山脈周辺の国々では,キリスト教の聖人と異教の神々とが複雑に混交している」。

      そうした偶像に対する礼拝はカトリック教会によって助長されていますが,聖書は終始一貫,それを公然と非難しています。偶像崇拝は,十戒の2番目に当たる,「あなたは自分のために……なんの彫像……をも作ってこれに礼をしては……ならない」という戒めに直接違犯するものです。(出エジプト 20:4,5,新),クリスチャン使徒パウロも,同様に,「偶像崇拝からのがれなさい」とはっきり勧めています。―コリント前 10:14,新。

      こうしたことばを心臓に取り入れ,それを実践する人々がラテンアメリカには大ぜいいます。ベネズエラのマラカイから寄せられた経験によると,ひとりの男の人は司祭になるために4年間勉強していましたが,エホバの証人とわずか二,三回家庭聖書研究をした後,持っていた偶像や「聖」画をことごとく焼いたということです。1世紀のキリスト教の改宗者たちについて,「あなたがた(は)……自分たちの偶像を捨てて神に頼り,生けるまことの神に仕え(た)」と言われましたが,ちょうど同じことが,このマラカイの人々にも言えます。―テサロニケ前 1:9,新。

      悪霊の影響からの自由

      聖書は,悪魔と悪霊たちの起源を説明し,さらに,その欺まん的な意図を暴露する唯一の本です。また,「霊の剣,すなわち神のことば」を含む,「神からの完全な一領のよろいをすべ着け」て,そうした者たちに対抗する術を教えています。―エペソ 6:11,17,新。

      ですから当然考えられることとして,聖書の理解が欠如しているところでは悪霊崇拝が盛んです。ラテンアメリカにおける宗教の実状は,そのことを証明しています。たとえば,「ラテンアメリカにおける祝祭の時節」は,タヒチで心霊術が流行していることについてこう述べています。「人々の大半は,カトリック教徒であると唱えている。しかし,教会で行なわれる早朝のミサにあずかる人々の多くは,夜通し行なわれるブーズー教の儀式から直行して来るのである。ブーズー教の儀式そのものにも,カトリックの影響が見られる」。

      またブラジルからの報告によると,「ブラジルのカトリック教徒の67パーセントはマクンバ,あるいはブーズー教の催しに出席する」ということです。リオ・デ・ジャネイロの副司祭は,そのような状態の原因として,「ブラジルにおけるカトリック教育の浅薄さ」を批判しました。カトリック教育は浅薄なために,そうした状態の拡大を阻止しえないとしても,「堅固に守りかためたものをくつがえすために,神によって強力」な聖書の真理は,それを阻止する力を持ち,現にそうしています。―コリント後 10:4,新。

      ベネズエラに住むある婦人の経験は,実際にこのことを証明しています。彼女は,死者と交信し,友人の将来について多くのことを予告する力を持ち,さらに死んだ親族の「声」を自分を通して聞かせることさえできると唱えていました。ところが,その「声」が彼女に夫と離婚するよう命じた時,自分の力がどこから来るのかを不審に思うようになりました。そんな時に,エホバの証人の訪問を受け,自分の力の源について,また聖書はそれを非としていることを率直かつ明解に教えられたのです。(使行 16:16。レビ 19:31)数週間家庭聖書研究をした後,彼女は悪霊の影響から解放され,そうして得た自由のおかげで,家族全員が祝福を受けることになりました。

      アメリカのモンタナ州では,インデアンを先祖に持つある婦人が,神のみことばによって悪霊崇拝から自由になりました。自分の家が悪霊崇拝に深入りしていたため,その婦人は多くの奇病に悩んでおり,『声』は,彼女に自殺するようにとも言いました。証人と聖書を学んで助けを得,婦人は偽りの崇拝に関係した物を捨てました。首のまわりにつけていた「雷神」の像やその他の物を処分すると,婦人の健康はたちまち回復しました。悪霊崇拝から自由になった彼女は,エホバは,自分が以前崇拝していた神々よりも強いと語っています。

      これまで考慮してきたいくつかの経験から,聖書の真理が,人々から誤った宗教観や慣習を取り除くことには,疑問の余地がありません。しかし,聖書が人々の行ないに対して持つ影響力についてはどうでしょうか。聖書は人格にとってどんな影響を及ぼしますか。真理によってもたらされるとイエスの言われた自由は,どれほどの規模に及ぶものですか。次の記事で,こうした疑問の答えをお調べください。

  • 信じる人々のあいだで働く自由を得させる神のことば
    ものみの塔 1971 | 4月15日
    • 信じる人々のあいだで働く自由を得させる神のことば

      霊的な事柄を全く無視し,比較的物質に恵まれた社会で生活している,大ぜいの人々とは異なり,謙そんなラテンアメリカ人の多くは神のことばである聖書に敬意を払っています。そして,本の中の本といわれる聖書を家に置いておくだけでも,なんらかの益つまり祝福があると信じています。しかし,聖書の内容を知ろうとしないなら,またみことばが生活に益をもたらす力とならないなら,聖書を持っても価値がない,ということに気づく人は多くありません。読むのではなく,たなに置くためだけに新聞を買う人がいますか。では,自由を得させる真理について述べている,はるかに価値のある聖書を新聞と同様に扱うのは賢明なことと言えるでしょうか。

      聖書を神聖な書物として受け入れるだけでは,決して十分ではありません。聖書によって自由を得ようとするには,聖書がその人に働きかけねばなりません。つまり,聖書を信じている人は,それを適用しなければなりません。1世紀の信者にとって,神のことばを受け入れるとは,そういうことを意味しました。彼らについて使徒パウロはこう書いています。「あなたがたがわたしたちから聞いて,神のことばを受けた時,あなたがたはそれを,人間のことばとしてではなく,真にそのとおりであるが,神のことばとして受け入れたからである」― テサロニケ前 2:13,新。

      神のことばを受け入れるとは,彼らにとって,聖書を家に持ち込み,聖なる書物とみなす以上のことを意味しました。また,それは,聖書の教えに答え応じる思いと心臓に真理の音信を取り入れることをも意味したのです。こうして彼らは聖書から影響を受けたがゆえに解放を経験しました。その結果,思考と行動を変えることができたばかりでなく,人格をさえ変化させることができました。

      使徒パウロが賞賛のことばを持って記録した,初期クリスチャンたちと同様の仕方で,ラテンアメリカの多くの人々も神のことばを受け入れていると言えますか。記録によればはっきりとそう言えます。では,自由を得させる神のことばが,人々の生活にどのような働きを及ぼしているかを調べてみましょう。

      性的な不道徳からのがれる

      宗教団体の中には性的な不道徳を大目に見

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